([□@考]七月)二日早朝潮生。追去數百町許。西方見嶋其貌如兩舶雙居。須臾進去。即知陸地。流行未幾。遇兩潮洄洑。橫流五十餘町。舶沈居泥。不前不却。爰潮水強遄。掘決舶邊之淤泥。泥即逆沸。舶卒傾覆。殆將埋沈。人人驚怕。競依舶側。各各帶褌。處處結繩。繫居待死。不久之頃。舶復左覆。人隨右遷。隨覆遷處。稍逮數度。又舶底第二布材。折離流去。人人銷神。泣淚發願。當戌亥隅。遙見物隨濤浮流。人人咸曰。若是迎舶歟。疑論之間。逆風迎來。終知是船也。見小倉船一艘乘人。先日所遣。射手壬生開山。大唐人六人。趍至舶前。爭錄事以下。先問大使所着之處。答云。未知所着之處。乍聞驚悲。涕淚難耐。即就其船遷國信物。錄事一人。知乘船事二人。學問僧圓載等已下廿七人。同遷乘之。指陸發去。午時到江口。未時到揚州海陵縣白潮鎮桑田鄉東梁豐村。日本國承和五年七月二日。即大唐開成三年七月二日。雖年號殊。而月日共同。留學僧等到守捉軍中季賓宅停宿。聞大使以六月廿九日未時。離船。以後漂流之間。風強濤猛。怕船將沈。捨矴擲物。口稱觀音妙見。意求活路。猛風時止。子時流着大江口南蘆原之邊。七月一日曉。潮落不得進行。令人登桅頭看山閭。南方遙有三山。未識其名。鄉里幽遠。無人告談。若待潮生。恐時久日晚。不能拯濟船上之。仍以繩繫船。曳([□@考]東本作洩今依池本改之下傚之)出海邊。人數甚少。不得搖動。判官以下。取纜引之。未時泛艇。從([□@考]從東本作徒)海邊行。漸覓江口。終到大江口。逆潮遄流。不可進行。其江稍淺。下水手等曳船而行。覓人難得。儻逢賣蘆人。即問國鄉。答云。此是大唐揚州海陵縣淮南鎮大江口。即召其商人兩人。上船向淮南鎮。從水路而到半途。彼兩人未知鎮家。更指江口却歸。日晚於江口宿。二日晚彼二人歸去。近側有鹽官。即差判官長岑宿禰高名准錄事高丘宿禰百興。令向鎮家。兼送文條([□@考]條恐牒字)即鹽官判官元行存。乘小船來慰問。使等筆上([□@考]上池本作言)國風。大使贈土物亦更向淮南鎮去。從江口北行十五里許。既到鎮家([□@考]到鎮家東本誤作倒鎮孚)鎮軍等申云。更可還向於掘港𨓍。即將鎮軍兩人歸于江口。垂到江口。判官元行存。在水路邊申云。今日已晚。夜頭停宿。隨言留居。勞問殊深。兼加引前之人。
(七月)二日の早朝に潮が満ちてきました。追い流されること数百町ほど。西方に島が見え、その姿はまるで二艘の船が並んで止まっているかのようです。ほどなくして遠ざかり、そこが陸地であると分かりました。流れること間もなく、二つの潮の流れが入り組み、横流れすること五十余町。船は沈みかけて泥にはまり、前にも後ろにも進みません。そこで潮の流れが激しくなり、船の脇の泥を掘り崩しました。泥は逆に沸き返り、船はとうとう傾いて転覆し、ほとんど埋もれ沈みそうになりました。人々は驚き恐れ、競うように船の側につかまり、それぞれ褌を身につけ、いたるところで縄を結び、すがりついて死を待ちました。ほどなくして船はまた左に傾き、人々は右へと移りました。傾くたびに移ることを、幾度か繰り返しました。また船底の第二の板材が折れて離れ、流れ去りました。人々は魂を失い、涙を流して願を立てました。戌亥の方角に、遠く何かが波に浮かんで流れるのが見えました。人々は皆、「もしや船を迎えに来たのであろうか」と言いました。疑い論じているうちに、逆風が吹いて迎えに来て、とうとう船であると分かりました。小倉船一艘に人が乗っているのが見えました。先日に派遣した射手の壬生開山、大唐人六人です。船の前に駆け寄り、争うように錄事以下に、まず大使がどこにいるかを尋ねました。答えには「どこにいるか分からない」と言いました。これを聞いて驚き悲しみ、涙は耐え難いものでした。すぐにその船に国信物を移しました。錄事一人、知乗船事二人、学問僧円載等以下二十四人が、同じく移り乗りました。陸を指して出発し、午の時に江口に着き、未の時に揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村に着きました。日本の承和五年七月二日、すなわち大唐の開成三年七月二日です。年号は異なりますが、月日は同じです。留学僧らは守捉軍中季賓の宅に到着し、宿をとりました。大使が六月二十九日未の時に船を離れたと聞きました。その後漂流する間、風は強く波は激しく、船が沈むことを恐れ、碇を捨て物を投げ、口に観音妙見と唱え、心に活路を求めました。激しい風が時に止み、子の時に大江口南の蘆原の辺りに流れ着きました。七月一日の暁、潮が引いて進むことができず、人を檣頭に登らせて山のあいだを眺めさせました。南方の遙かかなたに三つの山がありましたが、その名は分かりません。郷里は遠く、告げ語る人もありません。もし潮が満ちるのを待てば、時が久しく日が暮れて、船上の人を救うことができないでしょう。そこで縄で船を結び、海辺に出して曳きました。人数はとても少なく、揺り動かすことができません。判官以下が纜を取って引き、未の時に艇を浮かべ、海辺から行きました。しだいに江口を探し求め、とうとう大江口に着きました。逆潮が急流で、進むことができません。その江はやや浅く、水手たちが下りて船を曳いて行きました。人を見つけることは難しく、たまたま蘆を売る人に逢いました。すぐに国郷を尋ねると、答えには「ここは大唐揚州海陵県淮南鎮の大江口です」と言いました。すぐにその商人二人を召し、船に上らせて淮南鎮に向かいました。水路から半ばまで到りましたが、彼の二人は鎮家を知らず、さらに江口を指して引き返しました。日が暮れたので江口で宿をとりました。二日の晚、彼の二人は帰って行きました。近くに塩官がいたので、すぐに判官長岑宿禰高名、准錄事高丘宿禰百興を差し遣わし、鎮家に向かわせました。併せて文條を送りました。すぐに塩官判官元行存が小船に乗って来て慰問しました。使らは筆上に国風を記しました。大使は土物を贈り、また淮南鎮に向かいました。江口から北へ十五里ほど行き、既に鎮家に着きました。鎮軍らは申すには「さらに掘港𨓍に向かうべきです」と言いました。すぐに鎮軍二人を連れて江口に帰りました。まさに江口に着こうとしたとき、判官元行存が水路口で申すには「今日はすでに遅いので、夜は泊まってください」と言いました。その言葉に従って留まりました。いたわりの問いは特に深く、併せて先導する人を加えました。
三日丑時潮生。知路之船引前。而赴掘港𨓍。巳時到白湖([□@考]湖上文及下文作潮)口。逆流極遄。大唐人三人。并本國水手等。曳船截流。到岸結纜。暫待潮生。於此聞第四舶漂着北海。午時僅到海陵縣白潮鎮管內守捉軍中村。爰先於海中相別錄事山代氏益等卅餘人迎出。再得相見悲悅竝集。流淚申情。爰一眾俱居。此間雇小船等。運國信物。并洗曝濕損官私之物。雖經數日。未有州縣慰勞。人人各覓便宿。辛苦不少。請益法師。與留學僧一處停宿。從東梁豐村去十八里。有延海村。村裏有寺。名國清寺。大使等為憇漂勞。於此宿住。
三日の丑の刻に潮が満ちてきた。道を知る船が先導し、掘港へと向かう。巳の刻に白湖(「湖」の上の文字と下の文字は「潮」とある)の河口に到着した。逆流は非常に速い。大唐の人三人と、わが国の水手たちが船を曳いて流れをさえぎり、岸に着いて綱を結んだ。しばらく潮が満ちるのを待つ。ここで第四の船が北海に漂着したと聞いた。午の刻にようやく海陵県白潮鎮管内の守捉軍中村に到着した。ここでまず、海中で別れた録事の山代氏益ら三十数人が迎えに出てくれた。再び会うことができ、悲しみと喜びがともに込み上げ、涙を流して心を述べ合った。そこで一同はともに滞在することとした。この間、小船などを雇い、国信の品々や、濡れて損じた官私の品々を運び、洗い乾かした。数日が過ぎたが、州や県からの慰労はなかった。人々はそれぞれ都合のよい宿を探した。苦労は少なくなかった。請益法師は留学僧と一処に宿をとった。東梁豊村から十八里離れたところに延海村がある。村の中に寺があり、名を国清寺という。大使らは漂着の疲れを癒すため、ここに宿泊することにした。
九日巳時。海陵鎮大使劉勉來慰問使等。贈酒餅。兼設音聲。相從官健親事([□@考]親恐儭字儭事司儭施之事者)八人。其劉勉著紫朝服。當村押官。亦同著紫衣。巡撿事畢。却歸縣家。
九日巳の刻、海陵鎮大使の劉勉が使いの者たちを慰問に来ました。酒や餅を贈り、音楽も催してくれました。付き従っていた官健や親事(親事とは、親身に世話をする役目のこと)は八人でした。劉勉は紫の朝服を着ており、村の押官も同じく紫の衣を着ていました。巡検の務めが終わると、県の役所へ帰っていきました。
十二日從東梁豐村取水路運隨身物。置寺裏畢。同日午時。為催迎船。差通事大宅年雄。射手大宅宮繼等。從水路令向縣家。申時雷鳴。留學僧等住東([□@考]東下脫梁字)豐村。未到此間。
十二日、東梁豊村から水路で身の回りの物を運び、寺に置き終えた。同じ日の午時、迎えの船を催促するために、通事の大宅年雄と射手の大宅宮継らを派遣し、水路から県家へ向かわせた。申時に雷が鳴った。留学僧らは東豊村に滞在しており、まだここには来ていなかった。
十三日大熱。未時雷鳴。自初漂着以來。蚊蝄甚多。其大如蠅。入夜惱人。辛苦無極。申時留學僧來。同居寺裏。患赤痢。
十三日、とても暑い。午後二時ごろに雷が鳴った。漂着してからというもの、蚊がとても多い。その大きさは蠅ほどで、夜になると人を悩ませる。その苦しさは言葉にできないほどだ。午後四時ごろ、留学僧が来た。同じ寺に泊まることになったが、赤痢を患っている。
十四日辰時。為縣州([□@考]縣州池本作州縣)迎船不來。大使一人判官二人錄事一人知乘船事一人史生一人射手水手等惣卅人。從水路向縣家去。登時開元寺僧元昱來。筆言通情。頗識文章。問知國風。兼贈土物。彼僧贈桃菓等。近寺邊有其院。暫話即歸去。暮際雷鳴洪雨。驚悶尤甚。
十四日辰の時、県州が迎えの船をよこさなかったので、大使一人、判官二人、録事一人、知乗船事一人、史生一人、射手・水手ら合わせて三十人で、水路から県の役所へ向かった。登の時に開元寺の僧・元昱が来た。筆談で気持ちを通じ合わせた。なかなか文章に通じており、国の風習について尋ね知ることができた。さらに土産物を贈ってくれた。その僧は桃や菓子などを贈ってきた。寺の近くにその院があり、しばらく話してすぐ帰っていった。夕暮れに雷が鳴り、大雨が降った。驚き不安になって、たいそう気がめいった。
十七日午時射手大宅宮繼與押官等十餘人。從如皐鎮家。將卅餘草船來。即聞大使昨日到鎮家。申時春知乘山錄事等。與射手從東梁豐村來。宿住寺裏。
十七日の午刻、射手の大宅宮継が押官など十数人とともに、如皋鎮の家から三十艘ほどの草船を率いてやって来ました。すると、大使が昨日、鎮の家に到着したと聞きました。申の刻に、春知という山の録事たちが、射手を連れて東梁豊村から来て、寺の中に泊まりました。
十八日早朝。公私財物運舫船。巳時錄事以下水手已上從水路向州去。水牛二頭以繫冊餘舫。或編三艘為一船。或編二隻為一船。以纜續之。前後之程難聞。相喚甚。征稍疾。掘溝寬二丈餘。直流無曲。此即隋煬帝所掘矣。雨下辛苦。流行卅餘里。申時到郭補村停宿。入夜多蚊。痛如針刺。極以艱辛。通夜打皷。其國之風。有防援人。為護官([□@考]官東本作宮)物至夜打皷。
十八日の早朝。公私の財物を船に積み込んだ。巳の刻、録事以下、水手に至るまで水路を進んで州へ向かった。水牛二頭を四十隻余りの船につないだ。あるものは三隻を一つの船団にし、あるものは二隻を一つの船団にして、纜でつないだ。前後の行程は互いに聞こえにくく、呼び合う声がひどかった。やや急いで進んだ。溝を掘ってあり、幅は二丈余り、まっすぐに流れて曲がりがない。これは隋の煬帝が掘ったものである。雨が降って苦労した。三十里余り進んだ。申の刻に郭補村に着き、停まって宿泊した。夜になると蚊が多く、針で刺すように痛く、非常に苦しかった。一晩中太鼓を打った。この国の風習では、防援人がいて、官の(官は東本に宮に作る)物を守るために夜になると太鼓を打つのだ。
十九日寅時。水牛前牽進發。暗雲無雨。卯時聽鷄聲。始有吳竹林及生粟小角豆等。巳時大使牒到來。來。案牒狀偁。其漂損舶。隨便撿挍於所由。守捉司其守舶水手等依數令上向。不得釋留者。登時差准船師矢侯糸丸等。還遺泊舶之處。午時到臨河倉鋪。竟夜進行。
十九日の寅の刻、水牛を前に引いて出発した。曇っているが雨は降っていない。卯の刻に鶏の声を聞いた。ここで初めて呉の竹林や生粟、小さな角豆などがあった。巳の刻に大使からの文書が届いた。文書にはこう書かれていた。「その漂流して損傷した船は、しかるべき担当者が適宜調べて確認せよ。守捉司はその船の水手たちを、人数どおりに上へ向かわせよ。残留させてはならない。」その場でただちに船師の矢侯糸丸らを選んで、漂流船の停泊地へ送り戻した。午の刻に臨河倉の宿駅に着いた。一晩中進み続けた。
廿日卯畢到赤岸村。問土人。答云。從此間行百廿里([□@考]里東本無)。有如皐鎮。暫行有堰。([□@考]堰東本作塥)掘開堅堰([□@考]堰東本作堛)發去。進堰有如皐院。專知官未詳所由。船行太遲。仍停水牛。更編三船以為一番。每番分水手七人。令曳舫而去。暫行人疲。更亦長續繫牛曳去。左右失謀。疲上益疲。多人難曳。繫牛疾征。爰人皆云。一牛之力即當百人矣。比至午時。水路北岸。楊柳相連。未時到如皐㭟([□@考]即茶字池本作巷)店暫停。掘溝北岸。店家相連。射手丈部貞名等。從大使所來云。從此行半里。西頭有鎮家。大使判官等居此。未向縣家。大使判官等聞賷信物來為更向州。令裝束船舫。又云。今日州使來。始充生料。從先導([□@考]導東本傍注有噵字)新羅國使。而與本國一處。而今年朝貢使稱新羅國使。而相勞疎略。今大使等。先來鎮家。既定本國與新羅異隔遠邈。即縣州承知([□@考]承知池本作知承)言上既畢。乍聞忻然。頗慰疲情。申時鎮大使劉勉駕馬。來泊舫之處。馬子從者七八人許。撿挍事訖即去。錄事等下舫。參詣大使所。日晚不行。於此停宿。
二十日、卯の刻に赤岸村に到着しました。土地の人に尋ねたところ、次のように答えました。「ここから百二十里ほど行くと如皐鎮があり、しばらく行くと堰があります。固い堰を掘り開いて出発し、堰を進むと如皐院があります。」専知官のことは詳しい事情は分かりません。船の進みがとても遅いので、水牛を停めました。さらに三隻の船を編成して一組とし、各組に水夫を七人ずつ分け、舫を引かせて行かせました。しばらく行くと人々は疲れ果てました。そこでまた長い綱で牛をつないで引かせました。あちらこちらで判断を誤り、疲れた上にますます疲れが増しました。多くの人では引くのが難しく、牛をつなぐと速く進みました。そこで人々は皆言いました。「一頭の牛の力は百人に匹敵する」と。昼頃には水路の北岸に楊柳が連なっていました。未の刻に如皐茶店に着き、しばらく停まりました。北岸に溝を掘ると、店が連なっていました。射手の丈部貞名らが大使のもとから来て言いました。「ここから半里行くと、西の端に鎮家があります。大使や判官らはそこに居られます。まだ県家には向かっていません。」大使や判官らは、信物を携えて来たと聞いて、さらに州へ向かうため、船の装束を整えさせました。また言いました。「今日、州の使いが来て、初めて生料を支給した。先導の新羅国使に従って、本国と一処にいる。しかし今年の朝貢使は新羅国使と称しており、ねぎらいが疎略である。今、大使らは先に鎮家に来ている。すでに本国と新羅は遠く隔たっていると定まった。県や州が承知して言上したことはすでに済んだ。」これを聞いて、たちまち喜ばしく、たいそう疲れが慰められました。申の刻に鎮の大使劉勉が馬を駆り、船の停まる場所に来ました。馬子や従者は七、八人ほどでした。検査のことが終わるとすぐに去りました。録事らは船を下り、大使のもとへ参詣しました。日が暮れて進めず、ここに停宿しました。
廿一日卯時。大使以下共發去。水路左右富貴家相連。專無阻隟。暫行未幾。人家漸疎。先是鎮家回國矣。大使相送三四里許。歸向本鎮。從鎮家向縣二百廿里。巳時放却水牛。各分一船。指棹進行。絕無人家。申終到延海鄉延海村。停宿。蚊蝄甚多。辛苦罔極。半夜發行。鹽官船積鹽。或三四船。或四五船。雙結續編。不絕數十里。相隨而([□@考]而池本無)行。乍見難記。甚為大奇。
二十一日卯の刻、大使以下は皆いっしょに出発した。水路の左右には富貴の家が連なり、まったく途切れることがない。しばらく行くと、人家はしだいにまばらになった。先に鎮家は帰国していたのである。大使を見送ること三四里ほどで、本鎮へと帰って行った。鎮家から県へ向かうこと二百二十里。巳の刻に水牛を放ち、それぞれ一艘の船に分かれて乗り、棹をさして進んだ。人家はまったくない。申の終わりごろに延海郷延海村に到着し、宿をとって泊まった。蚊がたいそう多く、苦しみは限りない。夜半に出発した。塩官の船は塩を積んでおり、あるものは三四艘、あるものは四五艘で、二艘ずつ結びつなげて連ね、数十里にわたって絶えることがない。互いに従い連なって進む。ちらと見ただけでは覚えきれず、まことに大きな不思議である。
廿二日平明。諸船繫水牛牽去。白鵝白鴨往往多。有人宅相連。巳時已後。或行三十里。方三四家。有無不定。入夜暗行。子時到村。未知其名。諸船於此宿住。
二十二日、夜明け。多くの船が水牛につながれて引き去られていく。白い鵝や白い鴨がたくさんいる。人家がいくつも連なっている。午前十時を過ぎてから、三十里ほど進んだが、ところどころに三、四軒の家があるだけで、あるかどうかも定かでない。夜になって暗い中を進み、真夜中に村に着いた。その名は分からない。多くの船はここで泊まった。
廿三日卯時發行。土人申云。從此間去縣二十里。暫行不久。水路之側。有人養水鳥。追集一處。不令外散。一處所養數二千有餘。如斯之類。江曲有之矣。竹林無處不有。竹長四丈許為上。指北流行。自初乘船日。多指西行。時時或北。或艮。或西北。辰時前途見塔。即問土人。答云。此是西池寺。其塔是土塔。有九級。七所官寺中是其一也。進行不久。到海陵縣東頭。縣裏官人。長官一人。判官一人。兵馬使等惣有七人。未詳其色。暫行到縣南江。縣令等迎來西池寺南江橋前。大使判官錄事等。下船就陸。到寺裏宿住。縣司等奉錢([□@考]唐代有奉錢之俗)。但請益留學僧。猶在船上。縣中人悉集競見。留學僧肚裏不好。
二十三日の卯の刻に出発した。地元の人が言うには、「ここから県まで二十里、しばらく行くとすぐだ。水路のそばで水鳥を飼っている者がいる。追い集めて一か所にまとめ、外へ散らさないようにしている。一か所で飼う数は二千有余。このようなものが、川の曲がりごとにあります。竹林はどこにでもある。竹は四丈ほどのものが上等です」と。北を指して流れて行く。船に乗ってからというもの、多くは西を指して行き、時には北へ、あるいは東北へ、あるいは西北へと向かうこともあった。辰の刻、前方に塔が見えたので、地元の人に尋ねると、「これは西池寺です。その塔は土塔で、九級あります。七つの官寺のうちの一つです」と答えた。まもなく進み、海陵県の東の端に着いた。県の役人には、長官一人、判官一人、兵馬使ら合わせて七人おり、その詳細はわからない。しばらく行くと県の南の江に着き、県令らが西池寺の南の江橋の前まで迎えに来た。大使・判官・録事らは船を降りて陸に上がり、寺に入って宿泊した。県の役所の人々が金品を贈った(唐代には金品を贈る風習があった)が、ただ留学僧に会いたいと請うだけであった。留学僧はまだ船の上にいた。県の人々は皆集まって競うように会いたがった。留学僧は腹の調子が悪かった。
廿四日辰時。西池寺講起信論。座主謙并先後三綱等進來船上。慰問遠來兩僧。筆書通情。彼僧等暫住歸去。比至巳時。大使以下。出寺駕船。同共發去。縣裏官人等。以无慰懃。差軍中等令相送。申時到宜陵館。此是侍供往還官客之人處。依准判官藤原貞敏卒爾下痢。諸船於此館前停宿。兩僧下船看。問病者。登時歸船聞第四舶判官不忍湯水。下船居白水郎宅。未舉國信物舶悉破裂。但公私之物無異損。依无迎船不得運上。
二十四日の辰の刻、西池寺で『起信論』の講義が行われた。座主の謙并びに先後の三綱らが船に進み入り、遠くから来た二人の僧を慰問した。筆で書いて気持ちを通じ合わせた。かの僧たちはしばらく滞在してから帰っていった。巳の刻になるころ、大使以下は寺を出て船に乗り、ともに出発した。県の役人たちは、慰め労わることもなく、軍中などから人を差し向けて見送らせた。申の刻に宜陵館に到着した。ここは、伺候して往来する官客のための場所である。判官藤原貞敏がにわかに下痢を患ったため、諸船はこの館の前で停泊して宿泊した。二人の僧は船を下りて見舞い、病気の人に尋ねた。すぐに船に帰り、第四舶の判官が湯水を受けつけないと聞いた。船を下りて白水郎の宅に滞在した。まだ国信物を積み上げておらず、舶はすべて破裂した。ただ公私の物に変わった損伤はなかった。迎えの船がないため、運び上げることができなかった。
廿五日寅時發去。人人患痢。行船不一准。先行之船。留為後番。後行之人。進在前路。自海陵縣。去宜陵館五十里餘([□@考]餘東本作舒)。去州六十五里。巳時到仙宮觀。直行不休。未時到禪智橋東側停留。橋北頭有禪智寺。延曆年中副使忌日之事。於此寺修。自橋西行三里。有揚州府。大使為通國政。差押官等遣府遲來。申時發去。江中充滿大舫船。積蘆船。小船等。不可勝計。申畢行東郭水門。酉時到城北江停留。大使等登陸宿住。未逢府司。請益留學僧等。未離船上。入夜雨下。辛苦尤劇。
二十五日の寅の刻に出発した。誰もが下痢に悩まされていた。船の進み方も一様ではない。先に出た船は後の組として留まり、後から出た者は前の道を進んだ。海陵県から宜陵館までは五十里余り。州からは六十五里。巳の刻に仙宮観に到着した。休まずに進み続けた。未の刻に禅智橋の東側に着き、そこで停まった。橋の北の端には禅智寺がある。延暦年間に副使の忌日の法事がこの寺で行われた。橋から西へ三里行くと、揚州府がある。大使は国政を統べるため、押官らを派遣したが、府からの者は遅れて来た。申の刻に出発した。川の中は大きな船や蘆を積んだ船、小舟などで満ちており、数えきれないほどだった。申の刻が終わるころに東郭の水門を進み、酉の刻に城北の川に着いて停まった。大使らは上陸して宿泊した。まだ府の役人には会えていない。請益の留学僧らはまだ船を離れていない。夜に入って雨が降り出した。苦労はとりわけ激しかった。
廿六日晡時。下船宿住於江南官店。兩([□@考]兩東本作尚恐非)僧各居別房。
二十六日の夕方、船を降りて江南の官店に泊まった。二人の僧はそれぞれ別の部屋に滞在した。
廿八日齋後雇少船。向靈居寺。半途有障。不入寺裏。還到官店。不久之頃。開元寺僧全操等九箇僧來。慰問旅弊。
二十八日の斎の後、小さな船を雇いました。霊居寺へ向かいましたが、途中で障害があり、寺の中には入れませんでした。官の宿に戻りました。ほどなくして、開元寺の僧・全操など九人の僧がやって来て、旅の疲れをねぎらってくれました。
卅日開元寺僧貞順慰問。筆書問知府寺名并法師名。兼贈土物。
三十日に、開元寺の僧である貞順がお見舞いに来ました。手紙を書き、知府の寺の名前と法師の名前をお尋ねになりました。そのうえ、地元の品々も贈られました。