釋迦賢劫初姓瞿曇緣譜第二(出十二遊經)
釈迦・賢劫初・瞿曇姓の由来の伝承 第二(出十二遊經)
昔阿僧祇劫時。有菩薩為國王。其父母早喪。讓國與弟。捨行求道。遙見一婆羅門。姓曰瞿曇因從學道。婆羅門言。當解王衣。如吾所服。受瞿曇姓。於是菩薩。體瞿曇姓入於深山食果飲水。坐禪念道。菩薩乞食還其國界。舉國吏民無能識者。謂為小瞿曇菩薩。於城外甘蔗園中。以為精舍。
遠い昔、無数の劫(こう)の昔のこと。ある菩薩が王様でした。その王様は幼い頃に父母を亡くし、国を弟に譲って、出家して道を求めに行きました。遠くに一人のバラモン(修行者)を見かけ、その人は瞿曇(ぐどん)という姓でした。そこで彼に従って教えを受けました。バラモンは言いました。「王の衣を脱ぎ、私が着ているような衣服を身に着けなさい。そして、瞿曇の姓を受けなさい。」こうして菩薩は瞿曇の姓を受け、深い山の中に入りました。果物を食べ、水を飲み、座って瞑想し、道を念じました。やがて菩薩は托鉢(たくはつ)のために、自分の国へと戻ってきました。国の役人も民も、誰一人として彼と気づきませんでした。人々は彼を「小瞿曇(しょうぐどん)の菩薩」と呼びました。菩薩は町の外にある甘蔗園(さとうきびばたけ)の中に、修行のための場所を作りました。
佛所行讚經云。甘蔗之苗裔。釋迦無勝王淨財德純備。故名曰淨飯。案淨飯遠祖乃是瞿曇之後身。以其前世居甘蔗園。故經稱甘蔗之苗裔也。
仏所行讃経にこう説かれている。「甘蔗の苗裔、釈迦無勝王、浄財徳純備、故に名づけて浄飯という」。調べてみると、浄飯の遠い祖先は瞿曇の後身であり、その前世が甘蔗園に住んでいたことから、経典では「甘蔗の苗裔」と称されているのである。
於中獨坐時。五百大賊劫取官物。路由菩薩廬邊。明日捕賊蹤跡在菩薩舍下。因收菩薩前後劫盜法。以木貫身。立為大標。血流於地。是大瞿曇以天眼見之。便以神足飛來問曰。子有何罪酷乃爾乎。卿無子當何係嗣。菩薩答言。命在須臾何陳子孫。王使左右弩射殺之。大瞿曇悲哀涕泣下棺殮之。取土中餘血以泥團之。持著山中還其精舍。左血著左器中。其右亦然。大瞿曇言。是道士若其至誠。天神當使血化為人。却後十月左即成男。右即成女。於是便姓瞿曇氏。一名舍夷(舍夷。外國貴姓之號也)。仁賢劫來始為寶如來釋迦越。
その時、その者は独り座していた。そこへ五百人の大盗賊が役所の品を奪い、菩薩の草庵のそばを通り過ぎた。翌日、盗賊の痕跡を追うと、それが菩薩の庵の傍らにあった。そこで役人は、過去の盗みの法に従って菩薩を捕らえ、木を体に貫き、高い柱に立てた。血は地に流れた。
大瞿曇(だいくどん)は天眼でこれを見ると、神通力によって飛んできて尋ねた。「汝に何の罪があって、このような酷い目に遭うのか。お前に子がいなければ、誰が血筋を継ぐのか。」菩薩は答えた。「命はあとわずかです。子孫のことを言っている場合ではありません。」
王は左右に命じて弓で射殺させた。大瞿曇は悲しみ嘆き、涙を流して棺に納めて葬った。そして土の中の残った血を取って泥団子にし、山の中にある自分の精舎に持って帰った。左の血は左の器に、右の血も同様に右の器に入れた。
大瞿曇は言った。「この道士がまことの誠実さを持つならば、天神がこの血を人に変えるであろう。」すると、十月後に左は男の子に、右は女の子になった。こうして瞿曇(ごーたま)氏が生まれた。別名を舎夷(しゃい)という(舎夷というのは外国の高貴な姓の呼び名である。)。
仁賢劫(にんげんごう)の初めから、宝如来(ほうにょらい)・釈迦越(しゃかおち)が始まったのである。
案小瞿曇血化。為人乃宿世之事也。至賢劫中當寶如來出世時。瞿曇神識始生此世界為王耳。釋迦越此王號也。竊謂寶如來即是賢劫七佛之一名。但譯胡為寶。故與七佛名異耳。壽五百萬歲。
あるいは、釈迦牟尼(しゃかむに)は血の変化から生まれた人間であるという説があるが、それは過去世の出来事に過ぎない。賢劫(けんごう)の時代に宝如来(ほうにょらい)がこの世に現れた時、瞿曇(くどん)の意識は初めてこの世界に生まれ、王となったのである。釈迦越(しゃかおつ)とはこの王の称号である。考えてみれば、宝如来とは賢劫の七仏(しちぶつ)のうちの一仏の名前にあたる。ただ、胡語(こご)を「宝」と訳したために、七仏の名前とは異なるものとなったのである。その王の寿命は五百万歳であった。
長阿含云。拘樓孫佛時人壽四萬歲。拘那含佛時。人壽三萬歲。迦葉佛時。人壽二萬歲。今稱釋迦越王壽五百萬歲。設使在拘樓孫世。比於民壽則過百倍也。准例而求如似為殊。然一切業報。未易思議也。至釋迦文佛出世。閻浮提人壽百歲。唯欝單曰壽千歲耳。
『長阿含経』にはこうある。拘楼孫仏(くろそんぶつ)の時代、人間の寿命は四万歳であった。拘那含仏(くなごんぶつ)の時代には、人間の寿命は三万歳。迦葉仏(かしょうぶつ)の時代には、人間の寿命は二万歳であった。そして今、釈迦越王(しゃかにょおう)の寿命は五百万歳と伝えられている。もし彼が拘楼孫仏の時代にいたなら、その寿命は一般の人々の百倍にもなるだろう。この例から類推すれば、その違いは非常に大きいように思える。しかし、すべての業報(ごうほう)は、容易に推し量ることのできるものではない。釈迦文仏(しゃくもんぶつ)がこの世に現れた時、閻浮提(えんぶだい)の人間の寿命は百歳であった。ただ、鬱単曰(うたんこつ)だけは寿命が千歳であった。
自下二十五王。其壽二三百萬歲。文陀竭王壽百萬歲。頂生王遮迦越左脾右脾王。皆壽十萬歲。從歡喜王。皆壽八萬四千歲。從惡念遮迦越。殺一牛祠祀。害命失金輪。得銀輪主三天下。壽萬歲。堅念王作鎧。壽五千歲。得銅輪主二天下。主西南。喜殺王壽二千五百歲。得鐵輪王主南天下。其王有太子行五百歲得惡殺一減壽千歲。古人有九病寒熱飢渴生老病死。婆羅門殺生祠祀。從是生四百四病。從師子念王人壽轉減。壽百二十歲。從師子念王後。師子意王有八十四王。人壽轉減。或壽八十七十五十三十二十十歲者。於後師子合車王(師子合車王即師子頰王也)子名白淨。是菩薩父。計菩薩身終始并前後。八萬四千遮迦越王。
以下のように25人の王がいる。彼らの寿命は200万歳から300万歳である。文陀竭王の寿命は100万歳、頂生王、遮迦越左脾右脾王は皆10万歳であった。歓喜王以降は、皆8万4千歳である。悪念遮迦越からは、牛を1頭殺して祭祀を行い、命を奪ったために金の輪を失い、銀の輪を得て三つの天下を統治した。寿命は1万歳である。堅念王は鎧を作り、寿命は5千歳、銅の輪を得て二つの天下を治め、西南を統治した。喜殺王の寿命は2千5百歳、鉄の輪を得て南の天下を治めた。その王には太子がおり、500歳の時に悪を犯して殺し、寿命が千歳減った。昔の人には九つの病があった。寒さ、暑さ、飢え、渇き、生、老、病、死である。バラモンが生け贄を捧げて祭祀を行ったことから、四百四の病が生まれた。師子念王以降、人の寿命は減り始め、120歳となった。師子念王の後、師子意王には84人の王がおり、人の寿命はさらに減り、あるいは87、50、30、20、10歳となった。その後、師子合車王(師子合車王は師子頰王のことである)の子、名を白浄という。この方が菩薩の父である。菩薩の身における始まりと終わり、および前後を数えると、8万4千人の遮迦越王がいた。
遮迦越齊言飛行皇帝。即轉輪王也長阿含及曇無德律。序轉輪世數甚明。已顯於前。此記抄撮難尋。若依全經。宜以阿含為正。大瞿曇氏純淑之姓。大方便經云。白淨劫初以來。嫡嫡相承作轉輪王。近來三世不作轉輪。而作閻浮提王。
遮迦越とは、飛行する皇帝という意味で、すなわち転輪聖王のことである。『長阿含経』や『曇無徳律』には、転輪聖王の出現する時代の順序が非常に明快に説かれている。それはすでに前に示した通りである。この記録は抄録であり、元の経典を参照するのが難しい。もし完全な経典に拠るならば、『阿含経』を正しい基準とすべきである。大瞿曇氏は純粋で清らかな姓である。『大方便経』にはこうある。「白浄王は世界の初めから、正統な血筋を代々受け継いで転輪聖王となった。しかし近世の三代は転輪聖王とならず、閻浮提の王となったのである。」
祐觀。十二遊經。不稱我聞。復無佛言。蓋是羅漢注記之說也。尋瞿曇氏族。乃緣起宿世。越至賢劫。還即本姓業因。深遠不可思議也。其所述轉輪。略而不同世數之緒。難得推挍。然瞿曇姓源。頗為詳悉。故撰之云。
祐観よ。『十二遊経』には「我聞」という言葉はなく、「仏がこう言われた」とも記されていない。これは阿羅漢による注記された説明の書である。調べてみると、瞿曇(ゴータマ)の氏族は前世の因縁に起因し、賢劫に至って元の姓に戻るという業の因縁は、深遠で想像を絶するものである。その中で説かれる転輪王についても、簡略で世数の流れと異なるため、比較検討は難しい。しかし、瞿曇の姓の起源については、かなり詳細に述べられているので、ここにそれを編集した次第である。