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大乗密厳経 (大乘密嚴經)

「大乘密嚴經」について

唐 · 底本の訳者:地婆訶羅

2.6 万字 · 約 86 分

大乗密厳経は、別名を厚厳経ともいい、唐代にインドの高僧である地婆訶羅によって漢訳されました。この経典は中期大乗仏教の経典に属し、如来蔵思想と唯識の教えを融合させています。その内容は、すべての現象はただ心識によって現れたものであり、密厳仏国は諸仏の清らかな法の世界であり、すべての生きとし生けるものは如来蔵としての自性清浄心を備えていることを説いています。経典の中では、アーラヤ識(蔵識)が転じて智慧となり、仏のさとりと浄土を成就することが強調されています。この経典は中国仏教における重要な典籍であり、華厳宗と唯識宗の発展に深い影響を与え、如来蔵系を代表する経典の一つと見なされています。中国の仏性論や心性の学説に対して、


大乘密嚴經卷上

大乗密厳経 巻上

唐天竺三藏地婆訶羅奉制譯

唐・天竺三蔵・地婆訶羅 勅命訳

密嚴會品第一

密厳会品 第一

如是我聞:

このように私はお聞きしました。

一時佛住出過欲色無色無想於一切法自在無礙神足力通密嚴之國,非諸外道二乘行處,與諸隣極修觀行者十億佛土微塵數菩薩摩訶薩俱,皆超三界心意識境,智意生身轉於所依,成就如幻首楞嚴法雲三昧,處離諸有蓮花之宮,為無量佛手親灌頂,其名曰:摧異論菩薩、大慧菩薩、如實見菩薩、持進菩薩、解脫月菩薩、觀自在菩薩、得大勢菩薩、神通王菩薩、文殊師利菩薩、金剛藏菩薩,如是等菩薩摩訶薩而為上首。

ある時、仏は欲望の世界、色界、無色界、さらには無想界をも超え、すべての法において自在で障害なく、神足通の力によって密厳の国に滞在されていた。そこは、外道や二乗の修行者の及ぶところではない。また、隣接する極めて優れた観行を修める者たち、すなわち十億の仏土の微塵の数にも等しい菩薩摩訶薩たちと共にあった。彼らは皆、三界の心・意・識の領域を超え、智と意によって生まれた身(意生身)において、その依りどころを転じ、幻のごとき首楞厳と法雲の三昧を成就していた。また、あらゆる存在(有)を離れた蓮華の宮殿に住み、無数の仏の手によって直接灌頂を受けていた。その菩薩たちの名は、摧異論菩薩、大慧菩薩、如実見菩薩、持進菩薩、解脱月菩薩、観自在菩薩、得大勢菩薩、神通王菩薩、文殊師利菩薩、金剛蔵菩薩である。これらの菩薩摩訶薩たちが上首となっていた。

爾時如來、應、正等覺,從自證智境現法樂住神通辯才現眾色像三昧而起,出虹電光妙莊嚴殿,與諸菩薩入於無垢月藏殿中,昇密嚴場師子之座,諸菩薩眾亦皆隨坐。眾坐已定,於時世尊四方周顧,從眉間出清淨光明名髻珠莊嚴,有無量光周匝交映成光明網。是光明網流照之時,一切佛土莊嚴之相分明顯現如一佛土,餘諸佛土嚴飾細妙同於微塵。密嚴佛土超諸佛國,無有日月及諸星宿,如無為性不同微塵。此密嚴中諸佛菩薩,并餘國土來此會者,皆如涅槃虛空及非擇滅。

爾時、如来・応供・正等覚は、自らの悟りの智慧の境地から現れる法の楽しみに安住し、神通と弁才をもって様々な衆生の姿を示す三昧より起ち上がり、虹と電光の輝きを放つ妙荘厳殿を出で、諸々の菩薩と共に無垢月蔵殿に入り、密厳の場に設けられた獅子の座に上られました。菩薩の皆様もまた、それに従ってお座りになりました。

皆が座り終えると、その時、世尊は四方を見渡され、眉間から清らかな光明(名づけて「髻珠荘厳」)を放たれました。その光明には無量の光が周りを照らし交わり合って、光の網を成しました。この光明の網が遍く照らし渡る時、一切の仏国土の荘厳な相が、まるで一つの仏国土であるかのようにはっきりと現れ、他の諸仏国土の細やかで妙なる荘厳は微塵のようにも見えました。

密厳仏国土は諸々の仏国を超え、日月や星宿がなく、無為の性質の如くであり、微塵のようではありません。この密厳の中にいる諸仏・諸菩薩、そして他の国土からこの法会に集まった方々は、皆、涅槃や虚空、及び非択滅の如くでありました。

爾時世尊現諸國土及佛菩薩勝功德已,復以佛眼遍視十方諸菩薩眾,謂如實見菩薩言:「如實見!今此國土名為密嚴。是中菩薩從色無色無想之處,以三昧力生智慧火,焚燒色愛及以無明,轉所依止而得智定。意生之身神足力通以為嚴飾,無竅隙、無骨體,如日月虹電、紫金明珠、頗梨珊瑚、訶利多羅占波迦、孔雀花月鏡中之像,住於諸地淨有漏因三昧自在,十究竟願及以迴向,獲殊妙身而來住此。」

その時、世尊は諸々の国土と仏・菩薩の勝れた功徳を現し終えられた後、再び仏眼をもって十方の諸菩薩の衆をくまなく見渡し、如実見菩薩に告げられた。「如実見よ、今この国土の名を密厳という。この中の菩薩たちは、色界・無色界・無想天の境涯から、三昧の力によって智慧の火を生じ、色界への愛着や無明を焼き尽くし、よりどころを転換して智慧の三昧を得るのである。意のままに生じる身は、神足通の力によって厳かに飾られ、隙間なく、骨格もない。あたかも日月・虹・電光・紫金・明珠・玻璃・珊瑚・呵利多羅・占波迦・孔雀・花・月・鏡の中の像のようなものであり、諸々の浄らかな地にとどまり、有漏の因を清め、三昧に自在であり、十の究竟の願いと廻向とによって、殊勝な妙なる身を得て、ここにやって来て住するのである。」

爾時如實見菩薩在大眾中,即從座起,偏袒右肩右膝著地,曲躬合掌白佛言:「世尊!我於今者欲有所問,惟願如來哀許為說。」

その時、如実見菩薩が大衆の中から立ち上がり、右肩をあらわにし、右膝を地面につけて、体をかがめて合掌し、仏に向かって申し上げた。 「世尊よ、私は今、お尋ねしたいことがございます。どうか如来様が哀れみ深くお許しになり、お説きくださいますようお願い申し上げます。」

佛告之言:「善哉善哉!恣汝所問,當為開演。」

仏はおっしゃいました。「よくぞ聞いてくれた。その質問を自由にしなさい。あなたに詳細に説き明かしましょう。」

時如實見即白佛言:「世尊!唯此佛土出過欲色無色無想眾生界耶?」

時に如実見は、ただちに仏に申し上げた。 「世尊よ、この仏土のみが、欲界・色界・無色界・無想の衆生の世界を超えているのでしょうか?」

佛言:「善男子!上方去此過百億佛國,有梵音佛土、娑羅樹王佛土、星宿王佛土。過如是國,復有無量百千國土,廣博殊麗種種莊嚴,彼中諸佛咸為菩薩說現法樂住內證智境離諸分別真如實際大涅槃界究竟之法。是故當知此佛土外,有如是等無量佛國。如實見!非唯汝今於佛國土菩薩眾會心生疑怪請問如來。此有菩薩名曰持進,曾於佛所生疑怪心,便以神通昇于上方,過百千億乃至如恒河沙諸佛世界,不能一見如來之頂。心生希有,念佛菩薩不可思議,還娑婆世界舍衛城中,至於我所悔謝己過,歎佛無邊猶如虛空,住內證境來密嚴國。」

仏がおっしゃった。「善男子よ、この上方、百億の仏国土を過ぎた先に、梵音仏国土、娑羅樹王仏国土、星宿王仏国土がある。これらの国土を過ぎてさらに無量の百千の国土があり、広大で殊妙に美しく、様々な荘厳を備えている。そこにいます諸仏は皆、菩薩たちのために、現法楽住・内証智境・諸分別を離れた真如・実際・大涅槃界という究極の法を説いておられる。ゆえに、この仏国土の外にも、このような無量の仏国土があることを知るべきである。如実見よ、汝だけが今、仏国土や菩薩の集いに対して疑問を抱き、如来に問い質しているのではない。ここに持進という菩薩がいて、かつて仏に対して疑問の心を起こし、神通力をもって上方に昇り、百千億から恒河沙の数の諸仏世界を過ぎても、如来の頂上を見ることができなかった。これを稀なることと思い、仏と菩薩の不可思議な力を念じて、娑婆世界の舎衛城に戻り、私のところに来て過ちを悔い、仏の限りなさは虚空の如く、内証の境に住して密厳国に来るのだと嘆じたのである。」

爾時會中金剛藏菩薩摩訶薩,善能演說諸地之相,微妙決定盡其源底,從座而起,偏袒右肩右膝著地,曲躬合掌白佛言:「世尊!我於如來、應、正覺所欲問少法,願佛慈哀為我宣示。」

その時、会の席にいた金剛蔵菩薩摩訶薩は、諸々の修行段階(地)の様相を巧みに説き、その奥深く微細な意味を余すところなく極めていた。彼は座を立ち、右肩を露わにして右膝を地につけ、身をかがめて手を合わせ、仏に申し上げた。「世尊よ、私は如来・応供・正等覚者であるあなた様に、少しばかりの法についてお尋ねしたいことがございます。どうか仏様の慈しみをもって、私にお示しくださいますように。」

佛言:「金剛藏!汝於我所欲有所問,如來、應、正等覺當順汝心為汝開演。」

仏陀は言われた。「金剛蔵よ、あなたは私に対して問いたいことがあるのだね。如来、応供、正等覚は、あなたの心に従って、その疑問に答えるために説き明かしましょう。」

爾時金剛藏菩薩摩訶薩蒙佛許已,即白佛言:「世尊!佛菩提者是何句義?所覺是何?請說第一義境示法性佛,除去來今在行地者色相之見及取著外論,行分別境,起微塵、勝性、自在、時方、虛空、我意、根境和合,如是諸見復有計著,無明愛業眼色與明,是時復有觸及作意,如是等法而為因緣、等無間緣、所緣緣、增上緣,和合生識虛妄憶度,起有無等種種言論。此法之中復有諸人,於蘊眾生墮空性見。為斷如是妄分別覺,唯願世尊說離五種識所知相,能於諸法最自在者佛大菩提所覺知義,令得聞者知其了悟所知五種而成正覺。」

そこで金剛蔵菩薩摩訶薩は、仏の許しを得て、仏に申し上げた。

「世尊よ。仏の菩提とは、どのような意味であり、どのような句義なのでしょうか。悟られるものとは何でしょうか。どうか、第一義の境地をお示しになり、法性の仏を示し、過去・未来・現在において修行の位にある者が、色相の見解や、外道の論を執着し、分別の境地に陥り、微塵、勝性、自在、時方、虚空、我意、根境の和合などの種々の見解を起こし、さらに、無明、愛、業、眼色と明、触、作意などの法を因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁として、和合して識を生じ、虚妄に憶度して、有や無などの種々の議論を起こすのを断ち切ってください。

この法の中には、また、諸々の人々がいて、蘊や衆生について空性の見解に堕ちています。このような虚妄な分別の覚りを断ち切るために、どうか世尊は、五つの識が知る相を離れて、もろもろの法において最も自在なる、仏の大菩提の悟られる意味をお説きください。それによって、聞く者に、五つの所知の相を了知し、正しい覚りを成し遂げることを知らしめてください。」

爾時佛告金剛藏菩薩摩訶薩言:「善哉善哉!金剛藏!十地自在超分別境,有大聰慧能欲顯示法性佛種最上瑜祇。非惟汝今於佛菩提所覺之義生希有念請問於我,有賢幻等無量菩薩,咸於此義生希有心,種種思惟而求佛體:如來者是何句義?為色是如來耶?異色是如來乎?如是於蘊界處諸行之中內外循求不見如來,皆是所作滅壞法故。以智定意審諦觀察,乃至分析至於微塵皆悉不見,蘊麁鄙故、如來者常法身故。善哉佛子!汝能善入甚深法界。諦聽諦聽,善思念之,當為汝說。」金剛藏菩薩摩訶薩:「唯然受教。」

その時、仏は金剛蔵菩薩摩訶薩に告げられた。「善きかな、善きかな、金剛蔵よ。十地の自在は分別の境を超えている。あなたは大いなる聡慧を持ち、法性・仏種・最上の瑜祇(ゆぎ)を顕そうと欲している。今日、あなたが私に、仏の悟りにおいて覚知された意味について、希有の念を起こして問うのみではない。賢幻などの無量の菩薩たちもみな、この意味について希有の心を起こし、様々に思惟して仏の本体を求めている。『如来とは何の句義か。色が如来なのか。色と異なるものが如来なのか。』このように、蘊・界・処の諸行において、内外をくまなく求めても如来は見えない。それらはすべて、作りなされた滅びゆく法だからである。智慧と定の心をもって、慎み深く観察し、微塵にまで分析しても、すべては見出せない。蘊は粗鄙であり、如来は常なる法身だからである。善きかな、仏子よ。あなたはよく深き法界に入ることができる。よく聞け、よく聞け、よく思惟し念じよ。今、あなたのために説こう。」金剛蔵菩薩摩訶薩は「謹んでお受けいたします」と答えた。

佛言:「善男子!金剛三昧藏勝自在者如來,非蘊亦不異蘊、非依蘊非不依蘊、非生非滅、非智非所知、非根非境。何以故?蘊界處諸根境等皆麁鄙故,不應住內、不應住外而見如來。善男子!色無覺知無有思慮,生已必滅,同於草木瓦石之類,微塵集成如水聚沫。受以二法和合而生,猶如浮泡瓶衣等。想亦二和合因緣所生,如熱時焰。譬如盛熱地氣蒸涌,照以日光如水波浪,諸鳥獸等為渴所逼,遠而見之生真水解。想亦如是,無有體性虛妄不實。分別智者如有性見各別體相名字可得,定者審觀猶如兔角石女兒等,但有假名初無實義。如夢中色唯想妄見寤即非有,無明夢中見男女等種種之色,成於正覺即無所見。譬如芭蕉皮葉既除中無有實,行亦如是,離於身境即無體性。識如幻事虛偽不實,譬如幻師若幻師弟子,以草木等物幻作於人及諸象馬種種形體具足莊嚴,愚幻貪求非明智者。識亦如是,依餘而住而異分別,謂能所取二種而生,若自了知即皆轉滅,是故無體同於幻事。

仏陀がおっしゃった。 「善き男子よ。金剛三昧蔵の勝れた自在者である如来は、五蘊そのものではなく、また五蘊とは別のものでもない。五蘊に依っているのでもなく、五蘊に依っていないのでもない。生じるのでもなく、滅するのでもない。智慧でもなく、認識される対象でもない。感覚器官でもなく、その対象でもない。 なぜなら、五蘊や十八界、十二処、諸々の感覚器官やその対象などは、すべて粗く鄙(いや)しいものであるからである。ゆえに内に住むべきでもなく、外に住むべきでもなくして、如来を見るべきなのである。

善き男子よ。物質(色)には知覚もなく、思慮もない。生じたならば必ず滅するものであり、草木や瓦石のたぐいと同じく、微塵が集まってできたもので、水の泡が集まったようなものである。 感受(受)は、二つの条件が和合して生じるものであり、浮かぶ泡や瓶や衣服のようなものである。 想念(想)もまた、二つの和合した因縁によって生じるものであり、陽炎のようなものである。たとえば、盛んに熱せられた地面から蒸気が立ち上り、日光に照らされて水の波のように見え、渇きに苦しめられた鳥や獣が遠くからそれを見て、本物の水があると思い込むようなものである。 想もまたこれと同じであり、実体はなく、虚妄であって真実ではない。 分別を智慧とする者は、あたかも実体があるかのように見て、それぞれ別々の体の相や名前があると思い込むが、定(心を統一した者)が審らかに観察すれば、それは亀の毛や兎の角、石の娘などのようなものであり、仮の名があるだけで、本来は実体がないことを知る。

夢の中で見る色も、ただ妄想によって誤って見るものであり、覚めれば存在しない。無明の夢の中で、男女などの様々な色を見るが、正覚を成就すれば、何も見ることはない。 たとえば芭蕉(バショウ)は、皮や葉を取り除けば、中に実体がないのと同じである。行為(行)もまたこれと同じであり、身体と対象(境)を離れれば、実体はなくなる。 認識(識)は幻のようであり、虚偽であって真実ではない。たとえば幻術師やその弟子が、草木などの物を使って、人間や象や馬など様々な形を作り出し、完全に飾り立てても、愚か者はそれを欲しがるが、賢い者ではない。識もまたこれと同じであり、他のものに依って存在し、異なった分別を起こす。すなわち、能取(主体)と所取(客体)という二つのものによって生じるのであり、もし自ら了知すれば、たちまち転じて滅する。ゆえに実体はなく、幻の事物と同じなのである。」

「金剛藏!如來常住恒不變易,是修念佛觀行之境名如來藏。猶如虛空不可壞滅,名涅槃界亦名法界。過現未來諸佛世尊,皆隨順此而宣說故。如來出世、不出世間此性常在,名法住性亦名法尼夜摩性。金剛藏!云何名為尼夜摩?後有諸惡此皆離故。又此三昧能決定除後有諸惡,以如是義名尼夜摩。若有住此三昧之者,於諸眾生心無顧戀,證於實際及以涅槃,猶如熱鐵投清冷水故。諸菩薩捨而不證近住而已,常為眾生而作利益,不捨精進大悲諸度、不斷佛種、不行外道二乘之徑,如大力象,不為三昧淤泥所溺,心不味著識之境界,趣佛法門恒無退轉,以究竟慧入佛法身,開顯如來廣大威德,當成正覺轉妙法輪,智境眾色而為資用,入如來定遊涅槃境,漸次修行超第八地,善巧積習乃至法雲,資用如來廣大威德,住於諸佛內證之地,與無功用三昧相應,遍遊十方不動本處,而恒依止密嚴佛國轉於所依,智定意身力通自在皆得具足。譬如空月影遍眾水,佛亦如是,化形普降於諸世間,隨眾生心所樂不同,皆使蒙益無空見者,復令當詣密嚴佛國。如其性欲而漸開誘,為說一切欲界天王自在菩薩摩尼宮等諸安樂處,乃至諸地次第十方佛土功德莊嚴,盡於未來隨機應現。如因持呪安繕那藥及諸靈仙宮殿之神,與人同止而不可見。如來變化所為事畢,住於真身晦而不現,亦復如是。」

「金剛蔵よ。如来は常住にして、常に変わることなく、不変である。これこそが、念仏の観行を修める者の境涯であり、これを如来蔵という。虚空のごとく壊れず滅することなく、涅槃界とも法界とも名づけられる。過去・現在・未来の諸仏世尊は、みなこれに随順して宣説するからである。如来が世に現れようと現れまいと、この性質は常に存在する。これを法住性とも法尼夜摩性とも名づける。

金剛蔵よ。いかなるものを尼夜摩というのか。後の世における諸々の悪を、ことごとく離れるからである。またこの三昧は、後の世の諸悪を決定して除くことができる。そのような意味から尼夜摩と名づけられる。もしこの三昧に安住する者があれば、諸々の衆生に対して心に顧み執着することがなく、実際および涅槃を証得する。それはあたかも熱した鉄を清冷な水に投じるがごとくである。

ゆえに諸菩薩は、これを捨てて証得せず、近づきながらもとどまるのみである。常に衆生のために利益をなそうとして、精進・大悲・諸度を捨てず、仏種を断たず、外道や二乗の道を行じない。大力の象のごとく、三昧という泥に溺れることなく、心に識の境界を味わい執着せず、仏法の門に趣いて常に退転することがない。究竟の智慧をもって仏法身に入り、如来の広大なる威徳を開き顕し、まさに正覚を成し、妙法輪を転ずるであろう。智境の衆色を資用として、如来の定に入り涅槃の境に遊び、徐々に修行を積んで第八地を超え、善巧に習熟しついには法雲地に至り、如来の広大なる威徳を資用として、諸仏の内証の地に住する。無功用の三昧と相応して、十方に遍く遊びながらも本処を動かず、常に密厳仏国に依り止まって転依をなす。智・定・意・身・力・通・自在、すべてを具足する。

あたかも虚空の月が、その影を衆水に映すように、仏もまた同じく、その化身を諸々の世間に普く降し、衆生の心の楽しむところに従って同じからずとも、すべてをして利益を得せしめ、空しく見る者なく、さらに密厳仏国に至らしめる。その性質や欲に従って徐々に開き誘い、一切の欲界の天王・自在菩薩・摩尼宮などの諸々の安楽処を説き、さらには諸地・次第・十方仏土の功徳荘厳をも説き、尽未来際にわたって機に応じて現ずる。あたかも、呪文を保つことや安繕那薬、霊仙の宮殿の神々が、人と同じ場所にいながら見ることができないのと同じく、如来の変化も、そのなすべきことを終えれば、真身に住して晦れて現れないのである。」

爾時世尊而說偈言:

その時、世尊は偈を説かれた。

「根蘊如蛇聚, 境界緣所觸,
癡愛業以生, 眾習縛難解。
心及諸心法, 動慮恒不安,
覺觀所纏繞, 如龍共盤結。
瞋毒從此興, 譬如炎盛火,
諸修觀行者, 為捨眾蘊法。
於此常諦觀, 一心而不懈,
譬如虛空中, 無樹而有影,
風衢與鳥跡, 此見悉為難。
能造及所造, 色與非色法,
於彼見如來, 其難亦如是。
真如實際等, 及諸佛體性,
內證之所行, 超諸語言境。
涅槃名為佛, 佛亦名涅槃,
離諸分別想, 云何而可見?
碎末於金礦, 礦中不見金,
智者巧融鍊, 真金方乃顯。
分剖於諸色, 乃至為微塵,
及析求諸蘊, 若一若異性,
佛體不可見, 亦非無有佛。
定者觀如來, 三十二相具,
若樂等眾事, 施作皆明顯,
是故不應說, 如來定是無。
三昧一緣佛, 善因善根佛,
一切世勝佛, 及正等覺佛,
如是五種佛, 所餘皆變化。
三十二勝相, 如來藏具有,
是故佛非無, 定者能觀見。
出過於三界, 無量諸佛國,
如來微妙剎, 淨佛子充滿。
禪慧互相資, 以成堅固性,
遊於密嚴土, 思惟佛威德。
密嚴中之人, 一切同於佛,
超過剎那壞, 恒遊三昧中。
世尊有大定, 湛然而正受,
相好諸功德, 內外以莊嚴。
眾謂佛化身, 從於兜率降,
佛常密嚴住, 像現從其國。
住真而正受, 隨緣眾像生,
如月在虛空, 影鑒於諸水;
如摩尼眾影, 色合而明現;
如來住正定, 現影亦復然。
譬如形與像, 非一亦非異,
如是勝丈夫, 成於諸事業,
非微塵勝性, 非時非自在,
亦非餘緣等, 而作於世間。
如來以因性, 莊嚴其果體,
隨世之所應, 種種皆明現,
遊戲於三昧, 內外無不為。
山川及林野, 朋友諸眷屬,
眾星與日月, 皎鏡而垂象。
如是諸世間, 身中盡包納,
復置於掌內, 散擲如芥子。
佛於定自在, 牟尼最勝尊,
無能作世間, 唯佛之所化。
盲暗無知者, 馳流妄分別,
計著於有無, 若我及非我,
或言一切壞, 或言少分滅。
如是諸人等, 常自害其身,
云何於此中, 而生是諸見?
佛是遍三界, 觀行之大師,
觀世如乾城, 所作眾事業,
亦如夢中色, 渴獸所求水,
因於種種業, 風繩而進退。
佛於方便中, 自在知見者,
譬如工巧匠, 善守於機發,
亦如海船師, 執拕而搖動。
如來最微妙, 寂靜無有邊,
超諸有著根, 淨根之所證。
是修行定者, 微妙定所依,
一切觀行人, 明了心中住。
佛體最清淨, 非有亦非無,
遠離於限量, 及以能所覺。
妙智相應心, 最上之境界,
知相皆無性, 是即見如來。
破諸相應心, 不著於三昧,
住於無染路, 一切皆無染。
諸天乾闥婆, 阿修緊那羅,
仙人及外道, 讚歎而供養。
於彼不耽求, 而興世間業,
以住本清淨, 相應妙理中。
天人等見者, 變化之所作,
佛非彼此現, 而同於日月,
住於圓應道, 現除諸貢高,
異學各不同, 隨宜而攝御。
種種眾智法, 王論三毘陀,
悉是諸如來, 定力持而說。
國王王臣等, 乃至山林處,
所有諸儀則, 皆從佛出生。
十方眾寶藏, 出生清淨寶,
悉是天中天, 自在威神故。
一切三界中, 有諸明智者,
種種方便業, 因佛而成就。
現從兜率降, 婇女眾圍繞,
歌舞共歡娛, 日夜常遊集。
或如堅利智, 舍陵波居士,
執世之直繩, 與奪而招放。
雖於一切處, 現為明智者,
而在密嚴中, 寂然無動作。
此大牟尼境, 凡愚異分別,
譬如瞖目人, 亦猶眾渴獸,
如世觀於幻, 夢中諸所取。
天中天境界, 佛子見其真,
如是觀行人, 如從於睡覺。
那羅與伊舍, 梵天娑旦那,
難陀鳩摩羅, 劫比首迦等,
處定而思審, 於此常迷惑。
去來現在世, 一切諸牟尼,
習氣覆於心, 亦所不能見。
善哉金剛藏! 普行諸地中,
復以佛威神, 而居密嚴土,
是汝之境界, 我今為汝說。
或有妄分別, 勝性與微塵,
如工作諸物, 種種諸形相,
生唯是法生, 滅亦唯法滅。
妄計一切物, 細塵能造作,
因能了於果, 譬如燈照物。
先不得其相, 後壞亦復然,
非於過去中, 有體而可得,
未來亦如是, 離緣無有性。
一一諸緣內, 遍求無有體,
不見性有無, 亦無無有見。
於蘊瓶衣等, 微細而分別,
三百有六十, 邪宗壞正道,
往來生死中, 無有涅槃法。」

根・蘊は蛇の集まりのようであり、境界は縁に触れるところから起こります。 痴と愛と業によって生まれ、多くの習気に縛られて解きにくいのです。 心および諸々の心法は、動きやすく常に安らかではなく、 覚と観とに纏われて、まるで龍がとぐろを巻いているかのようです。 瞋の毒はここから起こり、燃え盛る炎のようです。 諸々の観行を修める者は、多くの蘊の法を捨てるために、 ここで常に真理を観じ、一心に怠らず努めます。 たとえば虚空の中に、樹もないのに影があり、 風の道や鳥の跡があるとするなら、この見はすべて困難です。 能造と所造、色と非色の法、 そこに如来を見ることも、その難しさは同じです。 真如・実際など、および諸仏の体性は、 内証の行われるところであり、あらゆる言語の領域を超えています。 涅槃を仏と名づけ、仏もまた涅槃と名づけます。 諸々の分別の想を離れているのに、どうして見ることができましょうか。 金鉱を細かく砕いても、鉱の中に金は見えません。 智者が巧みに融かし練れば、真金がはじめて現れます。 諸々の色を分け割り、ついには微塵とし、 また諸々の蘊を分析して求め、一か異なった性質かを調べても、 仏の体は見ることができず、また仏がないのでもありません。 定に住する者は如来を観じ、三十二相を具えており、 楽しみなどの様々な事も、施し行うことがすべて明らかに現れます。 ですから如来は定めて無である、と言うべきではありません。 三昧を一つの縁とする仏、善因・善根の仏、 一切世間に勝れた仏、および正等覚の仏、 このように五種の仏があり、残りはすべて変化です。 三十二の勝れた相を、如来蔵は具えています。 ですから仏は無ではなく、定に住する者は観じて見ることができます。 三界を超え出で、無量の諸仏国、 如来の微妙な刹土は、清らかな仏子たちで満ちています。 禅と慧が互いに助け合い、堅固な性質を成し遂げ、 密厳土に遊び、仏の威徳を思惟します。 密厳の中の人々は、すべて仏と同じであり、 刹那の壊れを超えて、常に三昧の中を遊びます。 世尊は大きな定を持ち、湛然として正受され、 相好と諸々の功徳を、内外に荘厳しています。 人々は仏の化身が兜率から降ったと言いますが、 仏は常に密厳に住み、その国から像を現します。 真に住して正受され、縁に随って多くの像が生じます。 それは月が虚空にあり、影が諸々の水を映すようなものです。 また摩尼が多くの影を、色に合わせて明らかに現すようなものです。 如来が正定に住するとき、影を現すのもまた同じです。 たとえば形と像が、一つでもなく異なってもいないように、 このように勝れた丈夫は、諸々の事業を成し遂げます。 微塵や勝性によるのではなく、時によるのでも自在によるのでもなく、 また他の縁などによるのでもなく、世間を作られます。 如来は因の性質によって、その果の体を荘厳し、 世間の応じるところに随って、種々にすべて明らかに現し、 三昧に遊んで、内外に為さないことはありません。 山川や林野、朋友や諸々の眷属、 多くの星と日月は、皎鏡として象を垂れます。 このように諸々の世間を、身の中にすべて包み納め、 さらに掌の中に置いて、芥子のように散らし投げます。 仏は定において自在であり、牟尼は最も勝れた尊です。 世間を作ることができるものはなく、ただ仏の化すところだけです。 盲暗で無知な者は、流れ驰せて妄りに分別し、 有無に執着し、我や非我と考え、 あるいは一切は壊れると言い、あるいは少しは滅すると言います。 このような人々は、常に自らその身を害し、 どうしてここにおいて、これらの見を生じるのでしょうか。 仏は三界に遍じた、観行の大師です。 世を乾城のように観じ、作られる諸々の事業も、 また夢の中の色、渇いた獣が求める水のようなものです。 種々の業によって、風の縄によって進み退きます。 仏は方便の中において、自在な知見の者です。 たとえば巧みな工匠が、機の発動をよく守るように、 また海の船師が、舵を執って揺り動かすようなものです。 如来は最も微妙で、寂静にして辺りがなく、 諸々の有の著の根を超え、浄根の証するところです。 この修行定の者は、微妙な定の所依であり、 一切の観行の人々は、明瞭な心の中に住みます。 仏の体は最も清浄で、有でもなく無でもなく、 限量を遠離し、能覚・所覚をも超えています。 妙智が心と相応する、最上の境界であり、 相が皆無性であると知ること、これがすなわち如来を見ることです。 諸々の相応の心を破り、三昧に執着せず、 無染の路に住み、一切が皆無染です。 諸天・乾闥婆、阿修羅・緊那羅、 仙人および外道は、讃歎して供養します。 それに耽り求めることなく、世間の業を興し、 本の清浄に住み、妙理に相応しています。 天人などの見る者は、変化の作るところです。 仏は彼や此に現れるのではなく、日月と同じです。 円応の道に住み、諸々の貢高を除くために現れ、 異なる学びはそれぞれ異なりますが、宜しきに随って摂め御します。 種々の衆智の法、王論や三毘陀は、 すべてこれ諸如来が、定力に持されて説かれたものです。 国王や王臣など、さらには山林のところまで、 すべての儀則は、皆仏から出生します。 十方の衆宝蔵は、清浄な宝を出生します。 すべては天中天の、自在な威神によるからです。 一切三界の中に、諸々の明智の者がおり、 種々の方便の業は、仏によって成就します。 兜率から降り現れ、婇女の衆に囲まれ、 歌舞に共に歓楽し、日夜常に遊び集います。 あるいは堅利智、舍陵波居士のように、 世の直縄を執り、与奪して招放します。 すべてのところにおいて、明智の者として現れても、 密厳の中においては、寂然として動作がありません。 この大牟尼の境は、凡愚は異なって分別し、 たとえば眼病の人のようであり、また多くの渇いた獣のようです。 世が幻を観るように、夢の中の諸々の取るもののようです。 天中天の境界を、仏子はその真を見ます。 このように観行の者は、眠りから覚めたようなものです。 那羅と伊舎、梵天・娑旦那、 難陀・鳩摩羅、劫比首迦などは、 定に処して思審しても、ここでは常に迷惑します。 過去・未来・現在の世の、一切の諸牟尼も、 習気が心を覆って、また見ることができません。 善哉、金剛蔵よ。普く諸地の中を行じ、 また仏の威神によって、密厳土に住み、 これがあなたの境界です。私が今あなたのために説きます。 あるいは妄りに分別して、勝性と微塵、 工作が諸々の物を作るように、種々の形相があり、 生もただ法が生じるだけで、滅もただ法が滅するだけだとします。 妄りに一切の物を、細塵が造作できると計り、 因によって果を了知できるとし、たとえば灯が物を照らすように考えます。 先にその相を得ず、後に壊れるのもまた同じで、 過去の中に、体があって得ることはできず、 未来もまた同じで、縁を離れては性がありません。 一つ一つの諸縁の内に、遍く求めて体がなく、 性の有無を見ず、また無いという見もありません。 蘊・瓶・衣などにおいて、微細に分別し、 三百六十の邪宗は正道を壊し、 生死の中を往来し、涅槃の法がありません。


2 妙身生品(上-中)

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