十一月二日。買維摩關中疏四卷。價四百五十文。有勑斷銅。不許天下賣買。說六年一度例而有之。恐天下百姓一向作銅器。無銅鑄錢。所以禁斷矣。
十一月二日。維摩経の関中疏を四巻買いました。値段は四百五十文です。銅を断つ勅令が出ていて、天下で売買することが許されていません。六年に一度の例としてこれがあると言われています。おそらく天下の百姓がもっぱら銅器を作り、銅がなくて銭を鋳造できなくなるのを恐れたためです。だから禁断したのです。
十一月七日。開元寺僧貞順。私以破釜賣與商人。現有十斤。其商人得䥫。出去於寺門裏。逢巡撿人被勘捉歸來。巡撿五人來云。近者相公斷䥫。不令賣買。何輒賣與。貞順答云。未知有斷賣與。即勾當并貞順具狀請處分。官中免却。自知揚州管內不許賣買䥫矣。齋後相公衙前之虞候三人持([□@考]持恐特字)來。相見筆言通情。相公始自月三日。於當寺瑞像閣上。刻造三尺白檀釋迦佛像。其瑞像飛閣者。於隋煬帝代。栴檀釋迦像四軀。從西天飛來閣上。仍煬帝自書瑞像飛閣四字。以懸樓前。
十一月七日。開元寺の僧・貞順が、私の判断で壊れた釜を商人に売りました。その時、十斤ありました。商人は鉄を手に入れて、寺の門の中を出ようとしたところ、巡検の人に取り調べられて連れ戻されました。巡検の五人*が来て言いました。「最近、宰相が鉄の取り締まりを命じて、売買を禁じている。どうして勝手に売ったのか」と。貞順は答えました。「売買が禁じられているとは知りませんでした」と。そこで担当者と貞順は連名で文書を提出し、裁量を願い出ました。役所ではおとがめを免じてくれました。自分たちで、揚州管内では鉄の売買が許されていないと分かったのです。斎の後、宰相の役所の前にいた虞候という役人三人が、特にお墨付きを持って来ました。面会し、筆談で気持ちを伝え合いました。宰相は月の三日から、この寺の瑞像閣の上で、三尺の白檀の釈迦佛像を刻んで造っています。その瑞像飛閣は、隋の煬帝の時代に、栴檀の釈迦像四軀が西天から飛んできて閣の上に来たものです。そこで煬帝が自ら「瑞像飛閣」の四字を書いて、楼の前に掲げたのです。
(「持」は「特」の字の誤りであろう)
八日齋前。相公入寺裏來。禮佛之後。於堂前砌上。喚請益留學兩僧。相見問安隱([□@考]隱穩相通)否。前後左右。相隨步軍計二百來。虞候之人卌有餘。門頭騎馬軍八十疋計。竝皆著紫衣。更有相隨文官等。惣著水色。各騎馬忽不得記。相公看僧事畢。即於寺裏。蹲踞大椅上。被擔而去。又惣持捨百斛米。充寺修理䉼。
八日斎の前に、相公は寺の中へ入って来られました。礼仏の後、堂前の石段の上で、請益僧と留学僧の二人を呼び寄せて、お会いになって安隠かどうかをお尋ねになりました。前後左右に従う歩兵は二百人ほど、虞候の者は四十人余り、門のあたりの騎馬の軍は八十匹ほどで、皆すべて紫の衣を着ていました。さらに従う文官たちもいて、皆みな水色の衣を着て、それぞれ馬に乗っていましたが、急いでいてはっきりとは記せません。相公は僧の務めをご覧になった後、すぐに寺の中で、大いすにうずくまるように座り、担がれて去って行かれました。また、総持に百斛の米を施し、寺の修理の費用に充てられました。
十六日作啟謝相公到寺慰問。兼贈少物。水精念珠兩串。銀裝刀子六柄。班筆廿管。螺子三口。別作贈狀。相同入啟函裏。便付相公隨軍沈弁大夫交去。
十六日、お礼の手紙をしたためて相公に差し上げました。お寺までお見舞いに来てくださったお礼と、少しばかりの品々を添えたためです。水晶の数珠を二連、銀の飾りがついた小刀を六本、まだらの竹で作った筆を二十本、ほら貝を三つ。別にお贈り物のご挨拶状もしたため、お礼の手紙と同じ封筒に入れました。そのまま相公の随軍である沈弁大夫にお渡しして、届けていただくことにしました。
十七日巳時。沈弁歸來。陳相公傳語。以謝得啟。又唯留取大螺子不截尻一口。而截尻小螺子二口及餘([□@考]餘池木作念)珠刀筆付使退還。更差虞候人。贈來白絹二疋。白綾三疋。即作謝。付㢠使奉送。又大唐國今帝諱帛(即云名)先祖諱純(淳)。詔(誦)。括。譽(豫預)。隆基。恆。湛。淵。虎(戒)。世民。音同者盡諱([□@考]今帝文宗諱昂。今誤作帛。註即字恐卭誤。避昂字為卭。憲宗純避之為淳。順宗誦為詔。誦詔今誤倒置。德宗适為括。括上今脫适字。代宗豫。預豫共避之。為譽。亦誤倒置。玄宗隆基。穆宗恆。敬宗湛。高祖淵。太宗世民。虎戒未考)。此國諱諸字。於諸書狀中惣不著也。是西明寺僧宗叡法師之所示也。
十七日巳の刻、沈弁が帰ってきました。陳相公から伝言があり、お礼の手紙をいただいたとのことです。また、大きな螺子(ホラガイ)で尻を切っていないものを一口だけ残し、尻を切った小さな螺子二口と、その他の珠・刀・筆を使者に付けて返されました。さらに虞候の者を遣わして、白絹二疋と白綾三疋を贈ってきました。すぐに感謝の手紙を書き、㢠の使者に託してお送りしました。また、大唐国の今の皇帝の諱は帛、先祖の諱は純、詔、括、誉、隆基、恒、湛、淵、虎、世民で、音が同じものはすべて避諱します。この国の避諱する諸字は、あらゆる書状の中では一切使いません。これは西明寺の僧、宗叡法師が示されたことです。
十八日相公入來寺裏。禮閣上瑞像。及撿挍新作之像。少時隨軍大夫沈弁走來云。相公屈和尚。乍聞共使往登閣上。相公及監軍并州郎中郎官判官等。皆椅子上喫茶。見僧等來。皆起立。作手立禮。唱且坐。即俱坐椅子啜茶。相公一人隨來郎中以下判官以上惣八人。相公著紫。郎中及郎官三人著緋。判官四人著綠𧘶([□@考]枚恐衫字)。虞候及步騎軍并丈人等。與前不異。相公對僧等近坐。問。那國有寒否。留學僧答云。夏熱冬寒。相公噵共此間一般。相公問云。有僧寺否。答云多有。又問。有多少寺。答三千七百來寺。又問有尼寺否。答云多有。又問。有道士否。答云无道士。相公又問。那國京城方圓多少里數。答云。東西十五里。南北十五里。又問。有坐夏否。答有。相公今度時有語話慰懃問申情既畢。相揖下閣。更到觀音院。撿挍修法之事。
十八日、相公が寺に入って来ました。楼閣の上の瑞像を礼拝し、また新しく作った像を検査するためです。しばらくして、随軍大夫の沈弁が走って来て申しました。「相公が和尚をお呼びです」。その言葉を聞くとすぐに、使者と共に楼閣の上へ登りました。相公と監軍、それに州の郎中・郎官・判官たちは、みな椅子に掛けて茶を飲んでいましたが、僧たちが来るのを見ると、みな立ち上がって、手を合わせて礼をし、「どうぞお座りください」と言いました。そこで一同は椅子に座って茶を飲みました。相公が連れて来たのは郎中以下判官以上で全部で八人です。相公は紫の服を着て、郎中と郎官の三人は緋色の服を、判官の四人は緑の𧘶(枚、恐らくは衫の字)を着ていました。虞候や歩騎の軍、それに丈人たちは前と変わりません。相公は僧たちに向かい、近くに座って尋ねました。「あの国には寒さはありますか」。留學僧が答えて申しました。「夏は暑く、冬は寒いです」。相公は「この辺りと同じだ」と言いました。相公が尋ねました。「僧寺はありますか」。答えて申しました。「たくさんあります」。また尋ねました。「寺はいくつありますか」。答えて「三千七百ほどの寺があります」。また尋ねました。「尼寺はありますか」。答えて申しました。「たくさんあります」。また尋ねました。「道士はいますか」。答えて申しました。「道士はいません」。相公がまた尋ねました。「あの国の京城は方円どれほどの里数ですか」。答えて申しました。「東西十五里、南北十五里です」。また尋ねました。「坐夏はありますか」。答えて「あります」。相公はこの度、折に触れて言葉を交わし、ねんごろに労わり尋ねて気持ちを尽くし、それが終わると、互いに揖をして楼閣を下りました。さらに観音院へ行き、修法のことを検査しました。
十九日為充廿四日天台大師忌日設齋。以絹四疋。綾三疋。送於寺家。留學僧絹二疋。請益僧綾三疋絹二疋。具狀送寺家畢。具在別紙。賣買得六貫餘錢。
十九日には、二十四日の天台大師のご命日に備えて、斎(とき)を設けました。絹四反と綾三重を寺に送りました。留学僧には絹二反を、請益僧には綾三重と絹二反を贈りました。その詳細を記した書状を寺に送り終えました。詳しいことは別紙に記してあります。売買によって六貫余りの銭を得ました。
廿四日。堂頭設齋。眾僧六十有餘。幻羣法師作齋難久食儀式也([□@考]也東本削之)。眾僧共入堂裏。次第列坐。有人行水。施主僧等於堂前立。眾僧之中有一僧打槌。更有一僧作梵。梵頌云。云何於此經。究竟到彼岸。願佛開微密。廣為眾生說。音韻絕妙。作梵之間。有人分經。梵音之後。眾共念經各二枚許。即打槌轉經畢。次有一僧。唱敬禮常住三寶。眾僧皆下床而立。即先梵音師作梵。如來色無盡等一行文也。作梵之間。綱維令請益僧等。入裏行香。盡眾僧數矣。行香儀式。與本國一般。其作齋晉人之法師矣([□@考]矣恐先字)眾起立到佛左邊。向南而立行香畢。先歎佛。與本國呪願初歎佛之文不殊矣。歎佛之後。即披檀越先請設齋狀。次讀齋歎之文。讀齋文了。唱念釋迦牟尼佛。大眾同音稱佛名畢。次即唱禮。與本國噵為天龍八部諸善神王等頌一般。乍立唱禮。俱登床坐也。讀齋文僧并監寺綱維。及施主僧等十餘人。出食堂。至庫頭齋。自外僧沙彌咸食堂齋。亦於庫頭。別為南岳天台等和尚。備儲供養。眾僧齋時有庫司僧二人。弁備諸事。唐國之風。每設齋時飯食之外別留䉼錢。當齋將竟。隨錢多少。僧([□@考]僧恐依誤)眾僧數等分與僧。但贈作齋文人。別增錢數。若於眾僧各與卅文。作齋文者。與四百文。竝呼噵儭錢。計與本國噵布施一般。齋後同於一處嗽口。歸房。凡寺恆例。若有施主。擬明朝煑粥供僧時節([□@考]節字或衍)即暮時交人巡報明朝有粥。若有人設齋時晚際不告。但當日早朝交人巡告。堂頭有飯。若有人到寺。請轉經時。亦令人噵上堂念經。其揚府中。有卌餘寺。若此寺設齋時。屈彼寺僧次來令得齋儭。如斯輪轉。隨有齋事。編錄寺名。次第屈餘寺僧次。是乃定寺次第取其僧次。一寺既爾。餘寺亦然。互取寺次。互取僧次。隨齋饒乏屈僧不定。一寺一日設齋。計合有堂([□@考]堂恐當字)寺僧次比寺僧次。又有化俗法師。與本國噵飛教化師同也。說世間無常苦空之理。化導男弟子女弟子。呼噵化俗法師也。講經論律記疏等。名為座主和尚大德。若衲衣收心。呼為禪師。亦為道者。持律偏多名律大德。講為律座主。餘亦准爾也。自去十月來。霖雨數度。相公帖七箇寺。各令七僧念經乞晴。七日為期。及竟天晴。唐國之風。乞晴即閇路北頭。乞雨即閇路南頭。相傳云。乞晴閇北頭者。閇陰則陽通。宜天晴也([□@考]也池本無)。乞雨閇南頭者。閇陽則陰通。宜零雨也。
二十四日。堂頭が斎を設けました。僧は六十人あまりいました。幻羣法師が斎の儀式を行いました(この「也」は東本では削られています)。僧たちはともに堂の中に入り、順番に並んで座りました。水を配る人がいました。施主の僧たちは堂の前に立ちました。僧たちの中の一人が槌を打ち、また別の一人が梵を唱えました。梵頌にはこうあります。「どうしてこの経によって、究竟して彼岸に到ることができるのでしょうか。仏よ、微密の教えを開いて、広く衆生のために説いてください」と。その音韻は絶妙でした。梵を唱えている間に、経を配る人がいました。梵音の後、皆でともに経を二枚ほどずつ念じました。すぐに槌を打って経を転じ終えました。次に一人の僧が「敬礼常住三宝」と唱え、僧たちは皆床を下りて立ちました。すぐにまず梵音師が梵を唱えました。「如来の色は無尽なり」などの一行の文です。梵を唱えている間に、綱維が請益の僧たちに命じて、中に入って香を巡らせました。僧の全員が終えました。行香の儀式は、本國と一般と同じです。その斎を行ったのは晉の人の法師でした(この「矣」は恐らく「先」の字でしょう)。大衆が起立して佛の左邊に到り、南に向かって立ち、行香が終わりました。まず佛を讃歎しました。本國の呪願の初めに佛を讃歎する文と異なりません。讃佛の後、すぐに檀越が先に請うて設齋した状を披き、次に斎の讃歎の文を読みました。斎文を読み終えると、「釈迦牟尼佛」と唱え念じ、大衆は同じ音で佛名を称え終えました。次にすぐに禮を唱えました。本國で天龍八部諸善神王などのために唱える頌と一般と同じです。立ちながら禮を唱え、ともに床に登って座りました。斎文を読む僧と監寺の綱維、および施主の僧たち十數人が、食堂を出て庫頭の斎へ到りました。それ以外の僧や沙彌は皆食堂で斎を受けました。また庫頭において、別に南岳・天台などの和尚のために、供養を備え儲けました。僧が斎をする時、庫司の僧が二人いて、諸事を弁備しました。唐國の風では、斎を設けるたびに飯食のほかに別に䉼錢を留めます。斎がまさに終わろうとする時、錢の多少に隨って、僧の數に等しく分けて僧に與えます。ただし斎文を作った人には、別に錢の數を增します。もし僧たちにそれぞれ卅文を與えるなら、斎文を作る者には四百文を與えます。ともに呼んで儭錢と言います。本國で布施と言うのと同じに計えます。斎の後は同じく一處で嗽口し、房に歸りました。およそ寺の恆例として、もし施主があり、明朝に粥を煑て僧に供養しようとする時節には(「節」の字はあるいは衍字でしょう)、暮時の人に交えて明朝粥があると巡報させます。もし人が斎を設ける時、晚際に告げなければ、ただ當日の早朝に人に交えて巡告します。堂頭に飯があります。もし人が寺に到り、轉經を請う時も、また人に令して堂に上って經を念じさせます。その揚府の中には、四十あまりの寺があります。もしこの寺が斎を設ける時は、彼の寺の僧次を屈して來させて斎儭を得させます。このように輪轉し、斎事があるに隨って、寺名を編錄し、次第に餘の寺の僧次を屈します。これすなわち寺の次第を定めてその僧次を取ります。一寺が既にそうであれば、餘の寺もまた同様です。互いに寺次を取り、互いに僧次を取ります。斎の饒乏に隨って僧を屈するのは不定です。一寺が一日に斎を設けるには、堂寺の僧次と比寺の僧次を合わせ計るべきです。また化俗法師がいます。本國で飛教化師と言うのと同じです。世間の無常・苦・空の理を説き、男弟子・女弟子を化導します。呼んで化俗法師と言います。經・論・律・記・疏などを講ずるのを、座主和尚大德と名づけます。もし衲衣を著て心を收めるなら、禪師と呼び、また道者ともします。律を持することを特に多くする者は律大德と名づけます。講ずる者は律座主とします。餘もまたこれに準じます。去る十月以來、霖雨が數度ありました。相公が七箇寺に帖して、それぞれ七僧に經を念じさせて晴れを乞いました。七日を期としました。竟に及んで天は晴れました。唐國の風では、晴れを乞う時は路の北頭を閇ざします。雨を乞う時は路の南頭を閇ざします。相傳して言います。晴れを乞うて北頭を閇ざすのは、陰を閇ざれば陽が通じ、天の晴れるのに宜しいからです(この「也」は池本にありません)。雨を乞うて南頭を閇ざすのは、陽を閇ざれば陰が通じ、雨の降るのに宜しいからです。
廿六日夜。人咸不睡。與本國正月庚申之夜同也。
二十六日の夜、人々はみな眠りませんでした。それは本国の正月の庚申の夜と同じでした。
廿七日冬至之節。道俗各致禮賀。住([□@考]住池本作在)俗者拜官賀冬至節。見相公即噵。運推移日南長至。伏惟相公尊體萬福。貴賤官品并百姓。皆相見拜賀。出家者相見拜賀。口敘冬至之辭。互相禮拜。俗人入寺亦有是禮。眾僧對外國僧即噵。今日冬至節。和尚萬福。傳燈不絕。早歸本國長為國師(云云)。各相禮拜畢。便噵嚴寒。或僧來云。冬至和尚萬福。學光三學。早歸本鄉。常為國師(云云)。有多種語。此節惣竝與本國正月一日之節同也。俗家寺家各儲希饍。百味惣集。隨前人所樂。皆有賀節之辭。道俗同以三日為期。賀冬至節。此寺家亦設三日供。有種惣集。
二十七日は冬至の節です。僧も俗人もそれぞれ礼を尽くして賀を述べます。寺に住む者、俗世にいる者は官に拝して冬至の節を賀します。相公にお会いすると、こう申し上げます。「運が移り変わり、日は南に長じ至りました。伏して思いますに、相公の尊体は万福でいらっしゃいますように。貴賤の官品も並びに百姓も、皆が会って拝賀いたします。」出家者は会うと互いに拝賀し、口で冬至の辞を述べます。互いに礼拝し合います。俗人が寺に入っても、またこの礼があります。僧たちは外国の僧に対してこう言います。「今日は冬至の節です。和尚は万福でいらっしゃいますように。伝灯が絶えませんように。早く本の国に帰り、長く国師となられますように(云云)。」それぞれ礼拝を終えると、すぐに厳寒を述べます。あるいは僧が来てこう言います。「冬至に和尚は万福でいらっしゃいますように。三学を学び光らせ、早く本郷に帰り、常に国師となられますように(云云)。」多くの言葉があります。この節はすべて本の国の正月一日の節と同じです。俗家も寺家もそれぞれ珍しい饍を蓄え、百味がすべて集まります。前の人の好むところに従って、皆、賀節の辞があります。僧も俗人も同じく三日を期間として、冬至の節を賀します。この寺家でもまた三日の供を設けます。種々のものが総じて集まります。
廿八日零雪。
二十八日、雪は降りませんでした。
廿九日天晴。揚州有卌餘寺。就中過海來鑒真和上本住龍興寺影像現在。法進僧都。本住白塔。臣善者在此白塔寺。撰文選矣。惠雲法師。亦是白塔寺僧也。每州有開元寺。龍興寺。只是揚州龍興寺耳。申時長安講百論和尚可思來相見。又第一舶判官藤原朝臣貞敏。從先臥病辛苦。殊發心擬畫作妙見菩薩四天王像仍以此日。令大使傔人粟田家繼到此寺。定畫佛處。
二十九日、天気は晴れでした。揚州には四十余りの寺があります。その中でも、海を渡って来られた鑑真和上の本来の住まいであった龍興寺には、その影像が今も残っています。法進僧都は、もともと白塔にお住まいでした。臣の善は、この白塔寺におり、文選を撰しました。恵雲法師も、同じく白塔寺の僧です。どの州にも開元寺と龍興寺がありますが、ただ揚州の龍興寺だけがここにあります。申の刻に、長安から百論の講師である和尚の可思が来て、互いに会いました。また、第一船の判官である藤原朝臣貞敏は、以前から病に臥せって苦しんでいましたが、特に発心して妙見菩薩と四天王の像を絵に描こうとし、この日のために大使の従者である粟田家継をこの寺に遣わしました。仏画を描く場所を定めるためです。
卅日早朝於迦毘羅神堂裏。始畫妙見菩薩四天王像。
三十日の早朝、迦毘羅の神堂の中で、妙見菩薩と四天王の像を描き始めました。