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title: "法華傳記 · 1 法華宗要序"
description: "法華傳記由唐代僧人僧詳編撰是一部重要的佛教史傳類著作該書匯集了諸多與法華經相關的靈驗感通故事及高僧大德的持誦事蹟生動反映了法華經在中國早期的傳播與信仰狀況全書內容豐富不僅記載了許多珍貴的歷史資料更展現了法華經作為大乘佛教重要經典其提倡的一佛乘思想和人人皆可成佛的理念對中國佛教各宗派尤其是天台宗的發展產生了深遠影響是研究法華經流傳史和中國佛教社會史不可或缺的重要文獻"
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### 法華宗要序一

> 法華宗要序（一）

釋慧觀作

> 慧観作

夫本際冥湛。則神根凝一。涉動離淳。則精麁異陳。於是心轡競策。塵想諍馳。翳有淺深。則昏明殊鏡。是以從初得佛。暨于此經。始應物開津故。三乘別流非真。則終期有會。會必同源故。其乘唯一。唯一無上故。謂之妙法。頌曰。是乘微妙清淨第一。於諸世間。最無有上。夫妙不可明。必擬之有像。像之美者。蓮華為上。蓮華之秀。分陀利為最。妙方法而為言。故喻之分陀利。其為經也明。發朦不可以語極釋權應之所由。御終不可以祕深。則開實以顯宗致。權應既彰。則局心自發。宗致既顯。則真悟自生。故能令萬流合注。三乘同往。同往之三會而為一。乘之始也。覺慧成滿。乘之盛也。滅景澄神。乘之終也。雖以萬法為乘。然統之有主。舉其宗要。則慧收其名。故經以真慧為體。妙一為稱。是以釋迦玄音始發。讚佛智甚深。多寶稱善。歎平等大慧。頌曰。為說佛慧故。諸佛出世間。唯此一事實。餘二則非真。然則佛慧乃一之正實。乘之體成。妙之至足。華之開秀者也。雖寄華宣微。而道玄像表。稱之曰妙。而體絕精麁。頌曰。是法不可示。言辭相寂滅。二乘所以息慮。補處所以絕塵。唯佛與佛。乃能究焉。故恒沙如來。感希聲以雲萃。已逝之聖。振餘靈而現證。信佛法之奧區。窮神之妙境。其此經之謂乎。觀少習歸一之言。長味會通之要。然緬思愈勤。而幽旨彌潛。未甞不面靈鷲。以遐想臨。辭句而增懷。諒由枝說差其本謬文乖其正也。有外國法師鳩摩羅什。超爽俊邁。奇悟天拔。量與海深。辯流玉散。繼釋蹤以嗣軌。秉神火以霜燭。紐頹綱於將絕。極漂溺於已淪。燿此慧燈。來光斯境。秦弘始八年夏。於長安大寺。集四方義學沙門三千餘人。更出斯經。與眾詳究。什自手執胡經。口譯秦語曲從方言而趣不乖本。即文之益亦已過半。雖復霄雲披翳陽景俱暉。未足喻也。什猶謂。語現而理沈事近而旨遠。又釋言表之隱。以應探賾之求。雖冥扉未開。固已得其門矣。夫上善等潤。靈液尚均。是以仰感囑累。俯慨未聞。故採述旨要。流布未聞。庶法輪遐軫。往所未往。十方同悟。究暢一乘。故序之云爾出三藏記第八。

> そもそも、この世の根源は深遠で静まり返っており、そのため真実の心は一つに凝り固まっている。しかし、動きや煩わしさに触れて純真さから離れてしまうと、細かなものと粗いものが別々に現れるようになる。そこで、心の手綱は競い合って鞭打たれ、塵のような妄想は争って駆け巡る。曇りの深浅によって、暗闇と明るさは鏡のように異なる。 このため、釈尊が初めて悟りを得てから、この経典に至るまで、まずは人々に応じて教えの入り口を開いた。よって三つの乗り物は別々の流れとなったが、真実ではないため、最後には統一される時が必ず来る。統一の時には本源が同じであるため、その乗り物はただ一つである。ただ一つであり、それ以上に優れたものはない。だから「妙法」と呼ぶのである。偈に言う「この乗り物は微妙で清らかであり、第一である。あらゆる世間の中で、最も優れて比べるものがない」と。 「妙」とは言葉で明らかにすることはできず、必ず形あるものに例えて理解する。その形あるものの中で美しいものは、蓮華が最も優れている。蓮華の中でも、特に優れたものを分陀利（白蓮華）という。妙法をたとえて言うなら、分陀利に例えるのが良い。この経典は明らかである。しかし、蒙昧（暗闇）を啓くには、方便の由来を示すだけでは真理の極みを語ることはできない。真理の極みは深遠であり、隠し通すこともできない。そこで、真実を開き、宗旨（教えの骨子）を明らかにする。 方便（仮の教え）が明らかになれば、こだわりの心は自然と消え去る。宗旨が明らかになれば、真の悟りは自然と生まれる。そのため、あらゆる流れを一つに集め、三つの乗り物を同じ目的地へと導くことができる。同じ目的地へと向かう三つの乗り物は、やがて一つに統合される。これが乗り物の始まりである。智慧の完成が、乗り物の盛りである。そして、影を滅し、心を澄ますことが、乗り物の終わりである。 たとえ全ての教えを「乗り物」と呼ぶとしても、それを統括する主体がある。その要旨を挙げれば、智慧がその名を収める。だから経典は真実の智慧を本体とし、「妙一（すぐれて一つ）」という名称を持つのである。そこで、釈尊の深遠な教えが初めて説かれ、仏の智慧は非常に深いと讃えられた。多宝仏もこれを善しとし、平等の大いなる智慧を称賛した。偈に言う「仏の智慧を説くために、諸仏は世に現れる。ただこの一事のみが真実であり、他の二つは真実ではない」と。 つまり、仏の智慧こそが「一」の正しい実体であり、乗り物の体を成し、「妙」の極みであり、蓮華が開き花咲くようなものである。たとえ蓮華に託して微妙な教えを伝えるとしても、道は形のないものを象る。「妙」と呼ばれるものは、精粗（細やかさや粗さ）を超えたものなのである。偈に言う「この法は示すことのできるものではない。言葉や文字の相は静かに滅している」と。 二乗（声聞と縁覚）が思慮を断ち、補処の菩薩が塵の煩わしさを絶つのは、このためである。仏と仏のみが、これを究めることができる。だから、ガンジス河の砂の数ほどの如来たちが、この希有な教えを望んで雲のように集まり、すでに入滅した聖者たちも、その余りの霊力を振るい現れて証明したのである。真に、これこそが仏法の奥深い領域であり、神の妙境を極めたものと言える。まさにこの経典のことを言うのであろう。 私は若い頃から「帰一（ひとつに帰すること）」の言葉を学び、成長してからは「会通（一つに通じること）」の要を味わった。しかし、深く思えば思うほど、その幽玄な旨はますます隠れていく。かつて一度も、霊鷲山を思い浮かべ、言葉の一つ一つを前にして、感慨を新たにしないことはなかった。思うに、枝葉の教えがその本を誤らせ、間違った言葉がその正しさを損なわせているのである。 西域の僧・鳩摩羅什という法師がいた。彼は非常に聡明で俊敏であり、その悟りは天から抜きん出ていた。度量は海のように深く、弁舌は玉が散るように流暢であった。彼は釈尊の道を継ぎ、その跡を追い、神の火を掲げて霜のように凍りついた世界を照らした。そして、断たれようとしていた仏法の綱を結び直し、すでに沈みかけた人々を救い上げた。この智慧の灯を輝かせ、我々の世界にその光をもたらしたのである。 秦の弘始8年の夏、長安の大寺において、四方から集まった義学の僧三千人余りとともに、改めてこの経典を編纂し、皆で詳細に研究した。鳩摩羅什自ら胡語の経典を手に取り、口訳して秦の言葉とした。その際、方言に合わせながらも、その趣旨が本に背かないようにした。このことで、経典の理解はすでに飛躍的に進んだと言える。たとえ雲が一面を覆い、太陽がその光を全てのものに与えるようなたとえでも、この功績を表しきれない。 しかし、羅什は言う、「言葉は現れても理は沈み、事柄は近くに在っても旨は遠い」と。そこで、言葉の裏にある隠された意味を解き明かし、深い探求を求める人々に応えた。たとえ悟りの扉がまだ開かれていなくても、すでにその門を見出すことができたと言える。 このように、最高の善は全てを潤し、霊妙な液体も均しく行われた。そのため、私は仏の遺言に感動し、未だ聞いたことのない教えを慨嘆した。そこで、この経典の要旨を採り述べ、未だ聞いたことのない人々に流布することとした。どうか、法の輪が遠くへと巡り、まだ到達していない場所へと届き、十方の全ての人々が共に悟りを開き、一乗（ただ一つの乗り物）を究めて謳歌することができますように。故に、この序文を記す。 <注>出三蔵記第八</注>