本事經卷第五
本事経 第五巻
大唐三藏法師玄奘奉詔譯
大唐三蔵法師玄奘が勅命を受けて訳しました。
二法品第二之三
二法品第二之三
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!施有二種。云何為二?一者財施;二者法施。云何財施?謂有一類補特伽羅,能施種種美妙飲食、香鬘、衣、乘、房舍、臥具、資產、燈明、病緣醫藥,捨如是等,分布惠他,名為財施。云何法施?謂廣為他宣說正法,初、中、後善,文義巧妙,純滿清白梵行之法,令諸有情聞已解脫生、老、病、死、愁、歎、憂、苦,諸熱惱法,是名法施。於此財、法二種施中,法施最上勝妙第一。譬如世間,從牛出乳,從乳出酪,酪出生酥,從此生酥,出於熟酥,復從熟酥出於醍醐。於是種種牛諸味中,醍醐最上勝妙第一。如是財、法二種施中,法施最上勝妙第一。於法施中,能無顛倒行法施者,唯有如來、應、正等覺、明行圓滿、善逝、世間解、無上丈夫、調御士、天人師、佛、薄伽梵。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのようにお聞きしました。
「比丘たちよ、知っておきなさい。布施には二種類ある。どのような二種類か。第一は財施、第二は法施である。
財施とは何か。ある者が、様々な素晴らしい飲食、香りや花輪、衣服、乗り物、家、寝具、財産、灯明、病気のための医薬などを施し、これらのものを惜しみなく他者に分け与えることを、財施という。
法施とは何か。他者に対して広く正しい教えを説き、その教えが初めも中も終わりも善く、言葉と意味が巧みで、清らかで完全な修行の道を示し、聞いた者たちが生・老・病・死、嘆き、悲しみ、苦しみ、心の悩みといった全ての苦悩から解放されるように導くこと、これを法施という。
この財施と法施の二つの布施の中で、法施が最も優れ、素晴らしく、第一である。例えば世間において、牛から乳が得られ、乳から酪が、酪から生酥が、生酥から熟酥が、そして熟酥から醍醐が得られるように、これらの牛由来の味の中で、醍醐が最も優れ、素晴らしく、第一である。これと同じように、財施と法施の二つの布施の中で、法施が最も優れ、素晴らしく、第一である。
そして、この法施を誤りなく正しく行うことのできる方は、ただ如来、応供、正等覚者、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊のみである。」
その時、世尊はこの教えをまとめて、次のように偈で説かれた。
「於二種施中, 法施為第一,
能行法施者, 善逝最為尊。
受財施田中, 如來為第一,
行財施不定, 受法施眾生。
財施令眾生, 得世安隱樂;
法施令受者, 究竟證涅槃。」
二つの施しのうち、法の施しが第一である。 法の施しを行う者こそ、善逝(如来)は最も尊いとされる。 財の施しという田の中で、如来は最も優れている。 しかし、財の施しを行う者は定まらず、法の施しを受ける者もまた然りである。 財の施しは、生きとし生ける者に世の安らぎと楽をもたらし、 法の施しは、それを受ける者を究極の涅槃へと導くのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!祠祀有二。云何為二?一、財祠祀;二、法祠祀。財祠祀者,謂有一類補特伽羅,祠祀種種美妙飲食、香鬘、衣、乘、房舍、臥具、資產、燈明,如是等類,名財祠祀。法祠祀者,謂能祠祀契經、應頌、記別、伽他、自說、本事、本生、方廣、未曾有法,以無量門,如理宣說、施設建立、分別開示,名法祠祀。於此財、法二祠祀中,法祠最上勝妙第一。譬如世間從牛出乳,從乳出酪,酪出生酥,從此生酥,出於熟酥,復從熟酥出於醍醐,於是種種牛諸味中,醍醐最上勝妙第一。如是財、法二祠祀中,法祠最上勝妙第一。於法祠中,能無顛倒行法祠者,唯有如來、應、正等覺、明行圓滿、善逝、世間解、無上丈夫、調御士、天人師、佛、薄伽梵。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から私はこのように聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。供養には二種類ある。どのような二種類か。第一に、財物による供養。第二に、教えによる供養である。財物による供養とは、ある人が様々な美味しい飲食、香りや花輪、衣服、乗り物、家屋、寝具、財産、灯明などを供養することであり、これを財物による供養という。教えによる供養とは、経典・詩頌・物語・偈・自説・因縁・本生・方広・未曾有法などを供養し、無数の方法で理にかなって説き、明らかにし、確立し、分別し、開示することであり、これを教えによる供養という。これら財物と教えの二つの供養の中で、教えによる供養が最も優れ、素晴らしく、第一である。たとえば、世の中で牛から乳が出て、乳から酪(らく)ができ、酪から生酥(しょうそ)ができ、そこから熟酥(じゅくそ)ができ、さらに熟酥から醍醐(だいご)ができる。これら様々な牛の味の中で、醍醐が最も優れ、素晴らしく、第一であるように、この財物と教えの二つの供養の中で、教えによる供養が最も優れ、素晴らしく、第一なのである。その教えによる供養において、倒錯することなく正しく実践できるのは、まさしく如来・応供・正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊のみである。」その時、世尊はこの意味を改めてまとめて、次の偈を説かれました。
「於二種祠中, 法祠為第一,
能行法祠者, 善逝最為尊。
受財祀田中, 如來為第一,
行財祀不定, 受法祀眾生。
財祀令眾生, 得世安隱樂;
法祠令受者, 究竟證涅槃。」
「二つの祭祀のうち、法の祭祀が第一である。 法の祭祀を行える者は、善逝(悟りし者)が最も尊い。 財物を捧げる祭祀の中で、如来が第一である。 財物の祭祀を行うことは不定だが、法の祭祀を受ける衆生は確かである。 財物の祭祀は衆生に、世の安らぎと楽しみをもたらす。 法の祭祀は受ける者に、究極の涅槃を証得させる。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!諸修行者,同集會時,應作二事:一者法言;二者宴默。由法言故,審知有德;審知德故,便深敬信;深敬信故,便往詣彼;往詣彼故,親近供事;親供事故,求聞正法;求聞法故,攝耳不亂;耳不亂故,聽聞正法;聞正法故,於法通利;法通利故,能記持法;記持法故,能觀察義;觀察義時,堪能於法審諦思惟;堪能於法審諦思時,便生欲樂;生欲樂已,便得勢力;得勢力已,便能稱量;由稱量故,便能決擇;能決擇故,於諦隨覺,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。
私は世尊からこのように聞きました。「比丘たちよ、修行者たちが共に集まる時には、二つのことを行うべきである。一つは法についての語り合い、もう一つは静かな沈黙である。法についての語り合いによって、その人の徳を正しく知ることができる。徳を正しく知れば、深く敬い信じるようになる。深く敬い信じれば、その人のもとへ赴くようになる。その人のもとへ赴けば、親しく近づいて仕えるようになる。親しく近づいて仕えれば、正しい教えを求めて聴くようになる。正しい教えを求めれば、耳を静めて心を散らさない。耳が散らなければ、正しい教えを聴くことができる。正しい教えを聴けば、教えに通じるようになる。教えに通じれば、教えを心に留めて保つことができる。教えを保てば、その意味を観察することができる。意味を観察する時には、教えについて深く正しく思惟することができる。教えについて深く正しく思惟すれば、修行への喜びと願いが生まれる。喜びと願いが生まれれば、修行の力が得られる。力が得られれば、自らを正しく評価できるようになる。正しく評価できれば、正しく選択できるようになる。正しく選択できれば、真理を悟ることができ、自ら『私は生を尽くし、清らかな行いを完成し、なすべきことを成し遂げ、再び迷いの世界に生まれ変わることはない』と知るのである。」
「由宴默故,心便寂定,清淨鮮白無有瑕釁,離隨煩惱,調順堪任,安住不動,堪能引發;能引發故,如實了知;如實知故,便能厭背;能厭背故,便能離欲;既離欲已,便得解脫;得解脫已,便自了知:我已解脫,我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。汝等苾芻應說上法、應了上法。若能如是,乃名真實攝受仙幢。非眾集會戲論語言,能正了知諸法實相、能斷諸漏、能證涅槃。我常集會宣說上法、了知上法,故名第一攝受仙幢。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
静かに瞑想することで、心は静まり、清らかで純白になり、汚れや欠点がなくなり、雑念や煩悩から離れ、なめらかに整い、落ち着いて動じず、真理を体得する力を得ることができます。その力によって、物事をあるがままに正しく理解します。正しく理解するからこそ、そこから背を向け嫌悪します。嫌悪するからこそ、欲望から離れます。欲望から離れたならば、解脱を得ます。解脱を得たならば、自ら悟ります。「私はすでに解脱した。私の生は尽き、清らかな修行は完成し、なすべきことは成し遂げ、再び迷いの世界に生まれることはない」と。
比丘たちよ、あなたがたはこの最高の教えを説き、この最高の教えを理解しなさい。このようにして初めて、真に聖者の旗(宝幢)を護持する者と言えるのです。むだな集まりや戯れの言葉によって、諸法の真実を正しく理解し、煩悩を断ち切り、涅槃を証することはできません。私は常に集まり、この最高の教えを説き、理解してきました。それゆえにこそ、第一の聖者の旗を護持する者と呼ばれるのです。」
その時、世尊はこれらの意味を改めてまとめて、次の詩句を説かれました。
「行者集會時, 應修作二事,
謂寂然宴默, 及說正法言。
由說正法言, 及寂然宴默,
知諸法實相, 究竟證涅槃。
汝等諸苾芻, 若說了上法,
乃得名真實, 攝受大仙幢。
我常處眾中, 宣說照了法,
是故名第一, 攝受大仙幢。
若依正法幢, 能說能修行,
定速脫生死, 至究竟涅槃。」
修行者たちが集まったなら、 二つのことを行うべきである。 静かに瞑想することと、 正しい教えを語ることである。
正しい教えを語ること、 そして静かに瞑想することによって、 すべての物事の真実の姿を理解し、 ついには悟りの境地に至るのである。
あなたがた修行者たちよ、 もしも最上の教えを説くならば、 それは本当に、 偉大な聖者の旗(教えの象徴)を掲げる者と呼ばれる。
私は常に大勢の人々の中にあって、 明確な真理の教えを説いてきた。 それゆえに私は第一の者と呼ばれ、 偉大な聖者の旗を掲げる者とされるのだ。
もしも正しい教えという旗に従い、 それを説き、実践するならば、 必ずや速やかに生死の迷いを脱し、 究極の悟りに至るのである。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若諸苾芻於言說時非理作意,起欲尋思、起恚尋思、起害尋思,如是苾芻,名多惡者、行慢緩者。趣向多惡為方便故,於斷於離棄捨善軛,放逸懈怠、下劣精進,亡失正念、有不正知,不定心亂縱任諸根,無出離見,不知出離、如實正慧,趣向惡魔、惡不善法,為諸惡魔、惡不善法之所摧伏,增長一切惡不善法。若諸苾芻於宴默時非理作意,廣說乃至增長一切惡不善法。如是苾芻,為諸有智同梵行者之所訶毀,我亦於彼常不稱讚。如是苾芻,雖得出家受具足戒,而名惡慧樂有癡人。是故汝等應如是學:我當云何方便斷除非理作意,方便修習如理作意?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
世尊から私はこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。もし比丘が言葉を発するときに、道理にかなわない心の働きによって、欲望の思い、怒りの思い、害を与えようとする思いを起こすならば、そのような比丘は、多くの悪を抱え、怠り緩んだ者であり、悪へと向かいやすいため、断つこと、離れること、善の軛(くびき)を捨てることにおいて放逸であり、怠惰で、努力は下劣であり、正念を失い、正しい知恵なく、心は定まらず乱れて諸々の感覚器官を放任し、解脱の見解を持たず、解脱を正しい智慧で真実のままに知らず、悪魔や悪しき不善の法へと向かい、それらに打ち負かされ、あらゆる悪しき不善の法を増長させる。
もし比丘が、静かに坐しているときに、道理にかなわない心の働きによって、先ほどと同様に、あらゆる悪しき不善の法を増長させるならば、そのような比丘は、智慧ある修行仲間から非難されるべきであり、私もまたその者を常に称賛することはない。
そのような比丘は、たとえ出家し具足戒を受けたとしても、悪しき智慧を持ち、愚かさを楽しむ者と呼ばれる。
それゆえ、あなたがたは次のように学ぶべきである。『私たちは、どのようにして道理にかなわない心の働きを断ち、道理にかなった心の働きを身につける方便を修めようか』と。比丘たちよ、あなたがたはこのように学ぶべきである。」
そのとき、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次の偈を説かれました。
「言說、宴默時, 縱諸根造惡,
不奉行我教, 是愚昧癡人。
故汝等苾芻, 應修不放逸,
離非理作意, 當如理思惟。
汝等若正勤, 語默無放逸,
不久度生死, 證無上涅槃。」
「話すときも黙るときも、 心のままに悪い行いをし、 私の教えを守らない者は、 愚かで迷いの人です。
だからあなたがた修行僧よ、 油断せずに修行しなさい。 道理に合わない考えを離れ、 正しい心でよく考えなさい。
あなたがたが正しく努め、 言葉と沈黙に怠りがなければ、 やがて生死の海を渡り、 この上ない涅槃に至るでしょう。」
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!若諸苾芻於言說時如理作意,出離尋思、無恚尋思、無害尋思,如是苾芻,名多善者、無慢緩者。趣向多善為方便故,於斷於離不捨善軛,離諸放逸、勇猛精進,正念正知、心定無亂、密護諸根,有出離見,能知出離、如實正慧,棄背惡魔、惡不善法,摧伏惡魔、惡不善法,損減一切惡不善法。若諸苾芻於宴默時如理作意,廣說乃至損減一切惡不善法。如是苾芻,為諸有智同梵行者之所稱讚,我亦於彼恒常稱讚。如是苾芻,名真出家受具足戒,有大智慧,不樂諸有,名不癡人。是故汝等應如是學:我當云何方便修習如理作意,方便斷除非理作意?汝等苾芻,應如是學。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。 「比丘たちよ、知るがよい。もし比丘が言葉を発するときに、道理に従って心を働かせ(如理作意)、世俗的な思惟を超え出て、怒りのない思惟、害のない思惟を持つならば、その比丘は、多くの善を備え、怠りなく、たゆまぬ者と呼ばれる。多くの善へと向かう方便を整えているからである。彼は、煩悩を断ち、離れることにおいて、善き軛(くびき)を捨てず、放逸を離れ、勇猛に精進し、正しい念(おもい)と正しい知(ちえ)を持ち、心は定まり乱れることなく、諸々の感覚の入り口(根)をしっかりと守り、出離(しゅつり)の見解を持ち、出離を正しく知り、如実にして正しい智慧をそなえ、悪魔や悪しき善ならざる法を捨て去り、悪魔や悪しき善ならざる法を打ち負かし、あらゆる悪しき善ならざる法を減らし尽くす。 また、もし比丘が静かに瞑想するときに、道理に従って心を働かせ、同様にあらゆる悪しき善ならざる法を減らし尽くすならば、その比丘は、智慧ある同修の修行者たちから称賛される。私もまた、その比丘を常に称賛する。そのような比丘こそ、真に出家し、具足戒を受けた者であり、大いなる智慧を持ち、様々な生存(有)を楽しまず、愚かでない者と呼ばれる。 それゆえ、あなたたちはこう学ぶべきである。『どのように工夫して修行し、道理に従った心の働き(如理作意)を修め、道理に反した心の働き(非理作意)を断つことができるのか?』と。 比丘たちよ、あなたたちはこのように学ぶべきである。」 その時、世尊はこの教えを簡潔にまとめて、次の詩句(偈)を説かれた。
「言說、宴默時, 不縱根造惡,
能奉行我教, 是聰慧智人。
修出離尋思, 及無恚無害,
有出離正見, 於如實能知;
能摧伏惡魔, 諸惡不善法,
永斷諸煩惱, 證究竟涅槃。
故汝等苾芻, 應修不放逸,
當如理作意, 離非理思惟。
汝等若正勤, 語默無放逸,
不久度生死, 證無上涅槃。」
説法の時も沈黙の時も、感覚に囚われて悪を為さず、 私の教えを実践する人こそ、本当の賢者である。
執着を離れる考えや、怒りなく害を与えない心を育み、 離欲の正しい見解を持ち、真理をあるがままに知ることができる。
そうすれば、悪魔やあらゆる不善の法を打ち負かし、 全ての煩悩を断ち切って、究極の涅槃に至るのだ。
だから、あなた方修行僧よ、怠りなく修行せよ。 道理に従って心を向け、非合理な考えから離れよ。
あなた方が正しく努力し、語るにも黙するにも油断がなければ、 やがて生死の海を渡り、この上ない涅槃に達するであろう。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有學苾芻,有二種力。云何為二?謂思擇力及修習力。云何苾芻有思擇力?所謂一類有學苾芻,受用種種衣服、飲食、房舍、臥具、病緣醫藥資生具時,皆善思擇非不思擇而便受用。於所未得衣服、飲食、房舍、臥具、病緣醫藥諸資生具,不甚希求;於所已得衣服、飲食、房舍、臥具、病緣醫藥諸資生具,不深耽著。堪能忍受寒熱飢渴、風日蚊虻、蛇蝎等觸,堪能忍受他所毀謗、罵辱等言,堪能忍受身內所生,猛利辛楚、酸疼難忍、奪命臨終難治苦受,堪能忍受一切世間極難忍事。能善思擇,諸身、語、意三種惡行,能照現法、生法、後法不可愛樂苦異熟果。作是思惟:我今定當斷身、語、意三種惡行,我今定當修身、語、意三種妙行。能正了知三種惡行所有過患,復正了知三種妙行所有功德。既正知已,勤斷勤修惡行妙行,修治自身令其清淨,離諸罪法。如是名為有學苾芻,初思擇力。云何苾芻有修習力?所謂一類有學苾芻,所得憶念,一切皆與覺支相順而不相違,所得擇法及精進、喜、輕安、定、捨,一切皆與覺支相順而不相違;修念覺支,皆依止厭、皆依止離、皆依止滅,迴向於捨,修習擇法及精進、喜、輕安、定、捨覺支,皆依止厭、皆依止離、皆依止滅,迴向於捨。如是名為有學苾芻後修習力。是名有學苾芻二力。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこうお聞きしました。
「修行者よ、知るべきである。修行を学んでいる修行者には、二つの力がある。その二つとは何か。すなわち、考える力(思択力)と実践する力(修習力)である。
どのような修行者が考える力を持つのか。それは、ある学びある修行者が、様々な衣服、食べ物、住まい、寝具、病気のための薬や生活用具を用いる際に、常によく考えてから用い、考えずに用いることはない。まだ得ていない衣服などの生活用具に対して、あまり執着して求めず、すでに得たものに対しても、深く執着しない。寒さ暑さ、飢え渇き、風や日差し、蚊やあぶ、蛇や蠍などの接触に耐えられる。また、他者からの非難や罵りの言葉にも耐えられる。さらに、身内から生じる激しく痛み辛く、耐え難い苦しみや、命を奪う瀕死の難治の苦痛にも耐えられる。このように、世の中の最も耐え難いことすべてに耐えられる。
そして、よく考えて、身体・言葉・心の三つの悪い行い(三悪行)が、現世、来世、後の世において、愛すべきでない苦しい結果をもたらすことをはっきりと理解する。こう考えを巡らせる。『私は今こそ、この三つの悪行を必ず断ち、三つの良い行い(三妙行)を必ず身につけよう』と。三つの悪行の過ちを正しく理解し、三つの良い行いの功徳も正しく理解する。正しく理解した後は、熱心に悪行を断ち善行を修め、自らの身を清め、罪となる行いから離れる。これが、学びある修行者の第一の力、考える力(思択力)であると名付けられる。
では、どのような修行者が実践する力を持つのか。それは、ある学びある修行者が、得た記憶(憶念)のすべてが、悟りの要素(覚支)と調和し、矛盾しないこと。また、得た真理の選択(択法)、努力(精進)、喜び(喜)、心の軽やかさ(軽安)、心の統一(定)、平静さ(捨)のすべてが、悟りの要素と調和し、矛盾しないこと。つまり、『念覚支』を修める際も、すべては厭離(飽き離れること)に基づき、離欲に基づき、消滅に基づき、それを捨て去ることを目指す。同様に、選法、精進、喜、軽安、定、捨の各覚支を修める際も、すべては厭離、離欲、消滅に基づき、捨て去ることを目指す。これが、学びある修行者の後の力、実践する力(修習力)であると名付けられる。これらが、学びある修行者の二つの力である。」
その時、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次のように偈(げ)を説かれた。
(偈の内容は原文にありません)
「諸有學苾芻, 略有二種力,
思擇及修習, 能伏惡魔軍。
見惡過能斷, 知妙德能修,
能忍受思惟, 是名思擇力。
依止厭離滅, 及迴向於捨,
而修七覺支, 是名修習力。」
修行中の比丘には、 おおまかに二つの力があります。 それは「考える力」と「実践する力」です。 この二つの力で、悪魔の軍団を打ち負かすことができます。
「考える力」とは、 悪いことの危険性を見抜いて断ち切り、 良いことの素晴らしさを知ってそれを身につけ、 よく考え抜くことに耐えられること、 これを「考える力」といいます。
「実践する力」とは、 俗世への執着を厭い、それを消し去り、 一切を手放すという目標に向かって、 七つの目覚めの要素を実践すること、 これを「実践する力」といいます。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!由二種法盡滅故死。云何二法?一、業;二、壽。由業盡故及壽盡故,決定命終。若時有業,爾時有壽;若時有壽,爾時有業。所以者何?如是二法恒常和合、無不和合,如是二法不可施設分析離散。此時有業,彼時有壽;此時有壽,彼時有業。若有其業,即有其壽;若有其壽,即有其業。若無其業,即無其壽;若無其壽,即無其業。譬如燃燈,生焰發明,若有其焰,即有其明;若有其明,即有其焰。若無其焰,即無其明;若無其明,即無其焰。業、壽亦爾。若有其業,即有其壽;若有其壽,即有其業。若無其業,即無其壽;若無其壽,即無其業。如是二法盡滅故死。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのような教えを聞きました。 「比丘たちよ、知っておくべきである。二つの法が尽き、滅するからこそ死が起こる。その二つの法とは何か。第一に業、第二に寿命である。業が尽き、寿命が尽きることによって、確かに命は終わる。業が存在するとき、そこに寿命があり、寿命が存在するとき、そこに業がある。なぜなら、この二つの法は常に一体であり、離れることがないからである。この二つの法は、分析して分離するように説くことはできない。『このときに業があり、そのときに寿命がある』『このときに寿命があり、そのときに業がある』というように。業があれば寿命があり、寿命があれば業がある。業がなければ寿命はなく、寿命がなければ業はない。例えば、灯明が燃えて焰を生じ、光を放つとき、焰があれば明かりがあり、明かりがあれば焰がある。焰がなければ明かりはなく、明かりがなければ焰はない。業と寿命もまた同じである。業があれば寿命があり、寿命があれば業がある。業がなければ寿命はなく、寿命がなければ業はない。このようにして、二つの法が尽き、滅するからこそ死が生じるのである。」 その時、世尊はこの意味を要約して、次の偈を説かれた。
「二法恒相隨, 謂業及與壽,
業有壽亦有, 業無壽亦無。
壽業未消亡, 有情終不死,
壽業若盡滅, 含識死無疑。」
二つのものは常に伴う、 それを「業(カルマ)」と「寿命」という。 業があるところに寿命もあり、 業がなければ寿命もまたない。 寿命と業がまだ尽きなければ、 生きとし生けるものは決して死なない。 寿命と業がもし尽きてしまえば、 この世の命は疑いなく終わりを迎える。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二種行,世間眾生皆共造作。云何為二?一者能感短壽之行;二者能感長壽之行。云何能感短壽之行?謂有一類補特伽羅,常樂殺生,為性兇暴,血塗其手,傷害物命,無有慚羞,無有慈愍,於諸眾生常行殺害,乃至殺害折脚蟻子,是名能感短壽之行。云何能感長壽之行?謂有一類補特伽羅,遠離殺生,棄捨殺具,慚羞慈愍,於諸眾生常不殺害,乃至不害折脚蟻子,是名能感長壽之行。如是名為有二種行,世間眾生皆共造作。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこのように聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。世の中には二つの行いがあり、世の人々は皆これを行っている。その二つとは何か。第一は短命を招く行い、第二は長命を招く行いである。
では、短命を招く行いとは何か。ある種の人は、常に殺生を好み、性質が凶暴で、手を血に染め、生き物の命を傷つけ、恥や慎みがなく、慈しみの心もない。あらゆる生き物に対して常に殺害を行い、足の折れた蟻に至るまでも殺してしまう。これを短命を招く行いという。
では、長命を招く行いとは何か。ある種の人は、殺生を遠く離れ、殺すための道具を捨て、恥や慎みと慈しみの心を持ち、あらゆる生き物に対して常に殺さず、足の折れた蟻に至るまでも害さない。これを長命を招く行いという。
これらが、世の人々が皆行っている二つの行いである。」
その時、世尊はこの意味をまとめて、次のような偈を説かれました。
(偈) 短命を望む者は 殺生を常に行い 長命を願う者は 殺生を離れて生きる 賢者は殺さず 生きとし生けるものを この世で平安に 来世でも安らかに
「世間諸有情, 略有二種行,
由二行差別, 感壽有短長。
謂常樂殺生, 兇暴血塗手,
無慚羞慈愍, 感短壽無疑。
常樂離殺生, 棄捨諸殺具,
有慚羞慈愍, 感長壽無疑。」
世の中のあらゆる生きとし生けるものは、 おおまかに二つの生き方がある。 その二つの生き方の違いによって、 寿命に長短が生じる。
すなわち、常に殺生を好み、 残忍で手は血にまみれ、 恥じる心も慈しみも持たない者は、 疑いなく短命となる。
一方、常に殺生を離れ、 すべての殺す道具を捨て、 恥じる心と慈しみを持つ者は、 疑いなく長寿となる。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!由二行相應取心相。云何為二?一者名為所緣行相;二者名為作意行相。所有一切已取、現取、當取心相,皆由如是二種行相。汝等苾芻由二行相,應當正勤善取心相;取心相已,應善作意;善作意已,應善觀察;善觀察已,應善安住;善安住已,應同地界正勤修習無量無損,應同水界、火界、風界正勤修習無量無損。
私は世尊から次のようなお話を伺いました。
「比丘たちよ、心のすがた(心相)を捉えるためには、二つの捉え方(行相)が関係している。その二つとは何か。第一は『対象に向かう捉え方(所縁行相)』であり、第二は『心の働きとしての捉え方(作意行相)』である。すでに捉えられた、今まさに捉えている、これから捉えるであろう、すべての心のすがたは、この二つの捉え方によるものである。
比丘たちよ、あなたがたはこの二つの捉え方によって、しっかりと心のすがたを捉えるために努力しなさい。心のすがたを捉えたならば、よく心を向け(善作意)なさい。よく心を向けたならば、よく観察しなさい。よく観察したならば、よく安らかにとどまりなさい。よく安らかにとどまったならば、地の広がりのように限りなく広く、損なわれることなく修行を続けなさい。同じく水の広がり、火の広がり、風の広がりのように、限りなく広く、損なわれることなく修行を続けなさい。」
「苾芻當知!譬如地界,若於其中安置糞穢、洟唾、膿血,如是等類淨、不淨物雖置其中,而其地界曾無違順、欣慼、高下。如是安心應同地界,正勤修習無量無損。既同地界正勤修習無量無損,雖遇種種違順眾緣,而心都無分別計著,終不由此差別因緣其心高下。又如水界、火界、風界,若於其中安置糞穢、洟唾、膿血,如是等類淨、不淨物雖置其中,而其水界、火界、風界曾無違順、欣慼、高下。如是安心應同水界、火界、風界,正勤修習無量無損。既同水界、火界、風界正勤修習無量無損,雖遇種種違順眾緣,而心都無分別計著,終不由此差別因緣其心高下。
比丘たちよ、知っておきなさい。例えば大地を考えてみなさい。そこに糞尿や唾、膿血などの清らかなものも清らかでないものも置かれても、大地はそれに対して嫌がったり喜んだりすることなく、高ぶったり落ち込んだりすることもない。同じように、心を大地のように落ち着けて、限りなく損なわれることのない正しい努力を修行しなさい。大地のように心を修めれば、様々な好ましい縁や好ましくない縁に出会っても、心はそれらを分別したり執着したりせず、そのような違いによって心が高ぶったり落ち込んだりすることはない。
また、水・火・風の元素についても同様である。それらの中に糞尿や唾、膿血などの清らかなものも清らかでないものも置かれても、水・火・風の元素は嫌がったり喜んだりすることなく、高ぶったり落ち込んだりすることもない。同じように、心を水・火・風の元素のように落ち着けて、限りなく損なわれることのない正しい努力を修行しなさい。水・火・風の元素のように心を修めれば、様々な好ましい縁や好ましくない縁に出会っても、心はそれらを分別したり執着したりせず、そのような違いによって心が高ぶったり落ち込んだりすることはないのだ。
「由此定故,於有識身及外一切所緣相中,我我所執、見、慢、隨眠,善伏善斷。於彼二種其心超越,離一切相,寂靜安樂,得善解脫。所有一切心善解脫、慧善解脫,皆於其中,我我所執、見、慢、隨眠,善伏善斷。於彼二種,其心超越,離一切相,寂靜安隱,得善解脫。於其所得利、譽、稱、樂,其心不欣;於其所遭衰、毀、譏、苦,其心不慼,是名超過世間八法。其心平等,猶如世間地、水、火、風,世間八法所不能染。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
この禅定によって、心を有する存在と、それ以外のあらゆる認識の対象において、「私」や「私のもの」という執着、見解、慢心、潜在的な煩悩が、十分に鎮められ断たれます。その二つの領域を心が超え、一切の相を離れ、静かで安らかになり、見事に解脱を得ます。あらゆる心の善き解脱、智慧の善き解脱も、みなこの中で、「私」や「私のもの」という執着、見解、慢心、潜在的な煩悩が十分に鎮められ断たれます。その二つの領域を心が超え、一切の相を離れ、静かで安穏となり、見事に解脱を得ます。得るもの、名誉、称賛、快楽に対して心は浮き立たず、失うもの、不名誉、非難、苦しみに対して心は憂えません。これを世間の八つの風(八風)を超えたといいます。その心は、この世の地・水・火・風のように平等であり、世間の八つの風によって汚されることがありません。」
その時、世尊はこの意味を改めてまとめて、次の詩句を説かれました。
「難調躁動心, 遠行無第二,
能正勤取相, 是謂世聰明。
善取心相已, 復作意觀察,
正念住其心, 勤修同四界。
如是正安住, 能棄捨諸欲,
於世八法中, 名善巧無染。」
扱いにくく、落ち着きのない心は、 遠くへ行き、第二のものはない。 良く正しく努めてその相を捉えること、 これを世の中の賢明という。 心の相を善く捉えたなら、 さらに意を向けて観察し、 正しい念(思い)に心を留め、 努めて修めること、四つの界(地・水・火・風)と同じように。 このように正しく安住すれば、 様々な欲望を捨て去ることができ、 世の中の八つの法(利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽)において、 巧みで汚れのない者と名づけられる。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二種法,雖共乖違未甞和合,然於其中無缺無間。云何為二?謂生與死。譬如世間光明、影闇,雖共乖違未甞和合,然於其中無缺無間。光明發時,影闇便沒;影闇起時,光明便謝。生、死亦爾,恒共乖違未甞和合,然於其中無缺無間。生法有時,死法便沒;死法有時,生法便謝。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
私は世尊からこうお聞きしました。
「比丘たちよ、知るがよい。二つの法がある。それらは互いに相容れず、決して調和することはないが、その間には欠けるところも、途切れるところもない。その二つとは何か。すなわち『生』と『死』である。
例えば、世の中の『光』と『影の闇』のようなものだ。これらは互いに相容れず、決して調和することはないが、その間には欠けるところも、途切れるところもない。光が現れれば、影の闇は消え去る。影の闇が生じれば、光は消え去る。
『生』と『死』もまた同じである。常に互いに相容れず、決して調和することはないが、その間には欠けるところも、途切れるところもない。『生』という法がある時は、『死』という法は消え去っている。『死』という法がある時は、『生』という法は消え去っているのである。」
その時、世尊はこの教えの要点をまとめ、偈(うた)をもって再び説かれた。
「如光明、影闇, 雖恒共乖違,
然於二法中, 未曾有間缺。
生、死亦如是, 雖恒共乖違,
然於二法中, 未曾有間缺。
無明根所生, 愛水所滋潤,
纔死生便續, 中無間缺時。」
例えば光があれば影も生じるように、 常に互いに背き合っているものの、 この二つの間には、一瞬の途切れもありません。
生と死もこれと同じで、 常に互いに離れているように見えても、 その二つの間には、少しの隔たりもありません。
無明という根から生まれ、 愛欲という水に潤されて、 死ぬとすぐに次の生が続き、 その間には途切れる時がないのです。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!死有二種。云何為二?一者不調伏死;二者調伏死。云何名為不調伏死?謂諸愚夫無聞異生,未能親覲正見善士、未能了知善士之法,於善士法未自調順。彼隨觀見:色即是我,色屬於我,色在我中,我在色中。彼隨觀見:受即是我,受屬於我,受在我中,我在受中。彼隨觀見:想即是我,想屬於我,想在我中,我在想中。彼隨觀見:行即是我,行屬於我,行在我中,我在行中。彼隨觀見:識即是我,識屬於我,識在我中,我在識中。眼見色已,執取其相、執取隨好。由是因緣,於其眼根不能正念防守而住,發起貪憂,便有無量惡不善法隨心流漏不可堰塞。於其眼根不能防守,縱蕩眼根行諸境界,貪著色味,纏擾其心。緣此貪故,受長夜苦、受猛利苦、受匱乏苦,增血鑊身、增空曠路,無量往返生那落迦、傍生、鬼界及阿素洛、人、天趣中,受諸劇苦,皆由眼根不調伏故。如是或時,耳聞聲已、鼻嗅香已、舌甞味已、身覺觸已、意了法已,執取其相、執取隨好。由是因緣,於其意根不能正念防守而住,發生貪憂,便有無量惡不善法隨心流漏不可堰塞。於其意根不能防守,縱蕩意根行諸境界,貪著法味纏擾其心。緣此貪故,受長夜苦、受猛利苦、受匱乏苦,增血鑊身、增空曠路,無量往返生那落迦、傍生、鬼界及阿素洛、人、天趣中,受諸劇苦,皆由意根不調伏故。如是名為不調伏死。
私は世尊からこのようにお聞きしました。「比丘たちよ、知るがよい。死には二種類ある。その二つとは何か。第一は調伏されていない死、第二は調伏された死である。では、調伏されていない死とは何か。それは、愚かな凡夫で、正しい見解を持つ善き人に親しく近づくことができず、善き人の教えを理解できず、その教えに従って自らを調え整えることができない者たちのことである。彼らは次のように観察し執着する。すなわち、『色(物質)が私である』、『色は私に属する』、『色は私の中にある』、『私は色の中にある』と。また、『感受作用が私である』、『感受作用は私に属する』、『感受作用は私の中にある』、『私は感受作用の中にある』と。また、『表象作用が私である』、『表象作用は私に属する』、『表象作用は私の中にある』、『私は表象作用の中にある』と。また、『形成作用が私である』、『形成作用は私に属する』、『形成作用は私の中にある』、『私は形成作用の中にある』と。また、『識別作用が私である』、『識別作用は私に属する』、『識別作用は私の中にある』、『私は識別作用の中にある』と見なす。彼らは、眼で色を見ると、その形や細部に執着する。そのために、眼の根に対して正しい気づきをもって守ることができず、貪りや憂いが生じ、無数の悪く善くない法(現象)が心に従って流れ出し、堰き止めることができない。眼の根を守ることができず、眼の根を様々な対象に放縦にし、色の味わいに執着して心を絡め取られる。この貪りに縁って、長い夜の苦しみ、激しい苦しみ、欠乏の苦しみを受け、血の釜の身体を増やし、荒野の道を増やし、数え切れないほどの輪廻を繰り返して、地獄、畜生、餓鬼の世界、さらには阿修羅、人間、天の世界に生まれ、激しい苦しみを受ける。これらはすべて、眼の根が調伏されていないからである。あるいは、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身体で感触を感じ、意で法(対象)を認識したときも、同様に、その形や細部に執着する。そのために、意の根に対して正しい気づきをもって守ることができず、貪りや憂いが生じ、無数の悪く善くない法が心に従って流れ出し、堰き止めることができない。意の根を守ることができず、意の根を様々な対象に放縦にし、法の味わいに執着して心を絡め取られる。この貪りに縁って、長い夜の苦しみ、激しい苦しみ、欠乏の苦しみを受け、血の釜の身体を増やし、荒野の道を増やし、数え切れないほどの輪廻を繰り返して、地獄、畜生、餓鬼の世界、さらには阿修羅、人間、天の世界に生まれ、激しい苦しみを受ける。これらはすべて、意の根が調伏されていないからである。これが調伏されていない死と呼ばれるものである。」
「云何名為調伏而死?謂諸賢聖多聞弟子,已能親覲正見善士、已能了知善士之法,於善士法已自調順。不隨觀見:色即是我,色屬於我,色在我中,我在色中。不隨觀見:受即是我,受屬於我,受在我中,我在受中。不隨觀見:想即是我,想屬於我,想在我中,我在想中。不隨觀見:行即是我,行屬於我,行在我中,我在行中。不隨觀見:識即是我,識屬於我,識在我中,我在識中。眼見色已,不執其相、不執隨好。由是因緣,於其眼根善能正念防守而住,不起貪憂,所有無量惡不善法隨心流漏皆能堰塞。於其眼根善能防守,不縱眼根行諸境界、不貪色味纏擾其心。不緣此貪,受長夜苦、受猛利苦、受匱乏苦,增血鑊身、增空曠路,不復往返生那落迦、傍生、鬼界及阿素洛、人、天趣中,受諸劇苦,皆由眼根善調伏故。如是或時,耳聞聲已、鼻嗅香已、舌甞味已、身覺觸已、意了法已,不執其相、不執隨好。由是因緣,於其意根善能正念防守而住,不起貪憂,所有無量惡不善法隨心流漏皆能堰塞。於其意根善能防守,不縱意根行諸境界,不貪法味纏擾其心。不緣此貪,受長夜苦、受猛利苦、受匱乏苦,增血鑊身、增空曠路,不復往返生那落迦、傍生、鬼界及阿素洛、人、天趣中,受諸劇苦,皆由意根善調伏故。如是名為調伏而死。
では、どのような人が「調伏して死ぬ」と言われるのでしょうか。それは、賢明で多くの教えを聞いた弟子が、すでに正しい見解を持つ善き人に親しく近づき、善き人の教えをすでに理解し、その教えに従って自らをよく調え、整えた人のことです。
その人は、次のように見ることがありません。 「色(かたちあるもの)がそのまま『私』である」とか、「色は『私』に属する」とか、「『私』の中に色がある」とか、「色の中に『私』がある」と見ることがありません。 「感受(感覚)がそのまま『私』である」とか、「感受は『私』に属する」とか、「『私』の中に感受がある」とか、「感受の中に『私』がある」と見ることがありません。 「想念(イメージ)がそのまま『私』である」とか、「想念は『私』に属する」とか、「『私』の中に想念がある」とか、「想念の中に『私』がある」と見ることがありません。 「意志(心の働き)がそのまま『私』である」とか、「意志は『私』に属する」とか、「『私』の中に意志がある」とか、「意志の中に『私』がある」と見ることがありません。 「認識(意識)がそのまま『私』である」とか、「認識は『私』に属する」とか、「『私』の中に認識がある」とか、「認識の中に『私』がある」と見ることがありません。
また、その人は、目で色を見ても、その形や姿に執着せず、その細かな特徴に執着しません。このような理由から、その人は目の感覚をしっかりと正しい気づきで守りながら過ごし、貪りや憂いを起こしません。すると、心から流れ出る無数の悪い心の働きを、すべてせき止めることができるのです。
その人は、目の感覚をしっかりと守り、目を勝手にさまざまな対象に向けさせず、色の味わいに心を乱されることがありません。また、その貪りから、長い夜の苦しみ、激しい苦しみ、貧しい苦しみを受けることはありません。血の池のような地獄の身体を増やすことも、荒野のような迷いの道を増やすこともなく、再び地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人間、天といった世界に生まれ変わって、激しい苦しみを受けることはありません。これらはすべて、目の感覚をよく調伏したからです。
同じように、耳で音を聞いたとき、鼻で香りをかいたとき、舌で味を味わったとき、体で触れたものを感じたとき、心で物事を認識したときも、その形や姿に執着せず、その細かな特徴に執着しません。このような理由から、その人は意(心の根)の感覚をしっかりと正しい気づきで守りながら過ごし、貪りや憂いを起こしません。すると、心から流れ出る無数の悪い心の働きを、すべてせき止めることができるのです。
その人は、意の感覚をしっかりと守り、意を勝手にさまざまな対象に向けさせず、心の対象の味わいに心を乱されることがありません。また、その貪りから、長い夜の苦しみ、激しい苦しみ、貧しい苦しみを受けることはありません。血の池のような地獄の身体を増やすことも、荒野のような迷いの道を増やすこともなく、再び地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人間、天といった世界に生まれ変わって、激しい苦しみを受けることはありません。これらはすべて、意の感覚をよく調伏したからです。
このようなことを、「調伏して死ぬ」と言うのです。
「苾芻當知!不調伏死,沈沒無量生死苦海;調伏而死,超度無量生死苦海。是名二死。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
「比丘たちよ、知るがよい。調えられずに死ぬことは、計り知れない生死の苦しみの海に沈むことである。調えられて死ぬことは、計り知れない生死の苦しみの海を超え渡ることである。これを二つの死という。」 その時、世尊はこの意味をまとめて、次のように偈を説かれた。
「略說諸有情, 死法有二種,
調伏、不調伏, 更無有第三。
若不調伏死, 定於諸趣中,
受諸苦輪迴, 經無量往返。
調伏而死者, 終不墮惡趣,
於人天趣中, 能永盡眾苦。」
さあ、生きとし生けるものの 死に方には、二つしかない。 一つは調伏(修行による克服)された死、 もう一つは調伏されていない死。 第三の道は、どこにもない。
もし調伏されずに死ねば、 必ずや迷いの世界を巡り、 数え切れないほどの苦しみを受け、 限りない輪廻を繰り返す。
しかし、調伏されて死ぬ者は、 決して不幸な世界に落ちることはない。 人や天の幸せな世界で、 ついに全ての苦しみを滅ぼし尽くすのだ。
吾從世尊聞如是語:「苾芻當知!一切諸法略有二種。云何為二?一者雜染;二者清淨。應正觀察由一法生。所以者何?若於一法能正守護,則於一切能正守護;若於一法不能守護,則於一切不能守護。云何一法?謂眾生心。
私は世尊から次のように聞きました。「比丘たちよ、知っておきなさい。全ての現象(諸法)には、大きく分けて二つの種類がある。その二つとは何か?第一は煩悩に染まったもの(雑染)、第二は清らかなもの(清浄)である。これらは、ただ一つのものから生じることを正しく観察すべきである。なぜなら、もし一つのものを正しく守ることができれば、全てを正しく守ることができ、もし一つのものを守ることができなければ、全てを守ることができないからである。その一つのものとは何か?それは、心(衆生の心)である。」
「若有於心不能守護,則不能護身、語、意業;若不能護身、語、意業,是人即為身、語、意業皆悉敗壞;身、語、意業皆敗壞故,其心即有擾濁、垢穢。心有擾濁及垢穢者,能正了知自利樂事、他利樂事、俱利樂事,無有是處;能正了知善言說義、惡言說義,無有是處;能證一切勝上人法真聖智見,亦無是處。所以者何?心有擾濁及垢穢故。
もし心を守ることができなければ、身・口・意の業を守ることもできません。身・口・意の業を守れなければ、その人は身・口・意の業すべてを損なってしまいます。身・口・意の業がすべて損なわれると、その心には乱れや濁り、汚れが生じます。心に乱れや濁り、汚れがある者が、自分の利益となる楽しいこと、他人の利益となる楽しいこと、双方の利益となる楽しいことを正しく知ることはできません。また、善い言葉の意味と悪い言葉の意味を正しく知ることもできません。さらに、あらゆる優れた人の法である真の聖智の見解を証得することもできません。なぜなら、心に乱れや濁り、汚れがあるからです。
「譬如世間所有臺觀,若一中心不善覆蔽,則椽梁壁皆被淋漏,以椽梁壁被淋漏故,皆悉敗壞。又如世間隣近村邑、聚落池沼,擾濁、垢穢,有明眼人住其岸上,作意觀察,其中所有螺、蛤、龜、魚、礫石等類,行住普側,極難可見。所以者何?水有擾濁及垢穢故。如是眾生,若有於心不能守護,則不能護身、語、意業;若不能護身、語、意業,是人即為身、語、意業皆悉敗壞;身、語、意業皆敗壞故,其心即有擾濁、垢穢。心有擾濁及垢穢者,能正了知自利樂事、他利樂事、俱利樂事,無有是處;能正了知善言說義、惡言說義,無有是處;能證一切勝上人法真聖智見,亦無是處。所以者何?心有擾濁及垢穢故。
たとえば、世の中のあらゆる楼閣でも、もしその中心(屋根)一箇所がしっかりと覆われていなければ、軒や梁、壁までもが雨漏りし、それによって軒や梁、壁が腐ってしまい、すべてが崩れ去ってしまうようなものです。 また、村や集落のそばにある池や沼が、濁り、汚れているとしましょう。その岸辺に立つ目の清らかな人が、注意深く観察しても、中にいる螺(にな)、蛤(はまぐり)、亀、魚、小石などの種類が、動いているのか止まっているのか、横向きなのか、ほとんど見ることができません。なぜなら、水が濁り、汚れているからです。 これと同じように、もしある人が自らの心を守ることができなければ、身・語・意の業(行動・言葉・思考)を守ることもできません。身・語・意の業を守れないなら、その人は身・語・意の業をすべて壊してしまうことになります。身・語・意の業がすべて壊れてしまえば、その人の心には濁りと汚れが生じます。心に濁りと汚れがある人が、自分の利益となること、他人の利益となること、自他共の利益となることを正しく理解することは、決してできません。善い言葉の意味や悪い言葉の意味を正しく理解することもできません。また、あらゆる優れた人の教えである聖なる真実の智慧と見解を証得することも、決してできません。なぜなら、心に濁りと汚れがあるからです。
「若有於心能善守護,則能善護身、語、意業;若能善護身、語、意業,是人即為身、語、意業皆不敗壞;身、語、意業不敗壞故,其心即無擾濁、垢穢。心無擾濁及垢穢者,能正了知自利樂事、他利樂事、俱利樂事,斯有是處;能正了知善言說義、惡言說義,斯有是處;能證一切勝上人法真聖智見,斯有是處。所以者何?心無擾濁及垢穢故。
もし心をうまく守ることができるならば、身体・言葉・心の行い(身・語・意の三業)をよく守れる。もし身・語・意の三業をよく守れるならば、その人は三業がすべて壊れることがない。三業が壊れないので、その心には乱れや濁り、汚れがない。心に乱れや濁り、汚れがないならば、自分のための利益や楽しみ、他者のための利益や楽しみ、さらに自他のための利益や楽しみを正しく知ることができるのである。また、よい言葉の意味と悪い言葉の意味を正しく知ることもできる。さらに、すべてすぐれた聖者の真実の智慧と見解を悟ることもできる。なぜなら、心に乱れや濁り、汚れがないからである。
「譬如世間所有臺觀,若一中心極善覆蔽,則椽梁壁皆無淋漏;以椽梁壁無淋漏故,皆不敗壞。又如世間遠離村邑、聚落池沼,無有擾濁及諸垢穢,有明眼人住其岸上,作意觀察,其中所有螺、蛤、龜、魚、礫石等類,行住普側,極易可見。所以者何?水無擾濁及垢穢故。如是眾生,若有於心能善守護,則能善護身、語、意業;若能善護身、語、意業,是人即為身、語、意業皆不敗壞;身、語、意業不敗壞故,其心即無擾濁、垢穢。心無擾濁及垢穢者,能正了知自利樂事、他利樂事、俱利樂事,斯有是處;能正了知善言說義、惡言說義,斯有是處;能證一切勝上人法真聖智見,斯有是處。所以者何?心無擾濁及垢穢故。
たとえば、世の中のすべての建物は、もし中心がしっかりと覆われていれば、梁や壁が雨漏りせず、それゆえに傷まないようなものです。また、村や集落から離れた池や沼には、濁りや汚れがなく、澄んだ水の岸辺に立つ目の良い人が注意深く見れば、その中にいる巻き貝、蛤、亀、魚、小石などが、動いたり止まったり、あちらこちらにいる様子がはっきりと見えます。なぜなら、水に濁りや汚れがないからです。
それと同じように、心をよく守ることができる者は、身体と言葉と心の行いを善く守ることができます。そして、身体と言葉と心の行いを善く守ることができる人は、これらの行いが損なわれることがありません。行いが損なわれないので、その心には濁りや汚れが生じません。
心に濁りや汚れがないならば、自分の利益となること、他人の利益となること、そして双方の利益となることを正しく理解することができます。また、善い言葉の意味と悪い言葉の意味を正しく見分けることもできます。さらに、すべての優れた人の教えである真実の聖なる智慧と見解を証得することもできるのです。
なぜなら、心に濁りや汚れがないからです。
「苾芻當知!心雜染故,有情雜染;心清淨故,有情清淨。是故雜染、清淨二法,皆依止心,從心所起。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
比丘たちよ、知るがよい。心が煩わしければ、生きとし生けるものも煩わしく、心が清らかであれば、生きとし生けるものも清らかとなる。ゆえに、煩わしさと清らかさの二つの法は、すべて心に依って起こり、心より生じるのである。時に、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次の偈を説かれた。
「若不護於心, 隨順於諸欲,
恒馳散放逸, 一切無不為。
若善護於心, 不隨順諸欲,
無馳散放逸, 一切皆防護。
世間聰慧人, 能防身語意。
令不造諸惡, 名真健丈夫。」
もし心を守らず、 欲望のままに身を任せれば、 常に散り乱れ、放逸となり、 全ての悪を行ってしまう。
もし心をよく守り、 欲望に従わなければ、 散乱も放逸もなく、 すべてをよく防ぐことができる。
世の中の賢い人は、 身と口と心をよく制し、 諸々の悪を造らない。 それを真の丈夫(ますらお)という。
復從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二種見,令諸有情展轉相違互為怨害。云何為二?所謂有見及無有見。諸有沙門或婆羅門,攝受有見、習行有見、耽著有見,與諸愛樂無有見者,展轉相違互為怨害;稱讚有見,最為第一。諸有沙門或婆羅門,攝無有見、習無有見、著無有見,與其愛樂諸有見者,展轉相違互為怨害;讚無有見,最為第一。若有沙門或婆羅門,於此二見諸集、滅、味、過患、出離,不以正慧如實了知,我說彼人名無智見;有貪、瞋、癡,有違、有害,無慧、無明,不能解脫生老病死、愁歎憂苦熱惱等法,不能解脫生死眾苦。若有沙門或婆羅門,於此二見諸集、滅、味、過患、出離,能以正慧如實了知,我說彼人名有智見;無貪、瞋、癡,無違、無害,有慧、有明,定能解脫生老病死、愁歎憂苦熱惱等法,定能解脫生死大苦。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
また、世尊から次のようなお言葉を聞きました。
「比丘たちよ、知っておきなさい。この世には、互いに反目し合い、憎しみ合う原因となる二つの見解がある。その二つとは、『存在するという見解』と『存在しないという見解』である。ある沙門やバラモンが『存在するという見解』を受け入れ、それを実践し、それに執着すれば、『存在しないという見解』を好む者たちと互いに争い、憎しみ合うことになる。そして、彼らは『存在するという見解』を最上のものと称賛する。また、ある沙門やバラモンが『存在しないという見解』を受け入れ、それを実践し、それに執着すれば、『存在するという見解』を好む者たちと互いに争い、憎しみ合うことになる。そして、彼らは『存在しないという見解』を最上のものと称賛する。
しかし、ある沙門やバラモンが、これら二つの見解の起こり、消滅、味わい、過患、そしてそこからの離脱について、正しい智慧によってありのままに知らないならば、私はその人を『智見なき者』と呼ぶ。その人には貪り、怒り、愚かさがあり、争いや害をもたらし、智慧もなく、無明であり、生・老・病・死、嘆き、苦しみ、悩み、熱悩などの法から解脱できず、生死の苦しみから解脱できないのである。
一方、ある沙門やバラモンが、これら二つの見解の起こり、消滅、味わい、過患、そしてそこからの離脱について、正しい智慧によってありのままに知るならば、私はその人を『智見ある者』と呼ぶ。その人には貪り、怒り、愚かさがなく、争いや害もなく、智慧あり、明らかであり、必ず生・老・病・死、嘆き、苦しみ、悩み、熱悩などの法から解脱し、生死の大いなる苦しみから解脱するのである。」
その時、世尊はこの意味を簡潔にまとめて、次の偈を説かれました。
「世間由二見, 展轉互相違,
彼此作怨讎, 謂見有、無有。
諸有於此見, 愛樂不能捨,
是謂愚癡人, 恒毀他自讚。
若不知此見, 集滅味患出,
見毒箭所傷, 無明闇所覆;
具足貪瞋癡, 無智見明慧,
定不能解脫, 生老病死等。
若能知此見, 集滅味患出,
見毒箭不傷, 破無明黑闇;
遠離貪瞋癡, 具智見明慧,
決定能解脫, 生老病死等。」
世の中の人は、二つの「見解」に左右されて、 互いに相反し、対立し合い、 互いに敵意を抱くのです。 「有ると見る」か「無いと見る」かの見解によって。
ある見解に執着し、 それを愛し楽しんで手放せない人、 それは愚かな人であり、 常に他人を貶め、自分を褒め称えます。
もしも、この見解の生起・消滅・味わい・過患・出離を 知らなければ、 見解という毒矢に傷つけられ、 無明の闇に覆われたままです。
貪り・怒り・無知を満たし、 智慧の明るい見識を持たない者は 必ずや、生・老・病・死などから 解脱することができません。
しかし、もしこの見解の生起・消滅・味わい・過患・出離を 正しく知るなら、 見解の毒矢に傷つけられることなく、 無明の暗黒を打ち破り、
貪り・怒り・無知を遠く離れ、 智慧の明るい見識を具えた者は、 必ずや、生・老・病・死などから 解脱することができるのです。
復從世尊聞如是語:「苾芻當知!有二正見,應諦尋思、稱量、觀察。若諦尋思、稱量、觀察,能得未得、能觸未觸、能證未證、能超愁歎、能滅憂苦、能得如理、能觸甘露、能證涅槃。云何為二?所謂一切世間正見、出世正見。
さらに、世尊からこのように聞きました。
「比丘たちよ、知るがよい。二つの正しい見解がある。それをよく考え、はかり、観察すべきである。もしよく考え、はかり、観察するならば、まだ得ていないものを得、まだ触れていないものに触れ、まだ証していないものを証し、憂いや嘆きを超え、苦しみを滅ぼし、理にかなった境地を得、甘露に触れ、涅槃を証することができるであろう。
その二つとは何か。すなわち、世間における正しい見解と、世間を超えた正しい見解である。」
「云何名為世間正見?謂有一類起如是見,立如是論:決定有施,有受有祠,有善惡業,有異熟果,有此世間,有彼世間,有父有母,有諸有情化生種類於其世間,有諸沙門、婆羅門等,正至正行於此世間及彼世間,自然通達,作證領受。如是名為世間正見。
「では、どのようなものが世間における正しい見解なのでしょうか? それは例えば、ある人が次のような見解を持ち、次のような主張をすることです。 『布施には確かな意味があり、その施しを受ける人も、その行為を行う人も確かに存在する。善行や悪行にはそれに応じた報いがあり、この世もあの世も確かに存在する。父母は確かに存在し、また、この世には人の世話を必要とせずに生まれてくる生き物たちも存在する。そして、この世とあの世において、正しい境地に達し、正しい行いを実践する修行者や高僧たちが、自ずと悟りを得て、その真理を自らの体験として理解し、証明しているのである。』 このように捉えることこそが、世間における正しい見解なのです。
「諸聖弟子於此所說世間正見,應諦尋思、稱量、觀察:依此所說世間正見,能令眾生畢竟解脫生老病死、愁歎憂苦熱惱等法不?諦觀察已,便正了知:依此所說世間正見,不令眾生畢竟解脫生老病死、愁歎憂苦熱惱等法。所以者何?如是所說世間正見,非真聖見、非出離見、非能究竟證涅槃見,非厭、非離,非滅、非靜,不證通慧,非成等覺、非得涅槃,而能感得生老病死、愁歎憂苦熱惱等法。如是知已,於世間法生怖畏想,於出世法生安靜想。以於世間生怖畏故,都無執受;無執受故,無所希求;無希求故,於內證得究竟涅槃。如是證已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是汝等,於此所說世間正見,應諦尋思、稱量、觀察。
諸々の聖なる弟子たちよ、ここで説かれた世間的な正しい見解について、よく尋ね、よく考え、よく観察しなさい。この世間的な正しい見解によって、人々を生・老・病・死、憂い・嘆き・苦しみ・悩み・熱悩などから最終的に解脱させることができるだろうか、と。よく観察したならば、次のようにはっきりと知るでしょう。この世間的な正しい見解は、人々を生・老・病・死、憂い・嘆き・苦しみ・悩み・熱悩などから最終的に解脱させるものではない、と。なぜなら、ここで説かれた世間的な正しい見解は、真の聖者の見解ではなく、出離(迷いの世界を離れる)の見解でもなく、究極の涅槃を証する見解でもなく、嫌悪(欲望を離れること)でも離脱でもなく、消滅でも静寂でもなく、さとりの智慧を証することもなく、正しい覚りを成就することもなく、涅槃を得ることもなく、反って生・老・病・死、憂い・嘆き・苦しみ・悩み・熱悩などを招き寄せるものだからです。このように知って、世間の法に対しては恐怖の想いを起こし、出世の法に対しては安らぎの想いを起こすのです。世間に対して恐怖を起こすがゆえに、何にも執着しません。執着しないがゆえに、何も求めません。求めないがゆえに、内において究極の涅槃を証します。このように証したならば、自ら知るのです。「私は生を尽くした。清らかな修行は既に確立された。為すべきことは既に成し遂げられた。もはや再び迷いの生存を受けることはない」と。このように、あなたがたは、ここで説かれた世間的な正しい見解について、よく尋ね、よく考え、よく観察しなさい。
「云何名為出世正見?謂知苦智、知苦集智、知苦滅智、知能趣向苦滅道智,如是名為出世正見。
「では、世を超えた正しい見解とは何でしょうか?それは、苦しみを理解する智慧、苦しみの原因を理解する智慧、苦しみの消滅を理解する智慧、そして苦しみの消滅へと導く道を理解する智慧です。これらを総称して、世を超えた正しい見解と呼びます。」
「諸聖弟子於此所說出世正見,應諦尋思、稱量、觀察:依此所說出世正見,能令眾生畢竟解脫生老病死、愁歎憂苦熱惱等法不?諦觀察已,便正了知:依此所說出世正見,能令眾生畢竟解脫生老病死、愁歎憂苦熱惱等法。所以者何?如是所說出世正見,是真聖見、是出離見、是能究竟證涅槃見,能厭、能離,能滅、能靜,能證通慧、能成等覺、能得涅槃,能超一切生老病死、愁歎憂苦熱惱等法。如是知已,於出世法生珍寶想,於世間法生下賤想。於出世法生珍寶想故,便生歡喜;生歡喜故,其心安適;心安適故,身得輕安;身輕安故,便受悅樂;受悅樂故,心得寂定;心寂定故,能實知見;實知見故,能深厭背;深厭背故,能正離欲;正離欲故,能得解脫。得解脫已,便自了知:我生已盡,梵行已立,所作已辦,不受後有。如是汝等,於此所說出世正見,應諦尋思、稱量、觀察。
諸々の聖なる弟子たちよ、ここに説かれた出世間の正しい見解について、よくよく考察し、評価し、観察すべきである。すなわち、「この説かれた出世間の正しい見解は、生きとし生けるものをして、実に生・老・病・死、憂い・嘆き・苦しみ・悩み・熱悩などの法から、究極的に解脱させることができるのか」と。よく観察したならば、次のように正しく知るであろう。「この説かれた出世間の正しい見解は、生きとし生けるものをして、実に生・老・病・死、憂い・嘆き・苦しみ・悩み・熱悩などの法から、究極的に解脱させることができる」と。なぜなら、このように説かれた出世間の正しい見解は、真の聖なる見解であり、出離の見解であり、究極的に涅槃を証する見解であって、厭離させ、離貪させ、消滅させ、寂静をもたらし、智慧を証得させ、正覚を成就させ、涅槃を得させ、あらゆる生・老・病・死、憂い・嘆き・苦しみ・悩み・熱悩などの法を超えさせるからである。このように知って、出世間の法に対しては宝の如く尊び、世間の法に対しては卑しいものと観ずる。出世間の法を宝のように尊ぶゆえに、喜びが生じる。喜びが生じるゆえに、心は安らかとなる。心が安らかなゆえに、身体は軽やかとなる。身体が軽やかなゆえに、安楽を感じる。安楽を感じるゆえに、心は寂静に定まる。心が寂静に定まるゆえに、物事を如実に知見する。如実に知見するゆえに、深く厭い離れる。深く厭い離れるゆえに、正しく欲を離れる。正しく欲を離れるゆえに、解脱を得る。解脱を得たならば、自ら了知する。「我が生は尽きた。清らかな行いは既に立ち、為すべきことは成し遂げ、もはや新たな存在を受けることはない」と。このように、あなたたちはここに説かれた出世間の正しい見解について、よくよく考察し、評価し、観察すべきである。
「如是名為二種正見,應諦尋思、稱量、觀察;能得未得、能觸未觸、能證未證、能超愁歎、能滅憂苦、能得如理、能觸甘露、能證涅槃。」爾時,世尊重攝此義而說頌曰:
これら二つの正見を、よく考え、見極め、観察するならば、得ていないものを得、触れていないものに触れ、証していないものを証することができ、憂いや嘆きを超え、苦しみを滅し、道理にかなったものを得、甘露に触れ、涅槃を証することができる。」
その時、世尊はこの意味をまとめて、次のように偈を説かれた。
「正見有二種, 世間、出世間,
智者諦尋思, 能正盡眾苦。
諦思於世間, 便生怖畏想,
由無執受等, 究竟證涅槃。
諦思出世間, 便生珍寶想,
歡喜心安適, 從此獲輕安;
輕安故受樂, 樂故心寂定,
心定生覺支, 知見四如實;
見實斷諸疑, 疑除無所取,
解脫一切苦, 證無上涅槃。」
賢者はこれをよく考え、 苦しみを完全に滅ぼします。 世間について深く考えると、 恐れの思いが生じますが、 執着がないことなどによって、 ついに涅槃を悟ります。 出世間について深く考えると、 宝物のように思われ、 心は喜び安らぎ、 そこから軽やかさを得ます。 軽やかさゆえに安楽を感じ、 安楽ゆえに心は静かに定まり、 心が定まると覚りの支えが生じ、 知見は四つの真理をあるがままに見ます。 真理を見て疑いを断ち、 疑いが除かれると執着がなくなり、 一切の苦しみから解脱し、 無上の涅槃を証得します。」
重攝前經嗢柁南曰:
重ねて先の経をまとめると、次の偈のようになります。
施、祠與集會 如、不如、學、終
行、相、相違、死 染淨及二見
施し、祭祀、そして集会。 道理にかなったこと、そうでないこと、学び、そして終わり。 行い、兆し、それらの対立、死。 煩わしさと清らかさ、そして二つの見解。
本事經卷第五
本事経 第五巻