大乘阿毘達磨雜集論卷第九
大乗阿毘達磨雑集論 巻第九
安慧菩薩糅
安慧菩薩がまとめられたものです。
大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
大唐三蔵法師玄奘が詔を奉じて訳しました。
決擇分中諦品第一之四
決択分の中の諦品 第一の四
云何見道?若總說,謂世第一法無間無所得三摩地鉢羅若及彼相應等法。由無分別奢摩他、毘鉢舍那等為體相故。
見道とは何でしょうか。総じて説くならば、世第一法に間断なく続く、無所得の三摩地と般若、およびそれらと相応する諸法です。無分別の奢摩他と毘鉢舎那などを体相とするからです。
又所緣能緣平等平等智為其相,由此通達所取能取無性真如故。
また、所縁と能縁とが平等であるという平等智をその相とします。これによって、所取と能取とに本性がないという真如を悟るからです。
又遣各別有情假、法假,遍遣二假所緣法智為相。云何遣各別有情假所緣法智為相?由此智於自相續中不分別我相故。不分別者,是除遣義。云何遣各別法假所緣法智為相?由此智於自相續中不分別色等法相故。云何遍遣二假所緣法智為相?由此智於一切處無有差別,不分別我及法相故。
また、各別の有情仮と法仮を遣り、二つの仮の所縁なる法智を遍く遣ることを相とします。各別の有情仮の所縁なる法智を遣ることを相とするとは、どのようなことでしょうか。この智によって、自らの相続において我の相を分別しないからです。分別しないとは、除き遣るという意味です。各別の法仮の所縁なる法智を遣ることを相とするとは、どのようなことでしょうか。この智によって、自らの相続において色などの法の相を分別しないからです。二つの仮の所縁なる法智を遍く遣ることを相とするとは、どのようなことでしょうか。この智によって、一切のところに差別がなく、我の相も法の相も分別しないからです。
復次若別說見道差別,謂世第一法無間苦法智忍、苦法智、苦類智忍、苦類智,集法智忍、集法智、集類智忍、集類智,滅法智忍、滅法智、滅類智忍、滅類智,道法智忍、道法智、道類智忍、道類智,如是十六種。於諸聖諦中法類智忍及法類智是見道差別相。苦者,謂苦諦。苦法者,謂苦諦增上所起教法。法智者,謂於方便道中觀察諦增上法智。智忍者,謂先觀察增上力故,於各別苦諦中起現證無漏慧,由此慧故永捨見苦所斷一切煩惱。今於此中所說義者,謂於方便道中觀察依止苦諦所起契經等法,如理作意所攝智增上力故,於自相續苦諦中現證彼真如,出世間慧正見體生,由此慧故永捨一切見苦所斷三界所繫二十八隨眠,是故名為苦法智忍。
次に、見道の区別を別に説くならば、すなわち世第一法の無間における苦法智忍、苦法智、苦類智忍、苦類智、集法智忍、集法智、集類智忍、集類智、滅法智忍、滅法智、滅類智忍、滅類智、道法智忍、道法智、道類智忍、道類智、これらの十六種です。諸々の聖諦において、法智忍・類智忍および法智・類智が、見道の区別の相です。
「苦」とは、苦諦のことです。「苦法」とは、苦諦を増上として起こる教法のことです。「法智」とは、方便道において諦の増上なる法を観察する智のことです。「智忍」とは、先に観察した増上の力によって、それぞれの苦諦において現証の無漏の慧を起こし、この慧によって見苦所断の一切の煩悩を永遠に捨てることをいいます。
ここで説かれている意味は、方便道において苦諦に依止して起こる契経などの法を観察し、如理作意に摂せられる智の増上の力によって、自らの相続の苦諦においてかの真如を現証し、出世間の慧という正見の体が生じ、この慧によって見苦所断の三界に繋がる二十八の随眠を永遠に捨てる、これゆえに「苦法智忍」と名づけるのです。
苦法智者,謂忍無間由此智故於前所斷煩惱解脫而得作證。所以者何?先由忍故永斷一切見苦所斷煩惱,令所依轉從此無間由如是智生證得轉依,是名苦法智。
苦法智とは、忍の直後に、この智によって、先に断じた煩悩から解脱することを証得することをいいます。なぜでしょうか。まず忍によって、苦について見ることで断じられる一切の煩悩を永遠に断ち、よりどころを転じさせます。その直後に、このような智が生じて転依を証得することを、苦法智と名づけます。
苦類智忍者,謂苦法智無間無漏慧生於苦法智忍及苦法智。各別內證,言後諸聖法皆是此種類。所以者何?由初二種若忍若智,是後一切學與無學聖法種類,從此彼得生故。是故無漏慧生各別內證。緣此為境,言後諸聖法皆是此種類,是故名為苦類智忍。
苦類智忍とは、苦法智に間断なく続いて無漏の慧が生じることをいいます。この慧は苦法智忍と苦法智のそれぞれを内証し、後に生じる諸々の聖なる法はみなこの種類であると述べるのです。なぜでしょうか。最初の二種、すなわち忍と智が、後の一切の学と無学の聖なる法の種類であり、これらからそれらの法が生じるからです。それゆえ無漏の慧が生じてそれぞれを内証し、これを所縁として境となし、後に生じる諸々の聖なる法はみなこの種類であると述べるのです。このため苦類智忍と名づけます。
苦類智者,謂此無間無漏智生,審定印可苦類智忍。所以者何?由苦類智忍無間無漏智生,於苦類智忍內證印可,故名苦類智。
苦類智とは、この無間の無漏智が生じて、苦類智忍を審らかに確定し印可することをいいます。なぜでしょうか。苦類智忍から間断なく無漏智が生じ、苦類智忍を内証して印可するからです。それゆえ苦類智と名づけます。
如是於餘諦中隨其所應諸忍諸智,盡當知於此位中由法忍法智覺悟所取,由類忍類智覺悟能取。所以者何?出世間道有二境界,謂真如及正智,法智品道真如為境、類智品道正智為境,由此諸忍智如實了知故。又於此一切忍智位中說名安住無相觀者,如薄伽梵說第六無相住補特伽羅者,即現住此忍智位中者是也,於此位中一切相皆不可得故。又無相住有六種,謂空、無相、無願、滅定、有頂、見道。如是十六心剎那說名見道。所以者何?由如是忍智所攝十六心剎那,於曾所未見四聖諦境各以四剎那見故,名為見道。又心剎那者,謂於所知境智生究竟名一剎那,非唯於本無今有生時名心剎那。何以故?乃至於所知境能知智生所作究竟名一剎那故。如說苦應遍知是一心剎那,如是集應永斷等亦爾。又如上說見道差別,皆假建立非真實爾。何以故?出世位中各別內證絕戲論故。
このように、他の諦においても、それぞれに応じて諸々の忍と諸々の智を、すべて知るべきです。この位においては、法忍と法智によって取られたものを覚悟し、類忍と類智によって能取を覚悟します。なぜでしょうか。出世間の道には二つの境界があり、すなわち真如と正智です。法智の品の道は真如を境とし、類智の品の道は正智を境とし、これによって諸々の忍と智が如実に了知するからです。
また、この一切の忍と智の位において、「無相観に安住する者」と言います。薄伽梵が説かれた第六の「無相住の補特伽羅」とは、まさにこの忍と智の位に現に住している者を指します。この位においては、一切の相がすべて得られないからです。
また、無相住には六種があります。すなわち空、無相、無願、滅定、有頂、見道です。このように十六心刹那を「見道」と言います。なぜでしょうか。このような忍と智に含まれる十六心刹那によって、かつて見たことのない四聖諦の境を、それぞれ四刹那でもって見るからです。それゆえ「見道」と名づけます。
また「心刹那」とは、所知の境に対して智が生じ、その究竟を一刹那と言います。ただ本にはなく今に有るという生じた時だけを心刹那と言うのではありません。なぜでしょうか。所知の境に対して能知の智が生じ、その所作が究竟することを一刹那と言うからです。たとえば「苦は遍く知るべきである」というのが一心刹那であるように、「集は永く断ずべきである」などもまた同様です。
また、上述の見道の区別は、すべて仮に立てられたものであって、真実ではありません。なぜでしょうか。出世の位においては、それぞれが内証するものであり、戯論を絶しているからです。
復次一切道諦由四種相應隨覺了,謂安立故、思惟故、證受故、圓滿故。安立者,謂聲聞等隨自所證已得究竟,為欲令他亦了知故,由後得智以無量種名句文身安立道諦,謂於諸諦中有如是如是忍、如是如是智,如是等。思惟者,謂正修習現觀方便,以世間智如所安立思惟數習。證受者,謂如是數習已,自內證受最初見道,正出世間無戲論位。圓滿者,謂此位後圓滿轉依乃至證得究竟。彼既證得究竟位已,復由後得智以名句文身安立道諦。如是四相,真實道輪數數展轉,相依而轉無有斷絕。如經言,遠塵離垢於諸法中正法眼生者,此依見道說。諸法忍能遠塵、諸法智能離垢,由彼最初於諸諦中妙聖慧眼為自性故。法忍能遠塵者,由諸法忍永斷一切煩惱塵故。法智能離垢者,由諸法智已斷障垢依得生故。又於此忍智兩位如其次第,遍知故、永斷故,道得清淨,依此而說遠塵離垢。又經言,見法、得法、極通達法、究竟堅法,越度一切希望疑惑,不假他緣,於大師教餘不能引,於諸法中得無所畏者,此亦依見道說。於所化有情,聖諦現觀無間說故。見法者,謂諸法忍,由彼通達真實法故。得法者,謂諸法智,彼於轉依能作證故。極通達法者,謂諸類忍。通達諸聖法,是此二類故。究竟堅法者,謂諸類智。於諸所知已究竟故,越度一切希望者,由諸忍智出世間道,證得長夜所希聖果,於自所證無希慮故。越度一切疑惑者,於此位中於他所證無有猶豫,謂餘亦能證此勝位故。不假他緣者,於所修道中雖無他導引自然善巧故。於大師教餘不能引者,於佛聖教已得證淨,雖轉餘生不為邪道所化引故。於諸法中得無所畏者,於依所證問記法中,如惡欲增上慢者怯劣心永無有故。
次に、すべての道諦は四つの相によって随覚し了知されます。すなわち、安立によるもの、思惟によるもの、証受によるもの、円満によるものです。
安立とは、声聞などが自ら証したところに随ってすでに究竟を得て、他の人々にもまた了知させようとして、後得智によって無量の種類の名・句・文身をもって道諦を安立することをいいます。すなわち、諸諦の中にこのような忍があり、このような智がある、といったことです。
思惟とは、正しく現観の方便を修習し、世間智によって安立されたとおりに思惟し数習することをいいます。
証受とは、このように数習したのち、自ら内に最初の見道を証受することをいいます。まさに出世間の無戯論の位です。
円満とは、この位ののちに円満に転依し、乃至は究竟の証得に至ることをいいます。彼がすでに究竟の位を証得したのち、また後得智によって名・句・文身をもって道諦を安立します。
この四つの相により、真実の道輪は数数に展転し、相依って転じて断絶することがありません。
経に「遠塵離垢にして諸法の中に正法眼生ず」とあるのは、これは見道に依って説かれたものです。諸法忍はよく塵を遠ざけ、諸法智はよく垢を離れます。彼が最初に諸諦の中において妙なる聖慧眼を自性とするからです。法忍がよく塵を遠ざけるとは、諸法忍によって一切の煩悩の塵を永く断つからです。法智がよく垢を離れるとは、諸法智によってすでに障垢を断じ、それに依って生ずるを得るからです。またこの忍と智の二つの位において、その次第のとおりに遍知するがゆえに、永断するがゆえに、道は清浄を得ます。これに依って遠塵離垢と説きます。
また経に「法を見、法を得、法を極めて通達し、法を究竟して堅くし、一切の希望と疑惑を越度し、他縁を仮らず、大師の教えにおいて余のものに引かれることなく、諸法の中において無所畏を得る」とあるのは、これもまた見道に依って説かれたものです。所化の有情に対して、聖諦の現観を間断なく説くからです。
法を見るとは、諸法忍をいいます。彼が真実の法を通達するからです。法を得るとは、諸法智をいいます。彼が転依を証することができるからです。法を極めて通達するとは、諸類忍をいいます。諸の聖法を通達することは、この二類であるからです。法を究竟して堅くするとは、諸類智をいいます。諸の所知においてすでに究竟するからです。
一切の希望を越度するとは、諸忍・諸智の出世間道によって、長夜に希求した聖果を証得し、自ら証したところに対して希望も慮もないからです。一切の疑惑を越度するとは、この位において他の証したところに対して猶豫がないからです。すなわち、他の人もまたこの勝れた位を証することができるからです。他縁を仮らないとは、修道の中において他に導引されなくても自然に善巧であるからです。大師の教えにおいて余のものに引かれないとは、仏の聖教においてすでに証浄を得て、たとえ他の生に転じても邪道に化せられ引かれることがないからです。諸法の中において無所畏を得るとは、証したところに依って問記する法において、悪欲の増上慢のような者の怯劣の心が永くないからです。
云何修道?謂見道上所有世間道出世間道、軟道中道上道、方便道、無間道、解脫道、勝進道等,皆名修道。所以者何?諸佛聖弟子已得諦現觀,從此已上為斷餘結,方便數習世間道等,是名修道。
修道とは何でしょうか。見道の上にあるすべての世間道・出世間道、軟道・中道・上道、方便道、無間道、解脱道、勝進道などは、みな修道と呼ばれます。なぜでしょうか。諸仏の聖弟子たちはすでに諦について現観を得ており、それより上は残りの結を断つために、方便として世間道などを繰り返し修習するからです。これを修道と名づけます。
世間道者,謂世間初靜慮、第二靜慮、第三靜慮、第四靜慮,空無邊處、識無邊處、無所有處、非想非非想處。如是靜慮無色,由四種相應廣分別,謂雜染故、清白故、建立故、清淨故。
世間道とは、世間の初静慮、第二静慮、第三静慮、第四静慮、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処をいいます。このように静慮と無色とは、四つの相によって広く分別されます。すなわち、雑染によるからであり、清白によるからであり、建立によるからであり、清浄によるからです。
雜染者,謂四無記根:一愛、二見、三慢、四無明。由此四惑染污其心,於諸染污靜慮定門令色無色界一切有覆無記,煩惱隨煩惱生長不絕。所以者何?由有愛故,味上靜慮雜染所染,貪味淨定輕安樂故。由有見故,見上靜慮雜染所染,依止靜慮發起計度先際等見故。由有慢故,慢上靜慮雜染所染,依證勝定起高慢故。由無明故,疑上靜慮雜染所染,求解脫者由未通達真實道理,於勝品所證常生疑惑,為解脫耶不解脫耶。如是煩惱恒染其心,令色無色大小二惑相續流轉。
雑染について述べます。それは四つの無記根をいいます。一に愛、二に見、三に慢、四に無明です。この四つの惑によって心が汚染され、諸々の汚れた静慮の定門において、色界・無色界のすべての有覆無記の煩悩と随煩悩が生長し続けるのです。なぜでしょうか。愛があるために、上の静慮の雑染に染められます。浄らかな定の軽安と楽を味わい貪るからです。見があるために、上の静慮の雑染に染められます。静慮に依止して、過去際などについての計度の見を起こすからです。慢があるために、上の静慮の雑染に染められます。勝れた定を証したことに依って、高慢を起こすからです。無明があるために、上の静慮の雑染に染められます。解脱を求める者は、まだ真実の道理に通達していないため、勝れた品に証されたことについて常に疑惑を生じます。解脱するのであろうか、解脱しないのであろうか、と。このように煩悩は常にその心を汚染し、色界・無色界の大小二つの惑を相続して流転させるのです。
清白者,謂淨靜慮無色,由性善故說名清白。雖是世間,離纏垢故亦名為淨。
清白とは、浄なる静慮と無色をいいます。性質が善であるから「清白」と名づけるのです。これは世間のものではありますが、煩悩の纏いと垢を離れているので「浄」ともいいます。
建立者,有四種建立,謂支分建立、等至建立、品類建立、名想建立。於諸靜慮具四建立;諸無色中唯有三種,除支分。
建立には四つの建立があります。すなわち、支分建立、等至建立、品類建立、名想建立です。諸々の静慮には四つの建立がすべて備わっていますが、諸々の無色においては三種のみで、支分建立を除きます。
支分建立者,謂初靜慮有五支。何等為五?一尋、二伺、三喜、四樂、五心一境性。第二靜慮有四支。何等為四?一內等淨、二喜、三樂、四心一境性。第三靜慮有五支。何等為五?一捨、二念、三正知、四樂、五心一境性。第四靜慮有四支。何等為四?一捨清淨、二念清淨、三不苦不樂受、四心一境性。問:法有無量,何故唯立尋等為支?答:對治支故、利益支故、彼二所依自性支故。由此三種支分滿足,不待餘故。初靜慮中尋伺二種是對治支,能斷欲界欲恚害等尋伺故。喜樂二種是利益支,由尋伺支治所治已得離生喜樂故。心一境性是彼二所依自性支,依止定力尋等轉故。第二靜慮中內等淨是對治支,由此能治尋伺故。喜樂是利益支。心一境性是彼二所依自性支,義如前說。第三靜慮中捨念正知是對治支,由此三能治喜故。樂是利益支。心一境性是彼二所依自性支,義如前說。第四靜慮中捨清淨念清淨是對治支,由此二能治樂故。不苦不樂受是利益支。心一境性是彼二所依自性支。諸無色中不立支分,以奢摩他一味性故。
支分の建立とは、初静慮には五つの支があることをいいます。五つとは何でしょうか。第一に尋、第二に伺、第三に喜、第四に楽、第五に心一境性です。第二静慮には四つの支があります。四つとは何でしょうか。第一に内等浄、第二に喜、第三に楽、第四に心一境性です。第三静慮には五つの支があります。五つとは何でしょうか。第一に捨、第二に念、第三に正知、第四に楽、第五に心一境性です。第四静慮には四つの支があります。四つとは何でしょうか。第一に捨清浄、第二に念清浄、第三に不苦不楽受、第四に心一境性です。
問:法には無量のものがありますが、なぜただ尋などだけを支として立てるのでしょうか。
答:対治支であるからであり、利益支であるからであり、その二つが依る自性支であるからです。この三種の支分が満たされれば、他のものを待つ必要がないからです。
初静慮のうち、尋と伺の二種は対治支であり、欲界の欲・恚・害などの尋伺を断つことができるからです。喜と楽の二種は利益支であり、尋伺の支が治められるべきものを治めたことによって、離によって生じる喜と楽を得るからです。心一境性は、それら二つが依る自性支であり、定の力に依止して尋などが働くからです。
第二静慮のうち、内等浄は対治支であり、これによって尋伺を治めることができるからです。喜と楽は利益支です。心一境性は、それら二つが依る自性支であり、その意味は先に説いたとおりです。
第三静慮のうち、捨・念・正知は対治支であり、この三つによって喜を治めることができるからです。楽は利益支です。心一境性は、それら二つが依る自性支であり、その意味は先に説いたとおりです。
第四静慮のうち、捨清浄と念清浄は対治支であり、この二つによって楽を治めることができるからです。不苦不楽受は利益支です。心一境性は、それら二つが依る自性支です。
諸々の無色のうちには支分を立てません。奢摩他に一味であるからです。
云何等至建立者?謂由七種作意證入初靜慮,如是乃至非想非非想處。何等名為七種作意?謂了相作意、勝解作意、遠離作意、攝樂作意、觀察作意、方便究竟作意、方便究竟果作意。此廣分別,如〈聲聞地〉後瑜伽處。云何證入初靜慮時由七作意?謂由定地作意,見欲界中過患等故,了達麁相。初靜慮中此相無故,名為靜相。是名了相作意。如是作意猶為聞思之所間雜,從此已上超越聞思一向修相,緣麁靜相以為境界,修奢摩他、毘鉢舍那,數數思惟如所尋思麁靜性相,是名勝解作意。由修習此故,最初斷道生彼俱行作意,名遠離作意,由此能斷上品煩惱故,及能遠離彼品麁重故。此觀行者復欣樂上斷見上斷功德,已觸少分遠離喜樂,為欲除去惛沈睡眠,時時修習淨妙作意以悅其心,是名攝樂作意。如是正修行者方便善品所資持故,令欲界繫煩惱纏垢不復現行,因此為欲審察煩惱斷與未斷,復更作意觀察彼生隨順淨相,是名觀察作意。如是行者數數觀察進修對治,為令欲界一切煩惱於暫時間得離繫故,此對治道相應作意,是初靜慮最後方便故,名方便究竟作意。從此無間證得根本最初靜慮俱行作意,是名方便究竟果作意。又由了相作意發希願心,為正了知所應斷所應得,為斷故、為得故,由勝解作意為所求義發正方便,由遠離作意捨上品惑,由攝樂作意捨中品惑,由觀察作意安心於所證、遠離增上慢,由方便究竟作意捨下品惑,由方便究竟果作意領彼所修作意修果。如為證入初靜慮定修七作意,如是乃至為證入非想非非想處定,如應當知。又麁相者,謂於一切下地,從欲界乃至無所有處,如是麁相略有二種:一住於重苦,不寂靜住故;二命行微少,壽命短促故。靜相者,謂於一切上地,從初靜慮乃至非想非非想處,與麁相相違故。
何を等至の建立とするのでしょうか。七種の作意によって初静慮に証入し、そのようにして非想非非想処に至るまでをいうのです。七種の作意とは何と名づけるのでしょうか。了相作意、勝解作意、遠離作意、摂楽作意、観察作意、方便究竟作意、方便究竟果作意です。この広い分別は、〈声聞地〉の後の瑜伽処に説かれているとおりです。
初静慮に証入するとき、どのように七種の作意によるのでしょうか。定地の作意によって、欲界の中の過患などを見るため、麁相を了達します。初静慮の中にはこの相がないので、静相と名づけます。これを了相作意といいます。
この作意はまだ聞と思に間雑されています。これより上は聞と思を超越して、ひたすら修相であり、麁静の相を縁として境界とし、奢摩他と毘鉢舎那を修し、尋思したところの麁静の性相をしばしば思惟します。これを勝解作意といいます。
これを修習するによって、最初に断道が生じ、それと俱行する作意を遠離作意と名づけます。これによって上品の煩悩を断じることができ、またその品の麁重を遠離することができるからです。
この観行の者は、さらに上の断と上の断の功徳を欣楽し、すでに少分の遠離の喜楽に触れています。惛沈と睡眠を除こうとして、時々に浄妙な作意を修習してその心を悦ばせます。これを摂楽作意といいます。
このように正しく修行する者は、方便の善品に資持されているので、欲界に繋がる煩悩の纏と垢がもはや現行しなくなります。そこで、煩悩が断じられたか断じられていないかを審らかに察しようとして、さらに作意して、それが生じるのを観察し、浄相に随順します。これを観察作意といいます。
このように行者はしばしば観察して対治を進め修め、欲界の一切の煩悩を暫しの間なりとも離繋させようとします。この対治の道と相応する作意は、初静慮の最後の方便であるから、方便究竟作意と名づけます。
これから間を置かずに根本の最初の静慮と俱行する作意を証得します。これを方便究竟果作意といいます。
また、了相作意によって希願の心を発し、断ずべきものと得べきものとを正しく了知しようとし、断ずるために、得るためにします。勝解作意によって、求める義のために正しい方便を発します。遠離作意によって上品の惑を捨てます。摂楽作意によって中品の惑を捨てます。観察作意によって心を証したところに安んじ、増上慢を遠離します。方便究竟作意によって下品の惑を捨てます。方便究竟果作意によって、かの修した作意の修果を領受します。初静慮の定に証入するために七作意を修めるように、そのようにして非想非非想処の定に証入するために至るまで、しかるべきように知るべきです。
また麁相とは、一切の下地において、欲界から無所有処に至るまでをいいます。この麁相には略して二種があります。第一は重苦に住し、寂静でない住であるからです。第二は命行が微少で、寿命が短促であるからです。静相とは、一切の上地において、初静慮から非想非非想処に至るまでをいいます。麁相と相違するからです。
品類建立者,於初靜慮定具三品熏修,謂軟、中、上。如初靜慮,餘靜慮及無色,三品熏修亦爾。由軟中上品熏修初靜慮故,於初靜慮中還生三異熟。如初靜慮,於餘靜慮中若熏修若生果各三品亦爾。諸靜慮中三品熏修生三果者,謂梵眾天、梵輔天、大梵天如是等,廣說如前。於無色界中無別處所故,不立生果差別。所以者何?於無色界無有安堵宮殿等處故,不建立生果差別。然由三品熏修無色定故,彼異熟生時有高有下、有劣有勝。彼異熟生時有高有下者,由壽命等有差別故。有劣勝者,染污不染污、多分少分有差別故。
品類を建立するとは、初静慮の定において三品の熏修を具えることをいいます。すなわち軟・中・上です。初静慮と同じように、他の静慮および無色においても、三品の熏修は同様です。軟・中・上の品によって初静慮を熏修するゆえに、初静慮において再び三つの異熟を生じます。初静慮と同じように、他の静慮においても、熏修する場合も果を生じる場合も、それぞれ三品は同様です。諸々の静慮において三品の熏修によって三つの果を生じるとは、梵衆天・梵輔天・大梵天などのことであり、詳しくは先に説いた通りです。無色界には別の処所がないため、生果の差別を立てません。なぜでしょうか。無色界には安堵や宮殿などの処がないからです。それゆえ生果の差別を建立しないのです。しかし三品によって無色定を熏修するゆえに、その異熟が生じるときには高もあり下もあり、劣もあり勝もあります。その異熟が生じるときに高もあり下もあるとは、寿命などに差別があるからです。劣もあり勝もあるとは、染汚と不染汚、多分と少分に差別があるからです。
名想建立者,謂於四靜慮中三摩地差別,無量名字、不可算數、不可思議。何以故?於初靜慮所攝定中,諸佛世尊及得究竟大威德菩薩摩訶薩所入三摩地,彼三摩地一切聲聞及獨覺等尚不了其名,豈能知數,況復證入。如《般若波羅蜜多經》中說三摩地其數過百。如是於餘大乘經中說三摩地其數無量。如於初靜慮所攝定,於餘靜慮無色所攝定亦爾。如是所說皆依靜慮波羅蜜多。
名想建立とは、四静慮における三摩地の違いに、無量の名前があり、数えきれず、不可思議であることをいいます。なぜでしょうか。初静慮に含まれる定において、諸仏世尊および究竟の大威徳を得た菩薩摩訶薩が入る三摩地は、その三摩地の名を、すべての声聞や独覚たちでさえまだ知ることができないのですから、どうしてその数を知ることができるでしょうか。ましてや証入することなど、なおさらできません。『般若波羅蜜多経』には、三摩地の数が百を超えると説かれています。同じように、他の大乗経典にも、三摩地の数が無量であると説かれています。初静慮に含まれる定について述べたのと同じことが、他の静慮や無色に含まれる定についても当てはまります。以上に説いたことは、すべて静慮波羅蜜多に基づいています。
清淨者,謂初靜慮中邊際定,乃至非想非非想處邊際定,是名清淨靜慮。無色邊際定者,為欲引發勝品功德得自在等,修堪任定到究竟處故。
清浄とは、初静慮における辺際定から、非想非非想処における辺際定に至るまでをいい、これを清浄静慮と名づけます。無色辺際定とは、すぐれた功德を引き起こし、自在を得るなどのために、よく堪えうる定を修めて究竟の境地に至るからです。
出世間道者,謂於修道中法智類智品所攝苦智集智滅智道智。如是八智相於見道中已廣說。及彼相應三摩地等,或未至定所攝,或初靜慮乃至無所有處所攝。非想非非想處唯是世間,不明了想恒現行故。由不明了想恒現在前,非極明了現行聖道之所依止,是故一向世間所攝。由此道理,彼想羸劣不能猛利取所緣相,故名無相。復云何知非想非非想處無有聖道?由世尊說:乃至有想三摩鉢底,方能如實照了通達。滅盡三摩鉢底是出世間,由聖道後所證得故,要於人趣方能引發。言引發者,是初起義。或於人趣或於色界能現在前,先已生起後重現前故。或於人趣者,謂即於此生。或於色界者,謂後生彼。云何聖弟子已得無色定已離色界,欲復生色界耶?不必永離色界欲方入無色定,是故此中應作四句。若已離色界欲者,一切皆能入無色界寂靜解脫定耶?設能入無色界寂靜解脫定者,一切已離色界欲耶?答:此初句者,謂依未至定已離色界欲,而不能得入無色界寂靜解脫定。第二句者,謂諸聖者已得第四靜慮,不求生無色界而起厭背,第四靜慮行恒現在前。捨斷結道依勝進道,漸次能入無色界寂靜解脫定。第三句者,謂即此行者勤求離欲,依斷結道漸次能入無色界寂靜解脫定。第四句者,謂除上爾所相。問:無色界中何故滅定不起現前?答:生無色界此滅盡定多分不起現前,由住寂靜解脫異熟者於此滅定多不發起勤方便故。所以者何?諸聖弟子為欲安住寂靜住故,於人趣等引此滅定令現在前。若已生無色界者,不由功用自然安住第一寂靜解脫異熟住,不復發起方便功用求此滅定令現在前。
出世間道とは、修道のなかで法智と類智の品に属する苦智・集智・滅智・道智をいいます。このように八つの智のあり方は、見道のなかですでに詳しく説きました。またそれらに相応する三摩地などは、あるいは未至定に属し、あるいは初静慮から無所有処までに属します。非想非非想処はただ世間だけであり、不明瞭な想が常に現行するからです。不明瞭な想が常に目の前にあるため、きわめて明瞭に現行する聖道の依り所とはならず、それゆえもっぱら世間に属します。この道理によって、そこの想は弱く劣っていて、鋭く所縁の相を取ることができないので、無相と名づけます。
また、どうして非想非非想処に聖道がないと知るのでしょうか。世尊が「想のある三摩鉢底に至ってこそ、はじめて如実に照了し通達することができる」と説かれているからです。滅尽三摩鉢底は出世間であり、聖道の後に証得するものであるため、必ず人趣においてこそ引き起こすことができます。「引き起こす」とは、最初に起こるという意味です。あるいは人趣において、あるいは色界において、目の前に現れることができます。先にすでに生じ、後になって再び現れるからです。「あるいは人趣において」とは、すなわちこの生においてということです。「あるいは色界において」とは、後にそこに生まれるということです。
どうして聖弟子は、すでに無色定を得て色界を離れながら、再び色界に生まれたいと願うのでしょうか。必ずしも永遠に色界の欲を離れてからでなければ無色定に入れないわけではないので、ここでは四句を作るべきです。
色界の欲をすでに離れた者は、すべて無色界の寂静解脱定に入ることができるのでしょうか。また、無色界の寂静解脱定に入ることができる者は、すべて色界の欲をすでに離れているのでしょうか。
答え:第一句とは、未至定に依ってすでに色界の欲を離れたが、無色界の寂静解脱定に入ることはできない者をいいます。第二句とは、諸々の聖者がすでに第四静慮を得て、無色界に生まれることを求めず、かえって厭い背き、第四静慮の行が常に目の前にある場合です。結を断つ道を捨てて勝進道に依り、次第に無色界の寂静解脱定に入ることができます。第三句とは、まさにこの修行者が勤めて離欲を求め、結を断つ道に依って次第に無色界の寂静解脱定に入ることができる場合です。第四句とは、以上の者を除いた場合です。
問:無色界では、どうして滅定が現前に起こらないのでしょうか。
答:無色界に生まれた者には、この滅尽定は多くは現前に起こりません。寂静解脱の異熟に住む者は、この滅定を起こすために勤めて方便を起こすことが多いとはいえないからです。なぜでしょうか。諸々の聖弟子は寂静の住に安住したいと願って、人趣などにおいてこの滅定を引き起こし、目の前に現れさせます。すでに無色界に生まれた者は、努力によらず自然に第一の寂静解脱の異熟の住に安住しており、もはや方便の努力を起こしてこの滅定を求めて目の前に現れさせることはありません。
軟道者,謂軟軟、軟中、軟上品道。由此道故,能捨三界所繫地地中上上、上中、上下三品煩惱。中道者,謂中軟、中中、中上品道。由此道故,能捨三界所繫地地中中上、中中、中軟三品煩惱。
軟道とは、軟軟・軟中・軟上の三品の道をいいます。この道によって、三界に繋縛された地ごとの上上・上中・上下の三品の煩悩を捨てることができます。中道とは、中軟・中中・中上の三品の道をいいます。この道によって、三界に繋縛された地ごとの中上・中中・中軟の三品の煩悩を捨てることができます。
上道者,謂上軟、上中、上上三品道。由此道故,能捨三界所繫地地中軟上、軟中、軟軟三品煩惱。
上道とは、上軟・上中・上上の三品の道をいいます。この道によって、三界に繋縛された地ごとの、軟上・軟中・軟軟の三品の煩悩を捨てることができます。
如是軟中上品道,復各別分為軟等三,建立九品,為顯修道所斷煩惱漸次斷故。復何因緣軟軟品道能斷上上品煩惱?由此煩惱於極猛利毀滅慚愧無羞恥者身中麁重現行,易可覺了易可分別,是故此上品煩惱猶如麁垢,微少對治即能除遣。若下下品煩惱在與上相違者身中微隱現行,難可覺了難可分別,如微隱垢大力對治方能除遣。由此道理,當知所餘能治所治相翻建立亦爾。
こうした軟・中・上の三品の道は、さらにそれぞれが軟などの三つに分けられ、九品が立てられます。これは修道によって断たれる煩悩が、しだいに断たれていくことを示すためです。
では、どういう理由で軟軟品の道が上上品の煩悩を断つことができるのでしょうか。この煩悩は、極めて鋭く慚愧を打ち壊し、羞恥心のない者の身のうちで粗重となって現れ、容易に気づくことができ、容易に見分けることができます。ですから、この上品の煩悩はちょうど粗い垢のようなもので、わずかな対治によってすぐに除き去ることができるのです。これに対して下下品の煩悩は、上とは逆の性質をもつ者の身のうちで微かに隠れて現れ、気づきにくく見分けにくいもので、微かに隠れた垢のように、大きな力の対治によってはじめて除き去ることができます。この道理から、残りの対治と所治についても、互いに反対の関係で成り立つことを知るべきです。
方便道者,謂由此道能捨煩惱。所以者何?由正修如是道時,能漸捨離各別上品等煩惱所生品類麁重一分,漸得轉依,是名修道中方便道。
方便道とは、この道によって煩悩を捨てることができることをいいます。なぜでしょうか。この道を正しく修めるとき、それぞれの上品などの煩悩から生じた種類の麁重を少しずつ捨て離れ、少しずつ転依を得ることができます。これを修道の中の方便道といいます。
無間道者,謂由此道無間永斷煩惱,令無所餘。所以者何?由此道無間能永除遣此品煩惱所生品類麁重,令無有餘。又轉麁重依得無麁重,是名修道中無間道。
無間道とは、この道によって間断なく煩悩を永遠に断ち切り、何も残らないようにすることをいいます。なぜでしょうか。この道によって間断なく、この品の煩悩から生じた種類の麁重を永遠に取り除き、何も残らないようにすることができるからです。また、麁重の拠り所を転じて麁重のない拠り所を得る、これを修道の中の無間道といいます。
解脫道者,謂由此道證斷煩惱所得解脫。所以者何?由此道能證煩惱永斷所得轉依故。勝進道者,謂為斷餘品煩惱,所有方便無間解脫道,是名勝進道。所以者何?為斷此品後餘煩惱所有方便無間解脫道,望此品是勝進,故名勝進道。又復棄捨斷煩惱方便,或勤方便思惟諸法、或勤方便安住諸法、或進修餘三摩鉢底諸所有道,名勝進道。又復者,為顯餘義。捨斷煩惱諸方便道,但正思惟契經等法,或復於先所思所證法中安住觀察,或復進入餘勝品定,諸如是等名勝進道。又為引發勝品功德,或復安住諸所有道,名勝進道。所以者何?若為引發神通無量等諸勝品功德,或彼生已現前安住,如是等道名勝進道。如是已廣說修道相差別,今乘義勢更辯諸道修之差別。
解脱道とは、この道によって煩悩を断じ尽くして得られる解脱を証することをいいます。なぜでしょうか。この道によって、煩悩が永遠に断たれて得られる転依を証することができるからです。
勝進道とは、残りの品の煩悩を断つための、すべての方便である無間道と解脱道をいいます。これを勝進道と名づけます。なぜでしょうか。この品の後に残る煩悩を断つための方便である無間道と解脱道は、この品から見て勝れた進みであるため、勝進道と名づけるのです。
また、煩悩を断つ方便を捨てて、あるいは熱心に諸法を思惟し、あるいは熱心に諸法に安住し、あるいはさらに他の三摩鉢底を進んで修める、それらのすべての道を勝進道と名づけます。
また「また」とは、他の意味を示すためです。煩悩を断つ諸々の方便の道を捨てて、ただ契経などの法を正しく思惟し、あるいはまた、先に思惟し証した法の中に安住して観察し、あるいはまた、他の勝れた品の定に入る、このようなものごとをすべて勝進道と名づけます。
また、勝れた品の功徳を引き起こすため、あるいはまた、それらのすべての道に安住することを勝進道と名づけます。なぜでしょうか。神通や無量などの諸々の勝れた品の功徳を引き起こすため、あるいはそれらが生じてもう目の前に安住している、このような道を勝進道と名づけるのです。
このように、すでに修道の相の違いを広く説きました。ここで、その意味の流れに乗って、さらに諸々の道の修め方の違いを弁じましょう。
修云何?略說有四種,謂得修、習修、除去修、對治修。得修者,謂未生善法修習令生。習修者,謂已生善法修令堅住不忘倍復增廣。除去修者,謂已生惡不善法修令永斷。對治修者,謂未生惡不善法修令不生。如是四種修差別相,隨其所應依四正斷說。為得故修名為得修,由此修力得所未得諸善法故。習即是修名為習修,由此修力數習已得諸善法故。為除故修名除去修,由此修力除去現行位諸不善法故。修習對治名對治修,對治未來諸不善法令成不生法故。又道生時能安立自習氣,是名得修,從此種類展轉增盛相續生故。又即此道現前修習,是名習修,由即此道現前行故。又即此道現在前時能捨自障,是名除去修,由此能滅自所對治麁重障故。又即此道既捨自障,又令彼未來住不生法中,是名對治修,由已得轉依於未來世安置彼障令住不生法故。又由具四種對治故,名對治修,謂厭壞對治、斷對治、持對治、遠分對治。厭壞對治者,於有漏諸行見多過患,謂以如病如癰等行厭壞五取蘊故。斷對治者,謂方便及無間道,由彼能斷諸煩惱故。持對治者,謂解脫道,由彼任持斷得故。遠分對治者,謂此後諸道,由彼令先所斷煩惱轉遠離故。如是四種對治差別,是前對治修差別義。
修とは何でしょうか。概略を説けば四種があり、得修・習修・除去修・対治修です。
得修とは、まだ生じていない善法を修習して生じさせることをいいます。習修とは、すでに生じた善法を修めて堅く保ち、忘れず、いっそう増広させることをいいます。除去修とは、すでに生じた悪不善法を修めて永く断じさせることをいいます。対治修とは、まだ生じていない悪不善法を修めて生じさせないようにすることをいいます。このように四種の修の差別の相は、それぞれの当てはまるところに従って四正断に基づいて説かれます。
得るために修めるので得修といいます。この修の力によって、まだ得ていない諸々の善法を得るからです。習うことすなわち修を習修といいます。この修の力によって、すでに得た諸々の善法をたびたび習うからです。除くために修めるので除去修といいます。この修の力によって、現に行じている段階の諸々の不善法を除くからです。対治を修習することを対治修といいます。未来の諸々の不善法を対治して、不生の法となすからです。
また、道が生じるとき、自らの習気を安立することができ、これを得修といいます。この種類から展転して増盛し、相続して生じるからです。また、まさにこの道を現前に修習することを習修といいます。すなわちこの道を現前に行じるからです。また、まさにこの道が現在前するとき、自らの障りを捨てることができ、これを除去修といいます。これによって自らの対治されるべき麁重の障りを滅することができるからです。また、まさにこの道が自らの障りを捨てたのち、さらにその障りを未来において不生の法の中にとどまらせ、これを対治修といいます。すでに転依を得て、未来世においてその障りを安置して不生の法にとどまらせるからです。
また、四種の対治を具えることによって対治修といいます。すなわち厭壊対治・断対治・持対治・遠分対治です。厭壊対治とは、有漏の諸行について多くの過患を見ることで、病のごとく、癰のごとくであるという行によって五取蘊を厭い壊すからです。断対治とは、方便道と無間道のことで、それらによって諸々の煩悩を断じることができるからです。持対治とは、解脱道のことで、それによって断じ得たものを任持するからです。遠分対治とは、これ以後の諸々の道のことで、それらによって先に断じた煩悩をいっそう遠ざけるからです。このように四種の対治の差別は、先の対治修の差別の意味です。
復次道差別有十一種,謂觀察事道、勤功用道、修治定道、現觀方便道、親近現觀道、現觀道、清淨出離道、依根差別道、淨修三學道、發諸功德道、遍攝諸道道。當知此中由覺分等差別故,建立十一種道,如其次第,謂三十七菩提分法、四種正行、四種法迹、奢摩他、毘鉢舍那、三無漏根。觀察事道者,謂四念住,由此最初以不淨等行觀察一切身受心法事故。勤功用道者,謂四正斷,由遍觀察一切事已,為斷諸障發勤精進故。修治定道者,謂四神足。如是淨除一切障已,復由欲勤心觀門修三摩地,令成調順堪任性故。現觀方便道者,謂信等五根。如是修治三摩地已,為欲證得無漏聖道,勤修增上緣煖頂方便故。親近現觀道者,謂信等五力。如是已得增上緣者,為欲無間通達諦理,修習摧伏不信等障,忍第一法近方便故。現觀道者,謂七覺支,由此最初各別內證覺真理故。清淨出離道者,謂聖八支道,由從此後為令修道所斷煩惱永得清淨修出離道故。由此道理,菩提分法如是次第。依根差別道者,謂四正行。由依近分根本等地差別及利鈍根差別故。苦正行者,依止未至及無色定,如其次第,止觀劣故。樂正行者,依止根本靜慮,雙道轉故。二遲通者,謂鈍根依苦樂。二速通者,謂利根依苦樂。淨修三學道者,謂四法迹,由此淨修增上戒等三學故。無貪無恚,能淨修治增上戒學,終不於貪欲瞋恚門毀犯所學處故。正念能淨修治增上心學,由不忘所緣持心令定故。正定能淨修治增上慧學,由心得定能證如實智故。發諸功德道者,謂奢摩他、毘鉢舍那,由此能成辦一切功德故。攝諸道道者,謂三無漏根,由此能攝初中究竟一切道故。未知欲知根,攝方便道及見道。已知根,攝修道。具知根,攝究竟道。
次に、道の区別には十一種があります。すなわち、観察事道、勤功用道、修治定道、現観方便道、親近現観道、現観道、清浄出離道、依根差別道、浄修三学道、発諸功徳道、遍摂諸道道です。ここで、覚分などの区別によって十一種の道を立てることを知るべきです。その順序に従えば、三十七菩提分法、四種正行、四種法迹、奢摩他、毘鉢舎那、三無漏根です。
観察事道とは四念住です。これによって最初に不浄などの行をもって、すべての身・受・心・法の事を観察するからです。
勤功用道とは四正断です。すべての事を遍く観察し終えてから、諸々の障りを断つために勤めて精進を起こすからです。
修治定道とは四神足です。このようにすべての障りを浄め除いてから、さらに欲・勤・心・観の門によって三摩地を修め、調順にして堪任性を得させるからです。
現観方便道とは信などの五根です。このように三摩地を修治してから、無漏の聖道を証得しようとして、増上縁としての煖・頂の方便を勤めて修めるからです。
親近現観道とは信などの五力です。このように増上縁を得た者は、間断なく諦理に通達しようとして、不信などの障りを摧き伏せる忍・第一法の近き方便を修習するからです。
現観道とは七覚支です。これによって最初にそれぞれ別々に内証して真理を覚るからです。
清浄出離道とは聖なる八支道です。これ以後、修道によって断じられる煩悩を永く清浄にしようとして、出離の道を修めるからです。この道理によって、菩提分法はこのような順序になります。
依根差別道とは四正行です。近分と根本などの地の区別、および利根・鈍根の区別によるからです。苦正行の者は、未至定および無色定に依止します。順序に従えば、止と観が劣っているからです。楽正行の者は根本静慮に依止します。止と観の二つの道がともに働くからです。二遅通の者は、鈍根の者が苦と楽に依るものをいいます。二速通の者は、利根の者が苦と楽に依るものをいいます。
浄修三学道とは四法迹です。これによって増上戒などの三学を浄く修めるからです。無貪と無恚は増上戒学を浄く修治することができます。ついに貪欲と瞋恚の門から学ぶところの処を毀犯しないからです。正念は増上心学を浄く修治することができます。所縁を忘れずに心を保ち定めさせるからです。正定は増上慧学を浄く修治することができます。心が定を得て如実の智を証することができるからです。
発諸功徳道とは奢摩他と毘鉢舎那です。これによってすべての功徳を成し遂げることができるからです。
摂諸道道とは三無漏根です。これによって初・中・究竟のすべての道を摂めることができるからです。未知欲知根は方便道と見道を摂めます。已知根は修道を摂めます。具知根は究竟道を摂めます。
大乘阿毘達磨雜集論卷第九
大乗阿毘達磨雑集論 巻第九