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釈迦譜 (釋迦譜)

「釋迦譜」について

梁 · 僧祐撰 著

11.6 万字 · 約 388 分

僧祐法師が南朝梁代に著した『釈迦譜』は、中国仏教史上において、初めて体系的に釈迦牟尼の生涯と僧団の由来を記述した伝記類の経典である。本書は仏教の経典や律典の中から仏陀に関する記述を幅広く採録し、編纂を施しており、その内容は仏陀の誕生、成道、説法、衆生の救済から涅槃に至るまでの全過程を網羅している。初期仏教の聖伝文献を集大成した作品として、仏陀の生涯と仏教史を研究する上での権威ある資料を提供するだけでなく、中国における仏陀伝記著述の規範を確立し、後世の仏教伝記文学と信仰実践に深遠な影響を与えた。


釋迦始祖劫初剎利相承姓譜第一(出長阿含經)

第一章 釈迦牟尼種族系譜(『長阿含経』より)

劫初天地欲成。大水彌滿。風吹結搆。以成世界。此世欲成。光音天上福行命盡來生為人。皆悉化生歡喜為食。身光自在神足飛行。無有男女尊卑。眾共生世故名曰眾生。有自然地味。猶如醍醐。色如生酥味甜如蜜。其後眾生以手試甞。遂生味著漸成揣食。光明轉滅無復神通。食地味多者。顏色麁顇。其食少者。顏色光澤。遂生勝負。因勝負故。便相是非。地味消歇。咸皆懊惱。咄哉為禍。無復地味。又生地皮。狀如薄餅。色味香美。後復食之。轉相輕慢地皮又滅。又生地膚。因食多少生諸惡法。地膚復滅。增一阿含經云。自然地肥味如甜婆桃酒。樓炭經云。地肥不生。更生兩枝葡萄其味亦甘。久久食多共相形笑。兩枝葡萄不生。更生粳米。

天地が作られようとする初期の世には、大洪水が満ちていた。風が吹き寄せて構造を作り、世界が成った。この世界が成ろうとする時、光音天にいた福徳ある者たちは、その行いの寿命が尽きて人間として生まれた。皆、化生であり、喜びを食べ、自ら光を放ち自在であり、神通力と飛ぶ力を持っていた。男女や上下の区別はなく、共に世に生まれたので「衆生」と呼ばれた。

地表には自然の美味が現れ、酥(醍醐)のようで、色は生の酥のよう、甘さは蜜のようだった。その後、衆生は手でそれを試しに嘗め、次第に味に執着して固形の食物とするようになった。光は次第に消えて神通力も失われ、地味を多く食べた者は顔色が粗くなり、少なく食べた者は顔色が艶やかだったので、優劣の心が生じた。この優劣によって、互いに是非を言い争うようになった。地味が尽きると皆が悔しがり「ああ、これは災いだ。もう地味はないのか」と言った。

すると地表から地皮(うすい皮のようなもの)が生じ、形は薄い餅のようで、色も味も香ばしかった。それを再び食べるようになると、互いに軽んじ合う心が生まれ、地皮もまた消えた。次に地膚(地表の薄い皮のようなもの)が生じ、食べる量の多少から様々な悪法が生じ、地膚もまた消えた。

増一阿含経にはこうある。「自然の地肥の味は、甘い婆桃酒のようであった。」楼炭経にはこうある。「地肥が生じなくなると、さらに二つの枝の葡萄(果実)が生じ、その味もまた甘かった。長く多く食べると、互いに笑い合うようになり、二つの枝の葡萄も生じなくなった。そして粳米が生じた。」

後有自然粳米。無有糠糩。不加調和。備眾美味。眾生食之生男女形。

後に、自然に生える粳米(うるちまい)が現れた。そこには糠や籾殻は一切なく、調理しなくても豊かな味わいが備わっていた。人々がそれを食べると、男女の形体が現れるようになった。

增一阿含經云。時天子欲情意。多者便成女人。遂行情欲共相娛樂。互相瞻視遂生欲想。共在屏處為不淨行。餘眾生見咄哉非法。云何眾生有如是事。男子見他呵責。即自悔過自身投地。其彼女人即送食與之。扶之令起。因此世間便有不善夫主之名。以送飯與夫名之為妻。其後眾生遂為婬妷。為自障蔽遂造屋舍。以此因緣世中立家。其後眾生婬妷轉增。遂夫妻共住。其餘眾生壽福行盡。從光音天來生此間。在母胎中。因此世間有處胎生。

増一阿含経にこう説かれています。そのとき、天子に欲の心が多くなると、その者は女となりました。やがて欲の行をなして互いに楽しみ合い、互いに見つめ合って欲の思いを生じました。ともに人目につかない所で不浄の行をなすと、他の衆生たちはこれを見て「ああ、なんと非法なことか。どうして衆生がこのようなことをするのか」と非難しました。男は他人に叱責されるのを見て、すぐに自ら悔い改めて身を地に投げました。その女は食べ物を送って男に与え、これを扶けて起き上がらせました。このことから世間に不善なる夫主という名が生まれ、飯を送って夫に与えたことからこれを妻と名づけました。その後、衆生は次第に淫欲を行い、自らを覆い隠すために家屋を造りました。この因縁によって世間に家が立てられました。その後、衆生の淫欲はますます増し、ついに夫婦がともに住むようになりました。その他の衆生は寿命と福と行が尽きて、光音天からこの世に生まれました。母の胎内に宿るため、この世に胎生というものがあるのです。

樓炭經云。後稍有所著。便持童女與夫。歌舞戲笑稱願為夫婦當使安隱。爾時先造瞻婆城。乃至一切城郭。自然粳米朝刈暮熟。暮刈朝熟。刈後隨生(中阿含云長四寸)未有莖幹。時有眾生併取日糧。如是相教乃至併取五日。粳米漸生糠糩。刈已不生有枯株。

『楼炭経』にはこう説かれている。

その後、次第に執着する心が生じ、童女を夫に与え、歌や舞、笑い遊びをもって「夫婦となって、安らかに暮らせますように」と願うようになった。その頃、最初に瞻婆城が造られ、さらに次第にすべての城郭が作られた。自然に生じる粳米は、朝に刈れば夕方に熟し、夕方に刈れば朝に熟し、刈った後には再び生えてきた(『中阿含経』には「長さ四寸」とある)。まだ茎や幹はなかった。

その時、ある衆生が一日分の食料をまとめて取るようになり、互いに教え合って、ついには五日分をもまとめて取るようになった。すると粳米に次第に糠や殻が生じ、刈り取った後には再び生えず、枯れ株だけが残るようになった。

樓炭經云。後有嬾人。取四五日糧。所刈有處粳米便不復生。祐以為機心。一動則物離其真。精靈所感速於風電。嘗聞兩漢之時。東菜加租而海魚不出。合浦貪珠而璣蜯遠移。以近代方古。若合符契。粳米不生未足異也。

『樓炭経』にはこうある。後に怠け者が現れ、四五日分の食料を一度に取ったため、刈り取った場所では粳米が二度と生えなくなったという。祐は思うに、巧みな心がひとたび動けば、万物はその本来の姿を失う。精霊の感じることは風や電光よりも速い。かつて聞いた話では、前漢・後漢の時代、東菜で租税を重くしたところ海の魚が現れなくなり、合浦で真珠を貪ったために真珠貝が遠くへ去ったという。現代と古代を比べてみれば、それは符節を合わせるように見事に一致する。粳米が生えなくなったのも、何ら不思議なことではない。

爾時眾生懊惱悲泣。各封田宅以分疆畔。其後眾生自藏己米。盜他田穀。無能決者。議立一平等主。善護人民。賞善罰惡。各共減割以供給之。時彼眾中有一人。形質長大容貌端正。甚有威德請以為主。於是始有民主之名。曇無德律云。古昔有王。最初出世名大人。眾之所舉。樓炭經云。時彼眾中有一人。最尊端正威神巍巍。眾人便白當為我典主。作君長。號之曰王。以法取租。是故名為剎利。時閻浮利天下富樂熾盛安隱。生青草色如孔雀尾。有八萬郡國。人民聚落雞鳴相聞。天下無病無大熱大寒。大王以法治國。奉行十善哀念人民。如父母愛子。人民敬王如子敬父。人壽大久。後有他王。不如先王。壽遂減。至壽十萬歲。稍減至萬歲。至今裁壽百歲。

その時、人々は悲しみ嘆き、それぞれ田畑や家屋を区切って境界を定めた。その後、人々は自分の米を隠し、他人の田の穀物を盗むようになった。これを裁く者がないため、人々は話し合って一人の公平な主を立て、人民をよく守り、善を褒めて悪を罰するようにした。各自が少しずつ収穫を差し出して、その主を支えた。その中に、一人の者がいた。体は大きく、顔立ちは整い、威厳と徳を備えていた。そこで皆は彼を主と願い出た。これが「民主」の名の始まりである。

『曇無徳律』にはこうある。「昔々、最初に世に出た王がいた。名を『大人』といい、民衆によって推挙された。」『楼炭経』にはこうある。「その時、その集まりの中に一人の者がいた。最も尊く、端正で、威光が輝いていた。人々は言った。『どうか我らの主となり、君長となってください。』そして彼を王と呼び、法に従って租税を取った。これが刹利(王族)の名の由来である。」

その時、閻浮提(人間界)は豊かで繁栄し、安穏であった。青草は孔雀の尾のような色をしていた。八万の国々があり、人々の集落は鶏の鳴き声が互いに聞こえるほど近かった。世の中に病はなく、極端な暑さも寒さもなかった。大王は法をもって国を治め、十善を実践し、人民を慈しむこと、父母が子を愛するようであった。人民は王を敬うこと、子が父を敬うようであった。人々の寿命は非常に長かった。

その後、他の王が現れたが、先王ほどの徳はなかった。寿命は次第に減り、十万歳になった。さらに減って一万歳になり、今ではわずか百歳ほどである。

初民主有子名珍寶(曇無德律名善王樓炭經云大王有子名真王)。

昔、ある国の王様に、珍宝という名の息子がいました。

珍寶有子名好味(律云名樓夷王樓炭經闕此王名)。

珍宝という王には、好味という名の王子がいました。

好味有子名靜衰(律名齊王樓炭云真王有子名齊王)。

経典に、静衰という名の王子がおりました(『律』では「斉王」、『楼炭経』では「真王に斉王という名の子がいた」とされています。)。

靜衰有子名頂生(律同名頂生王樓炭云齊王有子名頂生王)。

静かに衰える者に頂生という名の子がいた(律にも同名の頂生王が登場し、楼炭経には斉王の子に頂生王がいたと記されている。)。

頂生有子名善行(律名遮羅王樓炭云頂生王有子名遮留)。

頂生王には、善行という名の王子がいた。

善行有子名宅行(律名跋遮羅王樓炭云遮留有子名和行)。

善行には子がおり、名前を宅行と言います(律では跋遮羅王、楼炭では遮留といい、その子の名前を和行と言います)。

宅行有子名妙味(律名微王樓炭無此王名)。

在家に子供がいて、名を妙味という(律名微王樓炭無此王名)。

妙味有子名味帝(律名微驎陀羅王樓炭無)。

妙味には子がおり、名を味帝という(律名は微驎陀羅、王樓炭無。)

味帝有子名外仙(律名鞞醯梨䮇王樓炭無)。

帝に子がいて、その名を外仙といいました(律では鞞醯梨䮇王楼炭無と呼ばれています)。

外仙有子名百智(律名舍迦陀王樓炭無)。

外仙人に百智という子がいました。(律名は舎迦陀王楼炭無とします。)

百智有子名嗜欲(律名樓脂王樓炭云和行王有子名留至)。

百智には子がいて、その名を嗜欲(しよく)と言いました。(律には「樓脂王」、『樓炭経』には「和行王に子あり、名を留至という」とある。)

嗜欲有子名善欲(律名修樓王樓炭云留至有子名曰王)。

欲望には「善欲」という子がいる。

善欲有子名斷結(律名波羅那王樓炭云曰王有子名波那)。

善欲王に、断結という名の王子がいました(律では波羅那王、『楼炭』では王に波那という子がいたとされています)。

斷結有子名大斷結(律名摩呵婆那王樓炭云波那有子名大波那)。

断結という者に子があり、その名を大断結という。(律には摩呵婆那と記され、楼炭経には波那とあり、その子を大波那という。)

大斷結有子名寶藏(律名貴舍王樓炭云大波那王有子名沙竭)。

大いなる断結の王に、宝蔵という名の王子がおりました。 (律では「貴舎王」、『楼炭経』では「大波那王に沙竭という名の子がいた」と記されています。)

寶藏有子名大寶藏(律名摩訶舍王樓炭無)。

宝蔵の者に、大宝蔵という名の子がいました。

大寶藏有子名善見(律同名善見王樓炭無)。

大いなる宝蔵には「善見」という名の子がいた。

善見有子名大善見(律名大善見王樓炭云沙竭王有子名大善見)。

大善見という者に、大善見という名の子がおりました。

大善見有子名無憂(律同名無憂王樓炭無)。

大善見には、無憂という名の息子がいた。

無憂有子名洲渚(律名光明王樓炭云大善見有子名提炎)。

無憂には洲渚という名の子供がいた(律(『四分律』)では光明王(大善見王)とされ、『楼炭経(『起世経』)』では大善見王に提炎という子供がいるとされる)。

洲渚有子名殖生(律名梨那王樓炭云提炎王有子名染)。

洲崎に、殖生(しょくしょう)という名の子がいた(律では梨那王、楼炭では提炎王に染という名の子がいたとされる)。

殖生有子名山岳(律名彌羅王樓炭云染王有子名迷留)。

山岳という子が生まれました(律には彌羅王、楼炭経には染王に迷留という子がいたと記されています)。

山岳有子名神天(律名末羅王樓炭云迷留王有子名摩留)。

山に神天という名の子がいました(律には末羅王、楼炭経には迷留王の子で摩留という名だと記されている)。

神天有子名進力(律名精進力樓炭云摩留王有子名精進力)。

神天に進力という名の子がいた(律では「精進力」と言い、楼炭経では「摩留王に精進力という名の子がいた」とある)。

進力有子名牢車(律名牢車王樓炭云精進力王有子名堅賤)。

進力に息子がいて、その名を牢車といいました。(律には牢車王と記され、『楼炭経』では精進力王の子の名を堅賤としている。)

牢車有子名十車(律名十車王樓炭云堅賤有子名十車)。

牢獄の車という名の者に、十車という名の子がいた(律には「十車王」、楼炭経には「堅賤という者に十車という子がいた」とある。)。

十車有子名百車(律名百車王樓炭云十車有子名舍羅)。

十車という王には、百車という名の王子がいました。

百車有子名牢弓(律名堅弓王樓炭無)。

百輛の馬車の持ち主には、牢弓(ろうきゅう)という息子がいました。(律では堅弓(けんきゅう)という名前、王楼炭(おうろうたん)にはこの記述はない。)

牢弓有子名十弓(律同名十弓王樓炭云舍羅王有子名十才)。

牢弓には十弓という名の子がいた。

十弓有子名百弓(律同名百弓王樓炭云十才王有子名百才)。

十弓という者に、百弓という名の子がいた。

百弓有子名養枝(律名能師王樓炭云百才王有子名耶和檀)。

百弓には子がいて、その名を養枝という。(律名能師王樓炭云百才王有子名耶和檀)

養枝有子名善思(律名真闍王樓炭云耶和檀王有子名真闍)。

ある枝に、善思という名の王子がいました。

從善思以來有十族轉輪聖王相續不絕(律云從真闍王以來有十轉輪聖王種族。樓炭經云。真闍王有子名波延。後諸王甚眾多。轉輪王有十種)一名箭(律云一名伽㝹支。樓炭經云一者姓迦奴車)伽㝹遮王。有五轉輪聖王(律云伽㝹支次第相承五王。樓炭數同)。二名多羅業(律云二名多樓毘帝樓炭云二者姓多盧提)多羅業王有五轉輪聖王(律云多樓毘帝次第五王。樓炭數同)。三名馬(律云三名阿濕卑樓炭云三者阿波)阿葉摩王有七轉輪聖王(律云阿濕卑七王。樓炭數同)。四名持地(律云四名乾陀羅樓炭云四者揵陀利)持地王有七轉輪聖王(律云乾陀羅七王樓炭數同)。五名伎術(律云伽陵迦樓炭云五者迦陵)迦陵伽王有九轉輪聖王(律云迦陵伽九王樓炭數同)。六名瞻婆(律云六名瞻鞞樓炭云六者遮波)瞻婆王有十四轉輪聖王(律云瞻鞞十四王樓炭數同)。七名拘羅婆(律同云七名拘羅婆。樓炭云七者拘獵)。拘羅婆王有三十一轉輪聖王(律云拘羅婆三十一王樓炭數同)。八名般闍羅(律同云八名般羅。樓炭云八者般闍)般闍羅王有三十二轉輪聖王(律云般闍羅三十二王。樓炭云有三十)。九名彌私羅(律云九名彌悉梨樓炭云九者彌尸梨)彌私羅王有八萬四千轉輪聖王(律云彌悉梨次第八萬四千王樓炭數同)。十名鼓摩(律云十名懿師摩樓炭云十者摩彌)鼓摩王有百轉輪聖王(律云懿師摩次第百王樓炭云有一百)。最後有王名大善生(律云從懿師摩後有王名大善生樓炭云然後有王名大善生)。從懿摩王有子名烏婆羅(律云大善生王子名懿師摩樓炭云人呼為伊摩)。烏婆羅有子名淚婆羅(律云懿師摩王有子名優羅他樓炭云伊摩王有子摩烏獵)。淚婆羅有子名尼求羅(律云優羅他有子名瞿羅樓炭無)。尼求羅有子名師子頰(律云瞿羅有子名尼浮羅樓炭云烏獵有子字泥不生)。師子頰有子名淨飯王(律云尼浮羅有子名師子頰。樓炭云泥不生有子名師子)淨飯王有子名菩薩(律云。師子頰有子名悅頭檀樓炭云師子有子名悅頭檀)菩薩有子名羅睺羅(律云悅頭檀有子名菩薩樓炭云悅頭檀有子名私達菩薩私達菩薩有子名羅云)。

善思より以来、十の一族の転輪聖王が途切れることなく続きました。 第一の王は箭(伽㝹遮ともいう)で、五人の転輪聖王がいました。 第二の王は多羅業(多楼毘帝とも、多盧提ともいう)で、五人の転輪聖王がいました。 第三の王は馬(阿湿卑とも、阿波ともいう)で、七人の転輪聖王がいました。 第四の王は持地(乾陀羅とも、揵陀利ともいう)で、七人の転輪聖王がいました。 第五の王は伎術(伽陵迦とも、迦陵ともいう)で、九人の転輪聖王がいました。 第六の王は瞻婆(瞻鞞とも、遮波ともいう)で、十四人の転輪聖王がいました。 第七の王は拘羅婆(同じく拘羅婆、拘獵ともいう)で、三十一人の転輪聖王がいました。 第八の王は般闍羅(同じく般羅、般闍ともいう)で、三十二人の転輪聖王がいました。 第九の王は彌私羅(彌悉梨とも、彌尸梨ともいう)で、八万四千人の転輪聖王がいました。 第十の王は鼓摩(懿師摩とも、摩彌ともいう)で、百人の転輪聖王がいました。 最後に大善生という王が現れました。 懿摩王には烏婆羅という子がいました。 烏婆羅には淚婆羅という子がいました。 淚婆羅には尼求羅という子がいました。 尼求羅には師子頰という子がいました。 師子頰には淨飯王という子がいました。 淨飯王には菩薩という子がいました。 菩薩には羅睺羅という子がいました。

由此本緣名剎利種(樓炭云以是因緣從昔至今。起剎利種。中阿含經云。地主者謂剎利)。

このような因縁によって、(『楼炭経』には「この因縁によって、昔から現在に至るまで、刹利(シャトリ)の種族が生まれた」とある。『中阿含経』には「地主とは、刹利のことである」と説かれている。)刹利(シャトリ)の種族と呼ばれるようになりました。

祐案。劫初草昧。肇建皇極。發源民主。迄于善思。父子繼業三十三王。自善思以後云有十族轉輪王。第一伽㝹至第十懿摩。或是兄弟支胤。聖賢遞興。容可異族別起。應天受命。長源遙緒。難以意量也。總其世數。凡八萬四千二百一十聖王。仰尋白淨所承。出自懿摩。轉輪相纂。億葉重輝。所以釋迦權應。示現降生。託跡既顯。苗裔遂彰。然經舉大數。似亦未周。昔犧農軒曎猶莫詳厥歲。況飛行聖帝壽踰大椿。其年世邈絕。豈凡識所揆哉。

おそらく、世界の始まりは混沌とした時代でした。そこから初めて人々の規範が打ち立てられ、民主的な統治の源が生まれました。そして善思王に至るまで、父子で王位を継承し、33人の王が続きました。善思王の後には、十の一族からなる転輪聖王がいたと言われています。第一の伽㝹王から第十の懿摩王に至るまで、ある者は兄弟であり、またその子孫でした。聖賢たちが次々と興り、あるいは別の一族が新たに起こることもあったのでしょう。彼らは天の命を受けて即位し、その長い系譜は遥かな昔から続いており、凡人の想像で推し量ることはできません。彼らの世代の総数を数えると、実に8万4千2百10人の聖なる王がいました。

白浄王の先祖を遡ると、懿摩王から出ていることがわかります。転輪聖王の位は連綿と受け継がれ、億もの葉が幾重にも輝くように、その栄光は絶えることがありませんでした。そのため、釈尊が権現としてこの世に姿を現し、誕生されたのです。その因縁は明らかとなり、子孫もまた広く知られるようになりました。しかし経典に記された大まかな数字は、完全ではないように思われます。昔、伏羲、神農、黄帝、少昊の時代でさえ、年数を詳しく知ることはできません。ましてや、空中を飛び、寿命が大椿の木よりも長いという聖なる帝王たちの時代の遥か彼方の年数を、凡人の知識で推し量ることなどできましょうか。


釋迦譜序
2 釋迦賢劫初姓瞿曇緣譜

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