八月一日早朝。大使到州衙。見揚府都督李相公。事畢歸來。齋後請益留學兩僧。出牒於使衙。請向台州國清寺。兼請被給水手丁勝小麻呂仕。充求法馳仕。暮際依大使宣。為果海中誓願事。向開元寺。看([□@考]看池本作着)定閑院。三綱老僧卅有餘。共來慰問。巡禮畢歸店館。
八月一日の早朝。大使は州の役所に到着しました。揚府都督の李相公に会い、用事を終えて戻りました。斎の後、請益僧と留学僧の二人に、役所へ牒を提出するよう求めました。台州の国清寺へ向かうためであり、あわせて水手の丁勝と小麻呂に仕えることを願い出て、求法のための務めに充てようとしました。夕暮れ時、大使の指示により、海中での誓願を果たすため、開元寺へ向かいました。定閑院を見学し、三綱や老僧が三十人余り、そろって慰問に来ました。巡礼を終えて宿舎へ戻りました。
三日請令請益僧等向台州之狀。使牒達揚府了。為畫造妙見菩薩。四王像令畫師向寺裏。而有所由制不許外國人濫入寺家。三綱等。不令畫造件像。仍使牒達相公。未有報牒。
三日、請令や請益僧たちを台州へ向かわせるための状を願い出ました。使者の牒は揚府に届きました。妙見菩薩と四天王の像を描かせるため、画師を寺の中へ向かわせようとしましたが、事情があって、外国人が寺の家にみだりに入ることは許されないという決まりがありました。三綱たちは、その像を描かせることを許しませんでした。そこで、使者の牒を相公に届けましたが、まだ返答の牒はありません。
四日早朝有報牒。大使贈土物於李相公。彼相公不受還却之。又始今日。充生料每物不備。齋後從揚府。將覆問書來。彼狀偁。還學僧圓仁。沙彌惟正惟曉。水手丁雄滿([□@考]丁勝小麻呂改名。後再隨圓珍入唐即譯語人丁滿是也)右請往台州國清寺尋師。便住台州。為復從台州却來。赴上都去。留學僧圓載。沙彌仁好。伴始滿。右請往台州國清寺尋師。便住台州。為復從台州却來。赴上都去者。即答書云。
四日の早朝に報告の文書がありました。大使は李相公に土産物を贈りましたが、その相公は受け取らずに返してしまいました。また、今日から生料を支給することになりましたが、品物がそろわないものでした。斎の後、揚府から覆問の書を持ってきました。その書状にはこうありました。「還学僧の円仁、沙弥の惟正と惟暁、水手の丁雄満(丁勝小麻呂が名前を改めた者。後に再び円珍に従って唐に入り、訳語人となった丁満がこれである)。右の者たちは台州の国清寺に赴いて師を尋ね、そのまま台州に留まります。また台州から引き返して上都へ向かうためです。留学僧の円載、沙弥の仁好、伴の始満。右の者たちは台州の国清寺に赴いて師を尋ね、そのまま台州に留まります。また台州から引き返して上都へ向かうためです。」そこで、次のように返書を送りました。
還學僧圓仁
還学僧の円仁です。
右請往台州國清寺。尋師決疑。若彼州無師。更赴上都。兼經過諸州。
台州の国清寺へ行きなさい。そこで師を尋ね、疑問を解決しなさい。もしその州に師がいなければ、都へも足を運び、ついでに諸州を巡りなさい。
留學問僧圓載。
留学僧・円載。
右請往台州國清寺。隨師學問。若彼州全無人法。或上都覓法。經過諸州訪覓者。
次は台州の国清寺へ行き、師について学びなさい。もしその州にまったく人がいなければ、都に出て法を求め、諸州を巡って探し求めなさい。
又得使宣偁畫像之事。為卜筮([□@考]筮東本作莖池本作莁恐俱誤)有忌。停止既了。須明年將發歸時。奉畫供養者。仍以戌時到開元寺大門。誓禱其由。
また、使者が宣偁の画僧のことを伝えてきた。占いの結果、忌むべきことがあるという。そこで中止が決まった。来年、帰国の途につくときに、供養のための画像を描いて奉ろうと思う。そこで戌の刻に開元寺の大門に着き、その旨を誓って祈った。
七日馳書信。諮開元寺三綱。兼贈土物。附還信送報禮書([□@考]書東本作唐今從池本)。
七日分の手紙を送りました。開元寺の三綱に相談し、また地元の品々も贈りました。返信を添えて、お礼の手紙を送り返します。
八日聞第四舶猶在泥上。未到泊處。國信物未運上。其舶廣棚離脫。淦水殆滿。隨潮生潮落。舶裏涸沈。不足為渡海之器。求法僧等。未登陸地頭判官登陸。居白水郎舍。船中人五人身腫死。大唐迎船十隻許來。一日一度。運國信物至。波如高山。風吹不能運遷。辛苦尤甚。聞噵昨日揚州帖可行迎舶之狀。令發赴既了。未詳子細。九日巳時。節度使李相公牒於開元寺。許令畫造佛像。未時勾當日本國使王友([□@考]王友東本作主支或作王支或作王友今從下文及池本)真來官店。慰問僧等。兼早令向台州之狀。相談歸却。請益法師。便贈土物於使。登時商人王客來。筆書問國清寺消息。頗開鬱抱。亦與刀子等。
八日、第四船はまだ泥の上にあると聞きました。まだ停泊地に着いておらず、国信物もまだ運び上げられていません。その船は広い棚が離れて脱落し、水がほとんど満杯になっています。潮の満ち引きに従って、船の中は干上がったり沈んだりしており、海を渡る道具としては不十分です。求法の僧たちはまだ陸地に上がっていません。頭判官は陸に上がり、白水郎の家に泊まっています。船の中の五人が体が腫れて死にました。大唐から迎えの船が十隻ほど来て、一日に一度、国信物を運んできています。波は高い山のようで、風が吹いて運ぶことができません。苦労は特にひどいものです。昨日、揚州から帖が届き、迎えの船を派遣する状を発することができると聞きました。すでに発つように命じてしまいましたが、詳しい事情はまだ分かりません。九日の巳の時、節度使の李相公から開元寺に牒が届き、仏像を描いて造ることをお許しになりました。未の時、日本国使の王友(王友、東本には主支に作るとあり、または王支に作るとも、または王友に作るともあり、今は下文および池本に従う)が本当に官店に来ました。僧たちを慰問し、兼ねて早く台州に向かうべき状について相談して帰りました。請益法師は、そのまま土物を使者に贈りました。その場で商人の王客が来て、筆で国清寺の消息を尋ねました。鬱屈した思いがかなり晴れました。また刀子などを与えました。
十日辰時。請益留學兩僧隨身物等。斤量之數定錄。達使衙了。即聞第二舶著𣴴州。第二舶新羅譯語朴正長書送金正南房。午時王大使來噵。相公奏上既了。須待勅來可發赴台州去。大使更留學僧暫住揚府。請益僧不待勅符。且令向台州之狀牒送相公。二三日後。相公報牒偁。不許且發。待報符可定進止。其間令僧住寺裏者。船師佐伯金成患痢經數日。
十日、辰の時。留学のため留まる二人の僧の身の回りの物などを尋ねました。その重さの数量を書き記し、使いを衙に届けさせました。まもなく、第二の船が𣴴州に着いたと聞きました。第二の船に乗った新羅の通訳、朴正長が手紙を金正南の部屋に送りました。昼の時、王大使が来て言いました。「相公がすでに奏上を終えられました。勅が来るのを待って、台州へ向けて出発するのがよいでしょう」と。大使はさらに、留学の僧をしばらく揚府に留め置かせました。請益の僧は勅符を待たずに、ひとまず台州へ向かうという事情を書き記し、相公に送りました。二、三日後、相公から返事が届き、こう言いました。「ひとまず出発することは許さない。報告の符を待ってから、進むか止まるかを決めなさい」と。その間、僧を寺の中に住まわせました。船師の佐伯金成は痢を患い、数日が過ぎました。
十六日辰時。兩僧與無常呪願。但命未絕。暮際勾當日本國使王友真。共相公使([□@考]使下池本有一字)人到官店。勘錄金成隨身物。
十六日の辰の時、二人の僧が無常の咒願を行いました。ただ、まだ命は絶えていませんでした。夕暮れのころ、日本の国の使者である王友真の用事を処理しました。ともに相公の使いの者が官の店に来て、金成の身の回りの物を調べて記録しました。
十七日申時。聞第四舶判官到如皐鎮。公私雜物亦悉運到鎮家。今編小舶擬向揚府。入夜比及丑時。病者金成死亡。
十七日の申の刻、第四の船の判官が如皋鎮に到着したと聞きました。公私の荷物もすべて鎮の家に運び込まれました。今、小舟を編成して揚府へ向かおうとしています。夜に入り、丑の刻ごろ、病人の金成が亡くなりました。
十八日早朝。押官等來撿挍此事。據本國使判。金成隨身物。依數令受傔從井俅替。未時押官等勾當買棺葬去。
十八日の早朝、役人たちが来てこの件を調べました。本国の使者の判断によれば、金成の身の回りの品々は、数に従って従者たちに受け取らせ、井俅と交代させることになりました。午後三時ごろ、役人たちが取り計らって棺を買い、葬って去りました。
廿一日撿挍舶之使。准船師楊隻糸麿等趍來。即聞水手長佐伯全繼。在掘港鎮死去。
二十一日、船の検査をする役人が、船頭の楊隻糸麿たちを連れてやって来ました。ちょうどそのとき、水夫の長である佐伯全継が掘港鎮で亡くなったという知らせを聞きました。
廿二日王大使。將相公牒來。案其狀偁。兩僧及從等令住開元寺者。
二十二日、王の大使がやって来ました。将相公の公文書を持って来たのです。その文書の内容には、二人の僧と従者たちを開元寺に住まわせるように、と書かれていました。
廿三日晚頭。開元寺牒將來。送勾當王大使。
二十三日の夜、開元寺の文書が届きました。担当の王大使に送りました。
廿四日辰時。第四舶判官已下。乘小船來。船數惣計卅艘已下。齋後。差使遣寺。令撿挍客房。未時兩僧并傔人等出官店。詣開元寺。既到寺裏。從東塔北越二壁。於第三廊中間房住。登時三綱并寺和上及監僧等赴集。上座僧志強。寺主令徵。都師修達。監寺方起。庫司令端慰問。隨身物同運寺裏。
二十四日の辰の刻、第四船の判官以下が小舟でやって来ました。船の数は全部で三十艘あまりです。斎の後、使いを寺に送り、客室を点検させました。未の刻に、二人の僧と従者たちが官の宿を出て、開元寺へ向かいました。やがて寺に着くと、東塔の北から二つの壁を越え、三番目の廊の中ほどにある部屋に泊まりました。その場で三綱をはじめ寺の和尚や監僧たちが集まってきました。上座の僧は志強、寺主は令徴、都師は修達、監寺は方起、庫司は令端で、それぞれ慰問しました。随身の品々も一緒に寺の中へ運び入れました。
廿五日早朝。有綱維請。仍到寺庫喫粥。比至午時。三論留學常晈([□@考]晈同曉下文作曉)師來慰談。寺家設供相共齋。常晈師巡看歸館。差惟正遣問諮。真言請益付廻報慰。兼第四舶船頭判官及吉備掾讚岐掾等便垂諮問。即第四舶為高波所漂。更登高瀨。難可浮廻。水手等乘小船往舶上。未達中途。潮波逆曳。不至舶上。不知所向。但射手一人。入潮溺流。有白水郎拯之。
二十五日の早朝、綱維(僧侶の役職者)からの招きがありました。そのまま寺の庫(くら)に赴いてお粥をいただきました。やがて昼時になると、三論宗の留学僧である常晈(じょうぎょう)師が訪ねて来られ、ねぎらいの言葉を交わしました。寺側では供養が設けられ、皆で一緒に斎食(精進料理)をいただきました。常晈師は館内を見回ってから宿舎へお帰りになりました。惟正(いしょう)を遣わして質問を伝え、真言(密教)についての教えを請い、その返事を託してねぎらいを伝えました。また、第四船の船頭判官、および吉備掾(きびのじょう)・讃岐掾(さぬきのじょう)らからも、そのついでに相談を受けました。第四船は高い波に流されてしまい、さらに高瀬(たかせ)に乗り上げて、浮かび戻ることは難しい状況でした。水手たちは小舟に乗って船へ向かいましたが、途中までしか進めず、潮の波に逆に引かれて船にたどり着けませんでした。どこへ向かったのかも分かりません。ただ射手が一人、潮に溺れて流されましたが、海人(あま)が一人これを助けました。
廿六日。李相公隨軍游擊將軍沈弁來諮問。兼語相公諱四字。府吉甫云四字也。翁諱云。父諱吉甫([□@考]宰相李德裕。父吉甫。府云二字難解)。暮際沈弁差使。贈來蜜一埦。請益法師為供寺僧。喚寺庫司僧令端。問寺僧數。都有一百僧。即沙金小二兩充設供䉼。留學僧亦出二兩。惣計小四兩。以送寺衙。綱維監寺僧等共集一處。秤定大一兩二分半。登時得寺家報偁。須具金數。更報官取處分。可設空飯者。
二十六日、李相公の随軍游撃将軍である沈弁が諮問に来ました。あわせて相公の諱の四字を語りました。府の吉甫は四字であると言います。翁の諱については、父の諱は吉甫であると(宰相の李徳裕。父は吉甫。府は二字で解しがたいと言う)と言いました。夕暮れに沈弁が使いを遣わし、蜜一埦を贈ってきました。請益法師が寺の僧に供養するためにと、寺の庫司の僧である令端を呼び、寺の僧の数を尋ねました。都合一百人の僧がいます。そこで沙金小二両を供養の設営費に充て、留学僧もまた二両を出しました。総計で小四両となり、これを寺衙に送りました。綱維や監寺の僧たちが一か所に集まり、秤で定めたところ大一両二分半でした。その場で寺家から、金の数を具にすべきであるとの報せを得ました。さらに官に報せて処分を仰ぎ、空飯を設けることができるようにしました。
沙金小四兩
沙金を少し、四両ほど。
右求法僧等。得免萬里再見生日。蹔住寺裏結泉樹因。謹獻件沙金。以替香積供。伏願加辨作([□@考]作池本作供)之勞。用充寺裏眾僧空飯。但期在明日矣。
右の求法僧たちは、万里の旅を無事に終えて、再び生きてお目にかかることができました。しばらく寺にとどまり、泉のほとりの木の下でご縁を結んでおります。つつしんで、こちらの砂金を差し上げます。これを香積の供え物に代えさせてください。どうかお取り計らいの労を加えていただき、寺の僧たちの空飯に充てていただけますよう、お願い申し上げます。ただ、明日にはもう発たねばなりません。
八月廿六日
8月26日です。
本國天台法花宗 還學傳燈法師
本国の天台法華宗に学び、戻って伝灯の法師となった方。
留學傳燈滿位僧
留学して法灯を伝える、位に満ちた僧
廿九日供寺裏僧。百種惣集。以為周足。僧數百餘。當寺僧常簡。奉綱維請。而作齋文。其書在別。
二十九日、寺の中の僧たちに供養しました。百種類のものがすべて集まり、それで十分に整いました。僧の数は百余人でした。この寺の僧たちは常に選ばれた方々で、綱維の招きに応じて、斎文を作りました。その文書は別にあります。
卅日長安千福寺僧行端來。筆言述慰。兼問得長安都唐消息。
三十日、長安の千福寺の僧・行端が来ました。手紙を書き記して慰めを述べ、あわせて長安の都についての情報を尋ねました。