上真記云。祝融氏為赤帝治衡霍山即衡岳也。衡岳者五岳之南岳。即周官所謂荊州之鎮也。又夏書云宛委山也。道典云。五岳五山各有儲佐。昔黃帝遊觀六合。徵召神靈。見東中西北四岳。並有佐命之司。惟有南岳峙而無。乃與昌宇力牧方明等章詞三天。太上使命霍山潛山為南岳儲君。拜青城為丈人。署廬山為使者。令總衡岳以鼎鎮。舉德正而為主。儲君者衡岳之副君也。述異誌云。南岳者盤古左臂。至漢武南巡。以南嶽遼遠。乃徙其祭於廬江。亦承軒轅副義也。湘中記云。衡山朱陵之靈臺。太虛之寶洞。上承軫宿。銓德鈞物。應度璣衡。故名衡山。下踞離宮。攝位火鄉。赤帝館其嶺。祝融宅其陽。故曰南嶽。禹貢云。荊及衡陽惟荊州。又云。南巡至于衡岳。(孔注南岳衡山也)爾雅云。霍山為南岳。即衡霍也。又五岳經云。廬山.麻姑山.玉笥山.洞陽山.大圍山.九疑山.羅浮等山.為之佐命。徐靈期南岳記云。朱陵洞天名太虛。小有之天。周迴八百里。中有青玉壇.光天壇.洞靈原洞.真墟四福地。迴雁為首。岳麓為足。又五岳真形圖云。上有流丹。方四十里。生芝英。南有天津甘泉。得飲之長生不死。東有玉砂曾青白石英。西有崑水。北有赤芝。自下而上。九千七百三十丈。東至洞陽。西抵白鶴雲陽面其南大圍踞其北。西南臨湘川。自湘川至長沙七百里。東北至長沙二百七十里。西踞衡陽九十里。石鼓乃朱陵之西門。青草是衡山之左腋。越縣三十里。夾道杉松蒼翠不斷。雖盛暑不假張蓋。其爽籟飄蕭激人耳目。道有四亭。為遊人頓息之所。其山形勢。九向九背。應九陽之數。觀覽無極。實為三十六洞天之第三洞也。故冲妙先生李思聰南岳朱陵洞天詩云。靈峯七十二巑岏。紫蓋芙蓉杳靄間。影浸瀟湘盤地脈。秀擎翼軫插天關。真君玉冊光千古。赤帝璇宮鎮八蠻。好比吾皇大椿算。萬年松在最高山。本隷衡陽。至天福五年始割於長沙郡。淳化中衡陽太守成珣。復乞附著衡陽。四年方詔依舊隷潭州。以便國家祈禱民之輸賦。則從制置使雷有終之奏請焉。
上真記にこうあります。祝融氏は赤帝として衡霍山を治めました。これが衡岳です。衡岳とは五岳のうちの南岳で、『周官』にいう荊州の鎮めの山にあたります。また『夏書』には宛委山とも記されています。道典にはこうあります。五岳・五山にはそれぞれ副神がいます。昔、黄帝が天下を見て回り、神霊を招き集めたとき、東・中・西・北の四岳にはいずれも補佐の役がありましたが、南岳だけはそびえ立つだけで副神がいませんでした。そこで黄帝は昌宇・力牧・方明たちとともに三天に願い出ました。太上は霍山と潜山を南岳の儲君とし、青城を丈人とし、廬山を使者としました。そして衡岳を総括して鼎のように鎮め、徳の正しい者を挙げて主とされたのです。儲君とは衡岳の副君のことです。述異誌にはこうあります。南岳は盤古の左腕です。漢の武帝が南巡したとき、南岳は遠く離れているとして、その祭祀を廬江に移しました。これも軒轅の副君の意味を受け継いだものです。湘中記にはこうあります。衡山は朱陵の霊台であり、太虚の宝洞です。上は軫宿を受け、徳を量り物を均し、天の璣衡に応じて動くので、衡山と名づけられました。下は離宮に位置し、火の郷の位を司ります。赤帝はその嶺に宿り、祝融はその南に住みました。それゆえ南嶽と呼ぶのです。禹貢にはこうあります。荊州および衡陽は荊州であると。またこうあります。南巡して衡岳に至ったと。(孔注にいう南岳は衡山のことです)爾雅にはこうあります。霍山を南岳とする。これが衡霍です。また五岳経にはこうあります。廬山・麻姑山・玉笥山・洞陽山・大囲山・九疑山・羅浮山などが、その副神の山です。徐霊期の南岳記にはこうあります。朱陵洞天は太虚小有の天と名づけられます。周囲は八百里。中に青玉壇・光天壇・洞霊原洞・真墟の四つの福地があります。迴雁が頭で、岳麓が足です。また五岳真形図にはこうあります。上には流丹があり、四方四十里。芝英が生えています。南には天津甘泉があり、これを飲めば長生不死を得ます。東には玉砂・曾青・白石英があります。西には崑水があります。北には赤芝があります。下から上まで九千七百三十丈。東は洞陽に至り、西は白鶴雲陽に抵り、その南に面し、大囲がその北にそびえています。西南は湘川に臨みます。湘川から長沙まで七百里。東北は長沙まで二百七十里。西は衡陽まで九十里。石鼓は朱陵の西門です。青草は衡山の左脇です。越県を三十里。道の両側の杉や松は青々と続き、真夏でも傘を広げる必要がありません。その爽やかな風は寂寥と響き、人の目と耳を打ちます。道には四つの亭があり、旅人が休む場所となっています。その山の姿は、九たび向きを変えて九たび背を向け、九陽の数に応じています。眺めはきわまりなく、まことに三十六洞天の第三洞です。それゆえ冲妙先生李思聡の南岳朱陵洞天の詩にこうあります。霊峯七十二巑岏たり。紫蓋芙蓉杳靄の間。影は瀟湘に浸り地脈を盤み。秀は翼軫を擎げて天関に插す。真君の玉冊は千古に光り。赤帝の璇宮は八蛮を鎮む。吾皇の大椿の算に比すべし。万年の松は最高の山に在り。もとは衡陽に属していました。天福五年になって初めて長沙郡に割かれました。淳化年間に衡陽太守の成珣が、再び衡陽に付属させることを願い出ました。四年になって、ようやく元どおり潭州に属させる詔が出ました。国家の祈禱と民の納税を便利にするためでした。これは制置使の雷有終の奏請に従ったものです。