僧伽羅剎所集經卷上并序
僧伽羅剎所集経 巻上 并序
符秦罽賓三藏僧伽跋澄等譯
符秦・罽賓の三蔵僧伽跋澄ら訳
僧伽羅剎者,須賴國人也。佛去世後七百年生此國,出家學道,遊教諸邦,至揵陀越土,甄陀罽膩王師焉。高明絕世,多所述作,此土《修行》、《大道地經》其所集也。又著此經憲章,世尊自始成道迄于淪虛,行無巨細,必因事而演,遊化夏坐莫不曲備。雖《普曜》、《本行》、《度世》諸經載佛起居至謂為密,今覽斯經,所悟復多矣。
僧伽羅刹は、須頼国の人である。仏が亡くなられて七百年後にこの国に生まれ、出家して道を学び、諸国を巡って教えを広め、揵陀越の地に至り、甄陀罽膩王の師となった。その徳は高く、世に並ぶ者なく、多くの著作を残した。この国で伝わる『修行経』『大道地経』は彼が編纂したものである。またこの経の規範を著し、世尊が成道を果たされてから涅槃に入られるまでの、大小を問わずすべての行いを、必ず事象に基づいて説き、遊行教化や雨安居の様子までも細やかに記している。『普曜経』『本行経』『度世経』などの諸経典にも仏の日常は記されているが、極めて簡略である。今この経を読むと、さらに多くのことを悟ることができる。
傳其將終,「我若立根得力大士誠不虛者,立斯樹下,手援其葉而棄此身,使那羅延力大象之勢,無能移余如毛髮也。正使就耶維者,當不燋此葉。」言然之後便即立終。罽膩王自臨而不能動,遂以巨絙象挽未始能搖,即就耶維,炎葉不傷。尋昇兜術,與彌勒大士高談彼宮,將補佛處賢劫第八。
彼が臨終の時に伝えられるところによれば、「もし私が修行の根をしっかりと立て、大士としての誠実さが偽りでないならば、この木の下に立ち、手に葉を取ってこの身を捨てよう。たとえ那羅延の力や象の勢いがあっても、私を毛髪ほども動かすことはできないだろう。仮に荼毘に付されても、この葉は焼けずに残るはずだ」と述べた。そう言い終えると、すぐに立ったまま亡くなった。罽膩迦王自らが動かそうとしたができず、太い縄で象に引かせても微動だにしなかった。荼毘に付されたときも、炎はその葉を傷つけなかった。彼はすぐに兜率天に昇り、弥勒大士と共にその宮殿で語らい、賢劫第八の仏となるべき方を補うこととなった。
以建元二十年,罽賓沙門僧伽跋澄齎此經本來詣長安,武威太守趙文業請令出焉。佛念為譯,慧嵩筆受,正值慕容作難於近郊,然譯出不襄。余與法和對檢定之,十一月三十日乃了也。此年出《中阿含》六十卷,《增一阿含》四十六卷,伐鼓擊柝之中,而出斯一百餘卷,窮通不改其恬,詎非先師之故迹乎?
建元二十年(西暦384年)、罽賓(カシミール)の僧・僧伽跋澄がこの経典の原本を携えて長安に到来した。武威太守の趙文業が翻訳を依頼し、仏念が翻訳を担当し、慧嵩が筆録した。その頃、慕容氏が近郊で乱を起こしていたが、翻訳は中断しなかった。私(道安)は法和と共に校正を担当し、十一月三十日に完成した。この年には『中阿含経』六十巻と『増一阿含経』四十六巻も訳出された。戦乱の騒ぎの中、百巻を超える経典が訳出されたのである。逆境にあっても志を変えず、先師たちの遺志を継いだと言えよう。