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title: "天台九祖傳 · 九祖荊谿尊者"
description: "天台九祖傳由宋代僧人釋士衡編撰，記載了天台宗自初祖龍樹至九祖湛然的傳承事蹟。該書成於宋代，彼時天台宗為漢傳佛教重要宗派，強調教觀雙運與止觀並重。內容系統梳理了九位祖師的生平、思想與弘法歷程，核心在於闡釋一念三千、三諦圓融等天台教義。此傳是天台宗史研究的權威典籍，對理解宗派源流與中國佛教哲學發展具有極高價值，是研究祖師思想與宗門傳承的重要文獻。"
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九祖荊谿尊者。諱湛然。姓戚氏。世居晉陵之荊谿。則常州人也。家本業儒。師獨有拔俗之志。童𮯁邈上初謹切。毀齒也。下亡卓切。遠也焉異於常倫。年二十餘。受經於左谿。左谿與之言大駭。異日左谿謂曰。汝何夢乎。對曰。疇昔之夜。夢披僧服掖二輪。遊大河之中。左谿曰。噫汝當以止觀二法度群生於生死淵乎。乃授以本師所弘之法。師德宇凝粹神鋒爽拔。其密識深行冲氣慧用。方寸之間。合於天倪。至是始以處士傳道。學者悅隨。如群流趣於大川也。天寶初年。解逢掖而登僧籍。遂往越州曇一律師法集。廣尋持犯開制之律範焉。復於吳郡開元寺。敷行止觀。無何左谿捐代挈密藏。獨運於東南。謂門人曰。道之難行也。我知之矣。古先至人。靜以觀其本。動以應乎物。二俱不住。乃蹈于大方。今之人或蕩於空。或膠於有。自病病他。道用不振。將欲取正。捨予誰歸。於是大啟上法。旁羅萬行。盡攝諸相。入於無間。即文字以達觀。導語默以還源。乃廣祖師所傳章句。凡十數萬言。心度諸禪。身不踰矩。三學俱熾。群疑日潰。求珠問影之類。稍見罔象之功。行止觀之盛始師之力也。天寶末大曆初。詔書連徵。辭疾不就。當大兵大飢之際。揭厲法流。學徒愈繁。瞻望堂室。以為依怙。然慈以接之守之。大布而衣。一床而居。以身誨人。耆艾不息。建中三年二月五日。示疾佛隴道場。顧語學徒曰。道無方。性無體。生歟死歟。其旨一貫。吾歸骨此山。報盡今夕。要與汝輩談道而訣。夫一念無相。謂之空。無法不備。謂之假。不一不異。謂之中。在凡為三因。在聖為三德。爇炷則初後同相。涉海則淺深異流。善利利人。在此而已。爾其志之。言訖隱几泊白各切。揚雅草玄曰。自守泊如也如而化。春秋七十有二。法臘三十四。門人號咽。奉全身起塔。祔音附于智者大師塋兆西南隅焉。入室弟子吳門元浩。可謂邇其人近其室矣。然平日輯纂教法。明決前疑。開發後滯。則有法華釋籤法華疏記各十卷。止觀輔行傳弘訣十卷。法華三昧補助儀一卷。方等懺補闕儀二卷。略維摩疏十卷。維摩疏記三卷。重治定涅槃疏十五卷。金錍論一卷。及止觀義例止觀大意文句十妙不二門等。盛行于世。述三部記成。師親書寄姑蘇開元寺大藏。語刊小石碑。至今存焉。亦錄於此。庶見慈悲為人之心也。其又曰。開元十六年首。遊浙東尋師訪道。至二十年。於東陽金華。遇方巖和尚。示以天台教門。授止觀等本。遂求學於左谿大師。蒙誨以大旨。自惟識昧。凡所聞見。皆紀於紙墨。暨至德中。移隸此寺。乾元已來。攢成卷軸。蓋欲自防迷謬。而四方道流。偶復傳寫。今自覺衰疾。諸無所任。留此本兼玄疏兩記共三十卷。以寄此藏。儻於先師遺文。碑補萬一。則不負比來之誠。幸眾共守護。以貽後學。大曆十二祀孟秋。沙門湛然記。

> 九祖荊渓尊者。諱は湛然、姓は戚氏。代々晋陵の荊渓に住んでいた。常州の人である。家は元々儒学を業としていたが、尊者だけは俗世を離れる志があった。幼い頃から既に人並みはずれており、普通の子供とは異なっていた。二十歳を過ぎて、左渓のもとで経典を学んだ。左渓は彼と話して大いに驚いた。ある日、左渓が「あなたは夢を見たか」と尋ねると、「昨日の夜、僧侶の衣をまとい、両輪を抱えて大河の中を遊行する夢を見ました」と答えた。左渓は「ああ、あなたはまさに止観の二つの法門をもって、衆生を生死の深淵から救い出すであろう」と言い、師が弘めた法を授けた。 尊者の人柄は深く清らかで、その知性は鋭く秀でていた。密かな識見と深い修行、穏やかな気性と慧の働きは、その心の中にあって、自然の理にかなっていた。こうして初めて、在野のまま道を伝えることとなり、学び求める者は楽しんで従い、それはまるで多くの流れが大河に向かうかのようであった。 天宝の初年、儒者の衣を脱いで僧籍に入り、越州の曇一律師のもとで法の集まりに参加し、持犯・開制の律の規範を広く学んだ。さらに呉郡の開元寺において、止観を説き弘めた。ほどなくして左渓が亡くなり、尊者は密蔵を携えて、独り東南で教えを広めた。門人に告げて曰く、「道を行じることは難しい。私はそれを知っている。古の聖人は、静かにはその本質を観じ、動いては物に応じた。二つに留まることなく、それによって大いなる真理に達した。今の人々は、あるいは空に流され、あるいは有に執着し、自らを病み、他者を病ませ、道の働きは衰退している。正しさを得ようとするなら、私をおいて誰がそれを担うのか」。 そこで大いに上法を開き、あらゆる修行を広く取り入れ、すべての相を摂めて、「無間」に入れた。文字をそのままに観を達し、言葉と沈黙を導いて本源に還らせた。そして祖師の伝えた章句を広げ、凡そ十数万言に及んだ。心は諸々の禅定を測り、身は規矩を越えず、三学は共に盛んとなり、様々な疑問は日々に解消された。真実を求める者たちは、次第にその功徳を見るようになり、止観の教えが盛んになったのは、まさに尊者によるものであった。 天宝の末、大暦の初め、勅命が続けて出されたが、病を理由に辞退し、応じなかった。大軍や大飢饉の時にあっても、法の流れを渡り導き、学ぶ者はますます増え、その堂室を仰ぎ見て、頼りとした。尊者は慈悲をもって彼らを受け入れ、守りつつ、粗末な布の衣をまとい、一つの寝台に住み、身をもって人を教え、年老いても休むことはなかった。 建中三年二月五日、仏隴の道場で病を示された。学びつつある者たちを顧みて言われた。「道に方所はなく、性には実体がない。生も死も、その本旨は一つである。私はこの山に骨を帰す。命は今宵尽きる。君たちと道を語り合ってから別れよう。一つの念も相がないこと、これを『空』と名づける。法として備わらないものがないこと、これを『仮』と名づける。一つでもなく異なるでもないこと、これを『中』と名づける。凡夫にあっては三因となり、聖者にあっては三徳となる。炷を焼くならば、初めと後ろと同じ相である。海を渡るならば、浅いところと深いところで流れが異なる。よく自らを利し、人を利するのは、この理にあるのだ。君たちはこれを心に刻め」。言い終えて几に倚り、静かに入滅された。春秋は七十二、法臘は三十四。門人たちは声を上げて泣き、全身を荼毘に付さずに塔を建て、智者大師の墓域の西南の隅に安置した。 入室の弟子、呉門の元浩は、まことにその人に近く、その室に親しんだと言えよう。尊者が平素、教法を編集し、前の疑問を明らかにし、後の滞りを開き発したものとして、『法華釈籤』『法華疏記』各十巻、『止観輔行伝弘決』十巻、『法華三昧補助儀』一巻、『方等懺補闕儀』二巻、『略維摩疏』十巻、『維摩疏記』三巻、『重治定涅槃疏』十五巻、『金錍論』一巻、並びに『止観義例』『止観大意』『文句十妙不二門』などがあり、世に広く行われた。三部の記が成った時、尊者みずから書をしたためて、姑蘇の開元寺の大蔵に寄贈された。これは小石碑に刻まれ、今も残っている。ここにもそれを記録し、尊者が慈悲をもって人を思う心を、知っていただきたいと思う。 その書にはまた次のようにある。「開元十六年の初め、浙東に遊んで師を尋ね道を訪ねた。二十年に至り、東陽の金華において方巌和尚に遇い、天台の教門を示され、止観などの根本を授けられた。そこで左渓大師に学びを請い、大旨を教えていただいた。自分はもとより識見が浅く暗いので、見聞きしたことはみな、筆記に留めてきた。至徳中に至り、この寺に移り住んだ。乾元以来、巻物に取りまとめた。これはもともと、自分の迷いや誤りを防ごうとしたものである。ところが、四方の道を求める人々が、折に触れて書き写すようになった。今、自分は衰え病を覚え、何も為す力はない。この稿本を、玄疏の両記と合わせて三十巻、この蔵に留めることとする。もし先師の遺した文に対して、万一碑石に補うことがあらば、これまでの真心に背くことはないだろう。幸いにも、皆で共に守り伝え、後の学び手に遺してほしい。大暦十二年の孟秋、沙門湛然記」と。

贊寧曰。詳夫師始天寶終建中。以自證之心。說未聞之法。經不云乎。云何於少時大作佛事。吾師有焉。其朝達得其道者。唯梁肅學士。故摛恥離切。舒也鴻筆。成絕妙之辭。彼題目云。甞試論之。聖人不興。其間必有命世者出焉。自智者以法傳章安。章安再世。至於左谿。明道若昧。待公而發。乘此寶乘。煥然中興。蓋受業身通者。三十有九僧。搢紳先生高位崇名屈體承教者。又數十人。師嚴道尊遐邇歸仁。向非命世而生。則何以臻此。觀夫梁學士之論。儗議偕齊。非此人。何以動鴻儒。非此筆。何以銘哲匠。蓋洞入門室。見宗廟之富故。以是研論矣。吁吾徒往往有不知師之道。詩云。維鵲有巢。維鳩居之。梁公深入佛之理窟之謂歟。有會稽法華山神邕作真讚。至大宋開寶中。吳越國王錢氏追重而誄之。號圓通尊者焉。可不是歟。

> 贊寧が述べる。詳しく見れば、この師（湛然）は天宝年間に出家し、建中年間に没するまで、自らの悟りの心をもって、未だ聞かれざる法を説いたのである。経典に「いかにして短い時間に大いなる仏事を行じたもうや」とあるが、我が師はまさにそれを成し遂げられたのである。その時代にあって、その道を会得した朝廷の高官の中では、ただ梁粛学士のみであった。そこで彼は筆を奮い、絶妙の文章を著したのである。その題目には「試みにこれを論じよう。聖人が世に現れない時、その間に必ず世を導く者が現れるものである。智者大師が法を章安大師に伝え、章安大師の二代後、左谿に至った。明らかな道も、かえって曇っているかのようであったが、この師（湛然）の出現を待って、ついに開かれた。この宝の乗り物に乗り、見事に中興が成し遂げられた。直接教えを受けて道に通じた僧は三十九人。官位高き紳士たちが身を屈して教えを受けた者は、また数十人に及んだ。師は厳しく、道は尊く、遠近の人々が仁に帰依した。もしも世を導く者として生まれていなければ、どうしてこのような境地に至ることができようか」とある。梁学士の論考を見ると、その評価はまさに的確である。このような人物でなければ、どうして高名な儒者を動かせようか。このような筆でなければ、どうして優れた師（湛然）を称えることができようか。深くその門室に入り、その宗廟の豊かさを見たからこそ、このような精密な論考ができたのである。ああ、我々の仲間はしばしば師の道を知らない。「詩経」に「鵲に巣あり、鳩これに居る」とある。梁公が深く仏法の理論の奥義に入ったということを言うのであろうか。また、会稽の法華山の神邕が真讃を書いた。大宋の開宝年中に至り、呉越国王銭氏が追慕してこれを悼み、「円通尊者」の号を贈ったのである。まことにそうではないだろうか。

輔行一云。龍樹龍接入宮。一夏但誦七佛經目。玄注云。大不思議經有三本。有十萬偈四十八品。龍樹誦出流傳于世。

> 『輔行一』にこうある。竜樹菩薩が竜宮に入った時、一夏の間ただ『七仏経』の目録だけを誦したと。また『玄義』の注釈には、『大不思議経』には三種のテキストがあり、十万偈・四十八品からなるものがある。竜樹がこれを誦して世に広めたと記されている。

## 天台九祖傳終

> 天台九祖伝

上天竺門生惟椿裒率山中同學刊板至顓。齊沐敬書以廣流通。共期佛慧。旹

> 上天竺の学僧、惟椿が山中の同輩たちをまとめて板木を彫りました。心身を清め敬って書き記し、広く世に流通させ、皆で仏の智慧を共に期すものです。時

皇宋嘉定辛未夏制六月旦日。謹識。瑪瑙住山有朋。

> 皇宋の嘉定、辛未の年、夏の初め、六月一日。謹んでこれを記す。瑪瑙山の住職<note>有朋</note>。