菩薩地持方便處自他利品第三
菩薩地持方便処自他利品第三
云何菩薩行?略說諸菩薩所學,如學而學;總說是菩薩行。菩薩於何處學?學有七處。云何為七?一者自利;二者利他;三者真實義;四者力;五者成熟眾生;六者自熟佛法;七者無上菩提。云何自利他利?自利他利略說十種:一者純;二者共;三者安;四者樂;五者因攝;六者果攝;七者此世;八者他世;九者畢竟;十者不畢竟。純共自他利者,有二種:一者純自利;二者純他利。違菩薩道者應知應斷,順菩薩道者應當修學。為已樂故求財自用,為祕法故求佛經法守護執持,為生天故受持禁戒精進禪定智慧等法,為世間貪果故供養佛塔,為貪利故作求利相,為欺彼故無緣自說種種功德,貪他親附非法攝受,自住禪樂捨為眾生,是名純自利,應知應斷。布施忍辱悲心為首,迴向菩提及欲生天,是名自利共他,應當修學。除如是所說,餘純自利相違者,是名自利共他。純他利者,無因無果邪見布施,犯戒違道為他說法,自度下地而以下地淨法授與他人,菩薩捨禪願生欲界,自在菩薩十方世界種種變現教化眾生,如來畢竟力無所畏不共之法利益一切無量眾生,是名純他利。前所說二種純他利,應知應斷;餘純他利,應當勤學。除如是所說,餘純他利相違者,是名他利共自。
菩薩の修行とは何でしょうか。 簡単に言えば、諸々の菩薩が学ぶべきことを、その通りに学ぶこと、これを総称して菩薩行といいます。 では、菩薩はどこで学ぶのでしょうか。 学ぶ場所は七つあります。 その七つとは何か。 第一に自らの利益、第二に他者の利益、第三に真実の義、第四に力、第五に衆生を成熟させること、第六に自らを仏法に成熟させること、第七に無上の菩提です。
自他の利益とは何でしょうか。 自他の利益を簡単に言えば十種類あります。 第一に純粋なもの、第二に共通するもの、第三に安らかなもの、第四に楽しいもの、第五に原因として含まれるもの、第六に結果として含まれるもの、第七にこの世のもの、第八に他世のもの、第九に究極的なもの、第十に究極的でないものです。
純粋な自他の利益と共通する自他の利益には二種類あります。 第一に純粋な自己利益、第二に純粋な他者利益です。
菩薩道に反するものは知り、断つべきであり、菩薩道に沿うものは修め学ぶべきです。
自分の楽しみのために財を求めて自分のために使い、教えを隠すために仏の経典や教えを求め守り執着し、天に生まれたいがために戒律を守り、精進や禅定、智慧などの教えを受け持ち、世間の果報を貪るために仏塔に供養し、利益を貪るために利を得ようとする態度を示し、相手を欺くために理由もなく自分の様々な功徳を語り、他者からの親しみを貪り、正しくない方法で人を引きつけ、自らは禅定の安らぎに留まりながら衆生のために捨てることをしない。 これらを「純粋な自己利益」といい、知って断つべきです。
布施や忍辱、慈悲の心を第一とし、それを菩提や天に生まれたいという願いに回向することを、「自己利益が他者と共通するもの」といい、修め学ぶべきです。 ここに挙げたもの以外で、「純粋な自己利益」とは反対の性質を持つもの、それが「自己利益が他者と共通するもの」です。
「純粋な他者利益」とは、因果もなく邪見によって布施し、戒律を破り道に反したまま他者に説法し、自らは低い境地に留まりながら、その低い境地の清らかな教えを他者に与えることです。 また、菩薩が禅定の境地を捨てて欲界に生まれようと願うことや、自在を得た菩薩が十方の世界で様々に姿を変えて衆生を教化すること、如来が究極の力や無所畏、他と共通しない法によって無量の衆生を利益することもあります。 これらを「純粋な他者利益」といいます。 前に挙げた二種類の「純粋な他者利益」は、知って断つべきです。 それ以外の「純粋な他者利益」は、努めて学ぶべきです。 ここに挙げたもの以外で、「純粋な他者利益」とは反対の性質を持つもの、それが「他者利益が自己と共通するもの」です。
安自他利者,略說五種:一者無罪相;二者攝受相;三者此世;四者他世;五者寂滅。菩薩所攝善根,若多若少修習成就,亦以此善成就眾生調伏建立,是名無罪相。安自他利菩薩,以離染污樂眾具樂,住禪樂饒益自他,是名攝受相。安自他利菩薩,有此世安非他世、有他世非此世、有此世他世、有非此世非他世,此四種受、四種法,次第隨其所應。云何為四?有法現世受樂他世受苦,有法現世受苦他世受樂,有法現世受樂他世受樂,有法現世受苦他世受苦,是名此世他世安自他利。涅槃及涅槃道涅槃分、世間法出世間法,是名寂滅安自利他。樂自他利者,略說五種:一者因樂;二者受樂;三者苦對治樂;四者斷受樂;五者無罪樂。因樂有二種:一者情塵觸因緣故樂受生;二者今世後世愛果業。是名因樂。眾苦息已,思惟三種因樂,起身心受,是名受樂。受樂有二種:有漏及無漏。無漏者,學無學;有漏者,三界繫。欲界、色界、無色界,彼一切三界隨其所應六入分別,眼觸因緣乃至意觸因緣生,五識相應名為身受,意識相應名為心受。寒暑飢渴種種苦惱,已起未起對治令息,息已樂知生,是名苦對治樂。滅受想定,是名斷受樂。無罪樂者,有四種:一者出家樂;二者遠離樂;三者寂滅樂;四者菩提樂。信家非家出家學道,解脫種種在家之難,是名出家樂。斷欲惡不善法,得初禪離生喜樂,是名遠離樂。二禪為首,覺觀止息,是名寂滅樂。一切煩惱究竟滅,於一切法如實覺知樂,是名菩提樂。因樂者,是樂因非自性。受樂者,非樂因是自性。對治樂者,非樂因、非自性,而是息苦除苦。斷受樂者,非樂因、非自性、非除苦,而所有受是真實苦,隨住定時是受滅,無罪樂所攝。最後菩提樂,未來現在一切煩惱究竟滅,諸餘無罪樂於彼隨順,是名無罪樂。
**仏道における自他の安楽とは、大きく分けて五つある。**
一つ目は「無罪の相」。二つ目は「摂受の相」。三つ目は「この世での安楽」。四つ目は「来世での安楽」。五つ目は「寂滅の安楽」である。
菩薩が集めた善根は、多い少ないに関わらず修めて成就させる。そして、その善によって、人々を導き、成長させ、確立させる。これを「無罪の相」という。
自他の安楽を追求する菩薩は、煩わしい快楽から離れ、禅定の喜びに安住し、その安らぎで自他を豊かにする。これを「摂受の相」という。
自他の安楽を願う菩薩には、次の四つの場合がある。 * この世では安楽だが、来世では苦しむ。 * この世では苦しむが、来世では安楽を得る。 * この世でも来世でも安楽である。 * この世でも来世でも苦しむ。
これら四つの安楽と苦しみのあり方は、順に次の四つの行為に対応する。 * 現世では楽だが、来世で苦をもたらす行為。 * 現世では苦しいが、来世で楽をもたらす行為。 * 現世でも来世でも楽をもたらす行為。 * 現世でも来世でも苦をもたらす行為。
これが、この世と来世における自他の安楽の説明である。
涅槃そのもの、涅槃へ至る道、涅槃の一部分、そして世俗の法と超世俗の法。これらを「寂滅の安楽」と呼び、自他の利益となる。
**次に、自他の喜び(楽)について、大きく分けて五つ挙げられる。**
一つ目は「因楽」(原因となる喜び)。二つ目は「受楽」(実際に受ける喜び)。三つ目は「苦対治楽」(苦しみを和らげる喜び)。四つ目は「断受楽」(受けることを断つ喜び)。五つ目は「無罪楽」(罪のない喜び)である。
「因楽」には二種類ある。 1. 感覚器官と対象が触れ合う縁によって、楽の感覚が生じること。 2. この世や来世で良い結果をもたらす行いの結果、生じる喜び。
これらを「因楽」という。
苦しみが静まった後に、三種類の「因楽」を思惟することで、心身に生じる安らぎ。これを「受楽」という。
「受楽」には、煩わしさのあるもの(有漏)と、煩わしさのないもの(無漏)の二種類がある。無漏のものは、修行の段階(有学・無学)によって分かれる。有漏のものは、三つの世界(欲界、色界、無色界)に縛られている。これら三界すべてにおいて、対応する六つの感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)によって区別される。つまり、眼の触縁から意の触縁によって生じる。五つの感覚(視覚など)に対応するものを「身受け」、意識に対応するものを「心受け」という。
寒さ、暑さ、飢え、渇きなど、様々な苦しみがすでに起きているか、これから起きようとしている。これらを対処して静め、静まった後に生じる安らぎ。これを「苦対治楽」という。
「滅受想定」(感覚や思考が止まった境地)を、「断受楽」という。
「無罪楽」には四種類ある。 1. **出家楽**:家に縛られないと確信して出家し、修行の道に入ることで、様々な在家の苦難から解放される喜び。 2. **遠離楽**:欲望や不善な行いを断ち、初禅に達し、離欲から生じる喜びと安らぎ。 3. **寂滅楽**:第二禅を主とし、思考や探求が静まった状態の喜び。 4. **菩提楽**:すべての煩悩を完全に滅し、全ての物事をあるがままに悟る喜び。
「因楽」は喜びの原因であり、喜びそのものではない。「受楽」は喜びの原因ではなく、喜びそのものである。「苦対治楽」は喜びの原因でもなく、喜びそのものでもないが、苦しみを和らげ、取り除くものである。「断受楽」は喜びの原因でも、喜びそのものでも、苦しみを取り除くものでもない。しかし、あらゆる感覚は本来苦しみであり、禅定に安住している時にのみ、この感覚が消え去る喜びがある。これは「無罪楽」に含まれる。
最後の「菩提楽」は、未来と現在におけるすべての煩悩を完全に滅する喜びである。その他の「無罪楽」は、この菩提楽へと導くものである。これらを総称して「無罪楽」という。
是菩薩以安隱樂饒益眾生,非安隱樂如實知之,隨力方便教令除斷。若苦而後安者,彼雖憂惱要當饒益,是則菩薩依巧方便。若樂而後不安者,彼雖憂苦不欲去之,以方便力要為除斷。何以故?以後必得樂故。
菩薩は、安らかで楽しい状態が衆生に益をもたらすことを知り、そうでない状態をありのままに見極め、力に応じて巧みに教え、それを断ち切るように導きます。もし苦しみの後に安らぎが訪れるなら、たとえ相手が憂い悩んでいても、必ず益となるようにします。これが菩薩の巧みな方便です。もし楽しい後に不安が訪れるなら、たとえ相手が苦しみを去りたがらなくても、方便の力で必ずそれを断ち切ります。なぜなら、後に必ず楽が得られるからです。
是菩薩欲眾生安者欲令得樂,與其安者亦欲與樂。安者謂因處,樂者謂果處。是故當知,樂眾生者必先安之。彼愛果業今世後世因樂所攝,及苦對治樂、斷受樂、無罪樂,決定以此饒益眾生,亦名為攝,亦名無罪受樂及情塵觸因樂。是染污有罪不安隱者,不以饒益教令除斷。若非染污無罪安隱者,以此饒益一切眾生。菩薩亦常隨力自行,是名菩薩安樂自他利因攝。果攝自他利者,略說三種因、三種果。報因報果、福因福果、智因智果。云何為報?報有八種:一者壽具足;二者色具足;三者種性具足;四者自在具足;五者信言具足;六者大力具足;七者人具足;八者力具足。長壽久住,是名壽具足。顏容端政,是名色具足。生於上族,是名種性具足。得大財大眾大眷屬,是名自在具足。斷事聽訟制作法度,受與寄付悉從取正,凡所出言人所信伏,是名信言具足。有大名稱、大方便、大智慧,種種技藝為人所重,大眾恭敬尊重讚歎,是名大力具足。成就丈夫法,是名人具足。少病少惱有所堪能,是名力具足。
この菩薩は、衆生を安らかにしたいと願い、楽を得させたいと願っています。安らかにする者として、また楽を与えたいと願うのです。安らかとは因のありかであり、楽とは果のありかです。ですから、衆生を楽にしようとする者は、まず安らかにしなければならないと知るべきです。
その愛果の業は、現世と来世において楽に含まれるものであり、また苦に対治する楽、受を断つ楽、無罪の楽です。決定として、これによって衆生を饒益し、また摂となし、また無罪受楽および情塵触の因の楽と名づけます。染汚で有罪であり安穏でないものは、饒益をもって教え導いて除き断たせません。もし染汚でなく無罪で安穏なものであれば、これをもって一切の衆生を饒益します。菩薩はまた常に力に随って自ら行じます。これを菩薩の安楽にして自他を利する因の摂と名づけます。
果をもって自他を利する摂とは、略して三種の因、三種の果を説きます。報因報果、福因福果、智因智果です。報とは何でしょうか。報には八種あります。一つには寿具足、二つには色具足、三つには種性具足、四つには自在具足、五つには信言具足、六つには大力具足、七つには人具足、八つには力具足です。
長寿で久しく住むことを、寿具足と名づけます。顔かたちが端正であることを、色具足と名づけます。上族に生まれることを、種性具足と名づけます。大きな財と大きな衆と大きな眷属を得ることを、自在具足と名づけます。事を裁き訴訟を聴き、法度を制定し、受与や寄付をことごとく正しく取り計らい、出言することごとに人が信伏することを、信言具足と名づけます。大きな名称と大きな方便と大きな智慧を持ち、種々の技芸が人に重んじられ、大衆が恭敬し尊重し讃嘆することを、大力具足と名づけます。丈夫の法を成就することを、人具足と名づけます。病少なく悩み少なく、堪能なところがあることを、力具足と名づけます。
云何報因?不害眾生無傷害心,是名壽因。施燈明淨物,是名色因。捨離憍慢,是名種性因。眾具惠施,是名自在因。離口四過,是名信言因。攝諸功德立大誓願,供養三寶及諸尊長,是名大力因。樂丈夫法、厭女人法,說丈夫法饒益他人,教令厭離女人之法,是名人因。眾生所作如法事中,隨其所能悉往營助,是名力因。如是八種是名報因。略說報因有三種勝,令報增上:一者心淨;二者方便淨;三者福田淨。淨心悕望無上菩提,迴向善根漸漸增長,信樂修行勝妙純善,見人行者心生隨喜,日夜念念隨順正法隨覺隨觀,是名心淨。長夜修習精勤無間,復以此法轉授他人,見有授者隨喜讚善,見彼受行隨順訓導,亦以此法而自建立,是名方便淨。略說方便正起方便果,是名福田淨。
「では、業報の原因とは何でしょうか。生き物を害さず、傷つける心を持たないこと、これを寿命の因とします。灯明や清らかな物を施すこと、これを容色の因とします。驕りや慢心を捨て去ること、これを家柄の因とします。人々に必要な道具を施すこと、これを自在力の因とします。口に関する四つの過ち(妄語・両舌・悪口・綺語)を離れること、これを信頼される言葉の因とします。様々な功徳を集め、大いなる誓いを立て、三宝と師長を供養すること、これを大力の因とします。男らしい生き方を喜び、女らしい生き方を厭い、男らしい生き方を説いて他人を益し、女らしい生き方を厭い離れるよう教えること、これを人としての因とします。人々が行う正しい行いの中で、その人の力に応じてすべて助けること、これを力の因とします。これら八つの原因を、業報の因といいます。
これを簡潔に言えば、業報の因には三つの優れた点があり、報いをより素晴らしいものにします。第一に心が清らかであること、第二に方法が清らかであること、第三に福田(功徳を生む対象)が清らかであることです。 清らかな心で無上の悟りを願い、善い行いを積んで少しずつ成長させ、素晴らしく純粋な行いを信じ喜んで修行し、人がその行いをするのを見て心から喜び、昼夜常に正しい教えに従い、よく観察し考えること、これを心の清らかさといいます。 長い間、怠ることなく熱心に修行を続け、さらにこの教えを他人に伝え、伝える人を見ては喜び称賛し、教えを受け入れて実行する人を見ては優しく導き、自らもまたこの教えに従って生きること、これを方法の清らかさといいます。簡潔に言えば、正しい方法を起こし、その正しい結果を得ること、これを福田の清らかさといいます。」
云何報果?菩薩壽具足故,久修善法令諸眾生成就善根,是名壽具足果。菩薩色具足故,大眾愛樂;眾愛樂故,悉共宗敬樂聽所說,是名色具足果。菩薩種性具足故,眾所敬重供養讚歎,言必受行無所違犯,是名種性具足果。菩薩自在具足故,布施普攝成就眾生,是名自在具足果。菩薩信言具足故,常以愛語利益同事,攝取眾生化令成就,是名信言具足果。菩薩大力具足故,眾生所作悉能營助,眾生知恩咸來歸仰,凡出言教即皆承用,是名大力具足果。菩薩人具足故,男相成就,堪為一切功德法器,於一切方便一切知見得無所畏,於一切時自在遊處,一切眾生往來同事,人間曠野隨意無礙,是名人具足果。菩薩力具足故,精勤方便、堅固方便、速疾方便,修善無厭攝人不惓,是名力具足果。菩薩以此八種報果饒益眾生,自熟佛法隨順功德,菩薩住是報果,令諸眾生作所應作,眾生隨教各修所願。若菩薩雖自有力而彼不從,不名利他。若自無力而受化者順,亦不名利他。若自有力、受化者順,是二具足則能兼利。菩薩具足二法能自行佛法,以三乘法成就眾生,能自究竟無上菩提,眾生熟者令得解脫。是故菩薩住八種報果,乃能安樂一切眾生,一切眾生無際生死,從本已來空無義利,悉令不空獲大果實。
報果とは何でしょうか。菩薩は寿命が具足しているため、長く善法を修めて、すべての衆生に善根を成就させます。これを寿命具足の果といいます。菩薩は色(すがた)が具足しているため、大衆に愛され喜ばれます。大衆に愛され喜ばれるため、みなともに敬い慕い、説かれるところを喜んで聞きます。これを色具足の果といいます。菩薩は種性が具足しているため、人々に敬われ重んじられ、供養され讃嘆され、その言葉は必ず受け入れ行われて、違反されることがありません。これを種性具足の果といいます。菩薩は自在が具足しているため、布施によって広く人々を摂め、衆生を成就します。これを自在具足の果といいます。菩薩は信言が具足しているため、常に愛語と利益と同事によって、衆生を摂め取って成就させます。これを信言具足の果といいます。菩薩は大力が具足しているため、衆生のなすことをすべて助けて営み、衆生は恩を知ってみな帰依し仰ぎます。言葉を発すればただちにみな受け入れ用います。これを大力具足の果といいます。菩薩は人(にん)が具足しているため、男相を成就し、すべての功德の器となるに堪え、すべての方便・すべての知見において畏れるところがなく、すべての時に自在に遊び住し、すべての衆生と往来し同事し、人間の町でも荒野でも思いのままに妨げがありません。これを人具足の果といいます。菩薩は力が具足しているため、精勤の方便・堅固の方便・速疾の方便をもって、善を修めて厭くことなく、人を摂めて倦むことがありません。これを力具足の果といいます。菩薩はこの八種の報果によって衆生を饒益し、みずから仏法を成熟させ、功德に随順します。菩薩はこの報果に住して、すべての衆生にまさになすべきことをなさしめ、衆生は教えに随ってそれぞれの願を修めます。もし菩薩がみずから力を持っていても相手が従わなければ、利他とはいえません。もしみずから力がなくても教化される者が従えば、これもまた利他とはいえません。もしみずから力があり、教化される者も従うならば、この二つが具足してこそ兼ねて利することができます。菩薩は二つの法を具足して、みずから仏法を行じ、三乗の法をもって衆生を成就し、みずから無上菩提を究め、成熟した衆生を解脱させることができます。ですから菩薩は八種の報果に住してこそ、すべての衆生を安楽にすることができ、すべての衆生の際限のない生死は、もとより空しくして義利がありませんが、それをことごとく空しからずして大きな果実を得させることができるのです。
云何為福?云何為智?檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜,是名為福。般若波羅蜜,是名為智。禪波羅蜜、毘梨耶波羅蜜,各有二分:一者福分;二者智分。依禪故修四無量等,是名福分;依禪故修陰界入巧便、處非處巧便,觀苦習滅道善不善法、有罪無罪法、下法上法、垢法淨法及諸緣起,皆能如實分別觀察,是名智分。依精進故,修行施戒四無量等,是名福分。依精進故,修聞思修惠,陰巧便等如前說,是名智分。如是福智略說六種,廣說則無量。云何福因、智因?福因、智因略說三種:一者得長養福智方便處欲;二者隨順近緣;三者本習福智近緣者,不住顛倒緣,住不顛倒緣。習近惡知識,倒說福智倒念倒受,是名住顛倒緣。與此相違淨分,名住不顛倒緣。離長養福智方便處欲障不起,是名為近。此三因不具者,福智不生。
何が福であり、何が智であるか。 布施波羅蜜、戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、これを福と名づける。 智慧波羅蜜、これを智と名づける。 禅定波羅蜜、精進波羅蜜には、それぞれ二つの側面がある。 第一は福の側面、第二は智の側面である。 禅定に基づいて四無量心などを修行することを、福の側面と名づける。 禅定に基づいて、五陰・十八界・十二入の巧みな理解、道理・非道理の巧みな理解、 苦・集・滅・道の観察、善・不善の法、有罪・無罪の法、下位・上位の法、汚れ・清らかな法、 さらには様々な縁起について、すべてをあるがままに分別し観察することを、智の側面と名づける。 精進に基づいて、布施・戒・四無量心などを修行することを、福の側面と名づける。 精進に基づいて、聞・思・修の慧や、前述のような五陰などの巧みな理解を修行することを、智の側面と名づける。 このように福と智は、簡潔に言えば六つの種類があり、広く説けば無量である。 では、福の因・智の因とは何か。 福の因・智の因は、簡潔に三つある。 第一に、福と智を育てるための適切な環境を得たいという願い。 第二に、身近な適切な縁。 第三に、過去からの福と智の習慣。 身近な縁について言えば、誤った認識などに基づく縁にとどまらず、誤りのない認識に基づく縁にとどまることである。 悪友に近づき、福と智について誤って説かれ、誤った考えを持ち、誤って受け入れること、これを「誤った認識に基づく縁にとどまる」と名づける。 これとは反対に、清らかな側面を持つものを、「誤りのない認識に基づく縁にとどまる」と名づける。 福と智を育てる適切な環境を得たいという願いに対する妨害が起こらず、離れていること、これを「近きにある」と名づける。 これら三つの因がそろわなければ、福と智は生じない。
云何福果、智果?菩薩依福故,為諸眾生於無窮生死備經眾苦,隨其所欲攝取眾生。菩薩依智故,攝受正福種種巧便,為諸眾生乃至無上菩提。如是略說福智有四種果,廣說則無量。若報、若報因、若報果,一切依福起,福依智起,此二具足最勝最上,得無上菩提;若福智不具,終不能得。是名菩薩因攝果攝自他利。云何此世他世自他利?現修福業獲如法財,宿善因緣今受果報,善能轉禪住此世樂,依於此世為利眾生,依於諸禪現法涅槃,如實世間出世間,向現法涅槃有為法,是名此世自利。即以此法教化眾生,是名此世他利。他世欲界身財乃至禪無色,生此世憂苦,思惟修習彼因,是名他世自他利。此世喜樂,思惟修身財因,乃至此世退分禪無色正受,是名此世他世自他利。
では、功徳の果と智恵の果について説明します。
菩薩は功徳によって、限りない生死の苦しみの中にあっても、自ら進んで多くの苦しみを受け、一切の生きとし生けるものの望みのままに、彼らを導き救います。菩薩は智恵によって、真実の功徳を様々な巧みな方法で修め、生きとし生けるもののため、ついには無上の悟りに至るのです。
功徳と智恵の果には、大きく分けて四種類があり、細かく言えば無数にあります。報い、報いの因、報いの果のすべては功徳に基づいて生じ、功徳は智恵に基づいて生じます。この二つが完全に備われば、最も優れ、最も高く、無上の悟りを得ることができます。しかし、功徳と智恵のどちらかが欠けていれば、ついに悟りを得ることはできません。
これが菩薩が、因と果の両方において、自らも他者も利益するという教えです。
では、現在世と未来世における、自他の利益とは何でしょうか。
現在世において、功徳を修めることで、正しい方法で財を得られます。前世の善い行いの縁によって、今、その報いを受けています。また、禅定を巧みに転じて、この世での安らぎを得ることもできます。この世に生きながら、生きとし生けるものを利益するために、様々な禅定を基にして、現世で涅槃を体証します。現世の涅槃へと向かう、そのような有為の法を、あるがままに世間と出世間の智慧で観察します。これが現在世における自らの利益です。
そして、この同じ教えをもって人々を導き教えること、これが現在世における他者の利益です。
未来世において、欲界の身体や財産、さらには禅定や無色界の境地に至るためには、現在世で憂いや苦しみを思惟し、その原因を修習します。これが未来世における自他の利益です。
現在世の喜びや楽しみを思惟し、身体と財産の因を修め、さらには、現在世での退歩を伴う禅定や無色界定に正しく入ること。これが、現在世と未来世の両方における、自他の利益です。
云何畢竟不畢竟自他利?欲界身財有因有果,凡夫世俗淨有因有果,是名不畢竟自他利。一切煩惱畢竟滅,八正道及依此生世俗善法,是名畢竟自他利。畢竟不畢竟有三種:一者自性;二者退;三者受用果盡。自性者,涅槃畢竟,一切有為法不畢竟。八正道不退,受用果不盡畢竟。餘善有漏法退,受用果盡不畢竟。是名十種自他利,如是略說廣說。菩薩應當隨力修學,過去已學、未來當學,一切十種自他利,是名畢竟不畢竟自他利。
**究竟の自他利と、そうでない自他利とは何か。**
欲界における身体や財産には原因と結果があり、凡夫の世俗的な清らかな行いにも原因と結果がある。これを「不究竟の自他利」という。
一方、あらゆる煩悩が完全に滅し尽くされ、八正道、そしてそれに基づいて生じる世俗の善法は、「究竟の自他利」という。
究竟と不究竟には三つの種類がある。一つは自性、二つは退失、三つは果報の享受が尽きるかどうか、である。
自性について言えば、涅槃は究竟であり、あらゆる有為の法は不究竟である。八正道は退失せず、その果報の享受も尽きることがないので究竟である。その他の善なる有漏の法は退失し、果報の享受も尽きるので不究竟である。
これを十種の自他利という。このように簡潔に、また詳しく説かれてきた。
菩薩は、自らの力に応じてこれを学び修めるべきである。過去の菩薩もすでに学び、未来の菩薩もまさに学ぶであろう、これらの十種の自他利こそが、「究竟の自他利と不究竟の自他利」なのである。