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title: "法華經三大部讀教記 · 翻宗立識"
description: "法華經三大部讀教記由宋代高僧法照撰述。該書誕生於中國佛教義學興盛的宋代，是對天台宗根本經典《法華經》及其三大注疏——智顗大師的《法華文句》、《法華玄義》與《摩訶止觀》的重要詮釋與研習記錄。內容深入闡發了法華一乘圓頓的教義、諸法實相之理以及天台止觀實踐法門，系統梳理了天台宗的判教思想與修行體系。此書被視為研習天台宗義理，特別是深入理解法華經與智顗大師思想不可或缺的關鍵典籍，在天台宗傳承與中國佛教思想史上占有重要學術地位。"
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### 翻宗立識

> 宗派の確立と識の確立

攝大乘論上曰字函，陳譯。諸佛世尊有十勝相，所說無等，過於餘教。十勝相者：一、應知依止勝相；二、應知勝相；三、應知入勝相；四、入因果勝相；五、入因果修差別勝相；六、於修差別依戒學勝相；七、此中依心學勝相；八、此中依慧學勝相；九、學果寂滅勝相；十、智差別勝相。起信論疏一末。梁朝真諦三藏，就名翻為無沒識。今時奘法師，就義翻為藏識。藏是攝藏義，無沒是不失義，義一名異也。

> 『摂大乗論』（上巻）<note>曰字函、陳の訳</note>によれば、諸仏世尊には十の優れた特徴がある。それは他のどの教えにも勝る、比類なきものである。十の優れた特徴とは、第一に「理解すべき拠り所としての優れた特徴」、第二に「理解すべきものとしての優れた特徴」、第三に「理解へと入る優れた特徴」、第四に「入るための原因と結果の優れた特徴」、第五に「入るための原因と結果の修行における違いの優れた特徴」、第六に「修行の違いにおける戒律の学びの優れた特徴」、第七に「その中の心の学びの優れた特徴」、第八に「その中の智慧の学びの優れた特徴」、第九に「学びの結果である寂滅の優れた特徴」、第十に「智慧の違いの優れた特徴」である。 『起信論疏』<note>一</note><note>末</note>によれば、梁の時代の真諦三蔵は、名前としては「無没識」と翻訳した。現在、玄奘法師は、意味としては「蔵識」と翻訳している。「蔵」は含み持つという意味であり、「無没」は失われないという意味であり、意味は同じで言葉が異なるのである。

> 〈仏説観無量寿経〉

玅玄二二十八。攝大乘明十勝相義，咸謂深極，使地論翻宗。今試以十玅比之，彼有所漏，且用理玅比依止勝相，明不思議因緣四句破執，豈留黎耶庵摩羅為依止耶？

> 妙法玄義<note>二</note><note>二十八</note>。『摂大乗論』では十の優れた相の意味を明かし、誰もがその深遠さを極めたと語り、『地論』の解釈を覆すものです。今、仮に十の妙法と比較してみると、あちらには不足があります。そこで、理の妙法をもって依止の優れた相と比較し、不可思議な因縁の四句によって執着を打ち破ります。どうして阿頼耶識や庵摩羅識を依止とすることができましょうか？

籤三二十七。言依止者，謂所依也。真諦所譯則依庵摩羅，後代諸譯竝依黎耶，如其各計成自他性，一論二譯尚生二計，況諸部耶？論師以黎耶依持破於地論，故云翻宗。翻者改也，令地論宗破歸我攝宗。次明今家斥中為八云云。初如文。次文者，且以迹中十玅之初境玅少分，比彼十勝相之初相全分，於少分中尚有所漏，四句之中但得自他一句而已，故上斥云有所漏也。況破則俱破、立則俱立，不同彼論唯計一句，故今文云不思議因緣，豈同論文黎耶摩羅自他因緣耶？文雖雙舉計必偏執，如新舊兩譯，亦如地論南北二道還成性過各計不同，今不思議離四性計，豈同彼論各計不同耶？

> 籤（三・二十七）。「依止」とは、すなわち「よりどころ」を意味します。真諦三蔵の翻訳では「阿摩羅識」に依り、後代の諸訳はすべて「阿梨耶識」に依っています。それぞれが自らの解釈に基づいて「自性」や「他性」を立てれば、一つの論に対して二つの翻訳があり、それによってすでに二つの見解が生まれるのです。ましてや、多くの部派においてはなおさらです。論師たちは、阿梨耶識をよりどころとする立場によって「地論宗」の説を打ち破ろうとしました。そのため「宗を翻す」と言われます。「翻」とは「改める」ことです。地論宗の立場を打ち破り、我ら「摂論宗」の立場に帰属させようとしたのです。 次に、我が「天台宗」がこれを批判する点を八つに分けて説明します（云云）。第一は、文の通りです。第二の点とは、さしあたり「迹門」十種の妙義の中の、最初の「境妙」の一部をもって、彼の「十勝相」の最初の「相」全体と比べてみます。その一部の中においてさえ、まだ漏れがあるのです。四句の中で、ただ「自他」の一句を得たに過ぎません。ゆえに、上の文で「漏れる所あり」と批判したのです。ましてや、破るならばすべてを破り、立てるならばすべてを立てるのが我が宗の立場です。彼の論のように、ただ一句のみを計り固定するのとは異なります。ゆえに、今の文で「不可思議の因縁」と言うのは、どうして彼の論にある「阿梨耶識」や「阿摩羅識」の自他因縁と同じでありましょうか。 文では両方を併記していますが、その計（はからい）は必ず偏った執着に陥ります。例えば、新しい翻訳と古い翻訳の違い、また地論宗の南北二道の違いが、結局は「自性」や「他性」という過ちを生み、それぞれ異なる計らいとなっているのと同じです。今の「不可思議」は、四つの性計（自・他・共・無因）を離れています。どうして彼の論のように、それぞれ異なる計らいに同じでありましょうか。

玄五二十八。若地人明阿黎耶是真常淨識，攝大乘人云是無記無明隨眠之識，亦云無沒識，九識乃名淨識互諍云云。

> 玄奘三蔵の教え（五重唯識・二十八ヶ所）によれば、地論宗の人々は阿頼耶識を真如そのものであり常に清らかな識であると説きます。一方、摂大乗論を奉じる人々は、これを善悪の区別がなく無明という潜在的な煩悩を伴う識であり、「無没識（なくならない識）」とも呼ばれ、第九識こそが清らかな識であると主張します。このように、両派の間で見解の対立があったのです（と広く伝えられています）。

四念處三十。觀此無明，為從無明生？為從法性生？瓔珞及地論皆解云：從法性生。攝論云：從無明生，依阿黎耶識起。此識是無記，如地有金土，依染如土，依淨如金，故言依他也。黎耶識依業生，故言依他也。若他依者，六識所起善惡業，六識謝滅種子，依黎耶攝持得生，故名他依。彼論偈云：此識無始時，一切所依止，

> 四つの念処（四念処）について考える。この無明は、無明から生じるのか、それとも法性から生じるのか。『瓔珞経』や『地論』では、「法性から生じる」と説かれている。一方、『摂論』では「無明から生じ、阿頼耶識に依って生じる」とする。この阿頼耶識は無記であり、譬えれば大地に金と土があるようなものである。染汚に依れば土のようであり、清浄に依れば金のようであることから、「他に依るもの（依他）」と呼ばれる。また、阿頼耶識は業に依って生じるため、「他に依るもの」とも言える。さらに「他に依る」とは、六識から起こる善悪の業が、六識が消え去った後の種子として阿頼耶識に保持・摂受されることによって生じることをいう。故に「他に依る」と名づける。この経典の偈には次のようにある。 「この識は無始の時より、一切のものの依るところである」と。

玅玄九十，如地論有南北二道，加復攝大乘興，各自謂真，互相排斥。

> 妙玄⑨⑩のごとく、地論には南北二道あり、さらに摂大乗が興りて、各々自らを真と謂い、互いに排斥し合う。

籤九十八如地論有南北二道者，陳梁已前，弘地論師，二處不同。相州北道，計阿黎以為依持。相州南道，計於真如以為依持。此二論師，俱稟天親，而所計各異，同於水火。加復攝大乘興，亦計黎耶以助北道。又攝大乘前後二譯，亦如地論，二計不同。舊譯即立庵摩羅識，唐三藏譯，但立第八。

> くじ<note>九</note><note>十八</note>地論に南北二道があるように、陳や梁の時代よりも前、『地論』を広めた師たちの間には、二つの異なる解釈がありました。相州の北道は、阿梨耶識を全てのよりどころ（依持）としました。一方、相州の南道は、真如をよりどころとしました。この二派の師はどちらも天親（世親）に学びながら、その主張は水と火のように相容れず、全く異なっていました。さらに『摂大乗論』が盛んになると、それも梨耶識を説いて北道の立場を補強しました。また、『摂大乗論』には先の翻訳と後の翻訳の二つがあり、これも地論と同じく、二つの解釈は異なっていました。旧訳では庵摩羅識を立てましたが、三蔵法師（玄奘）の訳では、第八識のみを立てました。

文句六三十。玅樂七二十。北人者，諸文所指，多是相州北道地論師也。古弘地論，相州自分南北二道，所計不同。南計法性生一切法，北計黎耶生一切法。宗黨既別，釋義不同，豈地論令爾耶？

> 教えの文句（六巻・三十巻）において、妙楽（七巻・二十巻）が述べている。北方の者とは、諸々の経文が指すところ、多くは相州北道の地論師である。昔、地論を広めたが、相州において南北二道に自ら分かれ、その説くところが異なっていた。南方では法性が一切の法を生じると説き、北方では阿頼耶識が一切の法を生じると説いた。宗派や党派がすでに異なり、意義の解釈も同じではない。どうして地論がそのようにさせたのであろうか。

輔行三上十言三識者，真諦三藏云：阿陀那七識，此云執我識，此即惑性，體是緣因。阿賴耶八識，此名藏識，以能盛持種智不失，體是無沒無明，無明之性，性是了因。庵摩羅九識，名清淨識，即是正因。唐三藏不許此識云第九，乃是第八異名。故新譯攝論不存第九，地論文中亦無第九，但以第八對於正因，第七對於了因，第六對於緣因。今依真諦，仍合六七共為緣因，以第六中是事善惡亦是惑性。

> 輔行<note>三上</note><note>十</note>に「三識」と言うのは、真諦三蔵が述べている。「阿陀那識は第七識であり、これは『我を執する識』と訳される。すなわち、煩悩の本質であり、その体は『縁因』である。阿頼耶識は第八識であり、『蔵識』と名付けられる。種智を蓄え保持して失わない働きを持つからである。その体は『没することのない無明（無没無明）』であり、無明の性質は『了因』である。庵摩羅識は第九識であり、『清浄識』と名付けられる。これこそが『正因』である。しかし、唐三蔵（玄奘）はこの第九識を認めず、これは第八識の別名にすぎないと述べている。故に新訳の『摂大乗論』には第九識は存在せず、『地論』の文にも第九識はない。ただ第八識を『正因』に対応させ、第七識を『了因』に対応させ、第六識を『縁因』に対応させている。今、真諦の説に従えば、第六識と第七識を合わせて『縁因』とする。なぜなら、第六識における善悪の事象もまた、煩悩の本質であるからである。」

止觀五十四。地人云：一切解惑，真妄依持法性。法性持真妄，真妄依法性也。攝大乘云：法性不為惑所染，不為真所淨，故法性非依持。言依持者，阿黎耶是也。無沒無明，盛持一切種子。

> 止観<note>五</note><note>十四</note>。地の論師は言う。「あらゆる迷いを解く鍵は、真実と虚妄がともに法性に依り支えられることにある。法性は真実と虚妄を支え、真実と虚妄は法性に依るのである」。 『摂大乗論』は言う。「法性は迷いによって汚されることもなく、真実によって清められることもない。ゆえに法性は依り支えではない。依り支えと言うならば、阿黎耶識こそがそれである。尽きることのない無明が、あらゆる種子を盛んに保持するのである」。

輔行五中九寄二論破者，論隨教道順物機緣，恐迷者執權即成性過，故寄破之令成圓極。言無沒無明者，即阿黎耶識無始恒有，故云無沒。沒謂失沒，恒不失故，不同俱生及現行等。

> 輔行（五の九）に、二つの論に寄せて破するとは、論は教えに従い道に沿い、衆生の機縁に順ずるものであるが、迷える者が権を執着してそれが性の過ちとなることを恐れ、故に破することに寄せて円極を成就させるのであるとある。「無沒無明」とは、すなわち阿頼耶識が無始以来恒に有ることを指し、故に「無沒」という。沒とは失沒のことであり、恒に失わないが故に、倶生や現行などとは異なるのである。

光明玄八云何三識？識名為覺了，是智慧之異名爾。庵摩羅識是第九不動識，若分別之即是佛識。阿黎耶識即是第八無沒識，猶有隨眠煩惱與無明合，別而分之是菩薩識。大論云：在菩薩心名為般若，即其義也。阿陀那識是第七分別識，訶惡生死欣羨涅槃，別而分之是二乘識。於佛即是方便智波浪，是凡夫第六識。

> 光明玄<note>八</note>におきまして、「三識とは何か」と問われています。「識」とは「覚了」と名づけられ、智慧の別名であります。庵摩羅識は第九の不動識であり、これを分別すれば、すなわち仏の識です。阿黎耶識は第八の無没識であり、なお随眠の煩惱を有して無明と和合し、別に分ければ菩薩の識です。大論に曰く、「菩薩の心に在るを名づけて般若と為す」とあり、これがその義です。阿陀那識は第七の分別識で、生死を呵り嫌い涅槃を欣び羨む。別に分ければ二乗の識です。仏においては、すなわち方便の智の波浪であり、凡夫の第六識であります。

捨遺上二十四。釋別名中存三梵語，逐一釋義即是翻名。言第九等者，出梁攝論，真諦所譯，故輔行云云云。若分別者，為易解故，以一念中所具之法教道權說，分對諸位且立遠近，以第九識無染不動故當於佛。第八屬菩薩者，以十地位六七二識以轉成智，正以賴耶三分為境，雖是境界而即用此便為觀智，如初心人亦用現前第六王數而為境觀，故引大論在菩薩心名般若也。第七名阿陀那者，據真諦譯，若新經論皆云第七名為末那，今依古譯。言訶惡生死等者，以二乘人人執既亡見思所薰，第六事識轉成無漏，既塵沙未破，正住第七法執之中，不了生死法空故有訶惡，不了涅槃法空故有忻羨。此識若於果佛位中，却復用之而為權智，以二乘法接引小根，著弊垢衣執除糞器，故知諸識破後自在為機載用也。波浪等者，第六識也。楞嚴云：陀那微細識，習氣成暴流。而為波浪，乃當凡夫心心數法也。此約四人各對一識，若就漸斷分別四相，麤必含細，凡夫具四、二乘具三，已破第六故；菩薩具二，六七已轉故；佛唯有一，第八至果已轉故也。

> 第九識などの名称について説明すると、『梁の摂大乗論』（真諦訳）に基づいています。『輔行記』にもその旨が記されています。 説明を分かりやすくするために、一念に具わる法を仮に教えとして説き、各段階に配当して遠近を立てます。第九識は煩悩のない不動のものであるため仏に相当します。第八識が菩薩に属するのは、十地で第六・第七識がすでに智に転じ、第八識（阿頼耶識）の三分を観察の対象とするからです。初心者も現在の第六識の心所を観察の対象とするのと同様に、『大智度論』でも菩薩の心においてこれを般若と名づけています。 第七識を阿陀那識と呼ぶのは真諦訳に依ります。新しい経論では第七識を末那識と述べていますが、ここでは古い訳に従います。 生死を嫌い厭うというのは、声聞・縁覚の二乗が我執を断ち、見惑・思惑の薰習を受けた第六識がすでに無漏となり、塵沙の惑を破っていないため第七識の法執に留まっている状態です。彼らは生死が空であること、涅槃が空であることを理解していないため、生死を厭い涅槃を慕うのです。この第七識は仏の果位においては方便の智慧として用いられ、二乗の教えで小根の者を導くために、垢れた衣服をまとい糞を運ぶ道具を持つ者のように振る舞います。つまり、諸識は一度破られた後、自由に衆生を救うための道具として用いられるのです。 波浪などとは、第六識のことです。『楞厳経』に「陀那（阿頼耶識）の微細な識は、習気が激流となって」とあり、それが波浪となって凡夫の心心所法となるのです。これは四人（凡夫・二乗・菩薩・仏）がそれぞれ一つの識に対応することを述べています。段階的に断じていく四相（凡夫・二乗・菩薩・仏の段階）でいえば、粗いものは細かいものを含みます。凡夫は四つ全てを有し、二乗は第六識を既に破っているため三つを有し、菩薩は第六・第七識を転じているため二つを有し、仏は第八識を果位で転じているため一つだけを有するのです。

六七八九識。以真妄分之，九識唯真，八識通真妄，七六唯妄。因果言之，六七八屬因，九識屬果。三惑對之，六識見思，七識塵沙，八識無明，九識是真如。事業二識分之，六識是事，七八屬業，九非二識。以三觀對之，七空、八假、九中。以三因對之，九正、八了。六七為緣。輔行云：今依真諦，仍合六七為緣。梁攝既立第八阿黎耶生一切法，又立第九庵摩羅為真識。唐三藏譯，但立第八，不立第九，乃云第九即第八之異名。若南北弘地論師，但立八識，南道計真，北道計妄。真者謂真如生法，妄者謂無明生法。問玄云：使地論翻宗為南地耶？北地耶？曰：南北俱翻，以由十勝相義深極故。若爾，何故籤文謂之助北道耶？曰：此語其梁攝計八識生法，與北地師同。問：唐攝八識，真耶？妄耶？真則籤云：後代諸譯，竝依黎耶。妄則輔行明庵摩羅後云：唐三藏不許此識，但云第九，是第八異名。既云異名，莫不八識亦是真耶？曰：唐攝八識是妄。籤云：真諦所譯，則依庵摩羅。又云：唐三藏譯，但立第八。又云：唐三藏不許此識，皆立識文也。若爾，何故籤三云：如新舊兩譯，亦如地論，南北二道，還成性過，各計不同。籤九云：前後二譯，亦如地論，宗計不同。莫不唐攝，同於南地論師計真耶？曰：此亦立識文也。梁攝立第九識是真，唐攝既云第九，是第八異名，則知是妄。如此各計，同彼地師，非謂同彼各計八識為真妄生法也。問：依持依止，同異云何？曰：依止從所依說。籤云：依止者，所依也。依持從能依能生說。止觀五。依持者，黎耶是也。無沒無明，盛持一切種子云云。

> 第六識、第七識、第八識、第九識について、 真実と迷いという観点から区別すると、第九識だけが真実であり、 第八識は真実と迷いの両方を含み、第七識と第六識は迷いだけです。 原因と結果で言えば、第六、第七、第八識は原因に属し、第九識は結果に属します。 三つの惑（煩悩）と照らし合わせると、第六識は見惑と思惑、第七識は塵沙惑、第八識は無明惑、第九識は真如そのものです。 作用の識と業の識に分けると、第六識は作用の識、第七と第八識は業の識、第九識はどちらにも属しません。 三つの観法（三観）で対応すれば、第七識は空観、第八識は仮観、第九識は中観です。 三つの因（正因・了因・縁因）で対応すれば、第九識は正因、第八識は了因、第六と第七識は縁因です。 「輔行」にはこうあります。「今、真諦三蔵の説に従えば、第六識と第七識を合わせて縁因とする。」 「梁の『摂大乗論釈』は第八阿梨耶識が一切の法を生じると説き、さらに第九阿摩羅識を真実の識としている。 唐三蔵（玄奘三蔵）の翻訳では、第八識のみを立て、第九識は立てず、第九識は第八識の別名に過ぎないとしている。 もし北の地論宗と南の地論宗の解釈を見れば、いずれも八識しか立てないが、 南の学派は第八識を真実と見なし、北の学派は迷いと見なす。 真実とするのは、真如が法を生じると考え、迷いとするのは、無明が法を生じると考えるからである。」 問う。「『玄義』に、地論宗の立場が南の地論宗と北の地論宗のどちらに覆されたのか、とありますが、いかがでしょうか。」 答え。「南も北も覆されました。十種の優れた境地（十勝相）の教えが非常に深遠であるからです。」 「では、どうして『籤』の文は北の地論宗を助けると言うのでしょうか。」 答え。「これは、梁の『摂大乗論釈』が第八識によって法が生じると説く点が、北の地論宗の考えと同じだからです。」 問う。「唐の『摂大乗論釈』の第八識は、真実でしょうか、迷いでしょうか。 もし真実なら、『籤』には『後の時代の諸々の翻訳は、すべて阿梨耶識に依っている』とあります。 もし迷いなら、『輔行』が阿摩羅識について述べた後に、『唐三蔵はこの第九識を認めず、第九識は第八識の別名であると言っただけである』とあります。 別名であるなら、第八識もまた真実なのでしょうか。」 答え。「唐の『摂大乗論釈』の第八識は迷いです。『籤』には『真諦三蔵の翻訳は阿摩羅識に依っている』とあります。 また、『唐三蔵の翻訳は、第八識のみを立てている』とあります。 さらに、『唐三蔵は第九識を認めなかった』とあり、いずれも識についての文です。」 「では、なぜ『籤三』に『新旧二つの翻訳も、地論宗の南北二学派のように、性具の過ちを犯して、それぞれ異なる解釈を主張している』とあるのでしょうか。 また『籤九』には『前後の二つの翻訳も、地論宗のように、宗旨の主張が異なっている』とあります。 これは、唐の『摂大乗論釈』が南の地論宗と同じく、第八識を真実と見なすということでしょうか。」 答え。「これも識についての文です。 梁の『摂大乗論釈』は第九識を真実としますが、唐の『摂大乗論釈』は第九識を第八識の別名とするので、第八識は迷いとわかります。 このように、それぞれの解釈が異なるのは、地論宗の学者たちの考え方と同じであって、 決して、彼らが第八識を真実または迷いとして、法を生じると主張した点と同じだと言うわけではありません。」 問う。「依持と依止の違いは何でしょうか。」 答え。「依止は、依って立つものの側から言います。『籤』に『依止とは、よりどころである』とあります。 依持は、能く依り、能く生じるものの側から言います。『止観』（五）には『依持とは、阿梨耶識のことである。 消えず失せずに存在する根本の無明が、一切の種子を蔵し保つのである』とあります。」