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title: "金剛經演古 · 第二十一疑"
description: "《金刚经演古》是清代僧人寂燄对《金刚经》的注疏之作。该书成于清代佛教复兴与禅净合流背景下，旨在以古德智慧阐释般若空性思想。内容上，寂燄通过逐段演析经文，融合禅宗心要，强调离相破执、无住生心的修持核心。作为《金刚经》重要注本之一，它既承袭唐宋古释传统，又具清代禅学特色，为研究般若经典及清代佛教思想提供了关键文献，在佛教义理传承与实践指导中具有较高地位。"
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○第二十一疑云：既言是法平等，無有高下，云何如來度眾生耶？

> 第二十一の疑問：『この法は平等であり、上下の差別はない』と言うならば、なぜ如来は衆生を救済するのでしょうか？

須菩提！於意云何？汝等勿謂如來作是念：我當度眾生。須菩提！莫作是念。何以故？實無有眾生如來度者。若有眾生如來度者，如來則有我、人、眾生、壽者。須菩提！如來說有我者，即非有我，而凡夫之人以為有我。須菩提！凡夫者，如來說即非凡夫，是名凡夫。

> 須菩提、あなたはどう思いますか。如来が「私は衆生を救済しよう」と考えていると思ってはいけません。須菩提よ、そのように考えてはいけません。なぜなら、実際には如来が救うべき衆生など存在しないからです。もし如来が救うべき衆生が存在するなら、如来には自己・他人・衆生・寿命への執着があることになります。須菩提よ、如来が「我がある」と言う時、それは真の我ではなく、凡夫が誤って「我がある」と思い込んでいるにすぎません。須菩提よ、如来が「凡夫」と呼ぶものは、実は凡夫ではなく、仮に凡夫と名づけているにすぎません。

此斷平等，云何度生疑也？

> この平等の教えによって、どうして衆生の疑いを超え渡らせるのだろうか。

初．遮錯解曰：汝勿謂如來度眾生，切莫作是念也。

> 初めに、遮り誤解を解く： 「あなたは如来が衆生を救済すると言ってはならない。 どうかそのような考えを起こしてはならない。」

次．示其正見。曰：以何義故，謂實無眾生得滅度者？蓋平等真法界，佛不度眾生，以名共彼陰，不離於法界。論云：眾生假名與五陰實法，皆不離法界，故無眾生得滅度者。

> 次に、正しい見解を示す。それはこうである。なぜ「実に、悟りを得る衆生などいない」と言うのか。それは、真実の法界は平等であり、仏は衆生を救うことがないからである。なぜなら、名前や「陰」と呼ばれる要素はすべて、この法界を離れないからである。論にはこうある。「衆生という仮の名前も、五陰という実在の要素も、すべて法界を離れない。それゆえ、悟りを得る衆生は存在しないのである。」

三．反釋其所以。曰：若如來有如是心，五陰中有眾生可度，則有我人等相。又展轉拂迹。曰：佛雖說我，元來無我。執我者，蓋是凡夫。雖言凡夫，亦無凡夫。譬之夢中見虎，虎與夢人，皆不可得。然凡夫執我，故云非我。恐執凡夫，故云非凡夫。邐迤除遣執情，故云展轉拂迹。然前後四處，皆說度生無度，文雖同而意異。最初令離我度生。十一疑，能度者是我。十四疑，無我而誰度。此二十一疑，真界平等，不合度生。同異昭然，應須甄別。

> 三、その理由を説明する。もし如来に「五陰の中に度すべき衆生がいる」という心があれば、それは我相・人相などの執着があることになる。さらに、次々と執着の跡を払っていく。仏は「我」と言っても、本来「我」はない。「我」に執着するのは凡夫である。しかし「凡夫」と言っても、実在の凡夫はいない。たとえば夢の中で虎を見たとして、虎も夢の中の自分も、どちらも実体としては得られない。それでも凡夫は「我」に執着するから、「我に非ず」と説くのである。また、「凡夫」という概念に執着するのを防ぐため、「凡夫に非ず」と説くのである。このようにして執着の情を徐々に除いていくことを、「次々と執着の跡を払う」と言うのである。 さて、前後四か所で「衆生を度しても、度すことなし」と説かれているが、文は同じでも意味は異なる。最初は「我を離れて衆生を度せよ」と説く。第十一の疑問は「能度の主体である我」、第十四の疑問は「我が無ければ誰が度すのか」、そしてこの第二十一の疑問は「真如の世界は平等であり、衆生を度すのは不適切である」という点にある。これらの異同は明らかであるから、よく区別しなければならない。