佛祖統紀序
仏祖統紀の序
參天地之才。司萬物之化。同功而異位者。其唯人道乎。故自有生以來。蚩蚩群氓。必立大人。為之君牧。是以四輪統乎四洲。粟散占乎異域。而南洲震旦。實為東方君子之國。伏羲稱皇。始畫八卦。降及三代。文物大明逮吾世尊出興天竺。將施化於此方也。乃先遣三聖。為世良導。以禮樂為前驅。以真道為後教。機成時至。大法可行。於是漢皇致夢感之祥。摩騰應東來之運。魏晉以降。盛譯群經。矯矯諸師。競登講席。雖各立義門。取名當世。而尚昧乎如來一代之化意。篤生天台。紹隆法運。以五時八教四種三昧。與夫事理即具境觀不二之旨。以為後學入道之本。歷代師承。寶茲大訓。至於今七百年。守之弗墜。翰林梁子之言曰。言佛法者。以天台為司南。則殊塗異論。往往退息。誠然哉斯論也。志磐手抱遺編。久從師學。每念佛祖傳授之迹。不有紀述。後將何聞。惟昔。良渚之著正統。雖粗立體法。而義乖文薉。鏡菴之撰宗源。但列文傳。而辭陋事疏。至於遺逸而不收者。則舉皆此失。於是並取二家。且刪且補。依放史法。用成一家之書。斷自釋迦大聖訖於法智。一佛二十九祖。並稱本紀。所以明化事而繫道統也。至若諸祖旁出為世家。廣智以下為列傳。名言懿行。皆入此宗。而表志之述。非一門義。具在通例。可以類知。既又用編年法起周昭王。至我本朝。別為法運通塞志。儒釋道之立法。禪教律之開宗。統而會之。莫不畢錄。目之曰佛祖統紀。凡之為五十四卷。紀傳世家。法太史公。通塞志。法司馬公。書成即負笈。詣白雲堂。仰求佛光法師為之考校。而同志之士。共謀鋟版以期流布。將令家藏其本。人觀此書。開人心之性靈。資國政之治化。豈不曰大有益於世哉。自寶祐戊午。首事筆削。十閱流年。五謄成藁。夜以繼晝。功實倍之。仰報佛恩。上酬
天地の才を参(さん)し、万物の化(け)を司(つかさど)り、同じく功績をなしながら異なる位置にあるもの――それが人道であります。それゆえ、生命が生まれて以来、大勢の人々は必ず大人(たいじん)を立て、その君として牧(養い育てる者)としました。ここに四輪が四洲を統べ、粟散(ぞくさん)の国々が異域に点在しました。その中でも南洲(なんしゅう)の震旦(しんたん)は、実に東方の君子の国であります。伏羲(ふくぎ)は皇と称され、初めて八卦を描きました。それから三代に至り、文物は大いに明らかとなりました。
やがて我が世尊(せそん)が天竺に現れ、この地に教化を施そうとされました。まず三聖を遣わして世の良き導きとし、礼楽を先駆けとし、真の道を後の教えとされました。機が熟し時が至ったので、大法(だいほう)が行われることができるようになりました。ここに漢の皇帝が夢の感応という瑞兆を蒙り、摩騰(まとう)が東来の運に応じました。魏晋以降、盛んに多くの経典が翻訳され、優れた諸師が競って講席に登りました。それぞれ義門(ぎもん)を立てて当時の名声を得ましたが、なお如来一代の教化の意図については明らかではありませんでした。
そこで天台大師が誕生し、法運を継いで隆盛に導きました。五時八教、四種三昧、そして事理即具・境観不二の教えをもって、後学が入道するための根本とされました。歴代の師承はこの大いなる教えを宝として、今日に至るまで七百年、守り続けてきました。翰林の梁子(りょうし)の言葉に、「仏法を語る者は、天台を司南(方位磁針)とすれば、異なる道や異論は自然と退き静まる」とあります。まことにその通りです。
志磐(しはん)は手に遺編を抱えて、長く師に学び、仏祖伝授の跡を記録しなければ後世何も聞くことができないと常に思っていました。かつて良渚(りょうしょ)が『正統』を著しましたが、大まかに体裁は整えられていても、意味が乖離し文章が汚れていました。鏡菴(きょうあん)が『宗源』を撰しましたが、ただ文伝を列挙するだけで、言葉は粗く、事柄はおろそかでした。さらに遺漏して収められていないものも多く、すべてこの欠点がありました。そこで二つの書をともに取り上げ、削り補い、史書の方法に倣って、一家の書を成しました。
釈迦大聖から法智大師に至るまで、一仏二十九祖を本紀とし、教化の事績を明らかにし道統を繫ぐものとしました。諸祖の傍出は世家とし、広智以下は列伝としました。名言や美行はすべてこの宗に収め、表志の記述は一つの義門に限りません。すべて通例に載せ、類推して知ることができます。さらに編年法を用いて、周の昭王から我が本朝(宋)に至るまでを『法運通塞志』として別に立てました。儒・釈・道の立法、禅・教・律の開宗を統合して会し、記録しないものはなく、『仏祖統紀』と名付けました。全五十四巻です。紀・伝・世家は太史公(司馬遷)に倣い、通塞志は司馬公(司馬光)に倣いました。
書が成るとすぐに笈を背負い、白雲堂に赴いて仏光法師の考校を仰ぎました。同志の士は共に版木を彫り、流通させることを謀りました。家々にその本を蔵し、人々がこの書を観て、人心の性霊を開き、国政の治化に資することができるならば、世に大いに益があると言えるでしょう。宝祐戊午(ほうゆう ぼご)の年から筆削を始め、十年を経て、五度書き写して完成しました。夜を日に継いで、その労は倍しました。仏恩に報い、上(天子)の教化に応えるためです。
帝力。不負所學。其志在茲。
帝王の力は、学んだことに背かないことにある。その志はここにある。
宋咸淳五年歲在己巳八月上日。四明福泉沙門志磐寓東湖月波山。謹序。
宋の咸淳五年、歳は己巳にあたる年の八月の上旬の吉日に、四明の福泉寺の僧・志磐は、東湖の月波山に滞在して、謹んで序文を記す。
同校正吉祥安樂山教忠報國教寺首座沙門必昇
同校正吉祥安楽山教忠報国教寺の首座沙門、必昇。
校正前住持華亭先福教寺傳天台宗教沙門慧舟
天台宗の教えを伝える沙門・慧舟
校正住持吉祥安樂山教忠報國教寺傳天台宗教沙門善良
天台宗の僧侶・善良が、吉祥安楽山教忠報国教寺の住持として正しく法を伝える。
校正住持東湖月波山慈悲普濟教寺傳天台宗教沙門宗淨
校正住職 東湖月波山 慈悲普済教寺 伝天台宗教沙門 宗浄
校正特賜佛光法師左右街都僧錄主管教門公事住持上天竺教寺賜金襽衣法照
法照が賜りしもの、佛光法師の左右に侍りて街を統べ、都僧錄として教門の公事を主管し、上天竺教寺の住持たることを賜り、金襽の衣を賜る。