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本事経 (本事經)


本事經卷第二

本事経 巻第二

大唐三藏法師玄奘奉詔譯

大唐三蔵法師玄奘が勅命を受けて訳しました。

一法品第一之二

第1章「一法」その2

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於貪未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離貪故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於貪已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離貪故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於貪應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說偈言:

私は世尊からこのようにお聞きしました。

「僧侶たちよ、知っておきなさい。もし欲望について、あるがままに知らず、正しく完全に理解せず、永遠に断ち切ることができなければ、その人は自らの心から欲望を離れていないので、悟りに至ることができず、完全に知ることができず、正しい覚りを得られず、涅槃に達することができず、最高の安らぎを証得することができません。しかし、もし欲望について、あるがままに知り、正しく完全に理解し、永遠に断ち切ることができたなら、その人は自らの心から欲望を離れているので、悟りに至ることができ、完全に知ることができ、正しい覚りを得られ、涅槃に達することができ、最高の安らぎを証得することができるのです。ですから、欲望については、あるがままに知り、正しく完全に理解し、永遠に断ち切ることを求め、仏の教えの中で清らかな行いを修めるべきです。」

その時、世尊はこの教えの要点をまとめて、次の偈を説かれました。

「若於貪未知, 彼去涅槃遠,
於貪已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由貪之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此貪者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

もしも渇望について正しく知らなければ、 その人は涅槃から遠く離れている。 渇望を正しく知ったなら、 涅槃は遠くない。

私はあらゆる生きとし生けるものを見る—— 渇望に染められて、 再び悪趣に落ち、 生死の輪廻を繰り返す。

しかし、この渇望を正しく知り、 永遠に断ち切ったなら、 沙門の果てに至り、 ついに再び生を受けることはない。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於瞋未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離瞋故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於瞋已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離瞋故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於瞋應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

私は世尊からこうお聞きしました。

「比丘たちよ、知っておきなさい。 もし怒りについて、ありのままに知らず、正しく理解せず、完全に断ち切ることができなければ、その人は自らの心から怒りを離れていないため、悟りに至らず、深く理解できず、覚りを開けず、涅槃に達せず、最高の安らぎを得ることはできません。 もし怒りについて、ありのままに知り、正しく理解し、完全に断ち切ることができたなら、その人は自らの心から怒りを離れているため、悟りに至り、深く理解し、覚りを開き、涅槃に達し、最高の安らぎを得ることができるのです。 ですから、怒りについて、ありのままに知り、正しく理解し、完全に断ち切ることを求めなさい。そして、仏法の中で清らかな行いを修めなさい。」

その時、世尊はこの教えをまとめて、次のように偈を説かれました。

「若於瞋未知, 彼去涅槃遠,
於瞋已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由瞋之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此瞋者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

「怒りについて正しく知らなければ、その人は涅槃から遠く離れている。 怒りについて正しく知った人は、涅槃から遠くない。 私はあらゆる生きとし生けるものを見る。怒りに染められて、 再び悪い世界に落ち、生死の輪廻を受けているのだ。 もし正しく理解して、この怒りを永遠に断ち切るならば、 悟りの修行者としての最高の果報を得て、ついに再び生を受けることはない。」

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於癡未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離癡故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於癡已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離癡故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於癡應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

私は世尊からこう聞きました。

「比丘たちよ、知っておきなさい。無知(痴)について、あるがままに知らず、正しく全てを知らず、それを永遠に断ち切ることができないなら、その人は自らの心から無知を離れていないため、悟りに通じることができず、全てを正しく知ることができず、完全に目覚めることができず、涅槃に達することができず、無上の安らぎを得ることができない。

しかし、無知についてあるがままに知り、正しく全てを知り、それを永遠に断ち切ったなら、その人は自らの心から無知を離れているため、悟りに通じ、全てを正しく知り、完全に目覚め、涅槃に達し、無上の安らぎを得ることができる。

だからこそ、無知についてはあるがままに知り、正しく全てを知り、永遠に断ち切ることを求めなさい。そして、仏法において清らかな行いを修行しなさい。」

その時、世尊はこの教えを簡潔にまとめて、次のように偈を唱えられました。

「若於癡未知, 彼去涅槃遠,
於癡已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由癡之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此癡者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

もし無明(むみょう)に気づかずにいるならば、その人は涅槃から遠く離れている。 もし無明を正しく知っているならば、その人は涅槃から遠くない。

私はあらゆる生きとし生けるものを見ている。 無明に染められているがゆえに、 再び悪い世界に落ち、 生と死の輪廻(りんね)を繰り返しているのだ。

もしこの無明を正しく理解し、 それを完全に断ち切ることができるならば、 尊い修行者としての悟りの境地(沙門果)を得て、 二度と再び迷いの世界に生まれることはないのだ。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於覆未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離覆故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於覆已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離覆故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於覆應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

世尊から、このようにお聞きしました。「比丘たちよ、知っておきなさい。もしも『覆い』について、あるがままに知らず、正しく完全に悟らず、永遠に断ち切ることができなければ、その人は自らの心から覆いを離れていないため、真理に通達できず、完全に理解できず、正しく覚りを得られず、涅槃に至れず、この上ない安らぎを得ることはできません。しかし、もしも『覆い』について、あるがままに知り、正しく完全に悟り、永遠に断ち切ることができたなら、その人は自らの心から覆いを離れたため、真理に通達し、完全に理解し、正しく覚りを得て、涅槃に至り、この上ない安らぎを得ることができるのです。ですから、『覆い』については、あるがままに知り、正しく完全に悟り、永遠に断ち切ることを求めなさい。仏の教えにおいて、清らかな行いを修めるべきなのです。」

その時、世尊はこの教えの要点を改めて、次のように偈(うた)で説かれました。

「若於覆未知, 彼去涅槃遠,
於覆已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由覆之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此覆者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

「覆い(無明)について何も知らなければ、 その人は涅槃(悟り)から遠く離れている。 覆いを正しく知っている人は、 涅槃から遠くない。

私は生きとし生けるものを見る。 覆いによって汚されているがゆえに、 再び悪い世界に落ちて、 生まれ変わりと死の輪廻を繰り返す。

もしも正しく理解して、 この覆いを完全に断ち切ることができれば、 沙門の悟りの境地を得て、 ついに二度と生まれ受けることはない。」

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於惱未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離惱故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於惱已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離惱故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於惱應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

世尊から、私はこのようにお聞きしました。「比丘たちよ、知っておきなさい。もし、煩悩についてありのままに知らず、正しくはっきりと見極めず、永遠に断ち切ることができなければ、その人は自らの心から煩悩を離れていないので、悟りに通じず、全てを正しく知ることもなく、正覚を得ることもなく、涅槃に至ることもなく、この上ない安らぎを得ることはできません。しかし、もし煩悩についてありのままに知り、正しくはっきりと見極め、永遠に断ち切ることができれば、その人は自らの心からすでに煩悩を離れているので、悟りに通じ、全てを正しく知り、正覚を得、涅槃に至り、この上ない安らぎを得ることができるのです。それゆえ、煩悩についてはありのままに知り、正しくはっきりと見極め、永遠に断ち切ることを求めなさい。そして、仏の教えの中で清らかな行いを修行しなさい。」

その時、世尊はこの教えの要点を改めてもう一度、詩句で説かれました。

「若於惱未知, 彼去涅槃遠,
於惱已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由惱之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此惱者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

もし悩み(煩悩)を正しく知らなければ、その人は涅槃から遠い。 悩みをはっきりと知った人には、涅槃は遠くない。

私はあらゆる生きとし生けるものを見る――悩みに染められ、 再び悪い世界に落ち、生死の輪廻(くりかえし)を受けることを。

しかし、もし正しく知り尽くして、この悩みを永遠に断ち切ったなら、 聖なる修行の成果(沙門果)を得て、ついに二度と生まれない。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於忿未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離忿故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於忿已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離忿故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於忿應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

世尊から、私はこのように聞き及んだ。

「修行者よ、知っておきなさい。 もし人が、『怒り』について、あるがままに知らず、 正しく完全に理解せず、永遠に断ち切ることがなければ、 その人は心から怒りを離れていないので、 悟りに通じることができず、正しく知ることができず、 さとりの境地に達することができず、涅槃に至ることができず、 最高の安らぎを得ることはできない。 しかし、もし人が、『怒り』について、あるがままに知り、 正しく完全に理解し、永遠に断ち切ることができたなら、 その人は心から怒りを離れているので、 悟りに通じ、正しく知り、 さとりの境地に達し、涅槃に至り、 最高の安らぎを得ることができる。 だからこそ、『怒り』をあるがままに知り、 正しく完全に理解し、永遠に断ち切ることを求めなさい。 そして、仏の教えの中で清らかな行いを修めなさい。」

その時、世尊はこの教えの要点をまとめて、次のように偈(うた)を説かれた。

「若於忿未知, 彼去涅槃遠,
於忿已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由忿之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此忿者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

怒りを知らざる者は、涅槃より遠くにあり。 怒りを知る者は、涅槃より遠からず。

我、すべての生きとし生けるものを観るに、怒りに染まりて、 悪しき境遇に堕ち、生と死の輪廻を繰り返す。

正しく悟りて、この怒りを断ち切る者こそ、 真の沙門の果てを得て、ついに再び生を受けることなし。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於恨未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離恨故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於恨已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離恨故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於恨應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

私は世尊から次のようなお言葉を伺いました。

「修行者たちよ、よく聞きなさい。もし恨みの心について、あるがままに知らず、正しく完全に理解せず、それを永遠に断ち切ることができなければ、その人の心から恨みは離れず、真理に通達できず、全てを正しく知ることができず、悟りを開くことも、涅槃に至ることも、この上ない安らぎを得ることもできません。しかし、恨みの心について、あるがままに知り、正しく完全に理解し、それを永遠に断ち切ることができたなら、その人の心から恨みは離れ、真理に通達し、全てを正しく知ることができ、悟りを開き、涅槃に至り、この上ない安らぎを得ることができるのです。ですから、恨みの心については、あるがままに知り、正しく完全に理解し、永遠に断ち切ることを求めなさい。そして、仏の教えにおいて清らかな修行を行うべきなのです。」

その時、世尊はこれらの教えの要点をまとめて、次のようにお唱えになりました。

「若於恨未知, 彼去涅槃遠,
於恨已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由恨之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此恨者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

恨(うらみ)の心を知らなければ、涅槃(ねはん)から遠く離れている。 しかし、恨みを正しく知る者は、涅槃から遠くない。

私はあらゆる生きとし生けるものを見る。 恨みの心に染められて、 再び悪い世界に落ち、 生と死の輪廻(りんね)を繰り返す、と。

もしもこれを正しく理解し、 この恨みを永遠に断ち切るならば、 沙門(しゃもん)の悟りの境地に達し、 最後には再び生まれることがないのである。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於嫉未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離嫉故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於嫉已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離嫉故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於嫉應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

私は世尊からこのようにお聞きしました。

「比丘たちよ、知っておきなさい。もし、ねたみの心についてありのままに知らず、正しく深く理解せず、完全に断ち切ることができなければ、その人は自らの心からねたみを離れていないため、悟りに通じることも、すべてを正しく知ることも、完全な覚りを得ることも、涅槃に至ることも、この上ない安らぎを証得することもできません。

しかし、もし、ねたみの心についてありのままに知り、正しく深く理解し、完全に断ち切ることができたなら、その人は自らの心からねたみを離れているため、悟りに通じ、すべてを正しく知り、完全な覚りを得て、涅槃に至り、この上ない安らぎを証得することができるのです。

ですから、ねたみの心については、ありのままに知り、正しく深く理解し、完全に断ち切ることを求めて、仏法の中において清らかな行いを修行しなさい。」

その時、世尊はこれらの大切な意味を改めてまとめて、次のように偈(うた)を説かれました。

「若於嫉未知, 彼去涅槃遠,
於嫉已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由嫉之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此嫉者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

嫉妬の心を知らない者は、涅槃から遠く離れている。 嫉妬の心をすでに知った者は、涅槃から遠くない。

私は見る、すべての生きとし生けるものは、嫉妬によって染められ、 再び悪い世界に落ち、生死の輪廻を受ける。

もし正しく理解し、この嫉妬を永遠に断ち切るならば、 高き沙門の果てを得て、ついに生を受けることはない。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於慳未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離慳故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於慳已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離慳故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於慳應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

私は世尊からこのように聞きました。 「比丘たちよ、知っておきなさい。もし慳(おしみ)の心をありのままに知らず、正しくもれなく知らず、まだ完全に断ち切っていないならば、その人は自らの心から慳を離れていないため、真理に通達できず、あまねく悟ることができず、正しく目覚めることができず、涅槃に達することができず、無上の安らぎを得ることはできません。 しかし、もし慳をありのままに知り、正しくもれなく知り、すでに完全に断ち切ったならば、その人は自らの心から慳を離れているため、真理に通達し、あまねく悟り、正しく目覚め、涅槃に達し、無上の安らぎを得ることができるのです。 ですから、慳についてありのままに知り、正しくもれなく知り、完全に断ち切ることを求めなさい。そして、仏の教えの中で清らかな行いを修めなさい。」 その時、世尊はこの教えをまとめて、次の偈(うた)を説かれました。

「若於慳未知, 彼去涅槃遠,
於慳已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由慳之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此慳者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

「もしも慳吝(けち)を知らなければ、その人は涅槃(ねはん)から遠く離れている。 慳吝を正しく知る者は、涅槃から遠くない。 私はあらゆる生きとし生けるものを見る。慳吝に染められた者たちは、 再び悪い世界に落ち、生死の輪廻(りんね)を受ける。 もしこの慳吝を正しく知り、永遠に断ち切ることができたなら、 沙門(しゃもん)の最高の果てを得て、ついに生まれを受けることはない。」

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於耽未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離耽故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於耽已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離耽故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於耽應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

私は世尊から次のようなお言葉を伺いました。

「僧侶たちよ、知っておきなさい。執着(むさぼり)について、あるがままに知らず、正しく完全に理解せず、永遠に断ち切ることができないならば、その人は自らの心から執着を離れていないため、真理に通達できず、完全に理解できず、覚りを得られず、涅槃に至れず、最高の安らぎを証得できないのです。

しかし、執着について、あるがままに知り、正しく完全に理解し、永遠に断ち切ることができたならば、その人は自らの心から執着を離れたため、真理に通達し、完全に理解し、覚りを得て、涅槃に至り、最高の安らぎを証得できるのです。

ですから、執着に対しては、あるがままに知り、正しく完全に理解し、永遠に断ち切るよう努めなさい。そして、仏の教えの中で、清らかな修行を実践しなさい。」

その時、世尊はこの教えの要点をまとめて、次のように偈(うた)を説かれました。

「若於耽未知, 彼去涅槃遠,
於耽已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由耽之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此耽者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

もしも執着・無知に溺れているなら、その人は涅槃から遠い。 執着・無知をはっきりと知る人こそ、涅槃から遠くない。

私は見る、すべての生きとし生けるものを。執着によって染められて、 再び悪い世界に落ち、生と死の輪廻を受けていることを。

もし正しく悟り、この執着を完全に断ち切るならば、 最高の沙門の果報を得て、けっして再び生を受けることはない。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於慢未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離慢故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於慢已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離慢故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於慢應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

私は世尊からこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るべきである。もし人々が『慢(思い上がり)』について、ありのままに知らず、正しく理解せず、完全に断ち切っていなければ、その人々は自らの心から慢を離れていないため、悟りに通じず、正しく理解せず、目覚めることができず、涅槃に達せず、無上の安らぎを得ることはできない。 しかし、もし人々が『慢』について、ありのままに知り、正しく理解し、完全に断ち切っていれば、その人々は自らの心から慢を既に離れているため、悟りに通じ、正しく理解し、目覚め、涅槃に達し、無上の安らぎを得ることができる。 それゆえ、慢については、ありのままに知り、正しく理解し、完全に断ち切ることを求めるべきである。そして、仏の教えにおいて、清らかな修行(梵行)を修めるべきである。」

その時、世尊は以上の教えを要約して、次の偈を説かれた。

「若於慢未知, 彼去涅槃遠,
於慢已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由慢之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此慢者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

「もしも、自分の思い上がり(慢)を正しく知らなければ、その人は涅槃から遠く離れている。 しかし、自分の思い上がりをよく知っている人は、涅槃から遠くない。

私は見てきた、あらゆる生きとし生けるものたちが、 この思い上がりに染まって、悪い世界に落ち、生死を繰り返し輪廻していることを。

もし、この思い上がりを正しく理解し、完全に断ち切ることができれば、 沙門(修行者)の真の成果を得て、決して再び生を受けることはない。」

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有於害未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離害故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若有於害已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離害故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。是故於害應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝上義而說頌曰:

私は尊き師からこのように聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。もし害についてありのままに知らず、正しく理解せず、完全に断ち切ることができなければ、その人は自らの心から害を離れていないため、真理を悟ることができず、正しく理解できず、目覚めることができず、涅槃に達することができず、無上の安楽を証得することはできません。もし害についてありのままに知り、正しく理解し、完全に断ち切ることができれば、その人は自らの心から害を離れているため、真理を悟り、正しく理解し、目覚め、涅槃に達し、無上の安楽を証得することができます。それゆえ、害についてはありのままに知り、正しく理解し、完全に断ち切ることを求めるべきです。仏法の中において、清らかな行いを修めるべきです。」

その時、尊き師はこの要点を再びまとめて、次の偈を説かれました。

「若於害未知, 彼去涅槃遠,
於害已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由害之所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。
若能正了知, 永斷此害者,
得上沙門果, 畢竟不受生。」

害(憎しみ)について知らない人は、涅槃から遠く離れている。 害についてよく知っている人は、涅槃から遠くない。

私はあらゆる生きとし生けるものを見る──害に染められて、 再び悪い世界に落ち、生死の輪廻を受けることを。

もし正しく理解し、この害を永遠に断ち切るなら、 沙門(修行者)の果報を得て、ついに再び生を受けることはない。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若於一切未如實知、未正遍知、未能永斷,彼於自心未離一切故,不能通達、不能遍知、不能等覺、不能涅槃、不能證得無上安樂。若於一切已如實知、已正遍知、已能永斷,彼於自心已離一切故,即能通達、即能遍知、即能等覺、即能涅槃、即能證得無上安樂。故於一切應如實知、應正遍知、應求永斷,於佛法中當修梵行。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

私は世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知るべきです。もし一切のものをあるがままに知らず、正しく完全に知らず、永遠に断ち切ることができなければ、その人は自らの心から一切のものを離れていないので、悟りに達することができず、完全に知ることができず、正しく覚ることができず、涅槃に至ることができず、無上の安らぎを得ることができません。しかし、もし一切のものをあるがままに知り、正しく完全に知り、永遠に断ち切ることができれば、その人は自らの心から一切のものを離れているので、悟りに達することができ、完全に知ることができ、正しく覚ることができ、涅槃に至ることができ、無上の安らぎを得ることができます。ですから、一切のものをあるがままに知り、正しく完全に知り、永遠に断ち切ることを求め、仏法において清らかな行いを修行すべきです。」

その時、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次の偈を説かれました。

「若一切未知, 彼去涅槃遠,
一切已知者, 去涅槃不遙。
我觀諸有情, 由一切所染,
還來墮惡趣, 受生死輪迴。」

もしあらゆるものを知らなければ、その人は涅槃から遠く離れている。 もしあらゆるものを知っているなら、その人は涅槃から遠くない。

私はすべての生きとし生けるものを見ている。 彼らはあらゆるものに執着するがゆえに、 再び悪い世界に落ち、 生と死の輪廻を繰り返している。

重攝前經嗢柁南曰:

重ねて先の経をまとめると、次の偈のようになります。

貪、恚及愚癡 覆藏、惱、忿、恨
嫉、慳與耽嗜 慢、害、將一切

貪欲(むさぼり)、怒り(いかり)、そして愚かさ(おろかさ)。 隠しごと、思い煩い、怒りっぽさ、恨み。

ねたみ、物惜しみ、むやみにふけること。 思い上がり、他者を傷つける心、そしてこれら全て。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!一切修習福業事中,慈心解脫最為第一。所以者何?慈心解脫威德熾盛,映蔽一切諸福業事。以彼諸事所有威德,欲比所修慈心解脫,十六分中亦不及一。苾芻當知!譬如小大諸國王中,轉輪聖王最為第一。所以者何?轉輪聖王威德熾盛,映蔽一切小大諸王。以彼諸王所有威德比轉輪王,十六分中亦不及一。諸福業事亦復如是,欲比所修慈心解脫,十六分中亦不及一。又如小大諸星之中,其滿月輪最為第一。所以者何?是滿月輪威光熾盛,映蔽一切小大諸星。以彼諸星所有威光比滿月輪,十六分中亦不及一。諸福業事亦復如是,欲比所修慈心解脫,十六分中亦不及一。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

世尊より、わたしはこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。あらゆる善行の功徳を積む行いの中で、慈しみの心による解脱が最も優れている。なぜなら、慈しみの心による解脱は、その威徳が非常に盛んであり、他のすべての善行の功徳を覆い隠してしまうからである。たとえ、それらの善行のあらゆる威徳を集めても、この慈しみの心による解脱と比べれば、十六分の一にも及ばないのである。 比丘たちよ、例えば、大小さまざまな王たちの中では、転輪聖王が最も優れている。なぜなら、転輪聖王の威徳は盛んで、他の大小すべての王たちを覆い隠してしまうからである。彼らの王たちのあらゆる威徳を集めても、転輪聖王と比べれば、十六分の一にも及ばない。あらゆる善行の功徳もまた、これと同じである。それらを慈しみの心による解脱と比べても、十六分の一にも及ばないのである。 また、大小さまざまな星々の中で、満月が最も優れている。なぜなら、満月の光は盛んで、他の大小すべての星々を覆い隠してしまうからである。それらの星々のあらゆる光を集めても、満月と比べれば、十六分の一にも及ばない。あらゆる善行の功徳もまた、これと同じである。それらを慈しみの心による解脱と比べても、十六分の一にも及ばないのである。」 そのとき、世尊はこの教えをまとめて、次のように偈でお示しになった。

「一切福業事, 比慈心解脫,
於十六分中, 亦不能及一。
於一有情所, 能修慈善心,
其福尚無邊, 何況於一切!
諸有大國王, 威伏於大地,
世間祠施會, 一切無不為。
如是祠施福, 比所修慈心,
於十六分中, 亦不能及一。
如轉輪聖帝, 威德蔽諸王,
亦如滿月輪, 其光映諸宿。
如是諸所修, 一切福業事,
皆為慈善心, 威德之所覆。
修慈心解脫, 若人若非人,
一切諸有情, 皆不能為害。」

あらゆる善行の功徳も、慈しみの心による解脱には、 その十六分の一にも及ばない。 たった一人の生き物に対して、慈しみの心を修めれば、 その福徳はすでに限りがない。ましてやすべての生き物に対してはなおさらである。

たとえ大きな力を持つ王が、大地を支配し、 世の中のあらゆる祭祀や施しを、すべて行ったとしても、 その祭祀や施しの功徳も、修めた慈しみの心に比べれば、 その十六分の一にも及ばない。

あたかも、世界を転輪する聖王が、その威徳で全ての王を圧倒し、 また、満月がその光で全ての星々を照らし隠すように、 このように、あらゆる善行の功徳も、 すべて、慈しみの心の威徳に覆われてしまうのだ。

慈しみの心による解脱を修めた者には、人であれ、人ならざるものであれ、 すべての生き物は、決して害を加えることができない。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!我觀世間無別一法,為諸有學未得心者希求無上安樂果時,作外強緣,如善知識。所以者何?彼諸有情因善知識,所求皆遂,謂斷眾惡、修習諸善,得無雜染真淨之身。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

私は尊いお方(世尊)から次のように聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。私はこの世の中に、まだ悟りを得ていない修行者のうち、最高の安らぎの境地(無上安楽の果)を求める者にとって、これほど強い支え(外の強縁)となるものは、善き友(善知識)の他にないと見ます。なぜなら、善き友によって、人々は求めることを全て成し遂げるからです。すなわち、悪を断ち善を修め、汚れのない清らかな身を得るのです。」その時、尊いお方はこの意味をまとめて、次の偈を説かれました。

「我觀諸世間, 無別有一法,
學未得心者, 求無上果時,
為作外強緣, 如彼善知識。
親近善知識, 所求無不成,
恭敬受其教, 無放逸奉行,
速證於涅槃, 離怖常安樂。」

「私はこの世の中を見渡しても、 学びながらまだ悟りを得ていない心の者が、 最高の悟りを求めている時に、 外的な強力な助けとなるものは、 善き先生(善知識)のようなものは他にありません。

善き先生に親しく近づけば、 求めることはすべて成就します。 その教えを敬い受けて、 怠ることなく実践すれば、 速やかに涅槃を証得し、 恐れを離れて、永遠の安らぎを得るのです。」

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!我觀世間無別一法,為諸有學未得心者希求無上安樂果時,作內強緣,如正作意。所以者何?彼諸有情因正作意,所求皆遂,謂斷眾惡、修習諸善,得無雜染真淨之身。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

世尊から、私はこのように聞きました。 「僧侶たちよ、知るがよい。私はこの世を見渡して、学びつつあり、まだ心の安らぎを得ていない人々が、この上ない安楽の果を求める際に、内なる強力な助縁となるものは、正しい心構えをおいて他にないと観じる。 なぜなら、人々は正しい心構えによって、求めることをすべて成し遂げるからである。すなわち、あらゆる悪を断ち、善を修め、汚れのない清らかな体を得るのである。」 その時、世尊はこの意味を改めてまとめて、次のように偈を説かれた。

「我觀諸世間, 無別有一法,
學未得心者, 求無上果時,
為作內強緣, 如彼正作意。
修習正作意, 所求無不成,
如理審觀察, 無放逸修行,
速證於涅槃, 離怖常安樂。」

「私はあらゆる世の中を観察してみると、心をまだ十分に修めていない人が、この上ない悟りを求める時に、内側から強い助けとなるような、特別な一つの教えがあるのです。それは、まさにこの『正しい心の向け方』です。 この『正しい心の向け方』を修めれば、求めることはすべて成就します。 道理に沿ってよく観察し、油断なく修行を続ければ、速やかに悟りの境地に達し、恐れを離れ、常に安らかな幸せを得ることができるのです。」

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若諸有情能知惠施所感果報明了現前如我知者,必無慳悋纏染其心,設彼唯有所食一摶,要分施他,然後自食。以不知故,為諸慳悋纏染其心,雖有無量飲食、財寶而不施他,唯自食用。所以者何?惠施果報生人天中,無量往返受諸快樂。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

私は世尊から次のようなお言葉を聞きました。

「僧よ、知りなさい。もし人々が、施しによってもたらされる報いを、私が知るようにはっきりと理解できるなら、必ずや物惜しみの心に悩まされることはないでしょう。たとえ一握りの食べ物しかなくとも、それを分け与えてから自ら口にするでしょう。しかし、理解していないために、物惜しみの心に縛られ、どれほど多くの食べ物や財宝があっても、人に施さず、ただ自分のためだけに使うのです。なぜなら、施しの報いは、人や天の世界に生まれ変わって、限りない喜びを繰り返し味わうことにあるからです。」

その時、世尊はこの教えを要約して、次のように偈(うた)を唱えられました。

「世間諸有情, 若了知惠施,
能感大果報, 明見似如來;
其心必不為, 慳悋所纏染,
唯有食一摶, 而亦能分施。
由不知施果, 明見似如來,
雖有多財食, 慳悋不能捨。
若於凡聖田, 三時心喜施,
感人天果報, 往返量無邊。」

世の中の生きとし生けるものよ、 施しの意味を正しく知れば、 大きな果報を得られること、 如来様のように明らかに見えるのです。

その心は決して、 けちけちした思いに縛られることなく、 たとえ一握りの食べ物しかなくても、 それを分け与えることができるのです。

施しの果報を知らないため、 如来様のように明らかに見えていても、 たくさんの財産や食べ物を持っていながら、 けちで手放せないのです。

もし、凡夫や聖者という田んぼに、 三つの時(過去・現在・未来)に心から喜んで施せば、 人や天の素晴らしい果報を得て、 その行き来には限りがないのです。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若諸有情能知犯戒所感果報明了現前如我知者,行住坐臥皆不能安,言笑飲食都無思念,其心驚惶狂亂吐血,身形萎悴如被刈蘆。以不知故,安然無畏。所以者何?諸犯戒罪能感惡趣,增上猛利諸苦果報。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

私は世尊(仏陀)からこのように聞きました。「比丘(僧侶)たちよ、知っておきなさい。もし人々が、戒律を破ったことによって受ける報いを、私が知るようにはっきりと目の当たりに理解できるなら、彼らは行き、立ち、座り、横たわることもすべて安らかにはできず、話したり笑ったり食事をすることにも全く心を向けられず、心は恐れおののき、狂乱して血を吐き、体は萎れしおれて、刈り取られた葦のようになるだろう。しかし、その報いを知らないからこそ、平然として恐れることがないのだ。なぜかというと、戒律を破る罪は、苦しい世界に導くものであり、非常に強く厳しい苦しみの報いをもたらすからである。」

その時、世尊はこの意味をまとめて、次のように詩句を述べられました。

「戒を破る罪の報いは もし現に見ることを得ば 行くも止まるも安からず 心は乱れて血を吐かん

その報いを知らねば 人は安らかに恐れなし しかしながら戒を破る者は 必ず悪い世界に堕ちる 強く厳しい苦しみを 長く受けねばならぬ」

「世間諸有情, 若了知犯戒,
能感苦果報, 明見似如來;
四威儀不安, 不思言笑等,
心驚狂吐血, 身悴如刈蘆。
由不知犯戒, 能感惡趣苦,
明見似如來, 安然不驚懼。
諸有犯戒人, 定墮於惡趣,
受增上猛利, 苦果報無邊。」

世の中の生きとし生けるものよ、 もし戒律を破ることで 苦しい結果がもたらされることを知ったならば、 はっきりとその道理を見る、あたかも如来のように。

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)が落ち着かず、 考えずに笑ったり話したりする様子もなく、 心は驚き、血を吐くほどに狂い、 体は刈り取られた葦のように衰える。

戒律を破ることによって 悪い世界に生まれ変わる苦しみが生じることを知らないために、 如来のようにはっきりと見ている者でも、 安らかで恐れることがない。

しかし、戒律を破る者たちは、 必ず悪い世界に落ち、 さらに激しく厳しい 限りない苦しみの結果を受けるのである。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若諸有情能知持戒所感果報明了現前如我知者,彼於自身深生厭離、欣樂當來,堅持禁戒。以不知故,樂著自身,毀犯禁戒。所以者何?諸持戒福能感善趣,增上猛利諸樂果報。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

世尊がこのようにお話しになりました。「比丘たちよ、もし生きとし生けるものが、戒律を守ることによって得られる報いを、私が知っているように明らかに理解できるなら、その人は自分の身体に深く厭離の心を起こし、未来の幸せを願って、戒律を堅く守るであろう。しかし、それを知らないがゆえに、自分の身体に執着し、戒律を破ってしまうのである。なぜならば、戒律を守る功徳は、善き生まれ変わりをもたらし、素晴らしく大きな楽しみの報いを生じさせるからである。」その時、世尊はこの意味をまとめて、次のように偈を説かれました。

「世間諸有情, 若了知持戒,
能感樂果報, 明見似如來;
便於不淨身, 深能生厭離,
求當來勝果, 堅守淨尸羅。
由不知持戒, 能感善趣樂,
明見似如來, 故毀犯淨戒。
諸有持戒人, 得生於善趣,
受天諸妙樂, 證無上涅槃。」

世の中の生きとし生けるものよ、 もし戒律を守ることを正しく知れば、 それは楽しい果報をもたらすと明らかに見える、それはまるで如来のようです。 そこで、この清らかでない肉体に対して深く嫌悪し、 未来の素晴らしい結果を求めて、清らかな戒律を堅く守るのです。 戒律を守ることが善い世界の楽しみをもたらすと知らず、 まるで如来のように明らかに見えるにもかかわらず、 清らかな戒律を破り汚してしまうのです。 戒律を守る人々は、善い世界に生まれ、 天のさまざまな妙なる楽しみを受け、 究極の涅槃(ねはん)を証(あかし)するのです。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若諸有情知而妄語,無慚、無愧、無改悔心,我說彼於惡不善業無不能造。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

ブッダがこのようにおっしゃいました。「修行者たちよ、知りながら偽りの言葉を語り、恥じる心も、はじる心もなく、改め悔いる心もない者は、あらゆる悪しき行いをなすだろう、と私は説く。」そのとき、ブッダはこの教えをまとめて、次のように詩句で語られました。

「知而故妄語, 無慚愧悔心,
如是諸有情, 無惡而不造。」

知っていながら故意に嘘をつき、 恥じる心も省みる心もない、 そのような人々には、 造らぬ悪はない。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若諸有情知而妄語,深生慚愧有改悔心,我說彼於白淨善法無不能造。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

私は仏陀からこう聞きました。「比丘たちよ、知っていながら嘘をつく者でも、深く恥じ、悔い改める心を持つならば、その者は清らかな善い行いを一切成就できないことはないと私は説く。」 その時、仏陀はこの教えをまとめて、次のように偈を説かれました。

「知而故妄語, 有慚愧悔心,
如是諸有情, 無善而不造。
精勤不放逸, 如說正修行,
得無上涅槃, 永離諸怖畏。」

「知っていながら故意に嘘をつき、 恥じる心や悔いる心がある者は、 このような生きとし生けるものは、 善い行いを何ひとつ作らない。

怠けず、油断せず、よく努め励み、 説かれた通りに正しく修行する者は、 この上ない涅槃(ねはん)を得て、 永遠にあらゆる恐れから離れるのである。」

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有一最勝補特伽羅,彼於世間若不出現,無量有情退失聖慧。云何為一補特伽羅?所謂如來、應、正等覺。所以者何?若諸如來、應、正等覺不現世間,無能宣說修聖慧法,故諸有情退失聖慧。苾芻當知!諸有退失親友財位,名小退失;退失聖慧,名大退失。所以者何?若諸有情退失聖慧,於現法中多諸憂苦,無喜樂住,有災有患有惱有燒,及於當來長夜受苦,及受種種猛利災害,增長血滴,常遊死路,數墮地獄、餓鬼、傍生、阿素洛趣,數受人天生死憂苦。所以者何?由彼有情於其聖慧未能隨覺、未能通達,故於六趣生死輪迴。若諸有情證得聖慧,便能出離正盡苦邊。是故汝等應如是學:我當云何修習聖慧令不退失?我當云何於諸聖慧隨覺通達?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

世尊はこうおっしゃいました。 「比丘たちよ、知っておきなさい。この世に一人、最も尊い方が現れなければ、無数の人々が聖なる智慧を失ってしまいます。その一人とは、如来・応供・正等覚者(完全に目覚めた方)です。なぜなら、如来がこの世に現れなければ、聖なる智慧を修める教えを説く者がいないからです。ですから、人々は聖なる智慧を失ってしまうのです。

比丘たちよ、親しい人や財産や地位を失うのは『小さな損失』であり、聖なる智慧を失うのは『大きな損失』です。なぜなら、聖なる智慧を失った者は、現世において多くの苦しみや悩みを抱え、喜びも安らぎもなく、災いや苦しみや悩みや焼けるような苦しみに苛まれます。そして未来永劫にわたって苦しみ続け、様々な厳しい災いを受け、血の滴りを増やし、常に死の道を歩み、繰り返し地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の世界に落ち、人の世や天界でも生と死の苦しみを味わうのです。

なぜか。彼らが聖なる智慧を正しく理解せず、悟ることがなかったため、六つの迷いの世界(六趣)を生死輪廻し続けるからです。

しかし、聖なる智慧を体得した者は、迷いの世界を出離し、苦しみの果てを完全に超えることができます。

だからこそ、あなたがたはこう学びなさい。『私はどのようにして聖なる智慧を修め、それを失わないようにしようか。どのようにして聖なる智慧を正しく理解し、悟りを開こうか』と。比丘たちよ、あなたがたはこう学ぶべきです。」

その時、世尊はこの教えをまとめて、次の偈を説かれました。

「如來不出現, 世間諸有情,
無救無歸依, 皆退失聖慧。
失親友財位, 是名小退失,
若失真聖慧, 是名大退失。
我觀諸世間, 失無上聖慧,
輪轉於生死, 受諸名色身。
彼於現法中, 有苦無上樂,
於當來長夜, 久生死輪迴。
若欲求聖慧, 正盡眾苦邊,
當願諸如來, 數出現於世。」

「如来がこの世に現れなければ、 世の中の生きとし生けるものは、 救いも拠り所もなく、 みな聖なる智慧を失ってしまう。

親しい人や財産や地位を失うのは、 “小さな喪失”と呼ばれる。 しかし、もし聖なる智慧を失うならば、 それが“大きな喪失”なのだ。

私は世の中を観察するに、 無上の聖なる智慧を失った者たちは、 生死の中を巡りながら、 様々な名前や形のある身を受ける。

彼らは今この現世において、 苦しみはあっても無上の楽しみはなく、 未来永劫にわたって、 長く生死の輪廻を続ける。

もし聖なる智慧を求めて、 あらゆる苦しみの尽きる果てを望むなら、 どうか全ての如来が、 何度もこの世に現れんことを願うべきである。」

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有一最勝補特伽羅,彼於世間若出現者,無量有情增長聖慧。云何為一補特伽羅?所謂如來、應、正等覺。所以者何?若諸如來、應、正等覺出現世間,有能宣說修聖慧法,令諸有情增長聖慧。苾芻當知!諸有增長親友財位,名小增長;增長聖慧,名大增長。所以者何?若諸有情增長聖慧,於現法中多諸喜樂,無憂苦住,無災無患無惱無燒,不於當來長夜受苦,不受種種猛利災害,不增血滴,不遊死路,不墮地獄、餓鬼、傍生、阿素洛趣,不受人天生死憂苦。所以者何?由彼有情於其聖慧已能隨覺,已能通達,不於六趣生死輪迴。若諸有情未增聖慧,無能出離正盡苦邊。是故汝等應如是學:我當云何修習聖慧令其增長?我當云何於諸聖慧隨覺通達?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

世尊から私はこう聞きました: 「比丘たちよ、知っておきなさい。一人の最も優れた方がこの世に現れると、無数の生きとし生けるものの聖なる智慧が増し高められるのです。その一人とは、如来・応供・正等覚者です。なぜなら、如来・応供・正等覚者が世に現れると、聖なる智慧を修める教えを説き、生きとし生けるものに聖なる智慧を増すことができるからです。

比丘たちよ、友人や財産や地位を増すことは小さな増加にすぎません。しかし、聖なる智慧を増すことこそ、真に大きな増加なのです。なぜなら、聖なる智慧を増す生きとし生けるものは、現世において多くの喜びを得、憂いや苦しみなく、災いや患い、悩み、苦しみがなく、未来において長く苦しむこともなく、様々な激しい災害を受けず、血の滴りを増やさず、死の道を歩まず、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の世界に堕ちず、人天の生死の苦しみを受けないからです。

それは、その生きとし生けるものが、すでに聖なる智慧を覚り、すでに通達し、六つの生存世界における生死の輪廻を超越したからです。もし聖なる智慧を増していなければ、苦しみの尽きる境地を出離することはできません。ですから、あなたたちはこう学ぶべきです。『私はどのように聖なる智慧を修め、それを増し高めるべきか。私はどのように聖なる智慧を覚り、通達すべきか』と。比丘たちよ、あなたたちはこう学びなさい。」

その時、世尊はこの教えをまとめて、次の偈を説かれました。

「如來若出現, 世間諸有情,
有救有歸依, 皆增長聖慧。
得親友財位, 是名小增長,
若得真聖慧, 是名大增長。
我觀諸世間, 得無上聖慧,
不流轉生死, 定取於涅槃。
彼於現法中, 離苦常安樂,
於當來長夜, 離生死輪迴。
若欲增聖慧, 正盡眾苦邊,
當願佛世尊, 長久住於世。」

如来がこの世に現れるならば、 世の中の生きとし生けるものは、 救いとよりどころを得て、 みな聖なる智慧が増し加わる。

親しい人や財産や地位を得るのは、 これを小さな成長という。 しかし真の聖なる智慧を得るならば、 これを大きな成長という。

私はあらゆる世の中を見渡して、 この上ない聖なる智慧を得た者は、 生死の流れをさまよわず、 必ず悟りの境地に至ることを知る。

その人は現世においても、 苦しみを離れ、常に安らかで幸せである。 また、未来の長い年月においても、 生死の輪廻から離れるのである。

もし聖なる智慧を増し、 苦しみの限りを完全に尽くしたいと願うなら、 どうか目覚めた尊い方が、 長くこの世に留まってくださいますように。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世有一法於生長時,令諸有情愚癡增益、顛倒堅固、垢穢隨增、惡趣成滿,與多眾生為不利益、為不安樂,令諸世間人天大眾,無義無利、增長憂苦。云何一法?所謂邪見。所以者何?由邪見故,令諸有情愚癡增益、顛倒堅固、垢穢隨增、惡趣成滿,與多眾生為不利益、為不安樂,令諸世間人天大眾,無義無利、增長憂苦。如是名為世有一法於生長時,令諸有情愚癡增益,廣說乃至令諸世間人天大眾,無義無利、增長憂苦。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

世尊から、このようにお聞きしました。

「比丘たちよ、知っておきなさい。世の中には一つの法があり、それが育ち広がると、生きとし生けるものの愚かさを増し、誤った見解を強固にし、心の汚れを増やし、悪い世界への道を満たします。そして、多くの人々にとって利益にならず、安らぎをもたらさず、天や人の世の中に無意味と苦しみを増大させます。その一つの法とは何か。それは『邪見』です。なぜなら、邪見によって、生きとし生けるものの愚かさが増し、誤った見解が強固になり、心の汚れが増え、悪い世界への道が満たされるからです。そして、多くの人々にとって利益にならず、安らぎをもたらさず、天や人の世の中に無意味と苦しみを増大させるのです。これが、世の中の一つの法が育ち広がると、生きとし生けるものの愚かさを増し、さらには天や人の世の中に無意味と苦しみを増大させる、ということです。」

その時、世尊はこの意味をまとめて、次のように偈(うた)を説かれました。

「邪見生長時, 令愚癡增益,
及顛倒堅固, 諸垢穢隨增,
成滿諸惡趣, 為無利樂等。
邪見害愚夫, 如火燒眾物。」

邪見がはびこると、 愚かさがさらに増し、

誤った見方が固まって、 あらゆる汚れが積もっていく。

悪い世界を満たし、 幸せや利益を奪う。

邪見は愚かな者を害する―― まるで火がすべてを焼き尽くすように。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世有一法於生長時,令諸有情愚癡損減、顛倒除滅、淨法隨增,脫諸惡趣、善趣成滿,與多眾生為大利益、為大安樂,令諸世間人天大眾,有義有利、增長喜樂。云何一法?所謂正見。所以者何?由正見故,令諸有情愚癡損減、顛倒除滅、淨法隨增,脫諸惡趣、善趣成滿,與多眾生為大利益、為大安樂,令諸世間人天大眾,有義有利、增長喜樂。如是名為世有一法於生長時,令諸有情愚癡損減,廣說乃至令諸世間人天大眾,有義有利、增長喜樂。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:

私は世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知るがよい。世の中に一つの法がある。それが育つとき、あらゆる生き物の無知を減らし、誤った見解を除き、清らかな法を増し、悪い世界から救い出し、良い世界での成就をもたらす。多くの生き物に大きな利益と安らぎを与え、世の中の人間や天人の衆生に、意味あること、利益あること、喜びと安らぎを増やす。その一つの法とは何か。それは正しい見解である。なぜなら、正しい見解によって、あらゆる生き物の無知が減り、誤った見解が除かれ、清らかな法が増し、悪い世界から救い出され、良い世界での成就がもたらされるからだ。多くの生き物に大きな利益と安らぎを与え、世の中の人間や天人の衆生に、意味あること、利益あること、喜びと安らぎを増やすのである。これが世の中の一つの法であり、それが育つとき、あらゆる生き物の無知を減らし、さらに広く説けば、世の中の人間や天人の衆生に、意味あること、利益あること、喜びと安らぎを増やすのである。」

そのとき、世尊はこの意味を要約して、次の偈を説かれました。

「正見生長時, 令愚癡損減,
及顛倒除滅, 諸淨法隨增,
脫惡滿善趣, 為有利樂等。
正見現在前, 速證涅槃樂。」

正見が育つとき、無知は減り、 間違った見解は除かれ、清らかな法が増えていきます。 悪から脱して善い世界に満たされ、利益と安楽を得るのです。 正見が現前すると、速やかに涅槃の安らぎを証得します。

吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!我觀世間無別一法,速疾迴轉,猶如其心。所以者何?是心於境速疾迴轉,世出世間無可為喻,汝等應取如是心相。善取相已,應善思惟;善思惟已,應善觀察;善觀察已,應善安住;善安住已,若不覺有內貪欲纏,汝等復應審諦觀察:我今為有內貪欲纏而不覺耶?我今為無內貪欲纏而不覺耶?

世尊から、このようにお聞きしました。

「比丘たちよ、知るがよい。私はこの世において、心ほど速やかに変化するものを見たことがない。なぜなら、心は対象に向かって瞬時に向き変わるからである。世の中のどんなものも、これに例えられるものはない。あなたがたは、この心のありようをしっかりと捉えなさい。そのありようを捉えたなら、よく考えなさい。よく考えたなら、よく観察しなさい。よく観察したなら、そのまま静かにとどまりなさい。そうして静かにとどまっても、もし自分の中に貪りの束縛があるのに気づかないなら、あなたがたはさらに注意深く観察しなさい。『今、自分の中に貪りの束縛があるのに気づかないのだろうか?』『今、自分の中に貪りの束縛がなくて気づかないのだろうか?』と。」

「審觀察已,復應作意思惟隨一可愛境相。如是作意思惟隨一可愛相時,若心隨順趣向喜樂可愛境相,當知此心隨順諸欲、違背出離。汝等爾時應自覺了:我今猶有內貪欲纏而不能覺,非為無有;我今未斷五欲貪纏,所證與前未有差別;我今猶未證所修果。譬如有人於駛流水,牽重船筏逆上而行,此人爾時多用功力,若暫懈慢便順下流。如是汝等,思惟隨一可愛相時,若心隨順趣向喜樂可愛境相,當知此心隨順諸欲、違背出離。汝等爾時應自覺了:我今猶有內貪欲纏而不能覺,非為無有。我今未斷五欲貪纏,所證與前未有差別;我今猶未證所修果。

よく観察したならば、次に一つの好ましい対象を心に思い浮かべなさい。そのようにして一つの好ましい対象を思い浮かべているとき、もし心が好ましい対象に向かい、それに喜びを感じて従うならば、この心は欲望に従い、離欲に背いていると知りなさい。そのとき、あなたがたは自ら気づきなさい。「私は今、内に貪りの煩悩をまだ抱えており、それに気づいていないわけではない。私はまだ五つの欲望の貪りを断ち切っておらず、得ている境地は以前と変わらない。私はまだ修行の成果を証得していない」と。

たとえば、ある人が激しい流れの中で重い船やいかだを引きながら、流れに逆らって進もうとするようなものである。その人は多くの力を使うが、もし一時でも怠ければ、たちまち流れに押し流されてしまう。同じように、あなたがたが一つの好ましい対象を思い浮かべるとき、もし心が好ましい対象に向かい、それに喜びを感じて従うならば、この心は欲望に従い、離欲に背いていると知りなさい。そのとき、あなたがたは自ら気づきなさい。「私は今、内に貪りの煩悩をまだ抱えており、それに気づいていないわけではない。私はまだ五つの欲望の貪りを断ち切っておらず、得ている境地は以前と変わらない。私はまだ修行の成果を証得していない」と。

「汝等作意思惟隨一可愛相時,若心隨順趣向憙樂出離之相,當知此心隨順出離、違背諸欲。汝等爾時應自覺了:我今無有內貪欲纏,非彼猶有而不能覺;我今已斷五欲貪纏,所證與前已有差別;我今已能證所修果。如以筋羽投置火中,便即焦卷而不舒緩。如是汝等,思惟隨一可愛相時,若心隨順趣向憙樂出離之相,當知此心隨順出離、違背諸欲。汝等爾時應自覺了:我今無有內貪欲纏,非彼猶有而不能覺;我今已斷五欲貪纏,所證與前已有差別;我今已能證所修果。是故汝等應如是學:我當云何善轉自心,令其調伏,違背諸欲,隨順出離?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義,而說頌曰:

「あなた方が、何か一つ愛しいと思う対象に心を向けて考えるとき、もしその心が『離欲』の相に従い、それに趣き、喜び楽しむのであれば、その心は『離欲』に従い、諸々の欲望に背いていると知るべきです。その時、あなた方は自ら悟らなければなりません。『今、私の内には貪りの煩悩はない。まだそれが存在するのに気づいていないわけではない。私はすでに五感の欲望の煩悩を断った。その証は以前とは異なる。私はすでに修行の果報を体得したのだ』と。例えば、筋や羽を火の中に投げ入れれば、すぐに焦げ縮み、広がることがないように。同じように、あなた方が何か一つ愛しいと思う対象に心を向けて考えるとき、もしその心が『離欲』の相に従い、それに趣き、喜び楽しむのであれば、その心は『離欲』に従い、諸々の欲望に背いていると知るべきです。その時、あなた方は自ら悟らなければなりません。『今、私の内には貪りの煩悩はない。まだそれが存在するのに気づいていないわけではない。私はすでに五感の欲望の煩悩を断った。その証は以前とは異なる。私はすでに修行の果報を体得したのだ』と。それゆえ、あなた方はこう学ぶべきです。『私はどのようにして自らの心を善く転じ、調伏し、諸々の欲望に背き、離欲に従わせるべきか』と。比丘たちよ、あなた方はこう学びなさい。」その時、世尊はこの意味をまとめて、次の偈を説かれた。

「無別有一法, 性躁動如心,
難調御難防, 大仙之所說。
譬如有智人, 以火等眾具,
調直於利箭, 令遠有所中。
如是諸苾芻, 應善學方便,
調直於心性, 令速證涅槃。」

心よりも激しく揺れ動くものは、他には存在しない。 心は調え難く、防ぎ難いものである。これは大いなる仙人(仏陀)が説かれたことである。

例えば、賢い人が火などの道具を用いて鋭い矢をまっすぐに整え、遠くの的を射抜くように、 比丘たちもまた、善巧方便をよく学び、心の性を調え直すことで、速やかに涅槃を証するのである。

重攝前經嗢柁南曰:

重ねて先の経をまとめると、次の偈のようになります。

修慈、修二緣 施、犯戒、持戒
二妄、二聖慧 邪見、正見、心

慈しみを修める、二つの縁を修める 施し、戒律を破ること、戒律を守ること

二つの嘘、二つの聖なる智慧 誤った見解、正しい見解、心

本事經卷第二

本事経 巻第二


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2 二法品(三-五)

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