本事經卷第四
本事経 巻第四
大唐三藏法師玄奘奉詔譯
大唐三蔵法師玄奘が勅命を受けて訳しました。
二法品第二之二
第二品 第二節
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻減省睡眠,具念正知,心常安住悅豫清淨,於諸善法善觀時宜而正修習。如是苾芻減省睡眠,具念正知,心常安住悅豫清淨,於諸善法善觀時宜而正修習,於二果中,隨證一果,謂於現法或證有餘依涅槃界,或不還果。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこう聞きました。「比丘たちよ、もし比丘が睡眠を減らし、正しく気をつけて覚り、心が常に喜びと清らかさに安住し、善い教えを実践するのにふさわしい時をよく見極めて正しく修めるなら、このような比丘は、睡眠を減らし、正しく気をつけて覚り、心が常に喜びと清らかさに安住し、善い教えを実践するのにふさわしい時をよく見極めて正しく修めることによって、二つの果報のうち、どちらかの果報を必ず得る。すなわち、現世において煩悩の残りがある涅槃の境地を証するか、あるいは不還果を証するかのいずれかである。」
その時、世尊はこの教えをまとめて、次のように偈を説かれました。
「覺悟能聞法, 修行得勝果,
耽著於睡眠, 都無有所得。
減省睡眠者, 具正念正知,
善安住其心, 常悅豫清淨。
於諸善法中, 知時宜修習,
能究竟超越, 生老病死苦。
是故應勤修, 減省睡眠法,
常委觀寂靜, 得二果無疑。
或斷下分結, 證得不還果;
或斷上分結, 度生老病死。」
悟りを開けば、教えを聞くことができ、 修行によって優れた果報を得られる。 睡眠に耽っていては、 何も得ることはできない。
睡眠を減らす者は、 正しい念いと正しい知識を備え、 心をしっかりと落ち着け、 常に喜びに満ち、清らかである。
様々な善い行いの中で、 時機に合わせて修行に励み、 生・老・病・死の苦しみを 完全に乗り越えることができる。
それゆえ、精進して 睡眠を減らす修行に励むべきである。 常に落ち着きを観察し、 二つの果報を得ることは疑いない。 あるいは下の束縛を断ち切って不還果を得る。 あるいは上の束縛を断ち切り、生・老・病・死を超えるのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻於空閑處,常樂宴坐,勤修內心奢摩他定,不離靜慮,成就明淨毘鉢舍那,守護自心令無散亂,於諸善法修集無厭。如是苾芻於二果中,我說定能隨證一果,謂於現法,或證有餘依涅槃界;或不還果。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊から次のように聞きました。「比丘たちよ、知るがよい。もし比丘が閑静な場所で、常に坐禅を喜び、心の静けさを修行し、瞑想から離れず、明らかな智慧を成就し、自らの心を守って散乱させず、あらゆる善い行いを飽くことなく積み重ねるならば、この比丘は二つの果報のうち、必ず一つを実証すると私は説く。すなわち、現世において煩悩の一部を残す涅槃に達するか、あるいは不還果を得るかのいずれかである。」その時、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次の偈を説かれた。
「樂空閑宴坐, 具正念正知,
善安住其心, 離虛妄分別。
善防護自心, 速斷無明闇,
及諸欲煩惱, 無憂悔歸真。
常寂定其心, 具正念靜慮,
無所執解脫, 永盡諸有貪。
常樂不放逸, 見放逸生怖,
諸見能永斷, 速證般涅槃。」
閑静な場所に座り 正しい気づきと智慧を持ち 心をしっかりと安らかに 虚妄な分別を離れる
自らの心をよく守り 無明の闇を速やかに断ち またさまざまな欲望の悩みも 憂いなく真実に帰る
常に心を静かに定め 正しい気づきと静かな観察を持ち 何も執着せず解脱して すべての存在への執着を尽くす
常に努力を楽しみ 怠りを恐れ すべての見解を永遠に断ち切り 速やかに涅槃を証得する
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若有苾芻無慚、無愧,彼人決定不能通達、不能遍知,不證等覺、不證涅槃、不能證得無上安樂。若有苾芻有慚、有愧,彼人決定能得通達、能得遍知,能證等覺、能證涅槃、能證究竟無上安樂。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は尊き師からこのように聞きました。「比丘たちよ、知るがよい。もし比丘に恥じる心と愧じる心がなければ、その人は必ず真理を悟ることができず、完全に理解することができず、正しい覚りを証せず、涅槃に達することができず、この上ない安楽を獲得することができない。しかし、もし比丘に恥じる心と愧じる心があれば、その人は必ず真理を悟ることができ、完全に理解することができ、正しい覚りを証し、涅槃に達することができ、究極のこの上ない安楽を獲得することができるのである。」
その時、尊き師はこの教えの意味を簡潔にまとめて、次のように偈(うた)を詠まれました。
「無慚無愧者, 懈怠不精進,
多惛沈睡眠, 去結盡為遠。
有慚有愧者, 常無有放逸,
樂靜慮深定, 去涅槃不遙。
彼能斷眾結, 及生老病死,
速證三菩提, 得無上安樂。」
「恥を知らず、恥じる心もない者は、 怠け心に流され、努力を怠る。 いつもぼんやりと眠く、 煩悩をなくす道から遠く離れている。
恥を知り、恥じる心を持つ者は、 決して気を緩めずにいる。 静かな瞑想と深い禅定を楽しみ、 涅槃(ねはん)の成就は遠くない。
その人は、あらゆる煩悩の束を断ち切り、 生・老・病・死を超え、 速やかに悟り(三菩提)を証し、 この上ない安らぎを得る。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!諸出家者,略有二種所應作事。若能正作,得所未得、觸所未觸、證所未證,能超愁歎、能滅憂苦、能觸如理、能得甘露、能證涅槃。云何為二?一者靜慮;二者聽說。云何靜慮?謂諸苾芻遠離諸欲、惡不善法,有尋有伺,離生喜樂,具足安住最初靜慮。尋伺靜息,內淨一趣,無尋無伺,定生喜樂,具足安住第二靜慮。離喜、住捨,正念、正知,身受快樂;眾聖所說,有捨、有念,安住快樂,具足安住第三靜慮。斷苦、斷樂,先滅憂喜;不苦、不樂,捨念清淨,具足安住第四靜慮。云何聽說?謂諸苾芻於佛所說,初、中、後善,文義巧妙,純滿清白梵行之法,所謂契經、應頌、記別、伽他、自說、本事、本生及與方廣、未曾有法,於如是法,受誦聽習令其通利,宣暢解釋,是名聽說。如是名為諸出家者,略有二種所應作事。若能正作,得所未得、觸所未觸、證所未證,能超愁歎、能滅憂苦、能觸如理、能得甘露、能證涅槃。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこのように聞きました。
「修行者たちよ、知るがよい。出家した者には、大まかに言って二つのなすべきことがある。これを正しく行えば、未だ得ざるものを得、未だ触れざるものに触れ、未だ証せざるものを証し、憂い悲しみを超え、苦しみを取り除き、道理に適い、甘露を得、涅槃を証することができる。
その二つとは何か。第一は静慮(瞑想)であり、第二は聴説(教えを聞き説くこと)である。
静慮とは何か。修行者たちが、欲と悪しき不善な法を遠く離れ、粗い思考と細かい思考を伴い、離欲から生じる喜びと楽に満たされ、初めての静慮を具えて安住することである。さらに、粗い思考と細かい思考が静まり、内面が清らかで心が一つになり、粗い思考も細かい思考もなく、禅定から生じる喜びと楽に満たされ、第二の静慮を具えて安住する。さらに、喜びを離れ、捨の心に住み、正しい念と正しい知を保ち、身体で楽を感じる。聖者たちが説く、捨と念を具え、楽に安住する第三の静慮を具えて安住する。さらに、苦も楽も断ち、先に憂いと喜びを滅し、苦でも楽でもなく、捨と念が清らかとなり、第四の静慮を具えて安住する。
聴説とは何か。修行者たちが、仏の説かれた教え——その初めも中も終わりも善く、文章と意味が巧みで、清らかで完全な修行の法——すなわち、経典、韻文、授記、偈、自説、因縁話、本生譚、さらには方広、未曽有法を、受け取り、暗誦し、聴聞し、学習し、自由自在にし、広く説き明かすことである。これを聴説という。
このように、出家した者には、大まかに言って二つのなすべきことがある。これを正しく行えば、未だ得ざるものを得、未だ触れざるものに触れ、未だ証せざるものを証し、憂い悲しみを超え、苦しみを取り除き、道理に適い、甘露を得、涅槃を証することができるのである。」
その時、世尊はこの教えを簡潔にまとめて、次のような偈を説かれた。
(偈は割愛させていただきます)
「出家有二種, 正所應作事,
謂靜慮、聽說, 速證於涅槃。
靜慮慧為因, 慧必由靜慮,
有靜慮有慧, 速證於涅槃。
百千瘂羊僧, 無慧修靜慮,
設經百千歲, 無一得涅槃。
勤修智慧人, 樂聽法說法,
歛念須臾頃, 能速證涅槃。」
「出家には二つの、まさに行うべきことがある。 それは静慮(瞑想)と聴聞(教えを聞くこと)である。これらにより、速やかに涅槃を証する。
静慮の根本は智慧であり、智慧は必ず静慮によって生じる。 静慮と智慧を共に備えた者は、速やかに涅槃を証する。
たとえ何百、何千の無知な修行者たちが、智慧なくして静慮を修めても 何百年、何千年を経ようとも、一人として涅槃を得ることはない。
智慧を精進して修める人は、法を聞き、法を説くことを喜び、 わずかな瞬間でも心を集中すれば、速やかに涅槃を証することができる。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!尋求有二,更無第三。云何為二?謂聖尋求、非聖尋求。云何名為非聖尋求?謂有一類,已有老法,尋求老法;已有病法,尋求病法;已有死法,尋求死法;已有愁法,尋求愁法;已有染法,尋求染法。云何老法?所謂妻子、奴婢、僕使,象馬、牛羊、鷄猪、田宅,金銀財穀是名老法。如是老法,是諸有情生死苦本。愚夫異生,於此守護染愛耽著,由此不能解脫生死,故名老法。云何病法?所謂妻子、奴婢、僕使,廣說乃至由此不能解脫生死,故名病法。云何死法?所謂妻子、奴婢、僕使,廣說乃至由此不能解脫生死,故名死法。云何愁法?所謂妻子、奴婢、僕使,廣說乃至由此不能解脫生死,故名愁法。云何染法?所謂妻子、奴婢、僕使,象馬、牛羊、鷄猪、田宅,金銀財穀是名染法。如是染法,是諸有情生死苦本。愚夫異生,於此守護染愛耽著,由此不能解脫生死,故名染法。若有於此愛樂尋求,當知是名非聖尋求;如是尋求,如來終不稱揚讚歎,唯勸導之,令知捨離。何緣如是非聖尋求,如來終不稱揚讚歎,唯勸導之,令知捨離?由此尋求非賢聖法,非能出離、非趣涅槃、非厭非離、非滅非靜、非得通慧、非成等覺、非證涅槃;由此尋求,能引一切生、老、病、死、愁、歎、憂、苦、諸熱惱法。是故如是非聖尋求,如來終不稱揚讚歎,唯勸導之,令知捨離。
私は世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。求めには二種類あり、第三のものはない。その二つとは何か。聖なる求めと、聖ならざる求めである。
では、聖ならざる求めとは何か。ある者は、すでに老いの性質を抱えていながら、さらに老いの性質を求める。すでに病の性質を抱えていながら、病の性質を求める。すでに死の性質を抱えていながら、死の性質を求める。すでに憂いの性質を抱えていながら、憂いの性質を求める。すでに煩悩の性質を抱えていながら、煩悩の性質を求める。
老いの性質とは何か。それは、妻や子、奴婢や召使い、象や馬、牛や羊、鶏や豚、田畑や家屋、金銀や穀物などの財産である。これらを老いの性質という。この老いの性質こそ、あらゆる生きとし生けるものにとって、生死の苦しみの根本である。愚かな凡夫たちは、これらを守り、執着し、愛着し、耽溺する。そのために生死から解脱することができない。ゆえに老いの性質という。
病の性質とは何か。同様に、妻や子、奴婢や召使いなどであり、それらによって生死を解脱できないことから、病の性質という。 死の性質も、憂いの性質も、同じように説かれる。
煩悩の性質とは何か。それは、妻や子、奴婢や召使い、象や馬、牛や羊、鶏や豚、田畑や家屋、金銀や穀物などの財産である。これらを煩悩の性質という。この煩悩の性質こそ、あらゆる生きとし生けるものにとって、生死の苦しみの根本である。愚かな凡夫たちは、これらを守り、執着し、愛着し、耽溺する。そのために生死から解脱することができない。ゆえに煩悩の性質という。
もし人がこれらを愛好し、求めるとすれば、それは聖ならざる求めと呼ばれる。このような求めを、如来は決して褒めたたえたり、称賛したりはしない。ただ、それを手放すよう勧めるのみである。
なぜ如来は、この聖ならざる求めを、決して褒めたたえず、ただ手放すよう勧めるのか。この求めは、聖者の道に適わず、解脱へと導かず、涅槃に向かわず、厭離せず、滅せず、寂静ならず、智慧を得ず、悟りを成就せず、涅槃を証得しないからである。この求めは、あらゆる生・老・病・死・愁・嘆・苦・悩といった熱苦の法を引き寄せる。ゆえに、この聖ならざる求めを、如来は決して褒めたたえず、ただ手放すよう勧めるのである。」
「云何名為是聖尋求?謂有一類已有老法,能自了知我有老法,能如實知老法過患,尋求畢竟無老無上安樂涅槃。已有病法,能自了知我有病法,能如實知病法過患,尋求畢竟無病無上安樂涅槃。已有死法,能自了知我有死法,能如實知死法過患,尋求畢竟無死無上安樂涅槃。已有愁法,能自了知我有愁法,能如實知愁法過患,尋求畢竟無愁無上安樂涅槃。已有染法,能自了知我有染法,能如實知染法過患,尋求畢竟無染無上安樂涅槃。如是名為是聖尋求。如是尋求,一切如來稱揚讚歎。何緣如是是聖尋求,一切如來稱揚讚歎?由此尋求是賢聖法,能永出離、能趣涅槃、能厭能離、能滅能靜、能得通慧、能成等覺、能證涅槃。由此尋求,能超一切生、老、病、死、愁、歎、憂、苦,生死熱惱。是故如是是聖尋求,一切如來稱揚讚歎。如是名為尋求有二,更無第三。是故汝等應如是學:我當云何遠離如是非聖尋求,修行如是是聖尋求?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「では、聖なる求めとは何か。ある者は、すでに老いというものがあることを知り、『私には老いがある』と自ら理解し、老いの過ちをあるがままに知って、最終的に老いのない、最高の安らぎである涅槃を求める。すでに病というものがあることを知り、『私には病がある』と自ら理解し、病の過ちをあるがままに知って、最終的に病のない、最高の安らぎである涅槃を求める。すでに死というものがあることを知り、『私には死がある』と自ら理解し、死の過ちをあるがままに知って、最終的に死のない、最高の安らぎである涅槃を求める。すでに愁いというものがあることを知り、『私には愁いがある』と自ら理解し、愁いの過ちをあるがままに知って、最終的に愁いのない、最高の安らぎである涅槃を求める。すでに汚れというものがあることを知り、『私には汚れがある』と自ら理解し、汚れの過ちをあるがままに知って、最終的に汚れのない、最高の安らぎである涅槃を求める。これを聖なる求めという。この求めを、すべての如来は称賛する。なぜ、この求めが聖なる求めとして、すべての如来に称賛されるのか。この求めは聖者の道であり、永遠に迷いから出離し、涅槃に向かい、厭離し、消滅し、静まり、慧を獲得し、悟りを成就し、涅槃を証するからである。この求めによって、すべての生、老、病、死、愁い、嘆き、憂い、苦しみという生死の苦悩を超えることができる。それゆえ、この求めは聖なる求めとして、すべての如来に称賛されるのである。このように、求めには二つあり、第三は存在しない。だからこそ、あなたがたはこう学ぶべきである。『どうすれば、このような非聖なる求めを離れ、この聖なる求めを修行できるだろうか』と。比丘たちよ、あなたがたはこう学びなさい。」
その時、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次のように偈を説かれた。
「一切有情類, 有二種尋求,
更無有第三, 謂聖與非聖。
不知老病死、 愁染法過患,
希求深愛著, 名非聖尋求;
此增長眾苦, 出離未為期,
從生復至生, 或高或下趣。
善知老病死、 愁染法過患,
希求彼寂滅, 名真聖尋求;
此損減眾苦, 速證於涅槃,
永安樂清涼, 常無漏無怖。
彼非聖尋求, 諸佛所呵毀,
是生死根本, 智者當遠離。
此真聖尋求, 諸佛所稱讚,
是趣涅槃道, 有智者應修。」
「生きとし生けるものには、 二つの求めがあるのみで、 第三のものは決してない。 すなわち、聖者の求めと、そうでない者の求めである。
老い、病、死、そして 憂いや染まりのわざわいを知らず、 それらを深く望み執着する—— これを、聖者ならざる求めという。
これは苦しみを増し、 出離の時は訪れず、 生まれ変わりを繰り返し、 高い所や低い所へと落ちていく。
老い、病、死、そして 憂いや染まりのわざわいをよく知り、 それらの消え去ることを求める—— これを、真の聖者の求めという。
これは苦しみを減らし、 すみやかに涅槃を実証する。 常に安らかで清らか、 煩わしさも恐れもない。
聖者ならざるその求めは、 あらゆる仏が嘆き嫌うところ、 生死の根本であり、 賢者は遠く離れるべきである。
この真の聖者の求めは、 あらゆる仏が称賛するところ、 涅槃に至る道であり、 賢者はこれを修行すべきである。」
重攝前經嗢柁南曰:
重ねて先の経をまとめると、次の偈のようになります。
為通達、律儀 厭、知、不淨、界
纏、覺悟、宴坐 愧、所作、尋求
悟りに至り、戒律を保つために 厭離(おんり)し、知り、不浄を観じ、界(かい)を観じる 煩悩にまとわりつかれず、目覚めるために 座禅を組む 慚愧(ざんぎ)の心を持ち、なすべきことを行い、求道する
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!略有二種白淨善法,能護世間。云何為二?謂慚與愧。若無此二白淨善法,世間有情皆成穢雜,猶如牛羊、鷄猪、狗等,不識父母、兄弟、姊妹,不識軌範、親教、導師、似導師等。由有此二白淨善法,世間有情離諸穢雜,非如牛羊、鷄猪、狗等,了知父母、兄弟、姊妹,了知軌範、親教、導師、似導師等。是故汝等應如是學:我當云何成就如是二種最勝第一慚愧白淨善法?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのような教えを聞きました。 「比丘たちよ、知っておきなさい。大きく分けて二つの清らかな善い法があり、それが世の中を守っています。その二つとは何か?それは「慚(はじ)」と「愧(はずかしさ)」です。もしこの二つの清らかな善い法がなかったなら、世の人々はみな汚れにまみれ、牛や羊、鶏、豚、犬などのように、父母や兄弟姉妹を知らず、模範となる師や親教師、導師、師に準ずる人々も知らないでしょう。この二つの清らかな善い法があるからこそ、世の人々は汚れを離れ、牛や羊、鶏、豚、犬などのようではなく、父母や兄弟姉妹を知り、模範となる師や親教師、導師、師に準ずる人々も知るのです。それゆえ、あなたたちはこう学ぶべきです。『私はどうすれば、この最も優れた二つの清らかな善い法、すなわち慚と愧を成就できるだろうか』と。比丘たちよ、あなたたちはこう学びなさい。」 その時、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次の偈を説かれました。
「二白淨善法, 能護諸世間,
令不失人天, 謂慚及與愧。
若無此二法, 都不識尊卑,
穢雜似牛羊、 鷄猪狗等類。
由有此二法, 能了別尊卑,
非如牛羊等, 行諸雜穢事。
諸有智慧人, 成就二白法,
常守人天趣, 終不墮三塗。」
「この世には、清らかな二つの白い善法があり、 世の中のすべてを守っている。 それが「慚(はじ)」と「愧(はずかしさ)」であり、 これがあるからこそ、人は天や人の世界から落ちずにいられる。
もしこの二つの法がなかったならば、 誰も目上の人を敬うことを知らず、 牛や羊、鶏や犬などと変わらない、 汚れた生き方になってしまうだろう。
しかしながら、この二つの法があるからこそ、 人は尊い者とそうでない者を区別でき、 牛や羊のように汚らわしい行いをすることはない。
智慧ある人はみな、この二つの白い清らかな法を身につけ、 常に人や天という善い境遇を守り、 決して地獄や餓鬼、畜生の世界に堕ちることはないのである。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!我為如來、應、正等覺,未成佛時居菩薩位,多分安住二種尋思。云何為二?一者如來居菩薩位,多分安住不害尋思欣喜悅樂。如是安住不害尋思欣喜悅樂,是名第一多分尋思。由住如是修習行迹,於諸有情都無損害,由此尋思,證得無量圓滿梵住。二者如來居菩薩位,多分安住永斷尋思欣喜悅樂。如是安住永斷尋思欣喜悅樂,是名第二多分尋思。由住如是修習行迹,於不善法能正永斷,由此尋思,證得善根圓滿勝道。我於爾時,安住如是二種尋思,精進勇猛,乃至自身一切血肉,悉皆枯竭,唯餘身肉骨筋皮纏裹,亦不放逸,乃至未知、未見、未得、未解、未證,所應知、見、得、解、證法,於其中間住不放逸,精進勇猛,曾無懈廢。由不放逸,精進勇猛無懈廢故,速證無上正等菩提,速證無上清涼涅槃,速證無上一切智見。是故汝等應如是學:我當云何安住不害欣喜悅樂多分尋思、安住永斷欣喜悅樂多分尋思?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。私は如来、応供、正等覚者として、未だ仏陀となる前の菩薩の位にあった時、多くの場合、二つの種類の思念に安住していた。その二つとは何か。第一に、如来が菩薩の位にあった時、多くの場合、害さないという思念に安住し、喜びと楽しみを味わっていた。このように害さないという思念に安住し、喜びと楽しみを味わうこと、これを第一の多くの場合の思念と名付ける。このような修行の道に安住することによって、全ての生きとし生けるものに対して何の害も加えず、この思念によって、量り知れない完全な清らかな境地を証得した。
第二に、如来が菩薩の位にあった時、多くの場合、完全に断ち切るという思念に安住し、喜びと楽しみを味わっていた。このように完全に断ち切るという思念に安住し、喜びと楽しみを味わうこと、これを第二の多くの場合の思念と名付ける。このような修行の道に安住することによって、不善の法を正しく完全に断ち切り、この思念によって、善根の完全な勝れた道を証得した。
私はその時、この二つの思念に安住し、精進し勇猛に励んだ。たとえ自身の全ての血肉が枯れ尽きて、ただ身の肉や骨や筋や皮のみが残っても、決して怠ることなく、まだ知るべきこと、見るべきこと、得るべきこと、解くべきこと、証すべきことを知らず、見ず、得ず、解せず、証さない間は、その間にあって怠ることなく、精進し勇猛に励み、決して懈ることはなかった。
怠ることなく、精進し勇猛に励み、懈ることがなかったがゆえに、速やかに無上の正等菩提を証得し、速やかに無上の清らかな涅槃を証得し、速やかに無上の一切智見を証得した。
それゆえ、あなたがたはこのように学ぶべきである。『私はどのようにして、害さないという喜びと楽しみの思念に多く安住し、完全に断ち切るという喜びと楽しみの思念に多く安住すべきであろうか。』と。比丘たちよ、あなたがたはこのように学びなさい。」
その時、世尊はこの意味を改めてまとめて、次の偈を説かれた。
「佛為菩薩時, 多安住二法,
謂不害、永斷, 欣喜悅樂思。
不害諸有情, 修慈悲喜捨,
證無量梵住, 圓滿不為難。
永斷不善法, 一切煩惱纏,
證得諸善根, 圓滿殊勝道。
常精進勇猛, 無放逸而住,
證無上菩提, 清涼涅槃等。」
仏が菩薩であったとき、 二つの法によく安住していました。 それは「害さないこと」と「煩悩を断ち切ること」であり、 それによって喜びと安らぎの思いを得ていました。
生きとし生けるものを害さず、 慈しみ・哀れみ・喜び・心の平静を修め、 限りない清らかな境地を体得し、 それを円満にすることは難しいことではありません。
悪しき行いや、 あらゆる煩悩の絡まりを断ち切り、 すべての善い根性を証得し、 優れた道を円満にします。
常に精進し勇猛であって、 怠りなく安住し、 この上ない悟りと、 清らかな涅槃などを証得するのです。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!諸婆羅門、長者、居士、剎帝利等,多有所作,謂施汝等如法衣服、飲食、臥具、病緣醫藥、房舍資具。汝等苾芻,多有所作,謂能為彼宣說正法,初、中、後善,文義巧妙,純滿清白梵行之法。由此俱能解脫生法、老病死法、愁歎憂苦熱惱之法。汝等與彼力輪、法輪,展轉相依,於如來所,勤修梵行,速至無上般涅槃城。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知るがよい。バラモン、長者、在家の信者、王族などは多くの働きをなしている。すなわち、あなたがたに法にかなった衣服、飲食物、寝具、病気の際の薬や医術、住まいや道具を施している。また、あなたがた比丘も多くの働きをなしている。すなわち、彼らのために正しい教えを説き、その教えは初めも中も終わりも善く、文と義は巧みで、清らかで完全な、純粋な梵行の法である。このようにして、両者はともに生まれること、老いや病や死、悲しみ、嘆き、苦しみ、悩みや熱悩から解脱することができる。あなたがたと彼らとは、力の輪と法の輪とを互いに支え合いながら、如来のもとで熱心に梵行を修行し、速やかに無上の涅槃の城へと至るのである。」
そのとき、世尊はこの意味をまとめて、次のように偈を説かれた。
「出家與居家, 展轉互相依,
由力、法二輪, 速至涅槃樂。
出家依在俗, 得如法資具,
在俗依出家, 獲微妙正法。
二眾互相依, 受人天快樂,
度生老病死, 至清涼涅槃。」
出家した人と在家の人は、互いに支え合いながら生きています。 力の輪と法の輪という二つの輪によって、速やかに涅槃の安らぎに至ります。 出家した人は在家の人に頼って、正しい生活に必要なものを得ます。 在家の人は出家した人に頼って、すばらしい正しい教えを得ます。 この二つの集まりが互いに支え合うことで、人や天の幸せを味わい、 生・老・病・死を超えて、清らかな涅槃へと至るのです。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!依住尸羅,能修二法。云何為二?謂奢摩他、毘鉢舍那。謂修行者,依住尸羅修奢摩他,既修如是奢摩他已,修心令滿。為何事故修習其心?修習心者,為斷貪故。諸修行者,依住尸羅,精勤修習毘鉢舍那,既修如是毘鉢舍那已,修慧令滿。為何事故修習其慧?修習慧者,為斷癡故。貪染污心令不解脫、癡染污慧令不明照。若永離貪,心善解脫;若永離癡,慧善解脫。若於如是二種解脫,已能正知、見、得、觸、證,我說彼為心善解脫、慧善解脫,獨一修習最上丈夫。諸聖弟子正證如是心解脫者,若他罵詈、訶責、輕弄、毀辱等時,不由此緣發生種種不忍、不信、害恨等心。所以者何?以能照見他罵詈等,於彼有罪、於己無損。諸聖弟子正證如是心解脫者,若他讚美、恭敬、禮拜、供養等時,不由此緣發生種種歡喜、踊躍、悅豫等心。所以者何?以能照見他讚美等,於彼有福、於己無益。若能如是,名於世法得心平等,無慼無欣,安隱自在。是故汝等應如是學:我當云何依住尸羅,修奢摩他、毘鉢舍那?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知っておきなさい。戒律に基づいて住し、二つの法を修めることができる。その二つとは何か。すなわち、奢摩他(静寂)と毘鉢舍那(観察)である。修行者は、戒律に基づいて奢摩他を修め、その奢摩他を修めたならば、心を修めて満たすのである。なぜ心を修めるのか。心を修めるのは、貪りを断つためである。修行者は、戒律に基づいて、精進して毘鉢舍那を修める。その毘鉢舍那を修めたならば、智慧を修めて満たすのである。なぜ智慧を修めるのか。智慧を修めるのは、無知を断つためである。貪りは心を汚し、解脱させない。無知は智慧を汚し、明らかに照らさない。もし貪りを永遠に離れれば、心はよく解脱する。もし無知を永遠に離れれば、智慧はよく解脱する。この二つの解脱を、正しく知り、見、得、触れ、体得したならば、私はその人を『心がよく解脱し、智慧がよく解脱した、独一に修習する最上の丈夫』と説く。
聖なる弟子たちがこの心の解脱を正しく体得したならば、たとえ他人に罵られ、叱責され、嘲られ、侮辱されても、その因縁によって、様々な忍耐のない心、信のない心、害する恨みの心などを起こさない。なぜなら、他人の罵りなどを、はっきりと見通すからである。それらは相手に罪をもたらすが、自分には損がないと知るからである。
聖なる弟子たちがこの心の解脱を正しく体得したならば、たとえ他人から称賛され、尊敬され、礼拝され、供養されても、その因縁によって、様々な喜び、踊り上がる心、悦楽の心などを起こさない。なぜなら、他人の称賛などを、はっきりと見通すからである。それらは相手に福徳をもたらすが、自分には利益がないと知るからである。
このようにできて、初めて『世間の法に対して心が平等であり、憂いもなく、喜びもなく、安穏で自在である』と言うのである。
だからこそ、あなたがたは、このように学ぶべきである。『我々はどのようにして戒律に基づいて住し、奢摩他と毘鉢舍那を修めるべきか』と。比丘たちよ、このように学びなさい。」
その時、世尊はこの教えを要約して、偈を説かれた。
(以下、偈の原文が続くと想定される箇所)
「依住淨尸羅, 修無罪止、觀,
密護根及意, 證甘露涅槃。
修止令心調, 心調離貪欲,
離欲證解脫, 證解脫心平。
修觀令慧明, 慧明滅癡闇,
滅闇證解脫, 證解心平等。
故汝等苾芻, 精進勿放逸,
常依住尸羅, 修無罪止、觀。」
戒律を清らかに守り、 罪なき「止(し)・観(かん)」を修めよ。 感覚と心をしっかり守り、 甘露の涅槃を証(あかし)せよ。 「止」を修めて心を調え、 心調えば貪りの欲を離れ、 貪欲を離れて解脱を証し、 解脱を証して心は平らかとなる。 「観」を修めて智慧を明らかにし、 智慧が明らかになれば無明の闇は滅び、 闇が滅びて解脱を証し、 解脱を証して心は平等となる。 ゆえに、あなたがた僧よ、 精進して油断することなく、 常に戒律に依り住し、 罪なき「止・観」を修めなさい。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!修學勝利,於如來所修行梵行:慧為上首,解脫堅固,念最尊勝。若有成就修學勝利,於如來所修行梵行:慧為上首,解脫堅固,念最尊勝。彼終不為味著色貪纏擾其心,亦復不為味著聲、香、味、觸、法貪纏擾其心。心不為貪所纏擾故,無隨味著色相貌識,無隨味著聲、香、味、觸、法相貌識。於二果中,隨證一果,謂於現法,證有餘依般涅槃界,或不還果。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊からこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知るがよい。修行の勝利を得て、如来のもとで清らかな行いを修めることには、智慧が最も大切であり、解脱が確固たるものとなり、念(気づき)が最も尊ばれる。
もしある者が修行の勝利を得て、如来のもとで清らかな行いを修め、智慧を最も大切にし、解脱を確固たるものとし、念を最も尊ぶならば、その者の心は、決して色への執着という貪りに絡め取られず、また、声・香り・味・触・法への執着という貪りにも絡め取られることはない。
心が貪りに絡め取られないがゆえに、色の姿に執着する識(認識)もなく、声・香り・味・触・法の姿に執着する識もない。
その者は、二つの果報のうちの一つを必ず体得する。すなわち、現世において煩悩の残りがある般涅槃(有余涅槃)を証するか、あるいは不還果(あらゆる欲界の煩悩を断ち切った境位)を得るかのいずれかである。」
その時、世尊はこの意味を改めてまとめて、次のように詩で説かれた。
(以下は偈文のため、ここでは省略)
「修學勝利人, 依佛修梵行,
慧為其上首, 及解脫堅牢,
念最居尊勝, 二果隨證一,
謂現法涅槃, 及永不還果。
由慧為上首, 貪不擾其心,
無隨色等緣, 相貌所生識。
學勝利圓滿, 生勝定上慧,
盡生老死邊, 證有餘依界。
故汝等苾芻, 應勤修戒定,
生微妙勝慧, 盡生老病死。
住我法律中, 能無放逸者,
定壞魔軍力, 永盡眾苦邊。」
修行に励み勝利を得る人は、 仏に従い清らかな行いを修めます。 智慧を最も大切なものとし、 そして確かな解脱を目指します。 心の落ち着きが最も尊く勝れており、 二つの果報のうち一つを得ます。 それは現世での涅槃、 あるいは再び還ってこない境地です。 智慧を最上のものとするので、 貪りの心に乱されることはありません。 色などの対象に心が奪われ、 それによる形のある認識が生じることもありません。 学びの勝利が円満し、 優れた定と智慧が生まれます。 生・老・死の果てを尽くし、 煩いの残る世界にいる境地を体得します。 ゆえに、あなたがた修行者たちよ、 戒めと心の統一に励みなさい。 微妙な勝れた智慧を生み、 生・老・病・死を尽くしなさい。 私の教えと戒律の中にあって、 怠ることなく努める者は、 必ず悪魔の力を打ち砕き、 あらゆる苦しみの果てを永遠に尽くすのです。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!一切世間惡不善法,皆以無明為其前導而得生長;以無慚愧為其後助而不損減。所以者何?諸趣有生,生老病死、愁歎憂苦熱惱等法,一切皆用無明為根而得生長。既生長已,依之復能生起一切惡不善法。惡法既生,由無慚愧,都無悔變。無悔變故而不損減。一切世間善清淨法,皆以慧明為其前導而得生長;以慚與愧,為其後助而不損減。所以者何?明處其前,慚愧為後,能永斷滅諸趣有生生老病死、能超一切愁歎憂苦熱惱等法,能觸如理、能得甘露、能證涅槃。是故汝等應如是學:我當云何永斷無明,發起慧明,永斷一切諸趣有生生老病死,永超一切愁歎憂苦熱惱等法,觸於如理、得於甘露、證於涅槃?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊からこのように聞いた。「比丘たちよ、知るがよい。世の中のあらゆる悪しき不善の法は、すべて無明を先導として生じ成長する。そして、無慚・無愧を後ろ盾として、減り損なわれることがない。なぜかというと、あらゆる生存の境涯における誕生、老い、病、死、嘆き、悲しみ、苦しみ、悩み、煩わしさといった法は、すべて無明を根本として生じ成長するからである。それらが生じ成長したならば、それに依ってさらにあらゆる悪しき不善の法を生じさせる。悪しき法が生じれば、無慚・無愧によって、まったく悔い改めることがない。悔い改めがないために、悪法は減り損なわれることがない。
また、世の中のあらゆる善く清らかな法は、慧明を先導として生じ成長する。そして、慚と愧を後ろ盾として、減り損なわれることがない。なぜかというと、明が先立ち、慚愧が後ろにあれば、あらゆる生存の境涯における誕生、老い、病、死を永遠に断ち滅ぼし、あらゆる嘆き、悲しみ、苦しみ、悩み、煩わしさといった法を超越し、如理に触れ、甘露を得て、涅槃を証することができるからである。
ゆえに、あなたたちはこう学ぶべきである。『どのようにして私は、無明を永遠に断ち、慧明を起こし、あらゆる生存の境涯における誕生、老い、病、死を永遠に断ち、あらゆる嘆き、悲しみ、苦しみ、悩み、煩わしさといった法を永遠に超越し、如理に触れ、甘露を得て、涅槃を証するのだろうか。』と。比丘たちよ、このように学びなさい。」
その時、世尊はこの意味を再びまとめて、次の偈を説かれた。
「此世及後生, 生老病死等,
貪愛等煩惱, 皆無明為根。
無明為大愚, 令久處生死,
此世與他世, 高下趣往還。
最初有無明, 最後無慚愧,
生長諸惡法, 墮眾惡趣中。
故應勤精進, 離貪愛愚癡,
發起智慧明, 斷生死苦本。」
「この世でも、死後の生でも、 生・老・病・死などや、 むさぼりや愛などの悩みも、 すべて無明を根としている。
無明は大いなる愚かさであり、 人を長く生死に留まらせ、 この世とあの世との間を、 高い所や低い所へ行き来させる。
最初には無明があり、 最後には恥じる心もなく、 さまざまな悪い法を育て、 多くの悪い世界に落ちていく。
それゆえ、怠らずに努め、 むさぼりや愛、愚かさを離れ、 智慧の明るさを起こして、 生死の苦しみの根本を断ち切るべきである。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!一切如來、應、正等覺,憐愍世間出興於世,為欲永斷、除捨二法,轉於賢聖無上法輪。一切世間,所有沙門或婆羅門、天、魔、梵等,曾未有能如法轉者。云何二法?一者無明;二者有愛。一切如來、應、正等覺,憐愍世間出興於世,皆為永斷、除捨此二,轉於賢聖無上法輪,廣說乃至曾未有能如法轉者。若能永斷、除捨一切所有無明及諸有愛,令其永盡無有遺餘,便能永斷一切煩惱諸雜染法。是則名為出諸坑塹、越諸垣牆、破諸關鍵、摧伊師迦,是真賢聖,是正法幢、是大沙門、是婆羅門、是真聰慧、是真沐浴、是真智者、是真調順至調順地,名世福田。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、こう聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。すべての如来、応供、正等覚者は、世の中を哀れんでこの世に現れ、ただ二つのものを完全に断ち除くために、聖なる最高の法輪を転ずるのだ。この世のすべての修行者やバラモン、天、悪魔、梵天などでさえ、これまで誰も、そのように法を正しく転じた者はいない。その二つとは何か。第一は無明、第二は有愛である。すべての如来たちは、世の中を憐れんでこの世に現れ、ただこの二つを完全に断ち除くために、聖なる最高の法輪を転ずるのだ。さらに詳しく言えば、これまで誰も、そのように法を正しく転じた者はいない。もし、すべての無明と有愛を完全に断ち除き、残りなく尽くしてしまえば、あらゆる煩悩や雑染の法を完全に断つことができる。これを、『塹を越え、垣根を越え、かんぬきを破り、伊師迦の木を倒した者』と呼ぶ。真の聖者であり、正しい法の幢であり、大いなる沙門であり、真のバラモンであり、真の知恵者であり、真に沐浴した者であり、真の智者であり、真に調伏され、調伏の境地に至った者であり、世の中の福田と呼ばれるのだ。」
その時、世尊はこの教えの要点をまとめて、次の詩を唱えられた。
「無上正等覺, 商主世間尊,
大雄大丈夫, 拔眾毒箭者,
哀愍諸世間, 為斷除二法,
謂無明、有愛, 轉無上法輪。
是苦是苦因, 是眾苦永滅,
是八支聖道, 趣滅苦涅槃。
智者聞斯法, 信解等堅牢,
達諸法正真, 斷無明、有愛。
無明、有愛除, 諸雜染皆滅,
至善調順地, 名世良福田。」
「この世の最高の悟りを開いた方、 世の人々を導く師であり、この世で最も尊い方。
大いなる勇者、すぐれた人、 すべての人の苦しみの矢を抜き取る方。
世の中のすべての生きとし生けるものを哀れみ、 二つのもの―無明(むみょう:迷い)と、存在への執着(うあい)―を断ち切るために、 この上ない教えの車輪(法輪)を回し給うた。
これが苦しみであり、 これが苦しみの原因であり、 これが苦しみの完全な消滅であり、 これが苦しみの消滅へと至る八つの正しい道(八支聖道:はっしせいどう)である。
智慧ある人はこの教えを聞き、 信心と理解がしっかりと固く、 すべてのものごとの真実に達し、 無明と存在への執着を断ち切る。
無明と存在への執着が除かれれば、 あらゆる煩悩(ぼんのう:心の汚れ)はすべて消え去る。 見事に調えられ、心のままになった境地に至る人を、 この世の真の「良き福田(ふくでん:功徳を育てる田んぼ)」と呼ぶのである。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二苦事最為難忍:一、剃鬚髮;二、常乞求。所以者何?世間怨嫌興呪詛者,作是願言:『願彼貧窮,剃除鬚髮,服故弊衣,手持瓦器,從家至家行乞自活。』諸有淨信善男子等,受持此法而出家者,非為王、賊、債主怖畏之所逼切,非恐不活而捨居家,但為超度生老病死、愁歎憂苦熱惱等法,但為滅除純大苦蘊。我諸弟子,求如是事,正信出家,為利自他,受持此法。或有如是而出家已,未經幾時則便寬慢,放逸懈怠、下劣精進,亡失正念,無有正知,心亂不定,縱任諸根多欲貪著,心懷瞋忿,愚鈍無知,耽染諸欲虛妄思惟,毀諸禁戒。實非沙門自稱沙門,實非梵行自稱梵行,內朽順流,如穢蝸螺,貝音狗行,覆藏己惡,詐現自善,成就種種惡不善法。譬如有人從闇入闇、從坑墮坑、從怨至怨,我說如是癡出家人,亦復如是。又如有木,兩頭火燃,中塗糞穢,若在聚落及與空閑,皆無復用。我說如是癡出家人亦復如是,失在家法,復非沙門,世出世間皆無勝分。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊より、私はこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。世の中には二つの苦しみがあり、それは最も耐え難いものである。一つは、髪やひげを剃ること。もう一つは、常に托鉢して歩くことである。なぜなら、世の中の怨みや憎しみを持つ人々が呪いをかけるとき、こう願うからだ。『どうかあの貧しい者が、髪やひげを剃り、ぼろぼろの古い衣をまとい、土の器を手にして、家々を回りながら托鉢して生きていけますように。』しかし、清らかな信心を持つ善き人々が、この教えを受けて出家するのは、王様や盗賊や借金の取り立てに脅かされて、やむを得ずというのではなく、生きていけなくて家を捨てるのでもない。ただ、生・老・病・死、そして嘆き・悲しみ・苦しみ・悩み・熱惱などの苦しみを超え、この大きな苦しみの集まりを滅ぼすためなのだ。わたしの弟子たちは、このような目的を求めて、清らかな信心で出家し、自他のためにこの教えを受持する。ところが、こうして出家した者の中には、間もなく心が緩み、怠け、努力を怠り、心を正しく保つことを忘れ、正しい気づきもなく、心は落ち着かず、放蕩して感覚にふけり、多くを欲し貪り、怒りを抱き、愚かで無知となり、様々な欲望に染まり、虚妄な思いにふけり、戒律を破ってしまう者がいる。彼らは本当の修行者でもないのに、自ら修行者と称し、本当の清らかな行いもないのに、自ら清らかな行いをしていると称する。内部は腐り、流れに従い、まるで汚れた巻き貝のようだ。貝のような声で吠えながら、自分の悪を隠し、善人のふりをして、様々な悪い行いを積み重ねる。例えば、ある人が暗闇から暗闇へと入り、穴から穴へと落ち、怨みから怨みへと向かうようなものだ。わたしは、愚かな出家者もまた、このようであると言う。さらにまた、一本の木の両端が燃え、真ん中に糞尿が塗られているならば、村にあっても、人里離れた場所にあっても、もう使い道はない。わたしは、愚かな出家者もまた、このようであると言う。在家の善も失い、また出家の善もなく、世間と出世間のどちらにも、何の価値もないのである。」 この時、世尊はこの教えの要点をまとめて、次の偈を説かれました。
「出家而破戒, 二俱無所成,
謂失在家儀, 及壞沙門法。
寧吞熱鐵丸, 洋銅而灌口,
不受人信施, 而毀犯尸羅。
諸毀犯尸羅, 無悔無慚愧,
多受人信施, 定當生地獄。
諸有智慧人, 應堅持淨戒,
勿受人信施, 而毀犯尸羅。」
出家して戒律を破る者は、 どちらの道も成就できない。 在家の作法を失い、 沙門の道も壊してしまうからだ。 むしろ熱した鉄の球を飲み込み、 溶けた銅を口に注がれる方がましだ。 人の施しを受けながら、 戒律を破り汚すことよりは。 戒律を破りながら、 悔いもなく恥じる心もなく、 多くの人の施しを受ければ、 必ず地獄に生まれ落ちる。 賢い人ならば、 清らかな戒律をしっかりと守り、 人の施しを受けながら、 戒律を破り汚してはならない。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世有二種補特伽羅,攝受增益惡趣地獄惡不善法。云何二種補特伽羅?一者、一類補特伽羅,毀犯淨戒,實非沙門自稱沙門,實非梵行自稱梵行,內朽順流,如穢蝸螺,貝音狗行,覆藏己惡,詐現自善,如朽隧級,無所復用,唯增惡趣。二者、一類補特伽羅,於具淨戒無所毀犯、精進修行清白梵行有德苾芻,以諸無根非梵行法,誹謗毀辱,令失威光。如是二種補特伽羅,攝受增益惡趣地獄惡不善法。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこのようにお聞きしました。
「修行者たちよ、知るがよい。世には二種類の人がいて、悪い場所(地獄)や悪い行いを増やし、自らに引き寄せている。その二種類とは何か。
第一に、ある種の人は、清らかな戒めを破りながら、僧侺でないのに僧侺を名乗り、清らかな修行をしていないのにしていると称する。内側は腐り流れに身を任せ、汚れた巻き貝のように、犬のような行いをし、自分の悪を隠して、偽りの善を装う。朽ちた階段のように、もう何の役にも立たず、ただ悪い行いを増やすだけである。
第二に、ある種の人は、清らかな戒を保ち、欠けなく修行し、努力して白く清らかな行いを積み、徳のある修行者たちに対して、根拠のない不浄の行いの非難をでっちあげ、貶め辱めて、その威光を失わせる。
この二種類の人は、悪い場所(地獄)や悪い行いを増やし、自らに引き寄せているのである。」
そこで、世尊はこの教えを再度まとめて、次のように偈を説かれた。
悪しき戒を保つ人、また、清らかな戒を保つ人を根拠なく誹謗する人―― この二種は、地獄という恐ろしい場所へと進む。
「二補特伽羅, 生長惡趣業,
謂毀犯淨戒, 及誹謗賢良,
如是二種人, 俱名為下賤,
現在人所鄙, 受苦在當來。
是故諸苾芻, 常應不放逸,
受持清淨戒, 勿毀謗他人。」
「二種類の人が、悪い世界へと落ちる行いを積み重ねます。 それは、清らかな戒めを破る人、そして、すぐれた人を誹り中傷する人です。 この二種類の人は、どちらも卑しい者と呼ばれます。 今この世で人々から軽蔑され、将来は苦しみを受けるのです。 ですから、修行者たちよ、常に怠ることなく、 清らかな戒めを守り、他人を誹り中傷してはいけません。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世有二種補特伽羅,恩深難報。云何為二?所謂父、母。假使有人一肩荷父、一肩擔母,盡其壽量曾無暫捨,供給衣食、病緣醫藥種種所須,猶未能報父母深恩。所以者何?父母於子,恩極深重。所謂產生,慈心乳哺、洗拭將養令其長大,供給種種資身眾具,教示世間所有儀式,心常欲令離苦得樂,曾無暫捨,如影隨形。父母於子,既有如是所說深恩,當云何報?若彼父母於佛、法、僧無清淨信,其子方便示現、勸導、讚勵、慶慰,令生淨信。若彼父母無清淨戒,其子方便示現、勸導、讚勵、慶慰,令其受持清淨禁戒。若彼父母無有多聞,其子方便示現、勸導、讚勵、慶慰,令其聽聞諸佛正法。若彼父母為性慳貪,不樂布施,其子方便示現、勸導、讚勵、慶慰,令行布施。若彼父母為性闇鈍無有勝慧,其子方便示現、勸導、讚勵、慶慰,令修勝慧。其子如是,乃名真實報父母恩。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。世の中には二種の者がおり、その恩は深く報じがたい。その二種とは、すなわち父と母である。 たとえ人が、一方の肩に父をのせ、もう一方の肩に母をのせて、生きている限り決して離さず、衣服や食物、病気のための薬や必要なものをすべて与え続けたとしても、父母の深い恩に報いることはできない。 なぜか。父母が子に対して施す恩は、極めて深く重いからである。すなわち、子を生み、慈しみの心で乳を与え、洗い、拭い、養い育てて成長させ、生活に必要なさまざまな道具を与え、世の中の礼儀作法を教え、常に子を苦しみから離れさせ、楽しみを得させたいと願い、影が形に従うように、決して離れることがない。 父母が子に対して、このように述べられた深い恩があるならば、どのようにして報いるべきか。 もし父母が、仏・法・僧に対して清らかな信仰を持っていなければ、その子は、上手に示し、導き、励まし、喜ばせることによって、清らかな信仰を生じさせるようにしなさい。 もし父母が清らかな戒律を持っていなければ、その子は、上手に示し、導き、励まし、喜ばせることによって、清らかな戒律を受けて守るようにさせなさい。 もし父母が多くの教えを聞くことをしていなければ、その子は、上手に示し、導き、励まし、喜ばせることによって、諸仏の正しい法を聞くようにさせなさい。 もし父母が元来けちけちして施しを喜ばないならば、その子は、上手に示し、導き、励まし、喜ばせることによって、施しを行うようにさせなさい。 もし父母が元来愚かで優れた智慧を持っていなければ、その子は、上手に示し、導き、励まし、喜ばせることによって、優れた智慧を修めるようにさせなさい。 そのようにする子こそ、真に父母の恩に報いるというのである。」 その時、世尊はこの意味をまとめて、次のような偈(うた)を説かれた。
「二補特伽羅, 恩深重難報,
所謂父及母, 能生長世間;
假使以兩肩, 盡壽荷父母,
常供養恭敬, 猶未為報恩。
父母於世間, 能生育教導,
慈心求利樂, 如彼影隨形。
若父母先無, 信、戒、聞、捨、慧,
子令其修習, 名真實報恩;
恭敬給所須, 唯現世安樂,
令修信、戒等, 究竟證涅槃。」
二人の恩人、その恩は深く重く報い難し。 父母とは、世の中に命を生み育てる者である。 たとい両肩に父母を乗せ、生涯にわたって背負い、 常に供養し敬ったとしても、まだその恩に報いたとは言えない。
父母はこの世に於いて、子を生み育て教え導き、 慈しみの心で利益と安楽を求めること、影が形に従うようである。 もし父母に元より、信心、戒律、学問、施し、智慧が無ければ、 子がそれらを習得させることこそ、真の恩返しというのである。 必要な物を敬って与えるのは、ただ現世の安楽に過ぎず、 信心や戒律などを修めさせることが、究極には涅槃を証得させるのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世有二種無欺誑法。云何為二?謂業與智。若諸有情已集諸業,其異熟果若未現前,終不盡滅。若諸有情已生諸智,一切煩惱若未永除,終不捨離。如是名為世有二種無欺誑法。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私は次のようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知りなさい。世の中には二つの『決して欺かない法』がある。その二つとは、業と智慧である。
もし生きとし生けるものが業を積んだならば、その結果である報いが現れるまでは、決して消え去ることはない。
もし生きとし生けるものが智慧を生じたならば、一切の煩悩が永遠に取り除かれるまでは、その智慧は捨て去られることはない。
これらを、世の中の二つの『決して欺かない法』というのである。」
その時、世尊はこの教えを改めてまとめ、次のように偈を説かれた。
「二無欺誑法, 諸佛共所談,
謂已集已生, 諸業及諸智。
異熟果未生, 諸業終不滅;
煩惱若未盡, 智終不捨離。
業是生死因, 智為滅惑本,
是故應修智, 永盡眾苦邊。」
「二つの決して偽りのない法を、諸仏は皆そろって説かれた。 すでに積まれ、すでに生じたもの――それが〈諸々の業〉と〈すべての智慧〉である。 異熟の果報がまだ現れないうちは、どの業も決して消え去ることはない。 煩悩がまだ尽きていないならば、智慧が捨てられることもない。 業は生死の原因であり、智慧は煩悩を滅ぼす根本である。 ゆえに智慧を修め、すべての苦しみの果てを尽くすべきである。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!世有二種補特伽羅,應深尊重、禮拜、供養,以敬愛心,親近而住。云何為二?所謂父、母。若諸有情於其父母,深心尊重、禮拜、供養,以敬愛心親近而住,生無量福。諸有智人咸共稱歎,聲譽普聞,處眾無畏,後不焦惱,無悔命終,身壞死後昇諸善趣,生於天中。何緣有情應於父母深心尊重、禮拜、供養,以敬愛心親近而住?父母於子有深重恩,所謂產生,慈心乳哺、洗拭將養令其長大,供給種種資身眾具,教示世間所有儀式,心常欲令離苦得樂,曾無暫捨,如影隨形。是故父母,應深敬重、禮拜、供養,以敬愛心親近而住。若諸有情,敬愛父母親近而住。父母於其深心慈愍,除無益事,授有益事,制止眾惡,勸修眾善,為其娉娶貞良妻室,有時賜與珍寶財穀。世間天人咸共稱歎,恭敬供養,親近加護,令無衰惱。是故有情於其父母應深尊重、禮拜、供養,以敬愛心親近而住。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から、私はこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。世の中には二種類の人がおり、深く敬い、礼拝し、供養し、敬愛の心を持って親しく近づくべきである。その二つとは、父と母である。 生きとし生けるものは、父母に対して深く敬い、礼拝し、供養し、敬愛の心を持って親しく近づくならば、無量の福徳を生む。智慧ある人々は皆、これを称賛し、その名声は広く知られ、大衆の中にあっても恐れず、後に悩み苦しむことなく、命終えるときに悔いなく、身体が壊れて死んだ後には善い趣に生まれ変わり、天界に生まれる。 なぜ、父母に対して深く敬い、礼拝し、供養し、敬愛の心を持って親しく近づくべきなのか?父母は子に対して深く大きな恩があるからである。すなわち、子を産み、慈しみの心で乳を飲ませ、洗い清め、育てて大きくし、生活に必要な様々な品々を与え、世の中の礼儀作法を教え、常に子を苦しみから離れ楽しみを得させたいと願い、一時たりとも捨てることがなく、影が形に従うようにつき従う。だから父母は深く敬い、礼拝し、供養し、敬愛の心を持って親しく近づくべきなのである。 生きとし生けるものが、父母を敬い愛し、親しく近づくならば、父母もまたその子に対して深く慈しみ哀れみ、無益なことを除き、有益なことを授け、様々な悪を止めさせ、様々な善を勧め、貞節で良き妻を娶らせ、時に応じて宝や財産、穀物を与える。世の中の天や人は皆、これを称賛し、敬い供養し、親しく守護し、衰え苦しみがないようにする。 だから生きとし生けるものは、父母に対して深く敬い、礼拝し、供養し、敬愛の心を持って親しく近づくべきなのである。」
その時、世尊はこの意味を重ねて、偈(うた)で説かれた。
「諸有樂福人, 應尊重父母,
禮拜修供養, 敬愛親近居。
世間聰慧人, 恭敬於父母,
恒時修供養, 常生歡喜心。
父母於世間, 恩深重難報,
除無益制惡, 授利勸修善,
與妻室資財, 慈心常覆護,
是故修供養, 無量福聚生,
現得勝名聞, 咸供養恭敬,
死生天善趣, 受妙樂無窮。
欲得生天人, 受五欲妙樂,
猶如天帝釋, 當供養父母。」
世の中の幸せを求める人は、父母を敬い、 礼拝し、供養を捧げ、敬愛し、親しく仕えるべきです。
賢い人は、父母を敬い、 常に供養を修め、喜びの心を育みます。
父母の世の中における恩は、深く重く報いることが難しいものです。 無益なことを除き、悪を制し、利益を与え、善を勧め、 妻や財産を備え、慈しみの心で常に守り育ててくれます。
だからこそ、父母に供養すれば、無量の福徳が集まり、 現世で素晴らしい名声を得て、皆から敬われ、 来世では天の善趣に生まれ、限りない楽しみを受けます。
天に生まれ、五欲の妙なる楽しみを得たいと願うなら、 まるで帝釈天のように、父母に供養すべきなのです。
重攝前經嗢柁南曰:
重ねて先の経をまとめると、次の偈のようになります。
善、尋、輪、戒、學 無明慧、斷除
苦、毀謗、報恩 無欺誑、父母
善、尋、輪、戒、学 無明・慧、断除
苦、毀謗、報恩 欺かず、父母
本事經卷第四
本事経 巻第四