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title: "大品經義疏 · 十無品第二十五"
description: "大品經義疏由隋唐高僧吉藏撰寫，是對《大品般若經》的重要註釋著作。吉藏是三論宗的創始人，以中觀思想聞名，該疏融合了龍樹中觀學說與中國佛教特色，系統闡釋般若空性思想。內容涵蓋經文逐句解析、名相辨析及修行實踐指導，展現了隋唐佛教義學的嚴密邏輯。作為中國佛教史上關鍵的般若經典疏解，它不僅推動了三論宗的發展，也為後世研究大乘空觀提供了權威依據，在漢傳佛教思想史中佔有重要地位。"
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### 十無品第二十五

> 第二十五章 十種無

從集散品竟。無生品正奉命為菩薩說般若，開三門：初、三脫門說般若；二、稱歎門說般若；三、無生門說般若。北人云：第三是遣相門。復有人云：三脫門是菩薩字空門，從句義已去是菩薩字義門。今第三就無菩薩門說般若，謂無人無菩薩法，謂菩薩字空及菩薩字義門，論有明文更可用也。但第三會無菩薩門，不及無生門說般若，亦不同遣門也。所以有此第三無生門者，為根性不同，自有聞初門悟不須第二，一一悟不須第三，但受悟不同故備三門也。論云：悟故開道是門，不悟則塞非門也。必有次第釋者，上稱歎門既歎釋大人，歎釋大法時眾便言有此大人大法故人法心生，今更淨於人法之心，明求人不可得故人無生，求法不可得故法無生，故名無生門。了人無生始見是大人，了法無生始是大法，故上人法是無生人法，今是人法無生也。

> ここで「集散品」の講説が終わりました。「無生品」では、正式に仏の命を受けて、菩薩のために般若波羅蜜を説かれます。その説法は三つの門に分けられます。第一に「三脱門」によって般若を説き、第二に「称歎門」によって般若を説き、第三に「無生門」によって般若を説く、というものです。 北方の学者は、「第三は『遣相門』（形相を払い除ける門）である」と言います。また、ある人は「三脱門は菩薩という言葉が空であることを示す門であり、その後の句義からは菩薩という言葉の意味が空であることを示す門である」とも言います。今、第三の門では、菩薩という人が存在しないという観点から般若を説きます。すなわち、人としての菩薩も、菩薩という法も存在せず、菩薩という言葉が空であることも、その意味が空であることも示されます。論典には明確な根拠があり、この解釈を用いることができます。 ただ、第三を「無菩薩門」とするよりも、「無生門」として説く方が適切であり、「遣相門」とも異なります。 なぜ第三に「無生門」があるのかというと、人々の根機や性質が異なるからです。ある人は最初の門を聞いて悟りを得て、第二の門を必要としません。また、一つ一つの門で悟る人もいて、必ずしも第三を必要としません。しかし、悟りを得る機縁は人によって異なるため、三つの門を完備しているのです。 論典に「悟れば、それが門となる。悟らなければ、それは門ではない」とあります。必ずしも順序立てて解釈する必要はありませんが、あえて順に解釈すれば、前の称歎門では、すでに大いなる人と大いなる法を称え讚えました。そこで聴衆は「このような大いなる人、大いなる法があるのか」と、人と法に対する執着の心を起こします。そこで今、その人と法に対する心を清め、人を求めても得られないから「人の無生」、法を求めても得られないから「法の無生」と明かします。これが「無生門」の意味です。 人の無生を理解して初めて、それを大いなる人と見ることができます。法の無生を理解して初めて、それを大いなる法とするのです。ですから、前の「人法」とは無生の人が無生の法を持つということであり、今の「人法無生」とは、人も法も本来生じることがないということを示しているのです。

問：上三脫門即是明無人法，人法無生義與今何異？答：般若有無量門，上是三脫門，今是無生門；上開一無生門為三脫，今合三脫門為一無生門。所以始開終合者，樂種種門入，入竟無二，故同一無生也。又上廣門略觀，今略門廣觀。上廣門有三，不開十無，故是廣門略觀；今一無生門開十種觀，故是略門廣觀。問：雖復廣略不同，同是破人法，前已破竟，今何須更破？答：人法病攝一切病，此難淨，前雖破，今須更破也。

> 問：上の三脱門は、すでに人と法のないことを明らかにしています。人も法も生じないという意味は、今の無生門と何が違うのでしょうか。 答：般若には無数の教えの門があります。上の三脱門も、今の無生門もその一つです。先ほどは一つの無生門を開いて三つの脱門としましたが、今は三つの脱門を合わせて一つの無生門としています。初めに分けて最後に合わせるのは、さまざまな門から入ることを喜ぶからです。しかし、入ってしまえば結局は同じであり、同じ一つの無生に帰するのです。また、上の広い門は観察を簡略にし、今の狭い門は観察を広くします。上の広い門は三つあり、十の無を開かないので、広い門でありながら観察は簡略です。今の一つの無生門は十の観察を開くので、狭い門でありながら観察は広いのです。 問：たとえ広い狭いの違いはあっても、どちらも人と法を打ち破るものです。すでに前に打ち破り終えたのに、なぜ今また打ち破る必要があるのでしょうか。 答：人と法という病は、すべての病を含んでいます。この病はなかなか清めがたく、前に打ち破っても、まだ完全には尽きていないので、今また打ち破る必要があるのです。

問：前三脫門破與今無生門破，得論深淺不？答：亦得無深淺，俱是破人法故，亦得論深淺。前一往初開般若故，就三脫門破其昔來封執人法之見。次歎釋無所得大人大法破，便言有此無所得大人大法故。今明無所得人法、未曾人法、人法，皆悉無生也。亦得是因緣相成義，三脫門是無人法。次稱歎門明無人法、人法，今是人法，當知未曾人法亦未曾無人法也。三門圓成一意也。若依知斷者，初品十種求人不可得，破計人之心。次無生品一切不可得，除存法之念。但此二品既云無生門，文相拘涉，開為二無生：第一、明順無生；第二、明真無生。即是順忍、無生忍。地前為順忍，登地生無生忍。文五：忍云云。

> 問：前の三脱門での破と、今の無生門での破には、深浅の違いがあるでしょうか。 答：深浅がないとも言えます。どちらも人と法についての執着を破するからです。また深浅を論じることもできます。前述の方は、初めて般若を開く段階なので、三脱門によって昔からの人や法に対する執着的な見解を破します。次に、無所得の大人や大法を称賛して破するのです。すなわち、「このような無所得の大人や大法が存在する」と言うからです。今は、無所得の人や法を明らかにし、かつ「もともと人や法と言えるものもなく、また人や法ではなく、人や法でもない」とします。これらはすべて無生なのです。 また、これは因縁によって互いに成り立つ関係とも言えます。三脱門は「人や法なし」ということであり、次に称賛する門は「人や法なし」と「人や法あり」の両方を明らかにします。今ここで言う「人や法」は、「もともと人や法と言えるものもなく、また人や法がないわけでもない」ということを知るべきなのです。三つの門は一つの意図に帰結します。 もし知と断に基づいて解釈するならば、初めの品では十種の方法で人を求めて得られないことを明かし、人に対する執着の心を破します。次に無生品ではすべてが得られないことを明かし、法に対する思いを除きます。ただ、この二つの品はすでに無生門と説かれているので、文の上では重なるところがあります。そこで二つの無生に分けます。第一に順無生を明かし、第二に真無生を明かすのです。すなわち順忍と無生忍です。地前は順忍であり、登地して無生忍が生じます。文は五つに分かれます<note>云云</note>。

初明順無生中為二：第一正十種觀求人不可得故人無生，第二明行此十觀得利益也。初三：一標十觀，二身子一一問，三善吉一一答。

> 最初に、無生に順じることを明かす中で、二つの部分がある。第一に、十種の観を正しく示し、人を求めることができないから、人に無生があると説く。第二に、この十観を行うことで利益を得ることを明かす。最初の部分は三つに分かれる。一つ目は十観を示すこと、二つ目は舎利弗が一つ一つ問うこと、三つ目は須菩提が一つ一つ答えることである。

十無者：一、明無三世故無菩薩，不出三世中有故。今明當無三世，豈有三中菩薩耶？色無邊下，第二、無離陰菩薩。五陰尚無，豈有離陰外有菩薩？言色無邊者，求其邊表念不可得，無邊是空，空異名色是菩薩。第三、明即陰菩薩。五陰尚無，既即陰是菩薩。一切處下，第四、遍撿無菩薩。一切種者，一切觀門、一切處、一切境也。此中無即離乃至五句皆無菩薩，至此露無菩薩，故下句言無所教也。世尊！菩薩但有字下，第五、但有名字故無菩薩。上四無既無菩薩體，今明但有菩薩名，即名無所有也。此之五無正明無人也。如說我下，第六、舉我無例無法。上我無已類法無未，故將我例法。此中三句：初句、舉我無。如我計法亦爾，第二句、例法無。何等色下，三句、出法無，正約五陰無生也。此句是責出五陰無生。若不生不名色下，第七、明法體不出者，亦非無菩薩。五無明人法無生，次一無明法無生。或者云：不體悟人法不生是凡夫，體悟人法不生故名菩薩。故今明五陰畢竟無生。復五陰無生無智分別，云何有云菩薩耶？若畢竟不生法，當教般若。此第八無明無生亦無菩薩。曰：謂體不生人是菩薩，則人是能體，無生是得體，人則異。無生可非菩薩，得人即是無生，故應有菩薩。第八云則無生亦無菩薩，若則無生是菩薩，云何還以無生教無生，以般若教般若也？第九無生亦無菩薩，如如常云世中有菩薩，故今明出無生外無復有物，誰離無生耶？第十是悟解無生故無菩薩，若生故無菩薩，若有菩薩應生怖畏，竟無誰生怖畏耶？

爾時舍利弗下，身子一一問論二意生起：一者、善吉德劣菩薩，今於佛前說深般若，新學菩薩或生疑，佛上將順其意，故云汝說大乘與般若相順也，故身子一一問之。二者、佛與善吉終一經共說般若，身子一一諮問，使解釋文理分明，令眾命我信也。

第三、善吉答十問，即十釋。初為二：第一、略明生、法二空故無三世，三世無生無故無菩薩，亦廣明生、法二空無三世，三世無故無菩薩；三、結。初二、前明眾生空；次法空；三、總釋生、法二空故無菩薩也。應明無菩薩，何故無眾生？答：二義：一者、況汝計有菩薩，猶如外道計有眾生，眾生既無菩薩亦無；二者、眾生是菩薩異名，未得道名凡夫，得空淺無慈悲名，聲聞得空深小有慈悲名，緣覺得空轉深有慈悲故名菩薩，遂義不同有異名也。如一家眼見色名見者，言一知名知者，受苦樂也。色無故，第二、空故無菩薩。問：法有不可得故無菩薩，今法空，空何故非菩薩？答：空中無有物，何菩薩故？若空若有皆無菩薩。何以故？第三、總釋二空無菩薩。

檀波羅蜜下，第二、廣明生法二空故無菩薩。若總望前後文，前明眾生空及五陰法空，此是世間空，今六度等是出世，出是所觀境，此境故名菩薩。既無所觀境，豈有菩薩耶？若別就後文者，行六度等論故名菩薩。既無六度等法，何所行故名菩薩？下明聲聞、辟支佛人既空，菩薩人亦空，即生也。

色無邊下，答第二離論無菩薩，一二皆三，謂無、釋無、結無也。色無邊有四種釋：一云無處不有色，如四大遍一切處，故是無邊也。第二明求色始不可得，如生死始不可得，既無始亦無終及中間也。三公色名色相，求色相不可得，故云無邊也。第四求色不可得，色則如虗空，虗空無所有故無邊，色亦無所有亦無邊也。

答：第四、即陰求菩薩不可得。此中然生、法二空釋，眾生空故，無即陰菩薩；諸法空故，無即陰菩薩也。答：第四、遍撿無，謂一切種處。一切處，即上第一、明時無，第二、明五陰無也。今歷一切法，謂界、入、萬行、萬德、生死、涅槃，一切法中無菩薩也。一切種者，謂十八界空觀、三脫門觀、常無常、一實觀，求菩薩不可得，此是橫論也。若空論者，上求即離無，今亦即亦離，乃至五句。如即離五句，假實常無常，一切五句亦爾也。經云：明明中不可得，眼耳中不可得者，論云：是自他門也。眼中求不可得，謂自中覓自也。耳中無眼，是他中無自，亦他中無他，自中無他也。耳眼即是一切處，自他求不可得，即是一切種也。

答：第五無但假名字，望前四無無菩薩體，今第五無菩薩字。然體既無即無名，故經云名名相空也。

答第六無三，何三句次第釋也。釋初句如文。如舍利弗言諸法亦如有無自性下，釋第二句。此中三句：第一句明一切法屬因緣，無自性故諸法空也。復次一切法無常亦不下，第二、明破斷常，明不斷常。諸法無常故破常見，亦不失故破斷見也。復次一切法非常非滅性自爾，此第三、破一切法斷常。先破有為法斷常，今具破一切斷常，似由來云前是相續假中道不斷不常，今明二諦中道故不斷不常也。又前直云不斷不常，今云性自爾，非破斷常，明不斷常本性自爾也。此本性爾遠貫上六無六，無明無人法始圓，故方云性自爾也。如舍利弗言何因緣故色畢竟不生下，答第三句也。

何因緣故畢竟不生不名色者下，答第七無明體悟無，無者無故無菩薩也。答下如文，不須樂也。

白佛：如是觀諸法下，此第二、明得益，為五：一、明五觀益；二、明無生滅觀，釋上五觀；三、明無二觀，總釋與觀；第四、明三種大義益五，有三問答，料簡上無生滅觀義也。今是初如是觀諸法者，如上十觀也。不受色者，以色有無常火燒心故不受不樂，無常是初觀，今是究竟觀也。色非常非無常畢竟空，不取色相故名不樂，樂者取相樂常無常男女等也。不住不著者，釋上二觀，所以觀色空者，以不住色故，住色則煩惱賊來，故不住也。不著者，釋不住此色，若有一罪可住，說有無量罪，謂身有飢渴寒熱，心有老病死等，心有重愁怖畏三毒八萬四千塵勞門，後在三塗苦故，今在後世身心具有無常苦無無我等，故不著也。前亦是正觀，後二釋上觀之所以也。不言是色者，此是得正說益，上自行今化他，上聖嘿然今聖說，此既即如說行如行說也。

復次世尊下，第二、明得無生無滅觀，釋上五觀。所以作五觀者，良由悟諸法無生無滅所見，所以不受不樂不住不著不言是色也。明凡夫二乘不行般若不作十無五觀故，自見彼所見，不見佛菩薩所見也。今菩薩行般若作十無五觀故，不見凡夫二乘所見、見佛菩薩所見，豈言凡聖共行假實境耶？此中二：初、舉不住釋不見；次、舉不滅釋不生，亦釋不見也。何以故？不生法非一非非三非異，從非四乃至為千皆是修異，不可得具言云非異也。更釋不生義也。世尊色不滅相下，第二、舉不滅釋不生，亦轉釋上不見，釋五觀十無也。

次是故色入無二法數，第三明不二觀。此求諸觀，此滿不二。凡夫聞名取相，聞十無便作無解，未聞十無便作有解，聞無生滅便作無解，亦聞有生滅便作有解，故今明如此有無畢竟不可得，未曾有無亦未曾生滅無生滅，悉滿不二也。