菩提行經卷第二
菩提行経 第二巻
聖龍樹菩薩集頌
聖なる龍樹菩薩の偈頌集
西天中印度惹爛馱囉國密林寺三藏明教大師賜紫沙門臣天息災奉 詔譯
西天中印度惹爛馱囉国密林寺三蔵明教大師賜紫沙門臣天息災奉詔
菩提心忍辱波羅蜜多品第四
菩提心・忍辱波羅蜜多品 第四
奉行諸善業, 施戒而先導,
供養於如來, 百千劫無盡。
修行於羼提, 嗔罪而不立,
觀種種體空, 是故一心忍。
不得貪快樂, 守意令平等,
心有嗔惱病, 無睡恒不足。
彼此有施主, 供給於利養,
隨彼愛重心, 無得生瞋惱。
凡諸親近事, 不起於憎嫌,
於彼無所瞋, 乃得其安樂。
忍如是等事, 若對於冤家,
於瞋若能除, 世世獲安樂。
冤若生於心, 於愛亦無喜,
若飱瞋惱食, 無忍善不壞。
彼食我大冤, 於我無善利,
知彼冤不食, 是故忍堅牢。
凡見冤來去, 歡喜而不瞋,
於冤若起瞋, 善利終滅盡。
忍心常若此, 令瞋不得起,
住忍無時節, 瞋冤自不生。
若人自保愛, 不作惡口業,
口業若不離, 後感冤家苦。
畏苦不出離, 不行眾苦因,
是故堅忍心, 獲得諸快樂。
彼訥陵誐子, 邪見求解脫,
刀割火燒身, 無利由能忍。
愚癡無正見, 虛受大苦惱,
我以菩提心, 云何苦不忍?
蚊蚤壁虱等, 常飢渴苦惱,
大痒煩苦人, 住忍而不見。
寒熱并雨風, 病枷鎖捶打,
被諸苦惱事, 忍不求快樂。
殺他血流迸, 堅牢心勇猛,
割身自見血, 怕怖而驚倒。
智者心清淨, 常懼瞋惱侵,
與煩惱相持, 忍心恒勇猛。
蛇腹行在地, 喻瞋伏於心,
殺之謂無勇, 殺彼得最勝。
如來大悲者, 愍苦說輪迴,
使識罪根本, 住忍而不作。
父母何計心, 懼子遭淪溺,
持心離瞋怒, 自遠大苦報。
譬如無智人, 令罪而得生,
修行而無智, 瞋生亦復爾。
欲住不思議, 當須持自心,
於此生愛重, 令瞋不生起。
若貪彼塵境, 而生種種罪,
因彼諸業力, 而不得自由。
於境若不貪, 彼集無因立,
和合心無故, 是故無有生。
不貪而不生, 無得而自說,
我得如是故, 是生不思議。
彼無生不生, 是得云何有?
瞻察於彼此, 滅盡得無餘。
此心恒清淨, 喻隨色摩尼,
所變悉從因, 無因相何有?
過去行行時, 彼行何所作?
隨彼所行因, 等因而感果。
一切雖由因, 因善惡由心,
說求性寂靜, 如是有何過?
若取和合因, 是樂於苦惱,
此心不可住, 智人應自勸。
是故見冤家, 想作善知識,
因行如是行, 當獲得快樂。
如是諸有情, 由業不自在,
自在若成就, 誰肯趣於苦?
散亂心緣塵, 心被刺不覺,
食斷食增瞋, 於苦而返愛。
自若無福行, 返愛纏縛業,
如飱毒藥食, 墮於生死崖。
自住是煩惱, 誠由不自護,
欲解脫他人, 此事何由得?
煩惱迷昏濁, 而致於自殺,
毒盛無有悲, 云何瞋不護?
自性既愚迷, 於他行嬈亂,
生彼瞋無疑, 如火而能燒。
有情性愚時, 所行諸過失,
愚迷故若此, 如煙熏虛空。
若人瞋不護, 愚迷無智故,
喻持杖勸人, 而增彼瞋惱。
我於過去生, 苦惱諸有情,
是故於今身, 被苦惱能忍。
我身喻於鐵, 受彼燒鎚鍛,
如彼鐵持身, 何得有其苦?
我今看此身, 如無情形像,
雖被諸苦惱, 而瞋無所起。
愚迷起愛業, 不知其苦本,
得苦緣自過, 云何生瞋惱?
喻受地獄苦, 飛禽劍林等,
知自業所生, 何處有瞋惱?
我得如是業, 此過知所起,
設令入地獄, 不由他所作。
欲盡我之業, 無量無有邊,
我業既如是, 長時受地獄。
我此過如是, 彼實我冤家,
云何分別知, 愚迷瞋造作?
若人自護持, 對冤忍不恚,
是心功德生, 地獄云何入?
盡我之所行, 得因如彼時,
不忍瞋不護, 破壞於修行。
意無相無形, 散亂即破壞,
由身護持故, 身苦當忍受。
我於口惡業, 眾過而不作,
身不被眾苦, 云何心有瞋?
我於今生中, 淨心行利行,
於利益既無, 何事於食飲?
凡所作為事, 要在於利他,
彼無利非愛, 定獲罪無疑。
不如今殞沒, 無貪邪壽命,
邪命住雖久, 死當墮苦趣。
譬如在夢中, 百年受快樂,
如真實得樂, 覺已知暫非。
喻彼時無常, 壽命之延促,
覺此二事已, 彼何得快樂?
久處於歡娛, 自謂得多益,
如行人被劫, 裸形復空手。
福利隨過減, 罪根還復生,
福盡罪不生, 為獲不瞋利。
彼何為活命, 一向作不善,
如是不思惟, 無善不破壞。
無得讚於瞋, 破壞有情故,
如是心利他, 彼瞋無由生。
為彼修心人, 於忍不住故,
見彼煩惱生, 是讚忍功德。
塔像妙法等, 有謗及破壞,
佛等無苦惱, 我於彼不瞋。
於師并眷屬, 不作於愛業,
今因過去生, 見之而自勉。
覺心觀有情, 恒在眾苦惱,
見彼如是已, 於苦惱能忍。
瞋恚與愚癡, 分別過一等,
於此毒過咎, 何得說無過?
云何於過去, 而作害他業,
如是諸業因, 間斷此何作?
如佛福亦然, 我今一心作,
與一切有情, 慈心互相覩。
喻火燒其舍, 舍中而火入,
舍中若有草, 彼火自延蔓。
如是還喻心, 和合於瞋火,
燒彼福功德, 剎那無所有。
若人殺在手, 放之善可稱,
地獄苦能免, 此善誰不讚?
若人在世間, 少苦不能忍,
地獄苦無量, 瞋因何不斷?
我以如是苦, 歷百千地獄,
一一為利他, 所作不自為。
我無如是等, 諸大苦惱事,
以離世間故, 為利如是行。
離苦獲快樂, 彼皆讚功德,
得彼如是讚, 云何而不喜?
彼既得如此, 無礙之快樂,
利他行最上, 智者何不勉?
如是最上行, 得快樂不修,
此見若不捨, 破壞於正見。
若敬愛於他, 以德而稱讚,
他德既稱讚, 乃是自敬愛。
當發菩提心, 為一切有情,
令得諸快樂, 云何瞋有情?
佛為三界供, 欲有情成佛,
世利得不實, 彼煩惱何作?
若人之骨肉, 乃及諸眷屬,
養育與命等, 不喜瞋何生?
如彼求菩提, 當用菩提心,
而不愛有情, 福自捨何瞋?
若人有所求, 出財大捨施,
所求既不獲, 不如財在舍。
清淨功德福, 何障而不獲?
得已自不受, 如住瞋修行。
作罪與作福, 不同不隨喜,
亦復不依作, 當自一無得,
若愛於冤家, 欲求其歡喜,
復求諸讚說, 此事無因得,
雖欲利圓滿, 返苦而無樂,
菩提心不忍, 於利不成就,
煩惱之惡鉤, 牽人不自在,
由如地獄卒, 擲人入湯火,
我本求利他, 何要虛稱讚?
無福無壽命, 無力無安樂。
自利行不圓, 智者應須覺,
後後而自行, 當愛樂圓滿。
修行要稱讚, 若持刃自殺,
如世不實事, 無益無利樂。
譬如破壞舍, 日照內外見,
亦由稱讚非, 須用心明了。
汝思惟於聲, 起滅而平等,
心如此利他, 當行如是行。
於他何所受, 而行於利益,
彼既獲快樂, 我利益非虛。
彼彼獲利樂, 以一切讚我,
云何而於我, 無別威德樂?
彼如是讚我, 以愛彼自得,
彼無緣若此, 如愚如迷者。
此讚我雖獲, 速破而勿著,
憎惡正德者, 由此而瞋作。
是讚成障礙, 我令不發起,
護不墮惡趣, 為彼行無我。
若解諸有情, 利養尊卑縛,
令有情解脫, 彼意云何瞋?
若人欲捨苦, 來入解脫門,
此是佛威德, 云何我瞋彼?
此瞋我不作, 於福障礙故,
修行平等忍, 彼無不獲得。
自身諸過失, 忍辱故不作,
過失不作故, 彼福而獲得。
若人福無有, 安忍而自生,
常令安住忍, 云何說障礙?
世求利益人, 不於施作障,
障礙出家故, 是不得出家。
世間諸難得, 求者而能與,
我唯說善利, 於過無所得。
以彼菩提行, 遠離於所冤,
如出舍中藏, 是故云不難。
懺悔於業因, 彼初為先導,
是故於忍果, 如是而得生。
彼無我所心, 此心乃住忍,
成就不思議, 供養於妙法。
此心為利他, 乃至以壽命,
或以冤不供, 云何別說忍?
於彼彼惡心, 各各與忍辱,
於如是得忍, 因供養妙法。
佛土眾生土, 大牟尼說此,
於彼奉事多, 能感於富貴。
如來及於法, 與有情平等,
尊重於佛故, 尊有情亦然。
立意乃如是, 於自無所作,
以彼大平等, 平等於有情。
大意於有情, 慈心而供養,
發心如佛福, 如佛福可得。
是故佛法行, 佛有情平等,
佛無所平等, 功德海無邊。
佛功德精純, 無功德能比,
雖三界供養, 見之而不能。
佛法等之師, 是最上有情,
供養諸有情, 當如此作意。
於自之眷屬, 不能起利行,
於他之奉事, 不作得何過?
破壞身入無間獄, 若彼作已我復作,
廣大心為彼一切, 如是常行於善事。
喻世人為自在主, 由於己事不稱情,
云何而為彼作子, 我作非彼奴僕性。
喻佛入苦而無苦, 如得快樂復歡喜,
要歡喜彼一切佛, 佛喜為彼能此作。
如身煩惱而普有, 欲一切乏悉充足,
於有情苦亦復然, 我無方便空悲慜。
是故此苦我遠離, 救一切苦興大悲,
先嬈惱於忍辱人, 彼罪我今而懺悔。
我今奉事於如來, 同於世間諸僕從,
眾人足蹈我頂上, 受之歡喜而同佛。
世間一切賤能作, 以悲慜故無有礙,
見此一切無比色, 彼如是尊誰不敬?
如是為奉於如來, 如是為自利成就,
如是為除世苦惱, 如是我今乃出家。
譬如一王人, 能調伏大眾,
眾非一能調, 以長親王故。
彼一而非獨, 蓋有王之力,
制斷不怯劣, 亦無有過失。
悲慜心住忍, 力若地獄卒,
將護於有情, 如事以惡王。
瞋非王所令, 如彼地獄苦,
煩惱於有情, 彼苦而自受。
喜非王所與, 如得於佛等,
善心於有情, 此心何不受?
將護於有情, 後當得成佛,
見感尊重稱, 此善何不見?
無病復端嚴, 快樂而長命,
富貴作輪王, 斯皆從忍得。
諸々の善い行いを実践し、 布施と戒律を先導とし、 如来を供養すること、 百千劫を経ても尽きることはない。
忍辱の修行を積み、 怒りの罪を起こさず、 あらゆるものの本質が空であると観じ、 それゆえ一心に耐え忍ぶ。
貪りに溺れた楽しみを求めず、 心を守り平等に保つ。 心に怒りの煩悩という病があれば、 眠れず、常に満たされない。
施主が布施をし、 利養を与えてくれるならば、 その慈愛の心に従い、 怒りを起こしてはならない。
親しく接するすべての事柄において、 憎しみや嫌悪を起こさず、 相手に対して怒りを抱かなければ、 安楽を得ることができる。
このようなことを耐え忍び、 たとえ怨みを抱く者に対しても、 怒りを除くことができれば、 世々にわたって安楽を得る。
怨みが心に生じれば、 慈愛に対しても喜びはなく、 怒りの煩悩という毒を食らえば、 忍耐の善は損なわれる。
その毒は私の大敵であり、 私に善き利益をもたらさない。 その敵が食らわないと知れば、 忍耐は堅固なものとなる。
怨みを抱く者を見かけても、 喜びをもって接し、怒らない。 怨みに対して怒りを起こせば、 善き利益はついに滅び尽きる。
忍耐の心を常にこのように保ち、 怒りが起こらないようにする。 忍耐に住する時節を定めず、 怒りと怨みは自然に生じなくなる。
もし人が自らを守り愛するならば、 悪口の業を作らず、 口の業を離れなければ、 後に怨みを抱く者の苦しみを受ける。
苦しみを恐れて離れず、 多くの苦しみの因を行わなければ、 それゆえ堅固な忍耐の心によって、 あらゆる楽しみを得る。
愚かな邪見の者が、 刀で切りつけ火で焼かれても、 利益なく耐え忍ぶことがある。
愚かで正しい見解がなく、 虚しく大きな苦しみを受ける。 私は菩提心を持っているのに、 どうして苦しみに耐えられないだろう?
蚊や蚤や壁虱などが、 常に飢え渇き苦しみ、 大きな痒みが人を煩わせても、 忍耐に住してそれを見ない。
寒さや暑さ、雨や風、 病や枷鎖、打撃など、 あらゆる苦しみの事柄に遭っても、 楽しみを求めずに耐え忍ぶ。
他者を殺して血が流れ出ても、 堅固で勇猛な心を持ち、 自らの身を切りつけて血を見れば、 恐れおののいて倒れる。
智者は心が清浄であり、 常に怒りの煩悩の侵襲を恐れ、 煩悩と戦いながら、 忍耐の心は常に勇猛である。
蛇が腹這いで地を進むように、 怒りは心に潜んでいる。 それを殺すのは勇気ではないと言うが、 それを殺すことが最上の勝利である。
如来という大悲の者は、 苦しみを憐れみ輪廻を説き、 罪の根本を知らしめ、 忍耐に住してそれを行わない。
父母はどのような心で、 子が溺れることを恐れるだろうか。 心を持って怒りを離れ、 自ら大きな苦しみの報いから遠ざかる。
たとえば無智の人が、 罪を起こさせてしまうように、 修行しても智慧がなければ、 怒りが生じるのも同じである。
不思議な境地に住したいならば、 自らの心を持ち続けなければならない。 この心に愛着と重みを持たせ、 怒りが生じないようにする。
もしその塵境に貪りを起こせば、 さまざまな罪が生じ、 その業の力によって、 自由を得ることができない。
境に対して貪らなければ、 その集まりは因なくして立たず、 和合する心がないゆえに、 それゆえ生じることはない。
貪らず生じなければ、 得たと自ら言うことはできず、 私はこのように得たのだと、 それは不思議な生である。
その不生は生じず、 得るということはどうしてあるだろうか? こちらとあちらをよく観察し、 滅び尽きて余すところなく得る。
この心は常に清浄であり、 色に従う摩尼宝に譬えられる。 変化することはすべて因からであり、 因がなければ相はどうしてあるだろうか?
過去に行を行った時、 その行は何をなしただろうか? その行った因に従い、 等しい因によって果を感ずる。
すべては因によるが、 因の善悪は心による。 性が寂静であることを求めると説く、 このようにして何の過ちがあるだろうか?
もし和合の因を取れば、 それは苦しみを楽しむことである。 この心に住してはならない、 智者は自らを励ますべきである。
それゆえ怨みを抱く者を見て、 善知識であると思いなさい。 このような行いを行うことによって、 楽しみを得るであろう。
このようにしてすべての有情は、 業によって自在ではなく、 自在が成就するならば、 誰が苦しみに向かおうとするだろうか?
散乱した心が塵境に縁り、 心が刺されても気づかず、 食を断ち食を増やして怒り、 苦しみに対して返って愛着する。
自らに福の行いがなければ、 返って愛着に縛られる業となり、 毒薬を食らうように、 生死の崖に堕ちる。
自らがこの煩悩に住するのは、 まさに自らを護らないからである。 他者を解脱させようとするならば、 このことはどうして得られるだろうか?
煩悩は迷いと昏濁をもたらし、 自殺に至らせる。 毒が盛んで慈悲がなければ、 どうして怒りを護らないだろうか?
自性が愚かで迷っているならば、 他者に対して乱暴を働き、 その怒りを生じさせることは疑いなく、 火のように焼き尽くす。
有情の性質が愚かな時、 行うあらゆる過失は、 愚かで迷っているからこのようであり、 煙が虚空を薫ずるようである。
もし人が怒りを護らなければ、 愚かで迷い智慧がないからであり、 杖を持って人を諭すように、 その怒りの煩悩を増やす。
私は過去の生において、 多くの有情を苦しめた。 それゆえ今この身において、 苦しめられても耐え忍ぶことができる。
私の身は鉄に譬えられ、 焼かれ鎚で鍛えられる。 その鉄のように身を持てば、 どうして苦しみがあるだろうか?
私は今この身を見るに、 無情の形像のようであり、 多くの苦しみに遭っても、 怒りは起こらない。
愚かで迷い愛着の業を起こし、 その苦しみの根本を知らない。 苦しみの縁は自らの過ちによるのに、 どうして怒りの煩悩を生じるだろうか?
地獄の苦しみを受けるように、 飛ぶ鳥や剣の林など、 自らの業によって生じると知れば、 どこに怒りの煩悩があるだろうか?
私はこのような業を得た、 この過ちはどこから起こるか知っている。 たとえ地獄に入るとしても、 他者のなしたことによるのではない。
私の業を尽くしたい、 それは無量で辺りがない。 私の業がこのようであるならば、 長い間地獄を受けるであろう。
私のこの過ちはこのようであり、 彼らはまさに私の怨みを抱く者である。 どうして分別して知るだろうか、 愚かで迷い怒りを作り出すことを。
もし人が自らを護り持ち、 怨みを抱く者に対して怒らずに耐え忍べば、 この心に功徳が生じ、 どうして地獄に入るだろうか?
私の行いを尽くし、 その因を得たならばあの時のように、 耐え忍ばず怒りを護らなければ、 修行を破壊してしまう。
意は相も形もなく、 散乱すれば即座に破壊される。 身によって護り持つゆえに、 身の苦しみは耐え忍ぶべきである。
私は口の悪い業を、 多くの過ちを行わず、 身は多くの苦しみを受けないのに、 どうして心に怒りがあるだろうか?
私は今生において、 清浄な心で利他の行いを行い、 利益がないならば、 何のために飲食するだろうか?
すべてのなすべき事柄は、 他者を利することにあり、 それが利益でなく愛でなければ、 確かに罪を得ることに疑いはない。
今すぐに滅びる方がましであり、 貪り邪な寿命を持たない。 邪な命で長く住んでも、 死んで苦しみの趣きに堕ちる。
たとえば夢の中で、 百年の間楽しみを受けるように、 本当に楽しみを得たと思っても、 覚めたらそれは一時的なものだと知る。
あの時の無常に譬えられる、 寿命の延び縮みを、 この二つの事柄を覚れば、 どうして楽しみを得られるだろうか?
長く歓楽に住んでいると、 多くの利益を得たと思い込むが、 旅人が強盗に遭うように、 裸形でまた空手である。
福利は過ちに従って減り、 罪の根はまた生じる。 福が尽きて罪が生じなければ、 怒らない利益を得るためである。
彼らは何のために生きるのか、 一途に不善を行い、 このように思惟しなければ、 善を破壊しないことはない。
怒りを称賛してはならない、 有情を破壊するからである。 このように心が他者を利するならば、 その怒りは生じる理由がない。
その修行する人のために、 耐え忍べないゆえに、 その煩悩が生じるのを見て、 忍耐の功徳を称賛する。
塔や像や妙法などに対して、 謗りや破壊があっても、 仏などは苦しみがないのに、 私はそれに対して怒らない。
師や眷属に対して、 愛着の業を行わず、 今は過去の生の因によって、 それを見て自らを励ます。
覚めた心で有情を観じ、 常に多くの苦しみの中にいるのを見て、 彼らがこのようであると見れば、 苦しみに耐え忍ぶことができる。
怒りと愚かさは、 分別の過ちは同じである。 この毒の過ちに対して、 どうして過ちがないと言えるだろうか?
どうして過去において、 他者を害する業を行ったのか、 このような業の因を、 間断なく行うことは何をなすのか?
仏の福と同じように、 私は今一心に行い、 すべての有情とともに、 慈しみの心で互いに見守る。
火が家を焼くように、 家の中に火が入れば、 家の中に草があれば、 その火は自ら延び広がる。
このように心に譬え返す、 怒りの火と和合し、 その福の功徳を焼き尽くし、 刹那のうちに何も残さない。
もし人が手に殺生をして、 それを放つことは善く称賛される。 地獄の苦しみを免れるならば、 この善を誰が称賛しないだろうか?
もし人が世間にいて、 少しの苦しみにも耐えられなければ、 地獄の苦しみは無量であるのに、 怒りの因をどうして断たないのか?
私はこのような苦しみで、 百千の地獄を経て、 一つ一つが他者を利するためであり、 自らのために行ったのではない。
私はこのような、 多くの大きな苦しみの事柄がなく、 世間を離れているゆえに、 利他を行うためにこのように行う。
苦しみを離れて楽しみを得れば、 彼らは皆功徳を称賛し、 そのような称賛を得れば、 どうして喜ばないだろうか?
彼らがこのように、 妨げのない楽しみを得るならば、 利他の行いは最も勝れており、 智者はどうして励まないだろうか?
この最も勝れた行いで、 楽しみを得ることを修めなければ、 この見解を捨てなければ、 正しい見解を破壊する。
もし他者を敬愛するならば、 徳によって称賛し、 他者の徳を称賛すれば、 それは自らを敬愛することである。
菩提心を発し、 すべての有情のために、 あらゆる楽しみを得させよう。 どうして有情に対して怒るだろうか?
仏は三界の供養であり、 有情を成仏させたいと願う。 世間の利益は実体がなく、 その煩悩は何をなすだろうか?
もし人の骨肉や、 また諸々の眷属が、 養育し命と同じであるならば、 喜ばずに怒りがどうして生じるだろうか?
その菩提を求めるように、 菩提心を用いるべきであり、 有情を愛さなければ、 福は自ら捨てるのにどうして怒るだろうか?
もし人が何かを求め、 財を大いに捨て施しても、 求めるものが得られなければ、 財が家にある方がましである。
清浄な功徳の福は、 何の障害があって得られないだろうか? 得ても自ら受け取らなければ、 怒りに住して修行するようである。
罪を行い福を行っても、 同じではなく随喜せず、 またそれに依らず、 自らは一つの得るところがない。
もし怨みを抱く者を愛し、 その喜びを求め、 また多くの称賛を求めるならば、 このことは因なくして得られない。
利が円満であることを欲しても、 返って苦しみで楽しみがなく、 菩提心が耐え忍ばなければ、 利は成就しない。
煩悩の悪い鉤が、 人を自在でなく引き寄せ、 地獄の獄卒のように、 人を湯火の中に投げ入れる。
私は本来他者を利することを求めたのに、 どうして虚しい称賛を求める必要があるのか? 福もなく寿命もなく、 力もなく安楽もない。
自利の行いが円満でなければ、 智者は覚めるべきであり、 後々と自ら行い、 愛と楽しみが円満であるべきことを。
修行には称賛が必要であり、 もし刃を持って自殺するならば、 世間の実体のない事柄のように、 益もなく利も楽しみもない。
たとえば破壊された家のように、 日が照らせば内外が見え、 また称賛の非によっても、 心を明らかに用いる必要がある。
あなたは声について思惟し、 起こり滅びることを平等とし、 心がこのように他者を利するならば、 このような行いを行うべきである。
他者から何を受け取って、 利益を行おうとするのか? 彼らが楽しみを得るならば、 私の利益は虚しいものではない。
彼らが楽しみを得るならば、 すべてが私を称賛し、 どうして私に対して、 別の威徳の楽しみがないだろうか?
彼らがこのように私を称賛するのは、 彼らを愛するから自ら得るのであり、 彼らに縁がなければこのようにはならない、 愚かで迷っている者のようである。
この称賛を私は得ても、 速やかに破って執着してはならない。 正しい徳を憎む者は、 これによって怒りを作り出す。
この称賛は障害となり、 私はそれを起こさせず、 悪趣に堕ちないように護り、 彼らのために無我の行いを行う。
もしすべての有情が、 利養や尊卑に縛られていると解れば、 有情を解脱させようとし、 その心はどうして怒るだろうか?
もし人が苦しみを捨てようとし、 解脱の門に入ってくるならば、 これは仏の威徳であり、 どうして私は彼らに対して怒るだろうか?
この怒りは私は行わない、 福の障害となるからである。 平等の忍耐を修行すれば、 彼らは得られないことはない。
自らの諸々の過失は、 忍辱によって行わず、 過失を行わないゆえに、 その福を得る。
もし人に福がなくても、 安らかな忍耐は自ら生じ、 常に安住の忍耐を保てば、 どうして障害があると言えるだろうか?
世間で利益を求める人は、 布施に対して障害を作らず、 出家を妨げるから、 出家を得ることができない。
世間の得難いものを、 求める者に与えることができ、 私はただ善き利益を説き、 過ちからは何も得ない。
その菩提の行いによって、 怨みを抱く者から遠ざかり、 家の中の蔵から出るように、 それゆえ難しくない。
業の因を懺悔し、 それが最初の先導となり、 それゆえ忍耐の果が、 このようにして生じる。
その無我の心こそが、 この心は忍耐に住し、 不思議を成就し、 妙法を供養する。
この心は他者を利するためであり、 寿命をもってさえも、 または怨みを抱く者を供養せず、 どうして別に忍耐を説くだろうか?
その悪い心に対して、 それぞれに忍辱を与え、 このようにして忍耐を得るのは、 妙法を供養する因による。
仏土と衆生の土は、 大牟尼がこれを説き、 それに奉仕することが多ければ、 富貴を感ずることができる。
如来と法と、 有情は平等であり、 仏を尊重するゆえに、 有情も同様に尊重する。
このように意を立てれば、 自らは何も行わず、 その大いなる平等によって、 有情と平等となる。
大いなる意は有情に対して、 慈しみの心で供養し、 仏の福のように心を発すれば、 仏の福を得ることができる。
それゆえ仏法の行いは、 仏と有情は平等であり、 仏は平等でないものはなく、 功徳の海は辺りがない。
仏の功徳は精純であり、 比べられる功徳はない。 三界の供養であっても、 見ることはできない。
仏法などの師は、 最も勝れた有情であり、 すべての有情を供養するならば、 このように意をなすべきである。
自らの眷属に対して、 利他の行いを起こせず、 他者の奉仕に対して、 行わなければ何の過ちがあるだろうか?
身を破壊して無間地獄に入るならば、 もし彼らが行ったことを私も行えば、 広大な心で彼らすべてのために、 このように常に善き事を行わなければならない。
世間の人が自在の主であるように、 自らの事柄が心に適わなければ、 どうして彼らの子となろうとするのか? 私は彼らの奴隷の性質ではない。
仏が苦しみに入っても苦しまず、 楽しみを得ればまた喜ぶように、 すべての仏を喜ばせようとし、 仏の喜びが彼らの