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title: "維摩經略疏 · 見阿閦佛品第十二"
description: "《维摩经略疏》由隋唐时期著名佛教学者吉藏撰写，是对佛教重要经典《维摩诘经》的注释疏解。吉藏是三论宗的集大成者，其著作以精深的义理分析和严密的逻辑体系著称。该书系统阐释了《维摩诘经》中“不二法门”“心净则佛土净”等核心思想，强调在家居士亦可成就菩提，对佛教世俗化发展影响深远。作为中国佛教义学的重要文献，该疏融合中观思想与本土文化，为研究南北朝至隋唐佛教哲学提供了珍贵资料，在汉传佛教史上具有重要地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmcxcwn0z03kbk4046uqc702p"
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### 見阿閦佛品第十二

> 阿閦仏を見る品 第十二

見阿閦佛品第十二。

> 阿閦仏を見る品 第十二。

所以次菩薩行品有此品來者，就文為論，前菩薩行品為彼土說此土法門，今見阿閦佛品為此土現彼國；前為淨土菩薩說穢土法門，今為穢土菩薩現淨土佛事；前品為淨土說穢土法門，亦為穢土，今現淨土為此土，亦得為此土，亦得為淨土，但今正意為穢現彼淨也。又有此品來者，非止近益當時，欲遠彼末葉。何者？今時人皆是佛弟子，竝不識佛，今欲見佛者，若為見佛耶？世間客客之徒言：堂中佛像是佛。又言：丈六千尺為佛。又數人言：有佛。佛有二身：五陰身即有漏，戒定等即無漏；有漏即應身，無漏即法身。雖然，竝是有為，若是有為，何謂見佛？佛非是有為，汝今見有，還是見有，豈得見佛？故論云：邪見深厚者，說言無如來，如來寂滅想，分別有亦非。又成論師有二解：開善應身無常，法身常住；異數人數人，生法皆無常。彼明應身無常，法身常住也。莊嚴云：生身是有，法身非有非無，出二諦外。地論：法界非有非無。中假師以中道為佛。今明如此諸計皆不見佛，汝今見佛是常，乃是見常，何謂見佛？佛若是常，見常見佛；佛非是常，見常那得見佛？常句既然，四句皆爾也。今明如文。觀身實相，觀佛亦然，為是故有此品來也。次釋品名者，前品即從因為名，今品從果受稱。前云菩薩行品，故是因名；今品見阿閦佛品，故是果名也。又前品人法雙舉，此品依正兩題。言前品人法雙舉者，菩薩即人，法即是行；今依正兩題者，佛即是正果，國即是依果也。又前品題即略，今品題即廣。言前品略者，唯有人法、能所二，故略；今品廣者，三字束為兩雙：見即是能見之智，佛國即是所見之境。境智一雙，就境中有二：佛即正果，國即依果。依正一雙，具此二雙，故言廣也。阿閦佛者，此是外言，什、叡等師云無動佛，宗代惠義法師雜心論云無怒佛。然閦字此土所無，翻經者義作此字耳。今見彼佛，從此為名，故云見阿閦佛國品也。

> そこで、この菩薩行品に続いてこの品が説かれる理由を、文に沿って論じれば、前の菩薩行品はかの浄土のためにこの穢土の法門を説き、今の阿閦仏品はこの穢土のためにかの国を現す。前は浄土の菩薩のために穢土の法門を説き、今は穢土の菩薩のために浄土の仏事を現す。前の品は浄土のために穢土の法門を説き、また穢土のためでもあり、今は浄土を現すのはこの土のためであり、またこの土のためにもなり、また浄土のためにもなるが、ただ今の正しい意味は穢土のためにかの浄土を現すのである。また、この品が説かれる理由は、ただ当時の人を近く利益するだけでなく、遠く後の世の人々を利益しようとするからである。なぜか。今の人はみな仏の弟子でありながら、そろって仏を知らない。今、仏を見たいと思うなら、どうすれば仏を見ることができるのか。世間の浅はかな人々は言う。「堂の中の仏像が仏だ」と。また言う。「丈六の姿や一丈の金身が仏だ」と。また数論の人々は言う。「仏がある。仏には二身がある。五陰の身は有漏であり、戒・定などは無漏である。有漏は応身であり、無漏は法身である」と。しかしながら、これらはみな有為である。もし有為であるなら、どうして仏を見るといえるのか。仏は有為ではない。あなたが今、有を見るのは、やはり有を見ているのであって、どうして仏を見ることができようか。ゆえに論に言う。「邪見の深厚な者は、如来は無いと言う。如来は寂滅の想なりと、分別して有とするもまた非なり」と。また成論の師には二つの解釈がある。開善は応身は無常、法身は常住とする。数論の人々は、生も法もみな無常とする。かの師は応身は無常、法身は常住と明かすのである。荘厳は言う。「生身は有であり、法身は非有非無であり、二諦の外に出る」と。地論は「法界は非有非無である」と言う。中仮の師は中道を仏とする。今、明らかにする。このような諸々の計らいはみな仏を見ることはできない。あなたが今、仏を常として見るなら、それはすなわち常を見るのであって、どうして仏を見るといえようか。仏がもし常なら、常を見て仏を見る。仏が常でないなら、常を見てどうして仏を見ることができようか。常の句がそうであるように、四句もみな同じである。今、文に明らかにする。身の実相を観ることは、仏を観るのもまた同じである。このためにこの品が説かれたのである。次に品の名を解釈すれば、前の品は因によって名づけられ、今の品は果によって名づけられる。前に菩薩行品と言うのは、ゆえに因の名である。今の品は見阿閦仏品と言うのは、ゆえに果の名である。また前の品は人と法を挙げ、この品は依と正を題する。前の品が人と法を挙げるとは、菩薩は人であり、法はすなわち行である。今、依と正を題するとは、仏はすなわち正果であり、国はすなわち依果である。また前の品の題は略であり、今の品の題は広である。前の品が略であるとは、ただ人と法、能と所の二つだけであるから略である。今の品が広であるとは、三字を束ねて二つの双となす。見はすなわち能見の智であり、仏国はすなわち所見の境である。境と智の一双であり、境の中に二つがある。仏はすなわち正果であり、国はすなわち依果である。依と正の一双であり、この二つの双を備えているから広と言うのである。阿閦仏とは、これは外国の言葉であり、什や叡などの師は無動仏と言い、宗代の恵義法師は雑心論で無怒仏と言う。しかし閦の字はこの土に無く、経を翻す者が義によってこの字を作ったのである。今、かの仏を見ることは、これによって名づけられる。ゆえに見阿閦仏国品と言うのである。

爾時，世尊問維摩詰：汝欲見如來，為以何等觀如來乎？維摩詰言：如自觀身實相，觀佛亦然。我觀如來，前際不來，後際不去，今則不住；不觀色，不觀色如，不觀色性；不觀受、想、行、識，不觀識如，不觀識性；非四大起，同於虗空，六入無積；眼、耳、鼻、舌、身、心已過，不在三界；三垢已離，順三脫門；具足三明，與無明等；不一相、不異相，不自相、不他相，非無相、非取相，不此岸、不彼岸，不中流而化眾生；觀於寂滅，亦不永滅；不此、不彼，不以此、不以彼；不可以智知，不可以識識；無晦、無明，無名、無相，無強、無弱，非淨、非穢，不在方、不離方，非有為、非無為，無示、無說，不施、不慳，不戒、不犯，不忍、不恚，不進、不怠，不定、不亂，不智、不愚，不誠、不欺，不來、不去，不出、不入，一切言語道斷；非福田、非不福田，非應供養、非不應供養，非取、非捨，非有相、非無相，同真際、等法性；不可稱、不可量，過諸稱量；非大、非小，非見、非聞，非覺、非知，離眾結縛；等諸智、同眾生，於諸法無分別；一切無得、無失，無濁、無惱，無作、無起，無生、無滅，無畏、無憂，無喜、無厭，無已有、無當有、無今有，不可以一切言說分別顯示。世尊，如來身為若此，作如是觀。以斯觀者，名為正觀；若他觀者，名為邪觀。

> そのとき、世尊は維摩詰に問われた。「あなたは如来を見たいと思うか。どのような見方で如来を観るのか。」 維摩詰は答えた。「自分の身体の真実の姿を観るように、仏を観るのも同じです。私が如来を観るに、過去から来ることもなく、未来へ去ることもなく、現在にとどまることもありません。色を観ず、色の真如を観ず、色の本性を観ず、受・想・行・識を観ず、識の真如を観ず、識の本性を観ずません。四大から生じたものではなく、虚空と同じく、六入に積み重なるものがありません。眼・耳・鼻・舌・身・心はすでに超え、三界にありません。三つの汚れをすでに離れ、三つの解脱の門に随い、三明を具え、無明と等しいのです。一つ相でもなく、異なる相でもなく、自分の相でもなく、他の相でもなく、無相でもなく、相を取るのでもなく、此岸でもなく、彼岸でもなく、中流でもなくして衆生を教化します。寂滅を観じながら、永遠に滅するのでもありません。此でもなく彼でもなく、此によってでもなく彼によってでもありません。智によって知ることはできず、識によって識ることはできません。暗くもなく明るくもなく、名もなく相もなく、強くもなく弱くもなく、浄でもなく穢でもなく、方角にあらず方角を離れず、有為でもなく無為でもなく、示すこともなく説くこともなく、施しもなく慳みもなく、戒もなく犯しもなく、忍もなく瞋りもなく、精進もなく怠りもなく、定もなく乱れもなく、智もなく愚もなく、誠もなく欺きもなく、来ることもなく去ることもなく、出ることもなく入ることもなく、一切の言葉の道が断たれています。福田でもなく福田でないのでもなく、供養されるべきでもなく供養されるべきでないのでもなく、取るのでもなく捨てるのでもなく、有相でもなく無相でもなく、真如の際に同じく、法性に等しいのです。称えることもできず、量ることもできず、すべての称量を超えています。大きくもなく小さくもなく、見るのでもなく聞くのでもなく、覚るのでもなく知るのでもなく、もろもろの結縛を離れています。もろもろの智に等しく、衆生と同じく、もろもろの法に分別がありません。すべて得ることもなく失うこともなく、濁りもなく悩みもなく、作ることもなく起こることもなく、生じることもなく滅することもなく、恐れもなく憂いもなく、喜びもなく厭くこともなく、すでに有るものでもなく、まさに有るべきものでもなく、今有るものでもなく、一切の言説によって分別し示すことはできません。世尊、如来の身はこのようであり、このように観じます。この観方をする者を正しい観方と呼び、他の観方をする者を邪な観方と呼びます。」

品開有時為二：第一、方便實；第二、實方便。今開為二：第一、觀佛身；第二、觀阿閦國。就初復為二：第一、觀佛；第二、論沒生。今即第一、觀法身，有通、有別。言通者，明一切眾生無不欲見佛，但不能得見。何者？或色相、音聲言見。故般若云：若以色見我、以音聲求我，不能見如來。何但如此？五句竝不能見。言別者，明淨名要大眾來見佛，言有佛可見、有自能見，佛即是境、見即是智，言佛身勝、自身卑，有此二見非是見佛，是故淨名打破，明觀身實相，觀佛亦然也。涅槃論釋祕密云：眾生身外有佛性非祕密，眾生身內有佛性非祕密，眾生即佛性為祕密也。今觀身實是觀佛，眾生即佛性祕密，何故云觀身即觀佛耶？實未曾二亦未曾一，今言即者，為不即故言即耳。破不即亦不著即，破異不著一，名法忍也。我觀如來前際不來後際不去者，就三世觀，大品明過去為前際，未來為後際，現在為今際。若爾，今云何言前際不來後際不去耶？解云：經有二本，一同大品，此本異大品。同大品可解。人謂如來從未來現在來，現在即過去，過去即去。今文不爾。前際不來後際不去者，人謂如來從未來現在來，現在是有復入過去，過去由有復來現在，現在復往未來去。今責不如此，是故言前際不來後際不去。笠道生作此解也。不觀色如下，前就三世觀，今就五陰界入撿。非四大起者，前就果辨，今約因明也。六入無積者，明眾生六入積聚，如來不積，故言無積也。不在三界，明無三界果三垢也。離無三界因三垢，即三毒也。𰜏三脫門，明與無明不二，如大經所辨耳。不此岸不彼岸不中流者，生死為此，涅槃為彼，八正為中流。有云：檀度為中流也。十智不能知，六識不能識，故言不可以智知，不可以識識也。

> 品を開くには時に二つある。第一に方便すなわち実、第二に実すなわち方便である。今これを二つに開く。第一に仏身を観ること、第二に阿閦国を観ることである。初めについてまた二つに分ける。第一に仏を観ること、第二に没生を論じることである。今まさに第一の法身を観ることに、通と別とがある。通とは、一切の衆生はことごとく仏を見たいと思わない者はないが、ただ見ることができないことを明かす。なぜか。あるいは色相や音声をもって見ると言うからである。それゆえ般若経に云う、色をもって我を見、音声をもって我を求めれば、如来を見ることはできない、と。どうしてこれだけに限ろうか。五句すべて見ることができないのである。別とは、浄名が大衆に仏を見に来ることを求めたことを明かす。仏を見るべきものがあり、自ら見ることができると言い、仏すなわちこれ境であり、見ることはすなわちこれ智であり、仏身は勝れ、自身は卑しいと言う。この二つの見があるのは仏を見ることではない。それゆえ浄名がこれを打破し、身の実相を観ることを明かし、仏を観ることもまた同じであるとするのである。涅槃論が秘密を釈して云う、衆生の身の外に仏性があるのは秘密ではなく、衆生の身の内に仏性があるのも秘密ではなく、衆生すなわち仏性であるのが秘密である、と。今、身を観ることは実にこれ仏を観ることである。衆生すなわち仏性という秘密である。なぜ身を観ることはすなわち仏を観ることだと言うのか。実に未だ曾て二であったこともなく、また曾て一であったこともない。今すなわちと言うのは、即でないがゆえに即と言うだけである。不即を破りまた即に著せず、異を破り一に著せず、これを法忍と名づける。我、如来を観るに前際は来たらず後際は去らずとは、三世について観ることである。大品経は過去を前際とし、未来を後際とし、現在を今際と明かす。もしそうなら、今なぜ前際は来たらず後際は去らずと言うのか。解して云う、経には二本がある。一つは大品経と同じであり、この本は大品経と異なる。大品経と同じならば解することができる。人は如来は未来から現在に来たり、現在すなわち過去であり、過去すなわち去ると言う。今の文はそうではない。前際は来たらず後際は去らずとは、人は如来は未来から現在に来たり、現在は有でありまた過去に入り、過去は有によってまた現在に来たり、現在はまた未来に往き去ると言う。今、そうではないと責める。それゆえ前際は来たらず後際は去らずと言うのである。笠道生がこの解を作ったのである。色を観ずとは以下の如し。前は三世について観じ、今は五陰界入について検討する。四大より起こらずとは、前は果について弁じ、今は因について明かすのである。六入に積なしとは、衆生の六入は積聚するが、如来は積まないことを明かす。ゆえに積なしと言うのである。三界に在らずとは、三界の果である三垢がないことを明かす。三界の因である三垢を離れるとは、すなわち三毒である。三解脱門を離れるとは、無明と不二であることを明かす。大経に弁ずるところの如し。此岸ならず彼岸ならず中流ならずとは、生死を此とし、涅槃を彼とし、八正を中流とする。あるいは云う、檀度を中流とする、と。十智も知ることができず、六識も識ることができない。ゆえに智をもって知るべからず、識をもって識るべからずと言うのである。

爾時，舍利弗問維摩詰：汝於何沒而來生此？維摩詰言：汝所得法有沒生乎？舍利弗言：無沒生也。若諸法無沒生相，云何問言：汝於何沒而來生此？於意云何？譬如幻師幻作男女，寧沒生耶？舍利弗言：無沒生也。汝豈不聞佛說諸法如幻相乎？答曰：如是。若一切法如幻相者，云何問言：汝於何沒而來此生？舍利弗！沒者，為虗誑法敗壞之相；生者，為虗誑法相續之相。菩薩雖沒，不盡善本；雖生，不長諸惡。是時，佛告舍利弗：有國名玅喜，佛號無動，是維摩詰於彼國沒而來生此。舍利弗言：未曾有也！世尊！是人乃能捨清淨土，而來樂此多怒害處。維摩詰語舍利弗：於意云何？日光出時與冥合乎？答曰：不也。日光出時，則無眾冥。維摩詰言：夫日何故行閻浮提？答曰：欲以明照，為之除冥。維摩詰言：菩薩如是，雖生不淨佛土，為化眾生，不與愚闇而共合也，但滅眾生煩惱闇耳！

爾時，舍利弗問下，第二、論沒生。問：何故居士沒生耶？解云：此意只為妄生故也。由身子問，如來答從玅憙世界來。既從玅憙來，大眾即欲見彼土，如來為現也。又問沒生者，前來廣歎淨名德高，即是高德，生處必淨，為是故，今問生處也。上歎淨名德不思議，今歎淨名生處不思議。何者？若從穢而生，穢非不思議；今能捨淨土來此穢，弘於道化，利益眾生，故是不思議也。維摩詰言：如汝所得法，此及質答，明汝會真諦得果，證有沒生；不會真諦得果，尚無果、不果，有何沒生？作此反質，欲類破。何者？汝等少乘尚無沒生，何以我大行有沒生耶？於意云何？譬釋其云：我會真諦無沒生，菩薩會真諦亦無沒生，世諦終見有生，是故舉幻譬明無沒生。上就真諦無沒生，今就世諦無沒生；上就法說撿無生，今就譬說撿無沒生也。是時佛告身子下，此明佛答淨名。上彈聲聞問不成問，今如來為答。淨名所以彈沒生者，為其懷沒生心來問故須彈，大眾應聞得益故佛須答也。又上破無沒生，便謂無沒生墮無生坑中，是故今明菩薩無生沒而生沒。上生沒無生沒，今無生沒生沒也。問：若菩薩有生沒，與凡夫何異？解云：凡夫有生沒生沒，菩薩無生沒生沒。無生生令長歡喜，無滅滅令長戀慕，故異也。又上就真諦說無生沒，今就世諦答有生沒。如大經明流離光來現瑞，佛問：何因緣光明？文殊答：光明即智慧，智慧即常住。佛云：莫入甚深空定，當以世諦而解說之。今亦爾，淨名就真諦說，今就世諦說也。初佛說生處，如文可解。次淨名恐人言菩薩捨淨來穢，故舉日月光出為喻。菩薩同穢，為令穢同不同穢也。

是時，大眾渴仰，欲見玅喜世界無動如來及其菩薩、聲聞之眾。佛知一切眾會所念，告維摩詰言：善男子！為此眾會現玅喜國無動如來及諸菩薩、聲聞之眾，眾皆欲見。於是維摩詰心念：吾當不起於座，接玅喜國鐵圍山川、溪谷江河、大海泉源、須彌諸山，及日月星宿、天龍鬼神、梵天等宮，并諸菩薩、聲聞之眾，城邑聚落、男女大小，乃至無動如來及菩提樹、諸玅蓮華，能於十方作佛事者，三道寶階，從閻浮提至忉利天。以此寶階，諸天來下，悉為禮敬無動如來，聽受經法。閻浮提人亦登其階，上昇忉利，見彼諸天。玅喜世界成就如是無量功德，上至阿迦尼吒天，下至水際，以右手斷取，如陶家輪，入此世界，猶持華鬘示一切眾。作是念已，入於三昧，現神通力，以其右手斷取玅喜世界，置於此土。彼得神通菩薩及聲聞眾并餘天人俱發聲言：唯然，世尊！誰取我去？願見救護。無動佛言：非我所為，是維摩詰神力所作。其餘未得神通者，不覺不知己之所往。玅喜世界雖入此土，而不增減，於是世界亦不迫隘，如本無異。爾時，釋迦牟尼佛告諸大眾：汝等且觀玅喜世界無動如來，其國嚴飾，菩薩行淨，弟子清白。皆曰：唯然，已見。佛言：若菩薩欲得如是清淨佛土，當學無動如來所行之道。現此玅喜國時，娑婆世界十四那由他人發阿耨多羅三藐三菩提心，皆願生於玅喜佛土。釋迦牟尼佛即記之曰：當生彼國。時玅喜世界於此國土所應饒益，其事訖已，還復本處，舉眾皆見。佛告舍利弗：汝見此玅喜世界及無動佛不？唯然，已見。世尊！願使一切眾生得清淨土如無動佛，獲神通力如維摩詰。世尊！我等快得善利，得見是人，親近供養。其諸眾生若今現在、若佛滅後，聞此經者亦得善利，況復聞已，信解、受持、讀誦、解說、如法修行。若有手得是經典者，便為已得法寶之藏；若有讀誦、解釋其義、如說修行，則為諸佛之所護念；其有供養如是人者，當知則為供養於佛；其有書持此經卷者，當知其室即有如來；若聞是經能隨喜者，斯人則為趣一切智；若能信解此經，乃至一四句偈為他說者，當知此人即是受阿耨多羅三藐三菩提記。

爾時大眾下，大𨱚，前第一、觀佛身竟，今第二、歎阿閦佛國。所以歎者，大眾聞應得道故歎也。大眾所以渴仰者，聞佛說淨名從玅喜來，淨名德既不思議，土必精玅，既有美人必有玅土，故欲見。由前三萬二千座悉入室未是不思議，今取彼大眾來入此土，而無鄣妨作三道等事，是大不思議。云何從來言是流通耶？是為大僻也。次明得道，如文。