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title: "天台九祖傳 · 八祖左溪尊者"
description: "天台九祖傳由宋代僧人釋士衡編撰，記載了天台宗自初祖龍樹至九祖湛然的傳承事蹟。該書成於宋代，彼時天台宗為漢傳佛教重要宗派，強調教觀雙運與止觀並重。內容系統梳理了九位祖師的生平、思想與弘法歷程，核心在於闡釋一念三千、三諦圓融等天台教義。此傳是天台宗史研究的權威典籍，對理解宗派源流與中國佛教哲學發展具有極高價值，是研究祖師思想與宗門傳承的重要文獻。"
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八祖左溪尊者。諱玄朗。字慧明。姓傅氏。其先浦陽郡江夏太守拯公之後。曹魏世避地于江左。則梁大士翕之六代孫。遂為烏傷人也。母葛氏初妊。夢乘羊車飛空躡虛。而覺身重。自茲已後。葷血惡聞。殆乎產蓐。亦如初寐。後心輕體安。嬰兒不啼。唍胡板切。小笑貌爾而笑。九歲出家。師授其經。日過七紙。如意元年閏五月十九日。勅度配清泰寺。弱冠遠尋光州岸律師。受滿足戒。旋學律範。又博覽經論。搜求異同。尤切涅槃。常恨古人雖有章疏。判斷未為平允。往在會稽妙喜寺。與印宗禪師商搉音角。揚搉大舉祕要。雖互相述許。大旨未周。聞天台一宗可以清眾滯。可以趣一理。因詣東陽天宮寺小威法師。竭力以親附之。不患貧苦。達法華淨名大論止觀禪門等。凡一宗之教迹研覈至精。後依恭禪師。重修觀法。博達儒書。兼閑道宗。無不該覽。雖通諸見。獨以止觀。以為入道之程。作安心之域。雖眾聖繼想。而以觀音悲智。為事行良津。遊心十乘。諦冥三觀。四悉利物。六即體遍。雖致心物表身厭人寰。情捐舊廬。志栖林壑。唯十八種十二頭陀。隱左溪巖。因以為號。獨坐一室。三十餘秋。麻紵為衣。糲蔬充食。有願生兜率宮。必資福事。乃營殿壁。繢觀音賓頭盧像。乃焚香斂念。便感五色神光。道俗俱瞻。嘆未曾有。此後或猿玃來而捧鉢。或飛鳥息以聽經。時有盲狗。來至山門。長嘷宛轉于地。師憫之。焚香精誠。為狗懺悔。不踰旬日。雙目豁明。至開元十六年。刺史王止容屈師出山暫居城下。師辭疾仍歸本居。厥後誨人匪倦。講不待眾。一欝多羅四十餘年。一尼師壇終身不易。食無重味。居必偏廈。非因尋經典。不然一燭。非因覲聖容。不行一步。其細行修心。蓋徇律法之制。遂得遠域沙門。隣境耆耋。擁室填門。若冬陽夏陰弗召而自至也。其寺宇凋弊。乃指授僧靈稟。建其殿宇。形像累二。甎塔繢事。不用牛膠。悉調香汁。天台之教鼎盛。何莫由斯也。心不離定中。口不甞藥味。耄期之歲同於壯齡。一日顧謂門人曰。吾眾事云。畢年旦暮焉六即道圓。萬行無得。戒為心本。汝等師之。天寶十三年九月十九日。薄疾而終。春秋八十有。僧夏六十有一。四輩號慟。如慕如疑。香木幢幡。雷動山谷。鄉人或夢師居寶閣第四重者。寤告隣與之夢協。兜率天者第四天也。願力所屆。廣度人天。既荼毘已。門人分半舍利。建塔於州之東源。申永慕也。生甞撰法華經科文二卷。付法弟子。衢州龍丘寺道賓。淨安寺慧從。越州法華寺法源。神邕常州福業寺守真。蘇州報恩寺道遵。明州大寶寺道原。婺州開元寺清辯。齠年慕道。志意求師。不踰三年。思過半矣。行其道者。號左溪焉。第其傳法。號八祖矣。禹山沙門神迴著乎真贊。

> 八祖左溪尊者。諱は玄朗。字は慧明。姓は傅氏。その先祖は浦陽郡の江夏太守・拯公の後裔である。曹魏の時代に江南に避難し、梁の大士・翕（傅翕）の六代孫にあたり、烏傷の人となった。母の葛氏が初めて妊娠した時、羊車に乗って虚空を飛び渡る夢を見て、目覚めると体が重くなっていた。それ以降、肉の臭いを嫌うようになり、出産の間際も最初の夢のような状態が続いた。その後、心は軽やかで体は安らかになり、赤ん坊は泣かずに、ほほえみを浮かべていた。 九歳で出家し、師から経典を授けられ、一日に七紙ずつ進んだ。如意元年閏五月十九日、勅命により清泰寺に配属された。二十歳で遠く光州の岸律師を訪ね、具足戒を受けた。すぐに律の範を学び、さらに経論を広く読みあさり、異同を探求した。特に涅槃経に熱心で、古人が章疏を著しているものの、判断が公平でないことを常に遺憾に思っていた。 会稽の妙喜寺で印宗禅師と共に秘要を議論したが、互いに認め合いながらも大筋はまとまらなかった。そこで天台宗が衆生の滞りを清め、一理に至らせることができると聞き、東陽の天宮寺にいる小威法師を訪ね、全力でこれに親しみ、貧苦を厭わなかった。法華経、浄名経、大論、止観、禅門などを学び、一宗の教えの跡を極めて精密に研究した。その後、恭禅師に従って観法を修め直し、儒書に広く通じ、道宗にも詳しく、あらゆる書を渉猟した。様々な見識を持ちながらも、特に止観を悟りへの道とし、心を安らかにする場とした。多くの聖者が思いを連ねる中、観音の慈悲と智慧を事行の良き渡し場とした。心は十乗に遊び、三観を冥々に観じ、四悉檀で衆生を利し、六即で真理を体に満たした。 心は外界にありながらも俗世を厭い、旧宅を捨てて林や谷に住むことを志し、十八種の十二頭陀行を実践した。左溪岩に隠れて暮らし、それによって号とした。独り一室に坐すること三十余年。麻の布を衣服とし、粗末な野菜を食とした。兜率天に生まれたいと願い、必ずや福徳の行いを積もうと、寺の壁を飾り、観音と賓頭盧の像を描いた。香を焚いて心を集中すると、五色の神光が現れ、僧俗ともに見て、かつてないことと嘆じた。その後、猿が鉢を捧げて来たり、鳥が飛んできて経を聴いたりした。ある時、盲目の犬が山門に来て、長く吠えながら地に転がった。師はこれを哀れみ、香を焚いて誠心誠意、犬のために懺悔した。十日も経たないうちに、両目が開けて見えるようになった。 開元十六年、刺史の王止容が師に山を出て暫く城下に住むよう強いたが、師は病を理由に辞退して元の住居に戻った。その後、人を教えるのに飽きることなく、講義は聴衆が揃うのを待たなかった。一つの郁多羅僧（上衣）を四十余年使い、一つの尼師壇（座具）を生涯変えなかった。食事は二度と味わわず、住まいは必ず片隅の庵であった。経典を調べるのでなければ一つの灯もともさず、聖像を拝むのでなければ一歩も歩かなかった。このような細かな行いと心の修行は、律法の規定に従ったものであった。その結果、遠方の僧侶や近隣の年長者が家に充ち門に満ち、冬の太陽や夏の木陰のように、招かずとも自然に集まった。 寺が荒廃していたので、僧の霊稟に指示して殿堂を建てさせた。仏像や二重の磚塔の彩色には、牛膠を用いず、全て香汁で調合した。天台宗の教えが盛んになったのは、どうしてこのようなことがなかっただろうか。心は禅定を離れず、口は薬味を嘗めなかった。老齢の年になっても壮年の頃と同じであった。ある日、門人に向かって言った。「我が為すべきことは終わった。命もまた尽きようとしている。六即の道は円成し、万行には得るところがない。戒は心の根本である。汝らはこれを師とせよ。」 天宝十三年九月十九日、軽い病により亡くなった。齢は八十一歳、法臘は六十一夏であった。四衆は声を挙げて慟哭し、慕うことも疑うこともした。香木や幢幡が山谷に雷鳴のように響き渡った。里人が師が宝閣の第四重に坐っている夢を見て、目覚めて隣人に話すと、その夢も同じであった。兜率天は第四天である。願力によって至る所で、多くの人天を広く救済された。荼毘に付された後、門人たちは舎利の半分を分け取り、州の東の源に塔を建てて、永遠の慕情を捧げた。 生前に『法華経科文』二巻を撰した。法を付嘱した弟子に、衢州龍丘寺の道賓、浄安寺の慧従、越州法華寺の法源、神邕、常州福業寺の守真、蘇州報恩寺の道遵、明州大宝寺の道原、婺州開元寺の清弁がいる。幼い頃から道を慕い、師を求める志を持ち、三年を経ずして過半を悟った。その道を行う者は、左溪と称された。その伝法を順に数えて、第八祖と号された。禹山の沙門・神迴が真の賛を著した。