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仏祖歴代通載 (佛祖歷代通載)


佛祖歷代通載卷第七

仏祖歴代通載 巻第七

嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集

嘉興路大中祥符禪寺住持・華亭念常 編

東晉
(癸酉)孝武帝曜。改寧康(字昌明。簡文第三子。十歲即位。崇德太后臨朝。二月桓溫擁兵來朝。有不臣之志。三月疾還姑孰。七月卒。弟冲代領兵。盡忠王室。三十五崩清暑殿。葬隆平陵。治廿四年)。

(癸酉)孝武帝が即位した。元号を寧康と改めた(字は昌明。簡文帝の第三子。十歳で即位した。崇德太后が朝政を執った。二月、桓温が兵を率いて京に参内したが、臣下としての礼を尽くさない野心があった。三月、病に倒れ姑孰に帰った。七月に死去した。弟の桓冲が代わりに兵を統率し、王室に忠誠を尽くした。三十五歳で清暑殿にて崩御した。隆平陵に葬られた。在位二十四年)。

(丙子)改太元○栴檀瑞像是年到長安。住一十七年。

(丙子)年号改為太元。○栴檀瑞像於這一年到達長安。停留了十七年。

(癸未)後秦姚萇(字景茂。南安赤亭羌人。其先有虞之裔。父弋仲。有二十四子。萇幼子也。初仕苻堅為陽武將軍。因南伐敗績而歸。遂縊苻堅而據長安僭立。八年改建興。壽六十四)。

(癸未)の年、後秦の姚萇(字は景茂。南安赤亭の羌人である。先祖は有虞氏の末裔。父の弋仲には二十四人の息子がおり、萇は末っ子だった。初め苻堅に仕えて陽武将軍となったが、南征に敗れて帰還し、やがて苻堅を絞殺して長安を占拠し、帝位を僭称した。在位八年で建興と改元し、享年六十四歳であった)。

西秦乞伏國仁(本西鮮卑人。其先自漢北出陰山。後降苻堅。署為南單于鎮勇士川。苻堅既敗國仁。自稱大單于王。後號西秦。據金城僭立。四年乙酉改建義)。

西秦の乞伏国仁は、もともと西方の鮮卑族の人である。その先祖は漢の時代に北方の陰山を越えて出てきた。後に苻堅に降伏し、南単于に任じられて勇士川を守った。苻堅が敗れると、国仁は自ら大単于と称し王となった。後に西秦と号し、金城に拠って帝位についた。四年後の乙酉の年(西暦385年)に、建義と改元した。

後涼呂光(字世明。洛陽氐人也。父婆婁。仕苻堅官至太尉。生光身長八尺四寸。目有重瞳。王猛見而異之。舉以為將。率兵七萬西征。降者四十餘國。至龜茲獲羅什。聞堅死據姑。俱臧稱涼州牧。立十年)。

後涼の呂光〈字は世明。洛陽の氐人である。父は婆婁といい、苻堅に仕えて太尉にまで上った。光が生まれたとき、身長は八尺四寸、目には重瞳があった。王猛はこれを見て異才と認め、将軍に推薦した。七万の兵を率いて西征し、四十余国を降伏させた。亀茲に至って羅什を得た。苻堅の死を聞くと姑臧に拠り、涼州牧と称した。在位十年である〉。

後燕慕容垂(字道明。皝之弟。身長七尺五寸。垂手過膝。因懼誅奔秦。苻堅用之將使伐晉。既敗。遂據中山。改國號燕立十三年。壽七十一)。

後燕の慕容垂(字は道明。皝の弟である。身長は七尺五寸あり、腕を垂らすと膝を越えた。誅殺を恐れて秦に奔った。苻堅は彼を用いて晉を討たせようとしたが、既に敗れた。そこで中山に拠り、国号を燕と改めて十三年間立った。享年七十一歳)

(甲申)苻丕(字永叔。堅之庶子。既聞堅卒。出鎮于鄴。據晉陽。立一年。改大安)。
後秦改白雀。

后秦は白雀と改元した。

(二)太元九年。法師惠遠以秦亂來歸于晉。遠出雁門賈氏。少為儒生。博極群書。尤邃周易莊老。甞與弟惠持造安法師席下。聞出世法而悅之。歎曰。九流特粃糠耳。遂出家。安門徒數千。遠居第一座。及關中擾亂。安散其徒。皆諄諄規誨而遣之。遠別獨不與一言。遠怪問。安曰。若汝吾何言哉。遂自荊州將之羅浮。抵潯陽見匡山。愛之廬於山陰。大守桓伊為剏精舍。一昔風雷拔樹鼓沙石。蕩平基致木于土。時以為神運焉。初太尉陶侃鎮廣州。有漁于海。得文殊像。送寒溪寺。寺甞經火而像屋無恙。其後侃鎮武昌。使人迎之。十輩不能舉。既而叢力致之舟。舟輒沒。遂失其像。時謠曰。侃唯劍雄。像以神標。可以誠致。難以力招。及遠剏寺。心祈之。於是像冷然自至。時晉室微而天下奇才多隱居不仕。若彭城劉遺民豫章雷次宗雁門周續之新蔡畢頴之南陽宗炳張士民李碩等。從遠遊。并沙門千餘人結白蓮社。於無量壽像前建齋立誓期生淨土。及聞羅什法師入關。遠望風欽敬。遺書通好。詞曰。去歲得姚右軍書。且承德聞。仁者曩日殊域。越自外境。于時音譯未交。聞風而悅。頃承懷寶來游。則一日九馳。徒情欣雅味而無由造盡。寓目望途增其勞佇。夫旃檀移植則異物同薰。摩尼吐曜則眾珍自積。且滿願不專美於絕代。龍樹豈獨善於前踪。今往比量衣裁。願登高座為著之。什答曰。既未言面。又文詞殊隔。導心之路不通。得意之緣圮絕。傳譯來貺粗述德風。比何如必備聞一途可以蔽百。經言。末後東方當有護法菩薩。勗哉仁者善弘其事。夫才有五備。福戒博聞辯才深智。兼之者道隆。未具者凝滯。仁者備之矣。所以寄言通好。因譯傳心。豈其能盡粗酬來意耳。損所致比量衣裁。欲令登法座時著。當如來意。但人不稱物。以為媿耳。今往常所用鍮石雙口澡灌。可以備法物數也。并遺偈一章曰。既已捨染樂。心得善攝否。若得不馳散。深入實相否。畢竟空相中。其心無所樂。若悅禪智惠。是法性無照。虛誑等無實。亦非停心處。仁者所得法。幸願示其要。遠復答以偈曰。本端竟何從。起滅有無際。一微涉動境。成此頹山勢。惑想更相乘。觸理自生滯。因緣雖無主。開塗非一世。時無悟宗匠。誰將握玄契。來問尚悠悠。相與期暮歲。初中國未有涅槃常住之說。但云。壽命長劫。遠曰。佛是至極。至極則無變。無變之理豈有窮哉。乃著法性論。略曰。至極以不變為性。得性以體極為宗。羅什見論歎曰。遠未及見經。暗與理會。豈不妙哉。秦王姚興致書餉遠龜茲細縷雜變像。以伸欵敬。安城侯姚嵩獻珠像并釋論。曰。大智論新記。龍猛所作。法師當冠以敘文以昭示萬世。此邦道人同所欽聞也。遠以大論文廣。謙讓不諾。乃抄其要為二十卷。而別敘之。桓玄輔政。勸安帝沙汰僧尼詔曰。沙門有能伸述經牒演說義理。律行修整可宣寄大化者。聽依所習。不者悉令罷道。唯匡山道德所居。不在搜簡。遠以書抵玄。陽縱而陰奪之。遂停其詔遠甞稽考禪宗別傳之旨源流所自。及祖師達磨之來。遂皆符合云。陶淵明隱居柴桑。從遠問道。深相敬仰。謝靈運投名入社。遠拒之不內。及宗炳著明佛論。顏延之析達性論。周顒駁夷夏論。鄭道子著神不滅論。皆稟遠是正焉。至隆安中桓玄重申庾氷之義。欲沙門盡敬王者。朝廷承風旨多與玄合。因以問遠曰。此一代大事。不可使朝廷失體也。得八座書。今以似君。君其件件詳論不敬之意以釋其疑。便當行之。遠答其書。并著沙門不敬王者論五篇劇陳所以不拜之意。玄始意堅。及得遠論即緩其事。未幾篡位。乃下書曰。佛法弘大所不能測。推奉主之情欲興其敬。今事既在己。宜體謙冲應諸道人。勿復致禮也。安帝避玄還次潯陽。詔遠見于行在。輔國何無忌勸遠一出。遠固辭以疾。帝再詔問勞。勅九江太守歲時送米資奉。卜居三十年。影不出山迹不入俗。送客以虎溪為限。弟惠持亦有高行。蓮社眾數千。持居第一座。太尉王珣甞問豫章刺史范寗。遠公與持孰愈。寗曰。賢弟兄也。珣曰。但令如弟所未易有。況復賢耶。遠臨終其徒進蜜漿者。遠懼違律。令左右檢律。未終卷遂合掌西面而逝。年八十有三。有匡山集三十卷。行于世。

二 太元九年(384年)、法師慧遠は秦の乱を避けて晋に帰りました。慧遠は雁門(がんもん)の賈氏の出身です。若い頃は儒者で、あらゆる書物を広く学び、特に易経・老子・荘子に深く通じていました。かつて弟の慧持とともに道安法師の教えを請い、世を超えた法を聞いて心から喜び、「九流(諸子百家)はただ秕糠(くず)にすぎない」と嘆じました。そして出家しました。道安の門弟は数千人いましたが、慧遠はその第一座に座りました。

やがて関中(かんちゅう)が乱れると、道安は門弟たちを解散させました。皆には丁寧に戒めを述べて送り出しましたが、慧遠だけは別れ際に一言も言葉をかけませんでした。慧遠が不思議に思って尋ねると、道安は「お前のような者に、私が何を言う必要があるだろうか」と答えました。

慧遠は荊州(けいしゅう)から羅浮(らふ)へ向かおうとしましたが、潯陽(じんよう)に着いたとき匡山(きょうざん)を見て心を惹かれ、山の北側に草庵を結びました。太守の桓伊(かんい)が精舎を建てました。ある夜、風雨が雷とともに木々を倒し、砂や石を巻き上げて土地をならし、木材を土の上に運びました。当時の人々はこれを「神の運び」と呼びました。

初め、太尉の陶侃(とうかん)が広州を鎮めていたとき、海で漁をする者が文殊菩薩の像を得て、寒溪寺に納めました。この寺はかつて火災に遭いましたが、像の建物だけは無事でした。その後、陶侃が武昌を鎮めると、人を遣わして像を迎えようとしましたが、十人でも持ち上げることができませんでした。やがて多くの力を合わせて舟に載せようとすると、舟はすぐに沈み、像は失われてしまいました。当時、俗謡がありました。「侃はただ剣に雄なり。像は神を以て標とす。誠を以て致すべし。力を以て招くは難し」と。

慧遠が寺を建てると、心から像の出現を祈りました。すると、その像は自然に冷たく漂うようにして現れました。

当時、晋の皇室は衰え、天下の優れた人々の多くが隠遁して官職に就きませんでした。彭城(ほうじょう)の劉遺民、豫章(よしょう)の雷次宗、雁門の周続之、新蔡(しんさい)の畢穎之、南陽の宗炳、張士民、李碩らが慧遠のもとに集まりました。また沙門(僧侶)一千余人とともに白蓮社を結び、無量寿仏の像の前で斎を設けて誓いを立て、浄土への往生を願いました。

やがて羅什法師が関中に入ったと聞くと、慧遠は風の噂を聞いて敬愛し、手紙を送って親交を結びました。その文に言いました。「昨年、姚右軍(よううぐん)からの手紙を受け取り、あなたの徳の名声を承りました。仁者(あなた)はかつて遠い異境におられました。その頃は音信も交わらず、風の噂を聞いて喜んでおりました。先頃、宝を懷いて遊びに来られたと聞き、一日に九度も心を馳せました。ただ雅味を欣ぶ心はありながら、お目にかかるすべもなく、遠くを眺めて望むばかりで、いっそう思いは募るばかりです。栴檀(せんだん)を植え移せば、異なる物も同じ香りに薰(くん)じ、摩尼宝珠が光を放てば、多くの珍宝が自然と集まります。ましてや満願(阿難)は絶代の美を独占せず、龍樹(りゅうじゅ)は前の時代にのみ優れていたわけではありません。今、比量(ひりょう)の衣(ころも)の裁断を送ります。高座に登られたなら、どうかこれを着けてください」

羅什は答えました。「まだ面と向かって話したこともなく、言葉も異なっているため、心を通わせる道も開けず、意を得る縁も絶えています。訳者を通じてお手紙をいただき、おおまかにあなたの徳風をうかがいました。比べるまでもなく、一つの道を聞けば百を覆うことができましょう。経典に言う、『末後、東方に護法の菩薩が現れるであろう』とあります。励んでください、仁者よ。よくその事業を弘めてください。才には五つの備えがあります。福・戒・博聞・弁才・深智です。このすべてを兼ね備える者は道が隆盛となり、備えていない者は滞りが生じます。仁者はこれを備えておられます。ですから言葉を寄せて親交を結び、訳者を通じて心を伝えるのです。どうして十分にその意に報いることができましょうか。ただお手紙の趣旨に粗く応えるのみです。送ってくださった比量の衣の裁断は、法座に登られるときに着ていただきたいとのお心、如来の意に叶っています。ただ私は人として物に相応しくなく、恥ずかしく思うばかりです。今、常用している鍮石(ちゅうじゃく)の双口の澡灌(そうかん=手洗い用の器)を贈ります。法具の一として用いてください」と。さらに偈を一つ贈りました。

「すでに染めの楽(愛着の楽しみ)を捨てたなら、心はよく摂めおさめられたか。もし散乱せざるを得たなら、深く実相に入り得たか。畢竟空の相の中にあって、その心に楽(このみ)とするところなければ、もし禅の智慧を悦(よろこ)ぶなら、この法性は照らすことなし。虚僞にして等しく実なし、また心を停めおく処にもあらず。仁者の得たる法、幸いその要を示したまえ」

慧遠もまた偈を以て答えました。「本端(ほんたん)はついに何れよりか従(よ)る。起滅は有無の際(きわ)にあり。一微(いちび)動境に渉れば、成るこの颓山(たいざん)の勢い。惑想さらに相乗じ、理に觸るれば自ずから滞りを生ず。因緣は主なしと雖も、塗(みち)を開くは一世に非ず。時として宗匠を悟る者なければ、誰か玄契を握らん。來問なお悠悠たり、相與に期す暮歲に」

初め、中国には「涅槃常住(永遠の真理)」という教えはなく、「寿命は長い劫の間」とだけ説かれていました。慧遠は「仏は至極です。至極には変異がありません。変異のない道理にどうして窮まりがありましょうか」と言い、『法性論』を著しました。大意は「至極は不変をもって性とし、性を得るには理体を尽くすことを宗旨とする」というものでした。羅什はこの論を見て「慧遠はまだ経典を見ていないのに、理に暗合している。なんと素晴らしいことか」と嘆じました。

秦王の姚興(ようこう)は手紙を送り、亀茲(きじ=クチャ)の細緻な織物の変像を贈って尊敬の意を表しました。安城侯の姚嵩は珠像(仏像の装飾品)と釈論(しゃくろん=『大智度論』)を献上し、「『大智度論』は新しく記されたもので、龍猛(龍樹)の作です。法師には序文を冠し、後世に示していただきたい。この国の道人たちも皆、これを聞いて敬服しています」と言いました。慧遠は論が広大であるため、辞退して受けず、その要旨を二十巻に抄出し、別に序文を書きました。

桓玄(かんげん)が輔政(ほせい=補佐)の任にあったとき、安帝に沙門(僧侶)の淘汰を勧める詔書を出させました。「沙門で経典を講説し義理を述べ、戒律をよく守り修行が整っている者で、大いなる教化を宣べ伝えられる者は、その学びに従うことを許す。そうでない者はすべて還俗させよ。ただし匡山は道徳の住まうところであるから、捜査の対象には含めない」と。慧遠は桓玄に手紙を送り、表面上は従いながら内実ではその意をくじいたため、詔書は中止されました。

慧遠はかつて禅宗の別伝の主旨を調べ、その源流がどこから来たのかを究めました。やがて祖師達磨(だるま)が来たとき、すべて符合していることがわかりました。

陶淵明(とうえんめい)は柴桑(さいそう)に隠居し、慧遠のもとに通って道を問い、深く敬慕しました。謝霊運(しゃれいうん)は名を連ねて社に入ろうとしましたが、慧遠は拒んで受け入れませんでした。宗炳が『明仏論』を著し、顔延之が『達性論』を分析し、周顒が『夷夏論』を論破し、鄭道子が『神不滅論』を著したときも、皆慧遠に従って正されました。

隆安年間(397年〜401年)、桓玄はかつての庾氷(ゆひょう)の論を再び唱え、沙門が王者に敬礼することを求めるようになりました。朝廷はその風に乗って多くが桓玄に同調しました。そこで桓玄は慧遠に問いました。「これは一代の大事です。朝廷に失礼があってはなりません。八座(はちざ=高官たち)の文書を受け取りました。いまこれをあなたに見せます。どうか件ごとに不敬の意を詳しく論じ、疑問を解いてください。そうすれば実行しましょう」と。慧遠はその手紙に答え、さらに『沙門不敬王者論』五篇を著して、敬礼しない理由を詳細に述べました。桓玄は初め意志が固かったのですが、慧遠の論を得てすぐにその件を延ばしました。やがて位を篡奪(さんだつ)しましたが、下書(布告)して言いました。「仏法は弘大にして測り知ることができない。供奉(くぶ)の主の情にもとづいてその敬を興そうとしたが、いま事はすでに己が身にある。謙虚に諸道人(僧侶)に応じ、再び礼を求めてはならない」と。

安帝は桓玄を避けて潯陽に立ち寄りました。詔して慧遠に行在所(仮の宮殿)に召し出しました。輔国の何無忌(かむき)は慧遠に一度は出仕するよう勧めましたが、慧遠は病気を理由に固く辞退しました。帝は二度詔して労い、九江太守に命じて歳時(季節ごと)に米を送って生活を支えさせました。

慧遠はここに住むこと三十年、その影が山を出ることはなく、その跡が俗世に入ることはありませんでした。客を見送るのは虎溪(こけい)のほとりまでとしました。弟の慧持も高い行いがあり、蓮社の衆数千人のうち、慧持は第一座に座りました。太尉の王珣(おうしゅん)がかつて豫章の刺史の范寗(はんねい)に問いました。「遠公と持(慧持)、どちらが優れていますか」范寗は答えました。「賢兄(すぐれた兄弟)です」王珣は言いました。「弟(慧持)のような者であっても得がたいのに、ましてや兄(慧遠)の賢であってはなおさらです」

慧遠が臨終のとき、弟子たちが蜜漿(蜂蜜水)を進めました。慧遠は戒律に背くことを恐れ、左右に戒律の書を調べさせました。その巻が終わらないうちに、合掌して西を向いたまま亡くなりました。齢は八十三歳でした。『匡山集』三十巻があり、世に行われています。

宋朝明教大師契嵩。過遠影堂。列六事題之。其辭曰。陸脩靜異教學者。而送過虎溪。是不以人而棄言也。陶淵明耽湎于酒。而與之交。蓋簡小節而取其達也。跋陀高僧。以顯異被擯。而延且譽之。蓋重有識而矯嫉賢也。謝靈運以心雜不取。而果沒于刑。蓋識其器而慎其終也。盧循欲叛。而執手求舊。蓋自信道也。桓玄震威而抗對不屈。蓋有大節也。大凡古今人情莫不畏威而苟免。忘義而避疑。好名而昧實。黨勢而忍孤。飾行而畏累。自是而非人。孰有道尊一代為賢者師。肯以片言而從其人乎。孰有夙稟勝德為行耿潔。肯交醉鄉而高其達乎。孰有屈人師之尊。禮斥逐之客。而申其賢乎。孰有拒盛名之士不與於教而克全終乎。孰有義不避禍敦睦故舊而信道乎。孰有臨將帥之威。在殺罰暴虐之際。守道不撓而全其節乎。此固遠公識量遠人獨出於古今矣。若其扶荷至教廣大聖道垂裕於天人者。非蒙乃能盡之。其聖歟賢耶。偉乎大塊噫氣六合清風遠公之名聞也。四海秋色神山中聳遠公之清高也。人龍僧鳳長揖巢許遠公風軌也。白雲丹壑玉樹瑤草遠公棲處也。
(三)劉程之字仲思。彭城人。少孤事母以孝聞。才藻自負不委氣于時俗。雖寒餓在己威福當前。其意湛如也。司徒王謐承相桓玄侍中謝琨太尉劉裕。咸嘉其賢。欲相推薦。程之力辭。乃之匡山託于遠公。遠曰。官祿巍巍何以不為。程之曰。君臣相疑疣贅相虧。晉室無磐石之固。物情有累卵之危。吾何為哉。遠然其說大相器厚。太尉亦以其志不可屈。與群公議遺民之號旌焉。時雷次宗周續之畢潁之張秀實宗炳等。同依遠公。遠曰。諸君之來豈宜忘淨土之遊乎。有心焉當加勉勵。無宜後也。以程之最文使誌其事。號蓮社誓文。其辭曰。維歲在攝提格七月戊辰朔二十八日乙未。法師釋惠遠真感幽興霜懷特發。乃延命同志息心正信之士雷次宗劉程之等百有二十三人。集于廬山之陰般若臺精舍阿彌陀佛像前。率以香花敬薦而誓。惟茲一會之眾。夫緣化之理既明。而三世之傳顯矣。遷感之數既符。則善惡之報必矣。推交臂之潛論。悟無常之期切。審二報之相催。知險阻之難援。此其同志諸賢所以夕惕宵勤仰思攸濟者也。蓋神者可以感涉。而不可以迹求。必感之有物則幽路咫尺。苟求之無方則渺茫何津。今幸以不謀而感。僉心西境叩篇開信。亮情天發。乃機象通於寢夢。欣歡百於子來。於是雲圖表暉景侔神造。功由理諧事非人運。茲實天啟其誠冥運求萃者矣。可不克心克念重精疊思以凝其慮哉。然景續參差功福不一。雖晨期云同而夕歸攸隔。即我師友之眷。良可悲矣。是以慨然胥命整衿泫堂。等施一心亭懷幽極。誓茲同人俱遊絕域。其有警世絕倫首登神界。則無獨善於雲嶠忘兼全於幽谷。先進後升勉思彙征之道。然後妙觀大儀啟心真照。識以悟新形由化革。藉芙蕖於中流。蔭瓊柯以詠言。飄靈衣於八極。沈香風以窮年。體忘安而彌穆。心超樂以自怡。聽三途而緬謝。傲天宮而長辭。紹眾靈而繼軌。指太息以為期。究茲道也。豈不弘哉。
(四)太元初。符秦盛時德星屢現。太史奏。外國當有智人入輔。及秦主攻襄陽得法師道安。喜以為應。安謙讓不敢當。因勸秦主迎龜茲國法師鳩摩羅什。堅從之。即遣驍騎將軍呂光以鐵騎七萬伐龜茲。謂曰。若獲羅什馳驛送歸。光軍至。什謂龜茲王白純曰。國運替矣。有就敵從日下來。宜供承之。勿抗其鋒。鈍不納拒之。大為光所破。遂獲羅什。光見什齒少。凡人戲之。妻以龜茲王女。什苦辭以為不可。光飲以醇酒同閉室中。遂為所逼。及光還而符堅已敗。因僭王姑臧。父子相繼皆庸材不知道。什蘊深解混居其國亡所宣化。
(五)秦主姚萇者。西戎羌也。符堅之敗。萇為宿將率其部屬反叛。堅與之戰不利。遂為萇縊殺之于佛寺。萇襲其位都雍關。改長安為常安。在御八年。符堅領鬼兵白日入宮刺中其陰。出血石餘而崩。子興即位。降帝號而稱天王。未幾干戈寢息風化大行。嘉祥沓現。及樹連理剏生於殿庭。咸謂智人入國之瑞乃遣姚碩德伐涼呂隆。迎羅什法師至。秦主深加禮遇待以國師。大闡經論。震旦宣譯至符秦并什法師等。兩朝出經律論三藏。凡八百餘卷云。
(乙酉)符丕改大安。
西秦改建義。
(六)北朝魏(姓拓跋王水德都雲中)。
雷氏曰(道武明元太武文成獻文孝文宣武孝明孝莊節閔後廢出帝魏主十二一百四九)。
太祖道武皇帝珪(其先十一主。國號代晉。始拓跋詰汾。因畋于野遇天女而生力微。即魏之始祖神元皇帝也。)(帝時辟暑五臺山。有梵僧來乞坐具地。帝然之。遂敷坐具于是。頭出星辰。尾搖日月。方圓五百里。皆屬聖基。乃文殊化身也。)(始祖生章帝悉鹿。平帝綽。思帝弗。昭帝祿官。穆帝猗廬平文帝欝律。惠帝賀傉。煬帝紇那。烈帝翳槐。昭成帝什翼犍。已上十一主未通中國○珪按世錄。其先出自黃帝之後。昌意之子。受封北國。有大鮮卑山。自以為號。西晉之亂有拓跋廬。出居樓煩。晉封為代王。於後部落分散。經六十餘年至廬孫什翼涉珪。魏書云。珪即魏太祖道武帝也。太元元年據朔州東三百里築城邑。號恒安。為符堅護將軍。堅敗後。乃即真號太祖道武。殂明元立。元殂世祖太武帝立。自是又四主至世宗孝文帝。遷都于洛。改姓元氏。去胡衣冠絕虜語尊華風。是時天下唯二國謂之南北朝。魏初未聞佛。及神元與晉通聘。方知致信。僧至二百萬。寺院三萬餘所。譯經律論一千九百餘卷。自古佛圖塔之盛無出於此。改年登國)。
(丙戌)前秦符登(字文高堅之族孫在位九年改元太初。壽五十二)。
後秦改建初(入長安稱帝)涼改大安。
燕改建興。
(丁亥)西秦乞伏乾歸(國仁弟立二十四年。後為兄殺之)。
(戊子)西秦改太初(稱王於河南)。
(七)第二十六祖不如蜜多者。南印度德勝王之太子也。既受度得法至東印度。彼王名堅固。奉外道師長爪梵志。暨祖將至。王與梵志同覩白氣貫于上下。王曰。斯何瑞也。梵志預知尊者入境。恐王遷善。乃曰。此魔來之兆耳。何瑞之有。即鳩諸徒眾議曰。不如蜜多將入都城。誰能挫之。弟子曰。我等各有呪術。可以動天地入水火。何患哉。尊者至。先見宮牆有黑氣。乃曰小難耳。直詣王所。王曰。師來何為。祖曰。將度眾生。曰以何法度。祖曰。各以其類度之。時梵志聞言不勝其怒。即以幻法化大山於尊者頂上。尊者指之忽在彼眾頭上。梵志等怖懼投尊者。尊者愍其愚惑。再指之化山隨滅。乃為王演說法要俾趣真乘。又謂王曰。此國當有聖人而繼於我。是時有婆羅門子。年二十許。幼失父母。不知名氏。或自言纓絡。故人謂之纓絡童子。遊行閭里匃求度日。若常不輕之類。人問汝何行急。即答云。汝何行慢。或問何姓。乃云。與汝同姓。莫知其故。後王與祖同車而出見纓絡稽首於前。尊者曰。汝憶往事否。曰我念遠劫中與師同居。師演摩訶般若。我轉甚深修多羅。今日之事蓋契昔因。尊者又謂王曰。此童子非他。即大勢至菩薩是也。此聖之後復出二人。一人化南印度。一人緣在震旦。四五年內却返此方。遂以昔因故名般若多羅。付法眼藏。偈曰。真性心地藏。無頭亦無尾。應緣而化物。方便呼為智。尊者付法已。即辭王曰。吾化緣已終。當歸寂滅。願王於最上乘毋忘外護。即還本坐跏趺而逝。化火自焚。王收舍利塔而瘞之。當東晉孝武帝太元十三年戊子歲也。
(己丑)後涼改麟加。
(癸巳)栴檀瑞像此下至江南。住一百七十三年矣。
(甲午)前秦符崇改延初(十月為乾歸所殺國除)。
後秦姚興改皇初(字子略。萇長子弁。之長安立于槐里。二十二年。壽五十五歲)。
(八 丙申)安帝德崇(武帝長子。生而不惠。至於寒暑飢飽不能辨。年三十二。崩于東堂。葬休平陵。一名儒宗。十五歲即位。治二十二年)。
後涼改龍飛(稱涼天王)。
後燕慕容寶(字道祐。乘之第四子。立二年。改元永康。壽四十四歲)。
北魏改皇始(建天子旌旗)。
南燕慕容德(字玄明。皝少子。身長八尺二寸。姿貌雄偉。後燕寶死。乃據滑臺號燕都廣。僭立七固年。壽五十而卒)。
南涼禿髮烏孤(河西鮮卑人。其先與魏同出。八世祖匹孤率其部。自塞北遷于河西。呂光遣使署為益州牧。自稱大單于西平王。都廣武徙樂都。改年太初。僭立三年)。
此涼改業(據張掖次年改神璽)。
西涼李暠(字玄盛。龍西成紀人。漢將軍李廣十六代孫。祖弇仕張軌為將。因據河右至暠稱涼。立十七年○即唐太宗八世祖也)。
(九)竺僧朗。京兆人也。專以講說為任。而疎食布衣志耽物外。自皇始移上太山薙茅居之。時聞風而造者百有餘焉。道德凝懷。千里哲人競湊。芳聲播遠。五朝天子移風。貢物飛符孰能並駕。
一符堅書曰。皇帝敬問太山朗和尚。大聖應期靈權超逸。蔭蓋十方化融無外。若四海之養群生。等天地之育萬物。養生存死澄神寂妙。朕以虛薄生與聖會。而隔萬機不獲輦駕。今遣使人安車相請。庶冀靈光逈蓋京邑。今并奉紫金數斤供鍍形像。績綾三十疋。奴子三人。可備洒掃。至人無違。幸望納受。想必玄鑒見朕意焉。既請已師禮事之。
二晉武帝曜書曰。皇帝敬問太山朗和上。叡德光時聲飛東嶽。乃至思與和上同養群生。至人通微想明朕意。今遣使者送五色珠像一軀。光錦五十疋。象牙簞五領。金鉢五枚。到願受納。
三後燕成武帝慕容垂書曰。皇帝敬問太山朗和上。澄神靈緒慈蔭百國。凡在含生孰不蒙潤。朕承籍纂統。方夏事膺。昔蜀不恭魏武含慨。今二賊不平。朕豈獲安。又元戎克興狂掃暴亂。至人通靈隨權指化。願兵不血刃四海混伏。委心歸依久敬何已。今遣使者送官絹一百疋。袈裟三領。綿五十斤。幸為呪願。
四魏太祖道武皇帝書。皇帝敬問太山朗和上。承妙聖靈要須經略。已命元戎。上人德同海嶽神算遐長。冀助威謀克寧荒服。今遣使送素絹二十端。白㲲五十領。銀鉢三枚。到願受納。
五南燕慕容德。親與齊州朗和上建神通寺。與師書曰。敬問太山朗和上。遭家多難災禍屢臻。昔在建熙王室西越賴武王中興。神武御世大啟東夏。拯拔區域遐邇蒙蘇。天下幸甚。天未忘災。武王即宴。永康之始東傾西蕩京華播越。每思靈闕屏營飲淚 朕以無德生在亂兵遺民未幾繼承天祿。幸和上大思神祇蓋護。使者送絹百疋。并假東齊王奉高山荏二縣封給。書不盡意。稱朕心焉。五朝御啟。師悉回答。恐煩不錄。見唐弘明集。
(丁酉)改隆安○北涼改神璽。
後燕改永康。
(戊戌)後燕慕容盛(字道運。寶之庶子。立三年。壽二十九卒。改年建平)。
(十)北魏是年即帝位。改元天興。道武下詔曰。夫佛法之興其來遠矣。濟益之功冥及存沒。神蹤遺法信可依憑。勅有司于京師建飾容像修整宮舍。令信向之徒有所居正。是歲作浮屠殿二所。謂耆闍須彌。別構禪房法座。莫不嚴具焉。
(己亥)後秦改弘始○後燕改長樂(字道文垂。少子在。位六年壽。二十三歲)。
後涼呂纂改咸寧○北涼改天璽。
(庚子)南涼利鹿孤(烏孤之弟立二年改建和)。
(十一)是年什法師卒。鳩摩羅什。此翻童壽。天竺人也。家世勛烈。父鳩摩羅炎。有美節。避相位出家。龜茲王聞請為國師。以妹妻焉遂生什。日誦千偈三萬餘言。大小乘宗莫不該覽。符秦建元十三年。德星現之。苻堅使呂光西討。及聞堅敗。據姑臧稱涼。弗獲師面。姚秦弘始三年三月。庭樹生連理。逍遙園有葱變茝。以表智人應入中國。九月呂隆來降。十二月二十日。迎師居逍遙園。興以國師禮待之。甚見優寵。仍命譯經論三百餘卷。資學三千拔萃有八。曰道生僧肇道融僧叡道恒僧影惠觀惠嚴等。各有著述。知別傳明。可謂一時之盛千載光華。又舉僧䂮為僧正。以政僧事。沙門惠叡精誠遠到。隨什傳寫。每與叡言。西方辭體特重文制。其宮商體韻以入管絃。為善。凡覲王者必有贊德。經偈皆其式也。甞歎曰。吾著大乘阿毘曇非迦旃延比也。時無深識者。因悽然而止。獨與秦王著實相論二卷。秦王機政之暇。躬與什對譯。尋覽舊經多所紕繆。什釐正之。甞講經草堂寺。及朝臣沙門數千眾肅容觀聽。一日王謂什曰。法師才明超悟海內無雙。可使法種不嗣哉。遂以宮嬪十人逼令受之。什亦自謂。每講有二小兒。登吾肩欲障也。自是不住僧房。別立廨舍。諸僧有効之者。什聚針盈鉢謂曰。若相効能食此者乃可畜室耳。舉已進針如常饍。諸僧愧止初在龜茲。隣國諸王會同。每請什說法。必跪伏座前命什踐肩而登座。甞與母謁大月氏國北山尊者。北山謂其母曰。善護此沙彌。年三十五。毘尼無缺。度人如優波毱多。不爾正俊法師耳。杯渡比在彭城。聞什入關。歎曰。吾與此子戲別三百年矣。相見杳然未期。遲於來世耳。什甞升座。每曰。譬如臭泥中生蓮華。但取其華勿取臭泥也。居秦才九年而疾。口出三番神呪令外國弟子誦之。以自救。未及致力轉覺危殆。於是力疾集眾告別曰。因法相逢殊未盡心。方復後世。惻愴可言。自以闇短謬充傳譯。所出經論。唯十誦律未及刪繁。若義契佛心焚身之日舌不焦壞。言訖而逝。闍維日舌果若紅蓮色而不壞云。
論曰。漢光武生於南陽。而南陽無賤士。羅什至關中而奇才畢集經稱。聖賢出世。皆有因中同行開士。隨從下生以佐佑其化。信不誣矣。方魏晉以來大法草昧。西域沙門至者。例以神迹顯化中國。雖有奇傑閒出。然多囿情外學。迨什公之來然後大法淵源始淳。學者得以盡心方等而蔑視老莊。蓋什公有力於法門。豈小補哉。特以宿障之累。致其居關中才九年所蘊十未行一而不克壽。秦王有致什之功而弗能成其美。嗚呼使什公峻德梵行副其所蘊。獲永天年以光大教之序。雖彌勒出世。尚何加焉。
(十二)法師道䂮。以奉律精苦。為秦王所重。自什公入關。僧尼以萬數。頗多愆濫。秦王患之。遂置僧正。下詔曰。大法東遷於今為極。僧尼寖多宜設綱領。宣授遠視以濟頹緒。䂮法師早有學誼。晚以德稱。可為國僧正。給輿吏力資侍中秩。傳詔羊車各二人。又以僧遷禪惠為悅眾。以法欽惠斌為僧錄。班秩有差。尋加親信仗身白從各三十人。
(十三)時師子國有婆羅門。號聰明。為異道之宗。聞什在關中。馱其書至。乞與僧辨論。關中沙門相視缺然。什謂法師道融曰。子可以當之。融顧外道經書未讀。乃密使人錄其書目。一覽即誦。剋日議論。秦主與公卿大集。婆羅門以能博觀為誇。融數其書并秦地經史三倍之。什乘勝嘲曰。卿乃未聞秦有博學者乎。敢輕遠來。於是婆羅門愧服再拜融足下而去。
(十四)法師道恒。幼事後母以孝聞。母亡去為沙門。從什公遊。什愛其才。與道標齊名。秦主雅聞二人有經綸術業。令尚書姚顯宣旨敦勉罷道輔政。恒標抗表陳情。略曰漢光武成嚴陵之節。魏文帝全管寧之高。陛下天縱之聖。議論每欲遠輩堯舜。今乃冠巾兩道人。反在光武魏文之下。主復命什䂮等勉諭之。必欲遂其心。什䂮等奏章敘其事。略曰。惟聖人能通天下之志恒標業已毀除鬚髮。著不正之衣。今使處簪紳之朝。非其志也。且大秦龍興異才輩出。如恒標等未為卓越。主又下書。於是舉眾懇乞。乃得寢。恒歎曰。名進真道之累。乃與標去入琅邪山。終世不出。
(十五)法師僧叡。幼有盛名。及從羅什受業。妙悟絕倫。秦王甞問司徒姚嵩曰。叡公誰可比。嵩曰。未見歸宿及朝會公卿大集。叡風神朗徹。主指以謂嵩曰。四海僧望也。叡講成實論。什公曰。此諍論中有七處破毘曇。子能辦乎。叡舉以應問。皆當其意。什歎曰。子真精識。傳譯有賞音。吾何恨焉。
(十六)法師僧肇。幼家貧。為人傭書。遂博觀子史。尤善莊老。蓋其粗也。年二十為沙門。名震三輔。什公在姑臧。肇走依之。什與語驚曰。法中龍象也。及歸關中詳定經論。四方學者輻湊而至。設難交攻肇迎刃而解。皆出意表。著般若無知論。什覽之曰。吾解不謝子。文當相揖耳。傳其論至匡山。劉遺民以似遠公。公撫髀歎曰。以為未甞有也。復著物不遷等論。皆妙盡精微。秦主尤重其筆札。勅傳布中外。肇卒年三十有二。當時惜其早世云。
(辛丑)涼呂隆改神鼎。
北涼沮渠蒙遜(臨松盧水胡人。其先為兇奴。遜後殺歆。立于張掖。治三十三年。壽六十六。改永安)。
後燕慕容熙改光始。
(壬寅)改元興。
南涼傉檀(利鹿孤弟。立十三年。壽五十五。改元弘昌)。
(十七)元興元年。天竺弗多羅尊者至秦。義學沙門數百人從之。於中寺出十誦梵本。什公翻譯。及半而弗多卒。會沙門曇摩流支至。亦善毘尼。匡山遠公聞而喜。走書關中勸流支出其律足成之。流支乃與什公續而終焉。律儀大備自此而始。
(十八)天竺尊者佛陀耶舍至姑臧。聞什公受秦宮女。歎曰。什如好綿。其可使入棘刺乎。什聞耶舍為已遠來。恐相失而返。勸秦王迎之。使至。耶舍曰。明旨遠降。便當驛馳副檀越待士之勤。脫如見禮羅什。則貧道當在北山北矣。使還。王欽佇不已。復遣使盡禮致之。耶舍乃肯來。王郊迎。別剏精舍處之。供設如王者。耶舍一無所受。時至分衛一食而已。善毘婆沙論。而髭赤。時號赤髭毘婆沙。後遊匡山為遠公所重。躬自負鐵。於紫霄峯頂鑄塔。以如來真身舍利藏其中。今存焉。
(十九 癸卯)元興二年。太尉桓玄久懷篡奪。及升宰輔。以震主之威下書。令沙門致拜君親。玄與八座書。重申何庾議沙門不敬王者。以謂庾意在尊主而禮據未盡。何出於偏信遂淪名體。夫佛之為化。雖誕以范浩推乎視聽之外。以敬為本。此處不異。蓋所期者殊。非恭敬宜廢也。老子同王侯於三大。原其所重皆在於資生通運。豈獨以聖人在位而比稱二儀哉。將以天地之大德曰生。通生理物在乎王者。故尊其神器而禮實惟隆。豈是虛相崇重。義在君御而已。沙門之所以生生資存。亦日用於理命。豈有受其德而遺其禮。沾其惠而廢其敬哉。于時尚書桓謙中書王謐等。抗諫曰。今沙門者意深於敬。不以形屈為禮。如育王禮比丘足。魏文侯之揖干木。漢光武之遇子陵。皆不令屈體。況沙門之人也。於是亟其書咨于遠公。遠嘅然惜之曰。悲夫斯乃交喪之所由。千載之否運。懼大法之將淪。感往事之不忘。故著論五篇究敘微意。庶後之君子崇敬佛教者。或詳覽焉。
(二十)沙門不敬王者論在家第一。
原夫。佛教所明。大要以出處為異。出處之人凡有四科。其弘教通物。則功侔帝王化兼治道。至於感俗悟時。亦無世不有。但所遇有行藏。故以廢興為隱顯耳。其中可得論者。請略而言之。在家奉法則是順化之民。情未變俗迹同方內。故有天屬之愛奉主之禮。禮敬有本。遂因之而成教。本其所因則功由在昔。是故因親以教愛。使民知有自然之恩。因嚴以教敬。使民知有自然之重。二者之來。實由冥應。應不在今。則宜尋其本。故以罪對為刑罰。使懼而後謹。以天堂為爵賞。使悅而後動。此皆影響之報而明於教。以因順為通而不革其自然也。何者夫厚身存生。以有封為滯累。深固在我未忘。方將以情欲為苑囿。聲色為游觀。沈湎世樂不能自免而特出。是故教之所檢。以此為涯而不明其外耳。其外未明則大同於順化。故不可受其德而遺其禮。沾其惠而廢其敬。是故悅釋迦之風者。輒先奉親而敬君。變俗而投簪者。必待命而順動。若君親有疑則退求其志以俟同悟。斯乃佛教之所以重資生助王化於治道者也。論者立言之。旨貌有所同。故位夫內外之分。以明在三之志。略敘經意宣寄所懷。
沙門不敬王者論出家第二。
出家則是方外之賓。迹絕於物。其為教也。達患累緣於有身。不存身以息患。知生生由於稟化。不順化以求宗。求宗不由於順化。則不重運通之資。息患不由於存身。則不貴厚生之益。此理之與形乖。道之與俗反者也。若斯人者因誓始於落簪。立志形乎變服。是故凡在出家。皆遯世以求其志。變俗以達其道。變俗則章服不得與世典同禮。遯世則宜高尚其迹。夫然故能拯溺俗於沈流。拔幽根於重劫。遠通三乘之津。廣開天人之路。如令一夫全德。則道洽六親澤流天下。雖不處王侯之位。亦已協契皇極在宥生民矣。是故內乖天屬之重。而不違其孝。外闕奉主之恭而不失其敬。從此而觀。故知超化表以尋宗。則理深而義篤。照太息以語仁。則功末而惠淺。若然者雖將面冥山而游步。猶惑恥聞其風。豈況與夫順化之民尸祿之賢。同其孝敬者哉。
沙門不敬王者論求宗不順化第三。
問曰。尋老氏之意。以天地得一為大。王侯以順體而尊。終於義存於此。斯沙門所以抗禮萬乘高尚其事不爵王侯而沾其惠者也。
沙門不敬王者論體極不兼應第四。
問。歷觀前史。上皇已來。在位居宗者未始異其原本。本不可二。是故百代同典咸一其統。所謂唯天為大。惟堯則之。始此則非智有所不照。自無外可照。非照有所不盡。自無理可盡。以此推視聽之外廓無所寄。理無所寄則宗極可明。今諸沙門不悟文表之意。而惑教表之文。其為謬也。固已全矣。若復顯然驗。此乃希世之聞。
答曰。夫幽宗曠邈神道精微。可以理尋難以事詰。既涉乎教則以因時為檢。雖應世之具優劣萬差至於典成在用。咸即民心而通其分。分至則心。其智之所不知。而不關其外者也。若然則非體極者之所不兼。兼之者不可並御耳。是以古之語大道者。五變而形名可舉。九變而賞罰可言。此但方內之階差。而猶不可頓說。況其外者乎。請復推而廣之以遠其類。六合之外存而不論者。非不可論。論之或乖。六合之內論而不辨者。非不可辨。辨之或疑。春秋經世先王之志辯而不議者。非不可議。議之或亂。此三者皆其身耳目之所不至以為關鍵。而不關視聽之外者也。因此而求聖人之意。則內外之道可合而明矣。常以為道法之與名教。如來之與堯孔。發致雖殊潛相影響。出處誠異終期則同。詳而辨之指歸可見。理或有先合而後乖。有先乖而後合。先合而後乖者。諸佛如來則其人也。先乖而後合者。歷代君王體極之至。斯其流也。何以明之。經云。佛有自然神妙之法。化物以權廣隨所入。或為靈仙轉輪聖帝。或為卿相國師道士。若此之倫在所變現。諸王君子莫知為誰。此所謂先合而後乖者也。或有始剏大業。而功化未就迹有參差。故所受不同。或期功於身後。或顯應於當年。聖王即之而成教者。亦不可稱算。雖抑引無方。必歸塗有會。此謂先乖而後合者也。若命乖而後合。則擬步通塗者必不自涯於一檢。若令合而後乖。則釋迦之與堯孔歸致不殊斷可知矣。是故自乖而求合。則知理會之必同。自合而求乖。則悟體極之多方。但見形者之所不兼。故或眾塗而駭之而異耳。因茲而觀。天地之道功盡於運化。帝王之德理極於順通。若以對夫獨絕之教不變之宗固不得同年而語其優劣。亦以明矣。
沙門不敬王者論形盡神不滅第五。
問曰。論旨以化盡為至極。故造極者必違化而求宗。求宗不由於順化。是以引歷代君王。使同之佛教。令體極之至以權君統。此雅論之所託。自必於大通者也。求之實當。理則不然。何者夫稟氣極於一生。生盡則消液而同無。神雖妙物。固是陰陽之化耳。既化而為生又化而為死。既聚而為始。又散而為終。以此而推。固知神形俱化原無異統。精粗一氣始終同宅。宅全則氣聚而有靈。宅毀則氣散而照滅。散則反所受於本。本滅則復歸於無物。反覆終窮。皆自然之數耳。孰為之哉。若反本則異氣。數合則同化。亦為神之處形。猶火之在木。其生必並。其毀必滅。形離則神散而罔寄。木朽則火寂而靡託。理之然矣。假使同異之分昧而難明。有無之說必存乎聚散。聚散氣變之總名。萬化之生滅。故莊子曰。人之生氣之聚。聚則為生。散則為死。若死生為彼之徒。則吾又何患。古之善言道者。必有以得之。若果然耶。至理極於一生。生盡不化。義可尋矣。
答曰。夫神者何耶精極而為靈者也。精極則非封象之所圖。故聖人以妙物為言。雖有上智猶不能定其體狀窮其幽致。而談者以常識生疑。多同自亂。其為誣也亦已深矣。將欲言之。是乃言夫不可言。今於不可言之中復相與言依俙。神也圓應無主妙盡無名。感物而動。假數而行。感物而非物。故物化而不滅。假數而非數。故數盡而不窮。有情則可以物感。有識則可以數求。數有精粗。故其性各異。智有明闇。故其照不同推此而論。則知化以情感。神以化傳。情為化之母神為情之根。情有會物之道。神有冥移之歸。悟徹者及本。惑理者逐物耳。古之論道者。亦未有所同。請弘之明之。莊子發玄音於大宗。稱皇帝之言。形有美而不化。又云。火傳於薪。猶神之傳於形。此曲從養生之談。非遠尋其類者也。就如來論。假令形神俱化始自天本。愚智資生同稟所受。問所受者為受之於形耶。受之於神耶。若受之於形凡在有形皆化而為神矣。若受之於神。是為以神傳神。則丹朱與帝堯齊聖。重華與瞽瞍等靈。其可然乎。如其不可。固知冥緣之合。著於在昔。明闇之分。定於形初雖靈鈞差運。猶不能變性之自然。況降茲已還乎。驗之於理則微言而有徵。校之以事可無惑於大通。論成。後有退居之賓。步朗月而宵游。相與共集法堂。因而問曰敬尋雅論大歸可見。殆無所間。一日試重研究。蓋所未盡亦少許處耳。意以為沙門德式是變俗之殊制。道家之名器施於君親。固宜略於形敬。今所疑者謂甫創難就之業。遠期化表之功。潛澤無現法之効來報玄而未應乃令王公獻供信士屈體。得無坐受其德陷乎早計之累。虛沾其惠同夫素飡之譏耶。主人良久曰。請為諸賢近取其類。有人於此。奉宣時命遠通殊方九譯之俗。問王當資以糇糧錫以輿服否。答曰然。主人曰。類可尋矣。夫稱沙門者何耶。謂其能蒙俗之幽昏。啟化表之玄路。方將以兼忘之道與天下同往。使希高者揖其同風。漱流者味其餘津。若然雖大業未就。觀其超步之跡。所悟固已弘矣。然則運通之功資存之益。尚未酧其始誓之心。況三業之勞乎。又斯人者。形雖有待情無近寄。視夫四事之供。若雀蚊之過乎其前耳。濡沫之惠復焉足語哉。眾賓於是始悟冥塗以開轍為功。息心以淨畢為道。乃忻然怡衿詠言而退。
(甲辰)魏改天賜。
(乙巳)改義熙。
南燕慕容超改太上。
夏赫連勃勃(字屈局。兇奴有賢王去卑之後。劉衛之子。淵之族。身長八尺五寸。腰闊十圍。據夏州自稱天王。尚性兇暴以殺為樂。立二十年)。
西涼改建初。
(二十一 丙午)天竺尊者佛馱跋陀。自義熙二年至長安。什公倒屣迎之。以相得遲暮為恨。議論多發藥。跋陀曰。公所譯未出人意。乃有高名何耶。什曰。吾以年運已往。為學者妄相粉飾。公雷同以為高可乎。從容決未了之義。彌增誠敬。秦太子姚泓。延至東宮。對什論法。什問曰。法云何空。答曰。眾微成色。色無自性。故色即空。又問。既以極微破色空。復云何破一微。答曰以一微故眾微空。以眾微故一微空。沙門寶雲譯出此語。不省其意。皆謂跋陀所計微塵是常。更申請之。跋陀曰。法不自生。緣會故生。緣一微故有眾微。微無自性則是空矣。寧當言不破一微乎。時秦尚玄化沙門出入宮闕者數千。跋陀隤然而已。偶謂弟子曰。昨見天竺五舶俱發。應合至矣。又其徒自言得初果。僧正道䂮曰。佛不許言自所得法。五舶之論何所窮詰。弟子輕言誑惑。於律有違義不同處。跋陀遂渡江入匡山見遠公。議論不為遠屈。遠高之。遣書關中雪其枉。後於江都謝司空寺譯華嚴經六十卷。感二青衣童子每旦自庭沼中出。炷香添瓶不離座右。暮夜則潛入治中。日以為常。至譯經畢。遂絕迹不見。
(丁未)夏改龍升。
後燕高雲(字子羽。惠文熙之長子。自云高陽之後。因以為姓。熙死僭立一年。改國曰大燕。年改正始)。
(二十二)淵明陶潛字元亮。為彭澤令。解印去居柴桑與廬山相近。時訪遠公。遠愛其曠達。招之入社。陶性嗜酒謂許飲即來。遠許之。陶入山。久之以無酒攢眉而去。
(戊申)南涼改嘉平。
北燕馮跋(字文起。長樂信都人。小字乞直伐。其先畢萬之後。子孫皆食爵馮獅者。因以氏。馮跋善飲酒一石不亂。初仕後燕。因殺慕容熙立雲。雲復為臣離班桃仁所弑。跋乃僭稱燕于昌黎。次年改太平。在位二十一年)。
(己酉)西秦改更始。
魏明元皇帝嗣(乃道武長子。是年即位。改元永興。在位十五年。壽三十二崩西宮。葬雲中金陵)。
(二十三)沙門法果。戒行精至開演法籍。是歲明元皇帝進加僧統。言允愜賜封輔國宜城子忠信侯安城公之號。師皆固辭。帝親幸其居。以門巷狹小不容輿輦。更廣大之。瞻敬慰問若此。年八十餘卒。帝三臨其喪。追贈老壽將軍趙胡靈公。
(二十四 庚戌)法師法顯自西域還。初顯於隆安二年。同惠景曇整等入西域求法。渡流沙迷失路。以日準東西。視人骨處進行。遭熱風惡鬼不顧。至葱嶺積雪有毒龍飛。砂路盤空而進。不顧皆萬仞險處。梯而過者。七日以繩為梁躡而濟者。水闊八十步。漢張騫甘英皆所未至也。過小雪山寒甚。惠景股栗而死。顯哭之慟。收涕孤征。又三十餘國至中天竺。去王舍城三十里。入一寺問耆闍崛山路。僧曰。日暮矣。彼多師子。且食人。不可往。顯念吾欲瞻靈境。幸至而晚。今夕若死吾志不酬。身非所愛。乃畏師子乎。顯既至日已夕。遂留山中。流涕拜曰。我不自知至此也。坐樹下誦經。夜三更師子蹲踞舐齕。顯以手循之曰。欲肉醉我遲誦經畢乃可耳。於是妥尾而去。明日歸。老僧植杖立揖不答。徐去。有少年來。顯問耆年謂誰。曰頭陀大迦葉也。顯追之至山。有石塞岩竇不得往。至南天竺。得摩訶僧祇律泥洹等經。留三年學梵字。以經像附商。至師子國。同侶皆無存。翩然自止。會有以紈扇供佛者。顯見之動東歸之思。又二年達于青州。太守李嶷躬迎之。護送入于京師。
(壬子)西秦熾盤(乾歸之子。立十六年。改元永康)北涼改玄始。
(二十五)西域三藏曇無讖。由龜茲至姑臧。涼王沮渠蒙遜素奉大法。讖居久之遍曉華言。譯大般涅槃大集等經六十餘萬言。猶以涅槃品數未足。復還西域訪求得之。至涼譯成。四十二卷。凡一萬偈。讖神異頗多。時拓跋珪王中山。聞讖思一瞻禮。遣使來迎。遜不許。珪再遣高平公李順。策拜遜涼王加九錫諭之曰。曇無讖道德廣大。朕思一奉見。可馳驛送至。遜曰。臣奉事朝廷亡所負。前表乞留讖。今復來追。此臣師也。有死則已。欲往則不可也。順曰。朝廷欽王忠義。故顯加殊禮。今乃以一道人虧損大功。不忍一朝之忿。吐所不當言。失朝廷待遇之意。切為大王不取也。遜曰。如公之言誠美。第恐情不副此耳。遜竟不遣讖。於是拓跋珪銜之。道進者從讖求授菩薩戒。讖曰。當自悔七日乃未。既而詣讖。讖忽怒。進曰。此宿障也。遂精修三年。夢中感釋迦世尊為授戒法。是夕十餘人同夢如進所見。於是復詣讖望見大喜曰。善哉已感戒矣。今為汝作證。及固辭西歸遜怒其去已。密遣親信中路刺殺之。初讖出關日。謂送者曰。業期至矣。雖上聖不能逃。非愛死而固欲相遠也。未幾遜心愧悔。白日見鬼以劍刺之而卒。其國為魏所併。
(癸丑)夏改鳳翔。
(二十六)道生法師天縱妙悟。初涅槃後品未至。生熟讀久之曰。阿闡提人自當成佛。此經來未盡耳。於是文字之師交攻之。誣以為邪說。於律當擯。生白眾誓曰。若我所說不合經義。願於此身即見惡報若實契佛心。願舍壽時據師子座。於是袖手南來入虎丘山。竪石為聽徒講涅槃經。至闡提有佛性處。曰如我所說義契佛心不。群石皆首肯之。後游匡山居銷景岩。聞曇無讖重譯涅槃後品至南京。果言闡提皆有佛性。生慰喜不自勝遂誓死奉法。
(甲寅)魏改神瑞。
(丙辰丁巳)後秦泓(興之子。立二年。晉劉裕滅之。壽三十。改永和)魏改泰常。
(戊午)西涼李歆(立三年改嘉興)。
(己未)夏改昌武。次年改真興。
(二十七)恭帝德文改元熙(安帝母弟。永初元年。劉裕使后兄叔度踰垣殺之。壽三十六葬于沛陵。晉室滅矣)。
治二年○是年梁誌公生。
右(西晉都洛陽。四主三十七年。而有五胡之燉。東晉都建業十二主一百四年。而歸于宋)。
(庚申)西秦改建弘。
西涼冠軍恂。改永建(二年河西王拔燉煌。恂自殺國亡)。
(二十八)北朝魏泰常五年。光祿卿崔浩被讒。帝命浩以公歸第。因修服食養性之術。初嵩山道士寇謙之。修張道陵術。自言甞遇老子降。命謙之繼道陵為天師授以辟穀輕身之術。及科戒二十卷。使之清正道教。又遇神人李譜文云。老子之玄孫也。授以圖籙真經六十餘卷。并出天宮靜輪之法。謙之奉其書獻于太武。朝野多未之信。崔浩獨師事之。從受其術。且上書贊明其事。太武忻然。使謁者奉玉帛牲牢祭嵩嶽迎致謙之起天師道場於平城之南重臺五級。道徒由此而盛。
宋司馬文正公曰。老莊之書。大旨欲同生死輕去就。而為神仙者服餌修鍊以求輕舉。鍊草石為金銀。其為術正相戾矣。是以劉歆七略敘道家為諸子。神仙為方技。其後有符水禁呪之術。至謙之遂合而為一。至今循之。其訛甚矣。崔浩不信佛老之書而信謙之之言。其故何哉。昔臧文仲祀鶢鶋。孔子以為不智。如謙之者其為鶢鶋亦大矣。詩三百一言以蔽之。曰思無邪。君子之於擇術。可不謹哉。
(二十九)禪師玄高居夌𧂐山。與沙門曇弘友善。聞曇無毘自北山至涼妙禪觀。高往親之。旬日即悟。無毘歎異以為勝己。及無毘西歸。有妖比丘。嫉高譖於河南王世子曼曰。高今聚徒將為國害。曼信之欲殺高。其父不許。遂擯於河北。居林陽堂山。山蓋地仙所宅。夜有鐘磬聲。高門弟子百餘輩。拔萃者玄紹有神力。甞指地出水以給眾。如紹者又十有一人。河南王迎曇弘至。問王何以擯高。其人希世之瑞也。王厚禮迎之。高欲赴命。山中草木為摧偃亂石塞路。高曰。吾志弘道。自滯岩竇無益也。路乃可行。王郊迎之禮以為師。後游涼土。沮渠蒙遜禮遇尤勤。弟子僧印自謂得阿羅漢果。高假以神力。使於定中見十方無盡世界。及聞諸佛所說之法。各各不同。即於一夏尋其所見不盡。方生愧懼。明年魏使請高入于平城。拓跋燾在位。益加誠敬令太子晃師事之。
(三十)齊著作魏收。著魏書佛老志。其略曰。釋氏之學聞於前漢。武帝元狩中。霍去病獲昆耶王及金人。率長丈餘。帝以為大神。列於甘泉宮燒香禮拜。此則佛道流通之漸也。及開西域遣張騫使大夏。還云身毒天竺國有浮圖之教。哀帝元壽中。景憲受大月氏王口授浮圖經。後漢明帝夢金人項有日光飛行殿庭。傅毅始以佛對帝。遣中郎蔡愔等使於天竺。寫浮圖遺範。仍與沙門迦葉摩騰竺法蘭還洛陽。得四十二章經及釋迦立像帝令畫工圖之。置清涼臺及顯節陵。緘經於蘭臺石室。浮圖或言佛陀。聲相轉也。譯云淨覺。言滅穢明道為聖悟也。
凡其經旨。大抵言生生之類。皆因行業而起。有過去當今未來三世。神識常不滅也。凡為善惡必有報應。多積勝業陶冶麁鄙。經無數形藻練神明。乃至無生而得佛道。其閒階次心行等級非一。皆緣淺以至深。藉微而為著。率在於積仁順蠲緣欲。習虛靜而成通照也。故其始修心則依佛法僧。謂之三歸。若君子之三畏也。又有五戒。去殺盜婬妄言飲酒。大意與仁義禮智信同。奉持則生天人勝處虧犯則墮鬼畜諸苦。又善惡生處。凡有六道焉。
諸服其道者。則剃落髮須釋累辭家。結師資遵律度。相與和居治心修淨。行乞以自給。謂之沙門。或曰桑門。亦聲相近也。其根業各差。謂之三乘。聲聞緣覺及以大乘。取其可乘運以至道為名也。上根者以修六度進萬行。整度億流彌歷長遠。登覺境而號為佛也。本號釋迦文。此譯能仁。謂德充道備戡濟萬物也。降於天竺迦維羅衛國王之子。於四月八日從母右脇而出。姿相超異三十二種。天降嘉瑞亦三十二而應之。以二月十五日而入涅槃。此云滅度。或言常樂我淨。明無遷謝及苦累也。又云。諸佛有二義。一者真實。謂至極之體妙絕拘累不得以方處期。不可以形量限。有感斯應體常湛然。二者權應。謂和光六道同塵萬類。生滅隨時脩短應物。形由感生體非實有。權形雖謝真體不遷。但時無妙感。故莫得常見耳。斯則明佛生非實生滅非實滅也。
佛既謝往香木焚屍。靈骨分碎大小如粒。擊之不壞。焚之不焦。而有光明神驗。謂之舍利。弟子收奉。竭香花致敬募建宮宇。謂之為塔。猶宗廟也。故時稱為塔廟者是矣。於後百年有王阿育者。以神力分佛舍利。役諸鬼神造八萬四千塔。布於世界。皆同日而就。今洛陽彭城姑臧臨淄。皆有育王寺。蓋承其遺迹焉。而影迹爪齒留於天竺。中途往來者咸言見之。
初說教法。後皆著錄。綜覈深致無所漏失。故三藏十二部經。如九流之異。統其大歸終以三乘為本。後有羅漢菩薩。相繼著論。讚明經義以破外道。皆傍諸藏部大義。假立外問而以內法釋之。傳於中國。漸流廣矣。漢初沙門皆衣赤布。後乃易以雜色云。
論曰。唐太宗世既修晉書。復有勸修南北七朝史者。太宗以元魏書甚詳。故特不許。以今攷之信然也。凡佛老典教於儒者九為外學。或欲兼之。自非夙薰成熟願力再來。莫能窺其彷彿。況通其旨歸而祖述源流者乎。異哉魏書佛老志。不介馬而馳遷固之間。御靡旌以摩荀楊之壘。步驟雍容有足觀者。然則魏收兼三聖人難兼之學。平四作者不平之心。厥書獨見信於後世。顧不美哉。
佛祖歷代通載卷第七

第六
第八

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