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  1. 楞厳経勢至円通章疏鈔 (楞嚴經勢至圓通章疏鈔)
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  3. No. 311-A 引 (No. 311-A 引)
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楞厳経勢至円通章疏鈔 (楞嚴經勢至圓通章疏鈔)

「楞嚴經勢至圓通章疏鈔」について

清 · 續法集 著

2.6 万字 · 約 88 分

清代の続法大師が編纂した『楞厳経勢至円通章疏鈔』は、『楞厳経・大勢至菩薩念仏円通章』に対する権威ある注釈書です。この章は『大仏頂首楞厳経』に由来し、大勢至菩薩が念仏三昧によって円通に至る法門を重点的に解き明かしています。続法大師の疏鈔は経文の深い意味を体系的に整理し、浄土思想と結びつけて、念仏修行と心仏不二の理念を強調しています。この著作は仏教において重要な位置を占め、楞厳経と浄土宗を研究する上での重要な文献であると同時に、修行者に円通を実証するための指針を提供し、その影響は広く深く及んでいます。


No. 311-A引 〔龍其〕
念東高先生千里東余自謂年來一味淨土,娑婆境風浩浩,真如喆、草堂清皆不免蹉跌,勉余留心此件。余偶舉示百亭法師,而法師先有勢至念佛章疏鈔在余案頭,兩人取卷重閱,盡然興嘆,謂高先生以身踐為救時之藥語也,遂命兒子募資刻之。刻既竣,法師復謂余弁其首。余惟華嚴大經,德雲首宣念佛法門,馬鳴菩薩立論之祖,念佛與止觀並重,而楞嚴為譚性之書。然勢至念佛一章,列在圓通禪宗下,不能抑蓮宗為非歸源見性之途也明矣。今彌陀疏鈔、龍舒淨土等文,布在禪林,惟勢至章僅附本經,而未有耑行之疏。法師詮文釋義,勒成一書,為震旦人添一重往生舟筏,不可謂非淨土之功臣也又明矣。遂以此意復高先生,而繼之以臆說云:蓮師云:念一佛名,換彼百千萬億之雜念也。即念即空,居然本體,非於念外別得菩提。又云:執持名號,至於一心,則復還空寂之體。又云:當知淨土唯心,更無外境,自性還歸本體,是願生彼國義。如是則蓮師雖極力主張西方淨土,而不遺宗門見性之旨,彰彰如是矣。則謂見性為淨土指歸,而淨土為見性入路,未相違也。見性則掉臂皆淨土,而蓮臺自不消說;不見性則淨土非了手,而種因要自不退。然則見性與不見性,而念佛修淨土,皆不可忽也。此義似本章所未及言,既以復於高,遂筆之此,以質諸真能念佛人為何如也。

東高先生が千里の道を越えて私を訪ねて来られ、このようにおっしゃいました。「近年、私はただひたすら浄土の教えに専念しているが、娑婆(この世)の荒波は激しく、真如喆や草堂清のような高僧でさえも、ついには道を誤ってしまった。あなたもどうかこの教えに心を留めてほしい。」そこで私はふとこの話を百亭法師に伝えました。すると法師は、すでに勢至菩薩の念仏章に関する疏鈔を私の机の上に置いていました。私たちはその二つの書物を手に取り、改めて読み直し、深く感嘆しました。そして、「高先生は自らの実践をもって、時代を救う処方箋を示されたのだ」と語り合いました。そこで私は息子に資金を募り、これを出版することにしました。

出版が終わると、法師はさらに私に序文を書くよう求めました。私はこう考えました。華厳経という大経典では、徳雲菩薩が最初に念仏の法門を説き、馬鳴菩薩は論の祖として、念仏と止観を同等に重視しています。また、楞厳経は心の本性を論じる書ですが、その中の勢至菩薩の念仏一章は、円通の教えを説く禅宗の下に置かれています。これは、浄土宗が心の本源に帰り、本性を見る道ではないと否定されるものではないことを、明らかに示しています。

今や『弥陀疏鈔』や『龍舒浄土文』といった書物は禅宗の間にも広まっていますが、勢至菩薩の章だけは本経に付属しているのみで、独立した注釈書はありませんでした。法師がその文章を解釈し、意味を明らかにして一書をまとめられたことは、この世の人々に新たな往生のための筏を一つ加えたものであり、浄土教の功労者であることは明らかです。

そこで私はこの考えを高先生に伝え、さらに私見を付け加えました。蓮池大師はこう言っています。「一つの仏の名号を念ずることは、百千万億の雑念を入れ替えることである。念ずること自体がすでに空であり、そこに本来の本体が現れる。念の外に別に菩提があるわけではない。」また、「名号を一心に執持すれば、空寂の本体に還る」とも述べています。さらに、「浄土は唯心のものであって、外に別の境はなく、自性が本体に還ることが、すなわち彼の国に生まれたいと願う意味である」と説かれています。

このように、蓮池大師は西方浄土を強く主張しながらも、禅宗における「見性」の宗旨を決して忘れておられないことが、明らかです。つまり、「見性」を浄土の指針とし、浄土を見性への入り口と見ることは、互いに矛盾しません。もし見性すれば、すべての行動がそのまま浄土となり、蓮台に生まれることは言うまでもありません。しかし、見性しなければ、浄土もまた完成した道とは言えず、そのための種をまくこと自体が不退転の要因となるのです。それゆえ、見性した人も、見性していない人も、念仏して浄土を修めることを、決しておろそかにしてはならないのです。

この意味は、本章ではまだ述べられていないように思います。すでに高先生にこのようにお伝えしたので、ここに書き留め、本当に念仏を修行する方々に、どのようにお考えかを伺いたいと思います。

康熙庚申長至錢唐戴京曾書

No. 311-B 念佛圓通章 日誦式

CBETA コード: X0311

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