十二門論宗致義記卷上
十二門論宗致義記 巻上
京西大原寺沙門釋法藏述
京西大原寺沙門釈法蔵述
夫以玄綱絕待,真俗所以俱融;素範超情,空有以茲雙泯。但以性空未嘗不有,即有以辨於空;幻有未始不空,即空以明於有。有空有故不有,空有空故不空。邊執既亡,聞見隨喪。竭邪源之有寄,則四執雲銷;挺正法之無虧,則二諦斯在。是故如來在世,曜般若於昏衢;上品之流,契玄津於累外。大師沒後,異執紛綸,或趣邪途,或犇小徑,於是九十五種競扇邪風;一十八部爭揮爝火,遂使真空慧日匿耀昏雲,般若玄珠惑茲魚目。爰有大士,厥稱龍猛,位登極喜,應兆金言。慨此頹綱,悼斯淪溺,將欲然正法炬、覆邪見幢,故使製作繁多,溢於天竺。然則要妙之述,此論為先,標十二之宏綱,坦幽途而顯實,令即相還源,融神妙寂,開情煥理,故號為門。往復折徵,復稱為論,門有十二,因以為名。餘義下當別釋。
さて、この究極の真理は言葉や概念を超えており、そのため真諦(真実の世界)と俗諦(世俗の世界)は互いに溶け合う。絶対的な規範は感情や思考を超越しているので、実体としての「有」と「空」の区別もまた、ここでは消え去る。
しかし、「性空」(本質的な空)は決して「無」ではない。だからこそ「有」の立場から「空」を説くことができる。逆に、この世の「幻有」(仮の存在)は決して永遠の実体ではなく、だからこそ「空」の立場から「有」の本質を明らかにする。
「有」が「空」であるがゆえに、本当の意味での「有」ではない。「空」が「有」であるがゆえに、本当の意味での「空」ではない。このようにして、「有」か「空」かの一方的な執着は消え去り、見聞によって得た偏った知識もまた失われる。
誤った考え方の根源が断たれることで、四つの執着(有・無・亦有亦無・非有非無)は雲のように消え去る。正しい教えが完全に保たれることで、真俗二諦(真実と世俗の二つの真理)がそこに現れる。
それゆえ、如来がこの世に現れた時、智慧の光は暗い迷いの道を照らした。上根の修行者たちは、煩悩の束縛を超えた悟りの境地に達した。
しかし、大師(釈迦)が亡くなられた後は、異なる解釈が入り乱れた。ある者は誤った道に走り、ある者は狭い小道に迷い込んだ。そして、九十五種の外道が競って誤った教えを吹きまき、十八部の小さな学派が蟻の火のような小さな光で争った。そのため、真実の智慧という太陽は暗雲に覆われ、般若の宝珠は魚の目玉と混同されるに至った。
ここに大士(偉大な聖者)が現れた。名を龍猛(ナーガールジュナ)という。彼は極喜地(初地の菩薩位)に登り、仏の予言に応えた。この衰えた教えの綱を慨き、迷いの海に沈む人々を悼み、正法の炬火を燃やし、邪見の幢(はた)を倒そうと志した。そのため、彼の著述は多く、天竺中に溢れた。
しかし、その中でも要妙を極めたものは、この論を第一とする。十二の宏大な綱要を掲げて、暗い道を開き、真実を示す。すなわち、現象の姿そのものに立ち返って本源に還り、心を融かして妙なる寂静に至らせる。心を開き、理を輝かせるための門であるから、「門」と名付ける。
議論を往来させて問い詰め、審らかに検証することから、また「論」と名付ける。門が十二あるので、「十二門論」と呼ぶのである。その他の詳しい意味は、以下でそれぞれに説明する。
將釋此論,略作十門:一、明教起所因;二、藏部所攝;三、顯教分齊;四、教所被機;五、能詮教體;六、所詮宗趣;七、造論時代;八、傳譯緣起;九、釋論題目;十、隨文解釋。