十月三日晚頭。請益留學兩僧往平橋舘。為大使判官等入京作別相諮。長判官云。得兩僧情願之狀。將到京都。聞奏早令得符者。
十月三日の夜、留学の二人の僧に平橋館へ行くようお願いしました。大使や判官たちが都へ入るにあたっての別れの相談をするためです。長判官が申しました。「二人の僧の願いを記した文書をいただきました。都へ持って行き、天皇に奏上して、早く官符をいただけるようにいたしましょう。」
四日齋後兩僧各別紙造情願狀。贈判官所。其狀如別。入京官人。大使一人。長岑判官([□@考]高名)菅原判官([□@考]善主)。高岳錄事([□@考]百興)。大神錄事([□@考]宗雄)。大宅通事([□@考]年雄)。別請基([□@考]基恐益字)生伴須賀雄。真言請益圓行等。并雜職已下卅五人。官船五艘。又長判官寄付延曆年中入唐副使位記。并祭文。及綿十屯。得判官狀。偁。延曆年中入唐副使。石川朝臣道益。明州身已亡。今有勅敘四品位。付此使送贈賜彼隴前。須便問台州路次。若到明州境。即讀祭文。以火燒捨位記之文者。三論留學常晈([□@考]晈同嶢下文作曉)猶住廣陵館。不得入京。
四日斎の後、二人の僧がそれぞれ別の紙に願いを記した文書を作り、判官のもとに贈りました。その文書は別に記したとおりです。京に入る官人は、大使一人、長岑判官(高名)、菅原判官(善主)、高岳録事(百興)、大神録事(宗雄)、大宅通事(年雄)、別請の基(基は恐らく益の字の誤り)生の伴須賀雄、真言請益の円行ら、ならびに雑職以下の者を合わせて三十五人でした。官船は五艘です。また長判官は、延暦年間に入唐した副使の位記ならびに祭文、そして綿十屯を寄付しました。判官の状を得たところ、こう述べています。「延暦年間に入唐した副使、石川朝臣道益は、明州で亡くなりました。今、勅により四位の位を叙されました。この使に付けて送り、彼の墓前に贈り賜わるべきです。ついでに台州の路次のことを尋ねる必要があります。もし明州の境に到ったなら、すぐに祭文を読み、火で位記の文を焼き捨てなさい」と。三論の留学僧、常晈(晈は嶢に同じ。下文には暁と作る)は、なお広陵の館に留まっており、京に入ることができませんでした。
五日卯終。大使等乘船發赴京都。終日通夜雨下。
五日目の卯の刻の終わりに、大使たちは船に乗って京都へ向けて出発しました。一日中、そして夜通し、雨が降り続きました。
六日始寒。
六日目、寒さが始まりました。
七日有薄冰。
七日目には、薄い氷が張ります。
九日始令作惟晈([□@考]晈上文及下文作曉同字)等三衣。五條絹二丈八尺五寸。七條絹四丈七尺五寸。大衣絹四丈(廿五條)惣計十一丈六尺。縫手功作大衣廿五條。用一貫錢。作七條四百文。作五條三百文。惣計一貫七百文。令開元寺僧貞順勾當此事。
九日になって初めて、惟晈(晈という字は、前後の文では曉と同じ字です)たちに三衣を作らせました。五条の衣には絹二丈八尺五寸、七条の衣には絹四丈七尺五寸、大衣には絹四丈(二十五条)、総計で十一丈六尺です。縫い手の工賃は、大衣を二十五条作るのに一貫銭、七条を作るのに四百文、五条を作るのに三百文、総計で一貫七百文かかりました。開元寺の僧・貞順にこの仕事の監督をさせました。
十三日午時。請益傔從惟晈。留學傔從仁好同時剃髮。
十三日の昼、お教えを請うために従った惟晈と、留学の従者である仁好は、同じ時に髪を剃りました。
十四日砂金大二兩。於市頭令交易市頭秤定一大兩七錢。七錢准當大二分半。價九貫四百文。更買白絹二疋價二貫。令作七條。五條二袈裟亦令僧貞順勾當此事。齋後禪門宗僧等十三人來相看。長安千福寺天台宗惠雲。禪門宗學人僧弘鑒。法端。誓實。行全。常密。法寂。法真。惠深。全古。從實。仲詮。曇幽。筆書云。竝閑閑無繫。雲遊山水。從此五峯下游楚泗。今到此郡。殊喜頂禮。大奇大奇。歡之甚也。今欲往天台。告辭便別。珍重珍重。爰筆書報云。日本僧等昔有大因。今遇和尚等。定知必遊法性寂空。大幸大幸。若有到天台必將相見珍重珍重。
十四日、砂金を大二両いただきました。市場の頭に命じて取引させ、市場の頭が秤で量ったところ、一大両七銭でした。七銭は大二分半に当たります。価格は九貫四百文です。さらに白絹二疋を買い、価格は二貫でした。これを七条と五条の二袈裟に仕立てさせ、僧の貞順にこのことを取り計らわせました。
斎の後、禅門宗の僧たち十三人が訪ねてきました。長安の千福寺の天台宗の恵雲、禅門宗の学人である僧の弘鑒、法端、誓実、行全、常密、法寂、法真、恵深、全古、従実、仲詮、曇幽です。書き記して言うには、「みなのびのびとしてとらわれがなく、山水を雲遊しています。これより五峯の下を出て楚・泗へ向かいます。今この郡に到りました。たいへん喜んで頂礼します。まことにめでたいことです。喜びはひとしおです。今は天台へ行こうと思っています。お別れを告げて、そのまま別れます。どうかお元気で。どうかお元気で」と。
そこで書き記して答えるには、「日本の僧たちは昔から大きな因縁があります。今、和尚たちにお会いできました。きっと法性の寂空を遊ばれることでしょう。大きな幸いです。大きな幸いです。もし天台へおいでになれば、必ずお会いしましょう。どうかお元気で。どうかお元気で」と。
十九日為令惟正惟晈受戒。牒報判官錄事。大唐大和二年以來。為諸州多有密與受戒。下符諸州。不許百姓剃髮為僧。唯有五臺山戒壇一處。洛陽終山瑠璃壇一處。自此二外。皆悉禁斷。因茲請報所由取處分也。
十九日、惟正と惟晈(ゆいこう)に戒を受けさせるため、判官と録事に文書で報告しました。大唐の大和二年以来、多くの州で密かに戒を授けることが行われていたため、諸州に通達を下し、一般の人が髪を剃って僧になることを許さないことにしました。ただ五臺山の戒壇と、洛陽の終山瑠璃壇の二か所だけが認められています。この二か所以外は、すべて禁じられています。そこで、関係の役所に問い合わせて指示を仰ぐことにしたのです。
廿二日早朝見彗星。長一尋許。在東南隅。雲蔽不多見。寺主僧令徵談云。此星是劒光也。先日。昨日。今夜三箇夜現矣。比日有相公恠。每日令七箇僧七日之([□@考]之下恐脫間字)轉念涅槃般若。諸寺亦然。又去年三月亦有此星。極明長大。天子驚恠。不居殿上。別在卑座。衣著細布。長齋放赦。計今年合然。乍聞忖之。在本國之日所見。與寺主語符合矣。
二十二日の早朝、彗星を見ました。長さは一尋ほどで、東南の隅にありました。雲に遮られて、はっきりとは見えませんでした。寺主の僧令徴が話して言うには、「この星は剣の光です。先日も、昨日も、今夜も、三晩続けて現れています。このところ相公が怪しんで、毎日七人の僧に七日間の念仏をさせ、涅槃と般若を転読させています。どの寺でも同じことをしています。また、去年の三月にもこの星が出て、たいそう明るく長く大きかったので、天子は驚き怪しんで、殿上にはおられず、別に低い座にお移りになり、細布の衣を着て、長斎を行い、赦を行われました。今年もきっとそうなるはずです」と。ふと聞いて思うに、本国にいたときに見たことと、寺主の話はよく符合しています。
廿三日沈弁來云。彗星出。即國家大衰及兵亂。東𣴴主([□@考]主池本作至)鯤鯨二魚死。占為大恠。血流成津。此兵革眾起。征天下。不揚州合上都前。元和九年三月廿三日夜。彗星出東方。到其十月。應宰相反。王相公已上計𭣦宰相及大官都廿人。亂𭣦計萬人已上。僧等雖事未定。為後記之。入夜至曉出房。見此彗星在東南隅。其尾指西。光極分明。遠而望之。光長計合有十丈已上。諸人僉云。此是兵劒之光耳。
二十三日、沈弁が来てこう言いました。「彗星が出ました。これは国が大いに衰え、兵乱が起こるしるしです。東の海の主である鯤と鯨の二匹の魚が死にました。占いでは大きな災いとされ、血が流れて津になるといいます。これは兵乱が数多く起こり、天下を征するという意味です。揚州が上都の前で合することを許さないというのです。元和九年三月二十三日の夜、彗星が東方に出ました。その十月になると、宰相の異変が起こりました。王相公以上、数えられた宰相および大官は合わせて二十人、乱を計った者は一万人以上でした。僧たちは、事はまだ定まっていないといえども、後のためにこれを記します。夜に入り暁に至るまで房を出て、この彗星を見ると、東南の隅にありました。その尾は西を指し、光はきわめて明らかでした。遠くから望むと、光の長さは合わせて十丈以上もありました。人々は皆こう言いました。『これは兵剣の光である』と。」
廿四日雇人。令作惟正等坐具兩箇。當寺僧貞順亦勾當此事。坐具一條料絁二丈一尺。表八尺四寸。裏八尺四寸。緣䉼四尺二寸。兩箇坐具之䉼。都計四丈二尺。作手功作一箇用二百五十文。惣計五百文。
二十四日、人を雇いました。惟正たちのために坐具を二つ作らせました。この寺の僧である貞順も、このことを担当しました。坐具一枚に必要な絁は二丈一尺です。表は八尺四寸、裏は八尺四寸、縁の分は四尺二寸です。坐具二枚分の絁は、合わせて四丈二尺になります。作る手間賃は一枚につき二百五十文で、合計五百文です。
卅日齋前零霰。
三十日の斎(ものいみ)の前に、霰(あられ)がぱらついています。