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title: "東林十八高賢傳 · 佛䭾跋陀羅尊者"
description: "東林十八高賢傳由唐代僧人釋某撰寫，記述東晉時期廬山東林寺慧遠大師與十八位高賢結社念佛、共修淨業的事跡。該傳反映了淨土宗早期發展的歷史背景，詳載高僧們的修行與弘法歷程，彰顯了念佛往生西方的思想。此傳雖已失傳，但作為中國佛教淨土宗的重要文獻，對後世淨土信仰的傳播與結社修行模式產生了深遠影響，是研究早期淨土宗歷史和慧遠大師思想的重要依據。"
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### 佛䭾跋陀羅尊者

> 尊者仏陀跋陀羅

尊者佛䭾䟦陀羅晉云覺賢。姓釋迦。迦維羅衛國人。甘露飯王苗末也。幼亡父母。出家為沙彌。年十六。博學羣經。深達禪律。甞與僧伽達多。共遊罽賓。達多閉戶禪坐忽見師來云。暫往兜率。致敬彌勒。言訖便隱。后益見其神變。敬心祈問。方知得不還果。時姚秦沙門智嚴至罽賓覩法眾清淨慨然東顧曰。我諸同輩未遇真匠將何發悟。即諮詢于眾。孰能遂我祈請。流化東土。僉應之曰。䟦陀羅其人也。嚴乃要師裹糧而行。經歷諸國。至交阯附舶循海。達于青州東萊。聞鳩摩羅什在長安。即往從之。秦太子泓請師于東宮集眾說法。與羅什論色空義。師曰。汝祗說得果中色空。不說得因中色空。什問何謂。師曰。一微空。故眾微空。眾微空。故一微空。一微空中無眾微。眾微空中無一微。往復數番。羅什罔測。秦主興供僧三千。盛修人事。而師禪靜自守。忽謂弟子曰。吾見本國五舶俱發。眾謂妄言。因共擯棄。乃與弟子慧嚴慧觀四十餘人。俱發至廬山香谷󴄡舍而居󴄡蒲曷切草舍。時會蓮社遠公謂師被擯過由門人縣記五舶。于律無犯。即遣弟子曇邕致書秦主為其解擯。乃請師東林譯出禪數諸經。自是江東始耽禪悅。師志在遊化。西適江陵。持鉢分衛。果見天竺五舶至。此後還都立道場寺。先是支法領於于闐得華嚴梵本三萬六千偈。未經宣譯。義熈十四年。吳郡內史孟顗右衛將軍褚叔度請師為主譯。與沙門法業慧義惠嚴慧觀等為筆授譯。成六十卷。有二青衣。且從池出灑掃研墨。師先後譯出。觀佛三昧經。般泥洹經。脩行方便論。及法顯所得大僧祗律。凡十五部。宋元嘉六年。念佛而化。塔于廬山北嶺。

> 尊者仏陀跋陀羅（注：晋の時代に覚賢と称す）は、姓は釈迦、迦維羅衛国の出身で、甘露飯王の末裔である。幼くして両親を亡くし、出家して沙弥となった。十六歳にして多くの経典を学び、禅と律に深く達した。かつて僧伽達多と共に罽賓に遊んだ際、達多が室内で禅坐していると、突然師の姿を見て「暫く兜率に往き、弥勒に敬礼する」と言い、言い終えると姿を消した。後にその神通変化をますます見るようになり、敬い心から問い尋ねると、不還果を得たことが分かった。 当時、姚秦の沙門智厳が罽賓に至り、法の衆の清らかさを目の当たりにして、嘆きながら東を顧みて言った。「我が同輩たちは真の師匠に出会わず、いかにして悟りを開くことができようか」。そこで大衆に問い、「誰が我が願いを叶え、東の地に教えを流布できるか」。皆が答えて「跋陀羅こそその人である」と言った。厳は師を招き、糧を携えて旅立った。諸国を経て交阯に至り、船に乗って海を進み、青州東萊に着いた。鳩摩羅什が長安にいることを聞き、すぐにそこへ向かった。秦の太子泓は師を東宮に招いて大衆を集め説法させた。羅什と色と空の意味について論じた際、師は言った。「あなたはただ果の中の色空を説くだけで、因の中の色空を説いていない」。羅什が「それはどういう意味か」と尋ねると、師は答えた。「一つの微が空だから、多くの微が空となる。多くの微が空だから、一つの微が空となる。一つの微の空の中には多くの微は無く、多くの微の空の中には一つの微は無い」。何度も論じ合ったが、羅什には理解できなかった。秦の主興は三千人の僧に供養し、盛大に世の務めを行った。しかし師は禅定を静かに守り、ある日弟子たちに言った。「我は本国から五艘の船が共に出発するのを見た」。人々は虚言だと思い、共に師を追放した。そこで師は弟子の慧厳、慧観ら四十余人と共に出発し、廬山の香谷の草舎に至って住んだ。 その時、蓮社の会で遠公が言った。「師が追放されたのは門人の過ちによるもので、五艘の船の話を記したことは、律に違反していない」。すぐに弟子の曇邕を遣わして秦の主に手紙を送り、師の追放を解くよう求めた。そして師に東林寺で禅数などの諸経を訳させた。これ以来、江東の人々は禅の喜びに耽るようになった。師は遊行教化を志し、西の江陵に向かった。鉢を持って托鉢していると、果たして天竺からの五艘の船が到着するのを見た。その後、都に戻って道場寺を建立した。 以前、支法領が于闐で華厳の梵本三万六千偈を得ていたが、まだ翻訳されていなかった。義煕十四年、呉郡内史孟顗と右衛将軍褚叔度が師を主訳として招き、沙門の法業、慧義、恵厳、慧観らが筆受を担当して六十巻を訳した。二人の青衣が池から現れ、掃除や硯の準備をしたという。師は先に『観仏三昧経』、『般泥洹経』、『修行方便論』、及び法顕が得た『大僧祇律』など、合わせて十五部を訳した。宋の元嘉六年、念仏しながら入滅した。塔は廬山の北嶺に建てられた。