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維摩経文疏 (維摩經文疏)


維摩羅詰經文疏卷第二(從「如是」訖「菴羅樹園」)

維摩経文疏 巻第二

第五明入經文。

5.経文に入ることを明らかにする

今釋通別序者,即為二意:一,釋通序「如是」等六義;二,釋別序,如「現瑞」。

まず、「通別序」の解説に入る前に、大きく二つの意味に分けられます。 第一に、通序における「如是」などの六つの要素を解説します。 第二に、別序における「瑞相が現れる」などの部分を解説します。

先釋通序六義者,六義通為眾經之序,復須為兩義分別:一,總釋;二,別釋。

まず、通序の六つの意味について説明します。この六つの意味は、すべての経典の序分として共通するものです。さらに、これを二つの観点から分けて解説する必要があります。第一に、全体としての説明。第二に、個別の説明です。

一、總釋。「如是我聞」者,是佛教阿難等諸大弟子說入佛法相,《大智論》云:「佛將入涅槃,阿難親屬,愛結未除,心沒憂海。阿泥樓駄語阿難言:『汝是守護佛法人,若於未來事有疑者,及時諮決,何為在憂海,如世凡人?』阿難得念道力,悶心得醒,即以四事請問:一、佛涅槃後,我等云何修道?二、問誰當作師?三、問惡口車匿,云何共住?四、問佛經初首,作何等語?告阿難:『若今現在,若去世後,依四念處修道。解脫戒經是汝大師,身業、口業,應如是行。惡口車匿,依梵法治,若其心輭,復教《那陀迦旃延經》,即得入道。是我三大阿僧祇劫所集法寶藏,是初應作是說:「如是我聞,一時佛在某方、某國土、某處所樹林中……」非獨我法初安「如是」語,過去、未來、現在諸佛,經初首亦安是語。』」知「如是我聞」六義,即是通序,一切眾經悉安初首。此之義,亦名遺囑序,如來遺言所囑,以此標經首也;亦名經前序,三世諸佛經前,皆須安此語也。

一、全体の解説。「如是我聞」とは、仏が阿難などの大弟子たちに、仏法に入るための形式を教えたものです。『大智度論』にはこうあります。「仏が涅槃に入ろうとされた時、阿難は親族への愛着の結び目がまだ解けず、心は憂いの海に沈んでいた。そこで阿泥樓駄が阿難に言った。『あなたは仏法を守る者です。もし未来のことに疑問があれば、今のうちに決断を仰ぎなさい。なぜ世の凡人のように憂いに沈んでいるのですか?』阿難は悟りの力を得て、心の闇から覚め、四つのことを質問した。第一に、仏が涅槃に入られた後、私たちはどのように修行すべきか。第二に、誰を師とすべきか。第三に、悪口を言う車匿とどのように共に住むべきか。第四に、仏の教えの経典の冒頭には、どのような言葉を置くべきか。仏は阿難に告げられた。『私が今ここにいようと、世を去った後も、四念処に基づき修行しなさい。解脱戒経があなたたちの大師である。身体の行いと言葉の行いは、そのように行いなさい。悪口を言う車匿に対しては、梵天の法に従って対処しなさい。もし彼の心が柔らかくなったなら、さらに『那陀迦旃延経』を教えなさい。そうすれば、彼は道に入ることができるだろう。これらは私が三阿僧祇劫の長い年月をかけて集めた法の宝庫であり、その冒頭には『如是我聞』と記すべきである。すなわち『私はこのように聞いた。ある時、仏は某所、某国、某の林の中におられた…』と。私の教えだけが冒頭に『如是』という言葉を置くのではない。過去・未来・現在のすべての仏も、経典の冒頭にこの言葉を置くのである。』」これにより、「如是我聞」には六つの意味があることが分かる。これは通序と呼ばれ、すべての経典の冒頭に置かれる。この形式は遺嘱序とも呼ばれ、如来の遺言として経典の冒頭に掲げられたものである。また、経前序とも呼ばれ、三世の諸仏の経典の前には、必ずこの言葉が置かれるのである。

問:何故經初安「如是」等語?惡口車匿,教梵法治?比丘依波羅提木叉住?佛法無量,皆得入道,何故但令修四念處也?

問:経の初めに「如是我聞」などの言葉を置くのはなぜですか。 悪口を言う車匿(しゃのく)には、梵天の行いによる処置を教えるのですか。 比丘は波羅提木叉(はらだいもくしゃ)に従って住むのですか。 仏法は無量で、すべてが悟りの道に入ることができるのに、なぜただ四念処を修めるよう説くのですか。

答曰:

お答えしますと、

經安「如是」等語者,為斷疑勸信故,亦為印定佛說,非弟子及十六種所說故,亦為成行人深信故,亦為破外人經初以「阿」、「漚」二字標其教首故。阿、漚者,是謂吉相,邪僻之過,事如《百論》之所具破。為如是等種種因緣,佛教之初,安「如是」六義也。

経文の冒頭に「如是我聞」などの語を置くのは、疑問を断ち、信仰を勧めるためであり、また仏の教えであると確定し、弟子や十六種の者たちの説ではないと示すためであり、また修行者に深い信を起こさせるためであり、さらに外道が経典の初めに「阿」「漚」の二字を立てて教えの冒頭とした誤りを打ち破るためでもあるのです。「阿」「漚」とは吉祥の相とされてきましたが、その邪な間違いについては『百論』に詳しく破されています。このような様々な理由から、仏教においては経典の初めに「如是」という六つの義を置くのです。

「惡口車匿,教梵法治」者,車匿自恃王種出家,佛在世時,輕諸比丘,不遵眾法,僧法事時,輕笑言:「如似落葉旋風所吹,聚在一處,何所平論?」佛去世後,猶自不改,佛令作梵壇擯,謂黜擯也。亦云「梵壇法治」者,梵天治罪法,別立一壇,其剋犯法者,令入此壇,諸梵不得共語。「若心調伏,為說《那陀迦旃延經》」者,令離有、無,中道為說,即入初果也。一家明三藏教立非有非無門,異於三門,意在此也。

「悪口車匿を梵天の法で治める」とはこういう意味である。車匿は自らが王族の出身で出家したことを恃みに、仏在世の時には諸々の比丘を軽んじ、僧の定めに従わなかった。僧の法事の際には嘲笑して言うには「まるで落ち葉が旋風に吹かれて一か所に集まっているようなものだ。何を議論するに値しようか」と。仏が亡くなられた後もなお改めなかったため、仏は彼に梵壇による追放を命じられた。つまり罷免・追放のことである。また「梵壇の法で治める」とも言う。梵天が罪を治める法であり、別に一つの壇を設け、もし法を犯す者がいれば、この壇に入らせ、諸々の梵天はその者と話をしてはならなかった。「もし心が調い伏したならば、『那陀迦旃延経』を説く」とは、有と無を離れ、中道を説くことであり、これにより初果に入るのである。ある一派は三蔵教に非有非無の門を立て、他の三門とは異なるが、その意図はここにある。

「教諸比丘,依波羅提木叉住」者,波羅提木叉,此翻保解脫,亦云報解脫,亦云處處解脫也。

比丘たちに教えて「波羅提木叉に依って生きなさい」とは、波羅提木叉は、この言葉を訳せば「保解脱」といい、また「報解脱」、また「処処解脱」ともいいます。

問曰:毗尼明時食、時衣等,多非正義,那得云保解脫?

問うていわく、毘尼(律)において明かすところの「時食」「時衣」などの教えは、正しい真理ではないことが多い。それなのに、どうしてそれが解脱を保証すると言えるのか。

答曰:《大智論》云「佛說毗尼,為令佛法久住,不應求實」。求實,即生邪見也。今時僧眾不以戒律在心者,恐佛法不得久住也。

答え:『大智度論』にはこう述べられています。「仏が戒律を説かれたのは、仏法を長く世に留めさせるためであり、その真実の意味を探し求めてはならない」と。もし真実を探し求めれば、誤った見解が生じるのです。現代の僧侶たちが戒律を心に留めていないなら、おそらく仏法は長く続かないでしょう。

如所問言:佛道入道,教門無量,何得但令依念處修道也?

ご質問の通り、仏道に入るための教えの門は無数にあります。なぜ、ただ「念処」に依って道を修めるようおっしゃるのでしょうか?

答曰:若離四念處布施,但得大富;持戒,得生人天;頭陀淨、戒淨,行坐得定,隨禪生梵天,多聞說法,但是世智辯聰,後生還得聰明果報也。若與念處相應,即能破四倒,以無瞋心修諸善法,無非道也。

答え:四念処(四つの気づき)を離れて行う布施は、ただ大きな富を得るだけです。戒律を守っても、人間や天界に生まれ変わるだけです。頭陀行や清らかな戒律によって、歩行や座禅で心が定まり、禅定に従って梵天に生まれ変わります。また、多くの経典を聞き説法を行っても、それはただの世俗的な知恵や弁舌の才能であり、来世で再び聡明な才能という報いを得るに過ぎません。

しかし、もし四念処と調和していれば、四つの倒錯した見解を打ち破ることができます。怒りの心なくあらゆる善い行いを積めば、それが仏道でないものはありません。

問曰:聲聞經說「必須依四念處修道」,摩訶衍教「觀無生入道」,豈須四念處有所得觀耶?

問い:声聞経典には「四念処に依って修道しなければならない」と説き、大乗の教えでは「無生を観じて道に入る」とあります。それならば、四念処のような「有所得」の観法は必要なのでしょうか?

答曰:大乘有無生四念處,何處別有摩訶衍無生正觀入道也!但佛教雖復無量,不出半、滿,聲聞經說生滅四念處,即是半字;摩訶衍說無生、無量、無作三種念處,即是滿字。半字即是四枯,滿字即是四榮。如此枯、榮雙樹間,得見佛性,住大涅槃,名諸佛法界。當知,出念處外,更有何大、小乘入道之勝法也!故佛遺囑,令諸弟子依四念處修道也。

答え:大乗には無生の四念処があり、どこに別に摩訶衍の無生正観が入道する道があるというのでしょう。ただ、仏教は数えきれないほどあっても、半字と満字から出るものではありません。声聞経では生滅の四念処を説き、これが半字です。摩訶衍では無生・無量・無作の三種の念処を説き、これが満字です。半字は四枯、満字は四栄です。この枯れと栄えの双樹の間にあって、仏性を見ることができ、大涅槃に安住することを、諸仏の法界といいます。知るべきです、念処を離れて、他に何か大乗・小乗の入道における勝れた方法があるでしょうか。ですから仏は遺嘱して、諸弟子に四念処によって道を修行するようおっしゃったのです。

第二別釋通序。「如是」等六義,舊解多用五義,今用六義。「六義」者,第一,如是;第二,我聞;第三,一時;第四,佛住;第五,方所;第六,同聞。「如是」者,勸信之端也;「我聞」者,是親承音也;「一時」者,感教之時也;「佛」者,的出化主也;方所者,聞經之處也;同聞者,證非已謬傳也。此六義相次者,正為㢡成佛去世後,見聞之徒息疑增信,自利利人,功成道就也。「如是」,謂勸信之端者,「如是」意在勸信,而「六義」皆為勸信,「如是」居初,故云勸信之端也。

第二に「通序」を別に解釈する。「如是」などの六つの要素については、古い解釈では五つの要素を用いることが多かったが、今は六つの要素を用いる。「六つの要素」とは、第一に「如是」、第二に「我聞」、第三に「一時」、第四に「仏住」、第五に「方所」、第六に「同聞」である。「如是」とは信仰を促すきっかけであり、「我聞」とは直接教えを聞いたことを示し、「一時」とは教えが説かれた時であり、「仏」とは教えを説かれた主を明確に示し、「方所」とは経を聞いた場所であり、「同聞」とは自分だけの誤った伝えでないことを証するものである。これらの六つの要素が順序立てられているのは、まさに仏がこの世を去られた後、見聞きする人々の疑いを静め、信仰を高め、自らの利益となり他人を利益し、功績を成し遂げ悟りに至るためである。「如是」が信仰を促すきっかけと言われるのは、「如是」の目的が信仰を促すことにあり、六つの要素すべてが信仰を促すためであるが、「如是」が最初にあるので、信仰を促すきっかけと言われるのである。

如是

このように。

案此即為三意:

三つの心のあり方について示します。

一、總明「如是」意在勸信者,如來如法相解,如法相說,所說誠諦,必可信從也。《大智論》云「佛法大海,信為能入,智為能度」,「如是」者即是信相。又,「如是」是善信之辭,不信者,言「是事不如」;是信者,言「是事如」。是有信之人,入佛法能得四沙門果;其無信者,雖復出家剪落著染衣,讀種種經,能難能答,於佛法中空無無所獲。又,《大智論》云「如是者,示人無諍之法」,佛以無猗心說,弟子以無著心受,故能得解脫,故言如是。非如外道說者以執見心說,聽者以取著心受,現世鬪諍,死入地獄,豈名如是!故《智度論》偈云「自法愛念故,毀呰他人法,雖持戒行人,不脫地獄苦」也。又,古來法師多云「如是者,文如理是」,文以巧詮為如,理以無非曰是也。

一、「如是」ということばの意味を明らかにすることは、信心を勧めるためです。如来は法のままに解し、法のままに説かれます。その説かれることは真実であり、誠実ですから、必ず信じて従うべきものです。

『大智度論』には「仏法の大海は、信をもって入ることができ、智をもって渡ることができる」とあります。「如是」とは、すなわち信の相です。また、「如是」は善い信心のことばです。信じない者は「この事は如(しか)らず」と言い、信じる者は「この事は如(しか)り」と言います。この信心ある人は、仏法に入って四沙門果を得ることができます。信心のない人は、たとえ出家して髪を剃り、染めの衣をまとい、様々な経典を読み、よく論議し、よく答えることができても、仏法の中では空しく、何も得ることがありません。

さらに、『大智度論』には「如是とは、人に諍いのない法を示すものである」とあります。仏は執着の心なく説き、弟子は執着の心なく受け取るので、解脱を得ることができます。だから「如是」というのです。外道のように、説く者は執見の心で説き、聞く者は取著の心で受け取るのとは異なります。現世で争い、死んで地獄に入るようなことを、どうして「如是」と言えましょうか。

そこで、『智度論』の偈に「自らの法を愛念するがゆえに、他人の法を毀り謗る。戒を持ち修行する人であっても、地獄の苦しみから逃れられない」とあります。

また、昔からの法師たちは多く「如是とは、文は如であり、理は是である。文は巧みに詮ずることを如といい、理は非がないことを是という」と説いています。

第二約教明如是者,今明四不可說赴機而有四教。約四教,即有四種如是也:一,因緣生滅如是;二,因緣即空如是;三,因緣假名如是;四,因緣即中如是。

第二に、教えに基づいて「如是(にょぜ)」を明らかにします。ここでは、四種の不可説の理が、機に応じて四つの教えとなると述べます。この四つの教えに従えば、四種の「如是」があるのです。第一に、因縁によって生滅するという如是。第二に、因縁はそのまま空であるという如是。第三に、因縁は仮の名であるという如是。第四に、因縁はそのまま中道であるという如是です。

一、因緣生滅如是者,佛昔於波羅奈說五陰生滅,俱隣等聞如是之說,即得悟道。此經復土,求聲聞人知有為法無常,得羅漢果,及得法眼淨,是為不空;出家著染衣,能得四沙門果也。

一、因縁によって生じ滅するものは、このようなものである。かつて仏がバラナシー(波羅奈)で五蘊の生滅について説かれた時、コンダンニャ(倶隣)らはこの教えを聞いて、即座に悟りを得た。この経を再び世に伝えることで、声聞の道を求める人々は、有為の法が無常であることを知り、阿羅漢の果を得たり、法眼を清らかにしたりする。これは「空ならざる」境地である。また、出家して染め衣をまとう者は、四沙門果を得ることができるのである。

二、明因緣即空如是者,如說《大品》,三乘同見第一義無言說道,斷煩惱。此經破迦旃延明五義,二百比丘聞如是說,心得解脫,即是示人無諍之法也。

第二に、因縁がそのまま空であるという「如是」の意味について説明します。例えば『大品般若経』では、声聞・縁覚・菩薩の三つの乗りが共に第一義の言葉を超えた道を見て、煩悩を断ち切ると説かれています。この経典では、迦旃延の見解を打ち破り、五つの意味を明らかにしました。二百人の比丘がこの教えを聞いて、心に解脱を得ました。これはまさに、人々に無諍の真理を示す教えなのです。

三、因緣假名如是者,如《無量義經》云「《摩訶般若》、《華嚴海空》,宣說菩薩歷劫修行」,此經亦云「以無所受,而受諸受」。若菩薩聞如是說,得道種智,入菩薩位,知眾生根也。

三つ目に、因縁と仮の名前がこのようなものであることについて、『無量義経』には「『摩訶般若』や『華厳海空』は、菩薩が長い時の流れの中で修行を積むことを説いている」とあります。また、この経典では「何も受け取らないという心で、あらゆる感覚を受け入れる」とも説かれています。もし菩薩がこのような教えを聞けば、道への智慧を得て、菩薩の境地に達し、人々の性質を理解することができるのです。

四、因緣中道如是者,如《大品》說「佛以諸法實相故,出現於世;化佛亦以諸法實相故,出現於世」,《法華經》云「諸法實相義,已為汝等說」,此經諸菩薩各說「入不二相門」,若菩薩聞如是說,即見佛性,開佛知見,住不思議解脫也。

四、因縁の中道について述べます。『大品経』に「仏は諸法の実相をもって世に現れ、化仏もまた諸法の実相をもって世に現れる」と説かれています。また『法華経』には「諸法実相の義は、すでにあなたがたに説き終えた」とあります。この経典の中で諸菩薩がそれぞれ「不二の相に入る門」を説かれます。もし菩薩がこのような説き方を聞けば、即座に仏性を見、仏の知見を開き、不可思議な解脱に住することになるのです。

佛法有此四種如是義,故一切眾經之初皆安「如是」。若《華嚴經》頓教,有因緣假名、中道二種如是;若三藏教聲聞經,但有一因緣生滅如是;若諸方等大乘,具有四種如是;若《摩訶般若》,除生滅如是,具有三種如是;《法華經》但因緣中道實相一種如是;若《大涅槃》明諸佛法界,亦具足四種如是。此經猶是方等大乘生蘇、不定之說,具有四種如是,如上所引經文。此經既具四如是,經初標「如是」之言也。

仏法にはこの四種の「如是」の意味がある。そのため、すべての経典の冒頭には「如是」と置かれている。例えば『華厳経』のような頓教には、因縁・仮名・中道の二種の「如是」がある。三蔵教の声聞向け経典には、因縁による生滅の一種の「如是」のみがある。諸々の方等大乗経典には、四種すべての「如是」が備わっている。『摩訶般若経』では、生滅の「如是」を除いた三種の「如是」がある。『法華経』には、因縁・中道・実相による一種の「如是」のみがある。『大涅槃経』では、諸仏の法界を明らかにし、やはり四種の「如是」を備えている。この経典(注:『維摩経』を指す)は、方等大乗の生蘇・不定の教えに該当し、四種の「如是」を備えている。それは先に引用した経文の通りである。この経典が四種の「如是」を備えているからこそ、経の冒頭に「如是」の語が示されているのである。

問曰:理無二是,何得有四如是?

問うて曰く、理は二つとして是とすることはないのに、どうして四種の如是があるのか。

答曰:諸法畢竟不可說,非權非實,尚無一如是,何況有四!而權而實者,權故,說三如是;實故,說一如是,權實備明,則有四如是也。

答えよう。あらゆる現象は、その本質において決して言葉で表現できるものではない。仮のものとも真実のものとも言えず、そもそも一つの「如」さえない。ましてや四つなどあるはずがない。しかし、仮のものとして説くから三つの「如」を説き、真実のものとして説くから一つの「如」を説くのである。仮と真実の両方を明らかにするために、四つの「如」があると説くのだ。

第三觀心明如是義者,即是三觀明四如是也,如前引《華嚴經》云:「欲知如來心,但觀眾生心;若見如來心,即見眾生心。如破一微塵,出三千大千世界經卷也。」眾生一念無明因緣所生之心,即具四種「如是」之理。若觀心因緣生滅生,從假入空,即是生滅如是;若觀心因緣即空,體假入空,即是空真諦如是;若觀心因緣知空非空,入假無滯,即假名如是;若觀心因緣即一實諦佛性,即是中道如是也。是為約觀心,具四種如是義也。

第三に、心を観察して「如是(にょぜ)」の意味を明らかにするということは、三種の観法によって四種の「如是」を明らかにすることである。先に『華厳経』を引いて次のように説いた。「如来の心を知ろうと欲するならば、ただ衆生の心を観察せよ。もし如来の心を見るならば、すなわち衆生の心を見るのである。それはちょうど一つの微細な塵を砕くことで、三千大千世界の経巻が現れ出るようなものである。」衆生の一念の無明の因縁によって生じる心には、すでに四種の「如是」の理が具わっている。もし心が因縁によって生滅するものであると観察し、仮のものから空に入るならば、それは「生滅如是」である。もし心が因縁によって即ち空であると観察し、仮のものを体して空に入るならば、それは「空真諦如是」である。もし心が因縁によって空でありながら空に留まらないと知り、仮の世界に入っても滞ることがないならば、それは「仮名如是」である。もし心が因縁によって即ち一実諦の仏性であると観察するならば、それは「中道如是」である。これにより、心を観察することに約して、四種の「如是」の意味が具わっているのである。

問曰:若觀心即具四如是者,應即是佛、菩薩也?

問う:心を観れば即ち四如是を具すというならば、その心は即ち仏や菩薩であるはずではないでしょうか?

答曰:當用六即分別,進不叨濫,生增上慢退,免貧人數寶無分之失也。

答え:六即(ろくそく)によって区別すべきです。そうすれば、進んでもおごり高ぶることなく、また増上慢(ぞうじょうまん)に陥ることもありません。退いても、貧しい人が宝の数を数えるだけで何も得られないという過ちを免れられるのです。

我聞:

私がこのように聞きました。

此即是阿難等諸弟子親所聞法,故謂我聞。今解亦為三意:一,總釋;二,別約教釋;三,約觀心。

これが阿難などの諸弟子が親しく聞いた法であるから、「我聞」と言うのです。今、これを解釈するにあたり、三つの意味があります。第一に、全体としての解釈。第二に、教えをよりどころとして区別した解釈。第三に、心を観察するという観点からの解釈です。

第一總釋者,阿難親承音旨,故言「我聞」。所以然者,若傳從佗聞,多致偽謬,師心自說何,必定合道理。今既親聞佛說,是則可信,群情承受,無所致疑也。《大智度論》云「隨俗故,說我;和合故,稱聞」,「隨俗故,說我」者,諸無學人,及見道學人,無傳持佛法利益眾生,故順俗說「我」。外宜順俗無諍,內不乖實法,故得傳經利物。譬如用金錢買銅錢,賣買法爾,人無恠也。「和合故,稱聞」者,耳根不壞,聲在可聞處,意欲聞,情、塵和合耳識即生,意識能分別種種所聞,是則和合,故稱「聞」也。阿難等內則耳根聰利,外則對佛八音清辯領納無遺,故稱「我聞」也。

総釈の第一に、阿難(あなん)がみずから仏の教えを親しく受けたので「我聞(われきく)」と言うのである。なぜなら、もし他の人から伝え聞いたものであれば、誤りや偽りが多く生じる可能性がある。自分の考えだけで説くならば、必ずしも道理にかなうとは限らない。今、実際に仏の説法を直接聞いたのであれば、それは信頼できるものであり、多くの人々が受け入れても疑うことはないのである。

『大智度論(だいちどろん)』には「世俗に従うゆえに『我』と言い、和合するゆえに『聞』と称する」と説かれている。「世俗に従うゆえに『我』と言う」とは、阿羅漢(あらかん)などの無学の者や、見道(けんどう)に達した学人(がくにん)であっても、仏法を伝え守り、衆生を利益するためには、世俗に従って「我」と言うのである。外に対しては世俗に従い争いを避け、内には真実の法に背かないので、経典を伝え、人々を利益することができる。例えば、金貨で銅貨を買うようなもので、売買の道理として自然であり、誰も怪しむことはないのである。

「和合するゆえに『聞』と称する」とは、耳の機能(耳根)が正常であり、音声が聞こえる範囲にあり、聴こうとする意志があり、認識の対象(塵)と感覚器官(情)が和合して耳の認識(耳識)が生じ、意識(いしき)が様々に聞いたことを区別できる。これが和合であり、ゆえに「聞」と称するのである。阿難などは、内には耳の機能が鋭く優れており、外には仏の八つの美しい音声を明確に受け止め、少しも漏らさずに領納したので、「我聞」と言うのである。

問曰:《大智論》云「阿難是佛得道夜生」,《涅槃》明「佛成道後,過二十年,阿難方為給使」,自爾之前,佛說經,阿難不聞;如來將入涅槃,阿難為魔所蔽,亦不得聞,云何皆稱「如是我聞」。

問うていわく、『大智度論』には「阿難は仏が悟りを得た夜に生まれた」とあり、『涅槃経』には「仏が成道した後、二十年を経て、阿難がようやく給仕となった」とある。それ以前の間、仏が説いた経を阿難は聴いていない。また如来が涅槃に入ろうとする時、阿難は魔に蔽われてやはり聴けなかった。それなのに、どうしてすべての経に「如是我聞」と記されているのか。

答曰:《大智論》云「阿難將欲結集法藏,合掌向佛涅槃處而說偈言『佛初說法時,爾時我不見,如是展轉聞,乃至波羅奈』」,展轉聞者,解有二意:

答曰:『大智論』にはこう書かれている。阿難が経典をまとめようとした時、合掌して仏の涅槃の場所に向かい、偈を唱えた。「仏が最初に説法した時、私はその場にいなかった。しかし、このように伝え聞いてきた。ついには波羅奈に至るまで」と。この「伝え聞く」ことには、二つの意味がある。

一、《舍利弗問經》云「阿難修不忘禪,得佛覺三昧」,以三昧力,自能尋佛言說,展轉至波羅奈,悉皆聞持,故言「我聞」也。

一、『舎利弗問経』には「阿難は不忘の禅を修し、仏覚の三昧を得た」とある。この三昧の力によって、自ら仏の言葉を尋ね求め、波羅奈(バラナシ)に至るまですべてを聞き保つことができた。それゆえに「我聞く」と説くのである。

二、解云:阿難所未聞經,佛次第為說,乃至波羅奈,故云「我聞」也。何以得知然?阿難本願為佛侍者,聞持佛經,如《賢愚經》所明,阿難宿世本為長者,因施食故,發願為聞持弟子。又,《報恩經》說「阿難從佛求乞四願,三願如《大涅槃》說;第四願者,佛所說經未聞之者,更請為說。佛可其願,有所不聞,重為說也」。阿難所傳,有八億四千萬卷,皆言「我聞」。復次,《大智論》明結集法藏,優波離等各登高座,皆稱「如是我聞」,未必竝是阿難也。

解説します。阿難がまだ聞いたことのない経典について、仏陀は順番に説かれました。その説法は波羅奈(ベナレス)に至るまで続き、そのため「我、聞くところによる」と語られるのです。

なぜそう言えるのでしょうか?阿難は元々、仏陀の侍者になることを願い、仏陀の説かれた教えを聞いて記憶していました。『賢愚経』に明らかなように、阿難は前世では長者であり、食べ物を施した功徳により、教えを聞いて記憶する弟子となる誓いを立てたのです。

また、『報恩経』には次のようにあります。「阿難は仏陀に四つの願いを求めました。そのうち三つは『大涅槃経』に説かれる通りです。第四の願いは、『仏陀が説かれた経典で、まだ聞いたことのないものがあれば、再び説いてください』というものでした。仏陀はその願いを認められ、阿難が聞いたことのない教えを、改めて説かれたのです。」

阿難によって伝えられた教えは八億四千万巻にも及び、そのすべてに「このように私は聞いた」と記されています。

さらに、『大智度論』には、経典の結集の際、優波離(ウパーリ)らがそれぞれ高座にのぼり、「如是我聞」と唱えたことが記されています。これは必ずしも阿難だけに限った事柄ではありません。

問曰:阿難但結集小乘經稱「我聞」,亦結集大乘經稱「我聞」耶?

質問:阿難は小乗経典を結集した時だけ「我聞(このように私は聞きました)」と言い、大乗経典を結集した時にも「我聞」と言ったのでしょうか?

答曰:解者不同。有言「阿難但結集小乘稱『我聞』,諸大乘經是文殊師利、彌勒等諸大菩薩所共結集,稱『我聞』」也。又解言,阿難非但止結集小乘,亦結集共二乘說大乘經,故《大品》付屬阿難;此經亦爾,其不共二乘說者,大菩薩結集也。又云,阿難亦結集不共二乘說大乘經,如《正法念經》云「阿難有三稱:一,阿難賢;阿難持;三,阿難海」。今謂若阿難賢者,聞持三藏教;阿難持者,聞持共二乘,說大乘法;阿難海者,聞持不共二乘,說《大乘經》也。故《法華》云「阿難聞佛授記,即時憶念過去無量千萬億諸佛法藏,如今所聞;亦識本願」,豈不能備持一佛之教也!

問答:解釈はいくつかに分かれます。ある説では「阿難はただ小乗の教えだけを結集して『我聞』と称したが、諸々の大乗経典は文殊師利や弥勒などの大菩薩たちが共に結集し、『我聞』と称した」とあります。また別の解釈では、「阿難は小乗の結集だけでなく、二乗と共に説かれた大乗経典も結集した。だから『大品』は阿難に付嘱されたのであり、この経も同様である。二乗と共に説かれなかったものは大菩薩が結集した」とあります。さらに、「阿難は二乗と共に説かれなかった大乗経典も結集した。例えば『正法念経』に『阿難には三つの呼び名がある。第一は阿難賢、第二は阿難持、第三は阿難海』とある」とも言われます。今、私が考えるに、阿難賢とは三蔵教を聞いて記憶し保持する者、阿難持とは二乗と共に説かれた大乗法を聞いて保持する者、阿難海とは二乗と共に説かれなかった大乗経典を聞いて保持する者を指すのでしょう。したがって、『法華経』に「阿難は仏から授記されるのを聞いて、即座に過去の無量千万億の諸仏の法蔵を、今聞いていることと同様に記憶し、また本来の誓いも認識した」とあるように、どうして一仏の教えすべてを完全に保持できなかったはずがありましょうか!

第二別釋我聞者,即為二意:一,約四教明我;二,約四教明聞。

次に、「我聞(われきく)」という語を別に解釈すると、二つの意味があります。第一に、四つの教え(四教)に基づいて「我」を明らかにすること。第二に、四つの教えに基づいて「聞」を明らかにすることです。

一、約四教明我者,亦有四種不同:

一、四つの教えに基づいて「我(自我)」を明らかにする場合、次の四つの異なる説があります。

一、約三藏教明我者,依薩婆多,五陰實無有我,但有名;若依曇無德說,有假我;犢子所明,我在第五不可說藏。如是等明我雖殊,而悉破外人計神我及性我,說假名等我義也。

一、三蔵教において「我」について説く場合、サバーストゥバ(説一切有部)の立場では、五蘊には実体としての我はなく、単に名称として存在するにすぎないとされる。一方、ダルマグプタカ(曇無徳部)の教えでは、仮の我(世俗的な我)が存在すると説く。さらに、バーツリー(犢子部)は、我を第五の不可説蔵に位置づける。これらの諸説は「我」の解釈において異なるものの、いずれも外道が主張する神我(実体的自我)や自性我(本質的自我)を否定し、仮名としての我(方便的な名称)を説く点で共通している。

二、通教明我者,如《大品經》云:「色性如我性,我性如色性。如我但有字,色亦但有字;我之與色,皆如幻化也。」

二つ目に、通教で「我」を明かすとは、『大品経』に次のようにある通りです。「色の性質は我の性質のようであり、我の性質は色の性質のようです。我にはただ名前があるだけであるように、色にもただ名前があるだけです。我と色は、どちらも幻や幻術のようなものなのです。」

三、別教明我者,但以自在為我義也。善於知見,得無罣礙。無罣礙者,即是自在我義也。又,《攝大乘論》明「自佗差別識,亦名似我識」,即是別教明我義也。

三つ目に、別教が「我」について説く場合、ただ「自在」を我の意味としています。善く知見を得て、何の障りもありません。障りがないこと、それがすなわち自在の我という意味です。また、『摂大乗論』には「自他の差別の識は、また似我識とも名づける」とあり、これが別教における我の教えです。

四、圓教明我者,中道佛性即我義也。《中論》云「佛或時說於我,或時說無我,於佛正法中,無我無非我」,此經云「於我、無我而不二,是真無我義」,《大涅槃經》云「無我法中,說真我義也」,又云「我與無我,其性不二;不二之性,即是實性」。實性者,即是二十五有真我也。

四、円教において「我」を明かすとは、中道の仏性すなわち「我」の意味です。『中論』には「仏は時に我を説き、時に無我を説く。仏の正法の中には、我もなく、無我でもない」とあります。この経典には「我と無我において不二であること、それが真の無我の義である」と説かれています。『大涅槃経』には「無我の法の中で、真の我の義を説く」とあり、また「我と無我は、その本性が不二であり、不二の本性こそが実性である」とされています。この実性こそが、二十五有における真の我なのです。

前三教明我,即是權我。無我法中說真我者,即是圓教明真實我也。隨教辯我,故言「我聞」。

前三の教えで説かれる「我」は、方便としての仮の我です。 「無我」の教えの中で「真の我」を説くのは、円教における真実の我のことです。 こうした教えに従って「我」を説明するからこそ、「我聞く」と説かれているのです。

問曰:若爾,何得《大智論》云「隨俗故說我」也?

問い:その通りなら、どうして『大智度論』は「世俗に従って仮に我と言う」と説くのでしょうか?

答曰:三教明我,皆是隨情,豈非「隨俗故說我」也!圓教明「我即是佛性」,佛性之我即第一義,非隨俗也。三教明我聞,竝約耳根論聞;圓教明我,我即聞,以點色性說,真我離法性,更無別能聞之耳也。用四教約諸經具我多少,類「如是」可知。

答え:三つの教え(三蔵教・通教・別教)が「私」を明かすのは、いずれも衆生の心に従って説いたものです。これこそ「世俗に従って私を説く」ということではありませんか。しかし、円教が明かす「私」とは、すなわち仏性であり、仏性としての「私」こそが第一義の真理であり、世俗に従うものではありません。三つの教えで「私が聞く」という場合、すべて耳根に基づいて聞くことを論じています。しかし、円教で「私」を説く時は、「私」がそのまま聞くことであり、色の本性を指し示して説きます。真の「私」は法性を離れて、別に聞く能力を持つ耳が存在するわけではありません。四つの教えを用いて様々な経典における「私」の有無を分類すれば、「如是(にょぜ)」の場合と同様に理解できるでしょう。

二、約四教明聞義者,如《涅槃經》明聞義自有四種:一,聞聞;二,不聞聞;三,聞不聞;四,不聞不聞。今約此四種聞義,恐是四教辯聞,義不同也。

仏教の教えを四つのカテゴリーで説明すると、『涅槃経』では「聞く」ということに四つの種類があると説かれています。第一に「聞くことを聞く」、第二に「聞かないことを聞く」、第三に「聞くことを聞かない」、第四に「聞かないことを聞かない」です。ここでこの四つの「聞く」の意味に基づくと、それぞれの教えの体系によって「聞く」の解釈が異なるのではないかと考えられます。

三藏教即是聞聞義,以小生,生大生,故名為生生。今亦得云小聞成聞,故名為聞聞。

三蔵教とは「聞いて聞く」という意味です。 小さいものが生まれ、それが大きなものを生むので、「生から生」と呼ばれます。 今はまた、「小さな聞が聞きを成す」とも言えるので、「聞から聞」と名付けられます。

問曰:《大涅槃》明生生即是十二因緣相續不斷,故名生生。今何得用小生生大生類解聞聞義耶?

質問:『大涅槃経』では、「生生」とは十二因縁が絶え間なく続くことを指すと説いています。それなのに、なぜ今、小乗の「生生」と大乗の「生」という分類を用いて「聞聞」の意味を解釈するのですか?

答曰:《大涅槃》釋生,具有兩義,今不取約行明生生,但取約生滅之理明生生義者,若約十二因緣相續以明生生,即於聖人聞經義不便也。所以者何?三藏教諸道人,十二因緣生生義已壞,但有報身八相之根塵和合,故稱聞也。

答えよう。『大涅槃経』では「生」という語に二つの意味がある。ここでは、修行の過程における「生」という解釈は取らず、あくまで生滅の理法に基づく「生」の意味を取る。もし十二因縁の繋がりによって「生」を説明するなら、聖者が経典の教えを聞く際に都合が悪い。なぜなら、声聞・縁覚を教える三蔵教の修行者にとって、十二因縁による「生」の意味はすでに打ち壊されているからだ。彼らには報身の八相における根と境の調和だけが残っており、それを「聞く」と呼ぶのである。

二、通教即是不聞聞,如夢幻之聞,即是點空說聞,名不聞聞也。

通教では、これを「聞かざるを聞く」と説きます。これは夢や幻のような聞き方であり、空(くう)を指し示して聞き方を説くことから、「聞かざるを聞く」と名づけられます。

三、別教即是聞不聞義,於所聞法得自在,名聞不聞。所以者何?世諦死時,即聞聞死,而生聞持陀羅尼,隨有所聞,自在能持也。又,《攝大乘論》說「有塵者,應受識」,即是別教大乘明聞也。

三つ目に、別教とは「聞くことと聞かないこと」の意義を指します。聞いた法に対して自在を得ることを、「聞くことと聞かないこと」と言います。なぜなら、世俗の真理が尽きる時、すなわち「聞いて聞くこと」が尽きる時に、聞き持つ陀羅尼(聞いて記憶する力)が生まれ、聞いたことに応じて自在に保持できるからです。また、『摂大乗論』には「塵があるならば、識がそれを受けるべきである」と説かれていますが、これが別教の大乗における「聞くこと」の明確な教えなのです。

四、圓教即是不聞不聞義,佛性大般涅槃,聞相盡也。

四、円教とは、聞くこともなく、聞かれることもないという意味です。仏性と大般涅槃においては、聞くという相(すがた)が完全に尽きているのです。

問曰:若無聞相,云何說聞?

問う:もし聞くという相がないのなら、どのようにして「聞く」と言えるのですか?

答曰:若聞相盡,都不得聞者,佛住大涅槃,應都不聞一切十方法界音聲也。如《法華經》明耳根功德,初相似聞,盡十方無數佛百福莊嚴相,為眾生說法,悉聞能受持。況法雲得分證真實,聞相盡,聞十方佛法而能如雲持兩耶!妙覺聞相,究竟盡一切法界,所有音聲,一時聞也。故《大涅槃》云「若知如來常不說法,是則名為具足多聞」,此經亦云「其聽法者,無聞無得」。今用四教明聞義,約眾經具聞多少,類前可知。

答えよう:「相が尽きるのを聞く」ということが、まったく聞くことがないということなら、仏が大涅槃に住するときには、十方の法界のあらゆる音声をまったく聞かないことになるはずです。しかし『法華経』には耳根の功徳が明かされており、初めて相似に聞く段階でも、十方の無数の仏が百福荘厳の相を具えて衆生のために説法する声をことごとく聞き、それを保ち受けることができると説かれています。ましてや、法雲地において部分的な証得を得た者が、相の尽きたところを聞き、十方の仏法を聞いて、雲が雨を保つようにそれを保ち受けることについては、なおさら言うまでもありません。妙覚の位における「相を聞く」は、一切の法界を究竟的に尽くし、あらゆる音声を一時に聞くものです。それゆえに『大涅槃経』では「もし如来が常に説法しないことを知るならば、これを具足多聞と名づける」と説かれ、この経(『維摩経』)でも「その法を聴く者には、聞くことも得ることもない」と説かれています。ここでは四教を用いて「聞く」という意味を明らかにし、諸経に照らして聞くことの多少を述べれば、先の類推によって知ることができるでしょう。

問曰:《大智論》明佛法無我,但有名字,順俗無諍。今何得分別四教,明我不同?若爾,便是有我也!

問うていわく、『大智度論』には「仏法は無我である。ただ名目があるだけで、世俗に従って争わない」と明らかにされています。それなのに、なぜ今、四教を区分して「我」に違いがあると説くのでしょうか。もしそうなら、それは「我」があることになってしまいます。

答曰:若定有我,何得四教分別不同;若定無我,何得經有此異說!若不許作此分別者,非但壞佛方便教門,亦各自壞諸不信者義宗也。若言五陰實無有我但有名者,數人可得作此解;曇無德既有假我,何得用數人「名字我聞」,不用「假我聞」?犢子既云「第五不可說藏有我」,何得不用此「我聞」,而取「名字我問」也!通教學既明幻化我,何得不用「幻化我聞」,而用數人「名字我聞」也!如此互相望,諍論互失也。

答えよう:もし確かに「我」が存在するなら、なぜ四つの教えによって異なる解釈があるのか。もし「我」が全く無いなら、なぜ経典によってこのように異なる説があるのか。もしこのような区別を認めないならば、仏が方便として説いた教えの門を損なうだけでなく、それに反対する者たちの主張も自ら破壊することになる。

もし「五陰には実に我は無く、ただ名称だけがある」と言うならば、数論(説一切有部)の者たちはそのように解釈できる。しかし曇無徳(法蔵部)には仮の我があるのに、なぜ数論の「名称の我をもって聞く」を用いて、仮の我をもって聞くことを用いないのか。犢子部は「第五の不可説蔵には我がある」と言うのに、なぜこの「我をもって聞く」を用いず、数論の「名称の我をもって聞く」を採用するのか。通教の学問も幻化の我を明らかにしているのに、なぜ「幻化の我をもって聞く」を用いず、数論の「名称の我をもって聞く」を用いるのか。

このように互いを見合えば、論争は互いに誤りを生じるのである。

第三約觀心解我聞,三觀分別四教我聞,類如是,細尋可知。

三つ目の「観心」の観点から「我聞」を解釈するならば、三つの観(空・仮・中)によって、四つの教えにおける「我聞」をそれぞれに区別して理解します。このように、細かく探求すれば自然と分かるはずです。

一時

ある時

此即是四眾感教得道之時,此亦助成「如是」之可信也。故《大智論》云:「論時、方,皆為生信。」今釋「一時」,亦為三意:一,總解;二,約教別解;三,約觀心。

これこそが、四つの衆(出家・在家の男女)が教えに触れて悟りを得た時を示しており、「如是我聞」の「如是」が信頼に値することを証明しています。そのため『大智度論』には「経典の説かれた時と場所は、いずれも信を生じさせるためである」とあります。ここで「一時」を解釈するにあたり、三つの意味があります。第一に、総体的な解釈。第二に、教えに基づく個別の解釈。第三に、心の観察に基づく解釈です。

第一總解者,《大智論》云「數、時等實無,陰、持、入所不攝故,但隨世俗說『一時』,無咎」。上標章言「四眾感教得道之時,名一時」者,此約多時、少時,故名一時也。若通論四眾感一期教門始終久近,皆名一時,即是束多時、少時,共明一時也,如〈戒序〉云「春分四月、日」,為時春分實有多時,但總束為一時也。約得道明一時者,赴機說教,聞教即入,如苦忍一剎那,此約少時明一時。今約此多時、少時總明一時,謂總一期說法,通是一時之事也。就此分別,略為五意:一,約眾生機發明一時;二,約佛說教明一時;三,約機教合明一時;四,約得道明一時;五,約阿難聞經明一時。

第一に「総解」について。『大智度論』には「数や時などは実在せず、五陰・十二入・十八界に含まれないため、世俗にしたがって『一時』と説いても差し支えない」とある。上に標章して「四衆が教えを感得して道を得た時を『一時』という」とするのは、多時・少時をまとめて「一時」と呼ぶのである。もし広く論じるならば、四衆が一つの教えの期間を感得する際の始終・久近をすべて「一時」と名づける。すなわち多時・少時を束ねて共に一時を明らかにするのである。例えば『戒序』に「春分四月の日」とあるように、時としての春分には実際多くの時があるが、すべてをまとめて一時とするのである。道を得ることについて「一時」を明らかにするならば、機に応じて教えを説き、教えを聞いて即座に入る。例えば苦法忍の一刹那のように、これは少時について一時を明らかにする。いまここでは多時・少時を総合して一時を明らかにする。すなわち一つの時期の説法を総体として、すべて一時の事とするのである。これを分別して、大まかに五つの意味に分ける。第一に、衆生の機が発することをもって一時を明らかにする。第二に、仏が教えを説くことをもって一時を明らかにする。第三に、機と教えが合することをもって一時を明らかにする。第四に、道を得ることをもって一時を明らかにする。第五に、阿難が経を聞くことをもって一時を明らかにする。

一、機發明一時者,若世善機發時,即是多時;出世善機發,即是少時。總此多、少,皆一時也。

一、機が一時に発するというのは、世間の善の機が発する時は「多時」であり、出世間の善の機が発する時は「少時」である。この多・少を総じて、いずれも「一時」というのである。

二、約佛說教明一時者,方便用三悉檀起教,即是多時;實慧用第一義悉擅起教,即是少時。總此多、少,皆名一時也。

第二に、仏の教えについて「一時」を明かすと、方便の教えは三種の悉檀(世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀)を用いて教えを起こすので、これは多時にあたる。真実の智慧は第一義悉檀を用いて教えを起こすので、これは少時である。この多時と少時の両方を総称して、すべて「一時」と名づけるのである。

三、約教與機合明一時者,權教與世間善根合,即是多時;實教與出世善根合,即是少時。機教合故,不在二時,故名一時也。

三、教えと機根が合わさって一つの時を明らかにするとは、仮の教えが世間の善根と合う場合は、それは長い時を意味します。真実の教えが出世の善根と合う場合は、それは短い時を意味します。機根と教えが合わさるため、この二つの時には当てはまらず、そのため「一時」と名付けられるのです。

四、約四眾得道明一時者,若得世間之道,即是多時;若得出世間之道,即是少時。總此多、少,皆名一時也。

四、修行者たちが悟りを得るという観点から「一時」を説明するならば、世の中の悟りを得る場合は長い時間がかかり、世の中を超えた悟りを得る場合は短い時間で済みます。この長い時間と短い時間の両方を総称して、「一時」と呼ぶのです。

五、約阿難聞經明一時者,佛說經多時、少時,即是阿難聞經時,聞非異時,故名一時。又,阿難得佛覺三昧,所未聞經以三昧力悉皆得聞,入三昧聞,故名一時。又,解佛為阿難重說,即是阿難聞經時,名一時也。

五、阿難が経を聞いたことを「一時」と説くことについて。仏が経を説く時間は長いことも短いこともあるが、それは阿難が経を聞いた時である。聞いた時が別の時ではないから「一時」というのである。また、阿難は仏の覚りの三昧を得ており、まだ聞いたことのない経も三昧の力によってすべて聞くことができ、三昧に入って聞いたのであるから「一時」という。さらに、仏が阿難のために再び説いたと解すれば、それが阿難が経を聞いた時であり、それを「一時」と呼ぶのである。

第二約教明一時者,即是約四教分別四種一義也。

教えの観点から「一時」を明らかにするとは、すなわち四つの教えに基づいて、それぞれに四種類の「一つの意味」を区別するということです。

一、約三藏因緣生滅教明一時,亦具前五種一時之義,或用隨俗時,或用因法假名時、離法無別時,以為一時也。

第一に、三蔵の因縁生滅の教えに基づいて「一時」を説明する場合、先に述べた五種類の「一時」の意味もすべて備わっています。また、世俗に従った時の用法を用いることもあれば、因に基づく法の仮の名前としての時を用いることもあり、法から離れて別に時があるわけではない、という理解に基づいて「一時」とすることもあります。

二、約通教明一時,亦具前五種一時之義,如夢之一時也。

二、通教において「一時」を解釈すれば、前述した五種の「一時」の意味をすべて備えている。それは夢の中の「一時」のようなものである。

三、別教明一時,亦具前五種一時之義,破一時顛倒,能分別數一切法,見三世事,無滯礙也。《攝大乘論》明數識攝阿僧祇、明世識攝三世,若約此一時,即是別教一時,亦具前五種一時義。

第三に、別教において「一時」(一つの時)を明らかにする場合、先の五種の「一時」の意味もすべて備えています。これにより「一時」という誤った捉え方を破り、一切の法を正しく分別して数え、三世の出来事を障碍なく見通すことができます。 『摂大乗論』では、「数識」が阿僧祇劫(無数の時間)を、「世識」が三世をそれぞれ摂めると説かれています。この「一時」を別教の立場から見れば、先の五種の「一時」の意味もすべて具わっているのです。

但圓教正約不思議法性,明一時一切入一時。如此經明「住不思議解脫菩薩七日為一劫,一劫為七日」,《法華經》明「六十小劫,謂如食頃」,《華嚴》明「十一切」等,約此明一時,即是圓教一時義也。

ただし、円教はまさに不思議法性に基づいて、一時に一切が入るということを明らかにします。この経典が説くように、「不思議解脱に住する菩薩は七日を一劫とし、一劫を七日とする」とあり、『法華経』では「六十小劫が、まるで食事のひとときのようである」と説かれ、『華厳経』では「十一切」などを明らかにしています。これらに基づいて「一時」を明らかにするのが、すなわち円教における一時の意味なのです。

若用四教明一時,約眾經具一時多、少,竝類「如是」可知。

もし四つの教えを用いて「一つの時」を説明するならば、多くの経典に基づいて「一つの時」にも多くの場合や少ない場合がある。そのすべては「このように」という言葉の類推で理解できる。

第三約觀心一時義者,觀心因緣生滅義,心在定時,能知世間生滅法相,是則一念中慧眼開發,能見生滅之理,名故一時。若非定心,少時豁然見理,前思後覺,憶想顛倒,雖有解心生滅,不能見理,非一時也。又,約觀心明一時,體假入空觀,慧眼開一時;從空入假觀,法眼開一時;中道正觀,佛眼開一時,皆是定心一念少時,豁然開發,即見真一實諦理,名一時也。

第三に、心を観察する「一時」の意味について説明します。心の因縁生滅の働きを観察するとき、心が定まっていれば、この世の生滅の法則を悟ることができます。この瞬間に智慧の眼が開かれ、生滅の道理を見ることができるので、「一時」と言います。

もし心が定まっていなければ、たとえ一時的に道理を悟ったように思えても、それは前後の思いや憶測による倒錯した見方にすぎません。生滅についての理解が少し生まれても、真理を正しく見ることはできず、これが「一時」ではないのです。

さらに、心を観察する「一時」について明らかにします。仮の存在を観じて空に入る観法では、智慧の眼が開かれるのが「一時」です。空から仮の世界に入る観法では、法の眼が開かれるのが「一時」です。中道の正しい観法では、仏の眼が開かれるのが「一時」です。

これらはいずれも、心が定まり、一瞬のうちに悟りが開かれ、真実唯一の諦理を直接見ることだからです。これを「一時」と言います。

佛在

お釈迦様がおられました。

佛即能說「如是」之化主,亦為助成傳聞之可信也。所以者何?若是九十六種所說,邪見顛倒故,自不足歸心。若是三乘聖人所說,既猶居不極之位所說,又非究竟。今明無師大覺,朗然頓悟,所言誠諦,從是聞經,物情欣愜也。就此,亦為三意:一,總明佛住;二,約教分別佛住不同;三,約觀心解釋。

「仏こそが『このように』と説き示された教化の主であり、また伝え聞いたことを信じるに足るものとして証し立てる方でもあります。なぜなら、もしこれが九十六種の外道の説くところであれば、邪見により顛倒しているゆえ、心を寄せるに値しません。また、もし三乗の聖人の説くところであっても、彼らはなお究極の位に至っていないゆえ、その説もまた究極のものとは言えません。今ここで、師なくして自ら覚り、明らかに一瞬のうちに悟りを開かれた仏陀の説かれるところは、誠実で真実そのものであり、この経を聞くことによって、人々の心は喜びに満たされるのです。」

この点について、さらに三つの意味があります。第一に、仏がおわしますことを総体的に明かすこと。第二に、教えに従って仏の住する違いを分別すること。第三に、観心によって解釈すること。

第一總明佛住義者,舊稱佛陀,此言覺者,自覺覺佗,名之為佛。若《智度論》明佛陀,言「知者,知何等法智慧?知未來現在眾生數、非眾生數,有常、無常一切諸法,菩提樹下了了覺知,故名為佛。十號具足,亦名一切智人,亦名頻伽婆,佛德無量,勝名亦復無量」,今不具釋。所言在者,在即住之異名耳。《大智論》云「四種身威儀:坐、臥、行、住,是名為住」。住有四種:一者,天住;二者,梵住;三者,聖住;四者,佛住。

まず、「仏陀として住する」という意味について説明します。古くは「仏陀」と称し、これは「覚者(目覚めた人)」という意味です。自らを覚り、他者をも覚らせる、このことをもって仏と名づけます。『大智度論』において仏陀を説明するには、「知者(知る者)とは、どのような法(ものごと)と智慧を知るのか?未来・現在の衆生(生きとし生けるもの)と衆生でないもの、常なるものと無常なるもの、あらゆるすべての法を、菩提樹の下ではっきりと覚り知った。ゆえに仏と名づける」とあります。十の尊号を具え、一切智人(すべてを知る者)とも、頻伽婆(美しい声を持つ者)とも呼ばれます。仏の徳は計り知れず、それゆえの尊称もまた無数にありますが、ここでは詳しく述べません。

ここで言う「在(おわします)」とは、「住(とどまる)」と言い換えられるものです。『大智度論』には「四種の身の威儀(ふるまい):座る、伏す、歩く、立つ、これを住と名づける」とあります。「住」には四種あります。第一に「天住」、第二に「梵住」、第三に「聖住」、第四に「仏住」です。

天住者,布施、持戒、善心三事,故名天住。

天住とは、布施、戒律を守ること、善い心という三つの行いによって成り立つものです。このことから、天住と呼ばれます。

梵住者,住四禪、四無量心、四無色定也。

梵住とは、四つの禅定、四つの無量心、四つの無色定にとどまることです。

聖住者,住空、無相、無作四諦、十二因緣理也。

聖者の境地とは、空・無相・無作の三解脱門と、四つの聖なる真理、そして十二の因縁の理法に安住することです。

佛住者,佛住首楞嚴等無量三昧、十力等一切佛法也,如佛所得法,佛於中住,憐愍眾生故,在毗耶離住也。

仏がおられるとは、仏が首楞厳をはじめとする無量の三昧・十力などのあらゆる仏法の境地に留まることをいいます。仏が悟られたその法そのものに住み、人々を哀れみ慈しまれるがゆえに、ヴァイシャーリーに滞在しておられるのです。

第二別約教釋佛住義不同者,即是約四教明不同也。四教明佛義分別,已略在《玄疏》。但為化四種根性眾生,現相亦有四種,如初成道、起轉法輪、入般涅槃,皆現四教身相不同。

第二に、教えに基づいて「仏の住まう」という意味の違いを説明します。これは、四つの教え(四教)によって違いがあるということです。四教における「仏」の意味の違いについては、すでに『玄疏』で簡単に述べました。四つの異なる素質の衆生を教化するために、仏が現す姿にも四種類があります。例えば、初めて悟りの道を開いた時、法輪を転じた時、そして涅槃に入った時など、いずれの場合も、四つの教えに応じた異なる姿を現すのです。

初、成現身相不同者,如《勝天王般若》所明「如來初坐道樹,得成正覺,或現坐草,或現坐天衣,或現處寶座,或現在虗空中」,此即初正覺赴緣應化,現相不同,表四教所明明佛功德相不同也。

まず、仏が姿を現す相が異なることについてですが、『勝天王般若経』に説かれるように、「如来が初めて菩提樹の下に座し、正覚を成就した際、ある時は草の上に座り、ある時は天の衣の上に座り、ある時は宝座に居し、ある時は虚空の中に現れた」とあります。これは、初めて正覚を得た仏が、縁に応じて様々な姿で教化を示したことを表しており、その相の違いは、四つの教え(四教)が明かす仏の功徳の相が異なることを示しているのです。

次、明轉法輪現身相不同者,若說華嚴圓滿頓教,則現大相、小相之身;若鹿野轉生滅四諦法輪,即脫瓔珞,現老比丘之身;若說大乘方等,即門內尊特之身,或門外塵土坋身之像;若說摩訶般若,亦現門內尊特之身,及種種佛身之相,以眾生疑,故現常身、放常光;若說法華,但現尊勝之相;若說涅槃,備現四種身相,事同方等現身相。此略明轉示現身相不同,如是隨緣,感種種之身,何但現四種身相也!今一往約四教不同,大略而言四種現相耳。

次に、法輪を転じる際に現れる身相の違いについて説明します。

華厳の円満頓教を説く場合には、大きな相と小さな相の身を現します。 鹿野苑で生滅の四諦法輪を転じる場合には、瓔珞を脱ぎ、老いた比丘の身を現します。 大乗方等を説く場合には、門内において尊特の身を現すか、あるいは門外において塵土にまみれた身の像を現します。 摩訶般若を説く場合には、やはり門内の尊特の身、および種々の仏身の相を現します。衆生が疑いを抱くため、常身を現し、常光を放たれるのです。 法華を説く場合には、ただ尊勝の相のみを現します。 涅槃を説く場合には、四種の身相をすべて備えて現します。その現じ方は方等の身相と同じです。

以上、略して、法輪を転じる際の身相の違いを示しました。このように、縁に応じて種々の身を現じられるのであり、ただ四種の身相のみを現すわけではありません。 今、ひとまず四教の違いに基づいて、大まかに言えば四種の現相があるということです。

次、明入涅槃現四種身相不同者,如《像法決疑經》云「如來將入涅槃,是時大眾,或見佛如沙門之像,或見佛威德相好端嚴,或見佛坐寶蓮華,說心地法門,或現見身如虗空,無有邊表」,此豈非表說四教之功已訖,將入涅槃,現此相也!此經既是方等教攝,住於毗耶離城,說大乘方等,所可現身亦應隨緣感現,故此經長者子寶積說偈歎言「各見世尊在其前,斯則神力不共法」。各見者,四教之機感佛身相不同也。

次に、如来が涅槃に入る際に示される四種の身相の違いについて説明します。『像法決疑経』にはこう述べられています。「如来がまさに涅槃に入ろうとする時、その大衆の中には、ある者は仏を沙門(修行者)の姿として見、ある者は仏の威徳と相好の優れた荘厳さを見、ある者は仏が宝の蓮華に座って「心地の法門」を説くのを見、またある者は仏の身が虚空のように広がり、果てしなく続くのを見る」。これはまさに、四つの教え(四教)の功徳が完成したことを示し、涅槃に入ろうとしてこのような相を現したのではないでしょうか。この経典は方等部(大乗経典群)に属し、ヴァイシャーリーの町にとどまって大乗の方等教を説くものですから、示される身もまた機縁に応じて現れたのです。それゆえ、この経典の中で長者子の宝積が偈を詠んで賛嘆して言いました。「各々世尊がその前にいるのを見る、これこそ神通力の不共の法である」と。「各々見る」とは、四教の機によって感ずる仏の身相が異なることを意味するのです。

問曰:四教善根,隨緣所見,定如前分別不?

問いかける。四教の善根は、縁に従って見るものだが、必ずしも先に述べたように分別されるのだろうか。

答曰:一往相對,理在隨緣機感。若就其鄣邊,云「可見劣身而說勝法」,如觀世音以種種形遊諸國土,說大乘法。豈況如來雖現劣身,何妨說勝法也!

答えましょう。一見すると対立するように思えるかもしれませんが、その理は縁に随い、機に感じることにあるのです。もし障りの面から見れば、「劣った身を示しながら勝れた法を説くこともある」と言えます。例えば観世音菩薩が様々な姿で諸国の国土に遊び、大乗の法を説かれるように。ましてや如来がたとえ劣った姿を現されても、勝れた法を説くことを妨げるものがありましょうか。

次、用四教明住義者,各隨教所辨佛地法門不同,佛於中住,憐愍眾生故,住毗耶離也。

次に、四教を用いて「住む」の意味を明らかにします。それぞれの教えに従って、仏の境地における教えや悟りの方法は異なります。しかし仏は、その中にあって、すべての生きとし生けるものを哀れみ深く思い、ヴァイシャーリーに滞在されたのです。

第三約觀心明佛住義者,如《華嚴經》云「欲見如來心,但觀眾生見」。心即如來心。所以者何?一心三觀,圓觀因緣三諦之理,即是開佛知見,雖有肉眼,名為佛眼,亦名種智。若用三智,以不住三諦三昧,亦是如佛所得之法,佛於中住,憐愍眾生,能不捨道法,現凡夫事,住一切世間法也。此須善用六即分別,入大乘之要門也。

第三に、観心(心を観じて)の立場から「佛の住(とどまること)」の意味を明らかにする。 『華嚴経』に「如來の心を見たければ、ただ衆生の見る所を観ぜよ」とあるように、心こそが如來の心である。 なぜか。一心において三観(空・仮・中)を成し、縁起の三諦の道理を円かに観ずることが、すなわち佛の知見を開くことである。たとえ肉眼であっても、これを佛眼と名づけ、また種智(一切智・道種智・一切種智)とも呼ぶ。 もし三智を用いて、三諦に執着しない三昧(三諦三昧)に安住するならば、それもまた佛の得たところの法である。佛はその中に住し、衆生を哀れみ、道法を捨てずに凡夫の事を現じ、一切の世間法の中に住むのである。 ここでは、「六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)」を善く用いて分かち理解することが、大乗に入るための大切な要門である。

毗耶離、菴羅樹園,

ヴァイシャーリーのアンマルダー園(アーマラの木の園)において、

此明聞經之方所,即是的出說經之處,助成勸進也。今釋方所,即為二意:一,明通方所,見是毗耶離城;二,明別方所,的據菴羅樹園。

これは経を聞く場所について明らかにしたものです。すなわち、説経の場所を具体的に示し、人々の修行を促す助けとなるものです。今、場所を説明するにあたり、二つの意味があります。第一に、全体としての場所を明らかにすれば、これは毘耶離城であると見られます。第二に、具体的な場所を明らかにすれば、それは確かに菴羅樹園を根拠としています。

第一通方所明毗耶離城者,復為三意:一,約事解釋;二,對法門;三,約觀心。

最初に、毘耶離の町が何を意味するのかを明らかにします。これには三つの視点があります。第一に、事実に基づく解釈。第二に、教えに照らした説明。第三に、心の観察を通じた理解です。

第一約事者,此土翻云廣博、嚴淨。其國寬平,名為廣博;城邑華麗,無諸穢惡,故名嚴淨也。又,前師翻為好稻,此土出好粳粮,勝於餘國,故言好稻之國也。又有言「此是好道之國也」,此國有好道路,平正砥直。又言「好(呼號反)道」,其國人民好樂正道,自敦仁義,不須君主,但有五百長者共行道法,率土民庶,莫不齊肅,故云好道之國也。

まず「約事(事に基づいて)」とは、この土地では「広く広がり、きちんと整って清らか」という意味に訳される。その国は広く平らなので「広博」と名付けられ、町並みは美しく、汚れたものが一切ないので「厳浄」と言うのである。

また、先の師は「良き稲の国」と訳していたが、この土地は他国より優れた良質の粳米がとれるため、「好稲の国」と言うのである。さらに、「これは善き道の国である」という説もあり、この国にはまっすぐで平らな善い道があると言う。また、「好道(道を好む)」とも言い、この国の人々は正しい道を喜び好み、自ら仁義を守り実践するため、君主を必要としない。ただ五百人の長者たちが共に道を修行し、国の民すべてが行いを正しく整えている。だから「好道の国」と言うのである。

第二對法門解釋者,隨取前所翻,即對法門。

第二の対法門の解釈は、先に翻訳したところに従って、即ち対法門とします。

所言廣博、嚴淨者,即是釋迦法身所居本土常寂光國,其性廣博,猶若處空;功德智慧,無諸穢惡,故云嚴淨。迹居人間,亦託廣博、嚴淨之土,是知非本無以垂迹,垂迹故,居人間嚴淨之國;非迹無以顯本,寄毗耶離,說諸佛國土永寂如虗空,即顯毘廬遮那常寂之本國也。

「広博厳浄」と言われるものは、すなわち釈迦の法身が住まう本来の国土である常寂光国を指します。その性質は広々として限りがなく、あたかも虚空のようです。功徳と智慧にあふれ、あらゆる汚れや悪が存在しないため、「厳浄」と言うのです。仮の姿として人間界に現れる時にも、この広博で厳浄な国土をよりどころとしています。したがって、本来の姿がなければ仮の姿を現すことはできず、仮の姿を現すからこそ、人間界にある厳浄な国に住まうことができるのです。また、仮の姿がなければ本来の姿を明らかにすることはできません。そこで、維摩詰の住む毘耶離の地に仮託して、諸仏の国土は永遠に寂静であり、虚空のごとくであると説き、これによって毘盧遮那仏の常に寂静なる本来の国を明らかにしたのです。

所言好稻之國者,即是釋迦本地所住大涅槃,百句解脫之理也,故《法華經》云「百穀苗稼,普皆增長。因其增長,穀實得成」,即是百句解脫之玅果,為好稻也。由本垂迹,顯本,類前可解。次云「譬如隘路,不容二人竝行。解脫不爾,多所容受」,多所容受,即真解脫。今釋迦居不思議解脫之大道,即是法界多所含容,故名「好道」。由本垂迹,由迹顯本,類前可知也。

いわゆる「良い稲の国」とは、釈迦本来の境地である大涅槃(だいねはん)のことであり、百句(ひゃっく)にわたる解脱(げだつ)の理を意味します。ゆえに『法華経』には「百種の穀物や苗が、あまねく成長する。その成長によって、穀物の実りが完成する」と説かれていますが、これは百句の解脱という素晴らしい果実を指して「良い稲」と表現したものです。

本地(ほんじ)から垂迹(すいじゃく)し、また本地を顕(あきら)かにするという考え方は、先の例と同様に理解できます。

次に「たとえば狭い道は、二人が並んで歩くこともできない。しかし解脱はそうではなく、多くのものを広く受け入れる」とあります。この「多くのものを受け入れる」ことこそが、真の解脱です。今、釈迦がおられる思議(しぎ)を超えた解脱の大道は、まさに法界(ほっかい)として多くのものを含み包むので、「良い道」と名づけられます。

本地から垂迹が現れ、垂迹によって本地が明らかになるという筋道も、先の例と同様に理解すべきです。

所言好(呼號)道之國,思議之道,作意而修,不名好道。不思議自行即真修,任運理顯;化佗如慈石吸鐵,無緣無念;自佗行化,此是性好之道也。由本垂迹,垂迹故名好道;因迹顯本,故居人間好道之國,說「心淨,佛土淨」也。

いわゆる「好道の国」とは、思議(考え分別すること)の道であり、心を働かせて修行するものは、真の好道とは言えません。思議を超えて自然に行われることこそ真の修行であり、理がおのずから顕れるのです。他を導くことは、磁石が鉄を吸い寄せるがごとく、縁や念を必要としません。自他をともに導く行い、これこそが「性好の道」なのです。

本より迹を垂れ、迹を垂れるがゆえに「好道」と名づけ、迹によって本を顕すからこそ、人が住む好道の国において「心が清らかであれば、仏土も清らかである」と説かれたのです。

第三約觀心明毗耶離者,一心三觀能觀心性,即知心性廣博,猶如虗空,即具福、慧二種莊嚴,無染、無著,畢竟清淨,是則「心淨,佛土淨」,故約觀心明廣博、嚴淨之國也。次觀明好稻之國者,若觀心性即是百句解脫之根本,名為好稻,如前引《法華經》「譬百穀苗稼,雨之所潤,無不豐足」也。約觀好道路之國者,若觀因緣中道,則是行大直道,無留難故也;無有眾魔群盜之所得入,此道最勝,故名好道。約觀明好(呼號)道者,若觀偏真之道、盡苦涅槃,則於一切道法無好樂心。今觀圓真之道,則好樂一切道法無厭足,盡未來際,故名好道也。

第三に、観心の立場から毘耶離(ヴァイシャーリー)について明かします。一心三観によって心の本性を観ずれば、自ずと心性が広大無限であり、あたかも虚空のようなものであると知ることができます。すなわち、福徳と智慧という二つの荘厳を具え、汚れなく、執着なく、究極的に清らかであること、これこそ「心が清らかならば、仏の国も清らかである」という道理です。ゆえに観心の立場から、広大で荘厳清浄な国を明らかにしたのです。

次に、良い稲の国を観じるについて:心の本性(心性)を観ずれば、それがすなわち百句の解脱の根本であるため、「良い稲」と名づけます。先に引いた『法華経』の「あらゆる穀物や苗、作物が雨によって潤され、豊かに満ち足りないものはない」という譬えの通りです。

次に、良い道路の国を観じるについて:因縁(縁起)と中道を観ずれば、すなわち偉大な真直ぐな道を歩むことであり、妨げとなる困難がないことを意味します。ここにはあらゆる悪魔や群盗が入り込むことができません。この道が最も優れているため、「良い道」と名づけます。

次に、観心の立場から良い(称名(呼号))の道を明かします。もし偏った真実の道(偏真の道)や苦しみを尽くした涅槃のみを観ずるならば、あらゆる道や教えに対して好む心が生じません。しかし、今、円満な真実の道(円真の道)を観ずれば、あらゆる道や教えを好み楽しむ心が尽きることなく、未来際にまで及びます。ゆえに「良い道」と名づけるのです。

第二明別方所,的據菴羅樹園者,上明大城是通方所,助為證信,猶恐混漫。今的舉所住,則助成勸信義切也。此亦為三意:一,約事翻釋;二,對法門;三,約觀心。

第二に、具体的な場所を明らかにする。「菴羅樹園に拠る」とは、先に述べた大城は広く通じた場所を示すもので、証信を助けるためのものですが、それだけでは混同し恐れがあります。ここで具体的に住した場所を挙げることで、確かな証拠として信じるよう促す意味がより深まります。これにも三つの意図があります。第一に、事に基づいて翻訳して説明すること。第二に、法門に対応させること。第三に、観心に基づくことです。

第一約事翻釋者,肇師注云「菴羅是菓樹之名,以菓目樹,故云菴羅樹也。其菓似桃而非桃也,故言柰樹定非柰樹矣」。在《地經》又翻云「難分別樹」,其菓似桃非桃,似柰非柰,故云難分別也,此與《大涅槃經》明意欲同。經云「如菴羅菓,生熟難分,具有四句」,此亦難分別也。又,師解云,「此樹開華,華生一女。國人歎異,以園封之。園既屬女,女人守護,故言菴羅園。此女宿善冥熏,見佛歡喜,以園奉佛。佛即受之,而為住所」。

第一に「約事翻釋」について、肇師の注釈によれば「庵羅は果樹の名であり、果実をもって樹を指すので、庵羅樹という。その果実は桃に似ているが桃ではなく、柰に似ているが柰ではない」とある。 『地経』では「難分別樹」と翻訳されており、その果実が桃にも似て非なり、柰にも似て非なることから「分別し難い」というのである。これは『大涅槃経』の意図ともほぼ同じである。経典に「庵羅果のように、熟したかどうかが区別しにくく、四つの句がある」とあり、これも分別し難いことを表している。 また、ある師の解釈によれば「この樹は花を咲かせ、その花から一人の娘が生まれた。国中の人々が驚き称賛し、園をその娘に与えた。園は娘のものとなり、娘がそれを守ったので、庵羅園と呼ばれた。この娘は過去の善行がひそかに薫習し、仏を見て喜び、その園を仏に奉献した。仏はこれを受け入れ、住まいとされた」とある。

第二對法門明義者,佛住三十七品總持之法,故言「住菴羅樹園」。所以然者,三十七品為道品,道品為樹,四念處為種子,四正勤為生長,四如意足為牙生,五根如生根出莖,五力如抽枝葉,七覺為華,八正為果實。從七覺華起慈悲心,為一切眾生興大誓願,因緣勤行,得發總持,故說總持為園也,《大集經》云「三十七品,大神通是」。名菩薩炬陀羅尼者,此翻為總持。園持樹果,不致侵犯,故表總持也。今言「華中生女」者,即是因七覺華生大慈悲之女也。「女用園奉佛」者,表因中總持一切善根迴向佛果。「佛受園而住」者,即是由成內因果,佛住於果,是為如佛所得,佛於中住,住於無漏法林樹,總持之園苑也。由本垂迹,故居人間菴羅樹園;用迹顯本,佛住菴羅園,說不思議無礙陀羅尼,無漏法林樹,總持之園苑也。「菴羅樹菓,似桃非桃,似柰非柰,是則非桃非柰而似桃似柰,名難分別樹」者,如來住菴羅園,則表中道三十七品,中道似有非有,似無非無,是則非有非無,雖非有無而似有無,此理難分別。如來住此難分別之理,成三十七品佛菩提果,如此妙果所依之土,七種方便,一切下地之所莫測,即表以難分別樹園也。

第二の法門の意味を明らかにすると、仏は三十七品の総持の法に住まわれるので、「菴羅樹園に住す」と説かれている。その理由は、三十七品を道品とし、道品を樹とし、四念処を種子とし、四正勤を生長とし、四如意足を芽生えとし、五根を根から茎を生じるものとし、五力を枝葉を伸ばすものとし、七覚を花とし、八正を果実とするからである。七覚の花から慈悲心が生じ、一切の衆生のために大誓願を興し、因縁によって勤め行い、総持を得るに至る。それゆえ総持を園と説くのである。『大集経』には「三十七品は大神通である」とある。菩薩炬陀羅尼と名づけるのは、これを翻訳して総持とするからである。園は木の果実を保ち、侵害を受けさせないので、総持を表すのである。今、「華の中より女生ずる」というのは、すなわち七覚の花によって大慈悲の女を生ずることである。「女、園を用て仏に奉ずる」というのは、因において総持の一切の善根を仏果に回向することを表す。「仏、園を受け而も住す」というのは、すなわち内の因果を成就することによって、仏は果に住まわれることである。これは仏が得たところの如く、仏がその中に住まわれるのであり、無漏の法林樹、総持の園苑に住まわれるのである。本地に由って迹を垂れるので、人間の菴羅樹園に住まわれ、迹を用いて本地を顕すので、仏は菴羅園に住まわれ、不可思議にして障りのない陀羅尼、無漏の法林樹、総持の園苑を説かれるのである。「菴羅樹の果実は、桃に似て桃にあらず、柰(なし)に似て柰にあらず、すなわち桃にあらず柰にあらずして桃に似て柰に似る。名づけて分別し難き樹という」とは、如来が菴羅園に住まわれることは、中道の三十七品を表す。中道は有るように見えて有るにあらず、無いように見えて無いにあらず、すなわち有にあらず無にあらず、有無にあらざれども有無に似ている。この理は分別し難い。如来はこの分別し難き理に住まわれ、三十七品の仏菩提の果を成就される。このような妙果の依る所の土は、七種の方便、一切の下地の測り知るところではない。すなわち分別し難き樹の園を表すのである。

第三約觀心者,若三觀觀心性不動,而修三十七品,因七覺起慈悲誓願,善根牢固,成諸總持,即是住菴羅樹也。故《華嚴經》說「菩薩有十種園」,此即是三十七品園修。若約觀心解難分別者,如《大涅槃經》說「菴羅菓,生熟難知。具有四句:一,內外俱生;二,外熟內生;三,內熟外生;四,內外俱熟」。今行人修於三觀,觀不思議中道難分別之理,即有四種:

三つ目に、心の観察について述べます。三観によって心の本性が動じないことを観じ、三十七の修行項目を実践します。七つの覚りの要素から慈悲と誓いの心が生じ、善い根がしっかりと定まり、あらゆる陀羅尼を成就すること、これが庵羅樹に住むことなのです。ゆえに『華厳経』には「菩薩には十種の園がある」と説かれ、これこそが三十七の修行項目という園を修めることです。

心の観察をもとにこの難解な区別を解くならば、『大涅槃経』に「庵羅果は、熟しているかどうかの見分けが難しい」とあります。それには四つの場合があります。第一に、内も外も生である。第二に、外は熟しているが内は生である。第三に、内は熟しているが外は生である。第四に、内も外も熟している。今、修行者が三観を修め、思議を超えた中道という区別しがたい真理を観じる時、これにも四種の区別があります。

一、自有行人,觀心都未有,所以威儀麤獷,如菴羅菓內外俱生。

一、ある修行者が、心を観じることも全くなく、そのために立ち居振る舞いが粗雑で、あたかもアーマラ果(あまらか)のように、外も内も未熟なままである。

二、自有行人修三觀時,外雖威儀齊整,身口似如柔和;內觀之心不證,定、慧都無所以,如菴羅菓外熟內生。

修行者が三観を修行している時、外見は威儀が整い、身口は穏やかに見えても、内観の心が悟りを得られず、定と慧が全く備わっていない状態があります。それは、アーマラの果実が外側だけ熟して内側が生であるのと同じです。

三、自有行人威儀不足,可見身口不無麤獷之相,而內心觀行能熟入諸法門,定慧開發,如菴羅菓外生內熟。

三、修行者の中には、外見上の振る舞いが十分でなく、身や口の振る舞いが粗雑に見えることもあります。しかし、内心では観想の修行が熟達し、様々な教えの境地に入り、安定した智慧が開かれている人がいます。それはまるで、アー摩羅果(あまらか)のように、外側は青くて未熟に見えても、内側は熟しているようなものです。

四、自有行人修心三觀,威儀齊肅,身口柔和,似得道相,而內心三觀,入諸法門,定慧開發。或成觀行,入五品弟子位;或成相似即,得六根清淨,如菴羅菓內外俱熟。

四、ある修行者が心において三観を修め、その振る舞いは整い、身も口も柔和であり、一見悟りを得たように見える。しかし、その内面で三観を修行し、諸々の法門に入り、定と慧が開かれるのだ。あるいは観行を成就し、五品弟子の位に入る。あるいは相似即を成就し、六根清浄を得る。それはあたかも芒果が内も外も共に熟しているようなものである。

是故佛法行人,難可分別,如菴羅菓也。

だからこそ、仏法の修行者を簡単に見分けることは難しいのです。それは、あたかもアーマラの果実のようなものです。

問曰:那忽處處對法門、約觀心,作如是等說佛意?何必如是也!

問うていう。「なぜ、ことごとく法門に対して観心に約して、このように仏の意を説くのか。必ずしもそうとは限らないではないか!」

答:佛心如大海,眾流皆入;佛心如如意珠,隨人心念,即皆雨寶;佛心淨鏡,隨外有像對,即是現種種色;佛心如大地,隨有種子,即生長菓牙。《大涅槃經》明摸象之譬,得失之相各不能。但博地凡夫,各隨心解,稱歎佛德,何能普會?執見之徒,自謂一切如己所解,諍論是非,何必合於佛意?若言經中無對法門解釋義者,此經〈佛道品〉普現色身菩薩問維摩詰言:「居士父母、妻子、親戚、眷屬等,悉為是誰?」大士答言:「智度菩薩母,方便以為父。一切眾導師,無不由此生。法喜以為妻,慈悲心為女,善心誠實男,畢竟空寂舍。」淨名既是在家菩薩,何容無有父母、妻子、家宅?而依事答,悉約內行法門答者,當知諸佛菩薩不起道法現凡夫事,雖現凡夫事,皆內表道法也。如佛般涅槃,處在雙樹,四枯四榮,豈可直作樹木之解!且如來誠說,皆表半、滿,枯、榮。今在毗耶菴羅樹園,欲說不思議解脫法門,不捨道法,現迹同凡,住毗耶離,豈不遠表極地所住法門也!《華嚴經》明十城十園,豈止是世間城、園也!此經下文〈菩薩行品〉云:「諸佛威儀,有所進止,無非佛事。」何得但作事解,都不尋思諸佛菩薩不思議教、善根,祕密、表發之事?又,《法華經》云「欲說是經,應入如來室,著如來衣,坐如來座。然後於四眾中,以無所畏心,廣說此《法華經》」,若言不對法門明義,欲講說時,將不移佛像入佛大殿,上佛高座,披佛像衣,處眾說法,此豈得佛意耶!《法華經》所明「如來室者,乃是大慈悲心;如來衣者,即是柔和忍辱;如來座者,則一切法空是」,豈得入佛殿坐、著佛像衣耶?

答え:仏の心は大海のようなもので、あらゆる流れが入り込む。仏の心は如意宝珠のようなもので、人の心の念いに応じて宝を降らせる。仏の心は清らかな鏡のようなもので、外に姿が映れば、そこに様々な色が現れる。仏の心は大地のようなもので、種があれば芽を生じ成長させる。『大涅槃経』には象を撫でる喩えが明かされており、人それぞれに捉えた部分が異なり、全体を正しく把握することはできない。ただ、凡夫はそれぞれ自分の心のままに解釈し、仏の徳を称賛するが、どうして全てを正しく会得できようか。執着する者たちは、全てが自分の理解の通りだと思い込み、是非を争うが、それが仏の意にかなうはずがない。

もし経典の中に、教えを説明するための対比法門が無いと言うならば、この経の〈仏道品〉において、普現色身菩薩が維摩詰に問うた。「居士の父母、妻子、親戚、眷属などは、一体誰なのでしょうか」。これに対し大士は答えた。「智慧の波羅蜜を母とし、方便を父とする。全ての導師は、ここから生まれる。法の喜びを妻とし、慈悲の心を娘とし、善心と誠実を息子とし、畢竟空の寂静を家とする」。維摩詰は在家の菩薩でありながら、どうして父母や妻子、家が無いということがあろうか。そして事実に沿って答えつつ、全てが内なる修行の法門に照らして答えられている。このことから知るべきは、諸仏や菩薩は道の教えを離れずに凡夫の事柄を現し、凡夫の事柄を現しつつも、全て内に道の教えを表しているのである。

例えば、仏が涅槃に入られた時、娑羅双樹の間にあったが、四本の枯れ木と四本の栄える木があった。これをただ単に樹木として解釈してよいだろうか。如来の真実の説法は、全て半満・枯栄を表している。今、毘耶離の菴羅樹園において、不可思議な解脱の法門を説こうとしておられる。道の教えを捨てず、凡夫に同じく現れ、毘耶離に留まっている。これは、最高の境地に住する法門を遠くに表しているのではないか。『華厳経』に十の城や十の園が説かれているが、これらは単なる世間の城や園であろうか。

この経の後の〈菩薩行品〉には、「諸仏の威儀や進退には、仏事でないものはない」とある。どうしてただ事柄としてのみ解釈し、諸仏菩薩の不可思議な教えや善根、秘密の表徴や顕現の働きを全く求めないのか。また『法華経』には「この経を説こうと思うなら、如来の室に入り、如来の衣をまとい、如来の座に座るべきである。そうしてから四衆の中で、恐れる心なく、広くこの法華経を説くのである」とある。もし教えを説くための法門の意義が無いと言うならば、講説しようとする時、仏像を仏殿に移し、高い仏座に上がり、仏像の衣をまとって人々の前で説法することになるが、これが仏の意にかなうだろうか。『法華経』で明かされる「如来の室とは、大いなる慈悲の心であり、如来の衣とは、柔和で忍辱の心であり、如来の座とは、一切の法が空であること」を指すのである。どうして仏殿に入り仏像の衣を着ることなどできようか。

問:《法華經》中,佛自解說對三法門,其義可爾。今毗耶離菴羅樹園,佛不解釋,何得師心對法門也?

問う:『法華経』の中で、仏御自身が三つの法門について解説された。その意味は確かにその通りである。ところが今、毘耶離の菴羅樹園においては、仏は解説されなかった。どうして自己の心を師として法門に向き合うことができようか。

答曰:若謂佛不解釋,不得厝意一切經文,何甞併是佛自解釋?若師心解,豈非皆有失也!

答えよう。もし「仏は自ら解釈せず、一切経典に心を留めることがない」というなら、一体いつ仏が自ら解釈したというのか。もし自分の心を頼りに解釈するなら、それこそ皆が過ちを犯すことにならないだろうか。

問曰:華嚴大乘,可得約行明諸法門。此方等經及小乘教,何得亦約觀行明義?

問うていわく、華厳の大乗は、行に約して諸々の法門を明らかにすることができます。しかし、この方等の経典や小乗の教えも、また観行に約して義を明らかにすることができるのでしょうか?

答曰:此經既云「諸佛解脫,當於眾生心行中求」,若不約觀行,豈稱斯文!若不以毗耶離菴羅樹園對法門,則不得約觀心解釋,何得「於眾生心行中,求諸佛解脫」!若不於心行中求解脫者,云何得住不思議解脫!若不住不思議解脫,云何於一毛孔見諸佛土變現自在!如〈不思議品〉所明也。復云何得《法華經》明身根清淨,一切十方國土皆於身中現!又豈得如《華嚴經》說「無量諸世界,悉從心緣起;無量諸佛國,皆於毛孔現」也!如前問言「小乘不得約觀心解釋」者,何故聲聞經中,佛為牧牛人說十法,皆一一內合比丘觀心?如是等例,豈非方等及三藏經教對諸法門觀心明義也!

答えよう。この経典に「諸仏の解脱は、まさに衆生の心の働き(心行)のうちに求めるべきである」と説かれている。もし観行(心を観察する修行)に基づいて解釈しなければ、どうしてこの言葉にかなうことができようか。また、毘耶離の菴羅樹園(あらじゅえん)という場所を法門(教えの機縁)としてとらえなければ、観心(心を観る)に基づく解釈は成り立たない。そうでなければ、「衆生の心の働きの中に、諸仏の解脱を求めよ」という言葉の意味はどこにあるのか。もし心の働きの中で解脱を求めないならば、どうして不可思議解脱(思いもよらぬ解脱)にとどまることができようか。もし不可思議解脱にとどまらなければ、どうして一毛穴の中に諸仏の国土が自在に現れるのを見ることができようか。これは『不思議品』に説かれるところである。また、どうして『法華経』に説かれる「身根(からだの感覚器官)が清らかになり、あらゆる十方の国土が身の中に現れる」という教えを得ることができようか。さらに、どうして『華厳経』に説かれる「無量の諸世界は、すべて心の縁(条件づけ)から生じる。無量の諸仏の国は、すべて毛穴の中に現れる」という教えも成り立たないことになる。先に「小乗(声聞の教え)は観心に基づいて解釈すべきではない」という問いがあったが、なぜ声聞の経典の中で、仏が牧牛者に十の法(教え)を説き、それらを一つ一つ、比丘(修行者)の観心に内側から照らし合わせて示されたのだろうか。このような例は、まさに方等(大乗)や三蔵(声聞の教え)の経典が、様々な法門について観心の立場からその意味を明らかにしている証拠ではないか。

問曰:《玄義》明三觀四教懸釋,此經三觀為前,四教在後;入文帖釋,何得四教為前,三觀在後?

問うて曰く、「玄義」において三観・四教の懸釈(予備的な解説)を明かす際、この経では三観を先に、四教を後に置かれています。ところが、本文に入って解釈を付けると、なぜ四教を先に、三観を後にされるのでしょうか。

答曰:《玄義》論其玄旨,教從觀出,如破微塵,出三千大千經卷;入文帖釋,從事入理,故先須四教銷釋經文;尋文入理,必須觀行,次略點三觀章門,一品、一偈、一句無不皆入不二法門,住不思議解脫也。

答え:『玄義』はその深遠な教えを論じ、教えは観想から生じる。例えて言うなら、微かな塵を砕けば、そこから三千大千世界の経巻が現れるようなものだ。経典の文章に入り、注釈を施す際には、事象を通して道理に入る。だからまず、四つの教え(蔵・通・別・円)をもって経文を解釈しなければならない。文章をたどって道理に入るには、必ず観想と実践が必要である。次に、三観(空・仮・中)の要点を簡略に示せば、一つの品、一つの偈、一つの句であっても、すべてが不二法門に入り、不思議な解脱の境地に安住するのである。

維摩羅詰經文疏卷第二

維摩羅詰経文疏 巻第二


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