九月一日無異事。從開元寺西涉河。有無量義寺。有老僧名文襲。春秋七十。新作維摩經記五卷。今現在堂裏講其疏記多用肇。生。融。天台等義。比寺諸僧來集聽之。聽眾都有卅八人。共敬重彼文襲和尚。
九月一日、変わったことはありませんでした。開元寺から西へ川を渡ると、無量義寺があります。そこに文襲という老僧がいて、齢七十歳。新たに『維摩経記』五巻を作りました。今、堂の中でその疏記を講じており、多くは肇・生・融・天台などの義を用いています。この寺の僧たちが集まってこれを聴いており、聴衆は全部で三十八人。皆、その文襲和尚を敬い重んじています。
二日監寺僧方起等。於庫頭設空飯。
二日目、監寺の僧、方起たちが、庫頭(台所)で空飯を設けました。
九日相公。為大國使設大餞。大使不出。但判官已下。盡赴集矣。
九日、相公が大国の使をもてなすために盛大な送別の宴を設けました。大使は出席しませんでしたが、判官以下の者たちは皆、集まりに赴きました。
十一日聞。副使([□@考]小野篁)不來。留住本國。但判官藤原豐竝為船頭來。
十一日のこと、聞きました。副使である小野篁は来ませんでした。本国にとどまったままです。ただ、判官の藤原豊並が船頭として来ました。
十三日聞。相公奏狀之報符。來於揚府。未得子細。齋後監軍院要籍薰廿一郎。來語州裏多少。揚州節度使領七([□@考]七池本作六非也今脫舒州)州。揚州。楚州。盧州。壽州。徐州([□@考]即滁州)。和州也。揚州有七([□@考]七池本作六非也今脫江都縣)縣。江陽縣。天長縣。六合縣。高郵縣。海陵縣。揚子縣也。今此開元寺。江陽縣管內也。揚府南北十一里。東西七里。周卅里。從開元寺正北有揚府。從揚州北行三千里。有長安都。從揚府南行一千四百五十里有台州。或云。三千來里。人里語不定。今此揚州淮南道。台州江南西道也。揚府裏僧尼寺卌九門。州內有二萬軍。惣管七([□@考]七池本作六非也見上文)州。都有十二萬軍。唐國有十道。淮南道(一十四州[□@考]唐書作十二)。關內道(廿四州[□@考]唐書作廿七)。山南道(卅一州[□@考]唐書作卅三)。隴右道(十九州)。劒南道(四十二州[□@考]唐書作廿八)。惣計三百十一州。揚州去京二千五百里。台州去京四千一百里。台州是嶺南道。
十三日に聞きました。相公の奏状の報符が揚府に来たということです。詳しいことはまだ分かりません。斎の後、監軍院の要籍である薰廿一郎が来て、州内のあれこれを語りました。揚州節度使は七つの州を管轄しています。(七は池本に六とあるが誤りで、今は舒州が脱けている)揚州、楚州、盧州、寿州、徐州(すなわち滁州)、和州です。揚州には七つの県があります。(七は池本に六とあるが誤りで、今は江都県が脱けている)江陽県、天長県、六合県、高郵県、海陵県、揚子県です。今この開元寺は、江陽県の管轄内にあります。揚府は南北十一里、東西七里、周囲は三十里です。開元寺の真北に揚府があります。揚州から北へ三千里行くと、長安の都があります。揚府から南へ一千四百五十里行くと台州があります。あるいは三千余里とも言われます。人の里程の話は一定しません。今この揚州は淮南道に、台州は江南西道に属します。揚府内の僧尼寺は四十九門あります。州内には二万の軍があります。全体で七つの州を管轄しています。(七は池本に六とあるが誤りで、上文を見よ)都合十二万の軍があります。唐国には十道があります。淮南道(十四州、唐書には十二とある)、関内道(二十四州、唐書には二十七とある)、山南道(三十一州、唐書には三十三とある)、隴右道(十九州)、剣南道(四十二州、唐書には二十八とある)、総計三百十一州です。揚州は京から二千五百里、台州は京から四千一百里あります。台州は嶺南道です。
十六日長判官云。得相公牒。偁。請益法師。可向台州之狀。大使入京奏聞。得報符時。即許請益僧等發赴台州者。未得牒案。
十六日、長判官が言いました。「相公からの牒を得ました。それによると、請益法師は台州へ向かうべきとの状について、大使が京へ入り奏聞し、報符を得た時には、ただちに請益僧たちの台州への出発を許すというものです。まだ牒案は得ていません」と。
十九日惠照寺唐礿([□@考]礿或初歟)法師來。相見諮談。當寺僧等云。是法花座主講慈恩疏。
十九日、恵照寺の唐礿法師が来られました。お会いして話し合いました。当寺の僧たちが言うには、この方は法華の座主で、慈恩の疏を講じているとのことです。
廿日寫得。相公牒狀。偁。日本國朝貢使數內僧圓仁等七人。請往台州國清寺尋師。右奉詔。朝貢使來入京。僧等發赴台州。未入可允許。須待本國表章到。令發赴者。委曲在牒文。
二十日に書き終えました。相公の牒状にはこう記されています。「日本国の朝貢使の中にいる僧の円仁ら七人は、台州の国清寺へ師を尋ねに行きたいと願い出ています。右、詔を奉るに、朝貢使が京へ入り、僧らは台州へ発つことになりますが、まだ入ることは許されません。本国の表章が届くのを待って、出発させるべきものです。詳しい事情は牒文の中にあります。」
廿一日塔寺老僧宿神玩和尚來相看慰問。
二十一日、塔寺の老僧が宿をとり、神玩和尚が見舞いに来てくださいました。
廿三日揚府大節。騎馬軍二百來。步軍六百來。惣計騎步合千人。事當本國五月五日射的之節。
二十三日は揚府の大節です。騎馬の軍が二百人ほど来ました。歩兵の軍が六百人ほど来ました。総計で騎馬と歩兵を合わせて千人です。ちょうど本国の五月五日の射的の節のようなものです。
廿八日大使君贈昆布十把。海松一裹。
二十八日、大使の君から昆布を十把、海松(みる)を一包みいただきました。
廿九日大使君贈砂金大十兩。以充求法䉼。相公為入京使。於水舘設餞。又蒙大使宣偁。請益法師。早向台州之狀。得相公牒偁。大使入京之後。聞奏得勅牒後方令向台州者。仍更添己緘書。送相公先了。昨日得相公報。偁。此事別奏上前了。許明後日令得報帖。若蒙勅詔。早令發赴者。聞噵今天子。為有人計([□@考]計東本作許今從池本)殺皇太子。其事之由。皇太子擬殺父王作天子。仍父王殺己子(云云)。
二十九日、大使の君から砂金を大十両いただきました。これは求法のための費用に充てるものです。相公は都へ入る使者として、水館で餞別の宴を設けてくださいました。また大使からは、宣偁という人物を通じて、「請益法師は早く台州へ向かうように」というお達しをいただきました。相公の牒には、「大使が都へ入ったのち、奏聞して勅牒を得てから、台州へ向かわせるように」とありました。そこでさらに自分の手紙を添えて、先に相公へ送っておきました。昨日、相公から返事があり、「このことは別に奏上しておいた。明後日には返答の帖を得られるだろう。もし勅詔をいただければ、早く出発させるように」とのことでした。聞くところによると、今の天子は、ある者の計らいによって皇太子を殺されたそうです。その事情は、皇太子が父王を殺して天子になろうと企てたため、父王がわが子を殺されたのだということです。