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  1. 大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)
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大乗阿毘達磨雑集論 (大乘阿毘達磨雜集論)


大乘阿毘達磨雜集論卷第十二

大乗阿毘達磨雑集論 巻第十二

安慧菩薩糅釋上集論

安慧菩薩が集論の上を糅ねて釈したもの

大唐三藏法師玄奘奉 詔譯

大乗阿毘達磨雑集論

大唐三蔵法師玄奘、詔を奉じて訳す

決擇分中法品第二之二

決択分の中の法品第二の二

云何修?略有五種,謂依止任持修、依止作意修、依止意樂修、依止方便修、依止自在修。

どのように修めるのでしょうか。概略して五種があります。すなわち、依止任持修、依止作意修、依止意楽修、依止方便修、依止自在修です。

依止任持修復有四種:一依止因修,謂由種性力於波羅蜜多修習正行。二依止報修,謂由勝自體力於波羅蜜多修習正行。三依止願修,謂由本願力於波羅蜜多修習正行。四依止簡擇力修,謂由慧力於波羅蜜多修習正行。

依止任持修には、また四種があります。第一に依止因修です。種性の力によって波羅蜜多を修習し、正行を行うことです。第二に依止報修です。すぐれた自体の力によって波羅蜜多を修習し、正行を行うことです。第三に依止願修です。本願の力によって波羅蜜多を修習し、正行を行うことです。第四に依止簡択力修です。慧の力によって波羅蜜多を修習し、正行を行うことです。

依止作意修亦有四種:一依止勝解作意修,謂於一切波羅蜜多相應經教起增上勝解。二依止愛味作意修,謂於已得波羅蜜多見勝功德起深愛味。三依止隨喜作意修,謂於一切世界一切有情所行施等深生隨喜。四依止憙樂作意修,謂於自他當來勝品波羅蜜多深生願樂。

依止作意修にもまた四種があります。第一は依止勝解作意修で、すべての波羅蜜多に相応する経教に対して増上の勝解を起こすことです。第二は依止愛味作意修で、すでに得た波羅蜜多について勝れた功徳を見て、深い愛味を起こすことです。第三は依止随喜作意修で、すべての世界のすべての有情が行う施しなどに対して深く随喜を生じることです。第四は依止憙楽作意修で、自他が将来に得る勝れた品の波羅蜜多に対して深い願楽を生じることです。

依止意樂修復有六種,謂由無厭意樂、廣大意樂、歡喜意樂、恩德意樂、無染意樂、善好意樂故,修諸波羅蜜多。此中菩薩於施波羅蜜多無厭意樂者,謂諸菩薩於一有情一剎那頃,假使殑伽沙等世界滿中七寶以用布施,又以殑伽沙等身命布施,如是布施經殑伽沙等大劫。如於一有情所,如是乃至於一切有情界如是施時,皆令彼於阿耨多羅三藐三菩提速得成熟。修行如是差別施時,菩薩意樂由不厭足。如是意樂,是名菩薩於施波羅蜜多無厭意樂。又諸菩薩修行如是施波羅蜜多時,展轉相續無一剎那有退有斷,乃至究竟坐菩提座。如是意樂,是名菩薩於施波羅蜜多廣大意樂。又諸菩薩修行如是施波羅蜜多時,於施所攝諸有情所生大歡喜,是諸有情施所攝受,雖生歡喜猶不能及。如是意樂,是名菩薩於施波羅蜜多歡喜意樂。又諸菩薩修行如是施波羅蜜多時,觀施所攝一切有情於我己身有大恩德,不見己身於彼有恩,由資助我阿耨多羅三藐三菩提故。如是意樂,是名菩薩於施波羅蜜多恩德意樂。又諸菩薩修行如是施波羅蜜多時,雖於無量諸有情所興大施福,而不希報恩當來果報。如是意樂,是名菩薩於施波羅蜜多無染意樂。又諸菩薩修行如是施波羅蜜多時,以所修行廣大施聚所得果報,施諸有情不自為己,又以此福共諸有情迴向阿耨多羅三藐三菩提。如是意樂,是名菩薩於施波羅蜜多善好意樂。又諸菩薩修行戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多時無厭意樂者,謂諸菩薩假使經於殑伽沙等生,是一一生殑伽沙等大劫壽量,於此長時諸資生具常所匱乏,三千大千世界滿中熾火,恒在其中行住坐臥,唯能修習一剎那戒波羅蜜多,或乃至慧波羅蜜多如是展轉差別修習,所有戒聚乃至慧聚究竟滿足,現能證得阿耨多羅三藐三菩提。是諸菩薩修行如是戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多時,於此戒聚乃至慧聚修習意樂猶不滿足。如是意樂,是名菩薩於所修習戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多無厭意樂。又諸菩薩修行如是戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多時,展轉相續無一剎那有退有斷,乃至究竟坐菩提座。如是意樂,是名菩薩於所修行戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多廣大意樂。又諸菩薩修行如是戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多時,於此所攝諸有情所生大歡喜,是諸有情由此所攝雖生歡喜,猶不能及。如是意樂,是名菩薩於所修行戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多歡喜意樂。又諸菩薩修行如是戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多時,觀此所攝一切有情於我己身有大恩德,不見己身於彼有恩,由資助我阿耨多羅三藐三菩提故。如是意樂,是名菩薩於所修行戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多恩德意樂。又諸菩薩修行如是戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多時,雖於無量諸有情所興大戒福乃至慧福,而不希報恩當來果報。如是意樂,是名菩薩於所修行戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多無染意樂。又諸菩薩修行如是戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多時,以所修行廣大戒聚乃至慧聚所得果報,施諸有情不自為己,又以此福共諸有情迴向阿耨多羅三藐三菩提。如是意樂,是名菩薩於所修行戒波羅蜜多乃至慧波羅蜜多善好意樂。

意楽に基づいて修めることには、さらに六種があります。すなわち、無厭の意楽、広大の意楽、歓喜の意楽、恩徳の意楽、無染の意楽、善好の意楽によって、諸々の波羅蜜多を修めるのです。

ここで、菩薩が布施波羅蜜多に対して無厭の意楽を持つとは、次のようなことです。諸々の菩薩は、たった一人の有情に対して、ほんの一刹那のあいだに、仮にガンジス川の砂の数ほどの世界を七宝で満たして布施し、さらにガンジス川の砂の数ほどの身命を布施し、そのような布施をガンジス川の砂の数ほどの大劫にわたって続けるとします。一人の有情に対してそうであるように、すべての有情界に対してもそのように布施するとき、そのすべての有情が阿耨多羅三藐三菩提を速やかに成就できるようにするのです。このように種々の布施を修行するとき、菩薩の意楽は飽きることがありません。このような意楽を、菩薩の布施波羅蜜多における無厭の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように布施波羅蜜多を修行するとき、次々と相続して、一刹那たりとも後退することも中断することもなく、ついには菩提の座に坐るに至ります。このような意楽を、菩薩の布施波羅蜜多における広大の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように布施波羅蜜多を修行するとき、布施に取り入れられた諸々の有情に対して大きな歓喜を生じます。それらの有情が布施に取り入れられて生じる歓喜でさえも、およびません。このような意楽を、菩薩の布施波羅蜜多における歓喜の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように布施波羅蜜多を修行するとき、布施に取り入れられたすべての有情が、私のこの身に対して大きな恩徳があると観じます。それは、私の阿耨多羅三藐三菩提を助けてくれるからです。そして、自分の側が彼らに対して恩があるとは見なしません。このような意楽を、菩薩の布施波羅蜜多における恩徳の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように布施波羅蜜多を修行するとき、無量の諸々の有情に対して大きな布施の福を起こしても、その報恩や将来の果報を望みません。このような意楽を、菩薩の布施波羅蜜多における無染の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように布施波羅蜜多を修行するとき、修行した広大な布施の集まりによって得られる果報を、自分のためではなく諸々の有情に施し、またこの福を諸々の有情とともに阿耨多羅三藐三菩提へと振り向けます。このような意楽を、菩薩の布施波羅蜜多における善好の意楽といいます。

また、諸々の菩薩が戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでを修行するときの無厭の意楽とは、次のようなことです。諸々の菩薩は、仮にガンジス川の砂の数ほどの生涯を経て、その一生ごとにガンジス川の砂の数ほどの大劫の寿命があり、この長いあいだ、生活の資具が常に乏しく、三千大千世界がすっかり激しい炎で満ち、その中にいつも行住坐臥しながら、ただ一刹那のあいだだけ戒波羅蜜多を、あるいは慧波羅蜜多に至るまでを、このように次々と種々に修習し、その戒の集まりから慧の集まりに至るまでを究極的に満たして、現に阿耨多羅三藐三菩提を証得することができるとします。諸々の菩薩がこのように戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでを修行するとき、この戒の集まりから慧の集まりに至るまでを修習する意楽は、なお満ち足りることがありません。このような意楽を、菩薩が修習する戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでの無厭の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでを修行するとき、次々と相続して、一刹那たりとも後退することも中断することもなく、ついには菩提の座に坐るに至ります。このような意楽を、菩薩が修行する戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでの広大の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでを修行するとき、これに取り入れられた諸々の有情に対して大きな歓喜を生じます。それらの有情がこれによって取り入れられて生じる歓喜でさえも、およびません。このような意楽を、菩薩が修行する戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでの歓喜の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでを修行するとき、これに取り入れられたすべての有情が、私のこの身に対して大きな恩徳があると観じます。それは、私の阿耨多羅三藐三菩提を助けてくれるからです。そして、自分の側が彼らに対して恩があるとは見なしません。このような意楽を、菩薩が修行する戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでの恩徳の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでを修行するとき、無量の諸々の有情に対して大きな戒の福から慧の福に至るまでを起こしても、その報恩や将来の果報を望みません。このような意楽を、菩薩が修行する戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでの無染の意楽といいます。

また、諸々の菩薩がこのように戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでを修行するとき、修行した広大な戒の集まりから慧の集まりに至るまでによって得られる果報を、自分のためではなく諸々の有情に施し、またこの福を諸々の有情とともに阿耨多羅三藐三菩提へと振り向けます。このような意楽を、菩薩が修行する戒波羅蜜多から慧波羅蜜多に至るまでの善好の意楽といいます。

依止方便修復有三種,謂由無分別智觀察三輪皆清淨故。所以者何?由此方便,一切作意所修諸行速成滿故。依止自在修亦有三種,謂身自在故、行自在故、說自在故。身自在者,謂諸如來自性受用。二身行自在者,謂諸如來變化身,由此能示現一切有情一切種同法行故。說自在者,謂能宣說六波羅蜜多一切種差別無有滯礙故。差別云何?謂由十八種任持以顯六波羅蜜多差別。何等十八?謂身任持、心任持、善法任持、善任持、菩提任持、悲任持、不捨有情任持、捨下劣心任持、無生法忍任持、善根方便任持、善根圓證任持、善根無盡任持、無厭倦任持、諸所思事成滿任持、御眾業任持、證入大地任持、引發佛性任持、建立佛事任持。施等六種各三差別,如其次第三三所攝。施三種者,謂財施、無畏施、法施。戒三種者,謂律儀戒、攝善法戒、饒益有情戒。忍三種者,謂耐怨害忍、安受苦忍、諦察法忍。精進三種者,謂被甲精進、方便精進、饒益有情精進。靜慮三種者,謂現法樂住靜慮、引發神通靜慮、饒益有情靜慮。慧三種者,謂緣世俗慧、緣勝義慧、緣有情慧。當知財施能任持身,由飲食等諸資生具攝益受者所依身故。無畏施能任持心,安慰他心離憂怖故。如是餘句,隨義應思。下劣心者,謂諸菩薩厭生死苦同二乘心,由安受苦忍所任持故方捨此心。善根無盡者,謂窮生死際恒作一切有情利益安樂事,乃至於無餘涅槃界亦不棄捨,由饒益有情精進所任持故。御眾業者,謂依止內證故,教授教誡所化有情,心未定者令其得定、心已定者令其解脫,由饒益有情靜慮所任持故。證入大地者,謂先信解甚深教法,資糧圓滿速能證入初極喜地,由緣世俗慧所任持故。所餘易了故不重釋。

依止方便による修復にも三種があります。無分別智によって三輪がみな清浄であると観察するからです。なぜでしょうか。この方便によって、あらゆる作意によって修める諸行が速やかに成就し円満するからです。依止自在による修にもまた三種があります。身自在であるから、行自在であるから、説自在であるからです。身自在とは、諸々の如来の自性身と受用身のことです。二身の行自在とは、諸々の如来の変化身のことで、これによってすべての有情に一切種の同法行を示現することができるからです。説自在とは、六波羅蜜多の一切種の差別を宣説することに滞りや妨げがないからです。差別とはどのようなものでしょうか。十八種の任持によって六波羅蜜多の差別を顕すことです。十八種とは何でしょうか。身任持、心任持、善法任持、善任持、菩提任持、悲任持、不捨有情任持、捨下劣心任持、無生法忍任持、善根方便任持、善根円証任持、善根無尽任持、無厭倦任持、諸所思事成満任持、御衆業任持、証入大地任持、引發仏性任持、建立仏事任持です。施などの六種にはそれぞれ三種の差別があり、その順にしたがって三種ずつが摂されます。施の三種とは、財施、無畏施、法施です。戒の三種とは、律儀戒、摂善法戒、饒益有情戒です。忍の三種とは、耐怨害忍、安受苦忍、諦察法忍です。精進の三種とは、被甲精進、方便精進、饒益有情精進です。静慮の三種とは、現法楽住静慮、引發神通静慮、饒益有情静慮です。慧の三種とは、縁世俗慧、縁勝義慧、縁有情慧です。財施は身を任持できると知るべきです。飲食などの諸々の資生具によって受ける者の所依の身を摂益するからです。無畏施は心を任持できます。他の心を安慰して憂いや怖れから離れさせるからです。このように残りの句も、義にしたがって思うべきです。下劣心とは、諸々の菩薩が生死の苦しみを厭い、二乗と同じ心になることをいい、安受苦忍に任持されることによってはじめてこの心を捨てるのです。善根無尽とは、生死の際を窮めるまで常にすべての有情の利益と安楽の事をなし、無余涅槃界に至ってもまた棄捨せず、饒益有情精進に任持されるからです。御衆業とは、内証に依止するゆえに、教授や教誡によって教化される有情を、心がまだ定まっていない者には定を得させ、心がすでに定まった者には解脱させ、饒益有情静慮に任持されるからです。証入大地とは、まず甚深の教法を信解し、資糧が円満して速やかに初極喜地に証入できることで、縁世俗慧に任持されるからです。残りは理解しやすいので重ねて解釈しません。

又差別者,謂施有七種:一根本施,謂種性位菩薩所有施波羅蜜多,依止種性而行施故。二弘誓施,謂發心位菩薩所有施波羅蜜多,依受大願而行施故。三攝受施,謂自他利行位菩薩所有施波羅蜜多。四無執受施,謂觀真實義位菩薩所有施波羅蜜多,以無施者等分別執受故。五無攝受施,謂威德位菩薩所有施波羅蜜多,雖不攝受外資生具,但由虛空藏等三摩地力,舉手麾空隨欲皆雨珍寶等物。六隨所應施,謂成熟位菩薩所有施波羅蜜多,隨所化宜而行施故。七廣大施,謂最勝菩提位所有施波羅蜜多,以無上故。如施有七種,乃至慧亦爾,隨其所應。

また、区別すれば、施には七種があります。第一は「根本施」で、種性の位にある菩薩の施波羅蜜多をいいます。種性に依止して施を行うからです。第二は「弘誓施」で、発心の位にある菩薩の施波羅蜜多をいいます。大きな願いを受持して施を行うからです。第三は「摂受施」で、自利と利他の行の位にある菩薩の施波羅蜜多をいいます。第四は「無執受施」で、真実の義を観ずる位にある菩薩の施波羅蜜多をいいます。施す者などについての分別や執受がないからです。第五は「無摂受施」で、威徳の位にある菩薩の施波羅蜜多をいいます。外の資生の具を摂受しなくても、ただ虚空蔵などの三摩地の力によって、手を挙げて空を指し示せば、望みに従って珍宝などの物をことごとく降らせるからです。第六は「随所応施」で、成熟の位にある菩薩の施波羅蜜多をいいます。教化されるものの機宜に従って施を行うからです。第七は「広大施」で、最勝の菩提の位にある施波羅蜜多をいいます。無上であるからです。施に七種があるように、慧に至るまでまた同様で、それぞれ相応に応じます。

攝云何?謂為攝菩薩地故,於中略說施等波羅蜜多。此攝略有四種:一種性攝,謂施波羅蜜多等種性相應隨順知。二發心攝,謂差別發心所攝故。發心有二種,謂無差別、差別。無差別者,謂願我當證阿耨多羅三藐三菩提。差別者,謂願我施波羅蜜多速得圓滿,乃至慧波羅蜜多速得圓滿。當知此中由差別發心攝諸波羅蜜多,此是彼因故。三自他利攝,謂由施攝故攝受一切富樂自在,是名自利攝。由此施故引攝財物為饒益他,是名他利攝。如是所餘攝相,隨義應知。四勝義攝,此復多種,謂或依法界說,以真如是施等共相故。或依智資糧說,以能成辦一切智器故。或依智攝受說,以能成滿一切智故。或依智隨轉說,以五波羅蜜多隨慧波羅蜜多轉故。或依智相說,以慧波羅蜜多是正智自體故。如是勝義以真如及正智為體故,能攝施等。由此略說,所餘攝義如理應思。

「摂」とは何でしょうか。菩薩地を摂するために、その中で施などの波羅蜜多を略して説きます。この「摂」には略して四種があります。第一は種性摂で、施波羅蜜多などが種性に相応し随順することを知ることをいいます。第二は発心摂で、差別の心の起こし方によって摂せられるからです。発心には二種があり、無差別と差別です。無差別とは、「願わくは私は阿耨多羅三藐三菩提を証したい」と願うことです。差別とは、「願わくは私は施波羅蜜多を速やかに円満し、慧波羅蜜多に至るまで速やかに円満したい」と願うことです。ここでは差別の発心によって諸波羅蜜多を摂することを知るべきです。これがそれ(諸波羅蜜多)の因だからです。第三は自他利摂で、施によって摂するがゆえに一切の富楽と自在を摂受する、これを自利摂と名づけます。この施によって財物を引き摂し他を饒益する、これを他利摂と名づけます。このように残りの摂の相も、義に随って知るべきです。第四は勝義摂で、これにもまた多くの種類があります。あるいは法界に依って説きます。真如が施などの共相であるからです。あるいは智の資糧に依って説きます。一切智の器を成し遂げることができるからです。あるいは智の摂受に依って説きます。一切智を成し満ずることができるからです。あるいは智の随転に依って説きます。五波羅蜜多が慧波羅蜜多に随って転ずるからです。あるいは智の相に依って説きます。慧波羅蜜多が正智の自体であるからです。このように勝義は真如および正智を体とするがゆえに、施などを摂することができます。この略説によって、残りの摂の義も道理にしたがって思うべきです。

所治者,謂施等六如其次第,以慳悋、犯戒、忿恚、懈怠、散亂、惡慧為所治。復次乃至一切波羅蜜多所攝善法,彼所對治及所知障皆是波羅蜜多所治。

治められるものとは、布施などの六波羅蜜にその順に従って、慳悋・犯戒・忿恚・懈怠・散乱・悪慧が治められる対象です。さらに、すべての波羅蜜に含まれる善法についても、それに対治されるものと所知障は、いずれも波羅蜜によって治められるものです。

功德者,謂依五果無量無邊稱讚勝利皆名功德。謂能永斷自所對治,是諸波羅蜜多離繫果。於現法中由此施等攝受自他,是士用果。於當來世後後增勝展轉生起,是等流果。大菩提是增上果。感大財富往生善趣,無怨無壞多諸喜樂,有情中尊身無損害,廣大宗族隨其次第,是施等波羅蜜多異熟果。更互決擇者略有三種:一方便、二差別、三差別顯示。方便者,謂施方便中一切可得。如捨內外一切身財,是施方便;此方便中若捨一切,是施波羅蜜多。即於此中若慈悲心遮防一切損害逼迫惱亂他性,是戒波羅蜜多。即於此中忍受遮礙損害疲倦,是忍波羅蜜多。即於此中數數發起勇勵施心,是精進波羅蜜多。即於此中其心純善,繫心一境不外流散,是靜慮波羅蜜多。即於此中善取施行如實因果不取異見,是慧波羅蜜多。如是乃至慧波羅蜜多方便中,隨其所應當善建立。由無畏施,一切處有施故。

功徳とは、五つの果に基づく無量無辺の称賛と勝利をいい、それらはすべて功徳と呼ばれます。すなわち、自らが対治すべきものを永遠に断ち切ることができるのは、諸波羅蜜の離繋果です。現世において、この布施などによって自他を摂受するのは、士用果です。未来世において、次々と増し勝れて展転して生じるのは、等流果です。大菩提は増上果です。大きな財富を感得し善趣に往生すること、怨みなく壊れることなく多くの喜びと楽しみがあること、有情の中で尊ばれ身に損害がないこと、広大な宗族であること、これらをその順に従えば、布施などの波羅蜜の異熟果です。互いに決択する点については、略して三種あります。一には方便、二には差別、三には差別の顯示です。方便とは、布施の方便の中にすべてが得られるということです。内外の一切の身と財を捨てることは、布施の方便です。この方便の中で、すべてを捨てるならば、それは布施波羅蜜です。まさにこの中で、慈悲の心によって一切の損害・逼迫・悩乱を他に及ぼすことを遮り防ぐならば、それは戒波羅蜜です。まさにこの中で、遮礙・損害・疲倦を耐え忍ぶならば、それは忍波羅蜜です。まさにこの中で、繰り返し勇励の施心を発起するならば、それは精進波羅蜜です。まさにこの中で、その心が純善で、心を一境に繫けて外に流散しないならば、それは静慮波羅蜜です。まさにこの中で、布施の行の如実の因果を善く取り、異見を取らないならば、それは慧波羅蜜です。このように、慧波羅蜜の方便に至るまで、それぞれ相応に応じて善く建立すべきです。無畏の施によって、一切の処に施があるからです。

差別者略有四種:一自體差別、二助伴差別、三勸讚差別、四種殖差別。施等波羅蜜多自體差別者,如其次第,以棄捨防護堪耐策勤心住決擇為體。助伴差別者,謂施等方便中餘波羅蜜多悉皆隨轉,如前廣說。勸讚差別者,謂於施等勸勵讚美隨喜慶悅。種殖差別者,謂於他相續中建立施等波羅蜜多。此中施波羅蜜多是財施,餘五波羅蜜多是無畏施,一切六是法施,皆於他相續中種殖故。差別顯示者,謂由一行等差別顯示施等波羅蜜多。如有問言:若施波羅蜜多亦戒波羅蜜多耶?設戒波羅蜜多亦施波羅蜜多耶?為答此問應作順後句,謂所有戒波羅蜜多皆是施波羅蜜多,或有施波羅蜜多非戒波羅蜜多。謂戒波羅蜜多所不攝施波羅蜜多,如是乃至以慧波羅蜜多對施波羅蜜多,皆應作順後句。餘互相望,亦如理應思。此中依始業地漸次修者,說後必待前、前不待後,是故皆作順後句。若已串習六種頓修皆互相攝,如〈菩薩地〉說。攝善法戒者,謂六波羅蜜多若依純雜相資助說,應作四句。復次諸所有施皆波羅蜜多耶?設波羅蜜多皆是施耶?為答此問應作三句。或有是施非波羅蜜多,謂所行施不迴向大菩提。或有亦施亦波羅蜜多,謂所行施等迴向大菩提。或有非施非波羅蜜多,謂除上所說法。如是乃至依慧波羅蜜多,一一皆應作四句,如理當思。復次一切行施皆能生施波羅蜜多種類福耶?此應作四句。初句,謂所行施不迴向大菩提。第二句,謂於施波羅蜜多勸勵讚美隨喜慶悅。第三句,謂所行施迴向大菩提。第四句,謂除上爾所相。如是乃至依慧波羅蜜多,各作四句,如理應思。

差別には、おおよそ四種があります。一に自體差別、二に助伴差別、三に勧讃差別、四に種殖差別です。

施などの波羅蜜多の自體差別とは、その順序に従って、棄捨・防護・堪耐・策勤・心住・決択を體とするものです。

助伴差別とは、施などの方便のうちに他の波羅蜜多がすべて随い伴って転じることをいい、先に広く説いた通りです。

勧讃差別とは、施などについて勧め励まし、讃美し、随喜し、慶び悦ぶことです。

種殖差別とは、他の相続のうちに施などの波羅蜜多を建立することです。このうち、施波羅蜜多は財施であり、残りの五つの波羅蜜多は無畏施であり、すべての六つは法施であり、いずれも他の相続のうちに種を植えるからです。

差別の顯示とは、一行などの差別によって施などの波羅蜜多を顯示することです。たとえば、次のように問う者があったとします。「施波羅蜜多はまた戒波羅蜜多でもあるのでしょうか。また、戒波羅蜜多はまた施波羅蜜多でもあるのでしょうか」と。この問いに答えるには、順後句で答えるべきです。すなわち、すべての戒波羅蜜多は施波羅蜜多であり、あるいは施波羅蜜多であっても戒波羅蜜多でないものがあります。それは、戒波羅蜜多に摂されない施波羅蜜多です。このように、慧波羅蜜多を施波羅蜜多に対比するまで、すべて順後句で答えるべきです。その他の互いの対比についても、同じく道理に従って考えるべきです。このうち、修行の始まりの段階に依って漸次に修める者については、後のものは必ず前のものを待ち、前のものは後のものを待たないと説きます。それゆえ、すべて順後句とします。もしすでに六種を繰り返し習い慣れて頓に修めるならば、すべて互いに摂し合います。〈菩薩地〉に説かれている通りです。

摂善法戒とは、六波羅蜜多について、純と雑が互いに資け助け合うという説に依れば、四句を作るべきです。

さらに、すべての施はみな波羅蜜多なのでしょうか。また、波羅蜜多はみな施なのでしょうか。この問いに答えるには、三句を作るべきです。あるいは施であって波羅蜜多でないものがあり、それは行う施を大菩提に迴向しないものです。あるいは施でもあり波羅蜜多でもあるものがあり、それは行う施などを大菩提に迴向するものです。あるいは施でもなく波羅蜜多でもないものがあり、それは以上に説いた法を除いたものです。このように、慧波羅蜜多に依るまで、一つ一つすべて四句を作るべきであり、道理に従って考えるべきです。

さらに、すべての施を行うことは、みな施波羅蜜多の種類の福を生じることができるのでしょうか。これについては四句を作るべきです。第一句は、行う施を大菩提に迴向しないものです。第二句は、施波羅蜜多について勧め励まし、讃美し、随喜し、慶び悦ぶことです。第三句は、行う施を大菩提に迴向するものです。第四句は、以上に挙げたそれらの相を除いたものです。このように、慧波羅蜜多に依るまで、それぞれ四句を作るべきであり、道理に従って考えるべきです。

復次何緣說方廣分為廣大甚深耶?由一切種智性廣大甚深故。謂此所得一切種智性果最廣大甚深故,因受果名,是故別說方廣分為廣大甚深。

次に、どういう理由で方広分を「広大にして甚深」と説くのでしょうか。一切種智の本性が広大にして甚深であるからです。すなわち、ここで得られる一切種智という本性の果が最も広大にして甚深であるため、因が果の名を受けて、それゆえに別して方広分を「広大にして甚深」と説くのです。

復次何緣一分眾生於方廣分廣大甚深不生勝解,反懷怖畏耶?由遠離法性故、未種善根故、惡友所攝故。法性者,謂菩薩種性是彼自體故。由一分眾生無菩薩種性故,心性下劣,於廣大甚深教不能勝解,是故怖畏。又一分眾生雖有菩薩種性,而於大菩提未種正願等諸善根故,於此不能勝解,是故怖畏。又一分眾生雖已種善根,而為誹謗大乘眾生惡友所攝故,於此不能勝解,是故怖畏。復次何緣一分眾生於方廣分廣大甚深雖生勝解,而不得出離耶?由深安住自見取故、常堅執著如言義故。深安住自見取者,更不進求了義經故。常堅執著如言義者,恒堅封執不了義經故。如聞一切法畢竟無自性言故,便撥一切諸法性相皆無所有,如是於餘不了義經堅執如言義亦爾。是故雖信大乘而不得出離。以大乘經由種種意說故,依此密意薄伽梵於《大法鏡經》中說如是言:若諸菩薩隨言取義,不如正理思擇法故,便生二十八不正見。何等名為二十八不正見耶?謂相見、損減施設見、損減分別見、損減真實見、攝受見、轉變見、無罪見、出離見、輕毀見、憤發見、顛倒見、出生見、不立宗見、矯亂見、敬事見、堅固愚癡見、根本見、於見無見見、捨方便見、不出離見、障增益見、生非福見、無功果見、受辱見、誹謗見、不可與言見、廣大見、增上慢見。相見者,謂聞大乘經中所說一切諸法皆無自性、無生無滅、本來寂靜、自性涅槃等言,不善密意,但隨此言義便生勝解,謂佛所說一切諸法定無自性、定無生等。執著如是無性等相,是名相見。彼執著如是無性等相時,便謗三自性,謂遍計所執自性、依他起自性、圓成實自性。遍計所執自性者,謂諸愚夫於色等相周遍計度起增益執,謂此是色乃至此是涅槃。此所執義無實無體,唯有名言之所施設。依他起自性者,謂即此色等唯是虛妄分別自體,又因果性或異不異。圓成實自性者,謂一切法真如實性。於此三性起誹謗行,即次三見,謂損減施設見、損減分別見、損減真實見。彼如是誹謗一切種一切法時,為欲成立此邪見故,便復攝受少分道理。又於所有開示離言諸法實性了義契經,廣設方便皆悉轉變令順己見。如是二種,即次二見,謂攝受見、轉變見。彼又起如是見:若依此見行善不善,定皆無罪無有過失;一切所行皆歸妙善,先所積習一切障垢皆得出離。如是二種,即次二見,謂無罪見、出離見。彼如是執自見已,便於此見相違安立蘊等諸法聲聞藏中妄生輕毀,又於不信如是邪見聲聞人等深生憎嫉。如是二種,即次二見,輕毀見、憤發見。彼又隨順自惡邪見,謂我當建立如實空無相無願,於非彼相起彼相想,而於彼相顛倒建立。又作是思惟:若能悟入如是法性,或令他入,一切皆生無量功德。如是二種,即次二見,謂顛倒見、出生見。若他於彼所起惡見如理詰責,彼於爾時竟不樂欲建立自宗,反以譏弄妄理詰責於他。如是二種,即次二見,謂不立宗見、矯亂見。彼又起如是增上慢,謂若能如是修行,是真供養恭敬諸佛世尊。如是見者,名敬事見。諸有善達無倒法性者,為令捨離彼惡見故,雖以種種真實成立道理方便開悟,堅守愚見曾無捨心,謂唯此真餘並邪妄。如是見者,名堅固愚癡見。如上所說諸見,所有習氣麁重,是名根本見。為欲開示如上所說十七種見諸過失門,復說餘見,謂即相見名於見無見見。此實堅執無性等相而起,不執一切相想故,即損減施設見、損減分別見、損減真實見,名捨方便見。由彼誹謗一切法性,於勤精進起無用想故,即攝受見、轉變見,名不出離見。非方便修學不能證果故,即無罪見、出離見,名障增益見。所行邪僻無容盡障故,即輕毀見、憤發見,名生非福見。由於正法同梵行所起邪行門,便能引發大衰損故,即顛倒見、出生見,名無功果見。由所安立非正法性授者受者俱不能證勝進果故,即不立宗見、矯亂見,名受辱見。非理興論無宜得勝故,即敬事見,名誹謗見。所不應說強增益故,即堅固愚癡見,名不可與言見。邪執空者不應與言,徒設多詞終無所益故,即根本見,名廣大見。由此當來諸惡見類轉增廣故。即上所說二十七見,皆名增上慢見,並能發起虛妄無實增上慢故。此云何知?由彼經中即次後說,如是諸見十七即十、十即十七,二十七即一、一即二十七故。

次に、どのような理由で一部の衆生は、方広(大乗経典)の広大で甚深なる教えに対して勝解(正しい理解)を生じず、かえって恐怖心を抱くのでしょうか。法性から遠ざかっているため、まだ善根を植えていないため、悪友に摂められているためです。法性とは、菩薩の種姓(素質)が彼らの自体であることをいいます。一部の衆生には菩薩の種姓がないため、心性が下劣であり、広大で甚深なる教えに対して勝解することができず、それゆえに恐怖を抱くのです。また一部の衆生は、菩薩の種姓はあるものの、大菩提のために正願などの諸々の善根をまだ植えていないため、これに対して勝解することができず、それゆえに恐怖を抱くのです。また一部の衆生は、すでに善根を植えてはいるものの、大乗を誹謗する衆生という悪友に摂められているため、これに対して勝解することができず、それゆえに恐怖を抱くのです。

次に、どのような理由で一部の衆生は、方広の広大で甚深なる教えに対して勝解を生じながらも、出離(悟りへの至り)を得ることができないのでしょうか。自らの見解(自見)を正しいと深く安住しているため、また、言葉通りの意味(如言義)に常々堅く執着しているためです。自らの見解に深く安住しているとは、了義経(真実の教えを説く経典)をそれ以上求めて修行しようとしないことをいいます。言葉通りの意味に常々堅く執着しているとは、常に了義ではない経典の解釈を堅く封じ込め、執着し続けていることをいいます。たとえば「一切の法は畢竟(究極的)に自性がない」という言葉を聞いて、すぐに「一切の諸法の性相はすべて何一つ存在しない」と否定してしまうようなものであり、他の了義ではない経典についても、言葉通りに堅く執着することもまた同様です。そのため、大乗を信じながらも出離を得ることができません。

大乗経典は種々の意図をもって説かれているからです。この密意に基づいて、世尊は『大法鏡経』の中で次のように説かれました。もし諸々の菩薩が言葉に従って意味を捉え、正理(正しい道理)に基づいて法を思択(考察)しなければ、二十八の不正見が生じます。

二十八の不正見とは何でしょうか。相見、損減施設見、損減分別見、損減真実見、摂受見、転変見、無罪見、出離見、軽毀見、憤発見、顛倒見、出生見、不立宗見、矯乱見、敬事見、堅固愚癡見、根本見、於見無見見、捨方便見、不出離見、障増益見、生非福見、無功果見、受辱見、誹謗見、不可与言見、広大見、増上慢見です。

相見とは、大乗経典の中に説かれている「一切の諸法はすべて自性がなく、生じることも滅することもなく、本来寂静であり、自性そのものが涅槃である」といった言葉を聞き、その密意を善く理解せず、ただその言葉通りの意味に従って勝解を生じ、「仏が説かれた一切の諸法は、確かに自性がなく、確かに生じることもない」と決めつけることです。このような無性(自性がないこと)という相に執着することを、相見といいます。彼らがこのように無性などの相に執着するとき、三自性、すなわち遍計所執自性、依他起自性、円成実自性を誹謗することになります。

遍計所執自性とは、愚かな者たちが色などの相に対して周遍して計度(思量)し、増益執(本来ないものをあると見なす執着)を起こし、「これが色であり、ひいてはこれが涅槃である」と思い込むことです。この執着されている意味には実体も自体もなく、ただ名言(言葉)によって施設(仮設)されているにすぎません。依他起自性とは、すなわちこの色などが、ただ虚妄分別そのものの自体であり、また因果の性質であったり、異なっていたり、あるいは異なっていなかったりすることをいいます。円成実自性とは、一切法の真如実性です。この三つの性質に対して誹謗の行いを生じることが、次の三つの見解につながります。すなわち損減施設見、損減分別見、損減真実見です。

彼らがこのように一切種、一切法を誹謗するとき、この邪見を成立させようとして、少分の道理を摂受します。また、言葉を離れた諸法の真実の性質(法性)を開示する了義契経(了義経)に対しても、広汎に方便を設けて、すべて自らの見解に従うように転変(書き換え・解釈の変更)させます。このような二つが、次の二つの見解、すなわち摂受見、転変見です。

彼らはさらにこのような見解を起こします。「もしこの見解に基づいて善や不善の行いをしたとしても、確かに罪もなく過失もない。すべての行いはすべて妙善に帰着し、過去に積み重ねたすべての障りや垢もすべて出離することができる」と。このような二つが、次の二つの見解、すなわち無罪見、出離見です。

彼らがこのように自らの見解に執着した後は、この見解と相違する蘊などを立てる声聞蔵(声聞の教え)に対して妄りに軽毀(軽蔑・中傷)の心を生じ、またこの邪見を信じない声聞たちに対して深く憎嫉の心を生じます。このような二つが、次の二つの見解、すなわち軽毀見、憤発見です。

彼らはさらに、自らの悪しき邪見に従い、「私が如実空、無相、無願を建立する」と言い、彼(真実の相)ではないものに対して彼(真実の相)であるという想いを起こし、真実の相に対して顛倒した建立を行います。また、「もしこの法性を悟入できれば、あるいは他者を入らせることができれば、すべて無量の功徳が生じる」とこのように思惟します。このような二つが、次の二つの見解、すなわち顛倒見、出生見です。

もし他者が、彼が起こした悪見を正理に基づいて詰責(問い詰め)たとしても、彼はそのとき、自らの宗義を立てようとはせず、かえって譏弄(嘲笑)し、妄りな理屈で他者を詰責します。このような二つが、次の二つの見解、すなわち不立宗見、矯乱見です。

彼らはさらにこのような増上慢を起こします。「もしこのように修行できるならば、これこそが諸仏世尊に対する真の供養であり敬事である」と。このような見解を、敬事見といいます。

正しく無倒(誤りのない)の法性を善く達した者たちが、彼らにその悪見を捨てさせるために、様々な真実の成立する道理や方便をもって開悟(正しい理解へ導こうと)しても、彼らは愚かな見解を堅く守って、一度として捨てる心はありません。「これのみが真実であり、他はすべて邪妄である」と考えているからです。このような見解を、堅固愚癡見といいます。

以上に説いた諸々の見解について、その習気(過去の習慣の残り香)と麁重(煩悩の重苦しさ)を、根本見といいます。以上に説いた十七種類の見解の過失の門(入り口)を開示するために、さらに別の見解を説きます。すなわち相見を「於見無見見(見に対して見がないという見解)」といいます。これは、実には無性などの相に堅く執着して生じたものであり、一切の相想(相に対する思い)を執着しないためです。

また損減施設見、損減分別見、損減真実見を「捨方便見(方便を捨てる見解)」といいます。彼らが一切の法性を誹謗し、勤精進に対して無用であるという想いを起こすため、摂受見、転変見を「不出離見(出離に至らない見解)」といいます。非方便(誤った手段)で修学しても果を得ることができないため、無罪見、出離見を「障増益見(増益の法を障る見解)」といいます。行いが邪僻(偏って誤っている)であり、障害を尽くす余地がないため、軽毀見、憤発見を「生非福見(福ならざることを生む見解)」といいます。正法において梵行を共にする者に対して起した邪行の門により、大きな衰損を引発するため、顛倒見、出生見を「無功果見(功徳の果がない見解)」といいます。正法ではない性質を安立するため、授ける者も受ける者もともに勝進の果を証することができないため、不立宗見、矯乱見を「受辱見(辱めを受ける見解)」といいます。非理(道理に外れた)興論であり、適宜に勝つことができないため、敬事見を「誹謗見(誹謗する見解)」といいます。言うべきではないことを強いて増益するため、堅固愚癡見を「不可与言見(語り合うことができない見解)」といいます。邪執空(空を誤って執着する者)には語り合ってはならず、徒に多くの言葉を費やしても何の利益もないため、根本見を「広大見(広大なる見解)」といいます。これにより、将来的に諸々の悪見の類が転じてさらに広がるからです。

以上に説いた二十七の見解は、すべて「増上慢見」と名づけられます。いずれも虚妄で実体のない増上慢を発起させるためです。これはどのようにして知ることができるでしょうか。その経典の中で、その次に説かれている通り、これらの十七の見解は十に、十は十七に、二十七は一に、一は二十七に帰するからなのです。

復次如方廣分說,一切諸法皆無自性。此言依何密意說?謂無自然性故、無自體性故。無住自體故、無如愚夫所取相性故。無自然性者,由無自然性故說無自性,不遮待緣性故說無自性。無自體性者,由此自體曾所經有,即此自體不可復有故,說為無性。無住自體者,體雖現在未至壞相,次必當滅。體無住義,故說無性。無如愚夫所取相性者,如諸愚夫未見諦者,依止名言戲論熏習門,妄取諸法性相。遠離如是所取自性,故說無性。

次に、方広分の経典に説かれているように、一切の諸法にはみな自性がないとされます。この言葉は、どのような密意に基づいて説かれているのでしょうか。それは、自然性がないからであり、自体性がないからであり、自体に住することがないからであり、愚夫が取るような相性がないからです。

自然性がないとは、自然性がないために自性がないと説くのであり、縁に待つ性質を否定するために自性がないと説くのではありません。自体性がないとは、この自体はかつて経てきたものであり、まさにこの自体は再びあることができないために、無性と説くのです。自体に住することがないとは、体は現在まだ壊れる相に至っていなくても、次には必ず滅するものです。体には住するという意味がないため、無性と説くのです。愚夫が取るような相性がないとは、愚かな凡夫で真理を見ていない者たちが、名言と戯論の薫習に依拠して、諸法の性相を妄りに取るような、そのような所取の自性から遠く離れているため、無性と説くのです。

復次於遍計所執自性,相無性故;於依他起自性,生無性故;於圓成實自性,勝義無性故,更依異門顯無性義故言。復次一切法者,即三自性,謂遍計所執自性、依他起自性、圓成實自性。遍計所執自性定無自相,自相無故名相無性,相無性故名為無性。依他起自性待眾緣故非自然生,無自然生性故名生無性,生無性故名為無性。圓成實自性清淨所緣故,於依他起中無遍計所執相所顯自體故,勝義為自體故、無性所顯故,名勝義無性,勝義無性故名為無性。由此道理,是故如來說一切法皆無自性。非一切種性相俱無說為無性。

次に、遍計所執自性については相無性であるから、依他起自性については生無性であるから、円成実自性については勝義無性であるからとして、さらに別の観点から無性の意味を明らかにするためにこう言うのです。

次に、一切法とはすなわち三自性のことであり、遍計所執自性、依他起自性、円成実自性を指します。遍計所執自性には定まった自相がありません。自相がないので「相無性」といい、相無性であるので「無性」というのです。依他起自性は多くの縁を待つものであるため自然に生じるものではなく、自然に生じる性質がないので「生無性」といい、生無性であるので「無性」というのです。円成実自性は清浄なる所縁であるため、依他起の中に遍計所執の相がないことによって顕れる自体であるため、勝義を自体とするため、無性によって顕れるため、「勝義無性」といい、勝義無性であるので「無性」というのです。

この道理によって、如来は一切法にはみな自性がないと説かれるのです。すべての種類の性と相がことごとく無いというのを無性と説くのではありません。

又彼說言:一切諸法無生無滅、本來寂靜、自性涅槃。此依何密意說?如無自性,無生亦爾。如無生,無滅亦爾。如無生無滅,本來寂靜亦爾。如本來寂靜,自性涅槃亦爾。

また、あの経典には「一切の諸法は生じることも滅することもなく、本来寂靜であり、自性は涅槃である」と説かれています。これはどのような密意に基づいて説かれたのでしょうか。無自性であるように、無生もまた同様です。無生であるように、無滅もまた同様です。無生無滅であるように、本来寂靜もまた同様です。本来寂靜であるように、自性涅槃もまた同様です。

復次有四種意趣,由此意趣故,方廣分中一切如來所有意趣應隨決了。何等為四?謂平等意趣、別時意趣、別義意趣、眾生意樂意趣。平等意趣者,如說我於爾時曾名勝觀如來、應、正等覺,與彼法身無差別故。別時意趣者,如說若有願生極樂世界皆得往生;若暫得聞無垢月光如來名者,即於阿耨多羅三藐三菩提決不退轉。如是等言,意在別時故。別義意趣者,如說一切諸法皆無自性,如是等言不可如文便取義故。眾生意樂意趣者,謂於一善根,或時稱讚,為令歡喜勇猛修故;或時毀呰,為遮得少善生喜足故。為貪行者稱讚佛土富樂莊嚴,為慢行者稱讚諸佛或有增勝。為恒悔惱障修善者說如是言,於佛菩薩雖行輕毀,然彼眾生亦生天趣。為不定種性者,捨離聲聞下劣意樂故,記大聲聞當得作佛,又說一乘更無第二。復次有四種祕密,由此祕密故,於方廣分中一切如來所有祕密應隨決了。何等為四?謂令入祕密、相祕密、對治祕密、轉變祕密。如是四種,於大乘中略攝如來一切所說祕密道理。令入祕密者,謂於聲聞乘說色等諸法皆有自性,為令無怖畏漸入聖教故。相祕密者,謂於三自性說一切法皆無自性、無生無滅等。對治祕密者,謂為調伏諸過失者,如來宣說種種密教,如為對治八種障故說最上乘。何等為八?謂輕佛法、懈怠、少善、生喜足、貪慢行、惡作、不定性、差別。廣說指事,隨其所應,如四意趣說。轉變祕密者,謂經所說隱密名言。如說:於不堅堅覺,深住於顛倒,極煩惱所惱,得最上菩提。此中密意者,謂於不散動起堅固勝覺。所以者何?堅有二義:一貞實、二散動。由此散動令心剛逸,故亦名堅。深住於顛倒者,謂翻常樂我淨四倒為無常等,故名顛倒。於此不退,故名深住。極煩惱所惱者,謂於長時精勤苦行,極為勞倦所逼惱故。得最上菩提者,若具如上所說三事,定速當證無上菩提。復次方廣分中於法三摩地善巧菩薩相云何可知?謂由五種因故。一剎那剎那消除一切麁重所依、二出離種種想得樂法樂、三了知無量無分別相大法光明、四順清淨分無分別相恒現在前、五能攝受轉上轉勝圓滿成就佛法身因。如是五種,依諸菩薩三種稱讚功德說,謂奢摩他稱讚功德、毘鉢舍那稱讚功德、此二俱分稱讚功德。奢摩他稱讚功德復有二種:一剎那剎那勝進輕安無有間缺,遍所依故,剎那剎那消除一切麁重所依。二勝解諦觀一切教法無有差別,同一味故。遠離種種蘊界處等諸義相想,得契經等憙樂法樂。毘鉢舍那稱讚功德亦有二種:一隨所擇法無有間缺,不忘失故,由憶念門於無量無分別相契經等法,以慧照了。二轉依前所有色像,無分別無加行相恒現在前。第五一種,是此二俱分稱讚功德法身者,謂所知障永斷轉依所攝。此於第十地名圓滿,於如來地名成就。為令法身速得圓滿成就故,引殖轉上轉勝等流習氣,故名攝受。彼因如是五種,即顯五修能得五果。何等為五?謂息相修、和合修、無相修、無功用修、轉相修。

次に四種の意趣があります。この意趣によって、方広分における一切如来のすべての意趣を、その通りに決了しなければなりません。どのような四種でしょうか。すなわち、平等意趣、別時意趣、別義意趣、衆生意楽意趣です。

平等意趣とは、例えば「私はその時、勝観如来、応、正等覚と名乗った」と説くような場合です。これは彼(如来)の法身と差別がないことによるものです。別時意趣とは、例えば「もし極楽世界に生まれたいと願うならば、みな往生を得るであろう」「もし無垢月光如来の名を暫くでも聞くことがあれば、阿耨多羅三藐三菩提から決して退転することはないであろう」と説くような場合です。このような言葉は、その意趣が別時(別の時)にあるためです。別義意趣とは、例えば「一切の諸法はみな自性がない」と説くような場合です。このような言葉は、文のままにその義を取ってはならないからです。衆生意楽意趣とは、ある時には、衆生が一つの善根に対して勇猛に修めるようにと歓喜させるために称賛し、またある時には、少善を得て満足してしまうことを遮るために毀呰(非難)することをいいます。貪欲の行者に対しては、佛土の富や楽、荘厳を称賛し、慢心の行者に対しては、諸仏に勝れた増進があることを称賛します。常に悔やみ悩んで善を修めることに障りがある者に対しては、このような言葉を説きます。すなわち、仏や菩薩に対して軽く毀る行いがあっても、その衆生は天趣に生まれるというものです。不定種性の者に対しては、声聞の劣った意楽を捨離させるために、大きな声聞が当に仏となることを授記し、また一乗を説いて他に第二のものはないと説くのです。

次に四種の秘密があります。この秘密によって、方広分における一切如来のすべての秘密を、その通りに決了しなければなりません。どのような四種でしょうか。すなわち、令入秘密、相秘密、対治秘密、転変秘密です。これら四種は、大乗において如来の説くすべての秘密の道理を略して摂めたものです。令入秘密とは、声聞乗に対して色などの諸法にはみな自性があると説くことであり、怖畏をなくして漸く聖教に入らしめるためです。相秘密とは、三自性に対して一切の法はみな自性がなく、生も滅もない等と説くことです。対治秘密とは、諸々の過失を調伏させるために、如来が種々の密教を宣説することです。例えば八種の障りを対治するために最上乗を説くようなものです。どのような八種でしょうか。すなわち、仏法を軽んじること、懈怠、少善、喜足を生ずること、貪慢行、悪作、不定性、差別です。詳しく説けばその事柄を指しますが、それぞれ応じるところに従い、四意趣のように説かれます。転変秘密とは、経に説かれた隠密の名言のことです。例えば、「不堅にして堅を覚し、深く顛倒に住し、極めて煩悩に悩まされる者が、最上の菩提を得る」と説くようなものです。この中の密意とは、散動することなく堅固な勝覚を起こすということです。なぜでしょうか。堅には二つの義があるからです。一に貞実、二に散動です。この散動が心を剛逸ならしめるため、これもまた堅と名づけられます。深く顛倒に住するとは、常・楽・我・浄という四つの顛倒を翻して無常等とすることをいい、ゆえに顛倒と名づけます。これに対して退転しないため、深く住するといいます。極めて煩悩に悩まされるとは、長時に精勤して苦行し、極めて労倦に逼悩されることをいいます。最上の菩提を得るとは、もし上記に説かれた三つの事柄を具足していれば、必ず速やかに無上菩提を証することをいいます。

次に方広分において、法三摩地を善巧する菩薩の相は、どうして知ることができるでしょうか。五つの因によるからです。一に、刹那刹那に一切の麁重の所依を消除すること、二に、種々の想いから出離して楽法楽を得ること、三に、無量で無分別な相の大法光明を了知すること、四に、清浄分に順ずる無分別相を恒に現在前させること、五に、転じて上へと転じて勝れた、円満に成就した法身の因を能く摂受することです。これら五種は、諸々の菩薩の三種の称賛功徳に基づいて説かれています。すなわち、奢摩他(止)の称賛功徳、毘鉢舍那(観)の称賛功徳、これら二つを具分とした称賛功徳です。奢摩他の称賛功徳にはまた二種あります。一に、刹那刹那に勝進して軽安があり間欠なく、所依を遍するため、刹那刹那に一切の麁重の所依を消除します。二に、勝解して諦観し、一切の教法に差別がなく、同一の味であるからです。種々の蘊・界・処等の諸々の義相の想いを遠離し、契経等の憙楽法楽を得ます。毘鉢舍那の称賛功徳にもまた二種あります。一に、選択した法に従って間欠がなく、忘失しないため、憶念の門によって無量で無分別な相の契経等の法を、慧をもって照了します。二に、前に所依となっていた色像を転じ、無分別で無加行の相が恒に現在前します。第五のものは、この二つを具分とした称賛功徳である法身であり、所知障を永断して転依されたことに摂められます。これは第十地において円満と名づけられ、如来地において成就と名づけられます。法身を速やかに円満成就させるため、さらに上へと転じさらに勝れた等流習気を殖やすことを、摂受と名づけます。その因がこれら五種であることは、すなわち五修によって五果を得られることを示しています。どのような五種でしょうか。すなわち、息相修、和合修、無相修、無功用修、転相修です。

問:聲聞藏法、菩薩藏法,等從法身所流。何故眾生以香鬘等供養菩薩藏法,便生廣大無邊福聚,非聲聞藏法耶?答:以菩薩藏法是一切眾生利益安樂所依處故、能建大義故、無上無量大功德聚所生處故。

問:声聞蔵の法も、菩薩蔵の法も、等しく法身から流れ出たものです。なぜ衆生は香や鬘などで菩薩蔵の法を供養すると広大無辺な福の集まりを生じ、声聞蔵の法ではそうではないのでしょうか。

答:菩薩蔵の法は、すべての衆生が利益と安楽を得るための依り所であり、大きな意義を建立することができるからであり、また無上にして無量な大功徳の集まりが生じる場所であるからです。

大乘阿毘達磨雜集論卷第十二

大乗阿毘達磨雑集論巻第十二


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