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  1. 四明仁岳異説叢書 (四明仁岳異說叢書)
  2. 第四 (第四)
  3. No. 948-4 附法智遺編別理隨緣十門析難書(并序)
  4. 九比他宗教門 (九比他宗教門)
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四明仁岳異説叢書 (四明仁嶽異說叢書)


九比他宗教門

他の宗教の教え

藏師所立。教類有五。真如隨緣者。正唯終教也。今人乃以彼之終教。齊今圓教。致使千如妙法。翻為生滅之談。一性靈知。全同頑騃之說。既茲大損。焉敢無辭。齊曰。夫諸宗各自判教者。由乎所見不同。故盈縮有異。安得以今四教分齊。收彼五教。祇如真如隨緣之說。圓旨燦然。豈別義乎。析曰。今家四教。判盡東流一切經論。豈諸宗立教。不得以分齊收耶。如他人四宗。大師以前三教收之。即其例也。所言真如隨緣。圓旨燦然者。且隨緣之說。尚非彼圓。況今圓乎。此復昧教之甚也。玄曰。指要云。他宗談圓。祇云性起。不云性具者。此見大淺。奚堪人聞。既說性起。便知性具。如遠見煙。必知有火。斯則眼淨之說。何以却引藏疏云。一心含通別二門。以真如具染淨通相。通相之外。無別染淨之法。無所不該。故亦總攝。此中染淨。是具百界義耶。析曰。若以性起便是性具。山家別教。豈無性起。如輔行釋。別教根塵。一念心起。即是理性如來。豈非性起耶。莫是性具耶。而不知起未必具。乃一理隨緣。九界須破也。具必有起。即三千隨緣。一法不斷也。又引藏疏。心真如門。具染淨通相。欲比山家圓具百界義者。雖此迂說。有甚相當。若言具百界者。何不云其染淨別相耶。又若謂百界。不得云別相者。何故法華疏。以實中權。為差別權。非百界耶。又藏疏釋心攝一切世間出世間法云。若隨緣染。成於不覺。則攝世間法。不變之本覺。及反流之始覺。則攝出世間法。此猶約生滅門辨。若約真如門者。鎔融含攝。染淨不殊(彼文)。豈非須待隨流反流。方始具於世出世法。蓋前後而論故。云心攝也。還與天台一念三千即空假中。非內外前後。非縱橫並別之義同耶。須了彼之染淨通相。即是鎔融含攝。統唯一真。豈存百界。應知若以理具。往論彼圓。望今圓未及。若以起對辨。終教與別教孱齊。無在固迷。請試窮覈。頴曰。彼之三教。同依一實理。而義分三教。則可以今家圓教所談真邊。攝彼頓教。談俗攝終。談中攝圓。安得以別教。收彼終教。而例立隨緣耶。析曰。且圓教三諦。舉一即三。舉三即一。彼之終教。有此義否。若言有者。終教即圓頓否。圓頓即終教否。若然則生滅門中。應有事事無礙耶。真如門中。有九相生滅耶。紊亂之辭。不足可笑。

蔵師が立てた教えの分類には五つあります。真如が縁に随うという説は、まさに終教に属します。今の人が、あの終教を今の円教と同等と見なすことで、千如の妙法がかえって生滅の議論に翻弄され、一性の霊知がまるで頑なで愚かな説と同一視されてしまいます。これほどの大きな損害があれば、どうして言葉を控えられましょうか。

斉曰:諸宗がそれぞれに教判を立てるのは、見解が異なるためで、その範囲には違いがあります。どうして今の四教の分斉で、あの五教を収められましょうか。ただ真如が縁に随うという説について言えば、円教の主旨は明らかです。どうして別の教義と言えましょうか。

析曰:今の四教は、東流した一切の経論を判じ尽くしています。どうして諸宗が立てた教えを、分斉で収めることができないでしょうか。例えば、他の四宗を、大師が前三教で収めたのがその例です。真如が縁に随うという説が円旨に明らかだというのは、そもそも随縁の説は、あの円教にさえ及ばず、まして今の円教と比べられるでしょうか。これはまた、教えを混同する甚だしいことです。

玄曰:『指要』に云う、他宗が円教を論ずる時は、ただ性起を説き、性具を説かないのは、見識が浅く、どうして人に聞かせられましょうか。性起を説けば、すでに性具を知るべきです。遠くに煙を見れば、必ず火があると知るようなものです。これは眼浄の説です。どうして却って蔵疏を引き、一心が通別二門を含むとし、真如が染浄の通相を具え、通相の外に別の染浄の法がなく、あまねく一切を含むから総摂するとするのでしょうか。この中の染浄は、百界の義を具えるという意味でしょうか。

析曰:もし性起がそのまま性具であるなら、山家の別教に性起がないと言えるでしょうか。例えば『輔行』の解釈に、別教の根塵において一念の心が起これば、それがすなわち理性如来であるとあります。これは性起ではないでしょうか。性具と言えるでしょうか。起これば必ずしも具えるとは限らず、一理が縁に随って九界を破らねばならないのです。具えれば必ず起き、すなわち三千が縁に随って一法も断たれないのです。また蔵疏を引き、心真如門が染浄の通相を具えるとし、山家の円教が百界を具える義に比べようとするのは、この迂遠な説がどうして相当するでしょうか。もし百界を具えると言うなら、どうして染浄の別相と言わないのでしょうか。また百界を説くのに別相と言えないなら、どうして『法華疏』が実中の権を差別の権とし、百界ではないとするのでしょうか。さらに蔵疏が、心が一切の世間・出世間法を摂すると解釈し、もし縁に随って染まれば不覚となり、世間法を摂し、不変の本覚および反流の始覚があれば、出世間法を摂するとします。これはまだ生滅門に約して弁じたものです。もし真如門に約するなら、鎔融含摂し、染浄に違いはありません(彼文)。これはまさに、流れに随い反流することを待って、初めて世出世法を具えるということであり、前後を論じるから心が摂すると言うのです。これと天台の一念三千即空仮中、内にも外にも前にも後にもなく、縦にも横にも並にも別にもならないという義と同じでしょうか。彼の染浄通相とは、すなわち鎔融含摂であり、統べて唯一真であって、どうして百界を存するでしょうか。知るべきです、もし理具をもって彼の円教を論じるなら、今の円教には及びません。もし起きることをもって弁じるなら、終教と別教はほぼ同等であり、固く迷うことなく、どうか試みに窮めて確かめてください。

頴曰:彼の三教は、同じ一実理に依りながら、義によって三教に分かれます。ならば、今の円教が真を論ずる辺りで彼の頓教を摂し、俗を論ずる辺りで終教を摂し、中を論ずる辺りで円教を摂することができます。どうして別教をもって彼の終教を収め、例として随縁を立てることができるでしょうか。

析曰:そもそも円教の三諦は、一を挙げれば三であり、三を挙げれば一です。彼の終教にこの義があるでしょうか。もしあると言うなら、終教は円頓と同一でしょうか。円頓は終教と同一でしょうか。もしそうなら、生滅門の中に事事無碍があるべきでしょうか。真如門の中に九相の生滅があるべきでしょうか。乱れた言葉は、笑うに足りません。


八經論詮旨門
十止世人情門

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