二諦義兩門分別(釋名一 辨體二)
二諦義の二門分別(釈名一 弁体二)
第一釋名。言二諦者。一是世諦。二第一義諦。然世諦者。亦名俗諦。亦名等諦。世名為時。事相諸法。生滅在時。就時辨法。故云世諦。若爾無為非生滅法。應非世諦。釋言。有名不盡諸法。何等諦之中。該攝有為無為之法。有為是世。無為非世。從有立稱。故云世諦。與前眾生假名相似。又云世者。是其世人。一切事法。世人所知。故名世諦。故涅槃云。世人所知。名為世諦。問曰。世法聖人亦知。何故偏言世人所知名為世諦。釋言。聖人雖知此法。隨世故知。是故猶名世人所知。又復聖人。就彼世人所知法中。知其虛假。虛假是其世法之實。故名世諦。若爾聖人。亦就凡夫生死法中。知其苦集。所知苦集。應名凡諦。然彼苦集。雖是凡法。聖人知故得名聖諦。世諦似彼。何緣偏就世間之人。說為世諦。釋言。互從皆得無傷。但經論中。為明苦集非聖不知故名聖諦。又知成聖。亦名聖諦。世法虛假。雖是聖知非精上。故非第一。非第一故。判入世中。言俗諦者。俗謂世俗。世俗所知。故名俗諦。言等諦者。等謂齊等。統攝之義。世法非一。不可別論。等舉諸法。故云等諦。第一義者。亦名真諦。第一是其顯勝之目。所以名義。真者是其絕妄之稱。世與第一。審實不謬。故通名諦。真即可實。世法虛誑。云何名諦。言虛誑者。對真辨義。然於世法。事實不無。故得稱諦。又復世諦實是虛誑。故名世諦。然彼世諦。若對第一。應名第二若對真諦。應名妄諦。第一義者。若對世諦。應名出世。若對俗諦。應名非俗。若對等諦。應名非等。立名不可一一返對。是故事法。且名世諦俗諦等諦。理法且名第一義諦乃至真諦。諦者猶是真實之義。何故二種並得稱諦。不得並說為真諦乎。釋言。今此諦門辨義。故通名諦。為分真俗。是故世諦不得名真。實若當就彼真實門中。以論諸法。是即理事俱名為真。故地持中。事實二性同名真實。今據諦門。二俱名諦。二諦名義。略之云爾。
まず名称について説明します。「二諦」とは、一つは「世諦」(世俗の真理)、もう一つは「第一義諦」(最高の真理)です。
「世諦」は「俗諦」とも「等諦」とも呼ばれます。「世」とは「時」を意味します。現象としてのあらゆる事物・法則は、生滅(出現と消滅)を時の流れの中で繰り返します。この「時」に基づいて法(現象)を論じるので、「世諦」と呼びます。
もしそうなら、無為のもの(因縁によって作られないもの)は生滅しないのだから、「世諦」に含まれないのではないでしょうか。
これに答えます。ある名称はすべての事物を尽くし尽くせないものです。「有為」(因縁によって作られるもの)と「無為」の真理は、どのような諦のカテゴリーの中に含めるべきでしょうか。有為のものは「世」(時間の中の存在)であり、無為のものは「世」ではありません。「有」(有為)であることから名称を立てて「世諦」と言うのです。これは先ほどの「衆生」という仮の名称(衆生という名は五蘊の仮の集まりにつけられたもの)に似ています。
また、「世」とは「世の中の人々」のことです。あらゆる事物の法は、世の中の人々が知っていることなので、「世諦」と呼びます。ゆえに『涅槃経』には「世の人々が知るところのものを、世諦と名づける」とあります。
問い:「世法」(世間の真理)を聖人もまた知っています。それなのにどうして「世の人々が知るところ」と偏って言い、世諦と名づけるのでしょうか。
これに答えます。聖人もこの法を知ってはいますが、世間に従って知るのです。それゆえ、やはり「世の人々が知るところ」と呼びます。また、聖人はその世の人々が知る法の中にあって、それが「虚仮」(仮のものであり真実ではないこと)であると知ります。この「虚仮」であることが、まさに世法の本質なのです。だから「世諦」と呼ぶのです。
もしそうなら、聖人は凡夫の生死の法の中において、その「苦」と「集」(苦しみの原因)も知るでしょう。知られる苦集は「凡諦」(凡夫の真理)と呼ぶべきではないでしょうか。しかし、その苦集は、もとは凡夫の法であっても、聖人が知るがゆえに「聖諦」と名づけられるのです。世諦もこれに似ています。どうして偏に世間の人々に関してのみ「世諦」と説くのでしょうか。
これに答えます。互いに他から名づけることもできて、どちらでも支障はありません。しかし経論の中では、苦集が聖人でなければ知られないことから「聖諦」と名づけ、また知ることによって聖人となるので「聖諦」と呼びます。世法の虚仮であることは、聖人でも知るところですが、最もすぐれたものではないので「第一」とは言いません。「第一」でないから、世間の領域に分類されるのです。
「俗諦」と言うのは、「俗」とは「世俗」のことです。世俗の人々が知るところなので「俗諦」と呼びます。
「等諦」と言うのは、「等」とは「斉等」(すべてをひとしく含む)ことです。統括して摂め取るという意味です。世法は一つではありませんから、個別に論じることはできません。すべての法をひとしく挙げて「等諦」と言うのです。
「第一義」は「真諦」とも呼ばれます。「第一」とは卓越性を示す語であり、それゆえ「義」(最高の理)と呼ばれるのです。「真」とは妄念を絶つ呼称です。
「世」も「第一」も、よくよく真実を調べて誤りがなければ、ともに「諦」(真理)と通称されます。「真」はすなわち実とみなせますが、世法は虚仮であるのに、どうして「諦」と呼べるのでしょうか。虚仮とは、真実に対して区別して意味づけたものです。しかし世法自体には、その事実性は確かにないわけではありません。それゆえ「諦」と称することができるのです。また、世諦は本当に虚仮なので、それで「世諦」と呼ぶのです。
ところで、その世諦は、第一義諦に対してなら「第二諦」と呼ぶべきでしょうし、真諦に対してなら「妄諦」と呼ぶべきでしょう。また、第一義諦は世諦に対しては「出世諦」、俗諦に対しては「非俗諦」、等諦に対しては「非等諦」と呼ぶべきでしょう。しかし名称は一つ一つに対応して反対語を立てることはできません。それゆえ、事法(現象の側)はひとまず「世諦」「俗諦」「等諦」と呼ばれ、理法(真理の側)はひとまず「第一義諦」さらには「真諦」と呼ばれるのです。
「諦」とはもともと「真実である」という意味です。それでは、なぜ二種類ともに「諦」と称されて、「真諦」と並び称されないのでしょうか。
これに答えます。今この「諦」という枠組みは、意味を弁別するためのものです。だから両方とも共通して「諦」と呼ばれます。真と俗を分けるために、世諦のほうは「真諦」とは呼ばれないのです。もし真実という側面から諸法を論じるならば、理も事もともに「真」と呼ぶことができます。だから『地持経』には、事と理の二つの実がともに「真実」と同名であると説かれています。今は「諦」という枠組みに基づいているので、二つとも「諦」と呼ばれるのです。
二諦の名称と意味については、だいたい以上のとおりです。
第二門中。差別有二。一分宗別。二約宗辨諦。言分宗者。宗別有四。一立性宗亦名因緣。二破性宗亦曰假名。三破相宗亦名不真。四顯實宗亦曰真宗。此四乃是望義名法。經論無名。經論之中。雖無此名。實有此義。四中前二是其小乘。後二大乘。大小之中。各分淺深。故有四也。言立性者。小乘中淺。宣說諸法各有體性。雖說有性。皆從緣生。不同外道立自然性。此宗當彼阿毘曇也。言破性者。小乘中深。宣說諸法虛假無性。不同前宗立法自性。法雖無性。不無假相。此宗當彼成實論也。破相宗者。大乘中淺。明前宗中虛假之相。亦無所有。如人遠觀陽炎為水。近觀本無。不但無性。水相亦無。諸法像此。雖說無相。未顯法實。顯實宗者。大乘中深。宣說諸法妄想故有。妄想無體。起必託真。真者所謂如來藏性。恒沙佛法。同體緣集。不離不脫不斷不異。此之真性緣起。集成生死涅槃。真所集故。無不真實。辨此實性。故曰真宗。此四宗中別乃無量。且據斯義以別宗耳。前之兩宗。經同論別。後之二宗。經論不殊。隨義分之。前二宗中。言經同者。據佛本教。同顯在於四阿含中。無別部黨。言論別者。小乘眾生。情見未融。執定彼此言成諍論。故有毘曇成實之別。後二宗中。言經同者。據佛本教。隨就何經以義分之。不別部帙。是曰經同。言論同者。大乘之人情無異執。言無諍競故無異論。有人一向言無四宗。是所不應。四中前二不分自異。不待言論。後之兩宗。經中處處。且有斯義。何須致疑。如勝鬘中明如來藏。有其二種。一者空藏即是不真。二不空藏即是顯實。又如鴦掘摩羅經中。彼訶文殊不知真法妄取法空。所取妄空即是不真。其所不知真實法者。即是顯實。又涅槃中。見一切空即是不真。不見不空。不空之實即是真宗。經說非一。何得言無。又人立四別配部黨。言阿毘曇是因緣宗。成實論者是假名宗。大品法華。如是等經是不真宗。華嚴涅槃維摩勝鬘。如是等經是其真宗。前二可爾。後二不然。是等諸經。乃可門別淺深不異。若論破相。違之畢竟。若論其實。皆明法界緣起法門。語其行德。皆是真性緣起所成。但就所成行門不同故有此異。華嚴法華。三昧為宗。諸部般若。智慧為宗。涅槃經者。以佛果德涅槃為宗。維摩經者。以不思議解脫為宗。勝鬘經者。一乘為宗。如是諸經。宗歸各異門別。雖殊旨歸一等。勿得於中輒定淺深。眾經宗別。分之麁爾。
第二の門では、区別が二つある。第一に宗派の区別、第二に宗派に基づいて真諦を論じることである。宗派の区別について述べる。宗派には四つの種類がある。第一に「立性宗」、またの名を「因縁宗」という。第二に「破性宗」、またの名を「仮名宗」という。第三に「破相宗」、またの名を「不真宗」という。第四に「顕実宗」、またの名を「真宗」という。これら四つは、意味に基づいて名付けたものであり、経典や論書にこの名があるわけではない。経典や論書の中には、この名はないが、実際にこの意味は存在する。四つのうち、前の二つは小乗であり、後の二つは大乗である。大小乗それぞれの中に、浅いものと深いものがあるので、四つとなるのである。
「立性」とは、小乗の中でも浅い立場で、あらゆる法にはそれぞれ固有の性質があると説く。しかし、性質があると言っても、それはすべて縁によって生じるのであって、外道のように自然に存在する性質を立てるのとは異なる。この宗派は、あの阿毘曇に相当する。
「破性」とは、小乗の中でも深い立場で、あらゆる法は仮のものであり、固定した性質はないと説く。前の宗派が法の自性を立てるのとは異なる。法には性質がないが、仮の相が存在しないわけではない。この宗派は、あの成実論に相当する。
「破相宗」とは、大乗の中でも浅い立場で、前の宗派が説く仮の相もまた、すべて存在しないと明らかにする。例えば、人が遠くから陽炎を見て水だと思うが、近づいて見ればそもそも存在しない。ただ性質がないだけでなく、水の相も存在しないのである。すべての法もこれに似ている。相がないと説くが、法の真実はまだ明らかにされていない。
「顕実宗」とは、大乗の中でも深い立場で、あらゆる法は妄想によって存在すると説く。妄想には本体がなく、生じるには必ず真実に依拠する。その真実とは、如来蔵の性質のことである。恒河の砂の数ほどの仏法が、同一の本体に縁によって集まり、離れず、脱れず、断たれず、異ならない。この真実の性質が縁起して、生死と涅槃を集成するのである。真実によって集められたものだから、真実でないものはない。この実の性質を弁別するので、「真宗」というのである。
この四宗の違いは無量であるが、ひとまずこの意味に基づいて宗派を区別したのである。
前の二宗は、経典は同じであるが論書は異なる。後の二宗は、経典も論書も異ならない。意味に従って分けたのである。
前の二宗について、「経典が同じ」と言うのは、仏の本来の教えに基づけば、同じく四阿含の中に示されており、別の部派があるわけではない。「論書が異なる」と言うのは、小乗の衆生は、見解がまだ融け合っておらず、彼此に執着して論争を引き起こすから、毘曇と成実の区別があるのである。
後の二宗について、「経典が同じ」と言うのは、仏の本来の教えに基づき、どの経典に従っても意味によって分けることができ、別の部派があるわけではない。これを「経典が同じ」という。「論書も同じ」と言うのは、大乗の人は異なる執着がなく、論争がないから、異なる論書がないのである。
ある人は一貫して四宗は存在しないと言うが、それは妥当ではない。四つのうち前の二つは、分けなくても自ずと異なっており、論書を待つまでもない。後の二宗は、経典の中の随所にこの意味があるのだから、どうして疑う必要があろうか。
例えば、勝鬘経には如来蔵について二つの種類が明かされている。第一に「空蔵」、これは不真であり、第二に「不空蔵」、これは顕実である。
また、鴦掘摩羅経では、文殊が真理を知らずに誤って法の空を取ることを呵責している。取られた誤った空は不真であり、知られていない真実の法が顕実である。
また、涅槃経では、すべての空を見るのは不真であり、不空を見ないのである。不空の実こそが真宗である。
経典の説くところは一つや二つではない。どうして存在しないと言えようか。
さらに、ある人は四宗を別々の経論に配当する。阿毘曇は因縁宗であり、成実論は仮名宗であり、大品経や法華経などの経典は不真宗であり、華厳経・涅槃経・維摩経・勝鬘経などの経典は真宗であると言う。前の二つはそれでもよいが、後の二つはそうではない。
これらの経典は、門としては異なるが、浅い深いは異ならない。破相について論じれば、徹底的に否定する。実について論じれば、すべて法界縁起の法門を明かしているのである。行いや徳について語れば、すべて真性縁起によって成り立っている。ただ、成就される行門が異なるので、このような区別があるのである。
華厳経と法華経は三昧を宗とし、諸々の般若経典は智慧を宗とし、涅槃経は仏の果徳と涅槃を宗とし、維摩経は不思議解脱を宗とし、勝鬘経は一乗を宗とする。これらの経典は、宗旨はそれぞれ異なり、門は異なるが、趣旨は一つに帰する。その中で軽率に浅い深いを定めてはならない。
諸経の宗旨の区別を、大まかにこのように分けたのである。
第二約宗辨諦相。門別有四。一約宗分法。二以深攝淺。隨義具論。三歷法分別。四辨即離。約宗分者。約宗之中。事理相對。事為世諦。理為真諦。陰界入等。彼此隔礙。是其事也。苦無常等十六聖諦。通相之法。是其理也。第二宗中。因緣假有以為世諦。無性之空以為真諦。第三宗中。一切諸法。異相之有以為世諦。無相之空以為真諦。此與前宗假名無性有何差別。前宗之中。觀因緣相。破法自性。此宗之中。觀諸法性。破因緣相。言法性者。妄想諸法。以無為性。故觀法性不取緣相。前宗破性。觀法假有。如土木城雖無定性。不無假城。此宗破相。觀法如似乾闥婆城。無城為城。即非城。城喻既然。幻化等譬類亦齊爾。第四宗中。義別有二。一依持義。二緣起義。若就依持以明二者。妄相之法以為能依。真為所依。能依之妄。說為世諦。所依之真。判為真諦。然彼破性破相宗中。有為世諦。無為真諦。今此宗中。妄有理無。以為世諦。相寂體有為真諦也。若就緣起以明二者。清淨法界。如來藏體緣起。造作生死涅槃。真性自體。說為真諦。緣起之用。判為世諦(此一門竟)。
第二に、宗旨に基づいて諦の相を弁別することを論じます。この門には四つの別があります。第一に、宗旨によって法を分類すること。第二に、深い教えでもって浅い教えを包括し、義にしたがって詳しく論じること。第三に、法を歴観して分別すること。第四に、即と離を弁別することです。
宗旨によって分類するとは、宗旨の中でも、事と理とを相対させます。事を世諦とし、理を真諦とします。五陰・十八界・十二入などは、互いに隔たり障りがあるもので、これが事です。苦・無常などの十六聖諦は、共通する相の法であり、これが理です。
第二の宗旨では、因縁によって仮に存在することを世諦とし、自性のない空を真諦とします。
第三の宗旨では、すべての諸法において、異なる相の存在を世諦とし、相のない空を真諦とします。
これは前の宗旨の「仮の名前で自性がない」という考えと、どのような違いがあるのでしょうか。前の宗旨では、因縁の相を観察して、法の自性を破ります。この宗旨では、諸法の性を観察して、因縁の相を破ります。法性とは、妄想によって生じた諸法が、無為を性としていることを言います。それゆえ、法性を観察するとき、縁の相を取らないのです。
前の宗旨は自性を破って、法を仮の存在として観ます。例えば、土や木でできた城は、決まった自性はないけれども、仮の城がないわけではありません。この宗旨は相を破って、法を乾闥婆城(幻の城)のように観ます。城としての実体がないのに城と見なすもので、そもそも城ではないのです。城のたとえがこのようなものであれば、幻や変化のたとえも同様にすべて同じです。
第四の宗旨では、義の別に二つあります。第一に依持の義、第二に縁起の義です。
もし依持によって二諦を明らかにするならば、妄想の相の法を能依とし、真を所依とします。能依である妄を世諦と言い、所依である真を真諦と判別します。
しかし、あの破性・破相の宗旨では、有為を世諦とし、無為を真諦としていました。今この宗旨では、妄はあるが理はないことを世諦とし、相は寂滅しているが体はあることを真諦とします。
もし縁起によって二諦を明らかにするならば、清浄な法界、如来蔵の体が縁起して、生死と涅槃とを作り出します。真性の自体を真諦と言い、縁起の用を世諦と判別します(この一門はここで終わる)。
第二門中。以深攝淺。隨義具論。初宗之中。隨義具論。凡有七種。一情理分別。二假實分別。三理事分別。四縛解分別。五有為無為分別。六空有分別。七行教分別。言情理者。妄情所立。我眾生等。以為世諦。無我之理。說為真諦。問曰。我等情取為有。於法本無。說何為諦。釋言。凡夫取陰為我。陰隨情取名為我人。說為世諦。非全無法。其真諦者。聖人知陰非我我所。陰從聖解說為無我。名為真諦。亦非無法。言假實者。人天男女舍宅軍眾。如是一切。有名無實名為世諦。陰界入等事相諸法。有名有實說為真諦。故雜心云。若法分別時。捨名則說等。分別無所捨。是名第一義。言理事者。陰界入等事相差別說為世諦。十六聖行通相之理。以為真諦。十六聖行。後四諦中具廣分別。言縛解者。苦集縛法。說為世諦。滅道解法。名為真諦。言有為無為者。苦集及道三諦。有為判為世諦。滅諦無為寂止勝法。說為真諦。言空有者。十六行空與無我理中勝。故說為真諦。餘名世諦。言行教者。三藏言教。以為世諦。三十七品。說為真諦。故雜心云。經律阿毘曇。是名俗正法。三十七覺品。是名第一義。初宗之中。具此七種。雖有七種。事理二諦正是宗歸。第二宗中。世諦有二。一有二無有。中隨義分為三種。一事相世諦。謂陰界等。於事分齊。真實不虛。故稱為諦。此同初宗世諦事也。二法相世諦。謂一切法苦無常等。法之實相。故稱為諦。此之一門。是初宗中真諦法也。三理相世諦。謂法虛假因緣集用。世法實爾。名為世諦。此之一門。不同前宗。所言無者。五陰之中。無彼凡夫橫計我人。世諦法中。實無此我。故名世諦。此空無我。毘曇宗中。一向說為第一義諦。成實論中。義有兩兼。若就五陰事法之中辨此無我。攝入世諦。若就性空第一義中。無彼妄情所立我人。即是真諦。今就初義說為世諦。真諦之中。義別有二。一因和合中無性之空。法和合中無性之空。以為真諦。二就性空第一義中。無彼凡夫所立我人。以為真諦。第三宗中。世諦亦二。一有二無。有中隨義分為四種。一者事相。謂陰界等此。同初宗世諦事也。二者法相。苦無常等。此同初宗真諦法也。三者假名集用之相。此門同前第二宗中理相世諦。四者妄想。所謂世法道理。悉是妄想之有。如陽炎水。此之一門。不同前宗。所言無者。隨義有二。一者陰上。無彼凡夫橫計我人。以為世諦。若就無相。第一義中。無彼凡夫橫法我人。即是真諦。今就五陰因緣法中。無彼我人。判入世諦。然此世諦。同前初宗真諦法也。二就五陰假名法中。無彼妄情所取自性。世諦法中。實無此性。故云世諦。故地持云。非有性者。世諦無性。此之無性。第二宗中。說為真諦。今入大乘破相宗中。義有兩兼。若就五陰因緣法中。無彼凡夫所取自性。判屬世諦。若就無相第一義中。無彼性者。即是真諦。今就初義說為世諦。真諦之中。義別有三。一者畢竟妄想空寂。以為真諦。二此空中。無彼凡夫橫計我人。以為真諦。三此空中。無彼凡夫取立自性。以為真諦。第四宗中。世諦有二。一有二無。有義不同。差別有六。一事相有。謂陰界等。此同初宗世諦事也。二法相有。苦無常等。此同初宗真諦法也。三假名有。此門同前第二宗中世諦理也。四妄想有。此門同前第三宗中世諦理也。五妄想有。辨明心外畢竟無法。但是惑心妄想所見。六真實有。謂如來藏緣起。集成生死涅槃。此後兩門。不同前宗。上來六種。世諦有也。所言無者。隨義有四。一者陰上無彼我人。此同初宗真諦理也。二者假名因緣法中。無性之無。同第二宗真諦理也。三妄想無。同第三宗真諦理也。故彼六地因緣觀中。逆觀因緣空寂之義。名世諦觀。四妄想無。不同前宗。此之四種世諦無也。真諦之中。義別有二。一有二無。有者所謂如來藏性恒沙佛法。無中有五。一者真實如來藏中恒沙佛法。同體緣集。無有一法別守自性。名之為無。二此真中。無彼凡夫橫計我人。故經說言。如來藏者。非我眾生。非命非人。三此真中。無彼凡夫取立自性。四此真中。無彼二乘取因緣相。五此真中。無彼妄想空如來藏。此五通就如來藏體第一義中。隨義分別。同是真諦(此二門竟)。
第二門では、深い教えで浅い教えを包み込み、意味に従って詳しく論じます。初めの宗派(初宗)の中では、意味に従って詳しく論じると、全部で七つの種類があります。一には情理の区別、二には仮実の区別、三には理事の区別、四には縛解の区別、五には有為無為の区別、六には空有の区別、七には行教の区別です。
「情理」について言えば、迷いの心によって立てられた、我や衆生などというものを、世俗の真理(世諦)とします。無我の道理を、真実の真理(真諦)と説きます。
問います。「我々の心が執り取るものを有るとしますが、法として本来は無いのです。何を真理と言うのでしょう。」
答えていうには、凡夫は五蘊を我として捉えます。蘊は心に従って捉えられて、我・人と呼ばれ、世俗の真理と説かれます。決して全く無いのではありません。その真実の真理とは、聖人は蘊が我でも我の所有でもないと知り、蘊が聖者の理解に従って無我と説かれ、真実の真理と呼ばれます。これもまた無いのではありません。
「仮実」について言えば、人や天、男女、家屋、軍隊など、このような一切は、名前があるだけで実体がなく、世俗の真理と呼ばれます。蘊・界・処などの事柄としての諸法は、名前もあり実体もあり、真実の真理と説かれます。ゆえに『雑心論』に言います。「もし法を分別する時、名前を捨てれば則ち説は等しい。分別しても捨てる所が無いのを、これを第一義という」と。
「理事」について言えば、蘊・界・処などの事柄としての相の区別を世俗の真理と説き、十六聖行の共通する道理を真実の真理とします。十六聖行については、後の四諦の中で詳しく広く論じられます。
「縛解」について言えば、苦諦と集諦は束縛する法であり、世俗の真理と説かれます。滅諦と道諦は解脱する法であり、真実の真理と呼ばれます。
「有為無為」について言えば、苦諦・集諦・道諦の三諦は有為であり、世俗の真理と判別されます。滅諦は無為で寂しく止まった優れた法であり、真実の真理と説かれます。
「空有」について言えば、十六行の中の空と無我は道理として優れているので、真実の真理と説かれます。その他は世俗の真理と呼ばれます。
「行教」について言えば、三蔵の言葉による教えを世俗の真理とし、三十七菩提分法を真実の真理と説きます。ゆえに『雑心論』に言います。「経・律・阿毘曇、これを俗なる正法という。三十七覚品、これを第一義という」と。
初めの宗派の中には、この七つの種類が備わっています。七つの種類はあるけれども、事相と道理の二諦がまさに宗旨の帰するところです。
第二の宗派では、世俗の真理には二つあります。一つは「有」、一つは「無」です。「有」の中では意味に従って三つの種類に分けられます。一つは事相の世俗の真理です。謂わゆる蘊・界などであり、事柄としての区切りにおいて、真実で虚偽でないので、真理と呼ばれます。これは初宗の世俗の真理の事柄と同じです。二つは法相の世俗の真理です。謂わゆる一切の法が苦・無常などであることであり、法の真実の姿なので、真理と呼ばれます。この一門は、初宗における真諦の法です。三つは理相の世俗の真理です。謂わゆる法は虚仮であり、因縁が集まって働きを成すものであり、世間の法が実際にこのようであることを、世俗の真理と呼びます。この一門は、前の宗派とは異なります。
言うところの「無」とは、五蘊の中に、あの凡夫が横さまに計り立てる我・人が無いことです。世俗の真理の法の中には、実際にこの我は無いので、世俗の真理と呼びます。この空・無我は、毘曇宗では一貫して第一義諦と説かれます。成実論では、意味に両方が兼ね備わっています。もし五蘊の事柄の法の中においてこの無我を弁ずれば、世俗の真理に摂め入れられます。もし性空の第一義の中において、あの迷いの心が立てる我・人が無いとすれば、即ちこれが真諦です。今は初めの意味に従って世俗の真理と説きます。
真諦の中では、意味の区別が二つあります。一つは、因が和合した中に自性が無いという空、法が和合した中に自性が無いという空を、真諦とすることです。二つは、性空の第一義の中において、あの凡夫が立てる我・人が無いことを、真諦とすることです。
第三の宗派では、世俗の真理もまた二つあります。一つは「有」、一つは「無」です。「有」の中では意味に従って四つの種類に分けられます。一つは事相です。謂わゆる蘊・界などであり、これは初宗の世俗の真理の事柄と同じです。二つは法相です。苦・無常などであり、これは初宗の真諦の法と同じです。三つは仮名として集まり働く相です。この門は前の第二宗における理相の世俗の真理と同じです。四つは妄想です。謂わゆる世間の法の道理は、全て妄想による有り方であり、陽炎の水のようなものです。この一門は、前の宗派とは異なります。
言うところの「無」とは、意味に従って二つあります。一つは、蘊の上において、あの凡夫が横さまに計り立てる我・人が無いことを、世俗の真理とすることです。もし無相の第一義の中において、あの凡夫が横さまに計り立てる法としての我・人が無いとすれば、即ちこれが真諦です。今は五蘊の因縁の法の中において、あの我・人が無いことに基づき、世俗の真理と判別します。しかしこの世俗の真理は、前の初宗における真諦の法と同じです。二つは、五蘊の仮名の法の中において、あの迷いの心が執り取る自性が無いことです。世俗の真理の法の中には、実際にこの自性は無いので、世俗の真理と言います。ゆえに『地持経』に言います。「有性ではないというのは、世俗の真理には自性が無い」と。この無自性は、第二の宗派では真諦と説かれます。今、大乗の破相宗に入っては、意味に両方が兼ね備わっています。もし五蘊の因縁の法の中において、あの凡夫が執り取る自性が無いことに基づけば、世俗の真理に属すると判別します。もし無相の第一義の中において、あの自性が無いとすれば、即ちこれが真諦です。今は初めの意味に従って世俗の真理と説きます。
真諦の中では、意味の区別が三つあります。一つは、究極には妄想が空しく寂滅していることを真諦とすることです。二つは、この空の中において、あの凡夫が横さまに計り立てる我・人が無いことを真諦とすることです。三つは、この空の中において、あの凡夫が執り取って立てる自性が無いことを真諦とすることです。
第四の宗派では、世俗の真理には二つあります。一つは「有」、一つは「無」です。「有」の意味は同じではなく、区別には六つあります。一つは事相の有です。謂わゆる蘊・界などであり、これは初宗の世俗の真理の事柄と同じです。二つは法相の有です。苦・無常などであり、これは初宗の真諦の法と同じです。三つは仮名の有です。この門は前の第二宗における世俗の真理の道理と同じです。四つは妄想の有です。この門は前の第三宗における世俗の真理の道理と同じです。五つは妄想の有であり、心の外には究極的に法が無いことを明らかに弁別し、ただ迷いの心の妄想によって見られるだけであるとします。六つは真実の有です。謂わゆる如来蔵の縁起が、生死と涅槃を集成することです。この後の二つの門は、前の宗派とは異なります。以上の六つの種類が、世俗の真理における「有」です。
言うところの「無」とは、意味に従って四つあります。一つは、蘊の上においてあの我・人が無いことであり、これは初宗の真諦の道理と同じです。二つは、仮名の因縁の法の中において、自性が無いという無であり、第二宗の真諦の道理と同じです。三つは妄想が無いことであり、第三宗の真諦の道理と同じです。ゆえにかの第六地の因縁観の中では、因縁を逆観して空寂の意味を明らかにすることを、世俗の真理の観と呼びます。四つは妄想の無であり、前の宗派とは異なります。この四つの種類が世俗の真理における「無」です。
真諦の中では、意味の区別が二つあります。一つは「有」、一つは「無」です。「有」とは、謂わゆる如来蔵の自性、恒沙の仏法です。「無」の中には五つあります。一つは、真実の如来蔵の中の恒沙の仏法が、同体の縁として集まり、一つの法としても別に自性を守るものが無いことを、「無」と名付けます。二つは、この真実の中において、あの凡夫が横さまに計り立てる我・人が無いことです。ゆえに経に説かれます。「如来蔵は、我・衆生ではなく、命でも人でもない」と。三つは、この真実の中において、あの凡夫が執り取って立てる自性が無いことです。四つは、この真実の中において、あの二乗が執り取る因縁の相が無いことです。五つは、この真実の中において、あの妄想によって空とされた如来蔵が無いことです。この五つは、全て如来蔵の体である第一義の中において、意味に従って区別したものであり、同じく真諦です(この二門は終わり)。
第三門中。歷法辨者。諸法雖眾。不出無有。有中隨義差別有六。無中有五。有中六者。一陰界等事相之有。二苦無常等法相之有。三者因緣假名之有。四者諸法妄想之有。五妄想之有。六真實有。此六之中。初事有者。四宗之中同為世諦。第二法相。初宗之中用為真諦。後三宗中說為世諦。第三假名。初宗未說。後三宗中說為世諦。第四妄想。初二宗中。未說此義。後二宗中說為世諦。第五妄想。前三宗中未說此義。第四宗中說為世諦。第六真有。前三宗中未說此義。第四宗中。分為二諦。體為真諦。用為世諦。無中五者。一者陰上。無彼凡夫橫計之無。二者假名因緣法中無性之無。三離妄想無。四離妄想無。五者真實寂滅之無。此五之中。第一無者。初宗之中說為真諦。後三宗中義有兩兼。就世辨者。判屬世諦。就真辨者。判屬真諦。第二無者。初宗未說。第二宗中說為真諦。後二宗中義有兩兼。就世辨者。判屬世諦。就真辨者。判為真諦。第三無者。前二宗中未說此義。第三宗中說為真諦。第四宗中義有兩兼。就世諦辨說為世諦。就真諦辨攝入真諦。第四無者。前三宗中一向未說。第四宗中義有兩兼。就世諦辨。判為世諦。就真諦辨。說為真諦。第五無者。前三宗中亦所未說。第四宗中。一向說之為真諦也(此三門竟)。
第三門では、諸法を歴観して弁別する。諸法は多いといえども、「有」と「無」の二つを出でない。「有」のうちには、義の差別に従って六種あり、「無」のうちには五種ある。
「有」の六種とは、第一に陰・界などの事相としての有、第二に苦・無常などの法相としての有、第三に因縁によって仮に名づけられた有、第四に諸法に対する妄想の有、第五に妄想そのものの有、第六に真実の有である。
この六種のうち、第一の事相の有は、四宗のいずれにおいても世諦とされる。第二の法相の有は、初宗(毗曇宗)においては真諦とされ、後の三宗においては世諦と説かれる。第三の仮名の有は、初宗では説かれず、後の三宗において世諦とされる。第四の妄想の有は、初宗と第二宗ではこの義は説かれず、後の二宗において世諦とされる。第五の妄想の有は、前三宗ではこの義は説かれず、第四宗(攝論宗)において世諦とされる。第六の真実の有は、前三宗ではこの義は説かれず、第四宗において二諦に分けられる。すなわち、その体は真諦とされ、その用は世諦とされる。
「無」の五種とは、第一に、陰の上に、凡夫が横に計り立てた無がないこと、第二に、仮名の因縁法の中に自性がないという無、第三に、妄想を離れた無、第四に、妄想を離れた無、第五に、真実の寂滅としての無である。
この五種のうち、第一の無は、初宗において真諦と説かれ、後の三宗においては、その義は世諦と真諦の両方にまたがる。世諦の観点から見れば世諦に属し、真諦の観点から見れば真諦に属する。
第二の無は、初宗では説かれず、第二宗において真諦とされる。後の二宗においては、その義は両方にまたがり、世諦の観点からは世諦に、真諦の観点からは真諦とされる。
第三の無は、前の二宗ではこの義は説かれず、第三宗において真諦とされる。第四宗においては、その義は両方にまたがり、世諦の観点からは世諦と説かれ、真諦の観点からは真諦に含まれる。
第四の無は、前三宗では全く説かれず、第四宗において、その義は両方にまたがる。世諦の観点からは世諦とされ、真諦の観点からは真諦と説かれる。
第五の無は、前三宗でも説かれておらず、第四宗において、一貫して真諦と説かれる。(この三門はここで終わる。)
第四門中。明即離者。就初宗二諦相望。即離不定。三句分別。一者世諦即第一義。如說陰界十二入等。事相差別以為世諦。即此法中。所有諦理說為真諦。二者世諦。不即真諦。謂非數滅虛空無為。三者真諦。望彼世諦。不即不離。謂空無我。即就陰上明空無我。名為不離。然彼但無橫計我人。不空陰法。故名不即。第二宗中所說。二諦形對不定。對前宗中陰上無人。得說性空即於世諦。今說性空即陰無性。不同前宗陰上無人。若對後宗。得言不即。後宗之中。即指妄想虛誑之法。以之為空。故名為即。今此宗中。就假名因緣法中。說無定性。不空假名因緣之相。故曰不即。第三宗中所說二諦。一向相即。彼說諸法妄想虛誑。體是無法。其猶幻化。幻化之有。喻彼世諦。幻化之。無喻彼真諦。然彼幻有。無別體性。說無為有。無為有故。世諦即真。幻化之無。亦無別體。指有為無。有為無故。真諦即世。世諦即真。色即空也。真諦即世。空即色也。色即空故。有即非有。空即色故。無即非無。故地持云。從有無方便。入非有非無。第四宗中。兩種二諦。一者依持。二者緣起。備如前辨。若就依持二諦相望。不即不離。依真起妄。即妄辨真。得說不離。真妄性別。得云不即。故經說言。斷脫異外有為法依持建立者。名如來藏。若就緣起二諦相望。得言相即。即體起用。用即體故。二諦之義。厥趣如是。
第四の門では、「即離」について明らかにする。まず初めの宗では、二諦を互いに対照すると、即でも離れでも定まらない。三つの句で分別する。
一つ目は、世俗諦がそのまま第一義諦である場合である。例えば、五陰・十二入・十八界などを説くとき、事相の違いを世俗諦とし、まさにこの法の中にある諦理を真諦と説く。
二つ目は、世俗諦が真諦とは即さない場合である。これは、非数縁滅や虚空などの無為法を指す。
三つ目は、真諦が世俗諦に対して、即さず離れずである場合である。すなわち「空・無我」である。まさに五陰の上に空・無我を明らかにすることを「離れず」と言い、しかしそこにはただ横に計らわれた我・人を作り上げるだけであり、五陰の法を空にしないから、「即さず」と言うのである。
第二の宗で説くところでは、二諦の形と対は定まらない。前の宗で説く五陰の上に人がいないことに対しては、性空が世諦に即すると説くことができる。今ここでは、性空がすなわち五陰に自性がないことを指すので、前の宗の五陰の上に人がいないのとは異なる。もし後の宗に対しては、「即さず」と言うことができる。後の宗の中では、妄想・虚誑の法を指してこれを空とするから、「即」と言う。今この宗では、仮名の因縁法の中で、定まった性質がないことを説くが、仮名の因縁の相を空にしないから、「即さず」と言うのである。
第三の宗で説くところの二諦は、一向に互いに即している。彼は、諸法が妄想・虚誑であり、その体はもともと無であることを説く。それは幻化のようなものである。幻化の有は世諦に譬えられ、幻化の無は真諦に譬えられる。しかし、その幻の有には別の体性がない。無を説いて有とし、無が有であるがゆえに、世諦はすなわち真である。幻化の無もまた別の体がない。有を指して無とし、有が無であるがゆえに、真諦はすなわち世である。世諦が真に即するから、色はすなわち空である。真諦が世に即するから、空はすなわち色である。色がすなわち空であるから、有はすなわち非有である。空がすなわち色であるから、無はすなわち非無である。ゆえに『地持経』に説く、「有・無の方便より、非有・非無に入る」と。
第四の宗では、二種の二諦がある。一つは「依持」であり、二つは「縁起」である。詳しくは前述のとおりである。もし依持の二諦を互いに対照すれば、即さず離れずである。真に依って妄を起こし、妄に即して真を弁ずるから、「離れず」と言うことができる。真と妄の性が別であるから、「即さず」と言うことができる。ゆえに経に説く、「解脱や異なった外の有為法を離れて、依持として建立されるものを、如来蔵と名づける」と。もし縁起の二諦を互いに対照すれば、「互いに即する」と言うことができる。すなわち体に即して用を起こし、用がすなわち体であるからである。
二諦の義の趣旨は、まさにこのようなものである。