No. 1624-A洪覺範林間錄序
No. 1624-A 洪覺範『林間録』序
臨川 謝逸 撰
洪覺範得自在三昧於雲菴老人。故能游戲翰墨場中。呻吟謦欬皆成文章。每與林間勝士抵掌清談。莫非尊宿之高行.叢林之遺訓.諸佛菩薩之微旨.賢士大夫之餘論。每得一事。隨即錄之。垂十年間。得三百餘事。從其游者。本明上人。外若簡率而內甚精敏。燕坐之暇。以其所錄析為上下帙。名之曰林間錄。因其所錄有先後。故不以古今為詮次。得於談笑而非出於勉強。故其文優游平易而無艱難險阻之態。人皆知明之有是錄也。所至之地。借觀者成市。明懼字畫漫滅而傳寫失真。於是刻之於板而俾余為序。以壽後世焉。余謂斯文之作。有補於宗教。如儉歲之粱稷。寒年之繒纊。豈待余序然後傳哉。願託斯文以傳不朽。此余所以欲默而不能也。昔樂廣善清言而不長於筆。請潘岳為表。先作二百語以述己之志。岳取而次比之。便成名筆。時人咸云。若廣不假岳之筆。岳不假廣之旨。無以成斯美也。今覺範口之所談。筆之所錄。兼有二子之美。何哉。大抵文士有妙思者。未必有美才。有美才者。未必有妙思。惟體道之士。見亡執謝。定亂兩融。心如明鏡。遇物便了。故縱口而談。信筆而書。無適而不真也。然則覺範所以兼二子之美者。得非體道而然耶。余是以知士不可不知道也。覺範名慧洪。筠陽人。今住臨川北景德禪寺。盖赴顯謨閣待制朱公之請云。大觀元年十一月一日序。No. 1624
洪覚範は雲菴老人のもとで自在三昧を得た。それゆえ、文筆の世界を自由に遊び歩き、呻き声や咳さえも文章となった。林間に住む優れた人々と掌を打ち合わせて清談するたび、それは必ず尊宿の高潔な行い、叢林に伝わる教え、諸仏菩薩の深遠な真意、賢人や士大夫の余論であった。一事を得るごとに、すぐに記録した。十年ほどの間に、三百余りの事柄が集まった。そのもとに遊学した本明上人は、外見は簡素で粗雑に見えるが、内面は非常に精緻で聡明である。坐禅の余暇に、彼の記録を上下二巻に分け、『林間録』と名付けた。記録された順序に従い、古今を基準に配列しなかった。談笑の中から自然に生まれたもので、無理に作られたものではないため、その文章はゆったりとして平易で、難解で険しい様子はない。人々は皆、本明がこの記録を持っていることを知り、彼の訪れる地では、借覧を求める者が市をなすほどであった。本明は、文字が摩滅し、写し間違いで真意が失われることを恐れ、版木に刻んで私に序文を依頼し、後世に伝えようとした。私は思う、この文章の編纂は、宗教にとって有益であり、凶作の年の粟や稷、寒さの年の絹や綿のようなものだ。私の序文を待たずして、すでに伝わるものであろう。しかし、この文章に託して不朽を伝えたいという願い、これこそ私が黙っていられなかった理由である。昔、楽広は清談を得意としたが筆は長けず、潘岳に表文の作成を依頼し、まず二百語で自分の志を述べた。潘岳はそれを取り上げて整え、名文となった。当時の人々は皆言った、もし楽広が潘岳の筆を借りず、潘岳が楽広の趣旨を借りなければ、この美文は生まれなかったと。今、洪覚範の口から語られ、筆で記録されたものは、この二人の美点を兼ね備えている。なぜだろうか。およそ文士には、妙なる思慮があっても美才に欠ける者があり、美才があっても妙なる思慮に欠ける者がある。ただ、道を体得した者は、執着が消え、乱れが治まり、心は明鏡のごとく、物事に触れればすぐに理解する。それゆえ、口を開けば語り、筆を走らせれば書き、どこに向かっても真実から外れない。ならば、洪覚範が二人の美点を兼ね備えているのは、道を体得したからではないか。私はここに、士たる者は道を知らなければならないと悟る。洪覚範の名は慧洪、筠陽の人。今は臨川の北にある景德禅寺に住している。これは顕謨閣待制の朱公の招きに応じたためである。大観元年十一月一日、序す。
石門洪覺範林間錄
石門洪覚範林間録