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title: "大慧普覺禪師語錄 · 大慧普覺禪師塔銘"
description: "大慧普觉禅师语录由宋代高僧蕴闻编集，收录了临济宗高僧大慧宗杲的禅法开示、书信、法语等。宗杲禅师是两宋之际禅宗巨匠，提倡看话禅，对后世影响深远。此语录系统阐述其禅学思想，强调疑情参究、真参实悟，批判当时流弊，是研究宋代禅宗特别是看话禅的重要典籍。该书在佛教史上地位崇高，是禅门必读经典，对中日韩禅法发展均有深远影响。"
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### 大慧普覺禪師塔銘

> 大慧普觉禅师塔铭

少師保信軍節度使充醴泉觀使魏國公張浚撰

> 少師保信軍節度使充醴泉觀使魏國公張浚撰

隆興元年。八月十日。大慧禪師宗杲。示寂于徑山明月堂。皇帝聞之嗟惜。詔以明月堂為妙喜菴。賜諡普覺。塔曰寶光。用寵賁之。其徒以師全身。葬於菴之後。使了賢來請銘。先是上為普安郡王時聞師名。嘗遣內都監。至徑山謁師。師作偈以獻上。上甚嘉之。及在建邸。復遣內知客。請師山中。為眾說法。親書妙喜菴大字。及製真讚寄師。又二年而上即位。始賜號大慧禪師。明年復取向所賜宸翰。以御寶識之恩寵加厚而師亡矣。仰惟主上神聖英武。資不世出。而惠顧一方外之士如此。蓋師於釋氏。所謂卓然傑出於當世者。忠誠感格得之天理。是以上動宸心。眷知特異。吁其盛哉。自昔聖賢。以傳心為學。誠明合體。變化興焉。西方之教。指心空為解脫究竟。蓋得一而不見諸用。而悟入要處。或幾於盡性者所為。後世三宗並行。臨濟正傳。號為得人。超出聲塵。不立一法。根源直截。以證為極。焜燿震動。卷舒無礙。如師子兒。游戲自在。獲大無畏。此固不可以智知識識也。臨濟六傳至楊岐。楊岐再世。而圜悟禪師克勤。得法于五祖演。被遇兩朝。其道蓋盛行矣。師實嗣圜悟。益光明焉。師諱宗杲。宣州寧國人。姓奚氏。年十七為浮圖。不欲居鄉里。從經論師。即出行四方。始從曹洞諸老宿游。既得其說。歎曰。是果佛祖意耶。去之謁準湛堂。準識師眉睫間。久謂之曰。子談說皆通暢。特未可以敵生死。吾今疾革。他日見川勤。當能辦子事。勤即圜悟師也。湛堂死。師謁丞相張公無盡。求準塔銘。無盡門庭高於天下。士亦小許可見。師一言而契。即下榻。朝夕與語。名其菴曰妙喜。字之曰曇晦。且謂子必見圜悟師。吾助子往。遂津致行李來京師。見勤于天寧。一日勤陞堂。師豁然神悟。以語勤。勤曰。未也。子雖有得矣。而大法故未明。又一日勤舉演和尚有句無句語。師言下得大安樂法。勤拊掌曰。始知吾不汝欺耶。自是縱橫踔厲。無所疑於心。大肆其說。如蘇張之雄辯。孫吳之用兵。如建瓴水轉圓石於千仞之阪。諸老歛袵。莫當其鋒。于時賢士大夫。往往爭與之游。雅為右丞呂公舜徒所重奏。賜紫衣號佛日大師。會女真之變。其酋欲取禪僧十輩。師在選中。已而得免。蓋若有相之者渡江而南。圜悟方主雲居席。命師居第一座。為眾授道。譽望蔚然。已而去入雲居山。居古雲門。學者雲集。復避亂走湖南。轉江右入閩。築菴長樂洋嶼。時從之者纔五十有三人。未五十日。得法者十三輩。前此蓋未始有也。後皆角立。始應給事江公少明之請。住小谿雲門菴。而浚在蜀時。勤親以師囑謂真得法髓。浚造朝。遂以臨安徑山延之。道法之盛冠于一時。百舍重趼往赴。惟恐後拜其門。惟恐不得見。至無所容。敞千僧大閣以居之。凡二千餘眾。所交皆俊艾。當時名卿。如侍郎張公子韶。為莫逆友。而師亦竟以此遇禍。蓋當軸者。恐其議己惡之也。毀衣焚牒。屏居衡州。凡十年徙梅州。梅州瘴癘寂寞之地。其徒裹糧從之。雖死不悔。噫是非有以真服其心而然耶。又五年。太上皇帝特恩放還。明年復僧服。四方虛席以邀。率不就。最後以朝命住育王。聚眾多食或不繼。築涂由凡數千頃。詔賜其莊名般若。又二年移徑山。師之再住此山。道俗歆慕。如見其所親。雖老接引後進不少倦。居明月堂凡一年。以終將示寂。親書遺奏。及寄聲別右相湯公。又貽書於浚了賢請偈。復取筆大書。不少亂。師雖為方外士而義篤君親。每及時事。愛君憂時。見之詞氣。其論甚正確。晚自徑山來秣陵。見浚垂涕言。先人不幸無後。某之責家貧何所仰願。乞一給使名藉公重。庶有肯就者。浚為惻然興歎。遂奏其族弟道源奉師親後。既退居明月堂。󰂛暑走其鄉。上塚葺治。所存蓋如此。使為吾儒豈不為名士。而其學佛亦卓然自立於當世。非豪傑丈夫哉。卒被光寵。表之無窮。誠有以自致也。所賜御書。建閣藏於妙喜菴。與茲山不磨矣。師壽七十有五。坐夏五十八年。僧俗從師得法悟徹者。不啻數十人。皆有聞于時。鼎需思嶽彌光悟本守淨道謙遵璞祖元冲密。先師而卒。我秦國太夫人亦甞於師問道焉。嗚呼我識師之早。此心默契。未言先同。從容酬接。達旦不倦。人間至樂。孰與等擬。蓋惜其淪沒山林惠利之不博加于人也。然而以道觀之。安可以隱顯去來。索師於形骸之內哉。我實知師。宜為之銘。銘曰。

> 隆興元年八月十日、大慧禅師宗杲は径山明月堂で入滅された。皇帝はこれを聞いて嘆き惜しまれ、明月堂を妙喜庵と名付け、諡号を普覚と賜り、塔を宝光と名付けて、その徳を尊んだ。その弟子たちは師の全身を庵の後に葬り、了賢を遣わして銘文を請うた。 以前、主上が普安郡王でいらした時、すでに師の名声を耳にされ、嘗て内都監を遣わして径山に師を訪ねさせた。師は偈を作って主上に献上し、主上は大いに嘉納された。また建邸にいらした時には、再び内知客を遣わし、師を山中に請じて、大衆のために説法させられた。自ら「妙喜庵」の三字を大きく書し、また真讚を製して師に送られた。さらに二年して主上が即位され、初めて大慧禅師の号を賜った。翌年、先に賜った宸翰を再び取り出し、御宝をもって識された。恩寵は加わり厚くなったが、師はすでに亡くなっていた。 思うに、主上は神聖英武でありながら、世に並ぶ者がないほどの資質を持ちながら、このように一方外の士を顧みられた。これは師が仏教界にあって、卓然として当世に傑出し、忠誠が天理に感じて格たるものがあったからである。それゆえに上は宸心を動かされ、眷知が特に異なっていたのだ。ああ、なんと盛んなることか。 昔から聖賢は心を伝えることを学びとし、誠と明が一体となって、変化が興る。西方の教えは、心の空を指して解脱究極とする。これは一を得てその用を見ないものであるが、悟りに入る要処は、あるいは尽性の者のなすところに近い。後世三宗が並び行われたが、臨済の正伝は、人を得たりと称され、声塵を超出し、一法も立てず、根源は直截で、証を以て極とし、焜耀震動し、巻舒に碍りがない。師子の子が遊戯自在で、大無畏を得るがごとくである。これは固より智識をもって識るべきものではない。 臨済より六伝して楊岐に至る。楊岐から再世して、圜悟禅師克勤が五祖演より法を得て、両朝に遇われ、その道はまさに盛んであった。師は実に圜悟を嗣ぎ、ますます光明を増した。 師の諱は宗杲、宣州寧国の人で、姓は奚氏。年十七で浮図となり、郷里に居るを欲せず、経論の師に従い、ただちに四方へ出た。始め曹洞の諸老宿に従って遊んだが、すでにその説を得て、嘆じて曰く「これは果たして仏祖の意であろうか」と。去って準湛堂に謁した。湛堂は師の眉睫の間に識った。久しくして之に謂って曰く「子の談説は皆通暢であるが、まだ生死に敵うには足らない。吾は今や疾革まっている。他日、川勤に会えば、まさに子の大事を弁ずることができよう」と。勤はすなわち圜悟師である。 湛堂が死ぬと、師は丞相張公無尽に謁して、準の塔銘を求めた。無尽の門庭は天下より高く、士も小許（わずか）に見られる者もあった。師は一言にして契り、即座に榻を下ろし、朝夕に語り合った。その庵を名付けて妙喜とし、字を曇晦とした。かつ言うには「子は必ず圜悟師に見えるべし。吾は子の往くを助けよう」と。ついに行李を津致して京師に来り、勤を天寧に見た。 一日、勤が陞堂すると、師は豁然として神悟した。これを勤に語ると、勤曰く「未だし。子は得る所はあるが、大法は故（いまだ）明らかでない」と。また一日、勤が演和尚の有句無句の語を挙すると、師は言下に大安楽の法を得た。勤は拊掌して曰く「始めて知る、吾が汝を欺かざることを」と。これより縦横踔厲して、心に疑う所がなく、大いにその説を振るった。蘇張の雄弁のごとく、孫呉の用兵のごとく、高屋建瓴、千仞の坂に円石を転ずるがごときであった。諸老は歛袵して、その鋒に当たる者はなかった。 この時、賢士大夫たちは争って与に遊ぼうとした。雅に右丞呂公舜徒に重んぜられ、奏して紫衣を賜わり、号して佛日大師となった。 女真の変に会い、その酋長が禅僧十輩を取ろうと欲した。師は選中にあったが、已にして免れることを得た。あたかもこれを相する者があったかのようである。江を渡って南に下ると、圜悟はちょうど雲居の席を主としていた。師を命じて第一座とし、大衆のために道を授けた。誉望は蔚然として盛んであった。 已にして去って雲居山に入り、古雲門に居した。学者は雲集した。また避乱して湖南に走り、転じて江右（江西）に入り、閩（福建）に入った。長樂洋嶼に庵を築くと、時に従う者わずか五十三人であったが、五十日を経ずして法を得る者十三輩あった。これは前に曾て有らざる所である。後に皆角立した。 始めて給事江公少明の請に応じ、小谿雲門庵に住した。そして浚（張浚）が蜀にいた時、勤が親しく師を嘱して「真に法の髄を得たり」と謂った。浚が朝に造ると、遂に臨安径山を以てこれを延した。道法の盛んなることは一時に冠たり。百舍重趼（ひゃくしゃじゅうけん）をもって赴き、その門を拝するを惟（こ）れ恐れ、見るを得ざることを惟れ恐れた。至って容る所なく、千僧の大閣を開いてこれを居せしめた。およそ二千余の衆であった。交わる所は皆俊艾（すぐれた人々）で、当時の名卿、侍郎張公子韶のごときは莫逆の友となった。 そして師もまた竟にこのゆえに禍に遇った。当軸者（宰相）が其の己を議するを恐れ、これを悪んだのである。衣を毀ち牒を焚き、屏居して衡州に移った。凡そ十年にして梅州に徙った。梅州は瘴癘の寂寞たる地である。その徒は糧を裹んでこれに従い、死すとも悔いなかった。噫、これ、あに真にその心を服せしむる有って然らしむるにあらざらんや。 さらに五年、太上皇帝の特恩により放還された。明年、また僧服に復した。四方、席を虚うして邀えるも、率（すべて）就かず。最後に朝命をもって育王に住した。衆を聚むること多く、食或いは継がず、涂由なる田を築くこと凡そ数千頃。詔してその荘を般若と名付けた。また二年して径山に移った。 師の再びこの山に住するや、道俗は歆慕し、その親しき所を見るがごとくであった。老いぬるも後進を接引すること少しも倦まなかった。明月堂に居すること凡そ一年にして終わった。 まさに示寂せんとし、親しく遺奏を書き、かつ声を寄せて右相湯公に別れを告げた。また書を浚と了賢に貽して偈を請うた。また筆を取って大書し、少しも乱れなかった。 師は方外の士でありながら、義は君親に篤かった。時に及ぶごとに時事、君を愛し時を憂うることが、詞気に見えた。その論は甚だ正確であった。 晩年、径山より秣陵に来り、浚に見えて涕を垂れて言うには「先人は不幸にして後（あとつぎ）がなく、某の家は貧しくして何をか仰がんと願う。請う、一給使の名籍を乞わん。公の重きを藉りて、庶（ねが）わくは就く者あらんことを」と。浚は惻然として興歎し、遂にその族弟道源を奏して師の親の後を奉ぜしめた。 退居して明月堂に居すること既にして後、暑さの中その郷に走り、塚に上りて葺治した。その存（おく）るところ、蓋しこのようである。彼をして吾儒たらしめば、名士とならざらんや。しかもその仏を学ぶことも、卓然として当世に自立した。これ豪傑丈夫に非ずしてや。 卒（つい）に光寵を受け、表して無窮にした。誠に自ら致す所があるのである。賜わった御書は、閣を建てて妙喜庵に蔵し、この山とともに磨滅せざらん。 師の寿は七十有五、坐夏五十八年。僧俗、師に従いて法を得て悟徹せる者は、数十人に過ぎざるにあらず。皆当時に聞こえがあった。鼎需、思嶽、彌光、悟本、守淨、道謙、遵璞、祖元、冲密らは、師に先だって卒した。我秦國太夫人もかつて師に道を問うたことがある。 ああ、我は師を識ること早く、この心は默契し、言わざるに先だって同じかった。従容として酬接し、達旦しても倦まなかった。人間の至楽、孰かこれと等擬せん。ただその山林に淪没し、惠利を博く人に加えざるを惜しむのみである。しかし道をもって観れば、安んぞ隱顯去來をもって、師を形骸の内に索め得ようか。 我は実に師を知る。宜しく之が銘を為すべきである。銘に曰く、

死生為一 非想非說 證徹了悟一息千劫 嗟師何為 拳拳忠孝欲迪群迷 俾趨正教 嘻笑怒罵佛事熾然 情生智隔 疑謗興焉天目巍巍 終古莫移 師兮道德此山與齊

> 生死は一つであり、思いも及ばず言葉にも表せない。それを悟り尽くすことが、真の覚りである。 一息の間に千の劫が過ぎる。ああ、師よ、何を為されるのか。真心を尽くし、孝と忠を重んじられる。 迷いの群れを導き、正しい教えへと向かわせようとなさる。笑い、怒り、罵ることも、すべては仏の働きである。 仏の教えは盛んに行われるが、情が生じれば智慧は隔てられ、疑いや誹謗が起こるものだ。 天目山は高くそびえ、永遠に動くことがない。師の徳は、この山と共に、いつまでも変わらぬものである。