二、身土緣起門
二、身土縁起の門
一真法界性,不變能隨緣,三身及四土,悉由心變造。
一つの真実の法界の本性は、 変わらずに縁に随って現れます。 三身と四つの浄土も、 すべて心によって変現されるのです。
論曰:
論に曰く。
一真法界性,即前文所明性體、性量、性具也。教中說:「真如不變隨緣,隨緣不變」者,正由性體、性量即性具故,如君子不器,善惡皆能。故晉譯《華嚴經》云:「能隨染淨緣,具造十法界。」謂真如性中所具九法界,能隨染緣造事中九法界;真如性中所具佛法界,能隨淨緣造事中佛法界。所以能者,正由性具;性若不具,何所稱能?天台家言:「竝由理具,方有事用。」此之謂也。是知事中十法界,三身、四土悉由真如隨緣變造。既曰「真如不變隨緣,隨緣不變」,則事中染淨身土,當體即真,無絲毫可加損于其間者。《楞嚴經》云:「見與見緣,并所想相,如虛空華,本無所有。」此見及緣,元是菩提妙淨明體是也。若然,則娑婆極樂,此世眾生當生九品,彌陀已成吾心當果,悉由心性之所變造。心具而造,豈分能所!即心是佛,即佛是心,即心是土,即土是心,即心是果,即果是心。能造因緣及所造法,當處皆是心性,故明此宗而求生樂土者,乃生與無生兩冥之至道也。
一真法界の本性とは、すでに述べた性体・性量・性具のことである。経典には「真如は不変でありながら縁に随い、縁に随いながら不変である」と説かれているが、これはまさに性体・性量がそのまま性具であるからである。君子が特定の器に限定されず、善悪の働きをなすことができるのと同じである。だから晋訳『華厳経』には、「染浄の縁に随って、十法界を具に造る」とある。つまり、真如の本性の中に具わる九法界は、染縁に随って事相の九法界を造り、真如の本性の中に具わる仏法界は、浄縁に随って事相の仏法界を造るのである。このように「造る」ことができるのは、まさに性具があるからである。もし性具がなければ、何をもって「能う」と言えようか。天台宗では「すべて理具によって、はじめて事用がある」と説くが、まさにこのことを指している。したがって、事相における十法界、三身・四土はすべて真如が縁に随って変化して造り出されたものであることがわかる。
「真如は不変でありながら縁に随い、縁に随いながら不変である」と言われるならば、事相における染浄の身や土は、その当体がそのまま真如であり、そこにほんのわずかでも加えたり減らしたりすることはできない。『楞厳経』に「見ると見る対象、およびそれによって生じる想念の相は、虚空に浮かぶ花のように、もともと存在しない」とあるが、この「見」とその「縁」は、元来、菩提の妙なる浄らかな明らかな本体なのである。
もしそうであるならば、娑婆世界も極楽世界も、この世の衆生が生まれる九品の蓮台も、阿弥陀仏がすでに成就された我が心の未来の果も、すべて心性によって変現し造り出されたものである。心が具えて造るのであるから、能造と所造を分ける必要があろうか。心そのものが仏であり、仏そのものが心である。心そのものが国土であり、国土そのものが心である。心そのものが果であり、果そのものが心である。能造の因縁も、所造の法も、その当処にすべて心性が現れている。だから、この宗旨を明らかにして極楽浄土に往生を願うことは、生と無生が一体となる究極の道なのである。