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title: "楞嚴經證疏廣解 · 五修證分"
description: "明代凌弘憲对《大佛顶首楞严经》所作的《楞嚴經證疏廣解》是一部重要的注疏著作。凌弘憲以唐代般剌密谛汉译本为基础，广采历代高僧大德注解，结合自身修证体悟，对经文进行了系统性的科判、证义和疏解。该书深入阐释了首楞严三昧、如来藏妙真如性、二十五圆通法门等核心教义，尤其对“七处征心、八还辨见”等禅修关键有精辟论述。作为楞严学集大成之作，该注疏不仅为明代佛教研究提供了重要文献，更以其体系严整、义理深邃的特点，被后世尊为研习《楞严经》的权威参考，在汉传佛教义学体系中占有重要地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcwwpun200o9jw04ij7rrm03"
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### 五修證分文三

> 五修證分<note>文三</note>

一、四重伏斷。

> 第一に、四つの重なりを伏せ除くこと。

於是阿難及諸大眾，身心了然得大開示，觀佛菩提及大涅槃，猶如有人因事遠遊未得歸還，明了其家所歸道路，普會大眾天龍八部有學三乘，及諸一切新發心菩薩，其數凡有十恒河沙，皆得本心遠塵離垢獲法眼淨。性比丘尼聞說偈已成阿羅漢，無量眾生皆發無等等阿耨多羅三藐三菩提心。阿難整衣服，於大眾中合掌頂禮，心迹圓明悲欣交集，欲益未來諸眾生故，稽首白佛：大悲世尊！我今已悟成佛法門，是中修行得無疑惑，常聞如來說如是言：自未應度先度人者，菩薩發心；自覺己圓能覺他者，如來應世。我雖未度，願度末劫一切眾生。世尊！此諸眾生去佛漸遠，邪師說法如恒河沙，欲攝其心入三摩地，云何令其安立道場遠諸魔事，於菩提心得無退屈？

> そこで阿難と多くの聴衆は、心と体がはっきりと悟りを開き、仏の悟りと大涅槃を理解しました。それはあたかも、遠くへ旅に出てまだ帰っていない人が、家へ帰る道筋をはっきりと知っているようなものでした。大集会に集まったすべての人々、天竜八部、有学と三乗の修行者たち、そして新たに発心した菩薩たち、その数なんと十河沙の砂の数ほどもありましたが、皆、本来の心を得て、塵や汚れを遠く離れ、法眼の清らかさを獲得しました。性比丘尼は偈を聞いて阿羅漢となり、無数の衆生はみな、無上の等しい悟り（阿耨多羅三藐三菩提）を求める心を起こしました。 阿難は衣服を整え、大衆の中に進み出て合掌し、頭を礼しました。その心の働きは完全に明らかで、悲しみと喜びが入り混じっていました。未来の多くの衆生のためになることを願って、頭を下げて仏に申し上げました。 「大いなる慈悲の世尊よ、私は今、悟りに至るための教えを完全に理解し、その修行について何の疑いもなくなりました。常に如来がこのようにお説きになるのを聞いてきました。『自らがまだ救われていないのに、まず他人を救おうとする心、それが菩薩の心である。自らの悟りがすでに完成し、さらに他者を悟らせることができる者、それが如来が世に現れる姿である』と。私はまだ救われておりませんが、末法の世のすべての衆生を救いたいと願います。世尊よ、これらの衆生は仏から次第に遠ざかり、邪な教師の説法は河の砂のように数え切れません。彼らの心を三昧に導き入れるために、どうすれば彼らを正しい修行の場に立たせ、悪魔の妨害から遠ざけ、悟りの心が退くことなく続くようにできるでしょうか？」

爾時，世尊於大眾中稱讚阿難：善哉！善哉！如汝所問，安立道場，救護眾生末劫沈溺。汝今諦聽，當為汝說。阿難大眾唯然奉教。佛告阿難：汝常聞我毗奈耶中宣說修行三決定義，所謂攝心為戒，因戒生定，因定發慧，是則名為三無漏學。

> その時、世尊は大勢の僧侶たちの中で阿難（あなん）を称賛して言われた。 「よし、よし。あなたが尋ねた通り、修行の場を確立し、末法の時代に苦しむ人々を救う方法についてだ。今からよく聞きなさい。しっかりと説き明かそう。」 阿難と大勢の人々は「かしこまりました。謹んでお聞きします」と答えた。 そこで仏は阿難に告げられた。 「あなたはこれまで、私が教えの戒律（びないや）の中で『修行における三つの確かな教え』を説いてきたのを聞いたことがあるだろう。すなわち、心を整えることを『戒』とし、戒によって『定』が生まれ、定によって『智慧』が開かれる。この三つこそが『煩悩をなくす確かな教え』なのである。」

〔疏〕初、明伏斷者。夫欲儲淨法，先滌身器；將越愛流，前鳩行楫。故嚴宣四重品戒，為入修方便。葢木叉義遠，草系情殷，是以切身口而流訓，因動靜以研幾。阿難下，說四波羅夷及安立道場，所以明第一發心之修證，乃至不起於座，獲須陀洹，示得果之相也。夫阿難雖未得度，而悲及後來，乃菩薩發心。然起行之初，慮妨邪誤，故問諸方便，遠於魔事也。戒定慧學，大小均修，故于此中，初明三學，以為決定進修之旨也。

> 〔疏〕初めに、伏断について述べる。清らかな教えを蓄えるには、まず身の器を洗い清めねばならない。愛欲の流れを渡ろうとするなら、まず修行という櫂を準備せよ。ゆえに、四重の戒律を厳かに説き示すのは、修行に入るための方便なのである。そもそも戒律の意味は奥深く、草に結ばれた戒律への想いは切実である。ゆえに、身と口に即して教えを流し、静と動によって真理を究めるのである。 阿難が以下に説く四波羅夷と道場を整えることは、最初の発心における修行と悟りを明らかにし、さらには座を立たずに須陀洹を得ることを説き、悟りの結果を示すのである。 阿難はまだ悟りを得ていないものの、後の人々を哀れむ心を持っている。これは菩薩の発心である。しかし修行の初めには、誤った道を心配し、まさに様々な方便を問うて、悪魔の障害から遠ざかるのである。 戒・定・慧の三学は、大乗・小乗どちらも共に修行するものである。ゆえにここでまず三学を説くことで、決定的に進んで修行すべき指針とするのである。

阿難！云何攝心我名為戒？若諸世界六道眾生其心不婬，則不隨其生死相續。汝修三昧本出塵勞，婬心不除塵不可出，縱有多智禪定現前，如不斷淫必落魔道，上品魔王、中品魔民、下品魔女，彼等諸魔亦有徒眾，各各自謂成無上道。我滅度後末法之中，多此魔民熾盛世間，廣行貪淫為善知識，令諸眾生落愛見坑失菩提路。汝教世人修三摩地先斷心淫，是名如來先佛世尊第一決定清淨明誨。是故，阿難！若不斷淫修禪定者，如蒸砂石欲其成飯，經百千劫秪名熱砂。何以故？此非飯本，砂石成故。汝以淫身求佛妙果，縱得妙悟皆是淫根，根本成婬輪轉三途必不能出，如來涅槃何路修證？必使淫機身心俱斷，斷性亦無，於佛菩提斯可希冀。如我此說名為佛說，不如此說即波旬說。

> 阿難、どのように心を統御することを、私は戒と名づけるのか？ もし世界中の六道の衆生が、その心に淫欲がなければ、生死の相続に随うことはない。 あなたは三昧を修めて、もともと塵労を出でようとするが、淫心を除かなければ、塵を出でることはできない。 たとえ多くの智慧や禅定が現前しても、淫欲を断たなければ、必ず魔道に落ちる。 上品は魔王、中品は魔民、下品は魔女となる。 それらの諸魔にもまた弟子たちがいて、それぞれ自分こそが無上道を成したと称する。 私が滅度した後の末法の世には、このような魔民が世の中に盛んに現れ、貪欲と淫欲を広く行って善知識と称し、多くの衆生を愛欲の見解の穴に落とし、菩提の道を失わせる。 あなたは世の人々に教えよ、三摩地を修行するには、まず心の淫欲を断つべきであると。これを、如来や先代の仏世尊が説いた、第一の確固たる清らかな明らかな教えと名づける。 それゆえ、阿難よ、もし淫欲を断たずに禅定を修行する者は、砂や石を蒸してご飯にしようとするようなもので、百千劫を経ても、ただ熱い砂と呼ばれるだけである。 なぜか？これらは飯の元ではなく、砂や石でできているからである。 あなたが淫欲の身をもって仏の妙果を求めようとしても、たとえ妙なる悟りを得ても、それはすべて淫欲の根によるものであり、根本が淫欲であるなら、三途（地獄・餓鬼・畜生）を輪廻し、必ず出ることができない。如来の涅槃に、どうして修証する道があろうか？ 必ず淫欲の機縁を、身と心の両方から断ち切り、断つという心さえも無くして、はじめて仏の菩提に望みをかけることができる。 私がこのように説くことを仏の説と呼び、このように説かないことを、波旬（悪魔）の説という。

眾生纏綿生死，皆因淫欲，故首此為戒。

> 生ある者が生死に絡みつかれるのは、すべて欲望のためです。ゆえにこれを最も重い戒律とします。

阿難！又諸世界六道眾生，其心不殺，則不隨其生死相續。汝修三昧，本出塵勞，殺心不除，塵不可出。縱有多智禪定現前，如不斷殺，必落神道。上品之人為大力鬼，中品則為飛行夜叉、諸鬼帥等，下品當為地行羅剎。彼諸鬼神亦有徒眾，各各自謂成無上道。我滅度後，末法之中，多此鬼神熾盛世間，自言食肉得菩提路。阿難！我令比丘食五淨肉，此肉皆我神力化生，無本命根。汝婆羅門地多蒸溼，加以砂石，草菜不生。我以大悲神力所加，因大慈悲，假名為肉，汝得其味。奈何如來滅度之後，食眾生肉，名為釋子？汝等當知，是食肉人，縱得心開似三摩地，皆大羅剎，報終必沈生死苦海，非佛弟子。如是之人，相殺、相吞、相食未已，云何是人得出三界？汝教世人修三摩地，次斷殺生，是名如來先佛世尊第二決定清淨明誨。是故，阿難！若不斷殺修禪定者，譬如有人自塞其耳，高聲大叫，求人不聞，此等名為欲隱彌露。清淨比丘及諸菩薩，於岐路行，不蹋生草，況以手拔？云何大悲取諸眾生血肉充食？若諸比丘不服東方絲綿絹帛，及是此土靴履裘毳、乳酪醍醐，如是比丘於世真脫，酧還宿債，不遊三界。何以故？服其身分，皆為彼緣。如人食其地中百穀，足不離地，必使身心於諸眾生。若身身分、身心二塗，不服不食，我說是人真解脫者。如我此說，名為佛說；不如此說，即波旬說。

> 阿難よ、また、あらゆる世界の六道の生きとし生けるものたちは、その心が殺さないのであれば、生死に連続して従うことはありません。あなたは三昧を修行して、元々、煩悩の世界から出ようとしているのに、殺す心を取り除かなければ、煩悩の世界を出ることはできません。たとえ多くの知恵や禅定が現れても、殺すことを断ち切らなければ、必ず鬼神の道に落ちます。上品の者は大力の鬼となり、中品の者は飛行する夜叉や様々な鬼の将などとなり、下品の者は地上を歩く羅刹となります。それらの鬼神たちにもまた仲間がいて、それぞれが自分たちで無上の道を成就したと言います。私が滅度した後、末法の時代には、多くのこのような鬼神が世の中に盛んに現れ、自ら肉を食べることが菩提への道だと説くでしょう。 阿難よ、私は比丘たちに五種の浄肉を食べることを許しました。この肉はすべて私の神通力によって変化して生じたもので、本来の命の根本はありません。あなたたち婆羅門の土地はとても蒸し暑く、砂や石が多く、草や野菜も生えません。私は大いなる慈悲の神通力をもって、大慈悲によって、仮に肉という名をつけ、あなたたちにその味を得させたのです。どうして如来が滅度した後に、生き物の肉を食べて、自らを釈迦の弟子と名乗ることができるでしょうか？ あなたたちは知るべきです。この肉を食べる人は、たとえ心が開けて三摩地に似た境地を得ても、すべて大羅刹であり、報いが終われば必ず生死の苦海に沈み、仏の弟子ではありません。このような人々は、互いに殺し、互いに飲み込み、互いに食べ合うことをやめないのに、どうしてこの人が三界を出ることができるでしょうか？ あなたは世の人々に、三摩地を修行するには、次に殺生を断つべきだと教えなさい。これが如来と先仏・世尊の第二の決定清浄明誨と呼ばれるものです。それゆえ、阿難よ、もし殺生を断たずに禅定を修行するならば、例えば人が自分の耳を塞いで大声で叫び、他人に聞こえないように求めるようなもので、これは隠そうとしてますます露わになるというものです。 清らかな比丘や菩薩たちは、岐路を歩くときでさえ、生えている草を踏まず、ましてや手で抜くことなどありません。どうして大慈悲の心を持つ者が、生きとし生けるものの血肉を取って食べることができるでしょうか？ もし比丘たちが、東洋の絹や綿の布地を身につけず、またこの土地の靴や履物、裘（毛皮）や毳（細かい毛）、乳酪や醍醐を摂らなければ、このような比丘は世の中において真に解脱し、過去の借りを返し、三界を巡り歩くことはありません。なぜか？それらのものの体の一部を身につけることは、すべてそれらとの因縁となるからです。人が地中の百穀を食べれば、足が地を離れられないのと同じように、必ず身心をすべての生きとし生けるものに対して、その身体や身体の一部、身心の二つの面において、身につけず、食べなければ、私はその人を真の解脱者と言います。私がこのように説くことが、仏の説法と呼ばれます。これと異なる説は、すべて悪魔波旬の説です。

〔孤山〕律明三淨，謂不見、不聞、疑為我殺。今言五者，及自死、鳥殘也。

> 律では、三つの「清らかな肉」が明らかにされています。それは、自分のために殺されたのを見ない、聞かない、疑わないという三つの条件です。ここで五つと言うのは、それに自然死と鳥の食べ残しを加えたものです。

〔溫陵〕修禪行殺，是欲隱彌露，不故蹋，不故拔，仁慈以至，猶及草木，況食眾生肉耶？身謂血肉等，身分謂󴓥酪等，身服心貪，是為二途。

> 修行の道に入りながら、殺生を働くことは、隠そうとしてかえって明らかになるようなものです。故意に踏みつけず、故意に引き抜かず、慈悲の心は草木にまで及ぶもの。ましてや、生きとし生けるものの肉を食うことなど、ありえないことではありませんか。 「身」とは血肉などのこと、「身分」とは牛乳や酪などのことです。身にまとい、心で執着すること――これが迷いの二つの道なのです。

阿難！又復世界六道眾生，其心不偷，則不隨其生死相續。汝修三昧，本出塵勞，偷心不除，塵不可出。縱有多智禪定現前，如不斷偷，必落邪道。上品精靈，中品妖魅，下品邪人，諸魅所著，彼等羣邪，亦有徒眾，各各自謂成無上道。我滅度後，末法之中，多此妖邪，熾盛世間，潛匿姦欺，稱善知識，各自謂己得上人法，詃惑無識，恐令失心，所過之處，其家耗散。我教比丘，循方乞食，令其捨貪，成菩提道。諸比丘等，不自熟食，寄於殘生，旅泊三界，示一往還，去已無返。云何賊人，假我衣服，裨販如來，造種種業，皆言佛法，却非出家具戒比丘為小乘道。由是疑誤無量眾生，墮無間獄。若我滅後，其有比丘，發心決定修三摩提，能於如來形像之前，身然一燈燒一指節，及於身上爇一香炷，我說是人無始宿債一時酬畢，長揖世間永脫諸漏。雖未即明無上覺路，是人於法已決定心，若不為此捨身微因，縱成無為必還生人酬其宿債，如我馬麥正等無異。汝教世人修三摩地後斷偷盜，是名如來先佛世尊第三決定清淨明誨。是故，阿難！若不斷偷修禪定者，譬如有人水灌漏巵欲求其滿，縱經塵劫終無平復。若諸比丘衣鉢之餘分寸不畜，乞食餘分施餓眾生，於大集會合掌禮眾，有人捶詈同於稱讚，必使身心二俱捐捨，身肉骨血與眾生共，不將如來不了義說，迴為己解以誤初學，佛印是人得真三昧。如我所說名為佛說，不如此說名波旬說。

> 阿難よ。さらにまた、世界の六道の衆生は、その心が盗みをしなければ、生死の連鎖に従うことはない。あなたは三昧を修して、本来、煩悩の束縛から出ようとしているが、盗みの心を取り除かなければ、その束縛から出ることはできない。たとえ多くの智慧や禅定が現れたとしても、盗みを断たなければ、必ず邪道に落ちる。上品は精霊、中品は妖怪、下品は邪な人々となり、様々な妖怪に取り憑かれる。それら邪な者たちにも仲間はおり、各自が「無上の道を成就した」と自称する。私が滅度した後の末法の時代には、このような妖しい邪悪な者たちが世に盛んに現れ、奸計や欺瞞をひそめて「善知識」と称し、各自が「上人の法を得た」と言って、無知な人々を惑わし、恐怖させて心を乱す。そのような者たちが通ったところでは、その家は財産を失い尽くす。 私は比丘たちに、方々に従って托鉢し、貪りの心を捨てて菩提の道を成就するよう教えた。比丘たちは自ら食べ物を調理せず、この仮の生を託され、三界を旅するように過ごし、一度きりの往還を示し、去れば再び戻ることはない。それなのに、どうして盗人のような者たちが、私の衣を借りて、如来を商売の種とし、様々な悪業を造りながら、それらすべてを「仏法」と言い、しかも具足戒を持つ比丘たちを「小乗の道」と非難するのか。このことによって、無数の衆生を疑い惑わせ、無間地獄に堕とすことになる。 もし私の滅後、比丘がいて、心を決めて三摩地を修しようと発心し、如来の像の前で自分の体に一つの灯明を灯したり、指の一節を焼いたり、あるいは体に一つの香炷を焼くならば、私はその人は無始以来の宿債を一度にすべて償い終え、世間から永遠に別れて諸々の漏れを永く脱すると説く。たとえすぐに無上の覚りの道を明らかにしなくとも、この人は法に対してすでに確固たる心を持っている。もしこのように身を捨てる小さな因縁をしなければ、たとえ無為を成就しても、必ず人間に生まれ変わって宿債を償うことになる。それは私が馬麦を食べたことと全く同じである。 あなたは世の人々に教えよ。三摩地を修するならば、その後は盗みを断つべきである。これが如来と先仏たちの第三の決定して清らかな明らかな教えである。 それゆえ、阿難よ。もし盗みを断たずに禅定を修するならば、例えば、誰かが水で漏れる器を満たそうとしても、たとえ塵劫の時間が経とうとも決して満たされることがないのと同じである。もし比丘たちが、衣と鉢の他には一切の物を蓄えず、托鉢で得た食べ物の余りを飢えた衆生に施し、大集いの場で合掌して人々に礼をし、誰かが打ったり罵ったりしても、それを称賛と同じように受け止め、必ず身心の両方を捨て去り、自分の肉や骨や血を衆生と共有し、如来の究極でない教えを自分の解釈として初学者を誤らせないならば、仏はその人を真の三昧を得た者と認める。 私がこのように説くものを仏の説と呼び、これと異なる説を波旬の説と呼ぶのである。

比丘行乞，本為除貪，故不自熟食。旅泊者，以去為事也。

> 僧侶が托鉢（たくはつ）を行うのは、もともと「貪り」をなくすためです。そのため、自分で食事を調理することはしません。旅人が宿に泊まるように、目的はあくまで去っていくことにあるのです。

〔溫陵〕：一切難捨，無過己身。難捨尚捨，況餘貪愛？其或身雖行捨，心尚貪求，則徒增黑業，無益於道，亦於佛法非決定心。

> 〔淳熙禅师が述べる〕：すべての執着のうち、己の身体ほど手放し難いものはない。この最も捨てがたいものでさえ捨てられるならば、どうして他の貪愛を手放せないことがあろうか。もし身体だけは施しを実行していても、心がなお貪り求めているならば、それはただ黒業を増やすだけで、道の助けとはならず、また仏法に対する確固たる信心もないということになる。

〔孤山〕盜者，取他依報，資乎己身，今損正報，以供賢聖，故無始宿債，一時酬畢。

> 〔孤山〕盗みとは、本来は他人の依報（身外の財産）を奪い、自分のために使うことです。ところが今は、自分の正報（この身）を損なって、賢者や聖者に捧げています。そのため、はるか昔からの借りも、一時にすべて返し終えるのです。

阿難！如是世界六道眾生，雖則身心無殺盜淫，三行已圓，若大妄語即三摩地不得清淨，成愛見魔失如來種，所謂未得謂得、未證言證。或求世間尊勝第一，謂前人言：我今已得須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢道、辟支佛乘。十地地前諸位菩薩，求彼禮懺貪其供養，是一顛迦銷滅佛種。如人以刀斷多羅木，佛記是人永殞善根無復知見，沈三苦海不成三昧。我滅度後，勅諸菩薩及阿羅漢，應身生彼末法之中，作種種形度諸輪轉，或作沙門、白衣、居士、人王、宰官、童男、童女，如是乃至婬女、寡婦、姦偷、屠販，與其同事稱讚佛乘，令其身心入三摩地，終不自言我真菩薩、真阿羅漢，洩佛密因輕言未學，唯除命終陰有遺付。云何是人惑亂眾生成大妄語？汝教世人修三摩地，後復斷除諸大妄語，是名如來先佛世尊第四決定清淨明誨。是故，阿難！若不斷其大妄語者，如刻人糞為旃檀形，欲求香氣無有是處。我教比丘直心道場，於四威儀一切行中尚有虗假，云何自稱得上人法？譬如窮人妄號帝王自取誅滅，況復法王如何妄竊？因地不真果招紆曲，求佛菩提如噬臍人，欲誰成就？若諸比丘心如直絃一切真實，入三摩地永無魔事，我印是人成就菩薩無上知覺。如我所說名為佛說，不如此說名波旬說。

> 阿難、このような世界の六道の衆生は、身も心も殺生・盗み・淫欲を離れ、これら三つの行いがすでに円満であっても、もし大妄語をなせば、三摩地は清らかにならず、愛見の魔にとらわれて如来の種を失うことになる。すなわち、得ていないのに得たと言い、悟っていないのに悟ったと称することである。あるいは、世間での尊く勝れた第一の地位を求め、目の前の人に向かって「私はすでに須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢道、辟支仏乗を得た」と言い、さらには十地や地前の諸々の菩薩の位を得たと称して、相手に礼拝や懺悔を求め、その供養を貪る。これは一顛迦であり、仏の種を消し滅ぼすものである。たとえば人が刀で多羅木を断ち切るようなもので、仏はこのような人は永遠に善根を絶たれ、もはや正しい知見を持つことなく、三つの苦海に沈んで三昧を成就できないと記されている。 私が滅度した後、諸々の菩薩や阿羅漢たちに命じ、彼らは化身となって末法の世に生まれ、様々な形で輪廻する衆生を度するであろう。ある者は沙門となり、白衣、居士、人王、宰官、童男、童女となり、さらには淫女、寡婦、姦通する者、屠者、商人ともなって、彼らと共に働きながら仏乗を称賛し、その身心をして三摩地に入らせる。しかし決して自ら「私は真の菩薩である」「真の阿羅漢である」とは言わず、仏の密かな因縁を漏らして軽々しく未学の者に語ることはない。ただ命終の際にひそかに遺言を残すことは許される。それなのに、どうしてこれらの人々が衆生を惑わし乱して、大妄語をなすことがあろうか。 あなたは世の人々に教えなさい。三摩地を修めるならば、その後、あらゆる大妄語を断ち切りなさい。これが如来および先仏・世尊の第四の清らかな明確な教えである。 それゆえ、阿難よ、もし大妄語を断たないならば、それは人の糞を彫刻して栴檀の像とし、香りを求めるようなもので、ありえないことである。私は比丘たちに、直心をもって道場とせよと教える。行住坐臥の四つの作法やあらゆる行いにおいて、なお虚偽があるのに、どうして自らをすぐれた人の法を得たと称することができようか。たとえば貧しい人が勝手に帝王を名乗れば、自ら誅滅される運命を招くようなものだ。ましてや法王をどうして偽って称することができようか。因（修行の基）が真実でなければ、果（結果）は曲がったものとなる。仏の菩提を求めることは、自分の臍（へそ）を噛もうとする人のようで、誰が成就させることができようか。 もし諸々の比丘が心を弦のように真っ直ぐにし、すべてを真実にして、三摩地に入れば、永遠に魔の災いを受けることはない。私はそのような人を、菩薩の無上の覚りを成就した者と認めるであろう。私が説くところのものが仏説であり、これと異なる説はすべて波旬（悪魔）の説である。

〔溫陵〕四果十地，未得謂得，故大妄語，貪人供養，求己尊勝，名愛見魔。貝多羅木，斷則不生，大妄語人，善根永絕。

> 〔温陵〕四果や十地について、まだ得ていないのに得たと言い張るのが大妄語です。これは人々の供養を貪り、自分自身の尊さや勝れた立場を求める心から生じるもので、これを「愛見の魔」といいます。ベートラの木は根本から断たれれば再び生えることがないように、大妄語を犯す人は善根が永遠に絶たれてしまうのです。

〔疏〕已上四重，名根本煩惱。九品所斷，各有淺深。如三結斷，名須陀洹，薄貪瞋痴，名為三果。故身肉骨血與眾生共，此斷身見也。示一往還，去已無反，此斷戒取也。是人於法能決定心，此斷疑也。楞伽云：須陀洹身見者，謂緣起妄想身相。妄想身見斷，貪則不生。云何不取戒？謂善見受生處苦相故。云何疑相斷？謂不於餘處大師見為淨不淨。故知四重皆地上伏斷。

> 〔疏〕以上の四つの煩悩は、根本煩悩と呼ばれます。九つの段階（九品）の断ち切り方には、それぞれ深浅があります。例えば、三つの結び目（三結）を断つことは須陀洹（預流果）となり、貪り・怒り・無知を薄めることは三果（一来果・不還果・阿羅漢果）と言います。ゆえに、自分の身体・肉・骨・血を他者と共有するのは、身見（自分への執着）を断つためです。一度の往還を示して、去ったら再び戻らないのは、戒取（誤った戒律への執着）を断つためです。この人が法に対して決定心を持つのは、疑いを断つためです。『楞伽経』にはこうあります。「須陀洹の身見とは、縁起に基づく妄想の身相を言う。妄想の身見が断たれれば、貪りは生じない。どうして戒を取らないのか？ 受生の場所の苦相をよく見るからである。どうして疑いの相が断たれるのか？ 他の場所で大師を清浄か不浄かと見なさないからである。」したがって、この四つの重い煩悩は、すべて地上（修行の階位）において伏し断たれるものであると知るべきです。

鎮澄讚曰：　觀音玅觀，獨拔圓根。一根既返六歸元，請佛涅槃門。定慧重開，永劫度沉淪。

> 鎮澄が讃えて言う。 観音の妙なる観照は、ただ一つの根（感覚器官）を円満に抜き出す。 一つの根がすでに本源に帰れば、六つの根もすべて本源に戻る。 どうか仏の涅槃の門を聞かせてください。 定（禅定）と慧（智慧）を再び開き、永遠の劫においても沈み迷う者を救い続けるのです。

傳如截流曰：　觀音將陳所證，追敘於無量恒沙劫前之事者，密顯性本圓通，且真常也。有佛出世，名觀世音者，所師為圓通之師，師資名同，古今一道也。觀即如幻金剛觀察，世音謂十界音聲，惟音可觀，廼謂圓通。從聞思修入三摩地者，稟師之教，諦審損益，故得證入也。當機固稱多聞，曾未及此，特以是啟之。初於聞中，入流亡所者，凡夫耳根發識為聞，聞識奔境為流，今觀音觀聽反入，故曰入流。能滅音圓聞，故曰亡所。上所指聲塵，下所指入流，以流內伏，外塵自銷，故曰所入既寂，動靜二相，了然不生，如是漸增。聞所聞盡者，以獲玅玅聞心，心精遺聞，故得曰盡，即前云此根初解，先得人空也。覺有盡聞之盡，是亦不盡，故曰盡聞不住。覺所覺空，即空性圓明，成法解脫也，空覺極圓。空所空滅者，即空覺之空亦空，所謂俱空不生也。生滅者，外塵內根，及以識心，諸有惑業，皆名生滅之法，今悉空空，故曰既滅。以既滅則不復更滅，故曰寂滅。彌滅彌顯，是曰現前。彌超彌同，故上合十方諸佛本玅覺心，與佛如來同一慈力，以三十二應，入諸國土。下合十方一切六道眾生，與諸眾生同一悲仰，施十四無畏，福備眾生，及現眾多玅容，能說無邊神呪，斯皆亡所遺聞，朗徹廓照所致。結云：佛問圓通，我從圓照三昧，緣心自在，因入流相，得三摩地，成就菩提，斯為第一。或疑三十二應菩薩却現佛身，十四無畏沉迷即離苦惱，身心含廣莫之法界，作用現眾多之手眼，皆為表法，曾無實證。噫！斯非自生障礙，蔑彼圓通者耶？當知觀音為正法明如來，何獨泥對揚之跡？眾生能感應道交，奚難離幻妄之苦？俛仰再撫于四海，且為緣慮之知；身心互徧於十方，始是遺聞之玅。魚之成龍，頭角遂異；人之登聖，手眼固神。毋自望洋拘墟，請事入流亡所，仍藉大悲光耀，一示本來面目，始信聖言聖證，未之或欺也。然諸聖既陳圓通，而釋尊五體放光，遠灌微塵如來，微塵如來亦于五體同放寶光，來灌佛頂者，葢表淨極光通，極果所同也。彼界此土，菩薩羅漢，光亦灌頂者，表因果互融，所陳所證，一一無上也。林木池沼，皆演法音，寶光相羅，如寶絲網者，信山河大地，無非如來藏，無非玅莊嚴也。斯為希有之瑞，故令一切普獲金剛三昧。金剛喻斷惑之速獲，即初住真因之位也。以踐正位，故天亦以諸瑞應之。真因智中，十界圓彰，則成百界，故天雨百寶蓮華。青黃赤白，間雜粉糅者，住行向地，或超或次，遞遞涉入也。十方虗空，成七寶色者，從寂滅體中，克七常住果也。入圓通常門，習漏永除，依正不隔，是故娑婆山河，俱時不現，微塵國土，合成一界也。梵唄歌咏，自然敷奏者，表證入之人，無作法音，皆如是也。圓通法門止此。於是佛告文殊師利：汝今觀此諸大菩薩及阿羅漢，各說最初成道方便。彼等修行，實無優劣前後差別者，聖性無不通也。以無不通，故感諸瑞如此。我今欲令阿難開悟二十五行，誰當其根？兼我滅度此界眾生，入菩薩乘，何方便門，得易成就？文殊奉勅，唯擇耳根者，所謂偏為當機也。偈稱覺海性澄圓，圓澄覺元玅者，即前所云本覺玅明，性覺明玅是也。將擇圓通之根，先標圓通之體，著一海字，便見入流之意。下云旋流獲無妄，葢本於此。元明照生所者，元明本玅覺明也。從元明而妄發所照，故曰所立。所照既立，真性遂晦，故曰照性。亡照性者，起照之真性也。迷妄有虗空，因空立世界者，即晦昧為空，空晦暗中，結暗為色也。想澄成國土，知覺廼眾生者，即色雜妄想，想相為身也。葢一因所妄，依正斯分，則澄玅之體，莫得而圓，莫得而通，即一迷為身，決定惑為色身之內也。空生大覺中，如海一漚發，漚滅空本無，況復諸三有者，此明覺體本周，一不循塵，圓通之體，本無涯量，故淨極光通達，寂照含虗空。行人得此，諸境咸玅，故却來觀世間，猶如夢中事，將聞持佛佛，何不自聞聞者。佛佛者，諸佛所談覺性也。此之覺體，即吾真聞，不能聞聞，何知佛佛？故策云：大眾及阿難，旋汝倒聞機，反聞聞自性。阿難大眾，聞是開示，觀佛菩提，及大涅槃，如遠遊人，未得歸還。明了其家，所歸道路者，前云慧覺圓通，及辯圓通本根，但明起行之由，故曰知路而已。若欲還家，必須俶裝，故請攝心軌則，安立道場，至示五十五位真菩提路，正明萬行修證也。戒定慧三通，稱無漏者，葢眾生覺海，本自圓澄，以粘湛發識，流逸奔境名漏。今依清淨律儀，制止身心，內瑩發光，三摩正定，圓通玅慧，皆具于此。佛以婬殺盜妄，一一宣其重過，劇稱決定明誨。復言不如此說，即波旬說者，葢此戒相，本是易知易解之法，為難受難持之行，輪迴苦本，安樂玅常，莫不由斯觀佛，諄諄切切，寧弗媿死󴌯死。

### 音釋驅

> 音釈「駆」

丘于切。毳

> <note>丘于切。</note>けばだった布

音翠。靴

> <note>音の精髄。</note>履き物

許瓜切。耗

> <note>カと読む。</note>消耗

音好。詃

> <note>音は美しい。</note>

古犬切。裨

> <note>コケンセツ。</note> ビ

音卑。揖

> 申し上げる（礼をする）。

伊入切。巵

> <note>イと読む。</note>サカズキ

音支捶

> 打つこと。

之累切。詈

> <note>これ、るいせつ。</note>ののしる

力智切。泄

> 智慧を断ち切るのです。

思列切。誅

> <note>思いを断ち切る</note>罰する

音朱。噬

> 噛みつく

音逝。絃

音言。