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  1. 集神州三宝感通録 (集神州三寶感通錄)
  2. 第一 (第一)
  3. 東晋金陵長干塔縁二 (東晉金陵長干塔緣二)
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集神州三宝感通録 (集神州三寶感通錄)


二東晉金陵長干塔者。今在潤州江寧縣故揚都朱雀門東南古越城東廢長干寺內。昔西晉末統江南。是稱吳國。於長干舊里有古塔地。即育王所搆也。依於邑里既崩子亮立。孫琳執政。五鳳中毀除佛寺。此塔同湮而舍利潛地。吳平之後。諸僧頗依故處而居起塔三層。既不得舊塔之基。事迹無沒莫之或識。至。

東晋の金陵長干塔は、現在、潤州江寧県の旧揚都朱雀門の東南、古越城の東にある廃長干寺内にあります。昔、西晋の末期、江南を統治していたのは呉国と呼ばれていました。長干の旧里には古い塔の跡地があり、それは阿育王によって建てられたものです。邑里が崩壊した後、子亮が立ち、孫琳が政権を執りました。五鳳年間に仏寺が破壊され、この塔も共に埋もれ、舎利は地中に潜りました。呉が平定された後、僧侶たちはかつての場所に依って住み、三層の塔を建てました。しかし、旧塔の基礎は得られず、その事跡は埋もれて誰も知る者がいませんでした。

東晉咸安二年。簡文立塔三層。孝武上金相輪露盤。冥祥記云。簡文有意興搆。未遂而崩。即三層之塔。疑是先立至孝武太元末。有并州西河沙門劉慧達本名屑荷。見於僧傳。來尋古塔莫知其地。乃登越城四望。獨見長干有異氣。便往禮拜而居焉。時於昏夕每有光明。迂記其處掘之入地丈許。得三石碑長六尺。中央一碑鑿開方孔。內有鐵銀金三函相重。於金函內有三舍利。光明映徹。及爪甲一枚。又有一髮。申可數尺。旋則成螺光彩照曜。咸以為育王之所藏也。即從就塔北。更築一塔。孝武加為三層。故寺有兩塔。西邊是育王古塔也。丹陽尹王雅奉五斗米。道常謂宜黜佛法除毀塔寺。其日下詔。令會稽王道子將雅觀焉。時沙門正行舍利至雅撥翻其鉢而舍利附于器內。終不墜落。王更貯清水燔香。呪曰。王丹陽酷不信法。世尊威靈願有以津示。應聲光明煥然騰發。雅自此後雖未能精至。終身不復誣訾佛法。梁大同中。月犯五車老人星見。改造長干寺阿育王塔出舍利髮爪。天子幸寺設大無礙法會。下詔曰。天地盈虛與時消息。萬物不得齊其蠢生。二儀不得恒其覆載。故勞逸異年懽慘殊日。去歲失稔斗粟貴騰。民在困窮運臻斯濫。原情察理或有可矜。下車問罪聞諸往誥。責歸元首寔在朕躬。若皆以法繩則自新無路。書不云乎與其有殺不辜寧失不經。易曰。隨時之義大矣哉。今真形舍利復見於世。逢希有之事。起難遭之想。今出阿育王寺設無礙會。耆年童齒莫不欣悅。如積飢得食。如久別見親。幽顯歸心遠近顒仰。士女霞布冠蓋雲集。同時布德允叶人靈。凡天下罪無輕重。皆赦除之。今潤州江寧故地但有甎基三層并剎佛殿。餘則榛木荒叢。非人所涉示。是古基而已。頻有大蟲。發塔基者多自死。而草深人希惟有惡獸。於中產育。或銜鹿而血污塔者。尋被打撲號呌驚人。今去永安坊張侯橋七八里。余本住京師曲池。日嚴寺。寺即隋煬所造。昔在晉蕃作鎮淮海。京寺有塔未安舍利。乃發長干寺塔下取之入京。埋於日嚴塔下。施銘於上。于時江南大德五十餘人咸言。京師塔下舍利非育王者。育王者乃長干本寺而不測其是非也。至武德七年日嚴寺廢。僧徒散配房宇官收。惟舍利塔無人守護。寺墌屬官事須移徙。余師徒十人配住崇義。乃發掘塔下得舍利三枚。白色光明大如黍米。并瓜一枚。少有黃色。并白髮數十餘。有雜寶瑠璃古器等。總以大銅函盛之。檢無螺髮。又疑爪黃而小如人者。尋佛倍人爪赤銅色。今則不爾。乃將至崇義寺佛堂西南塔下。依舊以大石函盛之。本銘覆上埋于地府。余問隋初南僧。咸曰。爪髮梁武帝者。

東晉の咸安二年、簡文帝が三層の塔を建立しました。孝武帝が金の相輪と露盤を奉納しました。『冥祥記』には、簡文帝が建立を志したが、果たせずに崩御したと記されています。この三層の塔は、おそらく最初に建立されたものと思われます。孝武帝の太元の末年、并州西河の沙門、劉慧達(本名は屑荷、僧伝に見える)が古塔を尋ねて来ましたが、その場所が分からず、越城に登って四方を見渡しました。すると、長干だけに異様な気配があるのを見つけ、礼拝してそこに住み着きました。夕暮れ時になると、毎夜光が輝くので、その場所に印をつけて掘り返してみると、地下約一丈のところに、長さ六尺の石碑が三つありました。中央の石碑には四角い穴が開けられており、その中に鉄、銀、金の三つの箱が重ねられていました。金の箱の中には三つの舎利があり、光り輝き、また爪一枚と、長さ数尺にも伸びる髪の毛がありました。その髪は渦を巻いて螺のようになり、光り輝いていました。人々はこれを阿育王の秘蔵であると確信しました。そこで、塔の北側にもう一つの塔を築き、孝武帝が三層に増築しました。そのため、寺には二つの塔があり、西側が阿育王の古塔です。

丹陽尹の王雅は五斗米道を信奉し、常に仏法を排斥し、塔寺を破壊すべきと主張していました。ある日、詔勅が下り、会稽王の道子が王雅を連れて視察に来ました。その時、沙門の正行が舎利を捧げ持って来ると、王雅が鉢をひっくり返しましたが、舎利は器に付着したまま、決して落ちませんでした。王はさらに清水を注ぎ、香を焚いて呪文を唱えました。「王丹陽は頑なに仏法を信じません。世尊の威霊よ、どうか示現してください。」すると、応えるかのように光が輝き、立ち上りました。これ以来、王雅は精進こそできませんでしたが、生涯仏法を誹謗することはなくなりました。

梁の大同年間、月が五車星と老人星を犯すという現象がありました。長干寺の阿育王塔を改築したところ、舎利と髪、爪が現れました。天子は寺に行幸し、大無礙法会を設け、詔を下しました。「天地は盈虚し、時とともに消息する。万物はその蠢生を斉しくすることはできず、二儀はその覆載を恒にすることはできない。故に労逸は年を異にし、歓惨は日を殊にする。昨年は凶作で、一斗の粟が高騰し、民は困窮に陥り、運はこの濫に至った。情を原り理を察すれば、あるいは矜るべきものがある。下車して罪を問うは、往誥に聞くところである。責は元首に帰し、実に朕が躬にある。もし皆法を以て縄とすれば、自新の路無からん。書に云わざるや、『其の殺すに辜なき有るよりは、寧ろ経に失う』と。易に曰く、『時に随うの義、大いなるかな』と。今、真形の舎利、復た世に見え、希有の事に逢い、難遭の想いを起こす。今、阿育王寺に出でて無礙会を設く。耆年も童歯も欣悦せざるは無し、積飢えて食を得るが如く、久しく別れて親を見るが如し。幽顕心に帰し、遠近顒仰す。士女は霞の如く布き、冠蓋は雲の如く集う。時に徳を布くは、允に人霊に叶う。凡そ天下の罪、軽重を問わず、皆赦除すべし。」

現在、潤州江寧の故地には、三層の煉瓦の基壇と相輪、仏殿があるのみで、他は雑木の荒れた藪であり、人が入ることはできません。古い基壇を示しているだけです。頻繁に大虫が現れ、塔の基壇を掘り返そうとする者は多くが死に至ります。草は深く人跡稀で、悪しき獣がそこで子を産み育て、鹿を咥えて血で塔を汚すこともありますが、すぐに打たれて驚くべき叫び声を上げます。今、永安坊の張侯橋から七、八里離れたところにあります。

私は元々、京師の曲池にある日厳寺に住んでいました。この寺は隋の煬帝が建立したものです。昔、晋の藩王として淮海を治めていた時、京師の寺に塔はありましたが、舎利が安置されていなかったため、長干寺の塔の下から取り出して京師に運び、日厳寺の塔の下に埋め、銘を刻みました。当時、江南の大徳五十余人が皆、「京師の塔の下の舎利は阿育王のものではない。阿育王のものは長干の本寺にある」と言いましたが、その真偽は測りかねました。

武徳七年、日厳寺は廃寺となり、僧侶は散り散りに配属され、建物は官に収められました。ただ舎利塔だけは誰も守護する者がおらず、寺の敷地は官に属し、移転を余儀なくされました。私と師匠弟子十人は崇義寺に配属され、塔の下を発掘したところ、三つの舎利を得ました。白色で光り輝き、粟粒ほどの大きさでした。また、爪一つ、少し黄色がかったもの、そして白髪数十本、雑宝、瑠璃、古器などがあり、すべて大きな銅の函に収められていました。螺髪はなく、爪は黄色く小さく人間のもののようでしたが、尋ねたところ、仏の爪は人の倍で赤銅色だと聞きました。今のはそうではありません。そこで、崇義寺の仏堂の西南の塔の下に、以前と同じように大きな石の函に収めて埋め、元の銘を上に覆いました。私は隋の初めの南方の僧に尋ねたところ、皆、「爪と髪は梁の武帝のものである」と言いました。

舍利則有疑焉。埋之本銘置于其上。據事以量則長干佛骨頗移於帝里。然江南古塔猶有神異。崇義所流。蓋蔑如也。故兩述之矣。但年歲綿遠後人莫測。略編斯紀以顯厥緣云。

舎利については疑問がある。本来の銘文を埋め、その上に置いた。事実に基づいて推測すれば、長干の仏舎利は帝京に移された可能性が高い。しかし、江南の古塔にも依然として霊験がある。崇義が伝えた話は、これに比べれば取るに足らない。そこで両方の説を記した。ただ年月が遠く、後世の人は真相を知り得ない。ここに大まかな記録を編んで、その由来を明らかにしておく。


西晉會稽鄮塔緣一
石趙青州東城塔緣三

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