ご支援淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 阿毘達磨発智論 (阿毘達磨發智論)
  2. 第一 (第一)
  3. 1 雜蘊
  4. 2 智納息 (2 智納息)
←と→
矢印キーでページをめくれます

阿毘達磨発智論 (阿毘達磨發智論)


雜蘊第一中智納息第二

雜蘊第一 中智納息第二

一智識因緣 二心念祭祀
三根用過去 疑名句文身
佛訶責六因 隨眠心及斷
因境斷識義 此章願具說

一つの智慧と認識の因縁 二つには心の思いと祭祀 三つには根を用いて過去を観る 疑いの名・句・文の集まり 仏は六つの因を叱り戒める 随眠の心とその断ち切り 因と境と断ち切りと識の義理 この章で願わくは全て説かれんことを

頗有一智知一切法耶?

いったい、一つの智慧で、すべての法を知り尽くすということがあるのでしょうか。

答:無。

答え:ありません。

若此智生「一切法非我」,此智何所不知?

もしこの智慧が「すべての法は我ならず」と生じたならば、この智慧は何を知らないことがあろうか?

答:不知自性,及此相應俱有諸法。

答え:自性(ありのままの本質)と、それに相応して共に存在する諸々の法(ものごと)を、知らないことです。

頗有一識了一切法耶?

いったい、すべての法(あらゆる存在や現象)を完全に理解している者はいるのでしょうか?

答:無。

答え:ありません。

若此識生「一切法非我」,此識何所不了?

この識が「すべての法は我ならず」と生じるならば、この識は何を了知しないというのか。

答:不了自性,及此相應俱有諸法。

答:自分自身の本性(自性)、そしてそれに対応するすべての存在(諸法)を完全に理解していないこと。

頗有二心展轉相因耶?

そもそも、二つの心が互いに影響し合って、次々と生じるということがあるのでしょうか。

答:無。所以者何?無一補特伽羅非前非後二心俱生。

答えは「無し」です。なぜなら、一人の補特伽羅(個体)において、前後の二つの心が同時に生じることは決してないからです。

又!非後心為前心因。

また、後の心は前の心の因ではありません。

頗有二心展轉相緣耶?

いったい、二つの心が互いに縁(よりどころ)として働き合うことがあるのでしょうか。

答:有。

はい、あります。

如:有心起「無未來」心,——即思惟此,起第二心。

例えば、心に「未来はない」という思いが生じたとする。——すなわち、これを思惟すると、第二の心が生じる。

如:有心起「有未來」心,——即思惟此,起第二心。

例えば、「未来がある」という心が起きる——つまり、これを思惟して、第二の心が起きる。

如:有心起「無未來道」心,即思惟此,起第二心。

例えば、心に「未来の道はない」という思いが生じたとする。その思いをよく考え、それに続いて第二の心が生じる。

如:有心起「有未來道」心,即思惟此,起第二心。

心が「未来の道がある」という心を起こすと、そのことを思惟して、第二の心が生じる。

如:有二知他心者,彼二心展轉相緣。

例えば、他人の心を知る二人の者がいる場合、その二人の心は互いに緣(よ)り合って、お互いを対象として捉え合うことになる。

何故無一補特伽羅非前非後二心俱生?

なぜなら、一つの有情(補特伽羅)において、前後の二つの心が同時に生じることはないからである。

答:無第二等無間緣故,有情一一心相續轉故。

答え:第二の無間縁(まさに前の心が次の心を生み出す縁)が存在しないからです。有情(生きとし生けるもの)の心は、一つ一つが連続して流れていくからです。

補特伽羅既不可得,又無前心往後心,理何緣能憶本所作事?
答:有情於法,由串習力,得如是同分智,隨所更事,能如是知。

有情は法に対して、繰り返しの修行により、同じような智慧を得て、経験したことに応じて、そのように知ることができるようになるのです。

如:有二造印者,能了自他所造印字,雖彼二人不往相。

例えば、二人の印章を作る者がいたとします。彼らは自分や他人が作った印章の文字をよく理解しています。しかし、その二人は互いのところへ行くことはありません。

問:汝云何造此字,亦不相?

問い:あなたはどうしてこの文字を作ったのですか。また、それも相互に関係しないのですか。

答:我如是造此字。而彼二人,由串習力,得如是同分智,能了自他所造印字。

このように、私がこれらの文字を造ったところ、あの二人は、繰り返し学習する力によって、同じ理解を得ることができ、自分が造った文字も、他者が造った文字も、それぞれ正しく認識できるようになった。

有情亦爾!由串習力,得如是同分智,隨所更事,能如是知。

有情もまた同じである。繰り返しの修行によって、そのような共通の智を得て、経験したことに応じて、このように知ることができるのである。

又如:有二知他心者,互相知心,雖彼二人不往相。

また、例えば、他者の心を知る二人の者がいたとして、互いに相手の心を知るとしても、その二人は互いに行き来することはない。

問:汝云何知我心,亦不相?

問う:あなたはどうして私の心を知り、また互いに相対しないと分かるのですか?

答:我如是知汝心。而彼二人,由串習力,得如是同分智,互相知心。

このように私はあなたの心を知っている。あの二人は、修行を積み重ねてきた力によって、同じような智慧を得て、互いに心を通じ合わせることができるのだ。

有情亦爾!由串習力,得如是同分智,隨所更事,能如是知。

有情もまた同じである。繰り返しの修行によって、そのような共通の智を得て、経験したことに応じて、このように知ることができるのである。

復次!一切心心所法,於所緣定,安住所緣。又以受意為因力,強念便不忘。

また、すべての心と心の働きは、そのよりどころに向かって定まり、そこに安らかにとどまります。そして、感受と意を因として力が生じ、強い正念が起こることで、忘れることなく保たれます。

何緣有情忘而復憶?

なぜ、生きとし生けるものは物事を忘れたり、また思い出したりするのでしょうか。

答:有情同分相續轉時,於法能起相屬智見。又以受意為因力,強念便不忘。

衆生が同じ境遇のもとで心と身体を続けていくとき、その法(ものごと)について、互いに関わり合う智慧と見解が生じます。また、感受作用と心の働きを因とする力によって、強い念(おぼえ)が起こり、それによって忘れることがありません。

何緣有情憶而復忘?

なぜ、生きとし生けるものは、覚えていてもまた忘れてしまうのでしょうか。

答:有情異分相續轉時,於法不起相屬智見。又以受意為因力,劣念便忘失。
何緣祭祀餓鬼,則到;非餘趣耶?

なぜ餓鬼(亡者)への供養は、そのまま届くのでしょうか?他の世界には届かないのに。

答:彼趣法爾,得如是處、事、生、我分,是故祭祀則到,非餘。

その趣きは法のままに、このような処・事・生・我の分を得る。ゆえに祭祀によって至るのであって、他の方法によるのではない。

如:鵝雁、孔雀、鸚鵡、舍利、命命鳥等,雖如意自在,飛翔虛空,而神力威德,不大於人。然彼趣法爾,得如是處、事、生、我分,能飛翔虛空。

例えば、鵝や雁、孔雀、鸚鵡、舎利(しゃり)、命命鳥(めいめいちょう)などは、思いのままに自在に空を飛び回ることができますが、その神通力や威徳は人間より勝っているわけではありません。しかし、それらの生き物は、その生まれつきの性質によって、そのような場所・境遇・生き方・身分を得て、空を飛ぶことができるのです。

鬼趣亦爾!由法爾力,祭祀則到;餘趣不爾!

鬼道もまた同じである。法(ダルマ)の自然の力によって、祭りを行えばそこに到達する。他の趣(生存の世界)ではそうではない。

又!如一類那洛迦,能憶宿住,亦知他心。一類傍生、一類餓鬼,能憶宿住,亦知他心,及起烟焰,興雲致雨,作寒熱等。雖能作是事,而神力威德不大於人。然彼趣法爾,得如是處、事、生、我分,能作是事。

また、ある種の地獄の衆生は、過去の記憶を思い出し、他人の心を知ることができます。ある種の畜生や餓鬼も、過去の記憶を思い出し、他人の心を知ることができ、さらに煙や炎を起こし、雲を呼んで雨を降らせ、寒さや暑さを引き起こすこともできます。これらのことを行うことはできますが、その神通力や威徳は人間より大きくはありません。しかし、それらの生存圏の性質として、そのような境遇、行為、生まれ、自己の役割を得て、これらのことを行うことができるのです。

鬼趣亦爾!由法爾力,祭祀則到;餘趣不爾!

餓鬼の世界もまた同じである。法の自然の力によって、祭祀を行えば、そこに到ることができる。他の世界では、そうではない。

復次!有人長夜起如是欲,如是愛樂:「我當娶婦,為兒娶婦,為孫娶婦,令生子孫,紹繼不絕。我命終已,若生鬼趣,彼念我故,當祭祀我。」由彼長夜有此欲樂,是故祭祀則到;非餘!

また、ある人は長い間、このような願いや愛着を抱いています。「私は妻を娶り、息子に妻を娶らせ、孫に妻を娶らせて、子孫を絶やさずに続けていこう。私が命を終えた後、もし鬼の世界に生まれたなら、彼らが私を思って、私のために供養してくれるだろう。」このように長い間、そのような願いや愛着があるからこそ、供養はその人に届くのです。他の人には届きません。

當言一眼見色?二眼見色耶?

目は一つで色を見るのでしょうか、それとも二つで色を見るのでしょうか?

答:應言「二眼見色」。所以者何?若合一眼起不淨識,開二眼時起淨識故。

答え:二つの眼で色を見ると言うべきです。なぜなら、片方の眼だけでは不浄な認識が生じるが、両眼を開けると清らかな認識が生じるからです。

設合一眼起如是識,開二眼時亦起此識,則不應言「二眼見色」。

もし一つの眼によって認識が生じ、二つの眼を開いたときにも同じ認識が生じるならば、「二つの眼で色を見る」とは言えないはずです。

然合一眼起不淨識,開二眼時便起淨識,是故應言「二眼見色」。

しかし、一つの眼を閉じて見るときには、不清浄な認識が生じ、二つの眼を開いて見るときには、清らかな認識が生じます。それゆえ、「二つの眼で色を見る」と言うべきなのです。

如合;覆、損、破、壞,亦爾!如眼見色;耳聞聲、鼻嗅香,亦爾!

これは、たとえば覆うこと、損なうこと、破ること、壊すことも、同じことです。目が色を見ること、耳が音を聞くこと、鼻が香りを嗅ぐことも、また同じです。

諸過去,彼一切不現耶?

過去のものは、すべて今は見えないのでしょうか?

答:應作四句:

ここに四つの句を示すべきである。

  • 有過去,非不現。謂:如具壽鄔陀夷言:『一切結過去從林離林來樂出離諸欲如金出山頂』
  • 有不現,非過去。謂:如有一或以神通,或以呪術,或以藥物,或以如是生處得智,有所隱沒,令不顯現。
  • 有過去,亦不現。謂:所有行——已起、等起,已生、等生,已轉、現轉,已集、已現,已過去,已盡滅,已離變;是——過去、過去分、過去世攝。
  • 有非過去,亦非不現。謂:除前相。
諸過去,彼一切盡耶?

過ぎ去ったすべてのものは、すべて尽きてしまったのでしょうか?

答:應作四句:

ここに四つの句を示すべきである。

  • 有過去,非盡。謂:如具壽鄔陀夷言:『一切結過去。……乃至廣說。』
  • 有盡,非過去。謂:如佛言:『此聖弟子已盡地獄,已盡傍生,已盡餓鬼,已盡所有嶮惡趣坑。』
  • 有過去,亦盡。謂:所有行——已起、等起。……乃至廣說。
  • 有非過去,亦非盡。謂:除前相。
復次!若依結斷說者:

次に、執着を断ち切るという観点から説くならば、こうである。

  • 有結過去,非盡。謂:結過去——未斷、未遍知、未滅、未變吐。
  • 有結盡,非過去。謂:結未來——已斷、已遍知、已滅、已變吐。
  • 有結過去,亦盡。謂:結過去——已斷、已遍知、已滅、已變吐。
  • 有結非過去,亦非盡。謂:結未來——未斷、未遍知、未滅、未變吐,及結現在。
諸過去,彼一切滅耶?

過去のものは、すべて滅び去ったのでしょうか?

答:應作四句。

答え:四つの句として作るべきである。

  • 有過去,非滅。謂:如具壽鄔陀夷言:『一切結過去。……乃至廣說。』
  • 有滅,非過去。謂:依世俗,小街、小舍、小器、小眼,言是「滅街」乃至「滅眼」。
  • 有過去,亦滅。謂:所有行——已起、等起。……乃至廣說。
  • 有非過去,亦非滅。謂:除前相。
復次!若依結斷說者:

次に、執着を断ち切るという観点から説くならば、こうである。

  • 有結過去,非滅。謂:結過去——未斷、未遍知、未滅、未變吐。
  • 有結滅,非過去。謂:結未來——已斷、已遍知、已滅、已變吐。
  • 有結過去,亦滅。謂:結過去——已斷、已遍知、已滅、已變吐。
  • 有結非過去,亦非滅。謂:結未來——未斷、未遍知、未滅、未變吐。及結現在。
若於苦生疑——「此是苦耶?此非苦耶?」當言一心?多心耶?

苦しみについて疑問が生じたとき——「これは苦しみなのか、これは苦しみではないのか?」と——心は一つと言うべきか、それとも多くの心と言うべきか。

答:應言:多心。謂:「此是苦耶?」是一心;「此非苦耶?」是第二心。

答え:こう言うべきである——「多心」であると。「これは苦であるか?」というのが最初の心であり、「これは苦ではないか?」というのが第二の心である。

於集、滅、道生疑,亦爾!

集・滅・道について疑問を抱くのも、また同じである。

頗有一心——有疑、無疑耶?

心を一つにしても、疑いを抱くこともあれば、疑いのないこともあるのですか?

答:無。所以者何?謂:於苦諦——

答え:ありません。なぜなら、苦という真理について——

若言:「此是苦耶?」此心有疑;若言:「此是苦」,此心無疑。

「これは苦ではないか?」と言われれば、この心には疑いが生じる。しかし、「これは苦である」と言われれば、この心には疑いがない。

若言:「此非苦耶?」此心有疑;若言:「此非苦」,此心無疑。

「これは苦ではないのか?」と言えば、この心には疑いが生じる。しかし、「これは苦ではない」と言えば、この心には疑いがない。

於集、滅、道,應知亦爾!

集・滅・道についても、同じように知るべきである。

云何「多名身」?

「多名身」とは何か。

答:謂「多名號」。異語、增語,想、等想,假施設,是謂多名身。

答え:これを「多くの名号」という。異なる語、増える語、想い、等しい想い、仮に設けたもの、これを「多くの名身(名の集まり)」という。

云何「多句身」?

「多句身」とは何でしょうか。

答:諸句能滿——未滿足義,於中連合,是謂多句身。

ここでいう「多句身」とは、多くの句が集まり、互いにつながり合って一つの意味を完全に満たすことを指します。つまり、個々の句が単独では足りない意味を、組み合わせることで全体として満たす、その連合のことを言うのです。

如世尊說:

このように世尊はおっしゃいました。

『諸惡莫作 諸善奉行 自淨其心
是諸佛教』

悪いことをせず、善い行いを実践し、自分の心を清らかに保つこと。 これがすべての仏の教えである。

如是四句,各能滿足,未滿足義,於中連合,是謂多句身。

この四つの句は、それぞれがまだ満たされていない意味を補い合い、互いにつながり合って、全体として一つのまとまった句の集まりを成す。これを「多句身」と呼ぶ。

云何「多文身」?

「多文身」とは、何を意味するのか?

答:諸字眾,是謂多文身。

多くのかなの集まり、これを「多文身」といいます。

如世尊說:

このように世尊はおっしゃいました。

『欲為頌本 文即是字 頌依於名
及造頌者』

欲は頌(偈)の根本であり、文はすなわち字である。頌は名前に依り、また頌を作る者にも依る。

如佛世尊訶諸弟子,稱言「癡人」,此有何義?

仏世尊が弟子たちを叱って「愚か者よ」と呼んだのは、どのような意味があるのでしょうか。

答:是訶責語。

はい、それは叱責の言葉です。

謂:佛世尊訶責弟子,稱言癡人,如今親教及軌範師——若有近住依止弟子起諸過失,便訶責言:「汝為愚癡,不明不善。」世尊亦爾!訶諸弟子,稱言癡人。

仏世尊が弟子たちを叱責され、「愚か者」と呼ばれた。それは、今でいう親教師や軌範師が、近住や依止の弟子に過失があれば、「お前は愚かであり、道理をわきまえず、善くない」と叱るのと同じである。世尊もまたそのように、弟子たちを叱って「愚か者」と言われたのである。

何故世尊訶諸弟子,稱言癡人?

なぜ仏様は弟子たちを叱って「愚かな人々よ」と呼んだのでしょうか?

答:彼於世尊教誡、教授,不隨義行,不隨順,不相續。

彼は世尊の教えや戒め、教導に従わず、その意味に沿って行わず、それに随順せず、相続しなかった。

復次!彼於聖教,作愚癡事,空無有果,無出無味,無有勝利。違越佛教,於諸學處,不能受學。故佛訶彼,稱言癡人。

さらに、その者は仏の教えに対して愚かな行いをし、その行いは空しく、何の果実ももたらさず、出離もなく、味わいもなく、いかなる利益もありません。仏の教えに背き、学ぶべき戒律を守ることができませんでした。それゆえ仏はその者を叱り、「愚かな人」と呼んだのです。

有六因。謂:相應因……乃至能作因。

六つの因があります。すなわち、相応因、さらに広くは、能作因に至るまでの因のことです。

云何相應因?

では、対応する因とは何でしょうか。

答:受與受相應法為相應因,受相應法與受為相應因……想、思、觸、作意、欲、勝解、念、三摩地……慧與慧相應法為相應因,慧相應法與慧為相應因。
是謂相應因。

これを、相応因(そうおういん)と呼びます。

云何俱有因?

俱有因とは、因果が相互に依存し合い、互いに支え合って存在する因のことです。例えば、三本の杖を立てかけて互いに支え合うような関係です。これらは一つが欠けると他も成り立たない、というように、同時に起こり、互いに条件となり合うものです。

答:心與心所法為俱有因,心所法與心為俱有因。心與隨心轉身業、語業為俱有因。心與隨心轉不相應行為俱有因,隨心轉不相應行與心為俱有因。

心と心所(心の働き)は互いに俱有因(ともに存在する原因)であり、心所は心に対して俱有因です。心は、それに伴って起こる身体の行為(身業)と言葉の行為(語業)に対しても俱有因です。また、心は、それに伴って起こる非心所の法(不相応行)に対しても俱有因であり、その不相応行も心に対して俱有因です。

復次!俱生四大種展轉為俱有因。

また、俱生の四大種は、互いに一つとなって協力し合う原因となります。

是謂俱有因。

これを俱有因(ぐういん)と説きます。

云何同類因?

同类因とは何か?

答:前生善根與後生自界善根,及相應法為同類因。

答え:前世の善根と、この世で新たに生じた善根、およびそれに伴う諸法は、同じ種類の因(同類因)となります。

過去善根與未來、現在自界善根,及相應法為同類因。

過去の善根と未来・現在の自界の善根、およびそれと相応する法は、同類因である。

現在善根與未來自界善根,及相應法為同類因。

現在の善根と未来の自界における善根、およびそれらと相応する法は、同類因となります。

如善根;不善、無記根,亦爾!差別者:不善中除自界。

善根についても、不善根や無記根についても、同様に考えることができる。ただし、違いがあるとすれば、不善根の場合には、自界(自分自身の領域)を除くということである。

是謂同類因。

これが「同類因(どうるい いん)」と呼ばれるものです。

云何遍行因?

遍行因とは何か。

答:前生見苦所斷遍行隨眠,與後生自界,見集、滅、道,修所斷隨眠,及相應法為遍行因。

答え:前世において苦諦を見て断たれる遍行の随眠は、後の世の自界において、集諦・滅諦・道諦を見て断たれる随眠、および修道によって断たれる随眠、さらにはそれらと相応する諸法に対して、遍行の因となります。

過去見苦所斷遍行隨眠,與未來、現在自界,見集、滅、道,修所斷隨眠,及相應法為遍行因。

過去に見られた苦によって断たれる普遍的な煩悩(へんぎょうずいみん)は、未来・現在の同じ界において、見られる集・滅・道によって断たれる煩悩、および修道によって断たれる煩悩や、それらに対応する諸法にとって、普遍的な因となる。

現在見苦所斷遍行隨眠,與未來自界,見集、滅、道,修所斷隨眠,及相應法為遍行因。

今、見苦所斷の遍行隨眠は、未來の自界における見集・見滅・見道および修道所斷の隨眠と、それに相應する法にとって、遍行因となる。

如見苦所斷;見集所斷,亦爾!

苦を見て断つべきものがあるように、集を見て断つべきものもまた、同じである。

是謂遍行因。

これは「遍行因(へんぎょういん)」と呼ばれるものです。

云何異熟因?

では、異熟因とは何でしょうか。

答:諸心心所法受異熟色、心心所法、心不相應行。此心心所法與彼異熟為異熟因。

答え:心と心の働き(心所)の法は、異熟の色(結果としての物質)、心と心所の法、心と対応しない働き(心不相応行)に対して、その異熟の因となります。

復次!諸身語業受異熟色、心心所法、心不相應行。此身、語業與彼異熟為異熟因。

さらに、身と語の業は、異熟の果としての色、心、心所法、心不相応行をもたらします。この身と語の業は、それらの異熟の果に対して異熟因となります。

復次!諸心不相應行受異熟色、心心所法、心不相應行。此心不相應行與彼異熟為異熟因。

さらに、心と相応しない行(しんふそうおうぎょう)は、異熟(いじゅく)の色、心・心所の法、心と相応しない行に対して、その異熟の因となる。

是謂異熟因。

これが異熟因(いじゅくいん)と呼ばれるものです。

云何能作因?

いかなるものを能作因(のうさいん)というのでしょうか。

答:眼及色為緣生眼識。此眼識以彼眼色、彼相應法、彼俱有法,及耳聲、耳識;鼻香、鼻識;舌味、舌識;身觸、身識;意法、意識;有色、無色,有見、無見,有對、無對,有漏、無漏,有為、無為等一切法為能作因;除其自性。

目と色が縁となって眼の認識が生じます。この眼の認識は、その眼と色、それらに対応する法、それらと共にある法、さらには耳と音、耳の認識、鼻と香り、鼻の認識、舌と味、舌の認識、身と触れ、身の認識、意と法、意の認識、色のあるもの、色のないもの、見えるもの、見えないもの、対するもの、対しないもの、煩悩のあるもの、煩悩のないもの、作られたもの、作られていないものなど、あらゆる法を能作因とします。ただし、その自性を除きます。

如眼識;耳、鼻、舌、身、意識,亦爾!

眼識も、また耳識・鼻識・舌識・身識・意識も、同じである。

是謂能作因。

これを作り出す因と説く。

諸心由隨眠故,名有隨眠心,彼隨眠於此心隨增耶?

すべての心は、随眠(潜在的な煩悩)によって「随眠を有する心」と呼ばれます。では、その随眠は、この心においてさらに増長するのでしょうか?

答:或隨增,或不隨增。

答え:または増えることに従う場合もあり、または増えることに従わない場合もある。

云何隨增?謂:彼隨眠與此心相應未斷,及緣此心。

ここで「随増」とは、その煩悩(眠り)が、この心と相応しており、しかもまだ断ち切られていないことをいう。また、この心を縁として生じることもいう。

云何不隨增?謂:彼隨眠與此心相應已斷。

不随增とは何か。それは、その潜在的な煩悩(随眠)が心と結びつくことで、すでに断ち切られた状態を指す。

設隨眠於心隨增,此心但由彼隨眠故,名有隨眠心耶?

問い:心の中に眠っている煩悩(ずいみん)が、その心に伴って増えていきます。この心は、その煩悩があるからこそ、「煩悩を伴う心」と呼ばれるのでしょうか?

答:或由彼非餘,或由彼及餘。

答え:あるはそれによるもので他によらず、あるはそれによるもの、および他によるもの。

云何由彼非餘?謂:此心未斷。

では、どうして「彼(心)によるのであって、他のものによるのではない」と言えるのか。それは、この心がまだ断たれていないからである。

云何由彼及餘?謂:苦智已生,集智未生。若心見苦所斷,見集所斷隨眠所緣。

苦とその原因について、どう理解すべきでしょうか。 苦という真理を観る智慧がすでに生じているが、苦の原因(集)を観る智慧はまだ生じていない場合を考えます。 そのとき、心が苦の真理に基づいて煩悩を断ち切る働きと、集の真理に基づいて煩悩を断ち切る働きが、それぞれ対象とする煩悩の種(随眠)によって関係し合います。

諸心由隨眠故,名有隨眠心。彼隨眠於此心當斷耶?

諸心は随眠(潜在的な煩悩)によって「随眠を有する心」と名づけられる。その随眠は、この心において断たれるべきであろうか?

答:或當斷,或不當斷。

答え:断つべき場合もあれば、断つべきでない場合もあります。

云何當斷?謂:彼隨眠緣此心。

いかにして断ずべきか。すなわち、その煩悩の潜在力がこの心に依存していることである。

云何不當斷?謂:彼隨眠與此心相應。

どうして断つべきではないのか。それは、その潜在的な煩悩(ずいみん)が、この心と結びついているからである。

諸隨眠因何當斷?

諸々の煩悩(眠り)は、何によって断たれるべきなのでしょうか?

答:因所緣。

答:原因就在於所緣(對象、條件)。

汝說「隨眠因所緣當斷」耶?

あなたは「随眠(心の奥に眠る煩悩)は、その対象となるものによって断たれるべきである」と言うのですか?

答:如是。

その通りです。

若爾!諸隨眠見滅、道所斷有漏緣,彼隨眠因何當斷?若言此斷、彼斷,俱不應理。

では、諸々の随眠が「見道・修道によって断たれるべき煩悩」であり、有漏の対象を縠っている場合、その随眠は何によって断たれるのでしょうか。「これが断たれるなら、あれも断たれる」と主張するならば、どちらも理にかなっていません。

答:見滅、道所斷無漏緣隨眠,因所緣故斷。由此斷故,彼亦斷。

答え:見惑のうち滅諦と道諦の修行によって断たれる煩悩(無漏の対象に縁る随眠)は、その対象となるものがあるから断たれるのです。この断ち切りのために、それらもまた断たれるのです。

設隨眠於心當斷,此心但由彼隨眠故,名有隨眠心耶?

心に随眠(潜在的な煩悩)が存在するとき、その心を断じるべきである。では、その心は、ただその随眠によって「随眠を有する心」と呼ばれるのだろうか?

答:或由彼非餘,或由彼及餘。
云何由彼非餘?謂:心不染污,修所斷。
云何由彼及餘?謂:心染污。
云何因境斷識?
答:苦智已生,集智未生,若心——見集所斷、見苦所斷緣,是謂因境斷識。
於此識,幾隨眠隨增?

この識について、何種類の煩悩が付きまとうのでしょうか?

答:十九。

答え:十九。

一心耶?

「一心」とは何でしょうか?

答:不爾。謂:
  • 未離欲染;苦法智已生,集法智未生。若心——欲界見集所斷、見苦所斷緣。此因境斷識——欲界見集所斷,七隨眠隨增。
  • 已離欲染,未離色染;苦類智已生,集類智未生。若心——色界見集所斷、見苦所斷緣。此因境斷識——色界見集所斷,六隨眠隨增。
  • 已離色染;苦類智已生,集類智未生。若心——無色界見集所斷、見苦所斷緣。此因境斷識——無色界見集所斷,六隨眠隨增。

1 世第一法納息
3 補特伽羅納息

CBETA コード: T1544

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません