サポート淨心禪堂すべての経典
メインコンテンツにスキップ
  1. 大乗義章 (大乘義章)
  2. 第1巻 (第一)
  3. 二、義法聚(二十六門)
  4. 8 二無我義(一)
←と→
矢印キーでページをめくれます

大乗義章 (大乘義章)


二無我義四門分別(釋名一 辨相二 約宗分異三 就人辨定四)

二無我の義、四門に分けて説く(名を釈くこと一 相を弁ずること二 宗に約して異を分かつこと三 人に就いて定めを弁ずること四)

二無我者。一人無我。二法無我。人無我者。經中亦名眾生無我。亦名生空。亦名人無我。亦名人空。亦名我空。眾法成生。故曰眾生。生但假有。無其自性。是故名為眾生無我。眾生性相。一切皆無。說之為空。寄用名人。無我與空。義同前釋。性實名我。陰中無我故曰我空。法無我者。亦名法空。自體名法。法無性實。名法無我。諸法性相。一切皆無。名為法空。此即二種。俱名為空。齊號無我。若別分之。空與無我。隱顯互彰。若依毘曇。陰非是我。名為無我。陰非我所。說之為空。成實法中。眾生空者。名之為空。法體空者。名為無我。故彼論中。觀生空者。名為空行。觀法空者。名無我行。問曰。何故眾生空者。說為空行。不名無我。釋言。眾生着我之中。有十六種。所謂我人眾生壽命養育知見。如是一切。若說空行。通攝十六我人等空。故名空行。若言無我。不攝餘空。為是不論。若依維摩。眾生空者。名為無我。法體空者名之為空。故彼經言。眾生是道場知無我。故一切法是道場。知法空。故空與無我眼目之異。左右名之皆得無傷。名義如是。

二無我とは、第一に人無我、第二に法無我である。人無我とは、経典の中では衆生無我とも呼ばれ、生空とも、人無我とも、人空とも、我空とも呼ばれる。多くの法が集まって衆生が生じるので、「衆生」と名づける。衆生はただ仮に存在するだけであり、その自性(本当の実体)はない。だから衆生無我というのである。衆生の性質や形相は、すべて無いのであり、それを「空」と説く。仮に人という名前を用いているが、無我と空の意味は、先に述べた解釈と同じである。実体のあるものを「我」と名づけるが、五陰の中には我は無いので、「我空」というのである。

法無我とは、また法空とも呼ばれる。自らの体(自体)を「法」と名づけるが、法には実体がないので、法無我という。すべての法の性質や形相は、すべて無いのであり、それを法空と名づける。これがすなわち、この二種をともに「空」と呼び、ともに「無我」と号するのである。もし区別して説くならば、空と無我は、隠れたり顕れたりして互いに照応する。

もし毘曇(阿毘達磨)の説によれば、五陰は我ではないので「無我」と名づけ、五陰は我の所有ではないので「空」と説く。成実の法においては、衆生が空であることを「空」と名づけ、法の体が空であることを「無我」と名づける。だから、あの論の中では、衆生の空を観じることを「空行」と名づけ、法の空を観じることを「無我行」と名づける。

問うて言う。「なぜ衆生が空であることを『空行』と説いて、『無我』と呼ばないのか。」釈して言う。「衆生が我に執着する中に、十六種がある。いわゆる我、人、衆生、寿者、養育、知見などである。このような一切について、もし『空行』と説くならば、十六種の我や人などの空をすべて含摂するので、『空行』と名づける。もし『無我』と言うならば、他の空を含摂しないので、そうは言わないのである。

もし維摩経の説によれば、衆生が空であることを「無我」と名づけ、法の体が空であることを「空」と名づける。だから、あの経典には「衆生は道場なり。無我を知るが故に。一切法は道場なり。法空を知るが故に」と説かれている。ゆえに、空と無我は、目と眉ほどの違いであり、左右どちらで呼んでも差し支えない。名と義はこのようなものである。

第二門中。生法二空。相對辨異。各有四門。一辨惑情。二對情彰理。三顯法實。四對實彰用。先就生空四門分別。言惑情者。計我心也。計我之心。開合不定。或總為一。謂五見中。我見心也。或分為二。二有兩門。一總別分二。總就眾生計有我人。名為總計。別計諸陰以為我人。名為別計。二即離分二。就陰計我。名之為即。計有常我遍一切處。名之為離。又就向前即陰計中。復有即離。指色為我。名之為即。餘為我所。名之為離。如是一切。或分為四。一者即陰。如優樓佉所計我也。指陰為我。陰滅我亡。二者離陰。如僧佉人所計我也。離陰有我。陰滅我存。若說離陰計我者。何故經言眾生計我終不離陰。彼起傍陰。故說不離。然不指陰以為我。故說為離也。三亦即亦離。如先尼計常我離陰。猶如虛空遍一切處。陰滅我存。作我即陰。陰滅我亡。四不即不離。如彼犢子道人所計。五陰和合更有我生。就陰辨我。故云不離。而我非陰。故曰不即。然今世人。建立有體假名之我。大況似此。彼亦取其佛經之言。故為此計。如經中說。眾生佛性。不即六法。不異六法。言六法者。所謂五陰及與我也。彼依此言故說有我。然佛法中。所說我者。諸陰和合。假名集用。故名為我。彼立定實。所以是患。或隨陰別說之。為五人計不同。或有宣說色陰為我。或受或想或行或識。或說十六。如大品說。一我.二眾生.三壽者.四命者.五生者.六養育.七眾數.八人.九作者.十使作者.十一起者.十二使起者.十三受者.十四使受者.十五知者.十六見者。此義如後十六我中具廣分別。又隨陰別所立不同分為二十。如一色中。人計不同。差別有四。有人計云。即色是我。此是一也。或有計云。色非是我。色是我所。此是二也。說何為我。而云色者是其我所。彼乃指其受等四陰。以之為我。未須分別我所起處。分別起處。在後六十五種我中。今此且可總相言耳。或有計云。色者是其我之窟宅。我居其中。此是三也。或有計云。我者是其色之窟宅。色住其中。此是四也。四中初一。是其我見。餘三是其我所見也。如色既然。受想行識。類亦齊爾。五陰各四。四五便有二十種計。此二十中。五是我見。十五是其我所見也。若具分別所起處者。便有六十五種計我。如一色中有其十三。即色是我。以之為一。色是我所。離分為四。有人計彼受陰為我。色陰是彼受我所有。如人有物。如是差別。乃至有人計識為我。說色以為識我所有。如是說色與彼受想行識之我以為所。故便分四種。通前為五。或有說色。與彼受想行識之我以為窟宅。復分為四。通前為九。或有宣說受想行識四陰之我為色窟宅。復分為四。通前十三。此十三中。初一我見。後之十二是我所見。如色十三。乃至行識類亦同然。五陰之上。各有十三。通合有其六十五種。六十五中。五是我見。即陰而計。六十我所。異陰計也。綺互相望。以為異陰。非全陰外。多人別計有六十五。非是一人。惑情如是(此一門竟)。

第二門では、「生空」と「法空」の二つの空について、相對させてその違いを明らかにします。それぞれに四つの門があります。第一に「惑情を弁ず」、第二に「情に對して理を彰かす」、第三に「法の實を顯す」、第四に「實に對して用を彰かす」です。

まず「生空」の四門について說きます。

「惑情」とは、我(自我)を計る心のことです。この我を計る心は、まとめたり分けたりする仕方が一定ではありません。あるいは全體として一つにまとめることもあります。これは五種の惡見の中の「我見」の心です。

あるいは二つに分けることもあります。二つの分け方には二通りの說き方があります。

第一に、總體と個別に分ける說き方です。總體としては、眾生が「我」や「人」があると計ることを「總計」と言います。個別には、五陰(色・受・想・行・識)を「我」や「人」と計ることを「別計」と言います。

第二に、「即」と「離」に分ける說き方です。陰(構成要素)に即して我を計ることを「即」と言います。常なる我が存在し、すべての場所に遍滿していると計ることを「離」と言います。

さらに、先ほどの「陰に即して計る」の中にも、「即」と「離」があります。色(物質的なもの)を指して「我」とすることを「即」と言い、それ以外のものを「我の所有物」とすることを「離」と言います。

このようにして、四つに分けることもあります。

第一に「即陰」です。例えば、優樓佉が計る我のようなものです。陰を指して我とし、陰が滅びれば我も滅びるとします。

第二に「離陰」です。例えば、僧佉が計る我のようなものです。陰を離れて我が存在し、陰が滅びても我は存続するとします。ここで「離陰に我を計る」と言っても、なぜ経典に「眾生は我を計るが、決して陰を離れない」とあるのでしょうか。それは、彼らが陰に寄り添って(傍らに置いて)考えるからです。だから「離れない」と言うのです。しかし、陰そのものを指して我とするわけではないので、「離れる」とも言うのです。

第三に「亦即亦離」です。例えば、先尼が計るように、常なる我は陰を離れて存在し、虚空のようにすべての場所に遍滿し、陰が滅びても我は存続する一方で、我が陰に即していると見れば、陰が滅びれば我も滅びるとも考えます。

第四に「不即不離」です。例えば、犢子道人が計るように、五陰が和合してさらに別に我が生じるとします。陰に即して我を說くので「不離」と言い、しかし我は陰そのものではないので「不即」と言うのです。

現代の人々が「體のある假名の我」を建立することは、おおよそこの第四の考えに似ています。彼らも仏経の言葉を引用して、このように計るのです。例えば経典に「眾生の仏性は、六法と即さず、六法と異ならない」とあります。六法とは、五陰と我のことです。彼らはこの言葉に依って、我が存在すると說くのです。

しかし仏法で說く「我」とは、諸陰が和合して、假に名づけられた集まりの働きであり、それゆえに「我」と名づけるのです。彼らが「実體として固定された我」を立てるから、それが煩いとなるのです。

または、陰に隨って別々に說くこともあります。人によって計り方が異なるからです。ある人は色陰を我と說き、ある人は受・想・行・識を我と說きます。

あるいは十六に說くこともあります。『大品般若經』に說くように、一に我、二に眾生、三に壽者、四に命者、五に生者、六に養育、七に眾數、八に人、九に作者、十に使作者、十一に起者、十二に使起者、十三に受者、十四に使受者、十五に知者、十六に見者です。この意味は、後で十六の我について詳しく說くところで廣く分別します。

また、陰に隨って立てる所が異なるので、二十に分けることもあります。例えば一つの色についても、人の計り方は同じではありません。差別は四つあります。

ある人は「色が即、我である」と計ります。これが一つ目です。

あるいは「色は我ではなく、色は我の所有物である」と計ります。これが二つ目です。では、何を我と說くのでしょうか。色は「我の所有物」であり、彼らは受・想・行・識の四つの陰を指して「我」とするのです。ここでは、まだ所有物がどこに生じるかを分別する必要はありません。その分別の詳細は、後で六十五種の我について說くところにあります。今は、大まかに總じて說くだけに留めます。

あるいは「色は我の窟宅(住處)であり、我はその中に住む」と計ります。これが三つ目です。

あるいは「我は色の窟宅であり、色はその中に住む」と計ります。これが四つ目です。

この四つのうち、最初の一つは「我見」であり、殘りの三つは「我所見」(我の所有物に関する見解)です。

色がこのようにであるなら、受・想・行・識も同様です。五陰それぞれに四つあるので、四×五で二十種の計り方があります。この二十のうち、五つは我見であり、十五は我所見です。

さらに、所有物が生じる場所を詳しく分別すれば、六十五種の我の計り方があります。例えば一つの色に十三種あります。

「色が即、我である」を一つ目とします。

「色は我の所有物である」については、さらに四つに分けます。ある人は受陰を我と計り、色陰はその受の我の所有物であるとします。人が物を持つようなものです。このように差別して、ついにはある人が識を我と計り、色を識の我の所有物と說くに至ります。このように色を、受・想・行・識の四つの陰の我の所有物と說くので、四種に分けられるのです。先の一つと合わせて五つとなります。

あるいは色を、受・想・行・識の我の窟宅と說くこともあり、これも四つに分けられます。先の五つと合わせて九つとなります。

あるいは、受・想・行・識の四陰の我が、色の窟宅であると說くこともあり、これも四つに分けられます。先の九つと合わせて十三となります。

この十三のうち、最初の一つは我見であり、後の十二は我所見です。

色が十三種であるように、受・想・行・識も同様です。五陰の上に、それぞれ十三種あるので、合わせて六十五種となります。六十五のうち、五つは我見であり、陰に即して計るものです。六十は我所見であり、陰を異にして異なる陰として計るものです。互いに見渡して「異なる陰」とするのであって、完全に陰の外ではないのです。多くの人が別々に計って六十五種となるのであって、一人の人が六十五種を計るわけではありません。

惑情はこのようなものです(この一門はここで終わる)。

次對惑情。以辨道理。聖慧觀察。知但是陰無別我人。故地持云。聲聞緣覺。見陰離陰。我不可見。諸行緣起。生滅和合陰與離陰。無我人性。即是理也(此二門竟)。

さらに、迷える心に対して道理を弁別する。聖なる智慧による観察によって、ただ五蘊があるのみで、別に我や人というものは存在しないと知る。ゆえに『地持経』にはこうある。「声聞と縁覚は、五蘊を見て五蘊を離れ、我というものは見えない。諸行は縁によって起こり、生滅が和合したものであり、蘊も蘊を離れたものも、我という人の性質は存在しない」。これが道理である(この二門はここで終わる)。

次辨其實。見陰生滅。即是實也。故維摩言。既除我相。當起法相。應作是念。但以眾法合成此身起。唯法起滅。唯法滅。生滅是其法之實相。故云實也(此三門竟)。

では、その真実について詳しく説明しましょう。「五蘊(色・受・想・行・識)が生じ、消えていく様子」を観察することが、すなわち真実を理解することなのです。そのため維摩経にはこう説かれています。「自己への執着を除いたならば、次に現象(法)の本質を観察しなさい。こう考えなさい。この身体は多くの要素が集まってできたものにすぎない。起こるのはただ現象の集まりであり、消えるのもただ現象の消滅である。この生じ消えていくことが、現象の真実の姿なのである」と。これが真実を理解するということなのです。(ここで三つの部門の説明が終わります。)

所言用者。依前五陰假名集用。便有人天男女等別。此之假用有而非患。是故聖人。常隨世俗。說有我人眾生壽命。上來四門。辨其生空。次明法空。於中四門。先辨其情。於前生空分齊之中。所立法實及以假用。執相取定。望彼法空。悉名惑情。以此同是法著我故(此一門竟)。

ここで言う「用」について。先ほどの五蘊の仮の名による集まりに基づいて用が生じ、そこに人間・天人・男・女などの区別が現れる。この仮の用は存在するが、それは障害にはならない。それゆえ聖人は常に世間の慣習に従って、「我」「人」「衆生」「寿者」があると説くのである。

以上、四つの観点で「生空(人が実体であるという考えが空であること)」を明らかにした。次に「法空(すべての現象が実体であるという考えが空であること)」を明らかにする。これも四つの観点から進めるが、まず「情(執着する心)」について述べる。先ほどの生空の理解の範囲において、法が実体であると立てることや、仮の用を執り成すことは、それを実相として捉え、固定して見るならば、法空の観点から見ればすべて「惑情(迷いの執着)」と呼ぶ。なぜなら、これらはすべて同じく法に対する執着、すなわち我執であるからだ。(この一門はここまで。)

次辨其理。菩薩正觀知前所取畢竟無法。不但無性。相亦不有。無法即是遣情之理(此二門竟)。

次に、その教えの道理を明らかにします。菩薩は正しく観察して、先に取っていた対象が、結局は何ものも実在しないことを知ります。ただ「性質がない」というだけでなく、「形」もまた存在しません。「実在しない」ということは、まさに執着を離れる道理なのです。(この二つの門はここで終わる。)

次辨其實。既空情情相。妄想心息。便見真實如來藏性自體法界祕密法門。是其實也(此三門竟)。

ここで、その真実について明らかにする。すでに虚ろな情や相を離れ、妄想の心が静まったならば、そのときこそ真実の如来蔵性、自體の法界、秘密の法門が現れる。これが真実なのである。(この三つの門はここで終わる。)

次辨其用。依前真實如來藏體。緣起集成生死涅槃。是其用也。如經中說。十二因緣。皆一心作。又云。三界一心作。復言。法身輪轉五道。名曰眾生。此是真實起生死也。又如經中。如來藏性。顯成法身。如是等義。起涅槃也。無我體相。麁況如是。

次に、その働きについて論じます。先に述べた真実の如来蔵という本体に基づいて、縁起によって生死と涅槃が形成されるのです。これがその働きです。経典に「十二因縁は、すべて一心によって作られる」と説かれています。また「三界も一心によって作られる」とも説かれています。さらに「法身は五道を輪廻し、これを衆生と呼ぶ」とあります。これこそが、真実の生死の起こりです。また経典に「如来蔵の性質が、法身として顕現する」とありますが、このような意味が涅槃の起こりです。無我の体と相については、このように大まかに述べた次第です。

第三門中。約宗分異。於中有二。一定其宗別。二約宗辨異。言宗別者。宗別有四。一立性宗。二破性宗。三破相宗。四顯實宗。此四如前二諦章中具廣分別(此一門竟)。

第三門では、宗に基づいて違いを分けます。ここには二つの点があります。第一に、その宗の違いを定めること。第二に、宗に基づいて違いを明らかにすることです。宗の違いとは、四つの宗があります。第一に、性質を立てる宗。第二に、性質を破る宗。第三に、相を破る宗。第四に、真実を顕す宗です。この四つについては、先の「二諦章」の中で詳しく述べられています(この門はここで終わる)。

次約宗辨異。初宗之中。但明生空。不說法空。雖說生空。但說陰上無彼凡夫橫計我人。目之為空。未說眾生因緣虛假無性之空。第二宗中。具明二空。五陰及生。攬別成總。是因和合。因和合中。空無定性名眾生空。不同前宗陰上無人名眾生空。苦空無常等。集成諸法。名法和合。法和合中。空無定性。是其法空。問曰。五陰因和無性。云何得名眾生空乎。釋言。五陰是我所法。從內作名。故曰生空。又復一切總因別起。通名眾生。彼生無性。故名生空。第三宗中。亦具二空異於前宗。言生空者。前宗直就因和合中虛假無性。名眾生空。不空假生。今此宗中。假生亦無。故名生空。如似空中無事見人。當知。彼人無人為人。人即非人。不待以陰離分破壞方為無人。如是一切。故維摩云。菩薩觀生。如第五大第六陰等。言法空者。前宗之中。但說諸法苦無常等和合無性。故名法空。不說空無假名諸法。此宗所說。假法亦空故云法空。如空中華。無華為華。華即非華。不待以彼苦無常等離分破壞方為無花。諸法如是。故維摩云。如燋󰝿互須陀見等。不但無性。相亦非有。第四宗中。亦具二空。與前復異。於中且以兩門分別。一依持門。二緣起門。若論依持。妄想法空。名眾生空。所依真寂。名為法空。良以妄想眾生所起。故妄想空名眾生空。所依真實。是法自體。法體寂。故名為法空。若就真實緣起門。說真如體寂。名為法空。緣用寂滅。名眾生空。真體寂者。真實法界。恒沙佛法。同一體性。互相集成無別自性。故曰體寂。如說諸法以之為常。隨義分別。諸法之外。無別常體。我樂淨等一切諸門類。亦同爾。無有一法別守自性。是故諸法一切皆寂。此法體寂名法空也。緣用寂者。彼如來藏緣起。集成生死涅槃一切諸法。用相寂滅。名眾生空。良以作用緣集在人。是故用寂名眾生空。宗別如是。

次に、宗派の違いに基づいて、教えを弁別します。初めの宗の中では、ただ衆生が実体であるという見解が空であること(生空)のみを明かし、法が実体であるという見解が空であること(法空)については説きません。生空を説くといっても、ただ五陰の上に、凡夫が誤って執着する「我」「人」という実体がないことを説いて、それを空と名づけるだけです。衆生が因縁によって仮に生じたものであり、実体のない空であるということは説いていません。

第二の宗では、生空と法空の両方を完全に明かします。五陰と衆生は、個々の部分を集めて全体を成すものです。これは因が和合したものです。因の和合の中には、固定した自性はなく空であることを、衆生空と名づけます。これは先の宗のように、五陰の上に人がないことをもって衆生空とするのとは異なります。苦・空・無常などが集まって諸法を構成することを、法の和合と名づけます。法の和合の中に、固定した自性がなく空であることが、これが法空です。

問いかけます。五陰は因の和合であり、自性がないのならば、どうしてこれを衆生空と名づけることができるのでしょうか。

答えて解釈します。五陰は我が所有する法です。内側から名づけるので、生空と言うのです。また、すべての全体は個々の因によって生じるので、総じて衆生と名づけます。その衆生に自性がないので、生空と名づけるのです。

第三の宗でも、生空と法空の両方を備えていますが、前の宗とは異なります。生空について言うと、前の宗では、ただ因の和合の中での仮のものであり、自性がないことをもって衆生空と名づけ、仮の衆生が空でないとはいいませんでした。今のこの宗では、仮の衆生もまた存在しないので、生空と名づけます。例えば、虚空の中に人を見ることはありません。知るべきです。その人は、人としての実体がないから人なのであり、人は即ち人ではないのです。五陰が離れたり壊れたりして初めて人がいなくなるのを待つのではありません。一切の事物もすべてこのようです。ですから『維摩経』に、菩薩は衆生を観察することを、第五の大要素や第六の陰などのようにする、と説かれています。

法空について言うと、前の宗では、ただ諸法が苦・無常などの和合であり、自性がないことを説いて法空と名づけ、空であり仮の名である諸法については説きませんでした。この宗で説くところでは、仮の法もまた空であるので、法空と言います。例えば、虚空の中の花のようなものです。花としての実体がないから花なのであり、花は即ち花ではないのです。苦・無常などが離れたり壊れたりして初めて花がないとするのではありません。諸法もまたこのようです。ですから『維摩経』に、焦れた穀物や毛、亀の毛、兎の角などのようなものだと説かれています。ただ自性がないだけでなく、その形相もまた存在しないのです。

第四の宗でも、生空と法空の両方を備えていますが、前の宗とはさらに異なります。その中で、ひとまず二つの観点から区別して説明します。一つは依持(よりどころ)の観点、もう一つは縁起の観点です。

依持の観点で論じるならば、妄想である法が空であることを衆生空と名づけます。よりどころとなる真実は、寂滅であり、これを法空と名づけます。まさに、妄想は衆生によって生じるものなので、妄想が空であることを衆生空と名づけます。よりどころとなる真実は、法の自体であり、法の自体は寂滅であるので、これを法空と名づけます。

もし真実の縁起の観点で説くならば、真如の自体が寂滅であることを法空と名づけ、縁起の働きが寂滅であることを衆生空と名づけます。真の自体が寂滅であるとは、真実の法界において、無数の仏法がすべて同一の本質を持ち、互いに形成し合い、個別の自性がないことを言います。だから自体が寂滅であると言うのです。例えば、諸法は常であると説く場合も、意味に従って区別すれば、諸法の外に別に常という自体があるわけではありません。我・楽・浄などのすべての教えの区分も、同様です。一つの法として、別個に自性を保つものは何一つありません。それゆえ、すべての法はことごとく寂滅です。この法の自体が寂滅であることを法空と名づけます。

縁起の働きが寂滅であるとは、その如来蔵の縁起が、生死と涅槃のすべての法を形成し、その働きと形相が寂滅であることを衆生空と名づけます。まさに、働きは縁に集まって人にあるので、働きが寂滅であることを衆生空と名づけるのです。宗派の違いはこのようなものです。

第四門中。就人辨定。人謂聲聞緣覺菩薩。菩薩之人。具解二空。聲聞緣覺。經論不同。毘曇地持十地論等。說聲聞人但得生空。緣覺亦爾。成實論中。說聲聞等有得二空不簡利鈍。大智論中。說利根者具解二空。如先尼等鈍根之者。單解生空。是義云何。釋言。此等各有所以。於中略以三門釋之。一明如來所說不同。二明聲聞根有利鈍所解各異。三正會其言。所說不同者。如來於彼立性宗中。唯說生空。後三宗中。具說二空。如上所辨。根利鈍者。聲聞人中。根有三品。謂下中上。此三品人。聞彼初宗立性之教。但解生空。以此教中未曾宣說法體空。故聞第二宗破性之教。鈍者但能悟解生空。中上二人。通解二空。聞第三宗。中下二人。但解生空。利人俱解。聞第四宗。三品之人。同解生空。不解法空。以彼但於眾生所起情相法中悟解空故。次會其言。阿毘曇者。據彼初宗。是故宣說一切聲聞但解生空。成實執彼第二宗中中上之人能解二空。過分說言。一切聲聞。莫問利鈍。同解二空。成實有此過分之失。大智論中。據第三宗。說彼鈍者但解生空利解法空。此乃中下。同名鈍根。十地地持據第四宗。是故宣說聲聞之人但解生空。妄想法中而得空故。亦可從彼初宗為言。無我之義。略判如是。

第四の部門では、人についてその違いを明らかにする。人とは、声聞・縁覚・菩薩を指す。菩薩は、人空と法空の二つの空を完全に理解している。声聞と縁覚については、経論によって見解が異なる。

『毘曇』『地持経』『十地経論』などでは、声聞は人空のみを悟り、縁覚も同様であると説く。一方、『成実論』では、声聞などは利根・鈍根を問わず、二つの空を悟るとする。『大智度論』では、利根の者は二つの空を完全に理解し、先尼(せんに)などの鈍根の者は人空のみを理解すると説く。

この違いは何によるものか。ここでは、三つの観点から説明する。

第一に、如来が説いた教えが異なること。第二に、声聞の根機に利鈍の差があり、理解する内容も異なること。第三に、経論の言葉を正しく調和させることである。

説かれた内容が異なるとは、如来が「立性宗」(諸法は実有だと立てる教え)では人空のみを説き、後の三つの宗派では二つの空を詳しく説くことを指す。これは先に述べた通りである。

根機の利鈍について言えば、声聞には下・中・上の三つの等級がある。この三つの等級の者が、第一の宗である「立性」の教えを聞くと、人空だけを理解する。なぜなら、この教えでは法体の空については説かれていないからである。

第二の宗である「破性」の教えを聞くと、鈍根の者は人空のみを悟るが、中根・上根の者は二つの空を共に理解する。

第三の宗を聞くと、中根・下根の者は人空のみを理解し、利根の者は両方を理解する。

第四の宗を聞くと、三つの等級の者すべてが人空のみを理解し、法空は理解しない。なぜなら、そこでは衆生に生じる執着の相においてのみ、空を悟るからである。

次に、経論の言葉を調和させる。『阿毘曇』は第一の宗に基づいているため、すべての声聞は人空のみを理解すると説く。

『成実論』は第二の宗における中根・上根の者が二つの空を理解できるという点に着目し、それを過度に一般化して、「すべての声聞は、利根・鈍根を問わず二つの空を共に理解する」と説いた。これには過剰に拡大解釈した誤りがある。

『大智度論』は第三の宗に基づき、鈍根の者は人空のみを理解し、利根の者は法空も理解すると説く。ここでは中根・下根をまとめて鈍根としている。

『十地経論』と『地持経』は第四の宗に基づいており、声聞は人空のみを理解すると説く。それは、虚妄の思いや概念においてのみ空を得るからである。あるいは、第一の宗に従って「無我」の義を述べたものとも言える。

無我の意味の大要は、以上の通りである。


7 二諦義(一)
9 如法性實際義(一)

CBETA コード: T1851

© AI 帮你读佛经 - 如是我闻

この文書は個人学習専用です。商業目的での使用は禁止されています。

訪問 rushiwowen.co

著作権:原文は CBETA
AI 翻訳は参考文献のみで、権威あるものではありません