第四梁祖武帝迎請釋迦像感應
第四梁祖武帝の釈迦像迎請の霊験
梁祖武帝。以天鑒元年正月八日。夢檀像入國。因發詔募往迎。案佛遊天竺記及双卷優填王經之佛。上忉利天。一夏為母說法。王臣思見于國王遣三十二匠。及齎栴檀請大目連神力。運往令圖佛相。既如所願圖了。還返坐高五尺。在祇洹寺。至令供養。帝欲迎請此像。時決勝將軍郝騫父花等八十人。應募往達。具狀祈請舍衛王曰。此中天上像。不可緣邊。乃令三十二匠。更剋此檀人圖一相。卯時運手至午便就。相好具足。而像頂放光。降微細雨。并有異香。故優填王經云。真身既隱。以二像現。普為眾生。深作利益者是也。騫等負第二像行數萬里。備曆艱以具聞。又渡大海。冐涉風波。隨波至山。糧食又盡。所將人眾及傳送者。身多害歿。逢諸猛獸。一心念。乃聞像後有甲冑聲。又聞鐘聲。巖側有僧。端坐樹下。騫發負像。下置其前。僧起禮像。騫等禮僧。僧授澡灌令飲。並得飽滿。僧曰。此像名三藐三佛陀。金毘羅王。自從至彼大作佛事。語須臾失之。爾夜僉夢見神。曉共圖之。至天鑒十年四月五日。騫等達于揚都。帝與百僚徒行四十里。迎還太極殿建。齋度人大赦獻殺。但是弓刀預等。並作蓮花塔。帝由此蔬食斷慾。至大津三年五月崩。湘東王在江淩即位。號無承坐。遣人從揚都迎。上至荊都。承光殿供養。後梁大定八年。於城北靜陵。造大明寺。乃以像歸之。今現在多有傳寫流云云。
梁の武帝は、天監元年正月八日、栴檀の仏像が国に入る夢を見た。そこで詔を発し、志願者を募ってこれを迎えに行かせた。
『仏遊天竺記』及び『双巻優填王経』によれば、仏陀はかつて忉利天に上り、一夏の間、母のために説法をされた。王と臣下は国で仏陀にお会いしたいと願い、三十二人の工匠を遣わし、栴檀を持たせて大目連の神力により運ばせ、仏陀のお姿を写させた。願い通りに写し終え、帰還した像は高さ五尺、祇洹寺に安置され、今に至るまで供養されていた。
帝はこの像を迎え請いたいと望んだ。時、決勝将軍の郝騫、父の花ら八十人が志願し、派遣された。彼らは詳細を記し、舎衛国の王に祈願した。王は言った。「この天上の像は、辺境に縁をもたらすことはできない」。そこで三十二人の工匠に命じ、この栴檀でさらに一つの像を刻ませた。卯の刻に手を動かし始め、午の刻には完成した。相好はことごとく備わり、像の頂からは光を放ち、細やかな雨が降り、異なる香りがした。ゆえに『優填王経』に、「真身は既に隠れ、二つの像をもって現れる。普く衆生のため、深く利益をなす者これなり」とあるのはこのことである。
騫らは第二の像を背負って数万里を行き、あらゆる艱難を経験したと伝えられる。また大海を渡り、風波に遭い、波に流されて山に至った。食糧もまた尽き、率いた人々や送り役の多くは命を落とした。猛獣に逢った時、一心に念じると、像の後ろから甲冑の音が聞こえ、また鐘の音がした。岩の傍らに僧がおり、樹の下に端坐していた。騫は像を背負い下ろし、その前に置いた。僧は起きて像に礼し、騫らは僧に礼した。僧は水を授けて飲ませ、一同は満腹を得た。僧は言った。「この像は名を三藐三佛陀(正覚者)という。金毘羅王のもとからここに至り、大いに仏事を行わん」。言葉はたちまち消え、その夜一同は神の夢を見、明け方に共にこれを図した。
天監十年四月五日、騫らは揚都に到着した。帝は百官を従え、四十里を徒歩で出迎え、太極殿に迎え還して斎会を建て、人々を度し、大赦を行った。弓や刀などの武器は、すべて蓮華の塔を作らせた。帝はこれにより蔬食をとり、欲を断った。大通三年五月に崩御した。
湘東王が江陵で即位し、元号を承聖とした。人を揚都に遣わし、像を迎えて荊都の承光殿で供養した。後梁の大定八年、城北の静陵に大明寺を造り、像をそこに移した。今も現存し、多くはこれを写し伝えているという。