雜蘊第一中世第一法納息第一
雑蘊第一 世第一法納息第一
世第一法七 頂二𤏙身見
十一見攝斷 此章願具說
世第一法は七つ 頂は二つ、煖は身見を断つ
十一の見に摂せられて断たれる この章について詳しく説くことを願う
云何世第一法?
では、世第一法とは何でしょうか。
答:若心心所法——為等無間入正性離生,是謂世第一法。
答え:心と心にはたらきがあるとき、等しく間断なく正しい真理に入り、煩悩を離れるための最も優れた最初の教え。これを「世第一法」という。
有作是說:若五根——為等無間入正性離生,是謂世第一法。
ある人はこう説く。「五根(五つの修行の力)が等しく間をおかずに正しいさとりに入り、迷いの世界を離れるための直接の原因となること。これを『世第一法』(この世で最も優れた法)と呼ぶ」と。
於此義中:若心心所法——為等無間入正性離生,是謂世第一法。
この意味において、もし心と心の作用(心所法)が等しく間断なく正しい性質(正性)に入り、迷いの生存(離生)を離れるならば、それを世において最も優れた法(世第一法)という。
何故名世第一法?
では、なぜ「世第一法」と呼ばれるのでしょうか。
答:如是心心所法於餘世間法——為最、為勝,為長、為尊,為上、為妙,故名世第一法。
答え:この心と心所の法は、他の世間の法と比べて、最も優れ、最も勝れ、最も長け、最も尊く、最も上であり、最も微妙である。ゆえに「世第一法」と名づける。
復次!如是心心所法為等無間——捨異生性,得聖性。捨邪性,得正性,能入正性離生。故名世第一法。
また、この心と心のはたらき(心心所法)は等しい間断のないものとして、凡夫の性質を捨てて聖者の性質を得る。邪な性質を捨てて正しい性質を得る。正しい性質に入り、迷いの世界から離れることができる。そのゆえに「世第一法」と名づける。
世第一法當言欲界繫?色界繫?無色界繫耶?
世第一法は、欲界に属するのでしょうか?色界に属するのでしょうか?それとも無色界に属するのでしょうか?
答:應言色界繫。
回答:色界に属するものと言うべきです。
何故此法不應言欲界繫耶?
なぜこの法が欲界に属すると言ってはいけないのでしょうか?
答:非以欲界道能斷蓋制纏,令欲界纏不復現起;乃以色界道能斷蓋制纏,令欲界纏不復現起。
答え:欲望の領域(欲界)の修行によって、煩悩の覆いや束縛を断ち切り、欲界の束縛が再び現れないようにすることはできません。それらを断ち切り、再び現れないようにするのは、色界の修行によってのみ可能なのです。
若以欲界道能斷蓋制纏,令欲界纏不復現起。如是世第一法,應言欲界繫。
もし欲界の修行によって、心の覆いや束縛を断ち切り、欲界の束縛が再び現れないようにできるのなら、その場合、世第一法は欲界に属するものと言うべきです。
然非以欲界道能斷蓋制纏,令欲界纏不復現起;乃以色界道能斷蓋制纏,令欲界纏不復現起。是故世第一法,不應言欲界繫。
しかし、欲界の道では、蓋や纏いを断ち制して、欲界の纏いが再び現れ起きないようにすることはできません。色界の道によってこそ、蓋や纏いを断ち制し、欲界の纏いが再び現れ起きないようにできるのです。ですから、世第一法は、欲界に属するものと言ってはいけません。
何故此法不應言無色界繫耶?
なぜこの法について「無色界に属する」と言ってはいけないのでしょうか?
答:入正性離生——先現觀欲界苦為苦,後合現觀色、無色界苦,為苦聖道起。先辯欲界事,後合辯色、無色界事。
正性離生に入るとは——まず欲界の苦を「苦」と現観し、その後、色界・無色界の苦も合わせて「苦」と現観し、苦聖道が生じる。まず欲界の事を明らかにし、その後、色界・無色界の事を合わせて明らかにする。
若入正性離生——先現觀無色界苦為苦,後合現觀欲、色界苦,為苦聖道起。先辯無色界事,後合辯欲、色界事。如是世第一法,應言無色界繫。
正しい悟りの道に入るなら、まず無色界の苦しみを「苦」と観じ、次に欲界と色界の苦しみを合わせて「苦」と観じます。これが苦の聖なる真理が現れる道です。 まず無色界のあり方を明らかにし、その後に欲界と色界のあり方を合わせて明らかにします。このように、世第一法は無色界に属すると言うべきです。
然入正性離生——先現觀欲界苦為苦,後合現觀色、無色界苦,為苦聖道起。先辯欲界事,後合辯色、無色界事。是故世第一法,不應言無色界繫。
しかし、真実の性質に入り生死を離れるためには、まず欲界の苦を苦として観察し、その後で色界と無色界の苦を合わせて観察し、苦の聖なる道が生じます。まず欲界の事物を明らかにし、その後で色界と無色界の事物を合わせて明らかにします。ゆえに、世第一法は無色界に属するとは言うべきではありません。
復次!入無色定除去色想,非除色想能知欲界。若緣此法起苦法智忍,即緣此法起世第一法。
また、無色定に入るとき、色の想いを除き去りますが、色の想いを除いたからといって欲界を理解できるわけではありません。この法に縁って苦法智忍が生じるなら、まさにこの法に縁って世第一法も生じるのです。
世第一法當言有尋有伺?無尋唯伺?無尋無伺耶?
世第一法は、有尋有伺と言うべきか、無尋唯伺と言うべきか、あるいは無尋無伺と言うべきでしょうか。
答:應言或有尋有伺,或無尋唯伺,或無尋無伺。
答え:あるいは尋と伺があると言うべきであり、あるいは尋がなく伺だけがあると言うべきであり、あるいは尋も伺もないと言うべきである。
云何有尋有伺?
問うに、いかにして有尋有伺(あるいは、粗い思考と細かい思考のある状態)と説くのか。
答:若依有尋有伺三摩地入正性離生,彼所得世第一法。
もし、尋と伺を伴う三昧によって正性離生に入るならば、その者が得るものが世第一法である。
云何無尋唯伺?
いわゆる「尋(粗い思惟)がなく、唯だ伺(細かい思惟)のみがある」とは、どのような状態を指すのでしょうか。
答:若依無尋唯伺三摩地入正性離生,彼所得世第一法。
答え:もし無尋唯伺の三摩地に依って正性離生に入るならば、その者が得る世第一法は、
云何無尋無伺?
どのようにして「尋(粗い思考)」や「伺(細かい思考)」がなくなるのでしょうか。
答:若依無尋無伺三摩地入正性離生,彼所得世第一法。
答え:もし、尋(思考)も伺(審察)もない三昧によって正性離生に入れば、その者が得る世第一法は、そのような三昧に対応するものである。
世第一法當言樂根相應?喜根相應?捨根相應耶?
世第一法は、楽根と対応するのでしょうか、喜根と対応するのでしょうか、それとも捨根と対応するのでしょうか。
答:應言或樂根相應,或喜根相應,或捨根相應。
答え:快楽の根に対応するか、喜びの根に対応するか、あるいは捨の根に対応すると言うべきです。
云何樂根相應?
楽根(楽の感覚)は、どのような心の状態と関係しているのでしょうか?
答:若依第三靜慮入正性離生,彼所得世第一法。
問:もし第三静慮に依って正性離生に入るなら、その者が得る世第一法はどうか。
云何喜根相應?
喜根(歓喜の感情)は、どのような心の働きと結びつくのでしょうか?
答:若依初二靜慮入正性離生,彼所得世第一法。
答え:もし最初の第二静慮に基づいて正しい性質に入り、煩悩を離れるならば、その時に得られる世間における最高の教えがある。
云何捨根相應?
どのようにして「捨根」(苦でも楽でもない平等な感覚)と対応するのですか?
答:若依未至、第四靜慮入正性離生,彼所得世第一法。
答え:もし未至定や第四静慮に基づいて正性離生に入るならば、その時に得られるものが世第一法である。
世第一法當言一心?多心耶?
世第一法は、一心と言うべきか、多心と言うべきか。
答:應言一心。
答え:一心と説くべきである。
何故此法非多心耶?
なぜこの法が「多心」ではないのでしょうか?
答:從此心心所法,無間不起餘世間心,唯起出世心。
答:この心と心の働き(心心所法)が途切れることなく続いた後、次の瞬間には世俗の心は一切生じず、ただ世を超えた心(出世心)のみが生じるのです。
若當起餘世間心者,為劣、為等、為勝。
もし、他の世間の心が生じるならば、それは劣る、等しい、あるいは優れている。
- 若當劣者,應不能入正性離生。何以故?非以退道能入正性離生故。
- 若當等者,亦不能入正性離生。何以故?先以此類道不能入正性離生故。
- 若當勝者,先應非世第一法,後方是世第一法。
世第一法當言退?不退耶?
世第一法は、退するものと言うべきか、退しないものと言うべきか。
答:應言不退。
答え:退かないと言うべきです。
何故此法定不退耶?
なぜこの法が退かないのかというと、不退転の教えだからです。
答:世第一法隨順諦、趣向諦、臨入諦。此彼中間,無容得起不相似心,令不得入聖諦現觀。
答えましょう。世第一法は、真理に従い、真理へと向かい、真理に臨んで入っていくものです。この状態から真理へ入るまでの間には、似つかわしくない心が生じて、聖なる真理の現観(直接的な悟り)に入るのを妨げることは決してありません。
譬如:壯士度河、度谷、度山、度崖,中間無能迴轉。彼身還至本處,或往餘處。先所發起增上身行,未至所趣,必不止息。
例えば、屈強な者が川を渡り、谷を越え、山を越え、崖を越える時、その途中で引き返すことはできません。その身体が元の場所へ戻ったり、他の場所へ向かったりすることはありません。まず起こした向上のための行いが、その目標に達するまでは、必ず止むことがないのです。
世第一法,亦復如是。隨順諦、趣向諦、臨入諦。此彼中間,無容得起不相似心,令不得入聖諦現觀。
世第一法もまた、同じである。それは真実に従い、真実に向かい、真実に入ろうとする。この間には、異なる心が生じる余地はなく、聖なる真理の直接的な観察に入るのを妨げることはできない。
如:贍部洲有五大河:一名殑伽。二名閻母那。三名薩洛踰。四名阿氏羅筏底。五名莫醯。如是五河——隨順大海、趣向大海、臨入大海,中間無能迴轉,彼流還至本處,或往餘處,彼決定能流入大海。
例えば、閻浮提には五本の大きな川があります。第一はガンジス川、第二はヤムナー川、第三はサラユー川、第四はアチラヴァティー川、第五はマヒー川です。これらの五つの川は、いずれも海に向かって流れ、海へと向かい、海に入ろうとしています。その途中で、流れを引き返させて元の場所に戻したり、他の場所へ向かわせることは決してできません。これらの川は、必ず海へと流れ入るのです。
世第一法,亦復如是。隨順諦、趣向諦、臨入諦,彼此中間,無容得起不相似心,令不得入聖諦現觀。
世第一法もまた、そのとおりです。それは真理に従い、真理へと向かい、真理へと入っていく境地であり、その境位と真理との間には、それとは似ても似つかない心が生じる余地はまったくなく、その心によって聖なる真理の現観に入ることを妨げられることもありません。
復次!世第一法與苦法智忍作等無間緣,無有一法速疾迴轉過於心者,可於爾時能作障礙,令不得入聖諦現觀!是故此法,決定不退。
さらに、世第一法は苦法智忍に対して等無間縁としてはたらきます。この世の中に、心よりも素早く転じるものはありません。そのため、その瞬間に妨げとなって、聖なる真理の観察に入ることを阻むものは何もないのです。ゆえに、この世第一法は決して退くことがありません。
云何頂?
頂とは何でしょうか?
答:於佛、法、僧,生小量信。
心の中に、仏・法・僧(仏法僧)に対するほんのわずかな信の気持ちを起こすこと。
如世尊為波羅衍拏摩納婆說:
世尊がバラーヤナの若者に説かれたように。
『若於佛法僧 生起微小信
儒童應知彼 名已得頂法』
もし仏・法・僧に、 ほんのわずかな信(信心)を起こせば、 その人は、すでに最高の境地(頂法)に達したと知るべきです。
云何頂墮?
頂(ちょう)に堕(お)ちるとは、どのような状態をいうのでしょうか?
答:如有一類:親近善士、聽聞正法、如理作意;信——佛菩提、法是善說、僧修妙行;色無常,受、想、行、識無常;善施設苦諦,善施設集、滅、道諦。彼於異時,不親近善士、不聽聞正法、不如理作意;於已得世俗信:退沒、破壞、移轉、亡失;故名頂墮。
ある人の例を挙げると、善き師に親しみ、正しい教えを聞き、理にかなった心の働きをし、仏の悟りを信じ、法はよく説かれていると信じ、僧は素晴らしい行いを修めると信じ、さらに色は無常であり、受・想・行・識も無常であると理解し、苦諦、集諦、滅諦、道諦を巧みに説き示す。ところが後に、善き師に親しまず、正しい教えを聞かず、理にかなった心の働きをしなくなり、すでに得ていた世俗の信(信心)が退き、壊れ、移り変わり、失われてしまう。このことを「頂堕(頂点からの堕落)」と呼ぶのである。
如佛即為波羅衍拏摩納婆說:
仏はすぐにパーラーヤナの若き修行者にこう説かれた。
『若人於如是 三法而退失
我說彼等類 應知名頂墮』
ある人が、この三つの法(ことわり)を失うならば、私はそうした者を「頂きから堕ちた者」と知るべきだと説く。
云何煖?
暖(あたたかさ)とは、修行の段階で、煩悩を焼き尽くす智慧の火が燃え始めた状態のことです。
答:若於正法、毘奈耶中,有少信受。
もし、正しい教えと戒律に対して、少しでも信じ受け入れる心があるならば。
如世尊為馬師、井宿二苾芻說:『此二愚人,離我正法及毘奈耶,譬如大地去虛空遠。此二愚人,於我正法、毘奈耶中,無少分煖。』
世尊が馬師と井宿の二人の比丘にこう仰せになりました。「この二人の愚か者は、わたしの正しい教えと戒律から離れている。それは、大地と虚空の隔たりのように遠い。この二人の愚か者には、わたしの教えと戒律の中に、ほんのわずかの温かみもない。」
此二十句薩迦耶見,幾我見?幾我所見耶?
この二十の有身見のうち、いくつが「我見」で、いくつが「我所見」でしょうか?
答:五我見。謂:等隨觀——色是我,受、想、行、識是我。
答え:五つの我見(自我についての見解)とは、以下のような見方のことです。すなわち、「身体は自己である」「感受作用は自己である」「想念は自己である」「意思作用は自己である」「認識作用は自己である」と、常に執着して見なすことです。
十五我所見。謂:等隨觀——我有色,色是我所,我在色中,我有受、想、行、識,受、想、行、識是我所,我在受、想、行、識中。
十五の「我に関する見解」とは、次のように執着して観察することです。 - 「私には身体がある」「身体は私のものである」「私は身体の中にいる」 - 「私には感受作用がある」「感受作用は私のものである」「私は感受作用の中にいる」 - 「私には表象作用がある」「表象作用は私のものである」「私は表象作用の中にいる」 - 「私には意志作用がある」「意志作用は私のものである」「私は意志作用の中にいる」 - 「私には認識作用がある」「認識作用は私のものである」「私は認識作用の中にいる」
若非常常見;於五見——何見攝?何見所斷?
もし「常であるという見解」が正しい見方ではないなら、それは五つの誤った見解のうち、どの見解に含まれ、どの見解によって断ち切られるべきでしょうか?
答:邊執見、常見攝,見苦所斷。
答え:辺執見は常見に含まれ、苦諦の修行によって断ち切られるものです。
若常非常見;於五見——何見攝?何見所斷?
もし「常である」と「常ではない」という考え方を、五つの見解(五見)の中で見ると、それはどの見解に含まれ、どの見解によって断たれるのでしょうか。
答:邪見攝。見滅所斷。
答え:邪見に含まれます。見滅によって断たれるべきものです。
若苦樂見;於五見——何見攝?何見所斷?
もしも苦と楽についての見解があるなら、それは五つの見解(五見)のうち、どの見解に含まれるのか?また、どの見解によって断たれるのか?
答:取劣法為勝,見取攝。見苦所斷。
若樂苦見;於五見——何見攝?何見所斷?
楽(楽しみ)という見解を苦とする見解について、五つの見解のうち、どの見解に含まれ、どの見解によって断たれるのか。
答:邪見攝。見滅所斷。
答え:邪見に含まれます。見滅によって断たれるべきものです。
若不淨淨見;於五見——何見攝?何見所斷?
不浄を浄と見るのは、五見のうちのどれに含まれるか。また、どの見によって断たれるのか。
答:取劣法為勝,見取攝。見苦所斷。
若淨不淨見;於五見——何見攝?何見所斷?
清らか・不浄という見解は、五見のうちのどれに含まれるのか。また、どの見解によって断たれるのか。
答:邪見攝。此有二種:
答え:邪見に含まれます。これには二つの種類があります。
- 若謂:滅為不淨——見滅所斷。
- 若謂:道為不淨——見道所斷。
若非我我見;於五見——何見攝?何見所斷?
五見のうち、我見を除いた場合、それはどの見に含まれ、どの見によって断たれるのか。
答:有身見攝。見苦所斷。
身体の見解に含まれます。苦の真理を観察することによって断ち切られるものです。
若非因因見;於五見——何見攝?何見所斷?
五見のうち、因因見によらないものは、どの見に含まれ、どの見によって断たれるのか。
答:非因謂因,戒禁取攝。見苦所斷。
答え:原因ではないものを原因と思い込むのは、「戒禁取」に含まれます。これは「苦」を見ることによって断たれるものです。
若因非因見;於五見——何見攝?何見所斷?
もし因ではないものを因と見なす見解があるなら、それは五見のうちのどれに含まれるのか?また、どの見解によって断たれるのか?
答:邪見攝。見集所斷。
答え:邪見に含まれます。見集(見惑)によって断たれるものです。
若有無見;於五見——何見攝?何見所斷?
もし「無見」があるなら、それは五見のうちのどの見に含まれるのか?どの見によって断たれるのか?
答:邪見攝。此有四種:
答え:邪見に含まれます。これには四つの種類があります。
- 若謂:無苦——見苦所斷。
- 若謂:無集——見集所斷。
- 若謂:無滅——見滅所斷。
- 若謂:無道——見道所斷。
若無有見;於五見——何見攝?何見所斷?
もし「見」がないなら、五つの見解のうち、どの見解に含まれるのか?どの見解によって断たれるのか?
答:此非見,是邪智。
答え:これは正しい見解ではなく、誤った知恵です。