初西晉會稽鄮塔者。今在越州東三百七十里鄮縣界。東去海四十里在縣東南七十里。南去吳村二十五里案前傳云。晉大康二年。有并州離石人劉薩何者。生在畋家弋獵為業。得病死。蘇見一梵僧語何曰。汝罪重。應入地獄。吾閔汝無識且放。今洛下齊城丹陽會稽。並有古塔及浮江石像。悉阿育王所造。可勤求禮懺。得免此苦。既醒之後。改革前習出家學道。更名慧達。如言南行至會稽海畔。山澤處處求覓。莫識基緒。達悲塞煩惋投告無地。忽於中夜聞土下鍾聲。即迂記其處剡木為剎。三日間忽有寶塔及舍利從地踊出。靈塔相狀青色似石而非石。高一尺四寸。方七寸。五層露盤。似西域于闐所造。面開窓子四周天鈴。中懸銅磬每有鍾聲。疑此磬也。繞塔身上並是諸佛菩薩金剛聖僧雜類等像。狀極微細。瞬目注睛乃有百千像現。面目手足咸具備焉。斯可謂神功聖迹。非人智所及也。今在大木塔內。於八王日舁巡邑里。見者莫不下拜念佛。其舍利者在木塔底。其塔左側多有古迹。塔側諸暨縣。越舊都之地。以句章對鄮剡等四縣為之。諸暨東北一百七里。大部鄉有古越城。周迴三里。地記云。越之中葉在此為都。離宮別舘遺基尚在。悉生豫章。多在門階之側。行伍相當森竦可愛。風雨晦朔猶聞鍾磬之聲。百姓至今多懷肅敬。其迹繁矣。諸暨西北百里。新義鄉有許公巖。地志云。晉時高陽許詢字玄度。與沙門支道林為友。每相從歷覽山水。至此乃栖焉。晉辟度為司徒掾。徵不就。後詣建鄴。見者傾都。劉恢為丹陽尹。有名當世。日數造之。歎曰。今見許公。使我遂為輕薄。京尹於郡立齊以處之。至于梁代此屋猶在。許掾既反。劉尹甞至其齊曰。清風朗月何甞不恒思玄度矣。句章縣西南一百三十里。明鄉有四明天台赤城瀑布等山。天下稱最。東北百四十里。有沙塘道。廣數丈入海百餘里。地記云。是秦皇追安期先生於蓬萊。至深而息。故此塘道至今宛然。鄮縣古城在句章東三百餘里。昔閩越所都。其靈塔即縣界孝義鄉也。地志云。阿育王造八萬四千塔。此其一也。宋會稽內史孟顗修理之。山有石坎。方可三尺。水味清淳冬溫夏冷。輿地志云。阿育王釋迦弟子。能役鬼神。一日夜於天下造佛骨寶塔八萬四千。皆從地出。案晉沙門竺慧遠云。東方兩塔。一在於此一在彭城。今秣陵長干。又是其一。則有三矣。今以經驗億家一塔。計此東夏理多不疑。且見揚越即有二塔。廣袤九域故有之焉。會稽記云。東晉丞相王導云。初過江時。有道人神彩不凡。言從海來相造。昔與育王共遊鄮縣下真舍利起塔鎮之。育王與諸真人捧塔飛行虛空入海。諸弟子攀引。一時俱墮化為烏石。石猶人形。其塔在鐵圍山也。太守褚府君云。海行者述。島上有聚烏石作道人形。頗有衣服。褚令鑿取將視之。石文悉如袈裟之狀。東海不遠。島上是徐偃王避地之處。宮郭古基宛然。昔周穆西巡。登崑崙山。偃王乃有統焉。穆王聞之馳還。日行萬里。偃王避之於此。晉孫恩作逆。寄仙妖以惑眾。築城自衛。其處猶存。梁祖普通三年。重其古迹建木浮圖。堂殿房廊周環備滿。號阿育王寺。四面山繞林竹葱翠。花卉間發走飛相娛。實閑放者之佳地也。有碑頌之。著作郎顧胤祖文。寺東南三十五里。山上有佛右足跡。寺東北二里。山頭有佛左足跡。二所現于石上莫測其先。寺北二里有聖井。其實深池鰻魚。俗號為魚菩薩也。人至井所禮拜。魚隨聲出來。賊過偽禮。魚出。賊便以刀斫之。因斷魚尾。自爾潛隱魚不時出。有至心邀請禮拜者。但濆水而已。初有一僧聞塔來禮。處所荒涼恃食為難。有一老姥患脚。來為造食便去如是怪之。去後私尋乃入池內據量。即魚所化也。其塔靈異往往不一。大略為瑞多現。聖僧遶塔行道每夕然燈。於光影中現形在壁旋轉而行。且列數條多則詞費。
初めに西晋の会稽鄮塔について述べる。現在は越州の東三百七十里、鄮県の境界内にある。東へ海まで四十里、県の南東七十里の地点。南へ呉村まで二十五里。前代の伝承によれば、晋の太康二年(281年)、并州離石出身の劉薩何という人物がいた。狩猟を生業とする家に生まれ、病で死にかけたが蘇生し、一人の梵僧(インド僧)に会った。僧は言った。「汝の罪は重く、地獄に堕ちるべき者である。しかし汝に識見なきを憐れみ、今しばらく許そう。洛下・斉城・丹陽・会稽の地には、いずれも古塔と浮江の石像がある。これらはすべて阿育王の造ったものである。勤めてこれを求め礼拝懺悔せよ。そうすればこの苦しみを免れることができる」。目覚めた後、劉薩何は以前の習いを改め、出家して仏道を学び、名を慧達と改めた。教えの通り南へ向かい会稽の海辺に至り、山や沢をくまなく探し求めたが、その基址(塔の跡)を見つけることはできなかった。慧達は悲しみ煩悶し、頼るところもなく途方に暮れた。するとある真夜中、突然地中から鐘の音が聞こえた。その場所を覚えて目印を立て、木を削って塔の相輪(剎)を作った。三日後、突然宝塔と舎利が地中から湧き出た。霊塔の様子は青色で石のようだが石ではなく、高さ一尺四寸、幅七寸、五層の露盤(塔の屋根の飾り)があり、西域の于闐で造られたものに似ている。四面に窓が開き、周囲には天鈴(小さな鈴)が下がり、中には銅磬が吊るされている。たびたび聞こえる鐘の音は、この磬の音であろう。塔の周囲には諸仏・菩薩・金剛・聖僧など様々な尊像が描かれており、その様は極めて微細で、目を凝らして注視すると、百千の像が現れる。顔や手足もすべてそろっている。まさに神功聖迹、人の智恵では計り知れないものである。現在は大木塔の中に納められ、八王日(斎日)には邑里(町)を巡行し、見る者は皆拝礼し念仏を唱える。その舎利は木塔の底にある。塔の左側には多くの古跡がある。
塔の側にある諸曁県は、越の旧都の地である。句章・鄮・剡など四県を合わせてできた。諸曁の北東百七里、大部郷に古越城がある。周囲三里。地記によれば、越の中頃、ここに都を置いた。離宮や別館の遺構がまだ残っており、多くは門階の側に豫章(木の名)が生え、行列をなして聳え立ち、厳かで美しい。風雨の日や夜明け前にも、なお鐘や磬の音が聞こえるという。百姓は今でも多くが厳粛な敬意を抱いている。その遺跡は多い。
諸曁の西北百里、新義郷に許公巖がある。地志によれば、晋の時代、高陽の許詢(字は玄度)という人物がおり、沙門の支道林と親友だった。二人はよく共に山水を巡り、ここに住んだ。晋の朝廷は許詢を司徒掾に任命しようとしたが、彼は応じなかった。後に建鄴(南京)に行くと、見物人が都を傾けるほどだった。丹陽尹の劉恢は当世の名士で、日々彼を訪ねては「今、許公に会って、私は軽薄な者になってしまった」と嘆いた。京尹(劉恢)は郡に斎舎を建てて彼を住まわせた。梁の時代になってもこの建物はまだ残っていた。許掾(許詢)が帰った後、劉尹(劉恢)がかつてその斎舎を訪れ、「清風朗月、いつも玄度のことを思わずにはいられない」と言ったという。
句章県の南西百三十里、明郷には四明山・天台山・赤城山・瀑布山などがあり、天下にその景勝を称えられる。北東百四十里には沙塘道という道があり、幅数丈で海中へ百余里も続いている。地記によれば、これは秦の始皇帝が安期先生を蓬莱まで追いかけ、深く入り過ぎて休んだ所である。だからこの塘道は今でもはっきりと残っているのだという。
鄮県古城は句章の東三百余里にある。昔、閩越の都があった所である。その霊塔は県内の孝義郷にある。地志によれば、阿育王が八万四千の塔を造り、これはその一つである。宋の会稽内史・孟顗がこれを修理した。山に石の坎(くぼみ)があり、およそ三尺四方で、水の味は清らかで、冬は温かく夏は冷たい。輿地志によれば、阿育王は釈迦の弟子で、鬼神を使役することができ、一日一夜のうちに天下に仏舎利の宝塔八万四千を造り、すべて地中から出現させたという。晋の沙門・竺慧遠によれば、東方に二つの塔があり、一つはここに、もう一つは彭城にある。今、秣陵の長干にもう一つあるので、合わせて三つになる。今、経験から考えると、億の家に一つの塔がある計算になるので、この東夏(中国)にも理屈上は多くあるはずで疑う余地はない。そして実際、揚越(江南地方)だけでも二つの塔が見られる。広大な国土全体では、当然あるのだろう。会稽記によれば、東晋の丞相・王導が言うには、「初めて江(長江)を渡った時、風采の非凡な道士がいて、海から来て訪ねてきたと言った。昔、育王(阿育王)と共に鄮県に遊び、真の舎利を下ろして塔を建て鎮めた。育王と諸々の真人が塔を捧げて虚空を飛行し海に入った。諸弟子が引き止めようとしたが、皆一度に墜落して烏石(黒い石)と化した。石はなお人形をしている。その塔は鉄囲山にある」。太守府君の話では、「海を行く者の述べるところでは、島に烏石が集まって道士の形を作っており、衣服らしきものもある。褚令(ある役人)がそれを切り取って見ると、石の文様はまるで袈裟のようだった」。東海は遠くなく、島は徐偃王が避難した所である。宮殿の古い基壇がはっきりと残っている。昔、周の穆王が西へ巡行し崑崙山に登った時、偃王は統治を行っていた。穆王はこれを聞いて急ぎ戻り、一日万里を行った。偃王はここに逃れた。晋の孫恩が反乱を起こした時、仙術や妖術をもって民衆を惑わし、城を築いて自衛した。その場所はまだ残っている。
梁の高祖・普通三年(522年)、この古跡を重んじて木造の浮図(仏塔)を建立した。堂・殿・房・廊が周囲を巡り、すべてが整っている。阿育王寺と号する。四面を山に囲まれ、林や竹は青々と茂り、花が咲き乱れ、鳥獣が戯れる。まさに閑静な隠棲の地である。碑文があり、著作郎の顧胤祖が文を書いた。
寺の南東三十五里の山に、仏の右足の跡がある。寺の北東二里の山の頂に、仏の左足の跡がある。二か所とも石の上に現れており、その起源は測り知れない。寺の北二里に聖井がある。実は深い池で、鰻がいる。俗に「魚菩薩」と呼ばれている。人が井戸の所で礼拝すると、魚は声に応じて出てくる。賊が偽って礼拝すると、魚が出てきたので、賊は刀でそれを斬りつけ、尾を切り落とした。それ以来、魚は潜って隠れ、時を定めずに出てくるようになった。真心を込めて礼拝し招請する者がいても、ただ水が湧き出るだけである。初めに一人の僧が塔を聞いて礼拝に来たが、場所が荒れていて食事の調達が難しかった。ある老婆が足を患いながら、食事を作りに来ては去っていった。僧は怪しんだ。老婆が去った後、こっそり後を追うと、彼女は池に入っていった。よく考えれば、それは魚の化身だったのである。この塔の霊異はしばしば起こり、一つではない。おおむね瑞祥として多く現れる。聖僧が塔を巡って行道し、毎晩灯を灯すと、その光影の中に壁に姿を現し、回りながら歩く。まだいくつか例を挙げられるが、多くを語れば言葉が冗長になる。
貞觀十九年。敏法師者。禹穴道勝歷覽聖迹。依然動神領徒數百。來寺一月敷講經論。士俗咸會。夜中有人見梵僧百餘遶塔行道。以事告眾寺僧曰。此事常有不足可怪。自古至今四大良日。遠近來寺建齋樹福。然於夜中每見梵僧行道誦經讚頌等相。
貞観十九年。敏法師という方が、禹穴道勝とともに聖地を巡礼し、心を動かされ、数百人の弟子を率いて当寺に一月間滞在し、経典と論書を講義されました。在家・出家を問わず多くの人々が集いました。
ある夜、百人以上のインド僧が塔を巡り行道しているのを見た人があり、そのことを皆に告げると、寺の僧は言いました。「それはよくあることで、驚くには及びません。昔から今に至るまで、四大の吉祥日に、遠近から人々が寺に来て斎を設け福を積みますが、その夜にはいつも、インド僧が行道し、経を誦し、讃頌する様子が見られるのです。」
永徽元年。會稽處士張太玄。於寺禮誦。沙門智悅獨與太玄連床而寢。半夜聞誦金剛般若。了了分明。二人靜聽形心欣泰。乃至誦訖。然契其相若真尋視無形。明知神授矣。
永徽元年のこと、会稽の隠士・張太玄が寺で礼拝と読経をしていた。沙門の智悅はただ一人、太玄と連れ添って床に就いた。夜半、『金剛般若経』の読経がはっきりと聞こえてきた。二人は静かに耳を傾け、身も心も安らぎに満たされた。読経が終わるまでそのまま聞き入り、その響きに深く感銘を受けた。しかし、姿を探しても誰もいない。明らかに神仏の授かりものだと悟ったのである。