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大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)


大乘阿毘達磨雜集論卷第十

大乗阿毘達磨雑集論 巻第十

安慧菩薩糅

安慧菩薩がまとめられたものです。

大唐三藏法師玄奘奉 詔譯

大唐三蔵法師玄奘が勅命を受けて訳しました。

決擇分中諦品第一之五

決択分の中の諦品 第一の五

復次一切菩提分法無有差別,皆由五門而得建立,謂所緣故、自體故、助伴故、修習故、修果故。如初四念住有五門,所餘菩提分法亦爾。

さらに、一切の菩提分法には区別がなく、すべて五つの門によって建立されます。すなわち、所縁によるからであり、自体によるからであり、助伴によるからであり、修習によるからであり、修果によるからです。最初の四念住に五つの門があるように、残りの菩提分法もまた同様です。

四念住所緣境者,謂身、受、心、法。復有四事,謂我所依事、我受用事、我自體事、我染淨事。何故唯建立此為所緣境?由顛倒覺愚癡凡夫多分計我,依止有根身,受用苦樂等,取了境為相,由貪等染污,由信等清淨。是故最初為正觀察真實事相,是故建立此四種事為所緣境。

四念処が対象とする境とは、すなわち身・受・心・法です。また四つの事があり、それは我が依拠する事、我が受用する事、我が自体の事、我が染浄の事です。なぜただこの四つを建立して対象の境とするのでしょうか。顛倒した覚りに愚かな凡夫は、多く我と計り、根ある身に依止して苦楽などを受用し、境を取って相となし、貪などによって染汚され、信などによって清浄になるからです。それゆえ、まず真実の事相を正しく観察するために、この四種の事を建立して対象の境とするのです。

念住自體者,謂慧及念。由佛經中有於身等循觀言故,及有念住言故,如其次第。

念住の自体とは、慧と念をいいます。仏経の中に身などについて循観するという言葉があるからであり、また念住という言葉があるからです。その順序に従うのです。

念住助伴者,謂彼相應心心法等。彼者,彼念慧二法。

念住の助伴とは、それと相応する心・心所などの法をいいます。そこの「彼」とは、かの念と慧の二つの法のことです。

念住修習者,謂於內身等修循身等觀。如於內,於外、於內外亦爾。內身者,謂於此身中所有內色處。由自身中眼耳鼻舌身根內處所攝故、墮有情數故名內。外身者,謂外所有外色處。由外色聲香味觸等外處所攝故、非有情數故名外。內外身者,謂內處相應所有外處根所依止。由己身中眼等五處相應根所依住所有色等外處,墮有情數故、外處所攝故名內外。又於他身中所有內色處,約處建立、約身建立,說名內外。云何於身修循身觀?謂以分別影像身與本質身平等循觀,於身境循觀身相似性故,名於身循身觀。由循觀察分別影像身門,審諦觀察本質身故。內受者,謂因內身所生受。緣眼等處為境界故,依自身生故名內。外受者,謂因外身所生受。緣色等處為境界故,依他身生故名外。內外受者,謂因內外身所生受。緣自身中外處為境故,緣他身中內處為境故名內外。如受,心法亦爾。如於身修循身觀,如是於受等修循受等觀,如其所應。

念住を修習する者とは、内身などについて身に循う観察などを修めることをいいます。内についても、外についても、内外についても同様です。内身とは、この身体の中にある内色処をいいます。自身の中の眼・耳・鼻・舌・身根という内処に含まれ、有情の数に属するから「内」というのです。外身とは、外にある外色処をいいます。外の色・声・香・味・触などの外処に含まれ、有情の数に属さないから「外」というのです。内外身とは、内処に対応する外処であって根の依り所となるものをいいます。自分の身体の中の眼などの五処に対応する根が依り住する、色などの外処は、有情の数に属し、しかも外処に含まれるから「内外」というのです。また、他人の身体の中にある内色処を、処の面からと身の面からとを合わせて立てて、内外と名づけます。

どのように身について身に循う観察を修めるのでしょうか。分別された影像の身と本質の身とを平等に循って観察し、身という境に対して身の相似性に循って観察するから、「身について身に循う観察」というのです。分別された影像の身に循って観察する門によって、本質の身を審らかに観察するからです。

内受とは、内身によって生じた受をいいます。眼などの処を所縁として境界とするから、自身に依って生じるので「内」というのです。外受とは、外身によって生じた受をいいます。色などの処を所縁として境界とするから、他人の身に依って生じるので「外」というのです。内外受とは、内外身によって生じた受をいいます。自身の中の外処を所縁として境とするから、また他人の身の中の内処を所縁として境とするから「内外」というのです。受についてそうであるように、心法についてもまた同様です。身について身に循う観察を修めるように、受などについても受などに循う観察を修め、それぞれ相応する通りに行います。

又修習者,謂欲、勤、策、勵、勇猛、不息、正念、正知及不放逸,修習差別故。欲修習者,謂為對治不作意隨煩惱。勤修習者,謂為對治懈怠隨煩惱。策修習者,謂為對治沈掉隨煩惱。勵修習者,謂為對治心下劣性隨煩惱。心下劣性者,謂於勝品所證功德,由自輕蔑門心生怯弱性。勇猛修習者,謂為對治踈漏疲倦隨煩惱。踈漏疲倦者,謂能引蚊虻等處所生逼惱。不息修習者,謂為對治得少善法生知足喜隨煩惱。由得少善生知足喜故,止息所餘勝進善品。正念修習者,謂為對治忘失尊教隨煩惱。正知修習者,謂為對治毀犯追悔隨煩惱。毀犯追悔者,謂於往來等事不正知而行,先越學處後生悔惱。不放逸修習者,謂為對治捨諸善軛隨煩惱。捨善軛者,由放逸過失故,於所造修勝進善品捨勤方便不能究竟。念住修果者,謂斷四顛倒、趣入四諦、身等離繫,是名修果。斷四顛倒者,謂四念住隨其次第能斷淨樂常我四種顛倒,修不淨觀故、了知諸受皆是苦故、通達諸識依緣差別念念變異故、觀察染淨唯有諸法無作用者故。又此四種如其次第趣入四諦,亦名修果。由身念住趣入苦諦,所有色身皆行苦相,麁重所顯故。是故修觀行時能治,此輕安於身差別生故。由受念住趣入集諦,以樂等諸受是和合愛等所依處故。由心念住趣入滅諦,觀離我識當無所有,懼我斷門生涅槃怖永遠離故。由法念住趣入道諦,為斷所治法為修能治法故。又此四種,如其次第能證得身受心法離繫果,由此修習漸能遠離身等麁重故。四正斷所緣境者,謂已生未生、所治能治法。初正斷緣已生所治法為境,為斷已生惡不善法,樂欲生故。第二正斷緣未生所治法為境,第三正斷緣未生能治法為境,第四正斷緣已生能治法為境。如經所說,應廣配釋。

また修習とは、欲・勤・策・励・勇猛・不息・正念・正知および不放逸のことで、修習の違いによるからです。

欲の修習とは、不作意という随煩悩を対治するためです。勤の修習とは、懈怠という随煩悩を対治するためです。策の修習とは、沈掉という随煩悩を対治するためです。励の修習とは、心下劣性という随煩悩を対治するためです。心下劣性とは、勝れた品に証される功徳に対して、自らを軽んじ蔑むことを門として、心に怯弱の性が生じることです。勇猛の修習とは、踈漏疲倦という随煩悩を対治するためです。踈漏疲倦とは、蚊や虻などのいる所に生じる逼悩を引き起こすことです。不息の修習とは、少しの善法を得て知足の喜びを生じるという随煩悩を対治するためです。少しの善を得て知足の喜びを生じるがゆえに、残りの勝進の善品を止息してしまうのです。正念の修習とは、尊教を忘失するという随煩悩を対治するためです。正知の修習とは、毀犯と追悔という随煩悩を対治するためです。毀犯追悔とは、往来などの事について正知せずに行い、まず学処を越えて、のちに悔悩を生じることです。不放逸の修習とは、諸々の善軛を捨てるという随煩悩を対治するためです。善軛を捨てるとは、放逸の過失によって、造り修める勝進の善品に対して勤の方便を捨て、究竟することができないことです。

念住の修果とは、四顛倒を断じ、四諦に趣入し、身などが離繋となることで、これを修果と名づけます。四顛倒を断じるとは、四念住がその次第にしたがって浄・楽・常・我の四種の顛倒を断じることができることで、不浄観を修するがゆえに、諸々の受はみな苦であると了知するがゆえに、諸々の識は依と縁の違いにより念念に変異すると通達するがゆえに、染浄を観察すればただ諸法のみで作用するものはないからです。またこの四種は、その次第にしたがって四諦に趣入し、また修果と名づけます。身念住によって苦諦に趣入するのは、すべての色身はみな行苦の相であり、麁重に顕現されるからです。それゆえ観行を修する時によく対治でき、この軽安は身に違いを生じるからです。受念住によって集諦に趣入するのは、楽などの諸受は和合愛などの依処であるからです。心念住によって滅諦に趣入するのは、我を離れた識を観じてまさに無所有となろうとするとき、我が断じられることを懼れて涅槃への怖れを生じるのを、永遠に離れるからです。法念住によって道諦に趣入するのは、所治法を断じるため、能治法を修するためです。またこの四種は、その次第にしたがって身・受・心・法の離繋の果を証得することができ、この修習によってしだいに身などの麁重を遠離することができるからです。

四正断の所縁の境とは、已生・未生、所治・能治の法です。第一の正断は已生の所治法を縁として境とし、已生の悪不善法を断じるため、楽欲を生じるからです。第二の正断は未生の所治法を縁として境とし、第三の正断は未生の能治法を縁として境とし、第四の正断は已生の能治法を縁として境とします。経に説かれるとおり、広く配して解釈すべきです。

正斷自體者,謂精進。

正断の自体とは、すなわち精進をいいます。

正斷助伴者,謂彼相應心心法等。

正断の助伴とは、それと相応する心・心所などの法をいいます。

正斷修習者,如經說生欲策勵,發起正勤策心持心。此中諸句顯修正勤及所依止。所依止者,謂欲,樂欲為先,發精進故。正勤者,謂策勵等。於止舉捨相作意等中,若由止等相作意,不顧戀所緣境,純修習對治,爾時名策勵。為欲損減沈沒掉舉發起正勤。所以者何?若沈沒隨煩惱生時,為損減彼故,以淨妙等作意策練其心。若掉舉隨煩惱生時,即以內證略攝門制持其心。爾時名為發起正勤。即為顯此損減沈掉善巧方便,故次說言策心持心。

正断の修習とは、経典に説かれているように、「欲を生じ、策励し、正勤を発起し、心を策し、心を持する」ということです。このうちの諸句は、正勤を修めることと、そのよりどころを示しています。よりどころとは、すなわち欲であり、欲を先として精進を発するからです。正勤とは、策励などです。止・挙・捨の相による作意などの中で、止などの相による作意によって所縁の境を顧恋せず、もっぱら対治を修習するとき、そのときを策励といいます。沈没と掉挙を損減しようとして、正勤を発起するのです。なぜでしょうか。沈没の随煩悩が生じたとき、それを損減するために、浄妙などの作意によって心を策練します。掉挙の随煩悩が生じたときには、すなわち内証の略摂門によって心を制持します。そのときを、正勤を発起するといいます。すなわち、この沈没と掉挙を損減する善巧方便を示すために、次に「心を策し、心を持する」と説いているのです。

正斷修果者,謂盡棄捨一切所治,於能對治若得若增,是名修果。初二正斷盡捨一切所治,如其所應,斷捨一切已生未生惡不善法故。第三正斷得能對治,能生未生諸善法故。第四正斷增能對治,已生善法令增廣故。

正断を修めることの果とは、すべての対治されるべきものをことごとく捨て去り、対治する側の法を得るか、あるいはそれを増すことをいいます。これを修果と名づけます。最初の二つの正断は、すべての対治されるべきものをことごとく捨て去ることであり、それぞれに応じて、すでに生じた悪不善の法と、いまだ生じていない悪不善の法を断ち捨てるからです。第三の正断は、対治する法を得ることであり、いまだ生じていない諸々の善法を生じさせるからです。第四の正断は、対治する法を増すことであり、すでに生じた善法を増し広げるからです。

四神足所緣境者,謂已成滿定所作事。此復云何?由已成滿三摩地力,發起種種神變等事,是所緣境。

四神足が対象とする境とは、すでに成し遂げられた定によってなされる事柄をいいます。これはまたどのようなものでしょうか。すでに成し遂げられた三摩地の力によって、さまざまな神通変化などの事柄を起こすこと、それが対象とする境です。

神足自體者,謂三摩地。

神足の自体とは、三摩地をいいます。

神足助伴者,謂欲勤心觀及彼相應心心法等。欲三摩地者,謂由殷重方便證心一境性。殷重方便者,謂由猛利樂欲、猛利恭敬方便得三摩地。勤三摩地者,謂由無間方便觸心一境性。勤者,謂常精進無時暫間。心三摩地者,謂由先修定力觸心一境性。所以者何?由於前生數修定力,令彼種子功能增長,由種子力令心任運於三摩地隨順轉變,由此速證心一境性。觀三摩地者,謂由聞他教法內自簡擇觸心一境性。又欲三摩地者,謂由生欲觸心一境性。勤三摩地者,謂由策勵發起正勤觸心一境性。心三摩地者,謂由持心觸心一境性。觀三摩地者,謂由策心觸心一境性。為顯發生神足因性故,引修正斷中生欲策勵等諸句持心策心,是此次第。心三摩地者,由持心故得定持心,於內寂靜略攝速證定故。觀三摩地者,由策心故得定,依法觀門策練其心速得定故。

神足の助伴とは、欲・勤・心・観、およびそれらと相応する心・心所などの法をいいます。

欲三摩地とは、殷重の方便によって心の一境性を証得することをいいます。殷重の方便とは、猛利な楽欲と猛利な恭敬という方便によって三摩地を得ることをいいます。

勤三摩地とは、無間の方便によって心の一境性に触れることをいいます。勤とは、常に精進して少しの間も途切れないことをいいます。

心三摩地とは、先に定を修めた力によって心の一境性に触れることをいいます。なぜでしょうか。前世において繰り返し定を修めた力により、その種子の功能が増長し、種子の力によって心が自然に三摩地に随順して転変するため、これによって速やかに心の一境性を証得するからです。

観三摩地とは、他から教法を聞き、内に自ら簡択することによって心の一境性に触れることをいいます。

また、欲三摩地とは、欲を生じることによって心の一境性に触れることをいいます。勤三摩地とは、策励して正勤を発起することによって心の一境性に触れることをいいます。心三摩地とは、心を持することによって心の一境性に触れることをいいます。観三摩地とは、心を策すことによって心の一境性に触れることをいいます。

神足を発生させる因の性質を明らかにするために、正断を修める中で説かれた「欲を生じ」「策励し」などの諸句と、「心を持し」「心を策す」とが、この次第となっているのです。

心三摩地とは、心を持するによって定を得て心を持し、内に寂静にして略摂し、速やかに定を証得するからです。観三摩地とは、心を策すによって定を得て、法の観門に従ってその心を策励し練磨し、速やかに定を得るからです。

神足修習者,謂數修習八種斷行。何等為八?謂欲、精進、信、安、正念、正知、思、捨。如是八種略攝為四,謂加行、攝受、繼屬、對治。加行者,謂欲、精進、信。欲為精進依,信為欲因。所以者何?由欲求故為得此義發勤精進,如是欲求不離信受,有體等故。攝受者,謂安,由此輕安攝益身心故。繼屬者,謂正念、正知,由不忘所緣安心一境故。若有放逸生,如實了知故,隨其次第。對治者,謂思、捨。策心持心二加行力已生,沈掉能遠離故,又能引發離隨煩惱止等相故。

神通足を修習するとは、八種の断行を繰り返し修習することをいいます。八種とは何でしょうか。すなわち欲・精進・信・安・正念・正知・思・捨です。この八種は簡略にまとめると四つになります。すなわち加行・摂受・継属・対治です。

加行とは、欲・精進・信をいいます。欲は精進の拠り所であり、信は欲の因です。なぜでしょうか。欲求によってこの義を得ようとして勤め精進を起こすのであり、そのような欲求は信受を離れず、有体などがあるからです。

摂受とは、安をいいます。この軽安によって身心を摂め益するからです。

継属とは、正念・正知をいいます。所縁を忘れずに心を安らかにして一境に集中するからです。もし放逸が生じても、ありのままに了知するからであり、その次第に従うからです。

対治とは、思・捨をいいます。策心と持心という二つの加行の力がすでに生じて、沈と掉を遠く離れることができるからであり、また離随煩悩の止などの相を引き起こすことができるからです。

復次欲勤心觀修有二種,謂并因緣聚散遠離修不劣不散,彼二所依隨順修,此中顯示欲等能遠離聚散及因緣等二種修義。聚因緣者,謂遠離毘鉢舍那故,由懈怠門所生沈沒。散因緣者,謂遠離不淨想故,由掉動門所生高舉。聚者,謂由惛沈睡眠門,於內踧踖。散者,謂由隨順淨妙相門,於外馳散。不劣隨順修者,謂依觀察相觀察諸法。不散隨順修者,謂依不淨想觀察髮毛等事。彼二所依隨順修者,謂修光明想。依如是次第,薄伽梵說:我之欲樂無有下劣亦無高舉,於內不聚於外不散,有前後想及上下想,開發其心遠離纏縛,與光明俱。自修其心,當令我心無諸闇蔽。神足修果者,謂已善修治三摩地故,隨所欲證所通達法,即能隨心通達變現。又於別別處所法中,證得堪能自在作用,如所願樂能辦種種神通等事,又能引發勝品功德。

さらに、欲・勤・心・観の修め方には二種類があります。すなわち、因縁の聚と散を遠離する修め方と、劣らず散らさない修め方です。この二つが依る随順の修め方については、ここで欲などが聚散および因縁などを遠離するという二種の修の意味を明かしています。

聚の因縁とは、毘鉢舍那を遠離しているために、懈怠の門から生じる沈没のことです。散の因縁とは、不浄想を遠離しているために、掉動の門から生じる高挙のことです。聚とは、惛沈と睡眠の門によって、内に踧踖することです。散とは、浄妙な相に随順する門によって、外に馳せ散ることです。

劣らずに随順して修めるとは、観察の相に依って諸法を観察することです。散らさずに随順して修めるとは、不浄想に依って髪や毛などの事を観察することです。この二つが依る随順の修め方とは、光明想を修めることです。

このような次第に従って、薄伽梵は説かれました。「私の欲楽には下劣もなく、また高挙もありません。内に聚まらず、外に散らず、前後の想と上下の想があり、その心を開き発して纏縛を遠離し、光明とともにあります。自らその心を修めて、私の心に諸々の闇蔽がないようにします」と。

神足の修果とは、すでによく三摩地を修治しているために、証したいと欲する所の通達する法を、そのまま心に随って通達し変現できることです。また、それぞれ別々の処所の法において、堪能なる自在の作用を証得し、願い楽しむままに種々の神通などの事を成し遂げることができ、また勝れた品の功徳を引き起こすことができます。

五根所緣境者,謂四聖諦。由諦現觀方便所攝,作此行故。

五根が対象とする境とは、すなわち四聖諦です。諦を現観するための方便に含まれるものとして、この修行を行うからです。

五根自體者,謂信、精進、念、定、慧。

五根の自体とは、信・精進・念・定・慧をいいます。

五根助伴者,謂彼相應心心法等。

五根の助伴とは、それらと相応する心・心所などの法をいいます。

五根修習者,謂信根於諸諦起忍可行修習。精進根於諸諦生忍可已為覺悟故,起精進行修習。念根於諸諦發精進已,起不忘失行修習。定根於諸諦既繫念已,起心一境性行修習。慧根於諸諦心既得定,起簡擇行修習。五根修果者,謂能速發諦現觀,由此增上力不久能生見道故。又能修治煖、頂,引發忍、世第一法,即現此身已入順決擇分位故。

五根を修習するとは、次のようなことです。信根は、諸諦に対して忍可の心を起こし、それを行として修習します。精進根は、諸諦に対して忍可の心を生じたうえで、覚悟のために精進の行を起こして修習します。念根は、諸諦に対して精進を発したうえで、忘れない行を起こして修習します。定根は、諸諦に対してすでに念を繫けたうえで、心が一つの対象に集中する行を起こして修習します。慧根は、諸諦に対して心がすでに定を得たうえで、簡択の行を起こして修習します。

五根を修習した果とは、速やかに諦の現観を発することができるということです。この増上の力によって、間もなく見道を生じることができるからです。また、煖と頂を修治して、忍と世第一法を引き起こすことができます。すなわち、この身においてすでに順決択分の位に入るからです。

如五根,五力亦爾。差別者,由此能損減所對治障,不可屈伏,故名為力。謂五力所緣境等與根相似,然果有差別。所以者何?如說果者,謂能損減不信等障故,勝過於前。雖與五根所緣境界自體等相似,然不可屈伏義有差別故,別立力分。

五根がそうであるように、五力もまた同じです。違いは、これによって対治されるべき障りを損減することができ、屈伏させることができないので、「力」と名づけます。五力の所縁の境などは根と似ていますが、しかし果に違いがあります。なぜでしょうか。説かれるところの果とは、不信などの障りを損減することができるので、前のものに勝れているからです。五根の所縁の境界や自体などと似ているとはいえ、しかし屈伏させることができないという意味に違いがあるので、別に力の分を立てるのです。

七覺支所緣境者,謂四聖諦如實性。如實性者,即是勝義清淨所緣故。

七覚支が対象とする境とは、四聖諦の如実性をいいます。如実性とは、すなわち勝義の清浄なる所縁でございます。

覺支自體者,謂念、擇法、精進、喜、安、定、捨。如是七法是覺支自體。念者是所依支,由繫念故,令諸善法皆不忘失。擇法者是自體支,是覺自相故。精進者是出離支,由此勢力能到所到故。喜者是利益支,由此勢力身調適故。安、定、捨者是不染污支,由此不染污故、依此不染污故、體是不染污故。如其次第,由安故不染污,由此能除麁重過故。依定故不染污,依止於定得轉依故。捨是不染污體,永除貪憂,不染污位為自性故。

覚支の自体とは、念・択法・精進・喜・安・定・捨をいいます。この七つの法が覚支の自体です。念は所依の支であり、念に心を結びつけることで、もろもろの善法をすべて忘れ失わないようにするからです。択法は自体の支であり、これが覚りの自相であるからです。精進は出離の支であり、その力によって到達すべきところに到達できるからです。喜は利益の支であり、その力によって身が調い適うからです。安・定・捨は不染汚の支であり、これによって不染汚であるから、これに依って不染汚であるから、その体が不染汚であるからです。その順に、安によって不染汚となるのは、これによって麁重の過ちを除くことができるからです。定に依って不染汚となるのは、定に依止して転依を得るからです。捨は不染汚の体であり、貪と憂を永遠に除き、不染汚の位を自性とするからです。

覺支助伴者,謂彼相應心心法等。

覚支の助伴とは、すなわちそれと相応する心・心所などの法をいいます。

覺支修習者,謂依止遠離、依止無欲、依止寂滅,迴向棄捨修念覺支。如念覺支,乃至捨覺支亦爾。如是四句,隨其次第顯示緣四諦境修習覺支。所以者何?若緣苦體為惱苦時,於苦境界必求遠離故,名依止遠離。若緣愛相苦集為苦集時,於此境界必求離欲故,名依止離欲。若緣苦滅為苦滅時,於此境界必求作證故,名依止寂滅。棄捨者,謂趣苦滅行,由此勢力棄捨苦故。是故若緣此境時,於此境界必求修習故,名迴向棄捨。

覚支を修習する者とは、遠離に依止し、無欲に依止し、寂滅に依止し、棄捨に迴向して、念覚支を修めることをいいます。念覚支と同じように、捨覚支に至るまでもまた同様です。この四句は、その順序に従って、四諦の境を縁として覚支を修習することを示しています。なぜでしょうか。苦の体を縁として、それを悩ましい苦とするとき、苦の境界に対して必ず遠離を求めるからです。それゆえ「遠離に依止する」といいます。愛の相である苦集を縁として、それを苦集とするとき、この境界に対して必ず離欲を求めるからです。それゆえ「離欲に依止する」といいます。苦滅を縁として、それを苦滅とするとき、この境界に対して必ず作証を求めるからです。それゆえ「寂滅に依止する」といいます。棄捨とは、苦滅へと趣く行のことであり、この力によって苦を棄捨するからです。したがって、この境を縁とするとき、この境界に対して必ず修習を求めるからです。それゆえ「棄捨に迴向する」といいます。

覺支修果者,謂見道所斷煩惱永斷,由七覺支是見道自體故。

覚支の修果とは、見道において断たれる煩悩が永遠に断たれることをいいます。七覚支は見道の自体であるからです。

八聖道支所緣境者,謂即此後時四聖諦如實性。由見道後所緣境界,即先所見諸諦如實性為體故。

八聖道支が対象とする境とは、すなわち、この後に説かれる四聖諦の如実性をいいます。見道の後に所縁とする境界は、すなわち、先に見た諸諦の如実性を本体とするからです。

道支自體者,謂正見、正思、惟正語、正業、正命、正精進、正念、正定,如是八法名道支自體。正見者,是分別支,如先所證真實簡擇故。正思惟者,是誨示他支,如其所證方便安立發語言故。正語、正業、正命者,是令他信支,如其次第令他於證理者決定信有見戒正命清淨性故。所以者何?由正語故,隨自所證,善能問答論議決擇,由此了知有見清淨。由正業故,往來進止正行具足,由此了知有戒清淨。由正命故,如法乞求佛所聽許衣鉢資具,由此了知有命清淨。正精進者,是淨煩惱障支,由此永斷一切結故。正念者,是淨隨煩惱障支,由此不忘失正止舉相等,永不容受沈掉等隨煩惱故。正定者,是能淨最勝功德障支,由此引發神通等無量勝功德故。

道支の自体とは、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定をいいます。この八つの法を道支の自体といいます。

正見とは、分別の支であり、先に証した真実を簡択するからです。正思惟とは、他を教え示す支であり、その証したところに従って方便をもって安立し、言葉を発するからです。正語・正業・正命とは、他に信を生じさせる支であり、その順に従って、他に、真理を証した者には正しい見・戒・正命の清浄な性質があると決定して信じさせるからです。なぜでしょうか。正語によって、自ら証したところに従ってよく問答し論議し決択することができ、これによって見が清浄であると了解されるからです。正業によって、往来し進み止まる正しい行いが具足し、これによって戒が清浄であると了解されるからです。正命によって、法にかなって乞い求めた、仏がお許しになった衣や鉢などの資具により、これによって命が清浄であると了解されるからです。

正精進とは、煩悩の障りを浄める支であり、これによって一切の結を永く断つからです。正念とは、随煩悩の障りを浄める支であり、これによって正しい止や挙などに忘失することなく、沈や掉などの随煩悩を永く受け入れないからです。正定とは、最も勝れた功徳の障りを浄めることのできる支であり、これによって神通などの無量の勝れた功徳を引き起こすからです。

道支助伴者,謂彼相應心心法等。

道支の助伴とは、すなわちそれと相応する心・心所などの法をいいます。

道支修習者,如覺支說,謂依止遠離、依止無欲、依止寂滅,迴向棄捨修習正見,乃至廣說。如是諸句義,如前所說道理應隨順知。

道支を修習する者については、覚支の説で述べたとおりです。すなわち、遠離に依止し、無欲に依止し、寂滅に依止して、棄捨へと迴向しながら正見を修習し、さらには広く説かれるところまで、そのとおりです。このように、これらの諸句の意味は、先に説いた道理のとおりに随順して理解するべきです。

道支修果者,謂分別誨示他,令他信煩惱障淨、隨煩惱障淨、最勝功德障淨故。

道支を修めて果を得るとは、すなわち、他に分別して教え示し、他をして煩悩障の清浄、随煩悩障の清浄、最勝の功徳障の清浄を得させることをいいます。

四正行者,謂苦遲通行、苦速通行、樂遲通行、樂速通行。初謂鈍根未得根本靜慮,第二謂利根未得根本靜慮,第三謂鈍根已得根本靜慮,第四謂利根已得根本靜慮。苦正行者,謂依未至及無色地,如其次第,奢摩他、毘鉢舍那微劣故。樂正行者,謂依靜慮雙道轉故。遲通者,謂鈍根依苦樂二地。速通者,謂利根依苦樂二地。

四正行とは、苦遅通行・苦速通行・楽遅通行・楽速通行をいいます。第一は、鈍根でいまだ根本静慮を得ていないものをいい、第二は、利根でいまだ根本静慮を得ていないものをいい、第三は、鈍根ですでに根本静慮を得ているものをいい、第四は、利根ですでに根本静慮を得ているものをいいます。苦正行とは、未至地および無色地によることをいい、その順に応じて、奢摩他と毘鉢舎那が微弱であるからです。楽正行とは、静慮によることをいい、双道が転じるからです。遅通とは、鈍根が苦・楽の二地によることをいい、速通とは、利根が苦・楽の二地によることをいいます。

四法迹者,謂無貪、無瞋、正念、正定。無貪無瞋能令增上戒學清淨,不因貪恚門毀犯學處故。正念能令增上心學清淨,由於所緣無有忘失,持心令定故。正定能令增上慧學清淨,由定心者能如實遍知故。

四法迹とは、無貪・無瞋・正念・正定をいいます。無貪と無瞋は、増上戒学を清浄にするはたらきがあります。貪りや怒りの門から学処を毀犯することがないからです。正念は、増上心学を清浄にするはたらきがあります。対象を忘失することがなく、心を保って定に至らせるからです。正定は、増上慧学を清浄にするはたらきがあります。定まった心の者は、ありのままに遍く知ることができるからです。

奢摩他者,謂於內攝心令住、等住、安住、近住、調順、寂靜、最極寂靜、專注一趣、平等攝持。如是九行令心安住,是奢摩他。令住者,攝外攀緣,內離散亂,最初繫心故。等住者,最初繫縛麁動心已,即於所緣相續繫念,微細漸略故。安住者,或時失念於外馳散,尋復斂攝故。近住者,從初已來為令其心於外不散,親近念住故。調順者,從先已來於散亂因色等法中起過患想,增上力故調伏其心令不流散故。寂靜者,於擾動心散亂惡覺隨煩惱中深見過患,攝伏其心令不流散故。最極寂靜者,或時失念散亂,覺等率爾現行,即便制伏令不更起故。專注一趣者,精勤加行無間無缺,相續安住勝三摩地故。平等攝持者,善修習故,不由加行遠離功用,定心相續離散亂轉故。毘鉢舍那者,謂簡擇諸法、最極簡擇、普遍尋思、周審觀察,為欲對治麁重相結故、為欲制伏諸顛倒故、令無倒心善安住故。此中諸句依正行所緣境說、或依善巧所緣境說、或依淨煩惱所緣境說。簡擇諸法者,盡所有故。最極簡擇者,如所有故。普遍尋思者,由有分別作意俱行慧建立諸法相故。周審觀察者,委具推求故。

奢摩他とは、内に心を収めて住せしめ、等住せしめ、安住せしめ、近住せしめ、調順ならしめ、寂静ならしめ、最極寂静ならしめ、専注一趣ならしめ、平等摂持ならしめることをいいます。この九つの行によって心を安住させるのが、奢摩他です。

「住せしめる」とは、外への攀縁を収め、内に散乱を離れ、最初に心を繋ぎ止めるからです。「等住」とは、最初に粗動な心を繋ぎ縛ったのち、そのまま所縁の対象に相続して念を繋ぎ、微細に少しずつ略していくからです。「安住」とは、ときに念を失って外へ馳せ散ることがあっても、すぐにまた収め摂めるからです。「近住」とは、初めから心が外に散らないように、念住に親近するからです。「調順」とは、これまで散乱の因である色などの法に対して過患の想いを起こし、その増上の力によって心を調伏し、流れ散らないようにするからです。「寂静」とは、心を擾動させる散乱や悪覚・随煩悩に対して深く過患を見て、心を摂め伏せ、流れ散らないようにするからです。「最極寂静」とは、ときに念を失って散乱し、覚などがにわかに現行することがあっても、ただちに制し伏せて再び起こさせないからです。「専注一趣」とは、精勤に加行して間断なく欠けることなく、相続して勝れた三摩地に安住するからです。「平等摂持」とは、よく修習したので、加行によらず功用を離れ、定心が相続して散乱を離れて転じるからです。

毘鉢舎那とは、諸法を簡択し、最極に簡択し、普遍に尋思し、周審に観察することをいい、粗重の相結を対治しようとするためであり、諸の顛倒を制伏しようとするためであり、無倒の心をよく安住させようとするためです。ここで諸句は、正行の所縁の境によって説くもの、あるいは善巧の所縁の境によって説くもの、あるいは浄煩悩の所縁の境によって説くものです。

「諸法を簡択する」とは、尽所有によるからです。「最極に簡択する」とは、如所有によるからです。「普遍に尋思する」とは、有分別作意と俱行する慧によって諸法の相を建立するからです。「周審に観察する」とは、委しく具に推求するからです。

又依奢摩他、毘鉢舍那立四種道。或有一類已得奢摩他非毘鉢舍那,此類依奢摩他進修毘鉢舍那。或有一類已得毘鉢舍那非奢摩他,此類依毘鉢舍那進修奢摩他。或有一類不得奢摩他亦非毘鉢舍那,此類專心制伏沈掉雙修二道。或有一類已得奢摩他及毘鉢舍那,此類奢摩他、毘鉢舍那二道和合平等雙轉。此中依於止觀說四種道。初已得止故宴坐住心乃至平等攝持,未得觀故還復宴坐,依三摩地簡擇諸法,乃至周審觀察。第二與此相違。第三二俱未得,雙進修習。云何修習?謂聽聞法,由受持門進修正觀,以此為先進修於止。第四已得二種,相應俱轉。

また、奢摩他と毘鉢舍那に基づいて四種の道を立てます。ある一類はすでに奢摩他を得ていて毘鉢舍那を得ていない者であり、この類は奢摩他に依ってさらに毘鉢舍那を修め進みます。ある一類はすでに毘鉢舍那を得ていて奢摩他を得ていない者であり、この類は毘鉢舍那に依ってさらに奢摩他を修め進みます。ある一類は奢摩他を得ておらず、また毘鉢舍那も得ていない者であり、この類は心を専らにして沈・掉を制し伏せ、二つの道をともに修めます。ある一類はすでに奢摩他と毘鉢舍那とを得ている者であり、この類は奢摩他・毘鉢舍那の二つの道を和合させ、平等にともに転じます。ここでは止観に基づいて四種の道を説きます。

第一は、すでに止を得ているので、宴坐して心を住め、乃至は平等に摂持しますが、いまだ観を得ていないので、また宴坐に戻り、三摩地に依って諸法を簡択し、乃至は周審に観察します。第二は、これと相違します。第三は、二つともいまだ得ていないので、両方をともに修習し進めます。どのように修習するのでしょうか。すなわち法を聴聞し、受持の門によって正観を修め進み、これをもって先として止を修め進みます。第四は、すでに二種を得て、相応してともに転じます。

三根者,謂未知欲知根、已知根、具知根。未知欲知根者,謂於方便道及於見道十五心剎那中所有諸根。此中顯示順決擇分所攝方便道,及見道十五剎那所有諸根,是未知欲知根體。言諸根者,謂意根信等五根,由未至等地所依差別故。如其所應,有樂、喜、憂、捨根隨一。憂根者,謂方便道時順決擇分後,於上解脫希求欲證,愁慼所攝。如是十根先未知真,為欲得知,修習轉故,名未知欲知根。已知根者,從第十六見道心剎那已上,於一切有學道中所有諸根,是已知根體。所以者何?即前十根從第十六見道心剎那,乃至金剛喻定,於如是有學道中,未有所應知境曾所不知故,名已知根。具知根者,謂於無學道所有諸根。言諸根者,即前所說九根,除憂根,於無學道中說名具知根。具知者,謂阿羅漢等,此所有根,名具知根。無學身中無有憂根,所應學無故。

三根とは、未知欲知根・已知根・具知根をいいます。

未知欲知根とは、方便道および見道の十五心刹那において存在するもろもろの根をいいます。ここでは、順決択分に属する方便道と、見道の十五刹那におけるもろもろの根が、未知欲知根の本体であることを示しています。「もろもろの根」とは、意根と信などの五根をいい、未至地などの地をよりどころとする違いによります。それに応じて、楽根・喜根・憂根・捨根のうちのいずれか一つがあります。憂根とは、方便道のとき、順決択分の後に、上の解脱を希求して証しようと願い、愁慼に属するものをいいます。このように十の根は、もと真実を知らず、それを知ろうとして修習を重ねていくので、「未知欲知根」といいます。

已知根とは、第十六の見道心刹那から以上において、すべての有学道にあるもろもろの根をいい、これが已知根の本体です。なぜでしょうか。すなわち前述の十の根は、第十六の見道心刹那から金剛喩定に至るまで、このような有学道において、知るべき境でかつて知らなかったものがないからです。それゆえ「已知根」といいます。

具知根とは、無学道にあるもろもろの根をいいます。「もろもろの根」とは、すなわち前に説いた九の根から憂根を除いたもので、無学道において「具知根」と名づけます。具知とは、阿羅漢などのことであり、この人にある根を具知根といいます。無学の身には憂根がなく、学ぶべきものがもうないからです。

復次依止修道分別修義,謂依初靜慮地現修道時,亦修欲界繫所有善根,於彼得自在故。如依初靜慮地修欲界善,如是依一切上地現修道時,皆能修習下界下地所有善根,於彼得自在故。當知此中所說義者,謂依止上地現前修習道時,下界下地所有善根雖不現前,亦皆修習。何以故?於彼得自在故。自在者,謂轉增勝現行自在故。

次に、修道に依止して修の義を分別します。初静慮地に依って現に修道するとき、欲界に繋がるすべての善根をも修めるのは、それらに対して自在を得るからです。初静慮地に依って欲界の善を修めるように、すべての上地に依って現に修道するときにも、みな下界・下地のすべての善根を修習することができるのは、それらに対して自在を得るからです。ここで説かれる義とは、上地に依止して現前に道を修習するとき、下界・下地のすべての善根は現前しなくても、みな修習するということです。なぜでしょうか。それらに対して自在を得るからです。自在とは、転じてますます勝れた現行の自在を得ることをいいます。

究竟道者,謂依金剛喻定,一切麁重永已息故、一切繫得永已斷故、永證一切離繫得故。從此次第無間轉依,證得盡智及無生智十無學法。何等為十?所謂無學正見乃至無學正定、無學正解脫、無學正智。如是等法名究竟道。

究竟道とは、金剛喩定に依ることをいいます。すべての麁重が永遠にすでに息んだからであり、すべての繋得が永遠にすでに断たれたからであり、永遠にすべての離繋得を証したからです。これより次第に間断なく転依して、尽智と無生智、および十の無学法を証得します。何が十でしょうか。いわゆる無学の正見から無学の正定まで、無学の正解脱、無学の正智です。このような法を究竟道と名づけます。

云何名一切麁重?略說有二十四種,謂一切遍行戲論麁重、領受麁重、煩惱麁重、業麁重、異熟麁重、煩惱障麁重、業障麁重、異熟障麁重、蓋麁重、尋思麁重、飲食麁重、交會麁重、夢麁重、病麁重、老麁重、死麁重、勞倦麁重、堅固麁重、麁麁重、中麁重、細麁重、煩惱障麁重、定障麁重、所知障麁重。如是二十四種,略攝一切麁重。

一切の麁重とは何でしょうか。略して説けば二十四種あります。すなわち、一切遍行の戯論の麁重、領受の麁重、煩悩の麁重、業の麁重、異熟の麁重、煩悩障の麁重、業障の麁重、異熟障の麁重、蓋の麁重、尋思の麁重、飲食の麁重、交会の麁重、夢の麁重、病の麁重、老の麁重、死の麁重、労倦の麁重、堅固の麁重、麁の麁重、中の麁重、細の麁重、煩悩障の麁重、定障の麁重、所知障の麁重です。このように二十四種が、略して一切の麁重を摂め尽くします。

一切遍行戲論麁重者,謂執眼等諸法習氣,無始時來依附阿賴耶識相續不斷,即此名為戲論習氣。從此習氣,眼等諸法及名言執數數生起。領受麁重者,謂有漏諸受習氣。煩惱麁重者,謂煩惱隨眠。業麁重者,謂有漏業習氣。異熟麁重者,謂異熟無堪能性。煩惱障麁重者,謂猛利長時煩惱性。業障麁重者,謂能障道無間等業障性。異熟障麁重者,謂與諦現觀相違,地獄等自體得。蓋麁重者,謂能障礙善品方便盛貪欲等性。尋思麁重者,謂能障礙欣樂出家欲尋思等性。飲食麁重者,謂極多少食於方便行無堪任性。交會麁重者,謂兩兩形交身心疲損性。夢麁重者,謂睡眠所發身惛劣性。病麁重者,謂諸界互違所發不安隱性。老麁重者,謂大種衰變所起不隨轉性。死麁重者,謂臨命終時諸根亂性。勞倦麁重者,謂遠行等所作支體頓弊性。堅固麁重者,謂無涅槃法者,如其所應所有戲論麁重等性。麁、中、細麁重者,謂欲色無色所有麁重,如其次第。煩惱障麁重者,謂聲聞獨覺菩提所治。定障麁重者,謂九次第定所發功德所治。所知障麁重者,謂一切智性所治。如是隨其所應,一切麁重永已息故,名究竟道。如說如是行者,心解脫圓滿、慧解脫圓滿,身麁重永息,由成就念為因故。於最初門善調善護、善防善覆、極善修治,謂於眼所識色,乃至於意所識法亦爾。
繫得者,謂於麁重積集,假立繫得性。
離繫得者,謂於麁重離散,假立離繫得性。金剛喻定者,謂居修道最後斷結道位所有三摩地。此復略有二種,謂方便道攝、無間道攝。方便道攝者,謂從此已去,不為一切障所礙,而能破一切障。無間道攝者,謂從此無間盡智、無生智生。又此三摩地,無間、堅固、一味、遍滿。云何此金剛喻定名無間、謂此相續流非世間行所間缺故。堅固者,非一切障所壞,能壞一切障,極堅猛故。一味者,無分別性,純一味故。遍滿者,緣一切所知法共相真如為境故。為顯此義,薄伽梵說:如大石山無缺無隙無穴一段,極善圓滿,十方猛風所不動轉。無間轉依者,謂已證得無學道者所有三種轉依。何等為三?謂心轉依、道轉依、麁重轉依。心轉依者,謂已得無學道,證得法性心自性清淨,永離一切客塵隨煩惱故,名為轉依,即是真如轉依義。道轉依者,謂昔世間道於現觀時,轉成出世,說名有學,餘有所作故。若永除一切所治、永離三界欲時,此道自體究竟圓滿,立為轉依。麁重轉依者,謂阿賴耶識一切煩惱隨眠永遠離故,名為轉依。
盡智者,謂由因盡所得智,或緣盡為境。所以者何?由有盡故而起此智,名為盡智。或緣盡為境,故名盡智。此義意言,於此位中由永斷集令無有餘,所得智名盡智。或緣因盡為境,故名盡智。
無生智者,謂由果斷所得智,或緣果不生為境。所以者何?由有無生故,所得智名無生智。或緣無生為境,名無生智。此義意言,由有當來一切苦果畢竟不生法性故而得此智,雖緣餘諦為境,亦名無生智。或緣苦諦無生為境故,名無生智。
又十無學法,當知依止無學戒蘊、定蘊、慧蘊、解脫蘊、解脫知見蘊說。何以故?無學正語、正業、正命,是無學戒蘊。無學正念、正定,是無學定蘊。無學正見、正思惟、正精進,是無學慧蘊。無學正解脫,是無學解脫蘊。無學正智,是無學解脫知見蘊。
復次道諦有四行相,謂道相、如相、行相、出相。何故名道相?因此尋求真實義故。所以者何?由此聖道是諸聖者證真義路,是故名道。何故名如相?以能對治諸煩惱故。所以者何?一切煩惱皆不如理,道能除此,是故名如。何故名行相?善能成辦心,令不顛倒故。所以者何?心不覺悟真實道理,於無常等法起常等顛倒。善能修治此顛倒心,令離顛倒覺真實義,是故名行。何故名出相?趣真常迹故。所以者何?由此聖道能趣出離究竟常迹,是故名出。問:於諸諦中有十六行,皆通世間及出世間。世出世行有何差別?答:於所知境不善悟入、善悟入性差別故,有障、無障性差別故,有分別、無分別性差別故。所以者何?於諸諦中無常苦等十六,世間行於所知境界,不通達真如性故、煩惱所隨眠故、依名言門起戲論故,如其次第不善悟入、有障礙、有分別。出世間行與此相違,善悟入、無障礙、無分別。由此道理,世出世行互有差別。云何出世行無有分別,而善悟入所知境界?由彼諸行現在前時,雖復現證見無常義,然不依名言戲論門見此是無常義。如無常行於無常義,餘行於餘義隨其所應亦如是。
大乘阿毘達磨雜集論卷第十

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2 法品

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