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title: "圓悟佛果禪師語錄 · 小參六"
description: "圓悟佛果禪師語錄由宋代僧人紹隆等人編撰，收錄了臨濟宗高僧圓悟克勤禪師的語錄、法語、書信及詩偈等。該書成書於南宋初期，系統闡釋了禪宗心性論、頓悟思想及修行方法，並包含其著名評唱作品碧巖錄的核心觀點。作為禪宗史上極具影響力的語錄集，它不僅是研究宋代臨濟宗思想的重要文獻，更是後世參禪者指導心性的權威典籍，對中日韓禪宗發展均有深遠影響。"
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## 圓悟佛果禪師語錄卷第十三

> 圓悟佛果禪師語録 巻第十三

宋平江府虎丘山門人紹隆等編

> 宋平江府虎丘山門人紹隆等編

### 小參六

> 小参六

高郵乾明受勅。住金山龍遊寺。當晚小參。僧問。明歷歷露堂堂。因什麼乾坤收不得。師云。金剛手裏八稜棒。進云。忽若一喚便回。還當得活也無。師云。鶖子目連無奈何。進云。不落照不落用。如何商量。師云。放下雲頭。進云。忽遇其中人時如何用。師云。騎佛殿出三門。進云。萬象不來渠獨語。教誰把手上高峯。師云。錯下名言。師乃云。祖師心印。狀似鐵牛之機。諸佛密語。正如擊塗毒鼓。未擬議前先蹉過。纔思量處隔千山。要須眼似流星心如鐵石。所以從上來提持向上綱宗。只有三句。有時咬去。有時咬住。有時一向不去。有時一向不住。明眼漢沒窠臼。若論戰也。箇箇力在轉處。却物為上逐物為下。要須把斷凡聖路頭不立毫末。然後舉一毫毛盡無邊香水海。七達八通。說一句子。窮龍宮盈海藏。此猶是極則之談。未是衲僧巴鼻。若論衲僧受用。直饒棒如雨點喝似雷奔。列千聖下風。立毘盧頂上。擊石火閃電光。俊鷂俊鷹。也趕他不及。要須正一切知見發明大解脫。無不歷落無不透脫。則在天同天。在地同地。物同物我同我。證一切智明一切道。無處不通容。無機不圓證。正當恁麼時。諸人各各返照自己分上。曾移易一絲毫許麼。所謂十世圓融十分成就。且道。不落機緣一句作麼生道。覿面要須宗正眼。臨機截斷聖凡蹤。

> 高郵乾明寺の僧が勅命を受け、金山龍遊寺に住持することになった。その夜の小参の時、僧が問うた。「明らかに歴々として露わで堂堂たるのに、なぜ乾坤も収めきれないのですか」。師は云う、「金剛の手にある八稜の棒」。僧が更に問う、「もし一たび呼ばれて即座に帰ったなら、それは活きていると言えるでしょうか」。師は云う、「鶖子も目連も手の施しようがない」。僧が問う、「照らしに堕ちず、働きに堕ちない、これはどう考えたらよいでしょうか」。師は云う、「雲の頭を放下せよ」。僧が問う、「もしその中の人に遇ったなら、どう働かせるべきでしょうか」。師は云う、「仏殿に騎って三門を出る」。僧が問う、「万象は来ないのに独りで語る、誰に手を取らせて高峯に上るのか」。師は云う、「言葉の名を間違えて付けたな」。師は乃ち云う、「祖師の心印は、鉄牛の機に似ている。諸仏の密語は、ちょうど塗毒鼓を撃つようなものだ。思議する前に先にすでに過ちてしまい、考える時には千山も隔たっている。まさに眼は流星の如く、心は鉄石の如くでなければならない。だから上から提持してきた向上的な綱宗は、ただ三句のみである。時には咬み去り、時には咬み止まる。時には一向に去らず、時には一向に止まらない。明眼の漢は窠臼に落ちない。もし戦いを論じるなら、一人一人の力は転ずる所に在る。物を却けるのが上であり、物に逐われるのが下である。まさに凡も聖も路頭を把断し、毫釐も立てないようにしなければならない。そうして初めて一毛を挙げて無辺の香水海を尽くし、七達八通する。一句を説いて、龍宮を窮め海蔵を満たす。これとても究竟の談に過ぎず、まだ衲僧の巴鼻ではない。もし衲僧の受用を論じるなら、たとえ棒は雨の点の如く、喝は雷の奔るが如くであっても、千聖を下風に列し、毘盧の頂上に立つ。石を撃つ火、閃く電光。俊鷂俊鷹といえども、彼に追いつくことはできない。まさに一切の知見を正し、大解脱を発明し、すべて歴落として、すべて透脱しなければならない。そうすれば天にいて天と同じくし、地にいて地と同じくする。物は物と同じく、我は我と同じくする。一切智を証し一切道を明らかにし、通じない処はなく、機に円証しない処はない。まさにこのような時、皆々は自分の分を返照して、少しでも移り変わったものがあるだろうか。いわゆる十世円融、十分成就である。且く問う、機縁に落ちない一句をどう道うのか。覿面に宗門の正眼を要し、機に臨んで聖凡の蹤を截断する」。

入寺小參。金剛王寶劍。截斷玄機。正眼摩醯光。吞諸祖目。機銖兩舉一明三。左轉右旋。七穿八穴也。須是箇風吹不入水洒不著針劄不入。快活自由底漢始得。若也浮逼逼地。尚留觀聽。猶涉形聲。說妙說玄。舉今舉古。進前退後。敲床竪拂。行棒行喝。則沒交涉。直得淨裸裸赤洒洒。還有相見底麼。若有。須是同道人方知同道事。若非。同道者畢竟沒來由。正當恁麼時。還相委悉麼。十方聚會無餘事。共向曹溪路上行。復頌云。正眼橫頂門。神符懸肘後。幸是師子兒。各作師子吼。

小參。僧問應真不借時如何。師云。渠儂得自由。進云。點則不到。到即不點。師云。同彼同此。進云。此猶未是學人安身立命處在。師云。獨有闍黎高一著。進云。也知和尚要用此機。師云。也被闍黎識破。進云。老老大大。轉見放憨。師云。道什麼。進云。也不可放過。師云。却是爾放憨。師乃云。好日多同十方盡應。好本多同千差共轍。直得龍吟霧起。虎嘯風生。八面更玲瓏。一方獨峭絕。此猶是人人分上知有底。其餘不知有底如恒河沙數。且作麼生湊泊。作麼生參詳。有進步得底不用伎倆。試拈出看。有證據得底不用思量。試剖判看。若剖判得。正如靈山會上龍女獻珠便得成佛。女云。我獻寶珠。世尊納受。是事疾否。智積云。是事甚疾。龍女云。以汝神力。觀我成佛。復速於此。然雖如是。猶有途轍。若是本分行本分證。直須更放過三千里。正當恁麼時。畢竟如何是著實處。十方薄伽梵。一路涅槃門。

> 小参（短い教えの機会）がありました。僧が問う、「まことにあるべき姿に頼らずにいる時はいかがでしょうか」。師は言われた、「あの者、自由を得ている」。僧はさらに言う、「指し示せば届かない。届けば指し示さない」。師は言われた、「それと同じ、これと同じ」。僧は進み出て言う、「これはまだ、私が身を置き命を託す場所ではございません」。師は言われた、「ただ、あなただけが一段高いところにいる」。僧は言う、「和尚がこの機を用いられることも、よく存じております」。師は言われた、「それも、あなたに見破られてしまったか」。僧は言う、「大の大人が、ますますふざけたことをおっしゃる」。師は言われた、「何と言ったか」。僧は言う、「それも見逃すことはできません」。師は言われた、「いや、あなたこそふざけているのだ」。師はやがて言われた、「良い日は多く、十方すべてに応じる。良い本は多く同じで、千差万別も一つの輪を踏む。まさに龍が鳴けば霧が立ち、虎が吠えれば風が生じる。八方はさらに玲瓏とし、一方だけがひときわ峻険にそびえる。これはまだ、ひとの上に知るということがある者の分際である。その他の、知るということがない者は、ガンジス河の砂の数ほどもいる。さて、どうやって近づき、どうやって参究すればよいのか。進歩を得た者は、技巧を用いずに、試しに取り出して見せよ。証拠を得た者は、思量せずに、試しに裁断して見せよ。もし裁断し得たなら、まさに霊山の会で龍女が宝珠を献上して、そのまま成仏したのと同じである。龍女は言った、『私は宝珠を献上し、世尊は受け取られた。このことは速いか』。智積は言った、『このことは非常に速い』。龍女は言った、『あなたの神通力をもって、私が成仏するのを見なさい。これよりもさらに速いだろう』。しかし、そうであっても、まだ道筋がある。もし本分を行じ本分を証するならば、まさに三千里もさらに放ち越えなければならない。ちょうどそのような時、いったい何が着実なところなのか。十方の仏陀、一つの涅槃への道である」。

李從議請小參。僧問。不問有言不問無言時如何。師云。其聲如雷。進云。為什麼如此。師云。只為聾人不聽聞。進云。爭奈五音六律甚分明。師云。闍黎聞箇什麼。進云。某甲從來無耳朵。師云。更須識取口頭底。師乃云。一句絕誵訛。千里萬里無消息。一塵含法界。千重百匝太周遮。若是明眼人。終不向目前覓。何故。若向目前覓。此人未具眼。更於句中求。落在第八機。既不向句中求。又不向目前覓。且道。如何湊泊。只如隔山隔嶽隔浮幢王隔香水海。那邊還有恁麼事也無。若道有。隔許多作麼生知道有。若道無。佛法即有邊際。若道不有不無。正是半前落後。直饒離却有無。未免喫金山手中棒。忽有衲僧出來道。不恁麼如龍得水。似虎靠山。通身是眼也。看他不見。通身是舌也。說他不及。且道。畢竟落在什麼處。若不藍田射石虎。幾乎誤殺李將軍。

> 李従議が小参を請うた。僧が問う、「有言も問わず、無言も問わないときは如何ですか」。師は曰く、「その声、雷の如し」。僧、進みて云う、「なぜそうなのですか」。師は曰く、「ただ耳の聞こえぬ人に聞こえぬからだ」。僧、進みて云う、「しかし五音六律は大変はっきりしております」。師は曰く、「闍黎は何を聞いているのか」。僧、云う、「私は元来耳を持ちません」。師は曰く、「さらに口先のものを識取せよ」。師、乃ち云う、「一句は誵訛を絶す、千里万里に消息なし。一塵は法界を含む、千重百匝はあまりに周遮なり。もし明眼の人ならば、ついに目前に求めることなし。なぜなら、目前に求むれば、この人は眼を具せず。さらに句の中に求むれば、第八の機に落つ。すでに句中に求めず、また目前に求めず。且く道え、如何にして湊泊すべきか。ただ山を隔て岳を隔て浮幢王を隔て香水海を隔てたる、彼の方にまたかかる事ありやなしや。もし有りと道えば、これほど隔たるに、如何にして有ることを知るや。もし無しと道えば、仏法すなわち辺際有り。もし不有不無と道えば、正に半前落後なり。直に有無を離れしむとも、免れず金山の手中の棒を喫せん。忽ち衲僧の出来して、「かくの如くならずんば、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るが如し」と道わば、通身は眼なりと雖も、彼を見ること能わず。通身は舌なりと雖も、彼を説くこと及ばず。且く道え、畢竟して何の処にか落つる。もし藍田石虎を射ずんば、ほとんど誤って李将軍を殺さん」。

師云。欲得親切。第一莫將來。將來不相似。向爾道。壁立萬仞。依前却來。撞牆撞壁。有什麼近傍處。雖然如是。已是落草了也。不免將錯就錯。於第二頭說葛藤去也。還知麼直下如當門按一口劍相似。凜凜威風。纔跨門來。誰敢近傍。若近著則喪身失命。若望涯而退。不是大丈夫漢。須是不顧死生。從他手中奪去始得。所以道。不入虎穴不得虎子。須是當前不顧性命。若奪劍在自己手中。任是佛來也不放過。直饒恁麼。已是第二頭也。不見資福道。爾隔江見資福剎竿。便回去。脚跟下好與三十棒。睦州纔見僧來便云。見成公案。隨後云。放爾三十棒。似此等有什麼近傍處。然子細推窮來。不妨勦絕。免他說玄說妙說理說事說向上向下穢污心田。須知人人分上有一段事。輝騰今古。逈絕見知。淨裸裸赤灑灑。先沒許多般。只為爾諸人從無始時來妄想濃厚。背却自己只從他覓。若能回光返照。無第二人。終不隨他起滅。若一處得脫。則千處百處一時透脫。莫只向人舌頭聽他處分。聊聞舉著剔起便行。已是三千里外沒交涉。若得箇中受用。便乃毛羽相似。作他屋裏人。雖有恁麼人。也須向山僧手裏飲氣吞聲始得。直須按下雲頭。將自己平生所知所解。掇在善知識面前。若是則與爾證據。不是則與爾剗除。豈不見。藥山參石頭時。置箇問端云。三乘十二分教某粗知。誠聞南方直指人心見性成佛。某甲實未明了。乞師指示。石頭云。恁麼也不得。不恁麼也不得。恁麼不恁麼總不得。山不契。直至江西馬大師處。又如前問。馬師云。有時教伊揚眉瞬目。有時教伊不揚眉瞬目。有時教伊揚眉瞬目是。有時教伊揚眉瞬目不是。藥山於是有省。馬云。爾見什麼道理。山云。我在石頭時。如蚊子上鐵牛相似今時眾中兄弟便道。石頭一向壁立萬仞。所以他不會。馬祖放開一線。他乃悟去。殊不知。石頭恁麼道。已是漏逗了也。馬祖道處。這一著尤更毒害。因甚麼藥山得悟去。且道。因什麼如此。到此須是生鐵鑄就底漢始得。所以云。此事不在語言上。不在文字上。看他置箇問頭。問石頭了。及至馬祖處。亦如是問。此人是箇鐵石身心。如今若有如是心底人。何憂不徹。爾若只覓言覓句覓玄覓妙。何時得了。千人萬人各說不同。爾用那箇句則是。若見道了更用言句作麼。若不用言句。爾作麼生見。到這裏參須實參悟須實悟。令教透頂透底亘古亘今。打開自己庫藏。運出自己家財拯濟。莫只向外邊尋覓。爾若拶得一路透去。便與爾同參。爾若只守箇昭昭靈靈下咄下喝揚眉瞬目。不如這箇更是大病。所以云。此事隱在四大六根裏。六根四大只是箇閑家具。故云。生如著衫。死如脫袴。六根四大。只是箇衫袴。且道。著底是什麼人。且道。是誰著。乃喝云。莫便是這箇麼。復云。錯了也。所以古人云。身心一如。身外無餘。盡乾坤大地。只是箇本來心。盡山河大地。只是箇一末撒子也不要。既不要。且道。向什麼處安身立命。到此須是有生機一路始得。若不如是。爾若道佛則著佛。爾若道祖則著祖。直須紅鑪一點雪相似始得。且去巾單下。放教如寒灰死火。世法佛法都不用思量。莫怕他落空。莫怕如土木瓦石。爾若怕落空。只如憂落空底心。是什麼。何曾落空來。若是果歇得。到真實休歇之處。佛祖也不立。千聖萬聖法門一時透了。豈不徑截也。

> 師が言われた。「本当に親しくしたいと思うなら、第一に、持ち出してこないことだ。持ち出せば、もう本来のものとは違ってしまう。お前たちに言っておくが、壁のようにそびえ立つ万仞の絶壁。それでも相変わらず戻ってきては、壁にぶつかり塀にぶつかる。どこに近づく手がかりがあるだろうか。たとえそうであっても、すでに草むらに落ちてしまっている。やむを得ず、間違いを間違いのままにしておいて、第二義のところで説法を引きずり出すことにしよう。知っているか。まさに今このとき、門の前に一本の剣を立てかけているようなものだ。凛々とした威風がただよっており、やっと門をまたいで入ってきたとしても、誰が近づくことができようか。もし近づけば、身を滅ぼし命を失う。もし際で引き返すなら、それは大丈夫の漢ではない。まさに生死を顧みず、彼の手から剣を奪い取って初めてよいのである。だから言うのだ、虎穴に入らずんば虎子を得ずと。まさに目前で命を顧みず、もし剣を自分の手に奪い取ったなら、たとえ佛が來ようとも見逃しはしない。たとえそうであっても、すでに第二義である。資福が言うのを聞いていないか。『お前が川を隔てて資福の剣竿を見たならば、すぐに引き返せ。足元に三十棒振るうべきだ』と。睦州は僧が來るのを見るや否や、『見成の公案』と言い、続けて『お前に三十棒を赦す』と言った。このようなものに、どこに近づく手がかりがあるだろうか。しかし、よくよく推し究めてみれば、実に明快である。彼らが玄を説き妙を説き、理を説き事を説き、向上を説き向下を説き、心田を汚すのを免れる。知るべきである。人人の分上に一段の事があることを。それは輝き渡って古今に満ち、見知を完全に超えている。裸でありながら清らかで、初めから多くのものなどなかった。ただお前たち諸人が、無始の昔から妄想が濃厚で、自分自身に背を向けて、ただ他人に求めてきたからだ。もし光を返し照らしを顧みることができれば、第二の人はない。ついに彼に従って起こり滅することはない。もし一つの所で解脱を得れば、千の所百の所も一時に解脱し通す。ただ人の舌先に従って彼の処置を聞いていてはならない。ちょっと聞いて挙げられれば、奮い立って行くのは、すでに三千里も離れて交渉がない。もしこの中で受用を得れば、すなわち羽根や毛が似てきて、彼の家の中の人となる。たとえそういう人がいても、やはり山僧の手の中で息を飲み声を呑まねばならない。まさに雲の頭を押し下げて、自分の平生の知るところ解するところを、善知識の面前に置くべきである。もし是ならば、お前のために証拠を立て、もし非ならば、お前のために刳り除く。薬山が石頭に参じた時を聞いていないか。問いを設けて言った。『三乗十二分教は、私はおおよそ知っています。誠に南方では直指人心、見性成仏と聞きますが、私は実に明らかになりません。どうか師に指示してください』と。石頭は言った。『そうでもない、そうでなくもない、そうでもそうでなくも、まったくもってならない』と。薬山は契合せず、ついに江西の馬大師の所に行った。また前のように問うた。馬師は言った。『時には彼に眉を上げ目を瞬かせ、時には彼に眉を上げ目を瞬かせない。時には彼に眉を上げ目を瞬かせるのが是、時には彼に眉を上げ目を瞬かせるのが非』と。薬山はここに至って悟りを得た。馬は言った。『お前は何の道理を見たのか』と。山は言った。『私は石頭の所にいた時、蚊が鉄の牛の上にいるようなものでした』と。今の会の中の兄弟たちは言う。石頭は一貫して壁立万仞だから、彼は理解できなかったのだ。馬祖は一線を開いたので、彼は悟ったのだと。思いもよらない。石頭がそう言った時点で、すでに漏らし尽くしていたのだ。馬祖の言った所は、この一手がさらにいっそう毒である。なぜ薬山は悟りを得たのか。さあ言ってみよ。なぜこのようであるのか。ここに至っては、生鉄で鋳造されたような漢であって初めてよいのである。だから言うのだ。この事は言語の上にはなく、文字の上にはないと。彼が問いを設け、石頭に問うて、そして馬祖の所に至っても、また同じように問うた。この人は鉄石の身心である。今もしこのような心のある人がいれば、何を憂いて通徹しないことがあろうか。お前がただ言葉を求め句を求め玄を求め妙を求めるなら、いつ終わることがあろうか。千人万人、それぞれ言うことが違う。お前はどの句を用いて是とするのか。もし道を見たのなら、さらに言葉や句を用いて何にするのか。もし言葉や句を用いないなら、お前はどうやって見るのか。ここに到って参禅は実に参じ、悟りは実に悟らねばならない。教えて頭の上まで透り、底まで透り、古今を通貫せしめよ。自分の庫藏を開き、自分の家財を運び出して救済せよ。ただ外に向かって探し求めてはならない。お前がもし押し進んで一路透り行くならば、お前と同參しよう。お前がもしただ明々と霊霊としているものを守り、咄と喝し、眉を上げ目を瞬かせるだけならば、これよりも大きな病はない。だから言うのだ。この事は四大六根の裡に隱れている。六根四大はただの閒道具である。だから言う。生は衫を着るが如く、死は袴を脫ぐが如し。六根四大はただの衫と袴である。さあ言ってみよ。着ている者は何者か。さあ言ってみよ。誰が着ているのか。そこで喝して言われた。『まさか、これがそうではないか』と。また言われた。『間違っていた』と。だから古人が言うのだ。身心一如、身の外に餘りなし。盡く乾坤大地、ただの本來心である。盡く山河大地、ただのひとかけらであり、それも要らない。要らないのであれば、さあ言ってみよ。どこに身を安んじ命を立てるのか。ここに至っては、活きた生機の一路があって初めてよいのである。もしこのようでなければ、お前が佛と言えば佛に著き、祖と言えば祖に著く。まさに紅爐の一點の雪のようなものであって初めてよいのである。さあ、しばらく坐具の下で、寒灰の死火のようにさせよ。世法も佛法も思量を用いるな。落空するのを怖がるな。土や木や瓦や石のようになるのを怖がるな。もしお前が落空を怖がるなら、例えば落空を憂う心は何か。どうして落空したことがあろうか。もし果たして歇むことができて、真實の休歇の處に到れば、佛も祖も立たず、千聖万聖の法門も一時に透り盡くす。どうして捷徑でないことがあろうか。」

師云。即恁麼便承當。擔荷得去。可以籠罩古今。乾坤大地透頂透底。淨裸裸赤灑灑。要且不是爾見聞覺知色聲香味觸。盡乾坤大地。只是箇真實人體。說什麼見聞覺知。纔跨門來。已是兩手分付。更無纖毫遺漏。須知向上一路不立文字語言。既不立文字語言。如何明得。所以道。路逢達道人。不將語默對。又云。相逢不拈出。舉意便知有也。須是徹骨徹髓信得極見得徹。然後盡十方世界。只在一絲毫頭上明得。其或滯於知見。便有佛有祖。所以却入建化門中。葛藤露布。祖師西來不立文字。直指人心見性成佛。只論直指人心。要須是其中人始得。若立語句。以至百千萬億方便。其意只是與人解粘去縛。令教淨裸裸地輝騰今古。實無許多般計校。豈不見。五洩參石頭問云。一言相契即住。不契即去。石頭不顧。五洩乃拂袖便行。出至三門。石頭乃喚云。闍黎。洩回首。頭云。從生至老。只是這箇。更回頭轉腦作什麼。洩從此有省。若是山僧。當時不須喚他。從他擔板。蹉却一生。只為慈悲落草。以至如此。只如諸人。坐立儼然。從生至老。只是這箇。更疑什麼。所以云。參禪須是鐵漢。著手心頭便判。直趣無上菩提。一切是非莫管。須是一念不生前後際斷。纔敲磕便見。更待他人喚作什麼。直是打成一片。如水入水如金博金。古人既恁麼。只如向長老口上聽取。且道。有實法無實法。若有實法則成繫綴人。若無從上來立許多方便門作麼。只教諸人見性。若真見自性。豈干他見聞覺知思量擬議。如東寺會禪師道化荊湖。有崔郡相國。出鎮湖南。師因目疾次。崔乃問曰。如何是宗乘中事。師云。見性成佛。崔云。爭奈患眼何。師云。見性非眼。赤眼何咎。且道。見性既非眼。且將什麼見。聞性亦非耳。且道。將什麼聞。乃至鼻嗅香舌了味身覺觸意攀緣。一一皆然。若向這裏明得。至於一切處悉皆明得。所以雪峯和尚道。盡大地是箇解脫門。把手拽不肯入。又云。盡大地撮來如粟米粒大。拋向面前。漆桶不會。打鼓普請。看更有甚玄妙見聞覺知。若爾方能心境一如。也無能也無所。唯一自心。更無他物。若是得底人。終不言我知我會。遇飯喫飯。遇茶喫茶。終日只守閑閑地。蓋他胸中無許多波吒計校。所以道。心若無事。萬法一如。無得無失。終日只履踐此一片田地。凡有來問。只將此事一時截斷。所以道。見須實見。悟須實悟。古人云。百尺竿頭作伎倆未嶮。向衲衣下不明大事失却人身始是嶮。既如是。豈可不明心達本。一切萬緣一齊放下棄却知見解會。令教如木石瓦礫相似。及到大安穩休歇之地。然後一波纔動萬波隨。而初無動靜等相。蓋他得底人。終日以無所得心。修無所得行。行雖與人同。而常與人異。只為此一片田地打揲得盡淨一切會同脫體無礙。豈是小了底事。直須用作事始得。

> 師は言った。「そのまま、そのまま受け取って、担いで行くことができるならば、それで古今を覆い包むことができるだろう。乾坤大地を頭のてっぺんから足の先まで透き通って見通す。清らかで、何もまとわず、さらりとしている。だが、それはあなたの見る・聞く・感じる・知る、色・声・香・味・触ではない。尽きることのない乾坤大地、ただそれだけが真実の人の体である。何をか見聞覚知と言おうか。ただ門をまたいで来たならば、すでに両手ですべてを渡し終えており、少しの残りもない。知るべきだ、向上の一歩は文字や言葉を立てないと。文字や言葉を立てないのなら、どうやって明らかにするのか。だから言うのだ、『道に達した人に逢えば、言葉や沈黙で対しない』と。また言う、『相逢って取り出さずとも、意を挙げれば即ち有ると知る』と。骨の髄まで徹して、深く信じ、見て透き徹すことが必要だ。そうして初めて、十方世界全体が、一本の毛の先ほどのところで明らかになるのだ。 もしも知識や見解に留まれば、そこに仏があり祖がある。だから、教化の門に入り、言葉の蔓を張り巡らせるのだ。祖師が西から来て、文字を立てず、直接人の心を指し示し、本性を見て成仏する、と言ったのは、ただ直接人の心を指し示すことだけを論じ、その中の人であることが必要だからだ。もし言葉や句を立てて、百千万億の方便に至るまで、その意図はただ人々の執着を解き、束縛を除いて、清らかに輝く古今を明らかにさせるだけだ。実にそのような沢山の計算はないのだ。 ああ、見ないか。五洩が石頭に参じ、問うた、『一言で心が合えば留まり、合わなければ去ります』と。石頭は顧みなかった。五洩は袖を払って立ち去ろうとした。三門に至った時、石頭が呼んだ、『闍黎（しゃり）よ』。五洩が振り返ると、石頭は言った、『生まれてから老いるまで、ただこれだけだ。さらに頭を回し、心を巡らせて何をするのか』。五洩はここで悟りを得た。 もし私（山僧）ならば、その時彼を呼ばないだろう。彼が板を担いだまま、一生を空しく過ごすに任せる。ただ慈悲の心から、草むらに身を落として、このようにしたまでだ。 今、あなたがたは、座ったり立ったりして、厳かにしている。生まれてから老いるまで、ただこれだけだ。さらに何を疑うのか。だから言うのだ、『参禅は鉄の漢であることを要す。手を心頭に着ければ即ち判ず。直ちに無上の菩提に向かえ。一切の是非は構うな』と。 一念も生じず、前後が断ち切られることが必要だ。ただ敲いたり触れたりすれば即ち見える。さらに他人が何と呼ぶのを待つ必要があるか。まさに、水が水に入るように、金が金と交わるように、一つの塊となるのだ。 古人が既にこのようにした。ただ、あなたがたは、私の口からこの言葉を聞き取れ。さて、言ってみよ。実法があるのか、実法がないのか。もし実法があれば、それは人を繋ぎ留めるものとなる。もしなければ、昔から多くの方便の門を立てて、何をしたのか。ただあなたがたに本性を見させるためだけだ。もし本当に自性を見れば、それがどうして、見る・聞く・感じる・知る・思う・計ることに依るだろうか。 東寺の会禅師が荊湖で教えを広めていた時、崔群の相国が湖南の鎮守として赴任していた。師が目の病にかかった時、崔が問うた、『宗乗の中の事とは如何なるものですか』。師は言った、『見性成仏です』。崔は言った、『目の病にはどうすればよいのですか』。師は言った、『見性は眼によるものではありません。赤い眼に何の咎があるでしょう』。 さて、言ってみよ。見性は眼によるものではないなら、何でもって見るのか。聞性も耳によるものではない。さて、何でもって聞くのか。さらに鼻が香を嗅ぎ、舌が味を知り、身が触れを感じ、意が攀縁する。一つ一つが皆、このようだ。もしここで明らかにできれば、一切の場所で明らかにならないところはない。 だから雪峰和尚は言った、『大地全体が解脱の門である。手を引っ張っても、入ろうとしない』と。また言った、『大地全体を掴んで粟粒ほどの大きさにし、目の前に抛り出したが、漆桶（無明の者）は分からない。鼓を打って、皆を集めて見せよう』と。そこで、さらに何か玄妙な見聞覚知があるだろうか。 もしこのようであれば、心と境が一つになる。能もなく、所もない。ただ一つの自心のみで、他の物はない。もし悟りを得た人は、決して『私は知っている、私は分かる』とは言わない。飯があれば飯を食べ、茶があれば茶を飲む。一日中、ただ閑かに過ごす。なぜなら、彼の胸中には、多くの悩みや計算がないからだ。だから言うのだ、『心に事がなければ、万法は一つである。得ることも失うこともない』と。 一日中、ただこの一片の田畑を歩む。人が問いに来れば、ただこの一事で、すべてを断ち切る。だから言うのだ、『見ることは実に真実に見ること、悟ることは実に真実に悟ること』と。古人は言った、『百尺の竿の上で技を披露するのは、まだ危険ではない。衲衣の下で大事を明らかにせず、人の身を失うことこそ、実に危険である』と。 既にこのようにならば、どうして心を明らかにし本に達することを、せずにおられようか。一切の縁を、一緒に放下し、知識・見解・解釈・理解を捨て去り、木や石や瓦礫のようになることを教えよ。そして、大いなる安穏・休歇の境地に至って、初めて、一つの波が動けば、万の波が従う。しかし、初めから動静などの相はない。なぜなら、彼の悟りを得た人は、一日中、得る心のない心で、得る心のない行いを修行する。行いは人と同じだが、常に人とは異なる。ただ、この一片の田畑を打ち清めて、尽くし、すべてが会通し、体を脱して障りがないからだ。 これは、どうして小さな事であろうか。まさに、これを事として行うことが必要なのである。」

師云。人人具足各各圓成。但向己求莫從他覓。何故。從他覓是他家底。捨己從人。去道遠矣。須知自己分上有一段事。輝騰今古。如十日並照。但以從無始劫來妄想濃厚翳障自心才回顧著則黑漫漫地。却到世間知見種種聲色。纔現在前一切明得。此等豈不是背覺合塵從他求覓不能返照耶。且如從上來乃佛乃祖。以無量百千言句方便。且道。明箇什麼邊事。只被爾起見起念起思量作聰明作計校。惑却本來自己。了却立能立所立現立智立是立非。擾擾紛紛不能得脫。所以祖佛出世。只要教爾歇却知見打併教絲毫盡淨。且道。作麼生歇。直下如懸崖撒手。放身捨命。捨却見聞覺知。捨却菩提涅槃真如解脫。若淨若穢一時捨却。令教淨裸裸赤灑灑。自然一聞千悟。從此直下承當。却來返觀佛祖用處。與自己無二無別。乃至鬧市之中。四民浩浩經商貿易。以至於風鳴鳥噪。皆與自己無別。然後佛與眾生為一。煩惱與菩提為一。心與境為一。明與暗為一。是與非為一。乃至千差萬別悉皆為一。方可攪長河為酥酪。變大地作黃金。都盧混成一片。而一亦不立。然後行是行坐是坐。著衣是著衣。喫飯是喫飯。如明鏡當臺胡來胡現漢來漢現。初不作計校。而隨處見成。所以萬機頓赴而不撓其神。千難殊對而不干其慮。此豈世間麁淺知見所能測度。此乃至妙因緣。學道之士。或十年或二十年。專心一意。尚透不能得。或有纔聞便解。或有無師自悟。既自不能便悟。亦障他人不得就中土大夫尤難。以其從事世務勤勞家國。所以悟入稍難。然得底人。於己分上本無殊別。若是未能了底人。須要根性頴利。向自己脚跟下覷著。一聞便了。如李附馬留意祖道。與楊文公為友。日夕切磋。後見石門慈照禪師。因為舉。唐房孺相公問徑山國一禪師云。祖師大道畢竟意旨如何。徑山云此大丈夫事。非將相之所能為。李聞之大悟。遂作頌云。學道須是鐵漢。著手心頭便判。直趣無上菩提。一切是非莫管。道得不妨奇特。且如出將入相安邦定業剪除暴亂。豈非丈夫耶。而徑山何故却道。此大丈夫事。非將相之所能為。須知向上一路。毫髮不容。所以洞山道。見佛見祖如生冤家。始有參學分。只如佛祖。為一切人師。作一切人依止。為甚却道。如生冤家。爾且道。如何是大丈夫事。直須是不取人處分。不受人羅籠。不聽人繫綴。脫略窠臼。獨一無侶。巍巍堂堂。獨步三界。通明透脫。無欲無依。得大自在。都無絲毫佛法情解。如愚如癡如木如石。不分南北不辨寒溫。昏昏默默。似箇百不能百不解底相似。然而肚裏直是峭措。動著則眼目卓朔。無有不明底事。乃至千差萬別古人言句。一時透徹。如或不是到此田地底人。須得向骨董袋裏平高就下為他去也。如昔日于頔相公出鎮襄陽。酷刑慘毒。忤者皆殺之。因讀觀音經有疑處。一日訪紫玉山道通禪師。乃問曰。如何是黑風吹其船舫飄墮羅剎鬼國。玉乃抗聲云。于頔客作漢。問恁麼事作麼。于聞之大怒。玉乃云。只這便是黑風吹其船舫飄墮羅剎鬼國。于頔有省。爾且道。他恁麼問紫玉。何故恁麼答他。此乃發他根本無明。現前隨手為伊指出。不妨好手。然不若當時不消著後語。從他斫作兩段。却有些衲僧氣息。及乎為他點破。也是順手摩挲。大凡接人有三種機。若是第一機為人。只消向他道于頔客作漢。爾問與麼事作麼。更無方便。只是沒義理難話會。若於此直下承當去。更不擬議。則與柏樹子麻三斤一口吸盡西江水。更無差別。所以道。舉不顧即差互。擬思量何劫悟。只要教爾當頭領解去。若是第二機為人。即易也。只是發起問端。如道于頔客作漢。爾問與麼事作麼。此乃發他根本無明。令他無明現前。隨手點破。若是第三機為人。不免入泥入水重下箇注脚。如云于頔客作漢。便是放却黑風吹其船舫。于頔或作怒。便是羅剎現前。玉云。正是黑風吹其船舫。豈不是觀音出現。此是落草注解。瞎人眼目。破滅胡種。若是真正衲僧。直須撥却。豈不見道。他參活句。不參死句。活句上薦得。與祖佛為師。如李萬卷問歸宗和尚。須彌納芥子則不問。如何是芥子納須彌。宗云。爾身如椰子大。萬卷書著在甚處。歸宗老漢尋常一條白棒。打佛打祖。及乎李萬卷問著。不免曲順人情放開一線。然他用處也只教爾當頭截去。後來眾中無識者。便道。芥子是心。須彌是萬卷。納之於心何所不可。佛法若只如此。爭到今日也。又如龐居士問馬大師。不與萬法為侶者是什麼人。馬大師云。待汝一口吸盡西江水。即向汝道。居士乃大悟。作頌云。十方同聚會。箇箇學無為。此是選佛場。心空及第歸。此頌與一口吸盡西江水題目。豈曾相副。既不說口。又不說水。只道心空及第歸。且道。作麼生是心空。只教爾是非得失明暗色空森羅萬象一時融會歸于一理。和理一時空却。然後有些趣向。山僧今夜不惜眉毛。為爾一時吐却了也。更為諸人說箇小偈。祖佛單傳向上機。電光石火搆不徹。獨許諸根頴脫人金剛寶劍當頭截。

師云。道由悟達。法離見聞直下便承當。更無第二箇。此猶是就今時曲為垂手處。若是本分事。又且不然。所以道。爾未跨船舷時。好與三十棒。如此則千里萬里一時坐斷。何故。須知當人分上。各有水洒不著風吹不入。清寥寥白滴滴。祖佛不能到。魔外不能入。坐斷要津不通凡聖。設使盡大地草木叢林。盡化為衲僧。各各置百千問難。不消一劄。盡教吞聲飲氣目瞪口呿。而今事不獲已。且無見起見。無言起言。與諸人且通箇時節。只如各各常人分上。上來下去已是十分現成。欠少箇什麼。更來就人覓。所以玄沙道。飲籮裏坐地展手。問人覓飯喫。只為無始劫來拋家日久。背馳此本分事。向六塵境界裏。妄想輪回。不能回光返照。甘處下流。若能具上根利智。返本還源。知有此事。輝騰今古逈絕知見。坐斷十方無復輪轉。始有語話分。而今須是換箇骨頭了。方見此一片田地。若未知有此一片田地。直饒解到佛祖邊事。問一答十。終無交涉。須知諸佛出世唯證明此一片田地。祖師西來亦提持此一片田地。所以先師見白雲師翁。一覷透了。便作箇頌子道。山前一片閑田地。叉手叮嚀問祖翁。幾度賣來還自買。為憐松竹引清風。諸人還曾恁麼也未。須是向此一片田地。淨裸裸赤灑灑方可入作。

> 師が言った。「道は悟りによって達せられる。法は見聞を離れたところにあり、まさにその場で引き受けるべきである。それ以外に第二のものはない。だが、これは今の時代の人のために、方便として手を差し伸べているにすぎない。本当に大切な本来の事柄となると、またそうではないのだ。それゆえに言う。『お前がまだ船に乗り込む前から、三十棒を与えるべきだ』と。そうであれば、千里万里も一時に断ち切られる。なぜか。知るべきだ、その人自身の立場には、それぞれ水をかけても濡れず、風が吹いても入らないものがある。清らかで虚ろであり、白々と輝いている。祖師や仏陀も到達できず、魔や外道も入り込めない。大切な要所を断ち切り、凡夫や聖者の往来も通さない。たとえ大地の草木や林のすべてが僧侶に変わり、それぞれが百千の難問を仕掛けてきても、一筆で片付く。みな声を呑み、息を飲み、目を見開き、口をあんぐり開けるばかりであろう。今、やむを得ず、見解がないところから見解を起こし、言葉がないところから言葉を起こして、諸君にひと時の状況を伝えることにしよう。 ただ、それぞれの普通の人の立場では、上り下りすること自体がすでに十分に現成している。何が欠けているのか。それなのに、わざわざ他人を頼って探し求めるのだ。それゆえに玄沙は言った。『ご飯を入れる籠の中に座って手を伸ばし、人に飯を求めている』と。ただ、無始の劫以来、家を捨てて長い間、この本来の事柄に背を向け、六塵の境界の中で妄想し輪廻し、光を返して自己を顧みることができず、甘んじて低い境地に留まっているからだ。 もし上根の利器を具えていれば、本来に帰り本源に還り、この事柄の存在を知り、今も昔も輝き渡り、知見を超え、十方を断ち切り、再び輪廻することがなければ、初めて語る資格を得るのだ。今はまさに骨を替えることが必要であり、そうして初めてこの一片の田地を見ることができる。もしこの一片の田地を知らなければ、たとえ仏祖の境地を理解し、一問に十答できたとしても、結局は関わりがない。知るべきだ、諸仏が世に現れるのも、ただこの一片の田地を証明するためであり、祖師が西から来たのも、この一片の田地を提唱するためである。 それゆえに、私の先師が白雲師翁に会った時、一瞥して悟り、こういう頌を作った。『山前の一片の閑田地、叉手して叮嚀に祖翁に問う。幾度か売って来て還って自ら買う、松竹が清風を引き寄せるを憐れんで』と。諸君はまだこのようにしたことがあるだろうか。まさにこの一片の田地に向かって、赤裸々に何もまとわず、初めて修行に入ることができるのだ。」