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title: "沙彌律儀要略增註 · 敬大沙門第一"
description: "沙彌律儀要略增註由清代高僧弘贊律師註解。該書以明末蓮池大師輯錄的《沙彌律儀要略》為基礎進行深入註釋闡發。內容涵蓋沙彌應持的十戒二十四威儀等行持規範，並詳細解釋其制戒緣起與實踐細則。本書是漢傳佛教僧伽教育的重要律學典籍，系統總結了沙彌行為準則，為新出家者提供了權威的修行指南，在佛教戒律傳承中具有不可替代的地位，至今仍是寺院培養僧才的核心教材。"
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### △敬大沙門第一

> 第一大沙門

不得喚大沙門字。

> 大沙門という名を呼んではなりません。

梵語沙門。此云勤勞。謂其修道有多功勞故。又云勒息。謂勤修善品。息諸惡故。又云勒行。謂勤修善法。行趣涅槃也。瑞應經云。息心達本源。故號為沙門。大沙門。即受具戒人。字是名字。喚是呼喚。謂不得稱彼二字名。當云某甲大德。或云某甲長老。雜阿含經云。佛告諸比丘。當恭敬住。當常繫心。常畏慎。若不恭敬。不繫心。不畏慎。而欲令威儀具足者。無有是處。不備威儀。欲令學法滿者。無有是處。學法不滿。欲令五分法身具足者。無有是處。五分法身不具足。欲得無餘涅槃者。無有是處。

> サンスクリット語の「沙門（しゃもん）」は、ここでは「勤労（ごんろう）」と訳します。これは、その修行の道に多くの功労があるからです。また「勒息（ろくそく）」とも訳し、善い行いを勤め修め、諸々の悪を止めるからです。さらに「勒行（ろくぎょう）」とも訳し、善い法を勤め修め、涅槃へと向かって行くからです。 『瑞応経』には、「心を静めて本源に達する。故に沙門と号す」とあります。 「大沙門」とは、具足戒を受けた人のことです。 「字（じ）」は名前のこと、「喚（かん）」は呼びかけることです。つまり、その人の二字の名を称して呼んではならず、「某甲（ぼうこう）大徳」あるいは「某甲長老」と言うべきです。 『雑阿含経』には、次のようにあります。 仏が諸比丘に告げられた。 「恭敬の心をもって住し、常に心を繋ぎ、常に畏れ慎むべきである。もし恭敬せず、心を繋がず、畏れ慎まないで、威儀を具足させようとするならば、それはありえない。威儀を備えずに、学法を満たそうとするならば、それはありえない。学法が満たされずに、五分法身を具足させようとするならば、それはありえない。五分法身が具足せずに、無余涅槃を得ようとするならば、それはありえない」

不得盜聽大沙門說戒。

> 大僧の説戒を盗み聞きしてはなりません。

比丘布薩誦戒時。及講說毗尼時。沙彌不得私往竊聽。自獲重罪。後永不得受大戒。深宜慎之。或見大沙門二三人同室細語。不得輙入。若有急務。當彈指作聲。然後入。除比丘餘人細語亦如是。以泄他是非。自招禍咎。及亂正念故也。

> 比丘が布薩で戒を誦じる時、また律の講説がある時は、沙弥はこっそり行って盗み聞きしてはなりません。自ら重い罪を得、後々永久に具足戒を受けることができなくなります。深く慎むべきです。 また、大沙門（比丘）が二、三人で部屋に集まって小声で話しているのを見かけても、すぐに入ってはなりません。もし急用があれば、指を鳴らして音を立て、それから入るようにします。比丘以外の人が小声で話している場合も同様です。他人の是非を漏らすことになり、自ら災いを招き、また正しい心の状態を乱すことになるからです。

不得轉行說大沙門過。

> 大いなる修行者の過ちを、語り広めてはなりません。

或比丘有所誤失。不得背後說其長短。亦不得屏處罵大沙門。及在前戲笑。傚其言語。形相行步等。大律云。出家之人。所有言說。皆為利益。不應私忿道說於他。論云。若向白衣說比丘罪惡。則前人於佛法中無信敬心。寧破塔壞像。不向人說比丘過惡。若說過罪。則壞法身。

> ある比丘が何か過失を犯したとしても、その背後で長所や短所を語ってはならない。また、人目につかない場所で大沙門を罵ったり、その面前でからかったり、彼の言葉遣いや歩き方を真似たりしてはならない。大律にはこう説かれている。出家した者の言葉はすべて利益となるべきであり、私的な恨みから他人のことを語るべきではない。論にはこう記されている。在家の者に向かって比丘の罪悪を語れば、その者は仏法に対して信心と敬虔の心を失う。むしろ塔を壊し像を破る方がましであって、人に比丘の過ちや罪を語ってはならない。もし過ちや罪を語れば、それは法身を損なうことになる。

不得坐見大沙門過不起。除讀經時。病時。剃髮時。飯時。作眾事時。

> 大僧が通り過ぎるのを見て、座ったまま立ち上がらないのはいけません。ただし、経典を読んでいる時、病気の時、髪を剃っている時、食事の時、皆のための仕事をしている時は除きます。

若見比丘行過。即當起立。唯除上五事。不起無犯若路相逢。即當下道正立。待過方行。凡有教益。當叉手立聽畢。作禮謝之。若被叱責不得張目視。當軟語悔罪。引短向己。莊嚴寶王經云。若輕慢眾僧者。是人當墮貧賤家生。隨所生處。根相不具。背傴矬陋。捨是身已。而復生處。多病痟瘦。手足攣躄。而有膿血。盈流其身。零落身肉。經百千萬歲。受斯苦報。

> もし比丘が通り過ぎるのを見たら、すぐに立ち上がらなければなりません。ただし、次の五つの場合を除き、立ち上がらなくても犯戒にはなりません。道で出会ったら、すぐに道を譲ってまっすぐに立ち、通り過ぎるのを待ってから歩きなさい。教えや助言を受けるときは、手を組み合わせて立ち、話が終わるまで聞き、終わったら礼をして感謝しなさい。叱責されたときは、目を見開いて見つめてはいけません。やわらかい言葉で罪を悔い、自分の短所を認めなさい。 『荘厳宝王経』にはこうあります。「もし僧侶を軽んじ侮る者は、その人は貧しい家に生まれ落ちるであろう。生まれる場所では、身体の器官が不十分で、背中が曲がり、醜く小さくなる。この身を捨てた後も、生まれる場所では、多くの病にかかり、やせ細り、手足が萎えて曲がり、膿と血がその身に満ち流れ、身の肉が落ちていく。百千万年の間、このような苦しみの報いを受けるであろう。」

行護云。五夏以上。即闍黎位。十夏以上。即和尚位。雖比丘事。沙彌當預知之。

> 行護は言われた。 「出家して五夏（五年）以上経てば、阿闍梨の位に就くことができる。 十夏（十年）以上経てば、和尚の位に就くことができる。 たとえ比丘の事柄であっても、沙弥は前もってそれを知っておくべきである。」

夏即夏臘。謂受具戒曾經爾所夏臘也。和尚者。胡言也。此云力生。謂由師之力。生我戒身也。若據梵語則云烏波䭾耶。此言親教師。謂弟子親從受教也。今此雖非親從受戒。及與受教。以其臘高德重。故同師位也。阿闍黎。或云阿遮利耶。此云軌範師。謂其能教弟子法式也。此有五種。一與授十戒。二與授大戒。三與教授。四與依上。五與授經。

> 夏とは、すなわち夏臘（安居の回数）を指します。これは具足戒を受けてから、すでにこれほどの夏臘を経たことを意味します。 和尚という言葉は、胡語（西域の言葉）です。これを漢語では「力生」と訳します。これは、師の力によって、私の戒身（戒律によって育まれる身心）が生まれるという意味です。 もし梵語（サンスクリット）に基づけば、烏波䭾耶（ウパーディヤーヤ）と言い、これは「親教師」と訳されます。弟子が直接、教えを受ける師という意味です。ここでは、直接に戒を授けたり教えを授けたりしたわけではありませんが、その夏臘が高く、徳が重んじられるため、師と同じ位に置くのです。 阿闍黎（アーチャーリヤ）は、あるいは阿遮利耶とも言い、これは「軌範師」と訳されます。弟子に法式（仏法の作法や規範）を教えることができる師という意味です。これには五種類あります。一に十戒を授ける者、二に大戒（具足戒）を授ける者、三に教授（教えを説き授ける）する者、四に依止（依りどころとして