No. 338-A廣本淨名經疏序
**序**
《淨名經文疏》二十八卷,曩時比睿大眾惠順等有欲梓行之志,請言於余。余比歲善病,故許而未果。嗚呼!維摩大士,因疾起教;余則病而損志,何相左之如是耶!乃慚愧自責,三拜,秉毫云:顧夫 智者大師弘法三十年,樂說縱辯,率賴門人結集,得以傳于後代;獨此書也,為晉王親著章句。其申釋四教,深切著明,無復餘蘊,後人尊信莫過焉。但恨毗陵刪裁後,原文寥寥,若存若亡。宋時台教入藏,不幸見遺,人間罕傳,逮胡元,終爾亡失。靈峰旭師〈復張中柱書〉有言:「《維摩疏》久錮海東,儻仗鼎力,復照此地,乃千古奇事,日夜祝之。」吁以中華之文獻也,逸而不傳,覓而不獲,豈大法之東漸,彼涸此溢,理有不可奈何者耶!然《寧樂古藏》僅存一部,若非梓而廣之,雖存而與亡同也。況彼文獻之邦,為宗匠者,百方求覓,珠不復還,而幸存乎!我乃韞櫃掩光,彼其謂我:「何今惠順等勇於為義,其志可不嘉乎!」余雖無似,務在扶宗,亦將植德本而行饒益。此書一出,人滋尊信,依教以修,則庶幾乎。不二之門大啟,而眾生之病有愈矣,遂書與之。
『維摩経文疏』全二十八巻。以前、比叡山の僧・恵順らがこれを版行したいと望み、私に言葉を請うた。私はこの数年病がちで、承諾しながらも果たせずにいた。ああ、維摩居士は病によって教えを起こされたのに、私は病によって志を損なってしまった。なんとこのように相違していることか。そこで慚愧して自らを責め、三拝して筆を執った。
思うに、智者大師は三十年の間、法を弘め、縦横無尽に説法されたが、その多くは弟子たちの結集によって後世に伝えられた。ただこの書のみは、晋王自らが章句を著したものである。その四教の解釈は、深く明確で、余すところがなく、後人の尊信するところ、これに過ぎるものはない。ただ残念なことに、毗陵が刪裁した後、原文はわずかとなり、存するとも亡びたとも判然としない。宋の時代、天台教学の経典が蔵経に収められたが、不幸にもこの書は漏れてしまい、世にほとんど伝わらず、元の時代に至ってついに失われてしまった。
霊峰の旭師が「張中柱に答える書」の中で述べている。「『維摩疏』は長く海東に閉ざされている。もしもその大力によって、再びこの地を照らすことができれば、それは千古の奇事であり、日夜これを祈っている。」ああ、中華の文献でありながら、失われて伝わらず、捜しても得られない。これは、大法が東に流れるにつれ、あちらが枯れ、こちらに溢れるという、どうにもならない道理であろうか。
しかしながら、寧楽古蔵にはただ一部だけが残っている。もし版行して広めなければ、あると言っても、無いのと同じである。ましてや、かの地の文献の珠玉は、宗匠たちが様々な方法で探し求めても、再び戻ってこないのである。それが幸いにも、わが国に残っているのだ。私はそれを箱にしまって光を隠している。彼らは私に言うであろう。「今、恵順らが義のために勇んで志を起こした。その志は称賛すべきではないか」と。
私は無力ではあるが、宗門を支えることに務め、また徳の根本を植え、利益を施そうと思う。この書が世に出れば、人々はますます尊び信じ、教えに従って修行するであろう。そうすれば、不二の門は大きく開かれ、衆生の病も癒されるに違いない。そこでこの文章を書き与える。
皇和寶曆十一年辛巳正月准三宮一品公遵親王謹撰
皇和宝暦十一年(1761年)正月、准三宮一品公遵親王が謹んで撰した。