菩提行経 第二巻
聖なる龍樹菩薩の偈頌集
西天中印度惹爛馱囉国密林寺三蔵明教大師賜紫沙門臣天息災奉詔
菩提心・忍辱波羅蜜多品 第四
諸々の善い行いを実践し、 布施と戒律を先導とし、 如来を供養すること、 百千劫を経ても尽きることはない。
忍辱の修行を積み、 怒りの罪を起こさず、 あらゆるものの本質が空であると観じ、 それゆえ一心に耐え忍ぶ。
貪りに溺れた楽しみを求めず、 心を守り平等に保つ。 心に怒りの煩悩という病があれば、 眠れず、常に満たされない。
施主が布施をし、 利養を与えてくれるならば、 その慈愛の心に従い、 怒りを起こしてはならない。
親しく接するすべての事柄において、 憎しみや嫌悪を起こさず、 相手に対して怒りを抱かなければ、 安楽を得ることができる。
このようなことを耐え忍び、 たとえ怨みを抱く者に対しても、 怒りを除くことができれば、 世々にわたって安楽を得る。
怨みが心に生じれば、 慈愛に対しても喜びはなく、 怒りの煩悩という毒を食らえば、 忍耐の善は損なわれる。
その毒は私の大敵であり、 私に善き利益をもたらさない。 その敵が食らわないと知れば、 忍耐は堅固なものとなる。
怨みを抱く者を見かけても、 喜びをもって接し、怒らない。 怨みに対して怒りを起こせば、 善き利益はついに滅び尽きる。
忍耐の心を常にこのように保ち、 怒りが起こらないようにする。 忍耐に住する時節を定めず、 怒りと怨みは自然に生じなくなる。
もし人が自らを守り愛するならば、 悪口の業を作らず、 口の業を離れなければ、 後に怨みを抱く者の苦しみを受ける。
苦しみを恐れて離れず、 多くの苦しみの因を行わなければ、 それゆえ堅固な忍耐の心によって、 あらゆる楽しみを得る。
愚かな邪見の者が、 刀で切りつけ火で焼かれても、 利益なく耐え忍ぶことがある。
愚かで正しい見解がなく、 虚しく大きな苦しみを受ける。 私は菩提心を持っているのに、 どうして苦しみに耐えられないだろう?
蚊や蚤や壁虱などが、 常に飢え渇き苦しみ、 大きな痒みが人を煩わせても、 忍耐に住してそれを見ない。
寒さや暑さ、雨や風、 病や枷鎖、打撃など、 あらゆる苦しみの事柄に遭っても、 楽しみを求めずに耐え忍ぶ。
他者を殺して血が流れ出ても、 堅固で勇猛な心を持ち、 自らの身を切りつけて血を見れば、 恐れおののいて倒れる。
智者は心が清浄であり、 常に怒りの煩悩の侵襲を恐れ、 煩悩と戦いながら、 忍耐の心は常に勇猛である。
蛇が腹這いで地を進むように、 怒りは心に潜んでいる。 それを殺すのは勇気ではないと言うが、 それを殺すことが最上の勝利である。
如来という大悲の者は、 苦しみを憐れみ輪廻を説き、 罪の根本を知らしめ、 忍耐に住してそれを行わない。
父母はどのような心で、 子が溺れることを恐れるだろうか。 心を持って怒りを離れ、 自ら大きな苦しみの報いから遠ざかる。
たとえば無智の人が、 罪を起こさせてしまうように、 修行しても智慧がなければ、 怒りが生じるのも同じである。
不思議な境地に住したいならば、 自らの心を持ち続けなければならない。 この心に愛着と重みを持たせ、 怒りが生じないようにする。
もしその塵境に貪りを起こせば、 さまざまな罪が生じ、 その業の力によって、 自由を得ることができない。
境に対して貪らなければ、 その集まりは因なくして立たず、 和合する心がないゆえに、 それゆえ生じることはない。
貪らず生じなければ、 得たと自ら言うことはできず、 私はこのように得たのだと、 それは不思議な生である。
その不生は生じず、 得るということはどうしてあるだろうか? こちらとあちらをよく観察し、 滅び尽きて余すところなく得る。
この心は常に清浄であり、 色に従う摩尼宝に譬えられる。 変化することはすべて因からであり、 因がなければ相はどうしてあるだろうか?
過去に行を行った時、 その行は何をなしただろうか? その行った因に従い、 等しい因によって果を感ずる。
すべては因によるが、 因の善悪は心による。 性が寂静であることを求めると説く、 このようにして何の過ちがあるだろうか?
もし和合の因を取れば、 それは苦しみを楽しむことである。 この心に住してはならない、 智者は自らを励ますべきである。
それゆえ怨みを抱く者を見て、 善知識であると思いなさい。 このような行いを行うことによって、 楽しみを得るであろう。
このようにしてすべての有情は、 業によって自在ではなく、 自在が成就するならば、 誰が苦しみに向かおうとするだろうか?
散乱した心が塵境に縁り、 心が刺されても気づかず、 食を断ち食を増やして怒り、 苦しみに対して返って愛着する。
自らに福の行いがなければ、 返って愛着に縛られる業となり、 毒薬を食らうように、 生死の崖に堕ちる。
自らがこの煩悩に住するのは、 まさに自らを護らないからである。 他者を解脱させようとするならば、 このことはどうして得られるだろうか?
煩悩は迷いと昏濁をもたらし、 自殺に至らせる。 毒が盛んで慈悲がなければ、 どうして怒りを護らないだろうか?
自性が愚かで迷っているならば、 他者に対して乱暴を働き、 その怒りを生じさせることは疑いなく、 火のように焼き尽くす。
有情の性質が愚かな時、 行うあらゆる過失は、 愚かで迷っているからこのようであり、 煙が虚空を薫ずるようである。
もし人が怒りを護らなければ、 愚かで迷い智慧がないからであり、 杖を持って人を諭すように、 その怒りの煩悩を増やす。
私は過去の生において、 多くの有情を苦しめた。 それゆえ今この身において、 苦しめられても耐え忍ぶことができる。
私の身は鉄に譬えられ、 焼かれ鎚で鍛えられる。 その鉄のように身を持てば、 どうして苦しみがあるだろうか?
私は今この身を見るに、 無情の形像のようであり、 多くの苦しみに遭っても、 怒りは起こらない。
愚かで迷い愛着の業を起こし、 その苦しみの根本を知らない。 苦しみの縁は自らの過ちによるのに、 どうして怒りの煩悩を生じるだろうか?
地獄の苦しみを受けるように、 飛ぶ鳥や剣の林など、 自らの業によって生じると知れば、 どこに怒りの煩悩があるだろうか?
私はこのような業を得た、 この過ちはどこから起こるか知っている。 たとえ地獄に入るとしても、 他者のなしたことによるのではない。
私の業を尽くしたい、 それは無量で辺りがない。 私の業がこのようであるならば、 長い間地獄を受けるであろう。
私のこの過ちはこのようであり、 彼らはまさに私の怨みを抱く者である。 どうして分別して知るだろうか、 愚かで迷い怒りを作り出すことを。
もし人が自らを護り持ち、 怨みを抱く者に対して怒らずに耐え忍べば、 この心に功徳が生じ、 どうして地獄に入るだろうか?
私の行いを尽くし、 その因を得たならばあの時のように、 耐え忍ばず怒りを護らなければ、 修行を破壊してしまう。
意は相も形もなく、 散乱すれば即座に破壊される。 身によって護り持つゆえに、 身の苦しみは耐え忍ぶべきである。
私は口の悪い業を、 多くの過ちを行わず、 身は多くの苦しみを受けないのに、 どうして心に怒りがあるだろうか?
私は今生において、 清浄な心で利他の行いを行い、 利益がないならば、 何のために飲食するだろうか?
すべてのなすべき事柄は、 他者を利することにあり、 それが利益でなく愛でなければ、 確かに罪を得ることに疑いはない。
今すぐに滅びる方がましであり、 貪り邪な寿命を持たない。 邪な命で長く住んでも、 死んで苦しみの趣きに堕ちる。
たとえば夢の中で、 百年の間楽しみを受けるように、 本当に楽しみを得たと思っても、 覚めたらそれは一時的なものだと知る。
あの時の無常に譬えられる、 寿命の延び縮みを、 この二つの事柄を覚れば、 どうして楽しみを得られるだろうか?
長く歓楽に住んでいると、 多くの利益を得たと思い込むが、 旅人が強盗に遭うように、 裸形でまた空手である。
福利は過ちに従って減り、 罪の根はまた生じる。 福が尽きて罪が生じなければ、 怒らない利益を得るためである。
彼らは何のために生きるのか、 一途に不善を行い、 このように思惟しなければ、 善を破壊しないことはない。
怒りを称賛してはならない、 有情を破壊するからである。 このように心が他者を利するならば、 その怒りは生じる理由がない。
その修行する人のために、 耐え忍べないゆえに、 その煩悩が生じるのを見て、 忍耐の功徳を称賛する。
塔や像や妙法などに対して、 謗りや破壊があっても、 仏などは苦しみがないのに、 私はそれに対して怒らない。
師や眷属に対して、 愛着の業を行わず、 今は過去の生の因によって、 それを見て自らを励ます。
覚めた心で有情を観じ、 常に多くの苦しみの中にいるのを見て、 彼らがこのようであると見れば、 苦しみに耐え忍ぶことができる。
怒りと愚かさは、 分別の過ちは同じである。 この毒の過ちに対して、 どうして過ちがないと言えるだろうか?
どうして過去において、 他者を害する業を行ったのか、 このような業の因を、 間断なく行うことは何をなすのか?
仏の福と同じように、 私は今一心に行い、 すべての有情とともに、 慈しみの心で互いに見守る。
火が家を焼くように、 家の中に火が入れば、 家の中に草があれば、 その火は自ら延び広がる。
このように心に譬え返す、 怒りの火と和合し、 その福の功徳を焼き尽くし、 刹那のうちに何も残さない。
もし人が手に殺生をして、 それを放つことは善く称賛される。 地獄の苦しみを免れるならば、 この善を誰が称賛しないだろうか?
もし人が世間にいて、 少しの苦しみにも耐えられなければ、 地獄の苦しみは無量であるのに、 怒りの因をどうして断たないのか?
私はこのような苦しみで、 百千の地獄を経て、 一つ一つが他者を利するためであり、 自らのために行ったのではない。
私はこのような、 多くの大きな苦しみの事柄がなく、 世間を離れているゆえに、 利他を行うためにこのように行う。
苦しみを離れて楽しみを得れば、 彼らは皆功徳を称賛し、 そのような称賛を得れば、 どうして喜ばないだろうか?
彼らがこのように、 妨げのない楽しみを得るならば、 利他の行いは最も勝れており、 智者はどうして励まないだろうか?
この最も勝れた行いで、 楽しみを得ることを修めなければ、 この見解を捨てなければ、 正しい見解を破壊する。
もし他者を敬愛するならば、 徳によって称賛し、 他者の徳を称賛すれば、 それは自らを敬愛することである。
菩提心を発し、 すべての有情のために、 あらゆる楽しみを得させよう。 どうして有情に対して怒るだろうか?
仏は三界の供養であり、 有情を成仏させたいと願う。 世間の利益は実体がなく、 その煩悩は何をなすだろうか?
もし人の骨肉や、 また諸々の眷属が、 養育し命と同じであるならば、 喜ばずに怒りがどうして生じるだろうか?
その菩提を求めるように、 菩提心を用いるべきであり、 有情を愛さなければ、 福は自ら捨てるのにどうして怒るだろうか?
もし人が何かを求め、 財を大いに捨て施しても、 求めるものが得られなければ、 財が家にある方がましである。
清浄な功徳の福は、 何の障害があって得られないだろうか? 得ても自ら受け取らなければ、 怒りに住して修行するようである。
罪を行い福を行っても、 同じではなく随喜せず、 またそれに依らず、 自らは一つの得るところがない。
もし怨みを抱く者を愛し、 その喜びを求め、 また多くの称賛を求めるならば、 このことは因なくして得られない。
利が円満であることを欲しても、 返って苦しみで楽しみがなく、 菩提心が耐え忍ばなければ、 利は成就しない。
煩悩の悪い鉤が、 人を自在でなく引き寄せ、 地獄の獄卒のように、 人を湯火の中に投げ入れる。
私は本来他者を利することを求めたのに、 どうして虚しい称賛を求める必要があるのか? 福もなく寿命もなく、 力もなく安楽もない。
自利の行いが円満でなければ、 智者は覚めるべきであり、 後々と自ら行い、 愛と楽しみが円満であるべきことを。
修行には称賛が必要であり、 もし刃を持って自殺するならば、 世間の実体のない事柄のように、 益もなく利も楽しみもない。
たとえば破壊された家のように、 日が照らせば内外が見え、 また称賛の非によっても、 心を明らかに用いる必要がある。
あなたは声について思惟し、 起こり滅びることを平等とし、 心がこのように他者を利するならば、 このような行いを行うべきである。
他者から何を受け取って、 利益を行おうとするのか? 彼らが楽しみを得るならば、 私の利益は虚しいものではない。
彼らが楽しみを得るならば、 すべてが私を称賛し、 どうして私に対して、 別の威徳の楽しみがないだろうか?
彼らがこのように私を称賛するのは、 彼らを愛するから自ら得るのであり、 彼らに縁がなければこのようにはならない、 愚かで迷っている者のようである。
この称賛を私は得ても、 速やかに破って執着してはならない。 正しい徳を憎む者は、 これによって怒りを作り出す。
この称賛は障害となり、 私はそれを起こさせず、 悪趣に堕ちないように護り、 彼らのために無我の行いを行う。
もしすべての有情が、 利養や尊卑に縛られていると解れば、 有情を解脱させようとし、 その心はどうして怒るだろうか?
もし人が苦しみを捨てようとし、 解脱の門に入ってくるならば、 これは仏の威徳であり、 どうして私は彼らに対して怒るだろうか?
この怒りは私は行わない、 福の障害となるからである。 平等の忍耐を修行すれば、 彼らは得られないことはない。
自らの諸々の過失は、 忍辱によって行わず、 過失を行わないゆえに、 その福を得る。
もし人に福がなくても、 安らかな忍耐は自ら生じ、 常に安住の忍耐を保てば、 どうして障害があると言えるだろうか?
世間で利益を求める人は、 布施に対して障害を作らず、 出家を妨げるから、 出家を得ることができない。
世間の得難いものを、 求める者に与えることができ、 私はただ善き利益を説き、 過ちからは何も得ない。
その菩提の行いによって、 怨みを抱く者から遠ざかり、 家の中の蔵から出るように、 それゆえ難しくない。
業の因を懺悔し、 それが最初の先導となり、 それゆえ忍耐の果が、 このようにして生じる。
その無我の心こそが、 この心は忍耐に住し、 不思議を成就し、 妙法を供養する。
この心は他者を利するためであり、 寿命をもってさえも、 または怨みを抱く者を供養せず、 どうして別に忍耐を説くだろうか?
その悪い心に対して、 それぞれに忍辱を与え、 このようにして忍耐を得るのは、 妙法を供養する因による。
仏土と衆生の土は、 大牟尼がこれを説き、 それに奉仕することが多ければ、 富貴を感ずることができる。
如来と法と、 有情は平等であり、 仏を尊重するゆえに、 有情も同様に尊重する。
このように意を立てれば、 自らは何も行わず、 その大いなる平等によって、 有情と平等となる。
大いなる意は有情に対して、 慈しみの心で供養し、 仏の福のように心を発すれば、 仏の福を得ることができる。
それゆえ仏法の行いは、 仏と有情は平等であり、 仏は平等でないものはなく、 功徳の海は辺りがない。
仏の功徳は精純であり、 比べられる功徳はない。 三界の供養であっても、 見ることはできない。
仏法などの師は、 最も勝れた有情であり、 すべての有情を供養するならば、 このように意をなすべきである。
自らの眷属に対して、 利他の行いを起こせず、 他者の奉仕に対して、 行わなければ何の過ちがあるだろうか?
身を破壊して無間地獄に入るならば、 もし彼らが行ったことを私も行えば、 広大な心で彼らすべてのために、 このように常に善き事を行わなければならない。
世間の人が自在の主であるように、 自らの事柄が心に適わなければ、 どうして彼らの子となろうとするのか? 私は彼らの奴隷の性質ではない。
仏が苦しみに入っても苦しまず、 楽しみを得ればまた喜ぶように、 すべての仏を喜ばせようとし、 仏の喜びが彼らの