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一
一つ
緣門問曰、道者為独在於形靈之中耶、亦在於草木之中耶。
問い:道というものは、ただ人間の心身の中にだけ存在するのでしょうか、それとも草や木の中にも存在するのでしょうか。
入理曰、道無所不遍也。
二
問曰、道若遍者、何故煞人有罪、煞草木無罪。
答曰、夫言罪不罪、皆是就情約事、非正道也。但為世人不達道理、妄立我身、煞即有心、心結於業、即云罪也。草木無情、本來合道、理無我故、煞者不計、即不論罪与非罪。夫無我合道者、視形如草木、被斫如樹林。故文殊執劒於瞿曇、鴦掘持刀於釈氏。此皆合道、同証不生、了知幻化虛無。故即不論罪与非罪。
答えよう。罪があるとかないとかいうのは、いずれも感情や出来事に基づいて物事を判断したものであり、正しい道ではない。ただ、世の人々が道理を理解せず、勝手に「自分」というものを立てるからこそ、殺そうとする心が生じ、その心が行為の結果(業)として結びつき、それで「罪」というのである。草木には感情がなく、もともと道にかなっている。道理には「我」がないから、殺す側はそれにこだわらず、罪や罪でないものも問題にしない。この「我」がなく道にかなった者は、自分の身体を草木のごとく見なし、切り倒されるのを林の中の木々のごとく受け入れる。だからこそ文殊菩薩は瞿曇(釈迦)に対して剣を振るい、鴦掘摩羅は釈氏(釈迦)に刃を向けたのである。これらの行いはすべて道にかなっており、同じく不生を証し、すべてが幻のように虚ろで実体のないものであると悟っている。だからこそ、罪や罪でないものについて論じることはないのである。
三
三
問曰、若草木久來合道、経中何故不記草木成仏、偏記人也。
問うていわく、もし草木が久しく道にかなっているのなら、経典の中ではなぜ草木が仏になることを記さず、偏に人だけが仏になることを記しているのでしょうか。
答曰、非独記人、亦記草木。経云、於一微塵中、具含一切法。又云、一切法亦如也、一切眾生亦如也。如無二無差別。
答えましょう。ただ人々の心を記すだけでなく、草木の心も記すのです。経典には「一つの微細な塵の中に、すべての法が含まれている」と説かれています。また「すべての法も真理そのものであり、すべての衆生も真理そのものである。真理に二つはなく、差別もない」ともあります。