睦州に初めて到り、陳尊宿を訪ねた。門を叩くと、陳が問うた。「誰じゃ。」「文偃と申します。」
陳が門を押さえて開けながら言った。「言え、言え。」師は何も言えなかった。
陳が言った。「秦の時代の轆轤の錐だ。」すると、突然(その言葉で)悟りが開けた。和尚は門を閉める際に(陳の)右足を折ってしまった。これによって師(陳尊宿)は大いなる悟りの境地を発見したのである。
陳が雪峯を訪ねた。師が到着した時、ちょうど雪峯が説法のために高座に上がっていた。すると師は人々の中から進み出て言った。「頭の上の三百斤もある鉄の枷を、なぜまだ外さないのですか。」
その後、師の教えは僧院に広まり、禅林を巡り、韶州霊樹に至って首座を務めた。霊樹が亡くなると、広主劉氏が州牧の何希範に命じて師に法席を継がせた。ここから師は雪峰の教えを天下に大いに宣揚し、雲門に移ると、学僧たちが四方から集まった。南漢の乾和七年四月十日、座禅のまま示寂した。これは大きな漢の乾祐二年にあたる。
本朝の太祖、乾徳元年のこと。阮紹莊という人物の夢に感応があり、時、李托が奏上した。塔を開くと全身(全身の舎利)が現れ、その姿は生きているかのようであった。都に迎えて供養した。その後、勅命を得て、元の山に葬った。諡号を大慈雲匡真弘明大師とされた。
ああ、師が亡くなられてから十四年。ふたたび芸祖の時代に題することとなった。その教えが広く流れ、今日に至るまで盛んであるのは、決して偶然のことではない。師と弟子の絆よ。
老子は言われた。 善人は、不善の人にとっての師であり、 不善の人は、善人にとっての教えの糧となる。
善人には不善な人がいてこそ、善く救うという功績が顕著になる。だから「資(よりどころ)」と言うのだ。これは筏(いかだ)に例えられる。
筏(いかだ)とは、もともと「橃」という字で表されていたもので、『説文解字』によれば「海の中の大きな船」という意味です。また、「筏」とも書かれます。
金剛般若経にはこう説かれています。 如来は常におっしゃいました。「あなたがたに説く教えは、譬えていえば、いかだのようなものだ」と。 教えそのものさえも、彼岸に渡ったならば手放すべきなのです。ましてや、教えに反するものを執着するなど、なおさらのことです。これは、まるで子供の泣き声を止めるための方便のようなものです。
例えば、赤ちゃんが泣いている時、親は楊の木の枯れ葉を使ってこう言います。「泣かないで、泣かないで。黄金をあげよう」と。赤ちゃんはそれを見て本物の金だと思い込み、泣き止みます。しかし、その楊の葉は実際には金ではありません。──『涅槃経』より、手段にこだわれば本質を見失うという教え。
言葉は、イメージ(象)を明らかにするための道具です。 そのイメージを得たなら、言葉にはこだわる必要はありません。 イメージは、意味(意)をとどめるためのものです。 その意味を得たなら、イメージにこだわる必要はありません。 ちょうど、わなはウサギを捕まえるためのもので、ウサギを得たならわなを忘れるのと同じです。 また、もじ(筌)は魚を捕るための道具で、魚を得たならもじを忘れるのと同じです。 したがって、言葉はイメージというウサギを捕まえるわなのようなものであり、 イメージは意味という魚を捕るもじのようなものです。 言葉をそのまま守るだけの者は、イメージを得たことにはならず、 イメージをそのまま守るだけの者は、意味を得たことにはなりません。 (このようにして)摩竭(
梵語で「マガダ」と言います。この国は、文化や文物が栄えた国という意味です。「揜室(えんしつ)」とは、世尊(釈迦)が普光法堂で禅定に入られたことを指します。『大唐西域記』にはこうあります。昔、如来がマガダ国で初めて正覚(さとり)を開かれたとき、梵天が七宝で飾られた堂を建て、帝釈天が七宝の座を設けました。仏はその上に座り、七日間にわたってこのことを思惟されました。その意味は「揜室」と同じです。毘耶離(ヴァイシャーリー)の維摩詰は口を閉ざして沈黙されました(杜口)。
サンスクリット語で「ヴァイシャーリー」、日本語では「広厳」といいます。維摩居士が住んでいた町のことです。 「杜」は「閉じる」という意味です。 維摩経の「入不二法門品」にはこうあります。文殊菩薩が維摩詰に問いました。「私たちはそれぞれ自分の考えを述べました。では、あなたはどのようなことが菩薩の不二の真理に入る道だとお思いですか?」その時、維摩詰は黙って何も言いませんでした。文殊菩薩は感嘆して言いました。「素晴らしい、素晴らしい。言葉や文字をまったく用いないことこそ、まさに不二の法門に入ることなのです。」 非凡なる仲間たちよ。
これを「異なる仲間」と見なしてはならない。「黨」とは仲間やたぐいのことである。「儻」と読むのは誤りである(この場合は「たもう」ではなく、「とう」と読むのが正しい)。カーシャパよ、理解しなさい。
【原文】 梵云迦葉波。此云飲光。謂其身光最勝。飲服諸天。故名焉。曹溪
【現代語訳】 サンスクリット語で「迦葉波(カッショウパ)」といいます。これを日本語では「飲光(いんこう)」と訳します。この方は全身から最も優れた光を放ち、その光は天人の光さえも飲み尽くしてしまうかのようであるため、この名がつけられました。曹溪(の教え)によれば。
宝林伝によると、唐代の儀鳳年間(676-679年)に、地元の曹叔良という人が土地を寄進しました。六祖大師(慧能)が住まわれたその地には、双峯と大きな川がありました。曹侯という姓にちなんで、曹溪と名付けられました。世の中で祖師の道を学ぶ人々は、枝分かれして流派をなしていますが、皆この流れを汲む者たちです。
烈は、当に列の言うように行じるべきである。石頭が広く註を施した。
唐代の丘玄素によれば、道悟禅師は天王寺の僧であり、馬祖の法を継いだ者であって、石頭の弟子ではないとされる。その墓碑銘を調べてみると、道悟は荊州で生まれ、江西の馬大師のもとで悟りを得た。師は彼に「もし住持となるなら、かつての場所を離れてはならない」と告げた。それにより荊州に戻り、渚宮のほとりに草庵を結んだ。荊州刺史は、その住まいが荒れ果てているのを見て怒り、彼を水中に投げ込んだ。しかしその後、天王の神が道悟の庭に火光を現したため、師は心を開かれて寺院を建立した。現在も荊州には天王寺が残っている。これを「天皇寺」と記すのは誤りである。
さらに『伝燈録』を調べると、道悟禅師は婺州東陽の人で、十四歳のときに昭州の僧のもとで剃髪し、杭州で具足戒を受けたとあるが、これは荊州の墓碑銘の内容と全く異なる。丘玄素の墓碑銘に従えば、天王寺の道悟が馬祖の法を嗣いだことは明らかであり、石頭の弟子であるとするのは誤りである。その正しい系統を明らかにすべきである。
「直祐切(ちょくゆうせつ)。胤(たね)という意味です。だから字は「肉」偏に従います。「胄」とは「裔(すえ)」のことです。「裔」は「衣」偏に従い、子孫を「裔」と呼ぶのは、衣服が垂れ下がる様子から取った意味です。「裔」は「余製切(よせいせつ)です。藏六(ぞうろく)」
『雑阿含経』にこうある。ある亀が山犬に捕まったが、六つの部分を甲羅に引っ込めて出さなかった。山犬は怒って去っていった。仏は比丘たちに告げられた。「あなたがたは、あの亀が六つを隠すように、自分の六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を守りなさい。そうすれば、悪魔も隙を得ることはできない」と。
一、あらゆる分別の流れを断ち切る。 二、あらゆるものを包み込む。 三、流れに身を任せて波に乗る。
この三句は、徳山円明大師が初めて打ち立てたものである。今日では皆「雲門三句」と呼んでいるが、それは参究の行き届かない誤りである。そもそも徳山は雲門の法嗣であり、この三句を持っていたにすぎないのだから。
平原君の伝記にこういう言葉がある。世の中の賢者は、ちょうど袋の中にある錐のようなもので、すぐにその先端があらわれるものだと。
これに対して毛遂が言った。「もし私が早くに袋の中に入れられていたなら、先端だけではなく、錐全体が飛び出して見えていたでしょう。ただ先端があらわれるだけではないのです。」
韓非子が言う。宋の国に農夫がいた。畑の中に切り株があった。そこにウサギが走ってきて、ぶつかり、首の骨を折って死んだ。それからこの農夫は、鍬を置いて、その切り株のそばで待ち続け、またウサギがかかるのを願った。しかし、それは宋の国中の笑いものになった。教訓とすべきである。
免は「やめる」という意味であり、また「無理すること」や「よからぬこと」、さらには「傷やこぶのようなもの(煩わしいもの)」を指します。
疣(いぼ)、これを求むるに切(せつ)あり。結(けつ)の病なり。釋名に曰く、「疣は丘なり。皮の上に出でて聚(あつ)まり高きこと、地に丘あるが如し。遍く搜(あさ)るも、決(さ)くることなし」と。
師は広く探し求めたけれども、師は書き写すことを許さなかった。そこで他の場所で広く探し求めて、今ようやく真公から得ることができたのである。「抉」は「けんえつ」と読み、えぐり出すという意味である。玄鶴
『相鶴経』にこうある。 鶴は陽の鳥である。金の気を授かって生まれる。二年で頭頂が赤くなり、七年で雲や天の川を翔けるようになる。さらに七年経つと、昼夜十二時(一日中)にわたって鳴く。六十年で大きな羽が抜け落ち、柔らかな毛が生え、その色は雪のように白く、泥水も汚すことができない。百六年で、雌雄が見つめ合うことで妊娠する。三百六十歳になると、色は漆のように真っ黒になる。そのため「玄鶴」と呼ばれる。二千六百年にわたり、水は飲むが食物はとらず、胎内で育ち、仙人の乗る優れた馬となって生まれるという。師曠はこう述べている。
師曠(しこう)は、晋の平公(へいこう)に仕えた楽師です。 ある日、平公が師曠に琴を弾かせて、こう尋ねました。 「この琴で、これ以上に悲しい曲はないのか。それを聞くことはできぬか。」 師曠は答えました。 「主君の徳や義は薄く、そのような曲をお聞きになるべきではございません。」 すると平公は言いました。 「私はただ音楽が好きなのだ。どうか聞かせてほしい。」 師曠はやむを得ず、琴を手に取り弾き始めました。 一曲目を弾くと、六羽の黒い鶴が城門に集まりました。 二曲目を弾くと、鶴たちは首を伸ばして鳴き、翼を広げて舞いました。 平公は大いに喜び、立ち上がって師曠に祝いの杯を捧げました。 ——ここに、
『呂氏春秋』にこうある。
伯牙は琴の名手であり、子期はその音を聴き分けることに優れていた。 伯牙が心に高い山を思い浮かべて弾くと、子期は言った。 「なんと雄大なことよ、あたかも泰山のようだ」 次に、はやる流れを思い浮かべて弾くと、子期は言った。 「なんと広々としていることよ、まるで大河のようだ」 伯牙の想うところは、子期は必ず感じ取った。
ある時、伯牙が泰山の北側を遊覧していたところ、にわか雨に遭い、岩陰で雨宿りをした。 心が悲しみに沈み、琴を弾きだした。 まずは「降りしきる雨の曲」を作り、次に「山の崩れ落ちる音」を奏でた。 これらの曲を弾くたびに、子期はその趣きをすべて見抜いた。
伯牙は琴を置いて、嘆息して言った。 「なんと素晴らしいことか。君は私の心
立つべきは「歴」の字。音は「狼狄切」。意味は「過ぎる」。 「瀝」は水がしたたり落ちる意であり、ここでの意味には合わない。 堂に昇る。
昇(=「陞」と同じく、「登る」の意味)。「昇」とは本来、日の昇ることを指すので、ここでの意味には当たらない。
師は劉隱に従った。劉隱は帝号を僭称して漢を名乗り、広州を拠点とした。師が韶石を訪れた際、先師である霊樹の知聖大師の遺訓を拝見した。そこで師は紫衣を賜るよう詔を受け、太守何希範に命じて師に法堂を開かせた。記録の中に「何公」とあるのは、すなわち何希範のことである。三蔵。
一、経蔵(修多羅蔵)──四阿含などの経典。 二、論蔵(阿毘曇蔵)──倶舎論や婆沙論などの論書。 三、律蔵(毘尼蔵)──五部の律。五つの乗り物。
1.戒律を守れば、人としての幸せが得られる。 2.十の善行を実践すれば、天の世界に生まれる。 3.四つの真理を修めれば、声聞の悟りを得る。 4.十二の因縁の道理を修めれば、縁覚の悟りを得る。 5.六つの完全な修行を備えれば、菩薩の境地に至る。 これらが四つの時節である。
天台宗には五時がある。四時というのは誤りである。五時とは、第一に華厳時であり、例えるなら日の出がまず高い山を照らすようなものである。第二に鹿苑時であり、四阿含を説く。これは太陽が深い谷間を照らすようなものである。第三に方等時であり、維摩経・思益経・楞伽経・楞厳三味経・金光明経・勝鬘経などを説く。時節で言えば、食事の時にあたる。第四に般若時であり、摩訶般若経などの諸般若経を説く。これは午前中の遅い時にあたる。第五に法華・涅槃時であり、これは太陽が真上に来た時で、影すらも完全に消えているようなものである。八教については、
天台宗には、教えの内容を分類した「化法四教」があります。一つ目は蔵教、二つ目は通教、三つ目は別教、四つ目は円教です。 また、教えの方法を分類した「化儀四教」もあります。一つ目は頓教、二つ目は漸教、三つ目は秘密教、四つ目は不定教です。 この中で、一乗円頓の教えこそが、仏教教学の最高の基準なのです。
「当(これ)」は、作者とは別の事を示す言葉である。禅録では多く「這(これ)」と書かれる。また「遮(これ)」と書くこともあるが、いずれも正しい意味ではない。「這」という字について、『三蒼』の詁訓(語義説明)には「古くは『適(あ)う』の字」とあるが、現在はこの使い方はしない。思い込みでそう考えるのは誤りである。
「妄」という字は、「乱」を意味します。心が乱れ、落ち着かない状態を指します。「𣉜㫰」も同様の意味合いです。
正しくは「曬(さい)」と書く。「売る」という意味の「賣」の字を使うが、これに「暴(ほ)」の意味がある。「𣉜」という字は、書物には存在しない。
当を得る(“贏”は「盈」と発音し、余剰の利益の意味がある)。三乗。
一、声聞。二、縁覚。三、菩薩。これらの三乗は、人を運び、無限の悟りへと進ませるものです。
一、サンスクリット語の「スートラ」は、これを「契経」といいます。 二、「ゲーヤ」は「応頌」。 三、「ヴィヤーカラナ」は「授記」。 四、「ガーター」は「諷頌」。 五、「ニダーナ」は「因縁」。 六、「ウダーナ」は「自説」。 七、「イティヴリッタカ」は「本事」。 八、「ジャータカ」は「本生」。 九、「ヴァイプーリヤ」は「方広」。 十、「アドブタ・ダルマ」は「未有」。 十一、「アヴァダーナ」は「譬喩」。 十二、「ウパデーシャ」は「論議」。 教外別伝。
正宗記にこう述べている。いわゆる「教外別伝」とは、経典や文字、声音、色相といった形あるもののことではない。それらは真の実相(無相)と一体であり、決して仏教から別個のものがあるわけではない。むしろ、教えの及ばない領域を指すのである。
『大智度論』にこうある。「諸仏は法への執着を断ち、経典を立てず、また言葉を飾らない」。このように、大聖人の意図は、そもそも必ずしも教えにあるわけではない。経典にもある。「私は道場に坐した時、一法も実と認めなかった。空拳で子供を欺くようにして、一切の衆生を度したのである」。これは大聖人が教えを方便とし、それに固執しなかったことを示すではないか。
また経典にいう。「修多羅(経典)は月を指す指のようなもの。もし月を見たら、指が月でないことを知るべきである」。これは人々に教えの形に執着することを戒めているのだ。
さらに経典にいう。「鹿野苑から娑羅双樹に至るまで、五十年の間、一文字も説かなかった」。これこそまさに「教外」を意味する。しかし、これは極めて奥深く秘密であり、経典に記されてはいても、それは言葉で述べられているにすぎない。聖人はこの真理を自ら体得したため、心をもって伝えることを命じた。禅宗で「教外別伝」と呼ぶのは、このことである。
また、我が宋の章聖皇帝は『修心詩』で詠んでいる。「初祖は少林にて禅を安じ、経教を伝えず、ただ心を伝えた。後の人がもし真如の性を悟れば、密印の由来するところ妙理深きことを知るであろう」 十地の菩薩も
一、歓喜。二、離垢。三、発光。四、焔慧。五、難勝。六、現前。七、遠行。八、不動。九、善慧。十、法雲。あたかも薄絹を通して見るように、隔たってはいるが清らかに映る。
華厳の疏(注釈書)にこうあります。「菩薩の智慧と如来の智慧は、まるで目の良い人が薄い絹を通して様々な色や形を見るようなものだ」と。この言葉は、菩薩と仏とでは、真理(仏性)を観る境地に違いがあることを示しています。ああ、なるほど。
まあ!それは何だ!あの人の言うことはおかしいなあ。そうだ、あれはきっとそうだよ。
ろくせつ。ふさぐこと。こたえあり。
ただのこだまのように響くだけだ。まだ響きに執着している。響きに執着するな。法身を見通せ。
かつて雲門の古録を読んだことがある。ある僧が問うた。「法身を透る句はいかなるものか。」師は杖を手に取り、「わかるか?」と言った。僧は「わかりません」と答えた。師は「北斗の裡に身を蔵す」と言った。今、杖を手に取る部分を省くと、当時の宗旨を失ったように思われる。骨だけが残っている。
音(上)は「にあたらしい」意味で、刀が骨に入る音を表す。また、枯れた骨を「かろ」という。音(下)は「しちしん」と読み、骨に肉がついている状態をいう。さらに、鳥獣の残った骨も指す。また、刀が肉に入る音である。「月令」には「骨を覆い、死骸を埋める」とある。
牛に対して琴を弾くかのごとし。言葉が通じず、理解されないことのたとえ。
魯の賢士、公明儀が牛に向かって琴を弾いた。 まずは「清角(せいかく)」という曲を奏でたが、牛は食事を続けてまるで気にしない。 牛が聞こえなかったわけではない。その曲が牛の耳に合わなかったのだ。
そこで彼は、蚊やアブの羽音、子牛を呼ぶ母牛の鳴き声に変えた。 すると牛は尻尾を振り、蹄を軽く踏み鳴らし、耳を立てて聴き入った。 それは、曲が牛の心に合ったからである。
苦しみというのは「榼(かめ)」のことだ。 「榼」とは、現在でいう「片口(かたぐち)」の器である。 酒を入れておくためのものである。 「椑」とは、鼙(べい)の音(おん)のことである。 唇(くちびる)を合わせるという意味だ。
唇とは、くちびるのこと。くちびるの音は「真(しん)」で、驚きを表しますが、特別な意味はありません。吻は「武粉(ぶふん)の読み」で、無から起こることを意味します。
さあ、それを義務だと思うことが、あるでしょうか。いいえ、ありません。
下音料。北人の方言では、音を合わせて「吉嘹」という字を作る。「繳」とは、よじる、ねじるという意味である。「繳其舌」、すなわち舌を縮めることだ。例えば「窟籠」を「孔」と呼び、「窟駞」を「𭔐」と呼ぶようなものである。 また、「吉嘹」で多弁を意味することもある。嶺南には鸚鵡や九官鳥に似た鳥がいる。籠で飼い、長く経つと話すようになる。南方の人々はこれを「吉嘹」と呼ぶ。開元の初め、広州から献上された。その鳴き声は男性のように力強く、人情を細かく理解する。鸚鵡や九官鳥とは比べ物にならない。雲門は嶺南に住んでいたので、この意味も使っているのかもしれない。特石
大きな岩のようなものです。例えば、牛のことを「特牛(とくぎゅう)」と言います。『説文解字』には「特牛とは、牛の父である」とあり、その質朴で特別な様子を指します。これらは全て、仏法の教えなのです。
宝積経にこう説かれています。仏は無辺荘厳菩薩に告げられた。「如来は常に、すべての法はみな仏法であると説く。あらゆる法をよく理解し知ること、それを仏法と名づける。諸仏の本性は仏法と等しい。それゆえ、すべての法はみな仏法である。その性質は清らかである。」
「僺」は「作(つく)るに当たる」という意味で、音は「ソウ(蘇+到の切音)」である。性質があらく、隙間が多いさまを表す。「榼」という字はこれに関連する。
借音というものは、ただの汚れた土のようなものに過ぎません。務(つと)めや考えの基(もと)とはなり得ないものです。
韶州にある翁源という町があります。この町には靈山があり、山頂から流れ落ちる泉の水を飲む人々は長生きするため、その名がつけられました。「務」の字は本来「婺」と書き、歙州のことであり、ここでの意味は異なります。胡人の種を滅ぼす。
天竺を「胡」と呼ぶようになったのは、秦や晋の時代から受け継がれてきた習慣であり、今となっては容易に変えられない。そのため、仏を「老胡(老いた胡人)」、経典を「胡語(胡の言葉)」、祖師を「碧眼胡(青い目の胡人)」、そしてその後継者を「胡種(胡の血筋)」と呼ぶようになった。仏弟子でありながら「胡種」と呼ばれるのは、胸を打って自ら恥じ入るべきではないだろうか。まさに「必ず名を正すべきである」と言われる所以である。
孚世法師は次のように述べている。『考えてみると、昔、経典が伝来して以来、賢徳の方々が筆記・翻訳に携わってきたが、言葉を置き換えるたびに必ず「胡を訳して漢とする」と称してきた。そもそも、東夏(中国)や九州から見て、西域の天竺というのは総称である。あるいは「身毒(シンドゥ)」とも言う。ちょうど、梵(インド)がこの地(中国)を「支那(チーナ)」や「震旦(チンスタン)」と呼ぶのと同じである。「漢」という呼称は、漢の二代、劉氏の時代だけの名称に過ぎず、その後、帝位が禅譲されて魏や晋が異なってからは、帝王の呼称に従って区別しなければならない。そもそも「胡」というのは、雑多な異民族のことであり、西方の辺境の風習である。例えるなら、この地に羌・狄・夷・変といった部族がいるのと同じである。どうして経典の言葉を「胡語」などと呼べようか。仏は天竺で生まれた。あの土地の士族やバラモンは総じて「梵」と呼ばれる。「梵」とは「清らか」という意味である。光音天(光音天)の末裔であり、劫の初めにこの地に来て、地肥を食べ、身体が重くなって去れず、そのまま人間となった。その本来の名を受け継いで、「梵」と呼ばれるようになったのである。「胡」という言葉が出てきた場合は、「梵」に置き換えるべきである。そうすれば、後世の賢者が論じる際に、その真実を得ることができるであろう。』
現在、雲門宗では仏・祖師を「胡」と呼んでいるが、これも先人の呼び方を受け継いだものに過ぎない。 身毒の「毒」は「ドク」と読む。 (打野榸については、情報が不十分なため訳を控えさせていただく。)
生え出る木の根が枯れたような様子。 遠浮山九帶では「野狸」としている。「以」の字。
「以」という字が成立しないとする説は三つある。第一に「嘔(お)」「啊(あ)」の二字であるとする説。第二に音写された字で、訳されていないとする説。第三に、サンスクリットの書物における「心」の字であるとする説。これらはいずれも経典の表題にある「以」の字を指している。
「嘔」「啊」について、清涼の疏主はこう述べている。 「経典の冒頭に『如是(かくのごとし)』と置くのは、外道(仏教以外の教え)と区別するためである。外道の経典は必ず冒頭に『嘔』『啊』を置く。あるいは『阿(あ)』『優(う)』と記して、それを吉祥とした。『阿』は『無』を意味し、『優』は『有』を意味する。あらゆる現象は多いけれども、その本質は『有』と『無』から出ることがない。しかし、この考えは断見と常見に陥ったものである。今、『如』は真如(真実のあり方)そのものであり、『是』は妙有(すぐれた
『高僧伝』には経典翻訳における新たな意図の六例が記されています。まず「訳字訳音」の例が四つあります。第一に「字を訳して音を訳さない」もの、例えば陀羅尼です。第二に「音を訳して字を訳さない」もの、例えば仏の胸の前にある卍の字です。第三に「音も字も共に訳す」もの、例えば経・律・論です。第四に「音も字も共に訳さない」もの、例えば経題にある「以」の字のようなものです。いわゆる「嘔啊」や、経の冒頭の「如是我聞」がこれに当たります。これらは経典の外側にある題簽の上には記されていません。
この「音字俱不訳」が、いったい誰によって始められたのかは明らかではありません。これに関する二つの説を調べてみると、どうやら根拠がないようです。あるいは無分別にも、これを梵字の「心」の字と誤って指摘する者もいますが、梵本にはそもそもそのような説はなく、特に誤りであると言えます。
私はかつて興国の伝法院を訪れた。 そこで西天の貝葉経の真実の写本を調べてみたところ、まだ翻訳されていない経典には、タイトルすら記されていなかったのだ。ましてや文字で綴られた文章などあるはずもない。古来より誤った解釈が広まり、勝手な説が作り出されてきた。先達の教えの真髄は、そんな形にあるのではない。 ある人が尋ねた。「経典の冒頭にある図形はどこから来たのですか?」それは当時、写本を請け負った者が筆を運んで経題を隠したにすぎず、疑う余地はない。しかし高僧はこれを利用して学び手を導いたのだ。私たち凡人が推し量ることができようか。
庚峰として受け入れなさい。本体をありのままに見なさい。
見なさい。敵対するという意味だ。向き合うこと、対することだ。しっかりと捉えるべき要点を明確に示している。
綱をまとめるということです。つまり、全体の要所を掴んで重要なポイントを引き出すことです。以下もこれに倣います。
西京雑記にこうある。匡衡(きょうこう)という人物は、字を雉圭(ちけい)といい、東陽(とうよう)の人である。学問を好んだが、家が貧しく灯火の油がなかった。そこで隣の壁に穴を掘り、そこから差し込む光で書物を読んだという。後に丞相にまで昇進した。まさに「目の見えぬ亀」の如しだ。
『阿含経』にはこうあります。仏が比丘たちに告げました。「大海に一匹の盲目の亀がいる。その寿命は無量劫であり、百年に一度だけ水面に頭を出す。そこに一本の丸太が浮かんでいる。それにはたった一つの穴があり、波に流されて東西へ漂っている。盲目の亀が百年に一度浮かび上がり、この穴にぴたりと合うことがあるだろうか。丸太は東へ流れたかと思えば、また西へ流れ、周りを巡る。たとえすれ違うことがあっても、また合うこともあるかもしれない。凡夫が五つの迷いの世界(五趣)を漂い続け、人間として生まれ変わることは、これよりもさらに難しいことなのである。」
また、荘厳経論にはこうある。 ある小さな子どもが、仏様が「人の身に生まれることはとても難しい。それは、目が見えない亀が、大海に浮かぶ板の小さな穴にちょうど頭を入れることができるほど珍しいことだ」とお説きになったのを聞いた。 そこでその子どもは、板に穴を開けて池に浮かべ、自分の頭を出したり入れたりしてみたが、ついには穴にうまく入らなかった。 そして言った。「目の見えない亀は、百年に一度、海の上に出てくるというが、それがいつになることだろうか。それに比べて、今、私は人間として、顔や目もはっきりとある。それでも、一日に百回、穴に頭を出し入れしようとしても、なかなか板の穴にうまく当
鋭敏であれ。以下すべてこれに倣う。「穿楊」の意
史記にこうある。養由基という者は、百歩離れたところから楊の葉を射ると、百発百中であった。
正しく歩けない。上は「盧経」の音、下は「滂丁」の音で、歩き方が歪んでいること。また、衣をだらりとまとうこと。
散披せよ。桑担切。撒。音は薩。義にあらず。蝍蟟。
『淮南子』にこうあります。「扶桑(ふそう)とは、太陽が昇る場所のことです。陽谷(ようこく)という谷の中にあり、その桑の木々は互いに支え合って生えています。「浮」は「扶」と書くべきです。蝦䗫(かま)のことです。」
正しくは「蟆」と作り、音は「麻」です。五つの性質があります。
斬頭截臂の境地を見よ。
西域の習慣として、議論において道理に反する見解を示した者は、首を切られたり腕を断たれたりして、その不十分さを償ったと言います。第二祖(慧可)はそのような償いを自ら受けたのです。
祖師が法を伝授された後、管城県の𭅕救寺の三門において無上の道を説かれました。聴衆は林のように集まりました。その時、弁和法師が同じ寺で涅槃経を講じていました。彼の弟子たちは師が法を説くのを聞いて、次々に去っていきました。弁和はその怒りに耐えかねて、県宰の翟仲侃に師を誹謗しました。仲侃はその言葉に惑わされ、師に不法を加えました。師は安らかにその運命を受け入れました。真実を知る者たちは、これを「借りを返す」ことだと言いました。
皓月という僧が長沙景岑禅師に問いました。 「『悟れば業障は本来空であり、悟らねば過去の借りを返さねばならない』と言いますが、それならば師子尊者や二祖大師は、なぜ借りを返すことになったのでしょうか?」
長沙が答えました。 「あなたは『本来空』の意味をよく理解していない。では、本来空とは何か?」
皓月が言いました。 「業障のことです。」
長沙が問いました。 「では、業障とは何か?」
皓月が答えました。 「本来空のことです。」
皓月は黙り込んでしまいました。そこで長沙は次の偈を示しました。
「仮に有るというも、もとより有るにあらず 仮に滅すというも、また無きにあらず 涅槃も、借りを返すという意味も 一つの本性に、何の違いもない」
(そして師子尊者の)棺からは、両足が現れたのでした。
涅槃の時。そのとき、迦葉(かしょう)は弟子たちと共に耆闍崛山(ぎしゃくつせん)にて正定(しょうじょう)に入っていました。その正受(しょうじゅ)の最中、突然、心に驚きが走り、全身が震え上がりました。禅定から出て見ると、すべての山や大地が大きく揺れ動いています。そこで彼は、如来がすでに涅槃に入られたことを悟りました。そして弟子たちを連れて、道を急いで悲しみに満ちて駆けつけました。ちょうど七日目に、拘尸城(くしじょう)に到着しました。宝石の棺の周りを右に三回巡り、目にあふれる涙を流しながら、偈(げ)を唱えて讃嘆しました。その大意は次の通りです。
「世尊よ、私は今、大いなる苦しみの中にあり、心は乱れ、暗く、迷いに満ちています。 私は今、世尊の頭頂を礼拝すべきでしょうか。それとも、如来の肩を哀れんで礼拝すべきでしょうか。 あるいは、大聖の手を敬って礼拝すべきでしょうか。それとも、如来の腰を悲しんで礼拝すべきでしょうか。 あるいは、如来の臍(へそ)を敬って礼拝すべきでしょうか。それとも、深く心を込めて仏の足を礼拝すべきでしょうか。 なぜ、仏の涅槃を見ることができないのでしょうか。どうか、私が礼拝すべき場所を示してください。」
世尊は大いなる慈悲の心から、千の輻(や)のある輪相(りんそう)を棺の外に現し、迦葉に示しました。その千輻輪からは千の光明が放たれ、十方のすべての世界を照らし渡しました。そして再び自ら棺の中に戻り、もとのように閉じて固く閉ざされました。
仕えるべきものである。ショウ(七笑切:縛る意)。梢(ショウ、音は筲:意味は異なる)。気の勢い。
「熏」という字は「許云」と切る(クンと読む)。火の気が盛んである様子を表す。「勳」は手柄・功績という意味だが、ここではその意味ではない。縦横に説き示すことである。
黄檗が大衆に示して言った。 「馬祖大師の門下には八十八人の高僧がそれぞれ道場に坐しておられたが、正法の眼を得た者はわずか二、三人に過ぎなかった。廬山和尚もそのお一人である。出家した者は、古来より伝わる大事を知らねばならない。 たとえば、四祖の下にいた牛頭融大師は、縦横無尽に説法されたが、それでもなお、向上の大事な関門(からくり)については知り尽くしておられなかった。 このような眼と心がなければ、邪宗と正統の区別をつけることはできない。ここがまさに、肝心な要所である。」
下(下)、正作(正しくは)「棙(れい)」と作く。音は「戾(れい)」に同じ。物を撥ね退ける道具である。「𭷼(こ)」は狗(犬)を意味する。
上部に「正」と書いて「疥」と読む。音は「カイ」である。癩(ハンセン病)のことである。
「忙しい」というのは、果てしなく続くように感じるものです。しかし本当の「忙しさ」とは、心がせかされて余裕を失うことです。それは道理から外れた心のあり方なのです。
「嚇」は「許亞切」と読み、人を欺くという意味です。「謔」は「虗約切」と読み、ふざける・からかうという意味です。「義」ではありません。以下もこれに倣います。これは国です。
「上」と「盍」は同じ意味です。胡臘(ころう)という音です。また、「丐(こう)」に従い、「呼(こ)」と読むこともありますが、これは正しい意味ではありません。解釈は雪竇頌古(せっちょうじゅうこ)にあるので、それを参照してください。躇蹰(ちょちゅう)とは、ためらうことです。
ためらいが生じる。(躊躇は、「ちゃうちょ」と読み、前に進もうとしないさまを表す。)「躇蹰(ちょちゅ)」は、本来の意味としては正しくない。(蹰は「ちょ」と読む。)しっくりと納得するさま。
「はっきりとあきらかであること。ただ単に略し切るという意味ではない。昭灼(しょうしゃく)とは、あきらかという意。酌(しゃく)は、説文解字にある通り、酒を盛って杯をまわすこと。ここでの意味ではない。冥濛(めいもう)は、くらいさま。」
暗い闇の中にいるようなものです。「蒙」とは、暗くてはっきりしないことを意味します。
「すくう」と読む。蒸(じょう)の上声で発音する。上にあげる、引き上げるという意味である。「艾」は「刈り取る」、「樵」は「たきぎ」のこと。
艾(よもぎ)にする時の火の種。 子肖の読み。亀の甲を焼く時のたいまつ。また「爝」とも書く。「爝」は火を司る役人の名前。湯王が伊尹を得た時、大がかりなたいまつで「爝」という儀式を行ったが、これはただのたいまつの炎に過ぎない。本来の意味ではない。誹謗し呪い合うこと。