釋序品初
釈序品第一
言「文句」者,文謂文字,一部始終,故云文即是字,為二所依;句謂句讀,義通長短,故云名詮自性、句詮差別。此亦不論色行等體,今但以句而分其文,故云文句。古之章疏,或單題疏,或單題章。章謂章藻,《詩》云:「彼都人士出言成章」;亦云章段,分段解釋成若干章。疏者,通意之辭,亦記也。又疎音即疏通、疏條、疎鏤也。今並不云者,意如向說。
「文句」という言葉について説明します。「文」とは文字のことを指し、一つの経典の始めから終わりまでの全体を表します。ですから、「文」とはすなわち文字であり、これが二つの意味の依り所となります。「句」とは句読点のことで、意味の長短を通じて理解されます。ですから、「名は自性を詮じ、句は差別を詮ず」と言われるのです。ここでは色や行などの本体については論じず、ただ句によって文を分けることを指します。それゆえ「文句」と言うのです。
古い時代の注釈書では、単に「疏」と題するものや、単に「章」と題するものがありました。「章」とは章藻(優れた文章)のことで、『詩経』に「あの都の人士は言葉を発すれば立派な文章となる」とあります。また「章段」とも言い、段落に分けて解釈し、いくつかの章を成すことを指します。「疏」とは、意味を通じさせる言葉であり、また記録することを意味します。また「疎」の音は、疏通(通りを良くする)、疏條(枝を整える)、疎鏤(彫刻を施す)といった意味を持ちます。今ではこれらの言葉を用いないのは、先に述べたような意図によるものです。
題下注中六難意者,此用下文法說歎法希有中「諸佛興出世,懸遠值遇難,正使出于世,說是法復難,無量無數劫,聞是法亦難,能聽是法者,斯人亦復難」。章安於經聞法能聽二難之中,義開為四,謂傳譯等,合成六難。然聞法中正在時會,及以阿難義通像末,故藉傳譯則可得聞。佛出已難,出仍不值,故經多劫聞者尚難,況修行開悟、說記流通?於中初二約主約味,三四歎教歎行,五六自幸省己。故初二在佛,三四屬師,五六斥己。故三雙中,一一皆悉先通次別,且初二中出世猶通,通一代故,次說則別,別在今經;次三四中,初傳譯師通一切教,次教詔師別我所承;次五六中,聞講仍通與他共故,一遍記別唯屬己故。故三雙中從寬向狹,是故後後狹於前前。故自佛出來,乃至聞於自悟者說一遍記故,故記佛乘最為甚難。
題下の注釈に「六難」の意味があるのは、ここでは以下の文の法説に基づき、法の希有さを讃嘆しているからです。「諸仏が世に出現することは、遠く離れており、遭遇することは難しい。たとえ世に出現しても、この法を説くことはさらに難しい。無量無数の劫を経て、この法を聞くことも難しい。この法を聞くことができる者は、その人もまた難しい」。章安は、経文の「聞法」と「能聴」の二難の中に、意味を広げて四つ(伝訳など)とし、合わせて六難としました。しかし、「聞法」の中では特に当時の法会に在ること、および阿難の意義は像法・末法にも通じるため、伝訳を借りれば聞くことができます。仏の出現はすでに難しく、出現しても遭遇できないため、多くの劫を経て聞く者さえ難しい。ましてや修行して悟りを開き、説法し記録し流通させることはなおさらです。この中で、初めの二つは主(仏)と味(教法)に関わり、三つ目と四つ目は教えと行いを讃嘆し、五つ目と六つ目は自ら幸せに思い己を省みます。したがって、初めの二つは仏にあり、三つ目と四つ目は師に属し、五つ目と六つ目は己を責めます。故に三つの対の中では、それぞれ先に通じて後ろに別れます。初めの二つでは、「出世」はまだ通じる(一代の教えに通じるため)が、次の「説」は別れます(特に今の経典に別れる)。次の三つ目と四つ目では、初めの「伝訳師」はすべての教えに通じ、次の「教詔師」は私が受け継いだものに別れます。次の五つ目と六つ目では、「聞講」はまだ通じる(他者と共にするため)が、「一遍記別」はただ己に属します。したがって、三つの対の中では、広いものから狭いものへと向かい、後ろになるほど前よりも狭くなります。故に、仏が出てから、自ら悟った者の説く一遍の記別を聞くに至るまで、仏乗を記すことは最も難しいのです。
言主、味者,主興不易,復經四味方演此經,故知初二誠為不易。言歎教者,傳譯不易,經涉山海,雖至此土,民主道合、國無諸難,方可傳故。言歎行者,稟承南岳證不由他,宿植所資妙悟斯發。言自省者,自幸得聞,謙已輒記。故《玄.序》云:「江陵稟受玄旨,建業方聽經文,補接纔成一遍而已」,況二十七聽、六十九治,始末四十餘年,乃成第七修補復難。於傳譯前加結集難,合為八難,以結集時亦假王臣大眾和合,若魔若外令不得便。添謂添破古師及引經論,謂斥非以顯是;削謂削其繁長及成文體,使文約而義豐。破古不全我已,加彼異見故但云添;削乃唯在於已,初記繁芿故須云削。故《玄.序》云:「或以經論誠言符此深妙,或標諸師異解驗彼非圓」。
主(釈尊)は、味(教えの深さ)を説く者であり、主(釈尊)が教えを説き起こすことは容易ではありませんでした。さらに四つの味(教えの段階)を経て、ようやくこの経典が説かれたのです。ですから、最初の二つ(結集と伝訳)が誠に容易でなかったことがわかります。
教えを称えるという点では、伝訳(翻訳)は容易ではありません。山海を越えて、この地(中国)に至っても、君主と仏法が合致し、国に災難がなくて初めて伝えることができました。
行(実践)を称えるという点では、南岳(慧思大師)より受け継ぎ、悟りは他によるものではありません。宿世に植えられた資質によって、妙なる悟りが自然に発現したのです。
自らを省みるという点では、自ら幸いにもこの教えを聞くことができ、謙虚に筆記したに過ぎません。故に『玄義・序』に「江陵で玄旨を稟受し、建業でようやく経文を聴聞し、補接してようやく一遍を成した」とあります。ましてや二十七回の聴聞、六十九回の治定(推敲)、始めから終わりまで四十余年を経て、第七の修補(改訂)に至ってはなお困難でした。
伝訳の前に結集の難しさを加え、合わせて八難とします。結集の時もまた、王臣や大衆の和合を必要とし、魔や外道が妨げることを許さなかったからです。
「添」とは、古師(先達の師)の説を破し、経論を引用することであり、非を斥けて是を顕わすことをいいます。「削」とは、繁雑な部分を削り、文体を整えることで、文は簡潔ながら義は豊かになるようにすることです。古師を破るのは自らのみならず、彼らの異見を加えるから「添」といい、削るのは自らのみにあり、初めの記録が繁雑であったから「削」という必要があるのです。故に『玄義・序』に「あるいは経論の誠言をもってこの深妙に符し、あるいは諸師の異解を標して彼の非円を験す」とあります。
「留贈後賢」者,《玄》文〈序〉云:「斯文若墜,將來可悲」;《涅槃》云「若樹若石」,斯經稱「若田若里」,後代行者知甘露門之在茲。
「留贈後賢」とは、『玄義』の序文に「この教えがもし失われるなら、将来は悲しむべきことになる」とあり、『涅槃経』には「樹木や石のように」と説かれ、この経典では「田や里のように」と述べています。後の世の修行者たちが、甘露の門がここにあることを知るためです。
「共期佛慧」者,自非靈岳親承、道場契悟,搜一代教旨、顯五味宗極,將何以為後賢佛慧之基址耶?故佛慧之言,須開三教果頭之權實,發四味兼帶之大小,則人理教行之有歸,開示悟入之無異,方是今經之佛慧耳。
「共に仏の智慧を期す」とは、自ら霊鷲山で直接教えを受け、道場で悟りを開くことなく、一代の教えの要旨を探求し、五時の教えの究極を明らかにしなければ、どうして後世の賢者たちの仏の智慧の基礎とすることができようか。だから仏の智慧という言葉は、三教の果位における権実を開き、四味の兼帯における大小を発揮し、人・理・教・行が帰着するところがあり、開示悟入に違いがないものでなければならない。これこそが今この経典の説く仏の智慧なのである。
問:
お尋ねします。
諸經中圓,與此何別,而必須云開方是佛慧?
他の経典で説かれる円教と、この法華経の円教とは、どう違うのですか?なぜ「開く」ことによって初めて仏の智慧となるのでしょうか?
答:
お答えします。
圓實不異,但未開顯。初心之人謂圓隔偏,須聞開顯諸法實相。若已入實但論增進,權人至此一向須開。
円満なる実相は偏りの実相と異なるものではありません。ただ、まだ開顕されていないだけです。初心の人は、円満と偏りは隔たっていると思いがちです。そのため、諸法の実相が開顕されることを聞く必要があります。もしすでに実相に入っているなら、ただ進歩を論じればよいのです。権教の人はここに至って、一貫して開顕されることを必要とします。
「委釋」等者,別解題名方七八卷,以初名中總三法故,三法始末亘一部故。何者?一部之中莫過本迹,本地總別超過諸說,迹中三一功高一期,故一中之三永殊前教,即三之一不與他同,即迹而本壽量方譚,即本之迹具在今說。且如迹中體非因果,依之以辨因果,因果取體方有勝用,如是三法並由開顯。若不先了能開之妙,將何以明所開之麁?故對迹辨本理須分判,所以釋題不可率爾。題下別釋理非容易,以由釋題大義委悉,故至經文但粗分章段。題名「文句」良由於此。故但分文句則大理不彰,唯譚玄旨則迷於起盡,若相帶以說則彼此無歸,故使消釋凡至大義,並指《玄》文名體宗用、三一總別、寄行約教。故知全迷《玄》文大旨,而欲以文句消經,固蔽理觀深微而但以事相釋義,言弘斯典者遠矣!今問弘經者,為名利壅己、為大悲益他?自行暗於妙宗,何殊無目而導,彼此俱迷、自他咸沒。又妙法之唱非唯正宗,二十八品俱名妙故,故品品之內咸具體等,句句之下通結妙名,教行人理彼此相攝,使妙旨不失稍似弘通,衣座室誡思之自克。然遍列事難不可恒爾,今隨義便廣略適時。故〈方便〉、〈安樂〉、〈壽量〉、〈普門〉並是本迹之根源,斯經之樞楗,必須委簡,餘則隨宜。
「委釈」などとあるのは、別に解釈する題名の方法が七、八巻にわたり、初めの名の中に三つの法を総括しているからであり、三つの法の始めから終わりまでが一つの経典全体に通じているからです。なぜなら、一つの経典の中には本門と迹門を超えるものはなく、本地の総説と別説は諸説を超え、迹門における三乗と一乗の功績は一時代を高く評価するからです。ですから、一乗の中の三乗は永遠に以前の教えとは異なり、三乗の即一乗は他と同じではありません。迹門に即して本門を説く寿量品が初めて語られ、本門に即して迹門を説くことが今の説法に具わっています。たとえば迹門において本体は因果ではありませんが、それに依って因果を弁じ、因果が本体を取って初めて優れた働きがあります。このように三つの法はすべて開顕によって成り立ちます。もし先に能開の妙を理解しなければ、どうして所開の粗を明らかにすることができるでしょうか。ですから、迹門に対して本門を弁じるには理によって分け判じる必要があり、題を釈するのは軽率にはできません。題の下に別釈することは容易ではなく、題を釈することによって大義が委細にわかるため、経文に至ってはただ大まかに章段を分けるだけです。題名が「文句」であるのはまさにこのためです。ですから、ただ文句を分けるだけでは大理が明らかにならず、ただ玄旨を語るだけでは起尽に迷い、もし互いに引き合いにして説けば彼此に帰する所がありません。ですから、消釈するときは凡そ大義に至るまで、すべて『玄義』の文を指して名・体・宗・用、三乗一乗の総別、行に寄せ教えに約して説明します。ですから、『玄義』の文の大旨を全く理解せずに、文句だけで経を消釈しようとし、理観の深微を固く蔽ってただ事相で義を釈するならば、この経典を弘める言葉は遠く及ばないでしょう。今、経典を弘める者に問います。名利のために己をふさぐのか、大悲をもって他を益するのか。自行が妙宗に暗ければ、目がないのに導くのと何の違いがあるでしょうか。彼此ともに迷い、自他ともに没するのです。また、妙法の唱えはただ正宗に限らず、二十八品すべてが妙と名付けられているからです。ですから、品々の中にはすべて体などが具わり、句句の下には妙の名が通じて結ばれ、教・行・人・理は彼此互いに摂し合い、妙旨を失わないように少しでも弘通に似せ、衣・座・室の誡めを思えば自ずから克つことができます。しかし、すべての事を列挙するのは難しく、常にそうすることはできません。今、義の便に随って広略適時にします。ですから、『方便品』『安楽行品』『寿量品』『普門品』はすべて本迹の根源であり、この経の枢要です。必ず委しく簡別し、その他は随宜にします。
「序者」下,一部大名已指前釋,一品別號此下略申。叡公亦有二十八品生起次第,今家隨釋準意可知。然品品初通有四意,謂釋名、來意、釋妨、釋文。釋名必須因緣等四;來意、釋妨或有或無。或釋名中即帶來意,有妨須釋何例然耶?又釋名與義更互有無,故釋名一種,或於義前別釋,或帶名以釋義,縱於義前別釋,還將別以貫義。名義若顯則一品可從,故使品品全同部旨,如是釋者,方鏡於迷途;徒自云云,此彼淆混。若得此意,至下易知。
「序者」の下では、一部の大名がすでに前の解釈を示しており、一品ごとに別の呼び名がある。ここではその詳細を述べる。
叡公にも二十八品の生起次第があり、今家はその解釈に従い、意図を理解できる。しかし、各品の初めには通じて四つの意味がある。すなわち、名の解釈、来意、妨げの解釈、文の解釈である。
名の解釈には必ず因縁などの四つが必要であり、来意と妨げの解釈はある場合もあればない場合もある。また、名の解釈の中で来意が含まれることもあり、妨げがあれば解釈が必要であるが、どのような例があるだろうか。
さらに、名の解釈と意味は互いに有無があり、名の解釈の一種は、意味の前に別に解釈されることもあれば、名を伴って意味を解釈することもある。たとえ意味の前に別に解釈されても、その別の解釈を意味に貫かせる。
名と意味が明らかであれば、一品は従うことができる。したがって、各品は全体として部の主旨に完全に一致し、このような解釈は迷いの道を鏡のように照らす。ただ自分勝手に語るだけでは、こことあちらが混ざり合ってしまう。
この意図を理解すれば、以下に至るまで容易にわかるだろう。
今初釋名。云「訓庠序」等者,先釋字訓,次釋字義。然釋訓中復似從義。庠謂安庠,學舍養宮並非今意。《爾雅》云:「東西牆謂之序,別內外也。」此可借用以釋別序。如由別序方異諸經,通序異外亦可兼用,所以初用字訓正從別序,故云階位等也;兼用安庠,即非忽卒越次意也。亦二序共有。若對辨者,必先證信後發起故,必先發起後證信故,必先二序後方正故,二序各有,前後亦爾。故光宅生起,非全失理,但闕表報,是故斥之。故階位之言義兼通別,問答之語不關於通,先瑞後問次第故爾。彌勒、文殊即賓主也,若問若答皆庠序故,伏疑伏難賓主存焉。
まずは「訓庠序」という言葉の意味を解き明かします。ここでは、まず個々の文字の解釈を示し、次にその全体としての意味を説明します。ただし、文字の解釈の中にも、すでに意味の一端が含まれているようです。
「庠」とは「安庠(ゆったりと落ち着いた様子)」を意味しますが、ここで言う学舎や養成の場といった意味は、現在の文脈には当てはまりません。『爾雅』には、「東西の壁を序と言い、内と外を区別する」とあります。この解釈を借りて、「別序(特別な順序)」を説明するのに用いることができます。例えば、特別な順序があるからこそ、他の経典とは異なるのであり、また通序(一般的な順序)が外部と異なる場合にも、この考えを応用できます。したがって、最初に文字の解釈を用いるのは、特に「別序」に焦点を当てるためであり、「階位(段階や位置)」などと言うのです。同時に「安庠」の意味も含めることで、慌ただしく順序を飛び越えるような意図ではないことを示しています。この二つの順序は、どちらにも共通して存在します。
もし対比して考えるなら、必ず証信(信頼を証すること)の後に発起(始動)が来る場合もあれば、その逆の場合もあります。また、二つの順序がまずあり、その後で正しい順序が定まることもあります。二つの順序にはそれぞれ前後関係があり、それも同様です。したがって、光宅(ある解釈)が生じた順序は、完全に道理を失っているわけではありませんが、報いの表れが欠けているため、それを批判するのです。ですから、「階位」という言葉の意味は、通序と別序の両方を含んでいます。一方、問答の言葉は通序には関係がなく、まず瑞相(吉兆)があり、次に問いが来るという順序だからです。
弥勒と文殊は、賓(客)と主(主人
「經家」下,從字義釋。三義分二,次通二別。二序之中通復冠別,二序俱首通最得名以冠於下,冠即是首,故云冠首。是則二十七品方名為經,以序從正通名經也,故云妙法蓮華經序品。
「経家」の下、字義に従って解釈する。三つの意味を二つに分け、次に二つを通して別を述べる。二つの序の中、通はさらに別を冠する。二つの序はともに通を首とし、最も名を得て下を冠する。冠とはすなわち首であり、故に冠首と云う。これにより二十七品こそが経と名付けられ、序が正に従って通じて経と名付けられる。故に「妙法蓮華経序品」と云う。
言「由述」者,瑞疑由也,問答述也。文中不以疑念對由述者,亦可兩兼,謂發語宣疑亦可云述;集眾亦可以為遠由,疎故且置。
「由述」というのは、瑞疑が「由」であり、問答が「述」である。文中では、疑念を「由述」に対置しない場合もあるが、両方を兼ねることもできる。つまり、言葉を発して疑いを述べることも「述」と言えるし、人々を集めることも遠い「由」と見なすことができる。細かい点はひとまず置いておく。
言「哢引」者,以譬顯也。講哢家之引故名哢引。亦可正哢亦得名引,如歌引舞序義可知。故正說如哢、二序如引,故引亦歌也。謂譚述也,亦引發義。古人章疏以胤音之,便作胤釋。又迷章草以哢為呼,以胤為徹,魚魯之謬自古有之,徹字則成兩重之誤。
「哢引」という言葉は、比喩によって意味を明らかにするものです。講師が話を引き出すことから「哢引」と呼ばれます。また、本題の話そのものも「引」と呼ぶことができ、歌の前奏や舞の序章と同じ意味であると理解できます。ですから、本題の説法は「哢」に例えられ、二つの序章は「引」に例えられるので、「引」もまた歌のようなものと言えます。つまり、物語を語り広めること、また話を引き出す意味です。古人の注釈書では「胤」という字を当てて解釈していました。また、草書体の誤読によって「哢」を「呼」と読み、「胤」を「徹」と読む誤りがあり、文字の取り違えは古くからあるものです。「徹」という字を使うのは二重の誤りとなります。
「具此三義」者,品兼通別故須具三。
この三つの意味を備えているというのは、この品が通と別の両方に通じるから、三つをそろえる必要があるのです。
「品者」,序名在別,品義則通下去諸品,以通從別不復更釋,故但釋別以置於通。此中先翻名、次釋義、後明立品所以。所言義者,釋品字義,非品題義,故字義則通、題名從別。
「品」とは、それぞれの品の名前は別々にありますが、「品」という意味自体は、以下のすべての品に通じるものです。全体に通じる意味は、個別の品に含まれるため、改めて説明する必要はありません。そのため、ここでは個別の品について説明し、全体に通じる意味はそれに含めておきます。
この中では、まず名前を翻訳し、次に意味を解釈し、最後にその品が立てられた理由を明らかにします。ここで言う「義」とは、「品」という文字の意味を解釈するものであり、品の題名そのものの意味ではありません。したがって、文字の意味は全体に通じ、題名の意味は個別の品に従うのです。
言「義類同者」,諸品咸然。聚者是誰,故出其人。初汎指他經,如〈心地品〉佛自唱也。如《大論》者,即論所述《大品》一部。結集之家本唯三品:一序,二魔事,三囑累。言「譯人」者,亦指《大品》本唯三品,什公偽秦弘始五年四月二十三日譯訖,乃依四意以類加之,成九十品,謂人義法事。人如樓那,義如觀空,法如三假,事如魔事,亦如《大經》純陀哀歎等。又非譯者但補助譯人,即謝公加也。準知諸經非佛自唱,及以集者並譯人添也。次正出今經。如〈藥王品〉云:「佛告宿王華,若有人聞是藥王菩薩本事品,能隨喜讚善者」等。又云:「宿王華!以此藥王菩薩本事品,囑累於汝。」乃至云:「若有女人持是品者,盡是女身後不復受。」〈妙音品〉末集經家云:「說是妙音來往品時,四萬二千天子得無生法忍。」〈普門品〉末經家亦云:「佛說是普門品時,八萬四千眾生,皆發無等等阿耨菩提。」乃至〈陀羅尼〉、〈嚴王勸發品〉末皆然,故云等。
「義類同者」と述べるのは、諸品すべてに共通することである。ここで言う「集者」とは誰か、その人を明らかにする。初めに他の経典を広く指摘すると、例えば『心地品』では仏自らが宣言している。『大論』に言及するのは、すなわち論中で述べられている『大品般若経』全体を指す。結集の際、本来はただ三品のみであった:一に序分、二に魔事、三に囑累。ここで「訳人」と言うのは、『大品般若経』も本来は三品のみであったが、鳩摩羅什が偽秦の弘始五年四月二十三日に翻訳を終え、四つの意図に基づいて類を加え、九十品を成したことを指す。それは人・義・法・事である。人とは舎利弗や須菩提など、義とは空観など、法とは三仮など、事とは魔事などであり、また『大般涅槃経』の純陀哀歎なども同様である。また、訳者だけでなく補助訳人、すなわち謝霊運が加えた部分もある。これにより、諸経典が必ずしも仏自らが宣言したものではなく、結集者や訳者が追加した部分もあることがわかる。
次に、今の経典を正しく示す。例えば『薬王品』には、「仏が宿王華菩薩に告げて言う、もし人がこの薬王菩薩本事品を聞き、随喜し善を讃えるならば」などとある。また、「宿王華よ、この薬王菩薩本事品を汝に囑累する」とも述べる。さらに、「もし女人がこの品を受持するならば、この女身を尽くした後、再び受けることはない」ともある。『妙音品』の末尾では、経典を結集した者が「この妙音来往品を説く時に、四万二千の天子が無生法忍を得た」と記す。『普門品』の末尾でも、経典を結集した者が「仏がこの普門品を説かれた時、八万四千の衆生が皆、無等等阿耨多羅三藐三菩提を発心した」と記す。『陀羅尼品』や『厳王勧発品』の末尾も同様であり、故に「等」と述べるのである。
「譯人未聞」者,今經所無,若無集家之言,及無佛自唱語,似屬譯人以文中諸品先足,當知並是集者所置,信無譯人明矣。故今經自餘諸品,多是結集者所置,以無聞品益故,故品後無結耳。
「訳者未聞」とは、今の経典には見当たらない。もし編集者の言葉もなく、仏自らが唱えた言葉もなければ、訳者が文中の諸品を先に整えたものに似ている。これらはすべて編集者が置いたものであり、訳者が関与した証拠はない。したがって、今の経典の他の諸品の多くは、結集者によって置かれたものである。聞く品の利益がないため、品の後に結びの言葉がないのである。
以通從別應具四釋,以通序中句句皆存因緣等四,別序時或闕於一兩,故釋序字闕於四義。若二序相對,義立亦可,二序不同世界也。別序發起欣慕,即為人也;通序證信除疑,對治也。二序序正,第一義也。約教等三,具如釋三段中是也。若別約通序者,五義不同世界也。通皆除疑對治也,通皆生信為人也,通皆序正第一義也。餘三及別序,準此可知。
通序から別序を見るならば、四つの解釈を備えるべきです。通序の中では、どの文にも因縁などの四義が含まれていますが、別序では時として一つ二つ欠けることがあります。ですから、「序」という字を解釈する際には、四義のうち一部が欠けていることもあります。もし二つの序を相対的に見るなら、それぞれの意義を立てることもできます。二つの序は、世界のあり方(世界悉檀)が異なります。別序は人々の欣慕の心を起こさせるものであり、これは為人悉檀にあたります。通序は証信を示して疑いを除くものであり、対治悉檀にあたります。二つの序が正しい教えを序するという点では、第一義悉檀にあたります。約教悉檀などの三つについては、三段の解釈の中で詳しく述べられている通りです。もし特に通序について見るなら、五つの意義は世界悉檀の異なるあり方として捉えられます。通序はすべて疑いを除く対治悉檀であり、すべて信を生じさせる為人悉檀であり、すべて正しい教えを序する第一義悉檀です。残りの三つと別序については、この基準に従って理解することができます。
「佛赴緣」下,欲分節經文,先辨分文有無得失。於中四:先、汎引諸經論,次、古講者之失,三、明品非章段,四、汎示分節。初文者,全非分文。次、古失者,古來講者多無分節,至安公來,經無大小始分三段,謂序、正、流通。「殆」者危也。非今正意,亦幾也(幾,巨依切,近也),《西京賦》云「人生幾亡」。言「起盡」者,章之始末也。若分節已,大小各有總別起盡。三、「又佛說」下,意明立品但從義類不從文相,故貫散二相不可立品,亦非分節。四、「增一」下,經論亦有分節之例,況末代弘經須識賓主,故小乘三藏各有所開。《增一.序》云:「阿難說經無量數,今且總略為一聚,我今分之為三分,契經一分,律二分,阿毘曇經為三分。契經今當為四段,初名增一,二名中,三名曰長多,《瓔珞》雜經在後為四分,乃以四含名為四段」,故今承此借為分節。
「仏が縁に赴く」以下の部分について、経文の区切りを分けようとする前に、まず区切り方の是非を明らかにする必要があります。その中で四つの点を述べます:第一に、諸経論を広く引き合いに出し、第二に、古来の講釈者の誤りを指摘し、第三に、品が章段ではないことを明らかにし、第四に、区切りの方法を広く示します。
初めの文は、まったく区切りを分けるものではありません。次に、古来の誤りとは、昔から多くの講釈者が区切りを設けず、道安法師が現れてから、経の大小にかかわらず三つの段に分けるようになったことです。すなわち序分、正宗分、流通分です。「殆」とは危ういという意味です。これは今の本意ではなく、また「幾」に近いものです(幾は巨依切で、近いという意味です)。『西京賦』に「人生幾亡」とあります。「起盡」とは、章の始めから終わりまでのことです。もし区切りを分けたならば、大小それぞれに総と別の起盡があります。
第三に、「又仏説」以下の部分は、品の立て方は文の形ではなく、義理の類によってなされることを明らかにする意図です。したがって、貫と散の二つの相では品を立てることはできず、また区切りを分けることもできません。
第四に、「増一」以下の部分は、経論にも区切りの例があること、まして末法の世で経を広めるには主と客を見分ける必要があることを示しています。そのため、小乗の三蔵にはそれぞれ開きがあります。『増一阿含経・序』に言う:「阿難が説いた経は数え切れないほどあるが、今はひとまずまとめて一つの集まりとし、私はこれを三分する。すなわち契経一分、律二分、阿毘曇経三分である。契経は今四段に分ける。初めを増一と名づけ、二番目を中とし、三番目を長多と名づけ、『瓔珞』雑経を最後に四分とする。そして四つの阿含を以て四段と名づける」。そこで、今これに基づいて区切りを分ける方法を借りるのです。
「律開五部」者,佛滅度後一百年間毱多持法,所化眾生不相是非,但為一部不毘尼藏,即八十誦。一百年後毱多有五弟子,各執一見不能均融齊一,遂分一藏以為五異,如析金杖不失金用。今分文亦爾,雖分為多段,知大旨本一,以所分對本,故云及也。
「律が五部に分かれた」というのは、仏が入滅して百年の間、毱多が法を保持し、教化した衆生の間に争いはなく、ただ一つの部派としての律蔵があった。これが八十誦律である。
百年後、毱多に五人の弟子が現れ、それぞれが自らの見解を固執し、統一することができなかった。そのため、一つの律蔵が五つの異なる部派に分かれた。これは、金の杖を分割しても、その金としての本質は失われないのと同じである。
今、この文章を分けるのも同様で、多くの段落に分かれていても、その根本的な趣旨は一つであることを知るべきである。分かれた部分を元の全体に対応させて考えるので、「及ぶ」と言うのである。
「阿毘曇開六足」者,文中自引《阿含》六度,非《六足論》,如《增一》云:「菩薩發起大乘法,如來說此種種法,人尊說六度無極,布施、持戒、忍、精進、禪、智慧力如月初,逮度無極覩諸法」,佛說種種不出此六,亦似分章意也。若《六足論》,全非今意。如云:一、《集異門足》,一萬八千偈,舍利弗造;二、《法蘊足》,有六千偈,大目連造(此二論唐三藏譯);三、《施設足》、一萬八千偈,迦多演尼子造。唐三藏將來未譯,此三論佛在世造。四、《識身足》,有七千偈,提婆設摩造,即佛滅後百年。五、《品類足》,佛滅後三百年,世友造。六、《界身足》,有六千偈,三百年末亦世友造。迦多演尼子造《發智論》,以前六義少如足、《發智》義多如身,則足前而身後分義不便,況此六論並唐三藏將來,隋時未有,不合指之。況無分節之相中破云:前之三論既在佛世,如何却與佛滅後論為足?未必全然以身攝足耳。又《成論》云:「如六足阿毘曇說」者,指六足阿毘曇論,故不對《發智》為身,謂根性等者略列揵度,揵度西音此云法聚。以分一部為八聚故,謂業、使、智、定、根、大、見、雜。文云根性道定者,根性是根,道即是智,但略舉三,餘如向列。《大論》「問:八揵度誰造?六分阿毘曇從何處出?答:佛在無失。滅後百年,阿輸柯王會諸論師,因生別部,有利根者盡讀三藏,欲解佛經作八揵度,後諸弟子為後代人,不能全解作略阿毘曇,其初造者即迦旃延。」
「阿毘曇開六足」について、文中で自ら『阿含経』の六度を引用しており、『六足論』のことではありません。例えば『増一阿含経』には、「菩薩が大乗の法を起こすとき、如来はこの種々の法を説き、人尊(仏)は六度無極を説く。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の力は月初めの如く、無極に達して諸法を観る」とあります。仏が説く種々の法はこの六つを出ず、また章を分ける意にも似ています。もし『六足論』であれば、全く今の意には合いません。
例えば、一、『集異門足論』、一万八千偈、舎利弗造。二、『法蘊足論』、六千偈、大目連造(この二論は唐三蔵が訳す)。三、『施設足論』、一万八千偈、迦多演尼子造。唐三蔵が将来したが未訳、この三論は仏在世の造です。四、『識身足論』、七千偈、提婆設摩造、すなわち仏滅後百年。五、『品類足論』、仏滅後三百年、世友造。六、『界身足論』、六千偈、三百年末も世友造。迦多演尼子が『発智論』を造り、前の六論は義が少なく足の如く、『発智論』は義が多く身の如し。すると足は前で身は後となり、義を分けるに不便です。ましてこの六論はともに唐三蔵が将来したもので、隋の時代にはまだなく、これを指すのは合いません。また分節の相もなく、中で破って云う:前の三論は既に仏在世にあるのに、どうして却って仏滅後の論を足とすることができようか。必ずしも全てを以て身が足を摂するとは限りません。
また『成実論』に云う:「六足阿毘曇の説く如し」とは、六足阿毘曇論を指すので、『発智論』を身に対することはなく、根性などを謂うのは略して揵度を列するためです。揵度は西域の音で、ここでは法聚と云います。一部を八聚に分ける故で、業・使・智・定・根・大・見・雑を謂います。文に根性・道・定と云うのは、根性は根、道は即ち智であり、ただ三つを略挙し、残りは先に列した如し。『大智度論』に「問う:八揵度は誰が造ったか。六分阿毘曇は何処から出たか。答える:仏在世には誤り無し。滅後百年、阿輸柯王が諸論師を会し、部派が別れる因となる。利根の者は三蔵を尽く読み、仏経を解せんとして八揵度を作る。後の諸弟子は後代の人の為に、全く解することができずに略阿毘曇を作る。その初めに造った者は即ち迦旃延である」とあります。
「天親」下,次引今論有七功德、五示現等,以例分章。七功德者,論云:「此法門初第一品明七種功德成就:一者序成就。二者眾成就。三者從為諸菩薩說大乘經去,欲說時至成就。若說《無量義經》,即欲說《法華》時至也。四從說是經去,名所說法隨順威儀住成就,以入定故名威儀住。五從放光去,名依止說因成就,由放光故見他土說。六從彌勒疑念去,名大眾欲聞法現前成就,由問故答,故云欲聞。七從文殊答問去,名答問成就。」論云:「於序成就,又有二種,一者、一切法門中勝,謂如是等」,驗知論主全許一部為法門中勝,方指如是等為一切法門中勝,一切法門即一代教,不然如何消釋一切之言?既一代教中最為其上,具如〈藥王品〉中歎教文也。下六成就各有分節。五示現者,論亦云五分:一歎法勝妙分。二從吾從成佛去,歎法師功德分。三從爾時眾中去,智眾定疑分。四從佛告舍利弗去,定記分。五從舍利弗諸佛出五濁去,斷疑分。
「天親」の下に、次に今の論を引き、七つの功徳、五つの示現などがあり、例によって章を分ける。七つの功徳とは、論に言う:「この法門の初めの第一品は七種の功徳成就を明らかにする:一には序成就。二には衆成就。三には『諸菩薩のために大乗経を説く』より去り、説こうとする時が至った成就。もし『無量義経』を説くならば、すなわち『法華経』を説こうとする時が至ったのである。四には『この経を説く』より去り、名づけて所説の法が威儀に随順して住する成就、定に入るゆえに名づけて威儀住という。五には『光を放つ』より去り、名づけて依止説因成就、光を放つゆえに他土の説を見る。六には『弥勒の疑念』より去り、名づけて大衆が法を聞かんと欲する現前成就、問うゆえに答う、ゆえに欲聞という。七には『文殊の答問』より去り、名づけて答問成就。」論に言う:「序成就において、また二種あり、一には一切法門の中に勝れたる、すなわち『如是』などという」、論主が一部を全く法門の中に勝れたるものと許し、方に『如是』などを一切法門の中に勝れたるものと指すことを験知す、一切法門とは一代の教え、そうでなければ如何にして一切の言を消釈せん?すでに一代の教えの中で最もその上にあり、具に『薬王品』の中の教えを歎ずる文の如し。下の六つの成就は各々分節あり。五つの示現とは、論もまた五分と言う:一には法の勝妙を歎ずる分。二には『吾れ成仏より来たり』より去り、法師の功徳を歎ずる分。三には『爾時に衆中に去り』より、智衆定疑分。四には『仏、舎利弗に告げて去り』より、定記分。五には『舎利弗、諸仏は五濁に出で去り』より、疑いを断ずる分。
「河西」下,正明分節。河西如本傳,江東瑤即吳興小山寺(具如別傳)。
「河西」の下には、正しく分節を示す。河西は本伝の通り、江東の瑤はすなわち呉興の小山寺である(詳細は別伝に記す)。
「光宅轉細」者,如東安法師(唐東陽永安寺曠法師)講三論及《法華》等諸經,並著章疏。貞觀十三年正月十五日入滅,反屈三指,即第三果人也。著《法華疏》四卷。初云:自梁陳已來解釋《法華》,唯以光宅獨擅其美,後諸學者一概雷同。雲師雖往文藉仍存,吾鑽仰積年,唯見文句紛繁、章段重疊,尋其文義未詳旨趣。今對雲義以研法實,大師專破,良有以也。故知雲公望前轉繁,今家處中無彼二失,但存大旨不事繁碎。
「光宅転細」とは、例えば東安法師(唐の東陽永安寺の曠法師)が三論や『法華経』などの諸経典を講じ、章疏を著したことである。貞観十三年正月十五日に亡くなり、三本の指を反り返せたことから、第三果の人であるとされる。『法華疏』四巻を著した。初めに言うには、梁・陳の時代以来、『法華経』を解釈する者は光宅法師のみがその美を独占し、後の学者たちは一様にこれに追随した。雲師(光宅法師)はすでに世を去ったが、その文書はなお残っている。私は長年これを研究してきたが、ただ文句が煩雑で章段が重複しているのを見るだけで、その文義を探求しても趣旨が詳らかでない。今、雲師の解釈に対して法の真実を研鑽し、大師が特にこれを破ったのには、まことに理由がある。ゆえに雲公が以前に比べてますます煩雑になったことを知り、今の我々は中道に立ち、その二つの過ちを犯さず、ただ大旨を保ち煩瑣なことにこだわらないのである。
「重雰」下,章安斥古。雰者,猛雪重霧也,能翳太虛之清氣,使三光隱而失曜。故碎亂分文,失經之大道,三軌隱而靡用。津者,濟渡處也。若細分碎段,非求經旨者所宜,如在歧道有問路者,不答問者所之,而廣譚逵經,故非問者之要。曇鸞,北齊人,斥云:細科經文如煙雲等為疾風所颺。颺者,風飛也。隱翳太虛雜礪等者,準彼應作條例字,謂科條如塵,或是轉其言借勢用語,非全同彼故。砂石精者曰砥(音止)、麁者曰礪,雜塵隨颺同其煙翳。
「重雰」の下に、章安が古説を斥けている。雰とは、激しい雪や濃い霧のことで、大空の清らかな気を覆い隠し、日月星の光を隠して輝きを失わせる。だから、細かく分けて文を乱すことは、経の大道を失わせ、三軌が隠れて用いられなくなる。津とは、渡し場のことである。もし細かく区切って断片化すれば、経の趣旨を求める者にはふさわしくない。まるで分かれ道で道を尋ねる者に、尋ねた者の行き先を答えず、広く道筋を説くようなもので、尋ねる者の求めるところではない。曇鸞は北斉の人で、こう斥けている:経文を細かく科分することは、煙や雲が疾風に吹き飛ばされるようなものだと。颺とは、風に飛ばされること。大空を覆い隠す雑多な塵礫などに準えるなら、条理の字を用いるべきで、科条が塵のようだというか、あるいは言葉を転じて勢いを借りて用いているので、それと全く同じではない。砂石の精しいものを砥(音は「し」)といい、粗いものを礪といい、雑塵が風に舞い上がって煙のように覆い隠す。
言「若過」等者,以此望古進退俱失,是則曇鸞亦未全許碎擘經文。廬山龍兩解,前云身方便等者,意云,自〈寶塔〉已前說權說實,亦以《法華》前權為言方便,至《法華》為言真實也。從〈寶塔〉下,古佛現全身、今佛集分身,古身命今身、今身詣古身,二身俱處塔,表法今古同,身方便也。壽量久成塵點尚倍,中間被拂伽耶非真,身真實也。道理必然,偏立成失,前可無身後豈無說,但依權實本迹,任運俱收身說,若但語身說則本迹事昏,但譚本迹乃身說自顯。故〈壽量〉中云「或說己身,或說他身」,故身說具足。方便已下說必有身,何須致惑?第二釋中《玄》文廣破,以今二門各有因果故也。
「もし『過ぎる』などと言うならば」というのは、これを古い解釈と比較すると、進むのも退くのも共に誤りであり、これはすなわち曇鸞も完全には経文を細かく分割することを認めていなかったということです。廬山の龍樹は二つの解釈を示しています。前に「身方便など」と言ったのは、意味としては、〈宝塔品〉以前は権(仮)の説き方と実(真実)の説き方があり、また『法華経』以前の権教を言葉の方便とし、『法華経』に至って言葉の真実となったということです。〈宝塔品〉以降は、古仏が全身を現し、今の仏が分身を集め、古い身が今の身を命じ、今の身が古い身に赴き、二つの身が共に塔の中にあり、法が今も昔も同じであることを表しています。これが身の方便です。寿命が久遠の昔に成り、塵点劫よりもさらに倍するほど長く、その間に伽耶での説法は真実ではなく、これが身の真実です。道理は必然であり、偏って立てれば誤りとなります。前に身がなければならず、後に説きがなければならないでしょうか。ただ権実と本迹に依り、自然のままに身と説きを共に収めるのです。もしただ身と説きだけを語れば、本迹の事柄が曇ってしまいます。ただ本迹を語れば、身と説きは自ずと明らかになります。故に〈寿量品〉の中で「あるいは己の身を説き、あるいは他の身を説く」とあるので、身と説きが具足しているのです。方便以下には、説きがあれば必ず身があります。どうして惑いを招く必要がありましょうか。第二の解釈では『玄義』の文が広く破っています。今の二つの門にはそれぞれ因果があるからです。
「齊中興印」者,中興,寺名(具如別傳)。玄暢以迹門流通中〈達多〉、〈持品〉,及將本門〈壽量〉後流通中〈神力〉等,共為果分,果在本門。又分護持,護持即是流通異名,故不可也。
「斉中興印」とは、中興は寺の名である(詳しくは別伝に記す)。玄暢は迹門の流通部分である〈達多〉と〈持品〉、及び本門の〈寿量〉以後の流通部分である〈神力〉などを、共に果分とし、果は本門にあるとしている。また、護持を分けているが、護持は流通の別名に過ぎないので、これは適切ではない。
「又有師」去,此師意以正宗為體,但在迹正,不知却以本門之正反為流通,而云受持功德,迹與昔教容可有同,本與前經一向永異,翻將永異混亂流通,故不可用。
またある師は、正宗を本体とし、迹門の正法にのみ注目し、本門の正法が逆に流通の部分となることを理解していません。そして、受持の功徳について、迹門は過去の教えと共通する可能性があるが、本門は前の経典とは全く異なると述べています。しかし、この全く異なる本門の教えを流通の部分に混ぜてしまうのは、適切ではありません。
有師四段,但合二三為正,甚符經文;但闕立本迹二門,各有三段意耳。其名既闕,義恐不周。光宅二十四段者,具在彼疏云云者,象氣之分散,如雲在天非可卒量也。意言下未說者尚多如雲,下去皆爾。已下有列光宅分文者,多分與今大同小異。
師の説には四段あり、ただし二三を合わせるのが正しく、経文に甚だ符う。ただし、本迹の二門を立てることを欠き、それぞれ三段の意がある。その名が既に欠けているので、義は周到でない恐れがある。光宅の二十四段は、彼の疏に具在する云々というのは、気の分散を象るが如く、雲が天にあるがごとく、卒爾に量るべからざるなり。意は言う、下に未だ説かざるもの尚多く雲の如し、下に行く皆これに同じ。已下に光宅の分文を列するものあり、多くは今と大同小異なり。
「蘭菊」者,章安破計也。佛赴機說當時稱會,後代分節寄茲顯理,固執成諍進退俱非,縱有異同彼彼蘭菊,仍許得意者為言,縱不全違聖心,終是人之情見,若粗得通用,不須苦諍,恐失四益。《易》云「其臭如蘭」者,古人一向以氣為臭。
「蘭菊」とは、章安が誤った見解を破ったものである。仏は衆生の機根に応じて説法し、その時には人々が集い称賛した。後世になって章句を分け、ここに理を明らかにしたが、固執して争いとなれば、進むも退くも共に誤りとなる。たとえ異同があってそれぞれ蘭や菊のようであっても、真意を得た者を認めるという。たとえ聖人の心に完全に背かなくとも、結局は人の情に基づく見解に過ぎない。もし大まかに通用するならば、苦しんで争う必要はない。四つの利益を失う恐れがあるからだ。『易経』に「その香り蘭の如し」とあるが、古人は一貫して気を香りと見なしていた。
「天台」者,章安對古,故別云也。天台之名具如《止觀》記、今記等者,雖復兩存,且用初意,故云從前。
「天台」とは、章安が古い時代のものと対比させたため、特にこう呼ばれるのです。天台という名称の詳細は『止観』の注釈や現在の記録などにありますが、両方の説を残しつつも、まずは最初の意味を用いるため、「以前から」と言っているのです。
「問一經云何」等者?問意既存兩釋,問後何妨?所以二釋之中不專後釋者,以本正前立流通故,且一往耳。
「一経とは何を問うているのか」という問いについてですが、問いの意図には二通りの解釈がありますが、問いの後に解釈を加えることに何の問題があるでしょうか。二つの解釈のうち、特に後者の解釈にこだわらないのは、そもそも前段で流通の意義を立てているからであり、これはあくまで一応の解釈に過ぎません。
「答中云華嚴處處集眾」等者,處會具如《釋籤》所引,每一會處皆先序次正,以住處莊嚴義當於序。言「集眾」者,如〈妙嚴品〉、〈名號品〉、〈光明覺品〉及一一會,皆先集眾,意明一經具多別序。「阿含篇篇如是」者,此明一經多通序也。彼四《阿含》各合多小經以為一部,每一小經不出一紙半紙,唯《長阿含.遊行經》文獨有兩卷。又有大本經自為一卷,一一經首皆安五義。既以阿含而為通號,故以部內小經為篇。「大品前後付囑」者,明一經內有多流通,故第二卷中有〈累教品〉,為前付囑;第二十七有〈囑累品〉,為後付囑。準彼三經,二序何妨?言「不安五義」者,釋伏難。難云:若爾,何不同彼《阿含》?今本門亦安如是等耶?釋意者,雖申今經本門非首,然須更釋《阿含》之妨,《阿含》多通序,本門亦應然,然《阿含》兼別經是故非次首,亦得安五事。今經同一經故但別無通,是故但以《華嚴》為例。故《阿含》緣起各別,今經緣起不殊,是故本門不安五義。「迹門但單流通」者,以迹望本、以本例迹,本門非首但安別序,迹門非後但單流通,故但有勸持、無囑累也。故從〈法師〉至〈安樂行〉,凡有五品,明弘經福深以勸流通。若本門中先以滅後五品去三品半為勸持流通,從〈神力〉去凡有八品,明囑累流通,迹門之後經既未竟,非流通、次未須付囑。言「云爾」者,如後消文。
「答の中に『華厳は処々に衆を集む』とあるなど」とは、各会の場所と内容は『釈籤』に引用されている通りであり、それぞれの会座では必ずまず序文があり、次に本文が続きます。会場の荘厽さは序文に相当する意義を持っています。「衆を集む」というのは、例えば「妙厳品」「名号品」「光明覚品」や各会座の冒頭で、まず聴衆が集まる様子が描かれており、これは一つの経典の中に複数の別序があることを示しています。「阿含は篇篇かくの如し」とは、一つの経典に多くの通序があることを明らかにしたものです。四つの『阿含経』はそれぞれ多くの短い経典を集めて一つの部とし、それぞれの短い経典は一紙半紙を超えず、ただ『長阿含経・遊行経』だけが二巻に及ぶ長文です。また大本の経典は独立して一巻を成し、それぞれの経典の冒頭には五つの要素が置かれています。すでに阿含を総称としているため、部内の短い経典を篇としています。「大品は前後に付嘱あり」とは、一つの経典の中に複数の流通分があることを示しており、第二巻に「累教品」があり前付嘱とされ、第二十七巻に「囑累品」があり後付嘱とされています。この三経を基準とすれば、二序があっても何の妨げになるでしょうか。「五義を安ぜず」とは、潜在的な疑問を解消するための説明です。疑問としては、もしそうならば、なぜ『阿含経』のように今の本門にも同様の要素を置かないのか、というものです。解釈の意図としては、今の経典の本門が冒頭に位置しないことを述べつつも、『阿含経』との違いについてさらに説明する必要があります。『阿含経』には多くの通序がありますが、本門も同様であるべきです。しかし『阿含経』は別の経典を兼ねているため冒頭ではなく、五事を置くこともできます。今の経典は一つの経典として統一されているため、別序はあっても通序はなく、したがって『華厳経』を例としているだけです。よって『阿含経』の縁起はそれぞれ異なりますが、今の経典の縁起は特別ではないため、本門には五義を置きません。「迹門はただ単一の流通のみ」とは、迹門を本門と比較し、本門を例として迹門を見ると、本門は冒頭ではないため別序のみを置き、迹門は末尾ではないため単一の流通分のみがあるということです。したがって勧持はあっても囑累はありません。よって「法師品」から「安楽行品」までの五品は、経典を弘通する功徳の深さを説いて流通を勧めるものです。もし本門においては、まず滅後の五品から三品半を除いた部分が勧持流通とされ、「神力品」以降の八品が囑累流通を明らかにしています。迹門の後は経典がまだ終わっていないため、流通分ではなく、次の段階で囑累を必要としません。「云爾」とは、後の解釈文の通りであることを意味します。
言帖釋者,但今通途消經尚異諸見,況法華部又異諸經,故一一句四意消釋,仍恐後來不達四意,預為四重消釋四意。言「得意」者,至消文時,或四釋不備但存一二,餘者比知。
経典を解釈するにあたっては、通常の解釈方法でも諸説が分かれるものです。ましてや法華経は他の経典とは異なる特徴を持っています。そこで、一つの文句を四つの角度から解釈する方法を採用しました。しかし、後世の人々がこの四つの解釈法を理解できないことを懸念し、あらかじめ四重の解釈法を用意しておきます。「得意」とは、本文を解釈する際に、四つの解釈すべてを完備せず、一二の解釈だけを明示し、残りは類推によって理解させることを指します。
次釋四意所以中初問意者,若略但一廣應無量,既非廣略二途不成。匪者非也。何故唯作此四釋耶?
次に、四つの意味を解釈する理由について説明します。
最初の問いの意図は、もし簡略に言えばただ一つであり、広く説けば無量にあるはずだということです。すでに広略の二つの道筋は成り立たないのであれば、なぜこの四つの解釈だけを行うのでしょうか?
答中一文具有二意,一者總明四義所以,二明四中一一所以,兩義咸得以為處中,一者唯四不多不少。次「因緣」下,明一一不失不差,故一雖處中仍須至四,四攝義足故不須過;假使過此攝在四義,故四及一並名處中。如十妙等,一一妙中亦具四意,十亦入四猶名處中,今秖須此四,故得名中,故初意云廣則等也。若無初意尚不殊外計,況因緣語通通於一化,始自地獄終乎佛界,中間頓漸若教若味,故須知今大事四悉非餘感應,開顯四悉一道無外,久遠四悉諸經所無,觀心四悉一觀遍收,人理等四準說可見。以此四悉通於始末,約教等三亦須遍述,意則可知。若無次意不辨偏小,故以四八簡開廢等,望昔部教今方真實,一切能詮無復異稱,故須明之以彰妙典,無第三意誰知逈出。一期教中所譚身土,中間今日無非迹施,指彼大通猶如信宿,先愚密教復迷迹身,至此方袪守株尚昧,無第四意將何以辨能詮教功?將何以為久成行本?故一一句入心成觀。故云「觀與經合非數他寶」。方知《止觀》一部是法華三昧之筌罤。若得此意方會經旨,總斯四義方可略顯一部旨歸。故云「略則意不周」,當知二三尚略,一何能逮?處中至四令義易了,故一一句得斯四義,則使句句咸異諸教,則《法華》之義誠為不難,故云易了。
問いに対する答えの中に、一つの文章に二つの意味があります。一つは、四つの意義の全体を明らかにする理由であり、もう一つは、四つの中の一つ一つがなぜそうなのかを明らかにすることです。両方の意味とも「処中」とすることができます。一つ目は、四つだけがあって多くも少なくもないということです。次に「因縁」以下では、一つ一つが欠けることなく、間違いがないことを明らかにしています。ですから、一つだけでは「処中」であっても、やはり四つに至る必要があります。四つで意義を十分に含んでいるので、それ以上は必要ありません。仮にこれ以上あっても、四つの意義の中に含まれるので、四つも一つもともに「処中」と呼ばれます。例えば十妙などでは、一つ一つの妙の中にも四つの意味が備わっており、十も四つの中に入るので、やはり「処中」と呼ばれます。今はただこの四つだけが必要なので、「中」と名づけることができるのです。ですから、最初の意味では「広ければ等しい」と言うのです。もし最初の意味がなければ、外道の考えと変わらないでしょう。ましてや、因縁の言葉は一つの教化に通じ、地獄から始まって仏界に至るまで、その中間の頓教や漸教、教えや味わいを通じています。ですから、今の大事である四悉檀が、他の感応ではなく、開顕の四悉檀が一つの道で外がないこと、久遠の四悉檀が諸経にないこと、観心の四悉檀が一つの観で全てを収めることを知る必要があります。人理などの四つについても、説かれた通りに見ることができます。この四悉檀は始めから終わりまで通じており、約教などの三つについても、同様に述べる必要があります。その意味は理解できるでしょう。もし二番目の意味がなければ、偏った小乗を区別できません。ですから、四八を簡略化し、開廃などを望み、昔の部教に対して今こそ真実であり、全ての能詮に異なる呼び名はもうありません。ですから、それを明らかにして妙典を顕わす必要があります。三番目の意味がなければ、誰がはるかに優れていることを知るでしょうか。一期の教えの中で説かれた身と土、中間の今日は全て迹の施しにすぎません。あの大通を指すのは、まるで昨日今日のことのようです。以前は密教に愚かであり、また迹の身に迷っていました。ここに至って初めてそれを除き、守株のようにまだ迷っています。四番目の意味がなければ、どうして能詮の教えの功徳を弁え、どうして久成の行の根本とすることができるでしょうか。ですから、一つの句ごとが心に入って観を成します。ですから、「観が経と合うので、他人の宝を数えるのではない」と言うのです。こうして初めて『止観』一部が法華三昧の筌罤であることがわかります。この意味を得て初めて経の主旨を会得し、この四つの意義を総合して初めて、一部の旨帰を略説することができます。ですから、「略すれば意が周到でない」と言うのです。二つ三つでさえまだ略であり、一つではどうして及ぶでしょうか。処中から四つに至ることで、意義が理解しやすくなります。ですから、一つの句ごとにこの四つの意義を得れば、句ごとがすべて諸教と異なり、『法華』の意義は確かに難しくありません。ですから、「易しく理解できる」と言うのです。
次「因緣」下,明一一別釋,於中初是因緣;次「若十方」下,是約教;次「若應機」下,是本迹;次「若尋」下,是觀心。初因緣者,初文正釋,始從如是終至而去,無非真實感應道交,故知今經感應妙也。《法華》已前小及鈍根一向無機,理是而迷故名雖近,機生未契故云不見。慈亘始末名善根力,事理不同故名為遠。無謀而會故云自通。故爾前感應妙道未交,諸部異同教主優劣、被物漸頓施設不同,一一無非感應意也。雖通名感應,顯益未周;雖通名四悉,淺深差別。若兼若獨盈縮不馴,來至《法華》方成一味。言無機者,反以昔無而釋今有。
次に「因縁」の下に、一つ一つを別に解釈することを明かす。その中で初めは因縁であり、次に「若十方」の下は教えに約して、次に「若応機」の下は本迹であり、次に「若尋」の下は観心である。
初めの因縁について、初めの文は正しく解釈する。始めの「如是」から終わりの「而去」に至るまで、すべて真実の感応道交であって、今の経典の感応の妙なることを知るのである。『法華経』以前の小乗や鈍根の者は、一向に機縁がなく、理はそこにあるのに迷っているので、名は近いが、機縁が生じず未だ契わないので、見えないという。慈悲が始めから終わりまで貫いているのを善根力といい、事と理が異なるので遠いという。はからいなくして会うので自ずから通ずるという。それゆえ、以前の感応の妙なる道は未だ交わらず、諸部の異同や教主の優劣、物に施す漸頓の施設の違いは、一つ一つ感応の意にほかならない。感応と通称されていても、顕著な利益は未だ周遍せず、四悉檀と通称されていても、浅深の差別がある。兼ねることも独りであることも、満ち欠けが整わず、『法華経』に至って初めて一味となるのである。
「無機」というのは、昔の無きを反して今の有ることを解釈するのである。
「慈善根」下,正明今感故有,今應舉遠而通明時不差,無緣慈遍何擇遠近?但無機謂遠、有感必通,諸佛不來、眾生不往,機應相稱故曰道交。慈善根力者,相通事別,其事略如《止觀》第六記引《大經》十四〈梵行品〉,諸佛神變皆慈為本,故一切法皆由慈立。故經云「若有人問誰是一切法之根本,當言慈是」。故以感應攝一切法。
「慈善の根」の下に、今の感応が故にあることを正しく明らかにし、今は遠きを挙げて通じて明らかにし、時に差違なし。縁なき慈は遍く、何ぞ遠近を択ばんや。ただ機なきを遠しと謂い、感有れば必ず通ず。諸仏来たらず、衆生往かず、機応相称して故に道交と曰う。
慈善根力とは、相通じて事別なり。その事は略して『止観』第六記に引く『大経』第十四「梵行品」の如し。諸仏の神変は皆、慈を本とす。故に一切の法は皆、慈より立つ。故に経に云う「若し人問いて、誰か一切法の根本なるやと、当に慈是りと云うべし」と。故に感応を以て一切法を摂す。
次「夫眾生」下,疑問意者,既云四義乃曰處中,秖因緣一義尚機眾應眾,其義更廣,何名處中?義似過四,故云更也。所言眾者,即五乘九界等也。
次に「夫眾生」以下は、疑問の意を示す。既に四つの意義を述べて「処中」と称しているが、ただ「因縁」という一つの意義だけでも、すでに衆機に応じ衆生に応じている。その意義はさらに広く、どうして「処中」と呼べるのか。意義は四つを超えているように見えるから、「更也」と述べているのである。ここで言う「衆」とは、すなわち五乗・九界などを指す。
次「大經」下,答意者,四尚處中,一廣何爽?故事廣義中亦名處中,故引《大經》,門雖無量神通攝盡,神通即是應之異名,對感即名,感應故也。然神通之名義兼大小,感應之稱唯局在大,大中通於地住已上,今此正當極果用也。故神通之稱一名攝諸,尚得名略,義非廣略豈不處中?能應既然,所應準此,故設應雖眾不過於慈,求脫雖多詎出於感,故感應二字處中明矣。
次に「大経」の下の答えの意味は、四つの尚(なお)が中にあり、一つが広くて何の妨げがあろうか。故に、事が広く義が中にあることもまた「処中」と名づけられる。それゆえ『大経』を引き、門は無量であれども神通によって尽くされる。神通とはすなわち応の異名であり、感に対して即ち名づけられる。感応なるが故である。しかし神通という名の義は大小を兼ね、感応という称はただ大に限られる。大の中では地住以上に通じるが、今ここでは正に極果の用に当たる。故に神通という称は一つの名で諸々を摂し、尚(なお)略と名づけ得る。義が広略でないならば、どうして処中でないことがあろうか。能応がこのようであるならば、所応もこれに準ずる。故に応を設けることは多くあれども慈を超えず、解脱を求めることは多くあれども感を出でることがあろうか。故に感応の二字は処中に明らかである。
次「若十方」下,約教中先舉廣出妨;次「今論」下,釋出處中。初出妨者,感應二名雖即處中,通論化事,十方六塵教法彌廣,是則約教處中不成。次釋者,今論娑婆唯稟聲教,雖有顯密若開若廢,望彼諸土亦名處中,是則令前聲教感應處中更明。「則甘露門開」者,則言乃表唯聲益故,實相為甘露,諸教為其門,門無開閉、理非通塞,此土入者不假餘塵,由之通理故曰門開。言「依教」者,應云聲教,但是言略,雖有滅後色經,乃至名句行蘊所攝,淨名香飯及以法行思惟悟等,並以金口聲教為本,不少不多故云明矣。
次に「若十方」以下は、教えについて述べた中で、まず広く妨げを挙げ、次に「今論」以下は、その出処を解釈しています。初めの妨げとは、感応という二つの名は確かにその中にあるものの、広く教化の事柄を論じれば、十方世界の六塵による教法は極めて広大であり、これによって教えに即して中道を立てることは成立しがたい、ということです。
次に解釈すると、今ここで論じている娑婆世界では、ただ声による教えを受けるのみであり、顕教・密教があっても、開顕したり廃したりするとしても、他の諸土と比べれば、これもまた「中道」と名付けることができます。これによって、先に述べた声の教えによる感応が中道であることが、さらに明らかになります。
「則ち甘露門開く」というのは、「則ち」という言葉は、ただ声による利益のみを示しているからです。実相を甘露とし、諸々の教えをその門とします。門には開閉がなく、理には通塞がない。この国土で悟りに入る者は、他の塵境を借りる必要がなく、これによって理に通ずるので、「門開く」と言うのです。
「教えに依る」と言うのは、正確には「声の教えに依る」とすべきですが、言葉を略しているのです。滅後の色経があっても、名句・行蘊に含まれるものであっても、『維摩経』の香飯や、法行・思惟によって悟るなどの場合でも、すべて金口の声の教えを根本としています。多くもなく少なくもないので、「明らかである」と言うのです。
約本迹者,亦先舉廣辨妨;次「從須置指」下,釋出處中;次「故肇」下,引肇證成。初文者,應機舉前因緣,設教舉前約教,機多教異其迹必廣,當知本迹不名處中。若準門開之言,則唯圓處中,已如前說,今將本望迹中間今日,聲教感應開已復施,廢竟還設故云權實。一代尚廣況實成後,中間施化對機差別。言「淺深」者,權實理定、淺深義通,故重言之。次明處中者,前以聲教望於感應,故將娑婆而對十方,則娑婆聲教處中義足。今欲論一本故却對多迹,迹多雖廣如指一月眾影自歸,豈以能指四指有四,令所指一月非一?故置迹尋本處中明矣。次引肇者,但借其言不用其事。肇用融公九轍,九轍未當,引者如何?故彼本迹無生轍云「多寶不滅、釋迦不生,多寶本也、釋迦迹也。本不滅、迹不生,不生不滅本迹雖殊不思議一。」豈得以多寶之本,垂於釋迦之迹?若借彼顯今,以久為本、望今為迹,本迹雖殊不思議一也。
約本迹についても、まず広く妨げを弁じ、次に「須置指より」以下で処中を解き明かし、次に「故に肇」以下で肇の言葉を引いて証拠とする。初めの文は、機に応じて前の因縁を挙げ、教えを設けて前の約教を挙げる。機は多く教えは異なるため、その迹は必ず広くなる。当に知るべし、本迹は処中とは名づけない。もし門開の言葉に準ずれば、ただ円のみが処中であり、すでに前に述べた通りである。今、本を迹に望み、中間の今日において、声教と感応は開かれた後も再び施され、廃された後もまた設けられる。故に権実という。一代の教えはなお広く、まして実成の後の、中間の施化は機に対する差別がある。「浅深」と言うのは、権実の理は定まっているが、浅深の義は通じるから、重ねて言うのである。次に処中を明かす。前に声教を感応に望んだので、娑婆を十方に対し、娑婆の声教は処中の義が足りる。今、一つの本を論じようとするので、かえって多くの迹に対し、迹は多く広いが、指で月を指すように多くの影は自ずから帰する。どうして四本の指で月を指せば、指される月が一つでなくなることがあろうか。故に迹を置いて本を尋ねれば、処中が明らかである。次に肇を引くのは、ただその言葉を借りて、その事を用いない。肇は融公の九轍を用いるが、九轍は適切でない。どうして引くことができようか。故に彼の本迹無生轍に「多宝は滅せず、釈迦は生ぜず。多宝は本なり、釈迦は迹なり。本は滅せず、迹は生ぜず、生ぜず滅せず、本迹は雖も殊れども、不思議一なり」とある。どうして多宝の本を以て、釈迦の迹に垂れることができようか。もし彼を借りて今を顕わすならば、久遠を本とし、今を迹と望む。本迹は雖も殊れども、不思議一である。
次明觀心者,亦先舉廣辨失;次但觀下,正明處中。初尋迹等言語前三意,有解無行何益自他?迹遍十方故名為廣,本指最初故名為高,徒尋他果之高廣,何益己因之該深?若以信行為乘,及知常住遠壽,尋他高廣有何不可?但設教顯本本令契理,故不契理名數他寶。《華嚴》經偈具如《止觀》記及《釋籤》,但觀心故,達己心之高深,見己本也;以理攝故,達己心之該廣,見己迹也。一念心起徹實相底故名為高,具足諸法故名為廣。又即權而實故名為高,即實而權故名為廣。若非此觀但感前三應,則教下須開、果權須廢,故教被會名為有窮,權觀須改機非妙感,是故機成親能有感,觀成入位己利非他,是故觀心具上三意,況入位有本、垂迹設教,三義具足何得不用?故觀心處中,雖則四意展轉相生,以前前為廣、後後為中,但存當分皆名中故。故此四意從事名殊,應以後後轉入前前,總而論之不逾感應。但初名感應者,且捨通從別,以無下三麁妙莫辨,是故四悉淺深未分,故得聲教方辨感應權實不等,會歸圓極教之功也。雖知圓極並在今經,猶覆久成而迷其本,若拂迹應咸由本垂,開迹中感應,即本地感應,本迹秖是一妙高廣,雖知高廣機成由觀,觀成有感真感應也。故知感應通貫下三,況復一一展轉相攝,理雖相攝事必甄分。
次に、観心について明らかにします。これもまず広く失いを弁じ、次にただ観るという下の部分で、正しく中道の境地を明らかにします。初めに、言葉の前に三つの意味を尋ねるのですが、理解があっても実践がなければ、自分にも他者にも何の益があるでしょうか?跡は十方に遍く広がっているので「広」と呼ばれ、本は最初を指すので「高」と呼ばれます。ただ他者の果ての高さや広さを探し求めるだけで、どうして自分の因の深さや広がりに益があるでしょうか?もし信と行を乗り物とし、常住の遠い寿命を知るならば、他者の高さや広さを探し求めることに何の問題があるでしょうか?しかし、教えを設けて本を明らかにするのは、理に合うようにするためです。だから、理に合わないのは、他人の宝を数えるようなものです。
『華厳経』の偈は、『止観』の記述や『釈籤』に詳しくありますが、ただ心を観ることで、自分の心の高さと深さを知り、自分の本を見るのです。理によって摂取されるので、自分の心の広がりを知り、自分の跡を見るのです。一念の心が起こり、実相の底に徹するので「高」と呼ばれ、諸法を具足するので「広」と呼ばれます。また、権が即実であるので「高」と呼ばれ、実が即権であるので「広」と呼ばれます。もしこの観がなければ、ただ前の三つの応に感じるだけで、教えの下では開く必要があり、果ての権は廃する必要があります。だから、教えが会されるのは「有窮」と呼ばれ、権の観は改める必要があり、機は妙感ではありません。だから、機が成り親しむことができて初めて感じることができ、観が成り入位して自分の利益となり、他者ではありません。だから、観心は上の三つの意味を具えています。ましてや、入位には本があり、跡を垂れて教えを設けるので、三つの意味が具足しています。どうして用いないことがあるでしょうか?
だから、観心が中道に位置するのは、四つの意味が展転して相生するからです。前の前を「広」とし、後の後を「中」としますが、ただ当分に存するので、皆「中」と呼ばれるのです。だから、この四つの意味は事によって名が異なりますが、後の後が前の前に転入するべきです。総じて論じれば、感応を超えることはありません。ただ、初めを「感応」と呼ぶのは、通を捨てて別に従うからです。下の三つがなければ、粗妙を弁じることができず、四悉の浅深も分かれません。だから、声教によって初めて感応の権実の不等を弁じ、円極に帰するのが教えの功徳です。
円極が今の経典にあることを知っていても、久成を覆ってその本を迷うことがあります。もし跡の応を払えば、皆本から垂れるものであり、跡の中の感応を開けば、即ち本地の感応です。本と跡はただ一つの妙なる高さと広さです。高さと広さを知っていても、機が成るのは観によるものであり、観が成って感じるのが真の感応です。だから、感応は下の三つに通貫していることが分かります。ましてや、一つ一つが展転して相摂するので、理は相摂しますが、事は必ず甄分されます。
「三引證」者,初證感應;「又云」下,證教相;「壽量」下,證本迹;「譬喻」下,證觀心。初文先引,「若人天」下,釋。初言因緣者,即感應之別名,名異義同故得為證,但因緣名通不局能所,故《止觀》第一云:「或因於聖、緣於凡,或因於凡、緣於聖,縱無強弱亦可互為。何者?從機則機親而應疎,從應則應親而機疎,故使更互受名不同。」但感應之名不可互立,大事因緣雖在迹門,據理應須雙指本迹,但佛出世正為顯實,故且從迹。又復讓下本迹故也。釋中先舉非;次「實相」下,顯是。初舉非中所以不簡三教菩薩,唯斥人天小乘者,具如《玄》文。從難從要,下去例然。言「不成機感」者,非今經之廣博實相因緣故也。次顯是中,既以實相一大對簡小理,其義即足,故不暇開等兼等簡之,既得云大亦應云深。言「佛指此為事」者,理不名事,但佛欲以此理化人,故名為事,能化所化故云因緣。
「三引證」とは、初めに感応を証し、「又云」以下で教相を証し、「寿量」以下で本迹を証し、「譬喻」以下で観心を証すものです。初めの文はまず引用し、「若人天」以下で解釈しています。初めに「因縁」と言うのは、すなわち感応の別名であり、名は異なれど義は同じであるから証とすることができます。ただし、因縁という名は広く通じ、能所に限定されないため、『止観』第一に次のようにあります。「あるいは聖によって因とし、凡によって縁とし、あるいは凡によって因とし、聖によって縁とする。強弱がなくても互いになりうる。なぜか。機に従えば機は親しく応は疎らであり、応に従えば応は親しく機は疎らである。それゆえ互いに名を受けることが異なるのである。」しかし、感応という名は互いに立てることはできません。大事因縁は迹門にあるとはいえ、理に基づけば本迹の両方を指すべきですが、仏が世に出たのは正しく実を顕わすためであるから、ここでは迹に従っておきます。また、下の本迹に譲るためでもあります。解釈の中ではまず非を挙げ、次に「実相」以下で是を顕わしています。初めに非を挙げる中で、なぜ三教の菩薩を選ばず、ただ人天小乗を退けるのかについては、詳しくは『玄』文にあります。難に従い要に従うということで、以下も同様です。「機感を成さず」と言うのは、今の経の広博なる実相因縁ではないからです。次に是を顕わす中では、すでに実相という一大をもって小理に対し簡別しているので、その義は十分であり、したがって開や等や兼などを簡別する暇はありません。すでに「大」と言うことができるならば、「深」とも言うべきです。「仏がこれを事と指す」と言うのは、理は事とは名づけられませんが、仏がこの理をもって人を教化しようとされるから、事と名づけるのであり、能化と所化があるから因縁と言うのです。
次證教中,初正引;次「當知」下,結教意;三「大經」下,重引。初正引者,種種之言義兼一代,若在他部意未必然。「佛道」者,別指今教,故自此已前意歸於此。次結意者,微謂諸教初心人天小善,著謂諸教果德,權實微著皆為獨顯,故云筌蹄。種種之言及以微著,必須八教方顯四味為醍醐,筌蹄是;故筌蹄並譬能通,權教權部並為一實魚免而施設也。或作蹏。《蒼頡篇》云:「取免具也」。《莊子》云:「得免忘蹄」。作此「蹄」字,今時俗依之,《說文》作「罤」。若言蹄是足者,能詮不成。若言蹄是迹者,其義亦疎。尋迹得免,義豈爾耶?今須從義以罤為正。次引《大經》者,引彼《大經》重證今部,則以一實為第一義,麁軟須指四味權實。
次に教えを証する中で、初めは正しく引用し、次に「当知」以下は教えの意を結び、三つ目の「大経」以下は重ねて引用する。初めの正しい引用とは、「種々」という言葉の意味は一代の教えを兼ねるが、もし他の部派にあったなら、その意は必ずしもそうではない。「仏道」とは、特に今の教えを指すので、これ以前の意はすべてここに帰する。次に意を結ぶとは、「微」とは諸教の初心の人天の小善を指し、「著」とは諸教の果徳を指す。権実の微著はすべて独り顕わすためであり、故に「筌蹄」と云う。種々の言葉および微著は、必ず八教によって四味を顕わして醍醐とし、筌蹄となる。故に筌蹄はともに能通を譬え、権教権部はすべて一実の魚兎のために施設される。あるいは「蹏」とも作る。《蒼頡篇》に云く、「兎を取る具なり」。《荘子》に云く、「兎を得て蹏を忘る」。この「蹄」の字を用いるが、今の俗にはこれに依る。《説文》には「罤」と作る。もし蹄を足と解すれば、能詮は成り立たない。もし蹄を跡と解すれば、その義も疎かである。跡を尋ねて兎を得るとは、その義は果たしてそうであろうか。今は義に従って罤を正とすべきである。次に《大経》を引くとは、彼の《大経》を引いて今の部を重ねて証し、一実を以て第一義とし、粗軟は必ず四味の権実を指す。
引證本迹中三:初約師,次約弟子,三結。初文又二:初正引本文;次「方便」下,引迹文。以迹中此文密示本意故也。若顯露說即迹中本迹,下文顯已通得引用。「弟子」者,亦是舉資密顯於師,弟子尚非實小,驗知師非近成,利根縱其已知,須待彌勒扣發,見本眷屬聞說不疑。言「云云」者,廣在下文,兼斥古今諸師,尚不知師之本迹因果特出諸教,況弟子耶?又弟子之本諸經容有,如文殊、觀音等也。師之久本出自今經,證觀心中先引。次「當知」下,結意。初文者,事論秖是信身子說,義當見佛。汝所說者必從佛聞,能聞之人必是聲聞菩薩故也。故聞汝說即是見佛等也。次結意者,所聞是法,於能觀心即名為佛,義當見佛,心所即是弟子等也。即於己心識三寶一體其理宛足,具如聞說已下文是。
本迹の三つを引いて証とする中で、初めは師について、次に弟子について、三に結ぶ。初めの文はまた二つに分かれる:初めは正しく本文を引き、次に「方便」以下は迹文を引く。迹の中のこの文は密かに本意を示すからである。もし顕露に説くならば、迹の中の本迹となり、下文には顕かに既に通じて引用できるとある。「弟子」とは、また資(弟子)を挙げて密かに師を顕わすことである。弟子ですら実の小乗ではないことをもって、師が近成(近い成仏)ではないことを験証する。利根の者はたとえ既に知っていても、弥勒の問いかけを待たなければならず、本眷属が説法を聞いて疑わないのを見る。「云云」というのは、詳しくは下文にあり、古今の諸師を兼ねて斥ける。諸師は尚、師の本迹の因果が諸教に特に出ていることを知らない、まして弟子についてはなおさらである。また、弟子の本は諸経に容れられていることがある、例えば文殊、観音などである。師の久遠の本は今経から出ている。証観心中に先ず引く。次に「当知」以下は、結意である。初めの文は、事論としてはただ信じて身子(舎利弗)の説くことを受け入れ、義としては仏を見るに当たる。汝が説くところは必ず仏から聞いたものであり、能聞の人は必ず声聞・菩薩であるからである。故に汝の説を聞くことは即ち仏を見ることに等しい。次に結意は、聞くところは法であり、能観の心においては即ち仏と名づけ、義としては仏を見るに当たり、心の所は即ち弟子などである。即ち己が心に三宝一体の理を識り、その理は宛然として足りる。具に聞説已下の文の如し。
注「云云」者,將向觀義,對聞說已下文唯在一念。又若具足,應約因緣、約教本迹以明觀心,則有三觀對境因緣,諸教理觀三寶境本觀迹,及施開等思之可見。
「云云」とあるのは、観心の意義に向かって、聞いたことに対して説かれた以下の文は、ただ一念のうちにあることを示しています。また、もし詳しく述べるならば、因縁に基づき、教えの本迹に基づいて観心を明らかにすべきであり、そうすれば三観が対境の因縁となり、諸教の理観が三宝の境となり、本観が迹となり、施開などが考えられることが分かります。
「示相」者,唯約今經示四種相,雖始自如是終乎而去皆用四意,但文勢起盡用與不同,如釋通序則句句須四,通貫正宗及流通故;若釋正宗則本迹各三,義通四種;若釋流通還須具四,通收正宗。又正宗中迹門既闕久遠本迹,所以借用體用本迹,則四名不闕。又序中約教須觀文勢,或須以五時分別,則教在其中;或須以諸教分別,則將時以判。正中約教則一向明開,本中約教則不從教判,但點遠本遠妙自彰。若解斯文則一部經心如觀指掌,四意消釋無勞再思,故今且寄三段大文通示其相,既了通已還將此意委悉別消。初因緣中未暇歷品,且示三段即種、熟、脫。然種等三亦須約於序等三法以辨因緣。若唯序等則無階降過未因果,若唯種等聞無所從,以種等三於序等三,所從得益不同故也。且如序中通序在滅後,別序通過現,若佛在世別序五中節節益異,如說《無量義》密得種等三益不同,故覩定見光覺動蒙華,乃至問答亦有種等三益可知。正中本迹諸品不同,故通別序至佛滅後,被流通人勸持誦說,亦有種等,況正宗耶?故寄此兩三方曉因緣。
「示相」とは、今の経典において四種の相を示すことに限ります。始まりの「如是」から終わりの「而去」まで、すべて四つの意を用いますが、文の流れの始まりと終わりによって使い方は異なります。例えば、通序を解釈する場合は句ごとに四意を用いる必要があります。これは通序が正宗と流通を貫いているからです。正宗を解釈する場合は、本門と迹門それぞれに三つの意があり、その意味は四種に通じます。流通を解釈する場合も四意を備える必要があり、正宗全体を含むからです。また、正宗の中の迹門には久遠の本迹が欠けているため、体用の本迹を借りて用いることで、四つの名称が欠けることはありません。
序分において教相を論じる場合は、文の流れを観察する必要があります。時には五時で分別する必要があり、その場合、教相はその中に含まれます。時には諸教で分別する必要があり、その場合は時をもって判じます。正宗において教相を論じる場合は、一貫して開顕を明らかにします。本門において教相を論じる場合は、教相から判じるのではなく、遠い本門と遠い妙法を指し示すことで、自然にその妙が明らかになります。
この文を理解すれば、一つの経典の心を掌を見るように明らかに知ることができ、四意による解釈は再考する労もいりません。そこで今、三段の大文に仮託して、その相を通して示します。通して理解した後、この意を用いて詳しく別に解釈していきます。初めの因縁の中では、いちいち品を追う暇はありませんが、三段を示せば、すなわち種・熟・脱となります。しかし、この種・熟・脱もまた序・正宗・流通の三法に基づいて因縁を弁える必要があります。もし序・正宗・流通だけでは、階位や過去未来の因果がありません。もし種・熟・脱だけでは、聞くところがありません。種・熟・脱の三つが序・正宗・流通の三つに対して、従うところと得る利益が異なるからです。
例えば、序分では通序は滅後を、別序は過去と現在を通じています。もし仏が在世であれば、別序の五つの節ごとに利益が異なります。『無量義経』を説く際には、密かに種・熟・脱の三つの利益が異なって得られるように、定を見て光を覚え、動きに華を蒙るなど、問答にも種・熟・脱の三益があることがわかります。正宗では本門と迹門の諸品が異なるため、通序と別序は仏滅後に至り、流通の人々に勧めて持ち誦し説かせるにも、種・熟・脱があります。まして正宗においてはなおさらです。したがって、この二、三の例によって因縁を理解することができます。
初約種等者,須寄教相方分有無,故諸教因緣長短不等。如三藏人三祇百劫,秖云自修六度肥功德身相好莊嚴,與物結緣為種熟脫。通教初心自行,近從七地留惑潤生,與物結緣云初下種。兩教入滅無未來化,但成佛時而熟脫之。教權理權非今經意,別教初地尚能具之,何況果滿?別教雖具教終是權,況復能有本因遠種,今經本迹二門施化並異他經,此文四節良有以也。故四節中唯初二節,名本眷屬。初第一節,雖脫在現,具騰本種故名本眷屬。今不云是本者,以同在今始脫故也。本種近脫者,以彌勒不識發疑故來偏得本名,然現脫者若未得佛智,猶未能知種,今出其意耳。於中為二:初明種等三,次明序等三。初文四:初正明因緣;次「雖未」下,釋疑;三「其間」下,約三世九世以釋因緣;四「何以故」下,引證三世九世因緣。初文即是四節示相,初之一節本因果種,果後方熟王城乃脫。
初めに「種など」とあるのは、教えの相(様相)に応じて有り無しを分けなければならないからです。そのため、諸々の教えにおける因縁の長短は一様ではありません。例えば、三蔵教の人々は三阿僧祇劫・百劫の修行を経て、ただ自ら六波羅蜜を修め、功徳の身を肥えさせ、相好を荘厽し、衆生と縁を結んで種・熟・脱の三益を施します。通教では初心の修行者も、近くは七地において煩悩を残して衆生を潤し、縁を結んで初めに種を下します。この二教(蔵・通)は入滅すれば未来の化益はなく、ただ成仏の時に熟・脱を成し遂げます。教えも理も権(方便)であり、今の経(法華経)の意ではありません。別教では初地においてすらこれを具え、ましてや果が満ちればなおさらです。別教はこれを具えていても、教えは結局は権であり、ましてや本因遠種(久遠の昔からの因種)を持つことなどできません。今の経の本門・迹門の二門による教化は、他の経典とは異なっています。この文の四節があるのは、まことに理由があるのです。ですから四節のうち、ただ初めの二節だけが「本眷属」と呼ばれます。最初の第一節は、脱益が現世にあっても、本種(久遠の種)を具えているので本眷属と呼ばれます。今、これを「本」と言わないのは、同じく今始めて脱するからです。本種が近く脱する者(弥勒など)は、弥勒が識らずに疑いを発したために、特に「本」の名を得たのです。しかし、現に脱する者でも、もし仏智を得ていなければ、なお種を知ることができません。今、その意を述べたまでです。この中で二つに分けます。初めに種・熟・脱の三益を明かし、次に序・正・流通の三段を明かします。初めの文は四つに分かれます。初めに因縁を正しく明かし、次に「雖未…」以下で疑いを解き、三に「其間…」以下で三世・九世を約して因縁を解釈し、四に「何以故…」以下で三世・九世の因縁を証拠立てます。初めの文はすなわち四節を示す相で、最初の一節は本因果種であり、果後に熟し、王城において脱するのです。
次「復次」下,本因果種,果後近熟,適過世脫。指地踊者,故知地踊云本眷屬者,乃是本種近世始脫;既彌勒不識,非極近也。次中間種,昔教熟今日脫。
次に「復次」以下は、本因・本果の種であり、果後の近熟であり、適切に世を過ぎて解脱した者を指す。地より踊り出づる者を指すのであるから、地踊の本眷属と称する者は、すなわち本種の近世に始めて解脱した者であると知るべきである。弥勒すら識らなかったのであるから、極めて近い者ではない。次に中間の種は、昔の教えによって熟し、今日解脱した者である。
次「復次」下,今日種未來熟未來脫。此四節者且取大概,本因本果訖至中間近世今日,竪深橫廣何但四節,乃至未來永永不絕。若不爾者,現果無因現因無果,還同灰斷化無始終,故知節節重重無極,而終以佛乘三段為本,而以人天三教助顯。
さらに、次に「復次」以下は、今日の種が未来に熟し、未来に解脱することを示しています。この四つの段階は、大まかな枠組みを示したものであり、根本の因から根本の果へ、そして中間の時代を経て近世、今日へと至るまで、縦に深く横に広がり、四つの段階だけにとどまらず、未来へと永遠に続いていきます。もしそうでなければ、現在の果には因がなく、現在の因には果がないことになり、それは灰身滅智の断見に還り、教化には始まりも終わりもなくなってしまいます。したがって、段階は重なり合って無限に続くが、最終的には仏の教えを三段階で示すことが根本であり、人天の三つの教えを補助として明らかにしていくのです。
「雖未」下,釋疑也。今明因緣,準文次第且合在迹。探約本地中間者,正兼本迹示一部相,取後文意、取化儀意。次約「三世九世」者,具如《止觀》第一記引《華嚴》、《瓔珞》,故知盡未來際三世九世種熟脫三,是則念念三密、念念三九、念念三段、念念逆順、念念身土,一一不同一一入實。
「雖未」以下は、疑問を解き明かすための部分です。ここでは因縁について説明しますが、経文の順序に従えば、まずは「迹」(顕現された姿)の側面から論じるのが適切です。しかし、ここでは「本地」(根源的な境地)と「迹」の中間を探りながら、正しくも兼ねて本と迹の両面から経典全体の姿を示し、後の文意や教化の方法の意図を汲み取っています。
次に「三世九世」についてですが、これは『止観』第一の注記で引用されている『華厳経』や『瓔珞経』に詳しく説かれている通りです。したがって、未来の果てまで続く三世(過去・現在・未来)や九世(三世をさらに細分化した時間)において、種(仏種を植える)、熟(仏種を成熟させる)、脱(解脱に至る)という三つの段階が尽きることはありません。つまり、一瞬一瞬に三密(身・口・意の三業が清浄であること)があり、一瞬一瞬に三
四引本文證者,證三世也。若有三世即有九世,九秖是三故且通證大體三世,念念三世準例可知。神通屬過去,通義其實通於三世,對餘二別故。師子是現、威猛是未,為令知佛化緣遠故,還引本文舉遠攝近以證四節。
四つの引用で本文を証明するとは、過去・現在・未来の三世を証明することです。三世があれば九世もあり、九世は結局三世に帰するので、まずは三世の大枠を通して証明します。一瞬一瞬の三世も、同様に理解できるでしょう。神通は過去に属し、その意味は実は三世に通じますが、他の二つと区別するためにこう述べています。獅子は現在、威猛は未来を表し、仏の教化の縁が遠くまで及ぶことを知らしめるためです。本文を引用して遠きを挙げ、近きをも包摂することで、四つの節を証明しているのです。
「以如是」下,約序等三。初文先通指二序,故云序分通無可表故。「眾見」下,別指別序,為生正之由,故云眾見希有。「顒顒」者,仰也。「佛乘機」下,正宗。三「非但」下,正明正宗為流通之本。三段既其俱生種等,則知字字句句會會味味,世世念念常為眾生,作一佛乘種熟脫也。
「このように」以下の文は、序分・正宗分・流通分の三つの区分について述べています。最初の文では、まず二つの序分(通序と別序)を総括して指し示しており、「序分通無可表故」とあります。次に「衆見」以下では、別序を特に指し示し、これが正宗分を生じる契機であるため、「衆見希有」と述べています。「顒顒」とは、仰ぎ見るという意味です。「仏乗機」以下は、正宗分についてです。三番目の「非但」以下では、正宗分が流通分の根本となることを明らかにしています。この三つの区分は、すべて衆生の仏種を生じさせるものであり、したがって一字一句、一つの会座、一つの法味、一つの世代、一つの念いが、常に衆生のために一仏乗の種を蒔き、熟させ、解脱へと導くものであることがわかります。
此文且從今部大判,如今釋迦說此經時,通五別五無非因緣,即證信之因緣,發起之因緣。又通五和合之因緣,別五次第之因緣。故從序至正於得脫者,故云開示悟入。降此之外餘皆種熟,故未脫者益在流通,故云遠霑妙道,並是此經之感應。
この経典は、今の部類から大きく見ると、釈迦がこの経を説かれた時、五つの通じる因縁と五つの別の因縁があり、これらはすべて因縁によるものである。つまり、信を確かめる因縁と、発心を起こす因縁である。また、五つの通じる因縁が和合する因縁と、五つの別の因縁が順序立てられる因縁がある。したがって、序文から本論に至るまで解脱を得る者があるので、「開示悟入」と言われるのである。これ以外の者はすべて種が熟する段階にあり、まだ解脱していない者には流通の利益がある。それゆえ、「遠く妙道に霑う」と言われ、これらすべてがこの経典の感応によるものである。
言「後五百歲」者,若準《毘尼母論》,直列五百,云:第一百年解脫堅固,第二百年禪定堅固,第三百年持戒堅固,第四百年多聞堅固,第五百年布施堅固。言後五百最後百耳。有人云:準《大集》有五五百,第一乃至第四同前,唯第五五百云鬪諍堅固。言後五百者,最後五百也。若單論五百,猶在正法。雖出論文其理稍壅,然五五百且從一往,末法之初冥利不無,且據大教可流行時,故云五百。故序等三莫非感應。
「後の五百歳」という言葉について、『毘尼母論』に基づくと、単に五百を列挙して次のように言っています。第一の百年は解脱が堅固であり、第二の百年は禅定が堅固であり、第三の百年は持戒が堅固であり、第四の百年は多聞が堅固であり、第五の百年は布施が堅固である。ここで言う「後の五百」とは、最後の百年を指しています。
また、ある説では『大集経』に基づき、五つの五百歳があるとされています。第一から第四までは先と同じですが、第五の五百歳だけは「鬪諍堅固」、すなわち争いが激しい時代とされています。この場合の「後の五百」は、最後の五百歳を意味します。
もし単に五百歳だけを論じるなら、それはまだ正法の時代に含まれます。経典の記述はあるものの、その理屈はやや分かりにくいところがあります。しかし、五つの五百歳という区分は一応の目安であり、末法の初期にはまだ人々を利益する教えが残っています。大乗の教えが広く流布する時期を考えれば、「五百」という表現は妥当です。したがって、序文など三つの部分は、すべて衆生の感応によるものと言えるでしょう。
「又示教相者」,教家之相故云教相,五味分別為顯醍醐,通論聖言被下,俱名為教。今教別有顯實之功,故名為相。又別約三段示醍醐相,故名為相。故於三段各簡偏小,此且通作一種三段,讓下本迹,是故未分二種三段。
また、教相を示すとは、教えの家の相であるから教相と云い、五味を分別して醍醐を顕わすことを明らかにし、広く聖なる言葉が下されることを論じ、ともに教えと名づけられる。今の教えには特に実相を顕わす功徳があるから、相と名づけるのである。また、別に三段に約して醍醐の相を示すから、相と名づけるのである。ゆえに三段のそれぞれにおいて偏りや小乗を簡別し、これはひとまず通して一種の三段とし、下の本迹に譲るので、ここではまだ二種の三段に分けていない。
問:
問:
若爾,與向因緣三段何別?
では、先ほどの因縁の三段階と、どう違うのでしょうか?
答:
答:
前直寄三時對感應人,以明種等;今委辨所說用淺深法,故略約四教以簡三段,究而言之,還是因緣妙三段耳。況觀心本迹咸屬因緣,委簡教相具如《玄》文,先約相待以判麁,次約絕待以辨妙。
まず、三つの時期に直接対応して感応する人々を挙げ、種々の等しいものを明らかにする。今、説かれた内容の浅深の法を詳しく弁じるため、四教を略述して三段を簡別する。究極的に言えば、これもまた因縁の妙なる三段にほかならない。ましてや、観心の本迹はすべて因縁に属し、教相の詳しい簡別は『玄義』に具わっている。先に相待によって粗を判じ、次に絶待によって妙を弁ずる。
問:
問:
通序五義、別序華地,此等是事,何得三段俱名示教?
通序の五つの意義と別序の華厳の境地、これらは事象の次元にあります。どうして三つの段階すべてが「教えを示す」と呼ばれるのでしょうか?
答:
答:
通論皆是正說前相,別論唯問答是教,且從通說無不表教,故文簡云非為人天作序等也。
一般的に言えば、これらはすべて正しい教えを示す前触れであり、特に問答の形式は教えそのものです。大まかに言えば、すべてが教えを表しているので、経文には「人や天のために序文を書くのではない」と簡潔に記されています。
「二乘」,三藏也。「即空」,通也。「獨菩薩」,別也。「正直」等者,開權教也。正及流通準此可見。「螢光」者,《大品》云:「菩薩一日行般若,如日照世勝螢火蟲」。此斥三藏,故指燈炬以譬通教。燈如二乘,炬如菩薩,雖同般若不無明晦。道種智是別。如星月者,地前如星、登地如月。故星雖有明光不及遠,令遠見故;凡智雖照不及聖明,其心遠故;月不及日帶教道故。亦應更明三智三諦次不次等,以顯教相,於此非急。「楊葉」等者,《大經.嬰兒行品》意也。今文略出人天者,然嬰兒在小義通諸教,且從極小故指人天。但彼經喻從頓向漸,初云不能起住來去語言,圓嬰兒也。大字者,藏也。不知苦樂等,通也。下作大小等別也。啼哭等,人天也。經既通以小善為嬰兒,故圓因位亦名嬰兒。經云:「半字者,謂九部。滿字者,謂《毘伽羅論》」,此云字本。河西云:「世間文字之根本,雖是外論而無邪法,將非菩薩之所造作,故譬衍門十二部經。」古人唯知衍門一大,今則不然,簡共別後唯以圓門而為滿也。依義不依語,斯之謂矣。
「二乗」とは、三蔵教のことです。「即空」とは、通教のことです。「独菩薩」とは、別教のことです。「正直」などの言葉は、権教を開くことを示しています。正説と流通分もこれに準じて理解できます。
「蛍の光」について、『大品般若経』にはこうあります。「菩薩が一日、般若を行ずることは、太陽が世を照らすのと同じで、蛍火よりも勝っている」。これは三蔵教を斥けたもので、通教を譬えるために灯火を指しています。灯は二乗を、炬は菩薩を表し、同じ般若であっても明暗の差はあります。
道種智は別教です。星や月に譬えられるのは、地前の位が星、登地の位が月です。星は明るくても遠くまでは届かず、遠くを見るためには、凡夫の智慧は照らしても聖者の明るさには及ばず、その心が遠いからです。月は太陽には及ばず、教えの道を帯びているからです。三智と三諦の次第や無次第についても明らかにして、教相を顕すべきですが、ここでは急ぎません。
「楊の葉」などは、『大般涅槃経』の「嬰児行品」の趣旨です。今の文は人天の教えを略して示していますが、嬰児は小さな者という意味で諸教に通じ、極めて小さいものから人天を指しています。ただし、その経の譬えは頓教から漸教に向かうもので、初めに「起き上がり、立ち、歩き、言葉を話すことができない」とあるのは、円教の嬰児です。大字とは蔵教です。苦楽を知らないのは通教です。下に大小などの別があるのは別教です。泣き叫ぶのは人天の教えです。経では小善を嬰児としているので、円教の因位も嬰児と呼ばれます。
経にはこうあります。「半字とは九部をいい、満字とは『毘伽羅論』をいう」。これは字の根本を意味します。河西の解釈では、「世間の文字の根本であり、外論ではあるが邪法はなく、菩薩の造作ではないので、衍門の十二部経に譬えられる」とあります。古人はただ衍門の一大を理解していましたが、今はそうではなく、共・別・後の三教を簡別し、円教のみを満字とします。義に依りて語に依らず、というのはこのことです。
法華文句記卷第一(上)
法華文句記 巻第一
法華文句記卷一(中)
法華文句記 巻一
唐天台沙門湛然述
唐天台沙門湛然述
「次示本迹者」,為二:先法,次譬。初法為五:先、指本因所稟;次、「但佛」下,指本果所說;三、中間行化;四、今日所說;五、未來所說。自從本因所稟莫非真實三段,雖俱真實本不可多,故下三文咸同一本因果真實三段教相。此中正簡久本真實,是故云也。然以本因所稟亦是彼佛迹說恐無窮,故但在今佛因果為本,據理非不稟餘佛化,因緣約教既指今佛,故明本迹。且廢於他,故指今經壽量為釋迦本,不得更指前佛所說。前佛復有前佛,故云無窮,唯指一佛則無斯過,降茲一本餘皆是迹。
次に本迹を示すとは、二つに分かれる。まず法を説き、次に譬えを示す。初めの法は五つに分かれる。第一に、本因において受け継いだものを指し示す。第二に、「但仏」以下、本果において説かれたものを指し示す。第三に、中間の教化の行い。第四に、今日説かれるもの。第五に、未来に説かれるもの。本因において受け継いだものはすべて真実であるという三つの段階から、本質的には多くを語る必要はない。したがって、以下の三つの文はすべて同じく本因と本果の真実という三つの段階の教えの相を示している。ここでは特に久遠の本質的真実を簡潔に示すために、このように述べている。しかし、本因において受け継いだものも、その仏の迹説であれば際限がない恐れがあるため、今の仏の因果を本とし、理に基づけば他の仏の教化を受け継いでいないわけではない。因縁に従って教えを説くにあたり、今の仏を指し示すことで、本迹を明らかにしている。他の仏については一旦置き、今の経典である寿量品を釈迦の本とし、それ以前の仏の説いたものを指し示すことはできない。以前の仏にはさらに以前の仏がいるため、際限がないと言える。ただ一仏を指し示すことでこの過ちを避け、この一本を降ろせば、残りはすべて迹となる。
問:
問:
恐墮無窮唯論釋迦,今欲論諸佛展轉稟教,終有一佛在初無教,無教為本有何無窮?若許有窮,墮無因過。
恐らくは無限の連鎖に陥ることを恐れて、ただ釈迦のみを論じる。今、諸仏が教えを次々と受け継ぐことを論じようとすれば、ついには最初に教えのない一仏がいることになる。教えがないことを根本とするなら、何が無限の連鎖となるのか?もし有限であると認めるなら、原因なき過ちに陥ることになる。
答:
答:
拂迹求本,本求所說以獲實利,縱有最初不同今初,何益行解耶?
跡を払って本を求め、本を求めて説かれたことを理解し、真の利益を得るならば、たとえ最初の教えが今のものと異なっていても、修行と理解に何の益があるでしょうか。
問:
お尋ねします。
若許有最初無教,何須稟今佛之教?
もし最初に教えがなかったなら、どうして今の仏の教えを受ける必要があるのでしょうか。
答:
答え:
無教之時則內熏自悟,有教之日何得守迷?如百迷盲俱不知路,一迷先達以教餘迷,餘迷守愚不受先教,誰之過歟?且驗釋迦一化得益難思,況復爾前益難稱紀,寧不稟教?然終成無益之論,不可以此為窮,以無益於稟教者故。又十方世界亦有嗅香覺觸瞪視而得悟者,豈以聲教求其初耶?
教えがない時には、内なる薫習によって自ら悟ることもありますが、教えがある今、どうして迷いを守り続けることができましょうか。たとえば百人の迷える盲人が皆、道を知らずにいるとき、一人の迷える者が先に達して他の迷える者を教えたとしても、他の迷える者が愚かさを守って先の教えを受け入れなければ、それは誰の過ちでしょうか。
さらに考えてみると、釈迦の一代の教化によって得られた利益は計り知れず、ましてそれ以前の利益は言い尽くせないほどです。どうして教えを受けようとしないことがありましょうか。しかし結局は無益な議論に終わり、これを窮極の道理とすることはできません。なぜなら、教えを受けようとしない者には何の益もないからです。
また、十方世界には、香りを嗅ぎ、触覚に感じ、目を凝らして悟りを得る者もいます。どうして声による教えだけを求めて、その初めを探すことができましょうか。
「師子奮迅未來永永」者,奮迅具二義,左右如現前却如未,故下疏文云「釋此句者應具二解,即現未也」。今存後解故云未來,前存前解故云現在。「譬大樹」者,總譬前三節為拂遊中本迹故也。言「云云」者,以易解故不復合喻。
「師子奮迅未來永永」とは、奮迅に二つの意味があり、左右は現前の如く、退却は未だの如し、故に下の疏文に「この句を釈するには二解を具すべし、即ち現未なり」とある。今は後の解を存する故に未来と言い、前は前の解を存する故に現在と言う。「譬大樹」とは、前三節を総じて譬え、遊中の本迹を払うが故である。「云云」というのは、理解しやすい故に重ねて譬えを合わせないのである。
「次示觀心相者」,先總、次別。總中有二重:一、約修行;二、約法門。行謂所行法即所用,行必先戒次定後慧,用必先以慧擇後方定戒,定為戒本故戒復居後。又觀心者,如《玄》文中,或約行相、或約法門、或從觀境,故銷文例之亦對三分,義當觀心。次別意者,三分各三。初戒三者:方便如序,白四如正,結竟如流通。言前方便者,單白已前皆方便也。定三分者:二十五方便為序,入觀坐儀為正,行住歷緣為流通;亦可以習學為序,自行為正,教他為流通。餘二悉爾。次更約善入出住等,此依經列,若從三分則入序、住正、出為流通,慧三亦爾。從文從義次第不同,三分應云空序、中正、假為流通。言「而退」者,經末但云「而去」,去秖是退。「但準望」等者,盡令用四其辭則難,但令不失旨。「如共轍鹹會」,「鹹」字恐誤,秖應單作,或恐如流入海一同鹹味,文體語倒,故知不必皆用四意。又觀心一文,除〈安樂行〉中修攝其心等,餘皆義立。又本門雖本,但〈壽量〉一文正明本迹,餘亦義立。又前迹門準部有故,是故義立。後本門中除〈壽量〉已,理合有故是故義立。又觀心文序及流,通準望正宗理須義立,於正宗中唯〈安樂行〉理定須故,餘皆義立。迹門正說既云開會,若迷觀境開權顯實,及本門中增念佛觀增道損生,及流通中隨喜不輕三昧所依、諸行所託,一切不成以觀心名通,於觀等中間三即結緣,當機通用觀故,影響發起化功。若成成分證觀,所以觀心一文人謂最寬,於理甚要。況今大師且為成於初心學者,始從如是以至而去,覩異文識一觀,亦識昔經文同觀異及文觀俱異,亦識當教文觀俱同兼等開等準例可識,是故必須觀心以釋。又因緣釋隨其義勢,須分今昔。
次に観心の相を示すには、まず総論し、次に各論する。総論の中に二つの観点がある。第一は修行について、第二は法門についてである。修行とは実践する行いであり、法門とは用いる方法である。修行は必ずまず戒、次に定、後に慧の順序をとる。方法は必ずまず慧で選択し、後に定と戒を定める。定は戒の根本であるから、戒は再び後に位置する。また観心について、『玄義』の文中では、あるいは行相について、あるいは法門について、あるいは観境から論じている。したがって、文を解釈する例も三分に対応させ、その意義は観心に相当する。
次に各論の意図は、三分それぞれに三つがある。最初の戒の三分は:方便が序分に、白四が正宗分に、結竟が流通分に相当する。前方便とは、単白以前はすべて方便である。定の三分は:二十五方便が序分に、入観坐儀が正宗分に、行住歴縁が流通分に相当する。また習学を序分とし、自行を正宗分とし、教他を流通分とすることもできる。他の二つも同様である。
次にさらに善入・出・住などについて述べる。これは経文に基づいて列挙したものである。もし三分に従うならば、入が序分、住が正宗分、出が流通分となる。慧の三分も同様である。文に従うか義に従うかによって次第が異なり、三分については空が序分、中が正宗分、仮が流通分とすべきである。
「而退」について、経末にはただ「而去」とあるが、去とは退くことにほかならない。「但準望」などとは、すべて四意を用いるようにするのは言葉が難しいので、ただその主旨を失わないようにする。「如共轍鹹会」の「鹹」の字は誤りかもしれない。ただ単独で用いるべきか、あるいは流入海のように一同に鹹味となるのか、文体が倒置されているので、必ずしもすべて四意を用いる必要はないとわかる。
また観心の一文は、『安楽行』の中の修摂其心などを除き、その他はすべて義によって立てられたものである。また本門は本来のものであるが、ただ『寿量』の一文が正しく本迹を明らかにしており、その他も義によって立てられている。また前の迹門は部類に準拠しているから、したがって義によって立てられている。後の本門の中では『寿量』を除き、理に合ってあるべきだから義によって立てられている。
また観心の文の序分と流通分は、正宗分に準拠して考えると、理によって立てられるべきである。正宗分の中ではただ『安楽行』だけが理によって定められている必要があるからであり、その他はすべて義によって立てられている。迹門の正説はすでに開会を説いている。もし観境に迷って権を開き実を顕わすならば、および本門の中の増上念仏観・増道損生、および流通分の中の随喜不軽三昧の依り所、諸行の託する所は、すべて観心という名が通じるので成り立たない。観などの中間の三つは結縁であり、当機は通用の観を用いるから、影響が発起して化功を成す。もし成分証観が成るならば、観心の一文は人が最も広いと言い、理において非常に重要である。ましてや今、大師は初心の学び手を成就させるために、始めに「如是」から終わりに「而去」に至るまで、異なる文を見て一つの観を識り、また昔の経文が同じで観が異なること、および文と観がともに異なることを識り、また当教の文と観がともに同じであること、兼ねて等しく開くなど、例に準じて識ることができる。したがって、必ず観心によって解釈しなければならない。また因縁釈はその義勢に随って、今と昔を分ける必要がある。
先釋序中,先對辨通別,次正釋通序。初文又二:先分二文,次正辨異。中云「通序通諸教」者,亦可云通序通諸部,別序別一部;亦可云通序通諸經,別序別一教。今經部教唯在一教,故且以教對經言之。又通序名通而體別,別序事別而義通,義通故通有別序,體別故別在今經,故知今經通別俱別別在佛乘,以如是等不關諸經,方可得名正家之序。正名序家之正,故一家相承三段可識。故釋如是竟一部炳然,不然豈有送客之序而敘遊山,禪祖碑文而譚律頌,故須摩頂至足皆是一身,豈以通途之言能消通別二序?若不異者,發起徒施。於中先標離合。云「或五六七」者,五者如文,合佛及處;六則離佛及處;七則離我與聞。
序文の解釈において、まず通序と別序の区別を明らかにし、次に通序の正しい解釈を述べます。最初の部分はさらに二つに分けられます:まず二つの文に分け、次にその違いを正しく弁別します。
文中に「通序は諸教に通じる」とありますが、これは「通序は諸部に通じ、別序は一部に別れる」とも言えます。また「通序は諸経に通じ、別序は一教に別れる」とも言えます。今の経典は部も教も一教にのみ属しているため、ここでは教と経を対比させて説明しています。
さらに、通序は名は通じていても実体は別であり、別序は事柄は別でも意義は通じています。意義が通じているからこそ、通序の中にも別序の要素があり、実体が別であるからこそ別序は今の経典に特有です。したがって、今の経典の通序と別序はともに仏乗という特別な教えに属しており、「如是」などの言葉は他の経典とは関わりがありません。これによって初めて正しい序文と言えるのです。
正しい名称は序文の正しさを示し、一つの流派が受け継いできた三つの段階を理解することができます。だからこそ「如是」を解釈し終えると、経典全体が明らかになるのです。そうでなければ、客人を見送る序文で山遊びを語ったり、禅宗の祖師の碑文で律の頌を論じたりするようなことになってしまいます。したがって、頭のてっぺんから足の先までが一つの身体であるように、通序と別序の二つの序文を一般的な言葉で解消することはできません。
もし区別がないならば、発起の意味がなくなってしまいます。この中でまず離合を標示します。「或いは五、六、七」というのは、五つは経文の通りで、仏と処を合わせたもの。六つは仏と処を離したもの。七つは「我」と「聞」を離したものです。
初通序元起,由阿泥樓逗令阿難問佛,具如《止觀》第六記。
最初の序文の由来は、阿泥樓逗が阿難に命じて仏陀に尋ねさせたことによる。詳細は『止観』第六記に記されている通りである。
次略解五義,謂「法體」等者,略釋意顯故先明之。下廣釋中縱有兼釋,但旁通耳。初云「所聞之法體」者,下文四釋雖通指一部,別在正宗、流通,亦可兼於別序,則懷疑、答問及無量義,通名聞故。雨華動地從所表說,通皆表聞,故始末一經為所聞體。云「聞持和合」等者,因緣會也。通論五義無非因緣,如前通辨四意中說。又下總結五義云「皆因緣」也。今且從別,約時義強,獨標和合,聞持之言唯在阿難,和合之語義通兩向,由機會故聞持和合。「次第相生」者,且約一往,若聞如是等及化主居初,亦可通用。
以下、五つの意味を簡略に解き明かします。まず「法体」についてですが、大まかな意味を明らかにするために先に説明します。後の詳しい解説では、多少触れることはあっても、あくまで補足的な説明にすぎません。
最初に「所聞の法体」とありますが、後の四つの解釈では経典全体を指すものの、特に正宗分と流通分に重点があり、別序分も含まれると見なせます。つまり、疑念や問答、無量義経など、すべて「聞く」という行為に関わるからです。また、雨華動地の描写は、象徴的な表現を通じて「聞く」ことを表しており、経典の始めから終わりまでが「聞く」対象としての本体を成しています。
「聞持和合」とは、因縁が調和することを指します。広く見れば、五つの意味はすべて因縁に関わっており、前に述べた四つの解釈でも説明した通りです。また、後に五つの意味をまとめて「すべて因縁である」と述べています。ここでは特に、時機という点に焦点を当て、和合を強調しています。「聞持」という言葉は阿難に特有のものですが、「和合」という表現は両方向に通じ、機縁が調和することで聞持が和合するのです。
「次第相生」については、一応の順序として捉えます。「如是」などの言葉や化主(仏)が最初に来るのも、広く通用する原則と言えるでしょう。
次「又如是」下,廣釋。先釋「如是」。初因緣中世界即是歡喜,故云不諍,諸佛皆然未足別顯;若約今經,先施次開方名不諍,事在約教故今未論。今引諸佛以異顯同,亦世界義。「舉時方」者,如是可信良有時方,即說如是得益時處,方則崛山猶通於昔,時顯別味令處非通,即生實信,方是今經為人悉也。「阿漚」者,阿無、漚有,一切外經以二字為首,以其所計此二為本,部內所明不出所計,故立如是對破外人不如不是。故準下約教外典全無,故云破惡。《百論》云:「外曰:汝指何為善法耶?內曰:惡止善作。外曰:汝經有過初不吉故;我經不爾,初後皆吉。內曰:凡一切法有於三種,謂自、他、共。以汝吉法無自等故,故我先破有無自生及他、共等。」故計有無為自他等,名之為惡,故我經先止。
次に「又如是」以下、広く釈す。まず「如是」を釈す。初めの因縁において、世界はすなわち歓喜であり、ゆえに「諍わず」と云う。諸仏も皆然り、未だ別に顕わすに足らず。もし今の経に約せば、まず施し、次に開く、これ方で「諍わず」と名づけ、事は教えに約するにあるが故に、今は未だ論ぜず。今、諸仏を引いて異を以て同を顕わす、これも世界の義なり。
「時と方を挙ぐる」とは、如是は信ずべき良き時と方あり、すなわち如是を説いて益を得る時処をいう。方はすなわち崛山、なお昔に通ず。時は別味を顕わして処を通ぜしめず、すなわち実信を生ず。方こそ今の経の為人の悉なるなり。
「阿漚」とは、阿は無、漚は有なり。一切の外経は二字を以て首とす。その計るところ、この二を本と為すが故に、部内に明かすところ、その計るを出でず。ゆえに如是を立て、外人の如くならず、是ならざるを対破す。故に下に準えて教えに約せば、外典は全く無し、ゆえに「悪を破る」と云う。
『百論』に云く、「外曰:汝は何を指して善法と為すや?内曰:悪を止め善を作す。外曰:汝が経には過あり、初め吉ならざるが故に。我が経は然らず、初め後ろ皆吉なり。内曰:凡そ一切の法には三種あり、自・他・共と謂う。汝が吉法は自等無きが故に、故に我先に有無の自生及び他・共等を破る。」故に有無を計って自他等と為す、これを悪と名づく。故に我が経は先に止む。
若爾,《中論》具破四句,彼何不破自然?
それでは、『中論』は四つの命題をすべて破っているというのに、どうして「自然」を破らないのでしょうか?
答:
答:
計自然者有無中攝,亦有自然有無不攝,且從一途,故《中論》云:「從因緣生尚不可,況無因緣?」自然易破故但況之。但四計義通,若唯破外尚未離小,安會今經?且引論文成破惡義。若依今經尚破兼帶之惡,何獨外耶?
自然という考え方には、有無の中に含まれるものもあれば、有無に含まれないものもあります。一つの視点から見てみましょう。『中論』にはこうあります。「因縁から生じるということでさえ成り立たないのに、ましてや無因縁であるはずがない」。自然という考えは容易に論破できるため、ただ比較しているに過ぎません。四つの考え方は道理が通じていますが、もし外道だけを論破するなら、まだ小乗の域を出ておらず、どうしてこの経典の趣旨に合致するでしょうか。ここでは論書を引用して悪を破る意義を明らかにしています。この経典に依るならば、兼帯の悪さえも破るのですから、ましてや外道だけではありません。
第一義中且通指道邊,未分深淺,故知凡四悉文,非不己破諸教淺深,意在且明歡喜等四,故更須教分判異同。又釋序中前之三悉多分約事,第一義中或已入實,或且通方。又前三悉望圓實邊,名之為事。於前三教或亦在理,若正宗中咸隨本文。此四悉檀文在大論,初明說經緣起中總有二十三。
第一義(究極の真理)の観点から見れば、道の周辺を指し示すだけであって、深さや浅さはまだ区別されていません。ですから、四悉檀(四つの教化法)の文面は、諸々の教えの浅深を破っていないわけではないのですが、ここではまず「歓喜」など四つの意義を明らかにすることを意図しているため、さらに教えの違いや共通点を分けて考える必要があるのです。
また、序文の解釈において、最初の三つの悉檀は多くは事相(現象的な事柄)に基づいていますが、第一義悉檀においては、すでに真実に入っている場合もあれば、まだ一般的な方向を示している場合もあります。
さらに、最初の三つの悉檀は、円満で真実な教え(円実)から見れば、「事」と呼ばれます。しかし、最初の三つの教え(蔵・通・別)の中では、理(真理)に属することもあります。もし正宗(経典の中心部分)の中であれば、すべて本文に従って解釈されます。
この四悉
復次於中先問,有何因緣而說是經?答中云第一義故,乃別指衍門為第一義,因即釋出前之三悉,且指三藏論云,四悉檀攝八萬四千法藏,故今通用,具如《玄》文以開十門。又《淨名》前玄總有十卷,因為晉王著《淨名疏》,別製《略玄》,乃離前玄分為三部,別立題目,謂四教六卷,四悉兩卷,三觀兩卷,彼兩卷中文甚委悉。
さらに、ここでまず問われるのは、どのような因縁によってこの経典が説かれたのかということです。答えの中で「第一義のため」とあるのは、特に大乗の教えを第一義として指し示しており、それによって前に述べた三つの悉檀(世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀)を解釈しているのです。また、三蔵の論には「四悉檀が八万四千の法蔵を収める」とあるため、ここではそれを広く用いています。詳しくは『玄義』の文に十門を開いて説明されています。
さらに、『浄名経』の前の玄義には全部で十巻あり、晋王のために『浄名疏』を著し、特に『略玄』を作った際に、前の玄義を三部に分けて別々の題目を立てました。すなわち、四教について六巻、四悉について二巻、三観について二巻です。その二巻の中には非常に詳しい説明が記されています。
言「甚廣」者,一須大師所說,二謂所攝意多。況今經如是,須歷八教以明四悉,方顯今經唯一如是第一義悉,故云甚廣。又諸家異釋動即三四紙來,多在因緣而第一義尚少,況復約教、本迹等耶?
「甚廣」というのは、一つには大師の説かれたところ、二つには含まれる意味が多いことを指します。ましてや今の経典はこのようであり、八つの教えを経て四つの悉檀を明らかにし、初めて今の経典が唯一の「如是」、すなわち第一義悉檀であることを示すことができるので、「甚廣」と言うのです。また、諸家の異なる解釈は、動けばすぐに三四枚の紙に及ぶほど多く、多くは因縁にあり、第一義についてはまだ少ないのです。ましてや教えや本迹などに至ってはなおさらです。
約教中初「經稱」者,在《付法藏》中,此付法藏亦名「付法藏經」,於中為三:初、通解;次、別責;三、「且依」下正釋。初文又四:初、通舉三世佛經為本;次、引昔佛八教;三、引今佛教同;四、舉今經表異。初三世者,先舉過現例當,正用過未例現,或正引過以準今,故指先佛八教。言八教者,將藏等四入頓等四,則四味中如是各異,況頓漸中祕密不定?四教通塞一一不同,先了不同如是不一,方識《法華》如是不異,施及開廢準例可知。一切諸佛垂於五濁,無不皆然,故云「亦爾」。餘如《玄》文。次「諸經」下,舉今經表異者,又二:先法,次喻。《法華》超乎一期教表,若將今教以對昔教,教既差別部又不同,兼但對帶、權實遠近具知進否方曉今經,如是既然他皆準此,安得以諸師一匙,而開於八教眾戶?攢於古師眾釋,不出因緣一意,故云一匙。況一兩師寧開八教?況約教等三信古今冥寞?
経典の教えの中で最初に「経称」が説かれるのは、『付法蔵』の中にあります。この付法蔵はまた「付法蔵経」とも呼ばれ、その内容は三つに分けられます。最初は全体的な解釈、次に個別の責務、そして三つ目は「且つ依って」以下に正しい解釈を示します。最初の文はさらに四つに分かれます。まず、過去・現在・未来の三世の仏の経典を根本として挙げます。次に、過去の仏の八つの教えを引用します。三つ目に、現在の仏の教えが同じであることを示します。四つ目に、今の経典を挙げてその特異性を表します。
三世の仏について、まず過去と現在を例として挙げ、未来を例示します。正しくは過去と未来を用いて現在を例示し、あるいは過去を引用して現在に準じるので、先の仏の八つの教えを指します。八つの教えとは、蔵教などの四つを頓教などの四つに入れることです。すると、四つの味わいの中ではそれぞれ異なり、ましてや頓教と漸教の中には秘密と不定があります。四つの教えはそれぞれ通じるところと塞がるところが異なります。まず、これらの違いが一様でないことを理解すれば、『法華経』が一様でないことを認識できます。施しと開廃は例に準じて理解できます。
すべての諸仏は五濁の世に現れ、例外なく同じように教えを説きます。だから「亦爾(また同じ)」と言うのです。残りは『玄義』の文に示されています。
次に「諸経」以下では、今の経典を挙げてその特異性を表します。これも二つに分かれます。まず法を挙げ、次に譬えを挙げます。『法華経』は一期の教えを超えています。もし今の教えを昔の教えと対比させれば、教え自体が異なり、部類も同じではありません。兼ねて対比させ、権実や遠近を理解し、進むべきか否かを知って初めて今の経典を理解できます。このように理解すれば、他の経典も同じように理解できます。どうして諸師の一つの鍵で、八つの教えの多くの戸を開けることができるでしょうか?
古い師匠たちの多くの解釈を集めても、因縁という一つの意図から出るものではありません。だから一つの鍵と言うのです。ましてや一、二人の師匠で八つの教えを開くことができるでしょうか?教えに基づく三つの信など、古今を通じて深遠で測り知れないものです。
「又佛阿難」下,立法別責。又四:初立法通者,若二文不異為如,二如下所詮為是,八教皆然。次「今阿難」下,舉今經阿難以責:今經於八為屬何耶?若非超八之如是,安為此經之所聞?三、「不可以」下,結責,故云「不可以漸」等,略舉漸偏,理須具明祕密、不定,及簡頓部。諸師既不知八教異今,故二文傳詮不如不是。四、「傳詮」下結過。「此義」等者,勸勉也。若得今意不勞再詳,其理自審。
また、「又佛阿難」以下は、法を立てて別に責める。さらに四つに分かれる。初めに「立法通者」とは、もし二つの文が異ならなければ「如」とし、二つの「如」の下に解釈されるものを「是」とする。八つの教えもすべて同じである。次に「今阿難」以下は、今の経典の阿難を挙げて責める。今の経典は八つの教えの中でどの部類に属するのか。もし八つを超える「如是」でなければ、どうしてこの経典の聞くところとなり得ようか。三つ目に「不可以」以下は、責めを結ぶ。ゆえに「不可以漸」などと言い、漸教と偏教を略挙し、理としては秘密・不定を明らかにし、また頓教の部類を簡別すべきである。諸師はすでに八つの教えが今の経典と異なることを知らないので、二つの文が伝え解釈するものは「如」でも「是」でもない。四つ目に「伝詮」以下は、過ちを結ぶ。「此義」などは、勧め励ますものである。もし今の意を得れば、再び詳しく論じる労はなく、その理は自ずと明らかになる。
三、「且依」下,正釋。又三:初、約漸教者,避繁文故,寄漸明四。次、「若頓」下,釋頓等三。三、「敷八教」下,結責古師。初文又二:初、約傳詮相對以釋;次、「若動」下,直約所詮觀諦以釋。於所聞時具能所故,亦是以理結略前釋,是故四釋皆以如為名。又前以文契理,名之曰如,乃指所詮稱文為是;此以智如境為如,如通二真,故前兩教俗對偏真,後之兩教俗對中真,兩文各二隨義消之。故前約傳詮一一文中,皆約諦與文字,故能詮既同,驗知所詮理當,故所傳所詮皆所聞體。故初二教皆以文字為俗、所詮為真,但有即不即異,乃辨二教傳詮不同;後二教皆以能詮對所詮三諦以說,亦即不即異。以四例四亦應可見。若不爾者,豈以阿難傳佛無詮之教?故彼文理相稱之法,是我所傳,故下方云聞等也。言「云云」者,應更以是對向四文,及以漸中具教多少,準前可知。次、「頓」等三者,言頓與圓同,且從少分,以彼兼別今且從勝,故云圓同。應更云頓中別教與漸中別同,不云漸教有同異者,漸既離四,舉圓即攝諸部中圓,三教即是諸部中異,故但更對餘之三教。不定中云「更互」者,並約漸頓四教說之,深淺相望故云前後。「祕密不傳」者,降佛已還非所述故,尚非阿難能受,豈弘教者所量?又阿難非不傳祕,赴機之密非所傳耳。故祕密所用全是顯教,是故傳祕秖名傳顯。三、「敷八教」下,結責者,《華嚴》云「張佛教網亘法界海,漉天人魚,置涅槃岸」,故知佛教不出於八,所詮無外故云法界,教網既亘於法界,涅槃必遍於偏圓,岸唯果地一如,教必權實本迹,天人機具眾教,漉至究竟涅槃。故諸師偏釋不可獨張,比竊讀者尚云天台唯藏等四,一何昧哉!一何昧哉!是故須知消經方軌,頓等是此宗判教之大綱,藏等是一家釋義之綱目,若消諸教但用藏等,其文稍通。若釋《法華》無頓等八,舉止失措,故又舉喻責云「接四箭」等。故《大經》「迦葉菩薩問云:云何智者觀念念滅?佛言:譬如四人皆善射術,聚在一處各射一方,念言我等四箭俱射俱墮。復有人念,及其未墮,我能一時以手接取。佛言:捷疾鬼復速是人,如是飛行鬼、四天王、日月神、堅疾天展轉疾前,無常過此。」今借接四以喻八教未敢稱當,況古一兩如驢鼈耶?若深得是意入文自融。言「云云」者,應舉八教以合譬意,況若不識開權拂近,徒知八教經旨未分?所以今文多不云開者,以《玄》文具故。又開顯圓與兼帶圓,二理無殊,故云頓與圓同等。故不定、祕密義各含四,顯之與密、定與不定,相對論故。
三、「且依」以下、本文の解釈に入る。これも三つに分かれる。まず第一に、漸教について述べる。煩雑を避けるため、漸教を通して四種を説明する。次に「若頓」以下で、頓教など三種を解釈する。第三に「敷八教」以下で、古い師匠たちを批判してまとめる。最初の部分はさらに二つに分かれる。第一に、伝えることと解釈することの相対関係によって説明する。第二に「若動」以下で、直接、対象となる観察の真理によって解釈する。聞く時には、能く聞く側と所聞く対象とを備えているからである。これはまた、道理によって前の解釈を簡潔にまとめたものであり、したがって四つの解釈はすべて「如」という名で呼ばれる。また、前には文が道理に合うことを「如」と呼び、解釈される内容を指して文を「是」と称した。ここでは、智慧が境の如くであることを「如」とし、「如」は二つの真理に通じる。したがって、前の二つの教えでは俗が偏った真理に対し、後の二つの教えでは俗が中道の真理に対応する。二つの文はそれぞれ二つに分かれ、その意味に従って理解される。したがって、前の伝えることと解釈することについての各文では、すべて真理と言葉について述べている。能く解釈する側が同じであれば、解釈される道理も当然一致すると確かめられるから、伝えられる内容も解釈される内容も、ともに聞かれる本体である。したがって、最初の二つの教えでは、どちらも言葉を俗とし、解釈される内容を真とするが、ただ「即」であるか「不即」であるかの違いがあり、これによって二つの教えの伝え方と解釈の違いを明らかにする。後の二つの教えでは、どちらも能く解釈する側が解釈される三諦に対応して説かれており、これもまた「即」であるか「不即」であるかの違いがある。四つの例によって四つを説明することも、当然理解できるはずである。もしそうでなければ、どうして阿難が仏の無言の教えを伝えることができようか。したがって、その文と道理が相応する法こそ、私が伝えるところのものであり、だからこそ下の方に「聞等」とあるのである。「云云」というのは、さらにこれらを先の四つの文に対応させ、また漸教の中に含まれる教えの多少について、前を基準にして理解すべきであることを意味する。
次に「頓」など三つについて。頓教と円教は同じであると言うが、これは一面的な見方による。頓教は別教を兼ねているが、ここでは優れた面に従って円教と同じであると言うのである。さらに言えば、頓教の中の別教は漸教の中の別教と同じであると言うべきだが、漸教に同異があるとは言わない。漸教はすでに四つに分かれているので、円教を挙げれば諸部の中の円教を包括し、三教は諸部の中の異なる教えである。したがって、たださらに他の三つの教えに対応させるのである。不定教の中で「更互」と言うのは、すべて漸教と頓教の四教について述べており、深さと浅さを比較するから「前後」と言うのである。「秘密不伝」というのは、仏以下の者には説き示されないからである。阿難でさえ受け取ることができないのに、ましてや教えを広める者が計り知ることができようか。また、阿難が秘密を伝えないわけではないが、機根に応じた秘密は伝えるべきものではない。したがって、秘密で用いられるものはすべて顕教であり、秘密を伝えることはただ顕教を伝えることなのである。
第三に「敷八教」以下、批判してまとめることについて。『華厳経』に「仏の教えの網を張りめぐらせて法界の海に及び、天と人の魚を漉いで涅槃の岸に置く」とある。したがって、仏教は八つを出ず、解釈される内容は外になく、故に法界と言う。教えの網が法界に及べば、涅槃は必ず偏円に遍く及び、岸はただ果地の一如である。教えは必ず権実と本迹を含み、天と人の機根は多くの教えを備え、漉いで究竟の涅槃に至る。したがって、諸師が偏った解釈をしては、独りで網を張ることはできない。比喩的に読む者でさえ、天台はただ蔵教などの四つだけだと言うのは、なんと暗愚なことか。なんと暗愚なことか。したがって、経を解釈する正しい方法を知らなければならない。頓教などはこの宗の教判の大綱であり、蔵教などは一家の解釈の綱目である。もし諸教を解釈するにはただ蔵教などを用いれば、その文は少し通じる。しかし『法華経』を解釈するに頓教などの八つがなければ、進退に窮する。だからまた譬えを挙げて批判し、「四本の矢を受け止める」などと言うのである。したがって『大般涅槃経』に「迦葉菩薩が問うて言う。どうして智者は念念滅を観るのか。仏言う。譬えば四人の者がみな弓術に優れ、一か所に集まってそれぞれ一方に矢を射る。彼らは念う、我等四本の矢はともに射られ、ともに落ちるだろうと。またある人が念う、その落ちる前に、私は一度に手で受け止めることができると。仏言う。捷疾鬼はさらにこの人より速く、かくのごとく飛行鬼、四天王、日月の神、堅疾天が次々に速く進むが、無常はこれらを超える」とある。今、四本の矢を受け止めることを借りて八教を譬えるのは、まだ適切とは言えない。ましてや古い一、二の教えを驢や鼈に譬えるなど、なおさらである。もしこの意味を深く理解すれば、文に入って自然に融和する。「云云」というのは、八教を挙げて譬えの意に合わせるべきであることを意味する。ましてや、権を開き近きを払うことを知らなければ、ただ八教を知るだけで経の主旨は分からない。だからこそ、今の文では多く「開」と言わないのであり、『玄義』に詳しいからである。また、開顕の円と兼帯の円は、道理に違いがない。だから頓教と円教は同じであると言うのである。したがって、不定教と秘密教はそれぞれ四つを含み、顕と密、定と不定は相対的に論じられるのである。
次約本迹者,文雖未至證信義通,已如前說。又為五:初、通舉十方三世;次、通舉三世;三、獨舉釋尊;四、正約傳詮;五、更明示迹。初二既通,一本難定,故「且約」下,唯指釋迦。次「又阿難」下,約於傳詮,師弟相望義立本迹。「又師弟」下,顯阿難本。故五文中正用第三、第四,顯今如是。初云「橫豎」者,十方為橫、三世名豎。十方諸佛各自有豎,非今文意,故「且約」下的出今佛,過去一本、餘皆屬迹。師弟中亦指久本,餘屬迹中本迹而已。重明者,欲述本地亦為師弟故也。故云「非始今日」,當知空王時亦非阿難本也。
次に、本迹について約すとは、経文にはまだ証信の義に至っていないが、通じるものがあることは、すでに前に述べた通りである。また五つに分けて説明する。
第一に、十方三世を通じて挙げる。 第二に、三世を通じて挙げる。 第三に、釈尊のみを挙げる。 第四に、伝え説くことに正しく約す。 第五に、さらに迹を示して明らかにする。
初めの二つはすでに通じているが、一本は定め難い。ゆえに「且つ約して」以下では、ただ釈迦を指すのみである。
次に「また阿難」以下では、伝え説くことに約し、師弟相望の義によって本迹を立てる。
「また師弟」以下では、阿難の本を顕わす。
ゆえに五つの文中では、正しく第三と第四を用いて、今の「如是」を顕わすのである。
初めに「横豎」と言うのは、十方を横、三世を豎とする。十方の諸仏はそれぞれに豎を持っているが、今の経文の意ではない。ゆえに「且つ約して」以下では、今の仏を指し出し、過去の一本とし、残りはすべて迹に属する。
師弟の中でも久遠の本を指し、残りは迹の中の本迹に過ぎない。
重ねて明らかにするのは、本地もまた師弟であることを述べようとするからである。
ゆえに「始めて今日に非ず」と言う。知るべきである、空王の時もまた阿難の本ではないと。
次「觀心」者,前之三釋並是所觀,故云觀前也。悉檀是前因緣,教是前約教,迹是前本迹,等取三釋各具諸義,本雖久遠,圓頓雖實,第一義雖理,望觀屬事故咸成境,故對三為觀便成四釋。於中又三:初、通立觀相;次、引文證成;三、約文顯四。初文言「即通」者,具足應云緣生即空,即指前三皆緣生故。況前緣生境通三諦,從即空邊且判屬通,應知空觀通於一切。空假成別者,地前從別證道必同,亦通亦別者,凡通聖別故也。凡通前教、聖局證中故,空假仍通、中方別故。地前空假通於所非及以所照,登地別在能非能照,真實故也。此是別家對他通別,若唯別教與前永殊。「非通非別」者,無非法界故。雙非辨別與前復殊,此中既以因緣教迹而為觀境,不可復以藏通觀觀,是故但寄通別四句,寄約教義暫分別之。又為成四句,故借別教離為兩句,故第四句即是今經之妙觀也。次、「下文云」去,引〈譬喻品〉證成觀相。三、「信則」下,更約觀心成因緣等,而釋經文一心即具感應等四。信機見應者,於一心中能信如機、覺心如應。言「淺深」者,義當判教,信實相心不同於權,實相之深不同餘淺。「又信」下,約觀論本,則妙教為迹、所詮為本,見實相本即見經中師資之本,以主及伴俱得實故。以龍陀久成,從所證為本。言「龍陀佛」者,真諦云:「須菩提是東方青龍陀佛」。有引《大寶積》云:「舍利弗成佛號金龍陀」,未檢。指此則知一切聲聞咸然,故見空生、身子之迹,則識一切聲聞之本。「又聞經」下,乃以觀心釋成觀心,能覺之心名佛,即此覺心名慧,亦即覺心通數具足,即此覺心與弘誓俱,名慈心淨。「約心」下,結。
次に「観心」について述べる。先の三つの解釈(悉檀・教・迹)はいずれも観ずべき対象であるため、「観前」と言われる。悉檀は先の因縁説に、教は先の教説による解釈に、迹は先の本迹説に対応し、これら三つの解釈にはそれぞれ様々な意義が具わっている。本(根本の理)は久遠であれ、円頓の教えは真実であれ、第一義諦は理であれ、観心の立場から見ればいずれも事相に属するため、すべて境(対象)となる。ゆえに、これら三つに対して観心を対置することで、四つの解釈が成立するのである。
この中でさらに三つに分けられる。第一に、観心の相を一般的に立てる。第二に、経文を引用してこれを証成する。第三に、経文に即して四種を明らかにする。
最初の「即通」という言葉について。詳しく言えば「縁生即空」とすべきである。ここで「即」とは、先の三つ(悉檀・教・迹)がいずれも縁起によって生じたものであることを指す。まして先の縁生の境は三諦に通じるが、「即空」の側面から判断すれば、仮に通教に属すると言える。空観は一切に通じることを知るべきである。
「空仮成別」とは、初地以前では別教に従い、証入の道は必ず同じになるからである。「亦通亦別」とは、凡夫には通じ、聖者には別であるから。凡夫は先の教えに通じ、聖者は証入の中に限定されるため、空・仮は依然として通じ、中道は別である。初地以前では、空・仮は否定されるべき対象および観照される対象に通じ、初地以上では、否定する能力および観照する能力に別々に存在する。これが真実であるからである。これは別教が他(通教)に対して通と別を説くものであり、もし純粋に別教だけを論じるなら、先の通教とはまったく異なる。
「非通非別」とは、すべてが法界にほかならないからである。双非によって別を弁じることは、先の説ともまた異なる。ここでは因縁・教・迹を観心の境としているため、もはや蔵教や通教の観方で観ることはできない。そこで仮に通・別の四句を借り、教義に即して一時的に分別したのである。また、四句を成立させるために、別教の「離」を借りて两句としたため、第四の句がすなわち今の経典の妙観なのである。
次に、「下文云」以下では、『譬喩品』を引用して観心の相を証成する。
第三に、「信則」以下では、さらに観心によって因縁などを成し、経文の「一心」がすなわち感応などの四つを具えることを解釈する。「信機見応」とは、一つの心中において、機(衆生の側)のように信じ、応(仏の応現)のように心を覚ますことである。「浅深」という言葉は、教判に相当する。実相の心を信じることは権教とは異なり、実相の深さは他の浅い教えとは同じではない。
「又信」以下では、観心に基づいて本を論じる。妙教が迹であり、その所詮が本である。実相の本を見れば、経中の師資(師と弟子)の本を見ることになる。主(仏)および伴(菩薩・声聞)ともに実相を得ているからである。舎利弗や須菩提が久遠に成仏していることは、彼らが証得したところを本とするからである。「龍陀仏」について、真諦は「須菩提は東方の青龍陀仏である」と言い、また『大宝積経』を引いて「舎利弗が成仏して金龍陀と号す」とあるが、未だ確認していない。これを指して、一切の声聞も同様であることを知る。ゆえに、須菩提や舎利弗の迹(現われ)を見れば、一切の声聞の本(本来の姿)を識ることができる。
「又聞経」以下では、観心によって観心を解釈し成す。覚める心を仏と名づけ、この覚心を慧と名づけ、またこの覚心はすべての徳を具足し、この覚心が弘誓とともにあることを慈心清浄と名づける。
「約心」以下は結びである。
次、「若釋」下,判同異。先明去取;次「當知」下,正判。所言「他」者,即他部也。於前四味唯除鹿苑顯露無圓。所言「同」者,但云今圓同彼圓故,應云兼帶復成異也。又言「異」者,彼無久本,諸經亦有體用等本迹,名同體異,從體異邊故云異也。應知亦可通用四釋,但知諸經無久遠本義則可矣。「云云」者,此之四釋對於部教關涉處多,故因緣等四望於前經,各有施開兼帶等別,故所傳亦別。
次に、「若釋」以下は、同異を判じる。まず去取を明らかにし、次に「當知」以下で、正しく判ずる。ここで言う「他」とは、他部のことである。前の四味の中で、ただ鹿苑の教えだけが顕露で円融を含まない。ここで言う「同」とは、今の円教が彼の円教と同じであるという意味であり、兼帯の教えがまた異なるものとなることもある。また「異」と言うのは、彼には久遠の本がないからである。諸経にも体用などの本迹はあるが、名は同じでも体は異なり、体の異なる側面から見れば異なると言える。知るべきは、四つの解釈を通用させることができるが、諸経には久遠の本という意味がないことを知ればよい。「云云」とは、この四つの解釈は部教との関わりが多く、因縁などの四つは前の経典に対して、それぞれ施開や兼帯などの違いがあるため、伝えられる内容も異なるのである。
次釋「我聞」中三:初、辨互異;次、「今例」下,準例如是;三、「大論」下,正釋。初因緣中先明世界,初引論釋,云「耳根不壞等」者,先舉根塵,根即清淨四大,處者塵也。非餘闕緣故云可聞,雖復可聞須發意識,故云「欲聞」。更藉諸緣故下,總云眾緣和合,但除空緣也。
次に「我聞」の意味を三つに分けて説明します。
第一に、互いの違いを明らかにします。 第二に、「今例」以下は、この例に準じて同じように解釈します。 第三に、「大論」以下は、正式な解釈を示します。
最初の因縁(原因と条件)の説明では、まず世界(一般的な理解)について述べます。 最初に論を引用して解釈します。「耳根不壞等」とは、まず「根」(感覚器官)と「塵」(対象)を挙げています。「根」とは清浄な四大(地・水・火・風)であり、「処」とは「塵」(音声の対象)のことです。
他の条件が欠けていないから「聞くことができる」と言い、聞くことができるとしても、さらに意識が働く必要があるので「聞こうとする」と言います。 さらに様々な条件を借りるので、以下に総括して「衆縁和合」(多くの条件が調和する)と述べていますが、ただ「空」の縁(条件)は除
次問答中有人不許滅後色經,唯云名句屬於行蘊,若其全不許見,經初盡合改聞,當知皆先眼耳所得,次方流入想行。若使一字一、聲眼耳二識不俱,則名句文皆不成就,和合之言不可欺也。
次に問答の中で、ある人は滅後に色経を認めず、ただ名句が行蘊に属すると言います。もしそれがまったく見られないなら、経の初めはすべて聞くべきものに改められるべきであり、これらはすべてまず眼や耳によって得られ、次に想や行に流れ込むことを知るべきです。もし一字一音ごとに眼識と耳識が同時に働かないなら、名句文はすべて成立せず、和合という言葉は欺きではないのです。
所言「主」者,總舉識心,即世流布,仍藉阿難願力及以如來宿誓,滅後眾生有機,方乃能令和合成聞,故且以我是眾緣主,眾緣和合我方能聞,故云我聞。文舉緣具故但云聞,因緣和合即世界也。「無學飛騰說偈」者,佛初入滅,諸阿羅漢皆說偈云:「已度凡夫恩愛河,老病死家已破裂,見身篋中有四蛇,今入無餘般涅槃。」諸在林中者又說偈言:「佛已寂滅入涅槃,諸滅結眾皆隨去,世界如是空無智,癡瞑道增智燈滅。」於是飛騰各說偈言:「咄哉諸有苦,輪轉如水月,不堅如芭蕉,亦如幻影響。如來大雄猛,功德超三界,猶為無常風,漂流而不住。」「佛話(戶夬切)文殊結集」者,《大論》云:「文殊結集諸大乘經,亦皆先稱如是等五」,經論二文並生戀慕之善。諸阿羅漢戀慕之極,故皆隨去。佛指闊二寸。三疑者,前眾疑已下文是。若此三,佛皆應自說,並不合云聞,是故云「聞三疑皆遣」,遣疑即破惡故也。「第一義中無我無聞」者,如陳如云第一義諦無聲字等。「古來」下,通斥舊也。於因緣中前三尚自不周,況第一義、況約教等三耶?「凡夫三種我」者,見我即利使中我。「慢我」者,雖通一切利鈍凡夫,然諸凡夫皆於己身以立宰主,雖非外計並屬見思。若學人所伏唯屬鈍使,雖無見我思惟未盡,故云二種。「世名我」者,世流布一凡聖共有,但聖無前二,今亦不暇辨見修相,付在餘文。「十住婆沙四句稱我」者,即有等四句,故彼第一卷〈地相品〉「問云:云何為無我?」而說偈言,總有八行半偈,最後云「是故我非我,亦我亦無我,非我非無我,我所非我所,亦我亦我所,非我非我所,是皆為邪論」,故離四句方名無我。今但云無我乃是即我無我,不云析破故在通教。
ここで言う「主」とは、識心を総括して指し、世間に広く流布している認識に基づき、阿難の願力と如来の宿世の誓願によって、仏滅後の衆生に縁があれば、はじめて諸縁が和合して聞くことができるようになることを意味します。そこで、私は衆縁の主であり、衆縁が和合してこそ私は聞くことができる、という意味で「我聞」と説かれています。経文では縁が具わっていることを挙げて「聞」とだけ述べていますが、因縁が和合するということがすなわち世界なのです。
「無学飛騰説偈」とは、仏が初めて入滅されたとき、諸々の阿羅漢たちが偈を説いて言いました。「すでに凡夫の恩愛の河を渡り、老病死の家はすでに破れ、身という篋の中に四匹の蛇があるのを見て、今、無余の涅槃に入る」。また、林の中にいた者たちはさらに偈を説いて言いました。「仏はすでに寂滅して涅槃に入られ、諸々の結を滅した衆は皆、随って去る。世界はかくのごとく空しく智なく、愚痴の闇の道が増し、智の灯は消えゆく」。そこで、飛騰する者たちはそれぞれ偈を説いて言いました。「ああ、諸々の有は苦なり、輪転すること水月のごとく、堅からざること芭蕉のごとく、また幻の影響のごとし。如来の大雄猛、功徳は三界を超えながらも、なお無常の風に、漂流して住まざるがごとし」。
「仏話文殊結集」とは、『大智度論』に「文殊は諸大乗経を結集し、これらもまた先に如是等の五事を称える」とあるように、経と論の二つの文はともに恋慕の善を生じさせます。諸々の阿羅漢たちは恋慕の極みに達したため、皆、随って去ったのです。仏の指の幅は二寸です。
三つの疑いとは、前に述べた衆の疑いの後の文がこれに当たります。もしこの三つについて、仏が自ら説かれたならば、「聞」と説くべきではなく、したがって「聞くことによって三疑を皆、遣わす」と言われ、疑いを遣わすことがすなわち悪を破るからです。
「第一義中に我無く聞無し」とは、陳如が「第一義諦には声も字も無い」などと説くようにです。
「古来」以下は、旧来の説を広く斥けています。因縁の中において、前三つさえまだ十分でないのに、まして第一義や、教えなどによる三つについてはなおさらです。
「凡夫の三種の我」とは、「見我」は利使の中の我を指します。「慢我」は、すべての利鈍の凡夫に通じるものですが、諸々の凡夫は皆、己が身をもって宰主を立て、外に計らうものではないにせよ、見思に属します。もし学人が伏するものは鈍使にのみ属し、見我は無いが思惟はまだ尽きていないため、二種と言われます。「世名我」とは、世に流布するもので凡聖ともに有しますが、聖者には前の二つはなく、今はまた見修の相を弁える暇もなく、その詳細は他の文に委ねられています。
「十住婆沙の四句称我」とは、有などの四句を指し、したがってその第一卷「地相品」に「問うて云く、いかにして無我と為すや?」とあり、偈を説いて言うには、総じて八行半の偈があり、最後に「是の故に我は我に非ず、亦我亦無我、非我非無我、我所は我所に非ず、亦我亦我所、非我非我所、是れ皆な邪論と為す」とあります。したがって、四句を離れてはじめて無我と名づけられるのです。今、ただ「無我」と説くのは、すなわち我でありながら無我であることを意味し、分析して破るとは説いていないため、通教に位置づけられます。
問:論釋別地:何判屬通?
質問:論釈が別々の地を説くのに、なぜ通教に属すると判断されるのですか?
答:
答え:
登地已去諸觀具足,但云即空義在通攝,況復地前義當通教。
菩薩の位に達すれば、すべての観法は完璧に備わる。ただ「即空」の教えは、すべてを包み込むもの。ましてや菩薩の位に至る前は、まさに通教の教えに当たる。
引大經者,經云:「阿難多聞士自然能解了,是常與無常」,常無常義同我無我故也。不二登地雙照地前,照與分別名異義同,圓教極故義兼權實以勝攝劣,故望一代,五味既別所聞不同。「正法念中三阿難」者,與《集法傳》三人大同。
大経を引くとは、経にこう説かれている。「阿難は多聞の士であり、自然に能く解了した。これは常と無常である」と。常と無常の意味は、我と無我と同じであるからだ。
不二の境地に登り、地前を双照する。照と分別は名は異なるが、意味は同じである。円教は究極であるから、その意味は権実を兼ね、勝れたものが劣ったものを摂する。ゆえに一代の教えを見渡せば、五味はすでに別れ、聞くところは同じではない。
「正法念の中の三阿難」とは、『集法伝』の三人の阿難とほぼ同じである。
問:
問:
《正法念》與《阿含》二經並小,如何證四以傳四教?
『正法念』と『阿含』の二経はともに小乗の教えであるが、どうして四諦を証し、四教を伝えることができるのでしょうか。
答:
答:
小中一人既分四種,今演小令大、以大擬小,何不傳四?況復名通義圓,於理無失。小在三藏,通乘共故亦名為雜,況通菩薩利鈍復雜?
小乗の教えは、すでに四種類に分かれています。今、小乗の教えを説いて大乗に導き、大乗の教えをもって小乗を比喩するのに、なぜ四種類に伝えないのでしょうか。さらに、その名称は通じ、意味は円満であり、理に背くことはありません。小乗は三蔵にあり、共通の乗り物であり、また雑多とも呼ばれます。ましてや、菩薩の利根と鈍根が通じ合い、さらに複雑であるならばなおさらです。
「云云」者,一人四德以用對教及開顯等,義如常說。
「云云」とは、一人の四つの徳をもって教えに対応させ、またその意味を開き顕わすなど、その意義は通常の説くところと同様である。
「空王」等者,於佛亦是迹中本迹,若於阿難或未是實本,主尚晦迹、弟子未彰,故亦不云空王劫數。言「云云」者,應具對上因緣等四以明我觀,亦應須寄因緣等四辨次不次,此文已當約教觀心,心境相對因緣觀也。真妙望餘,本迹觀也。以心觀心,觀心觀也。
「空王」などとあるのは、仏について言えば、これもまた迹の中の本迹です。もし阿難について言うならば、あるいはまだ真実の本ではないかもしれません。主(仏)はまだその迹を隠し、弟子(阿難)はまだ顕わになっていないからです。ですから、空王の劫数についても言及していません。
「云云」とあるのは、上の因縁などの四つに対応させて、私の観(我観)を明らかにすべきであり、また、因縁などの四つを借りて、次第であるかないかを弁じるべきです。この文はすでに、教えに基づいて心を観ずる(約教観心)に当たり、心と境が相対する因縁観です。真実微妙なものは他のものに比べて、本迹観です。心をもって心を観ずるのは、観心観です。
釋聞因緣不分四悉,但通結云因緣。若欲分者,初是世界,「舊解」下為人,「報恩」下對治,「此文」下第一義。初問,次「大論」下答。中言「集法」者,然結集之言通有三處:謂一千、七百、五百。一千正當最初結集。七百即是佛滅百年,因於跋闍擅行十事,舍那迦那白於七百,七百乃往毘舍離國,重結毘尼舉跋闍過。言五百者,四百年後,因迦昵吒王請僧供養論道不同,因此五百往王舍城更集三藏。今此從初,廣如諸文。展轉從他,自他別故,聞不聞異。未聞者樂欲,已得聞者生喜,並世界也。三昧是善及能聞力,新舊兩聞因聞善生。言佛覺者,秖是佛加,覺力如佛,故名佛覺三昧。已證非從佛聞,故云自能,用本願力為持佛法生後代善,故舊解理當判屬為人。「報恩經」者,第六佛求其為侍者,許已,仍求四願:一、不受故衣;二、不受別請;三、不同諸比丘,須見即見;四、二十年中佛所說法重為我說。佛粗示言端阿難皆解,智速根利強持力故。又「密說」者,辨異覺力及重說故,己知他不知,名之為密。又《大經》「佛告文殊:阿難事佛二十年,具足八種不可思議。一、不受別請;二、不受故衣;三、不非時見佛;四、見一切女人不生欲心;五、持一切法不曾再問,唯除問於釋種被殺;六、知佛所入定;七、知至佛所者受益不同;八、悉能了知佛祕密法。」「胎經」者,舉初況後也。胎相尚聞況後諸經?「面如淨滿月」者,出《育王經》,此中亦用前之四名,及《大經》四句。然《大經》顯圓,今乃義開豎約四教,隨名便故不復次第,亦應具消四聞所以令順教意。本迹末「云云」者:一、本事高難量;二、本理深難思;三、本迹化莫測,具如釋如是中,觀心中不聞。「不聞」下「云云」者,應具用上四,且對次第分屬四人,具如昔經我聞故也。若依今文,用妙觀故。「妙觀」下注「云云」者,開麁顯妙以明絕待。
聞の因縁を説くのは四悉檀に分けるのではありません。ただ通じてまとめて因縁と結ぶだけです。もし分けようとするなら、初めは世界悉檀で、「旧解」の下は為人悉檀、「報恩」の下は対治悉檀、「此文」の下は第一義悉檀となります。初めに問い、次に「大論」の下で答えています。中で「集法」と言うのは、しかし結集という言葉は通じて三つの所があります。すなわち一千、七百、五百です。一千はまさしく最初の結集にあたります。七百とは仏滅後百年、跋闍が十事を擅に行ったことにより、舍那迦那が七百に白し、七百がそこで毘舍離国へ赴き、重ねて毘尼を結集し跋闍の過ちを挙げたものです。五百と言うのは、四百年後、迦昵吒王が僧を請じて供養し論道が同じでなかったため、これにより五百が王舎城へ赴き改めて三蔵を集めたものです。今ここでは初めから説き、詳しくは諸文の通りです。展転して他から聞くのは、自と他が別であるため、聞くことと聞かないことが異なるのです。まだ聞かない者は楽欲し、すでに聞いた者は喜びを生じ、ともに世界悉檀です。三昧は善であり、また聞く力があるので、新旧両方の聞が聞によって善を生じます。仏覚と言うのは、ただ仏の加被であり、覚の力が仏のごとくであるため、仏覚三昧と名づけます。すでに証しているので仏から聞くのではないため、自能と言い、本願の力を用いて仏法を持し後代の善を生じるので、旧解の理はまさに為人悉檀に判属すべきです。「報恩経」とは、第六に仏が阿難に侍者となることを求め、許した後、さらに四つの願いを求めました。一、故衣を受けないこと。二、別請を受けないこと。三、諸比丘と同じでなく、会いたい時に即ち会うこと。四、二十年の間、仏の説かれた法を重ねて私のために説くこと。仏が粗く言端を示すと阿難は皆解し、智が速く根が利で強く持つ力があるためです。また「密説」とは、覚力や重説と異なることを弁じるためで、自分は知り他は知らない、これを密と名づけます。また『大経』に「仏が文殊に告げた。阿難は二十年の間仏に仕え、八種の不思議を具足した。一、別請を受けない。二、故衣を受けない。三、非時に仏を見ない。四、一切の女人を見ても欲心を生じない。五、一切の法を持し曾て再び問わない。ただ釈種が殺されたことを問うたほかは。六、仏の入定を知る。七、仏の所へ来る者が受ける利益の異なるを知る。八、悉く仏の秘密の法を了知できる。」とあります。「胎経」とは、初めを挙げて後を推し量るものです。胎相すら尚聞く、まして後の諸経はどうでしょうか。「面如浄満月」とは『育王経』に出ており、ここでも前の四つの名、および『大経』の四句を用いています。しかし『大経』は円を顕し、今は義を開いて竪に四教に約し、名に随う便のため再び次第せず、また具さに四聞の所以を消して教意に順じさせるべきです。本迹の末の「云云」とは、一、本事が高く量り難い。二、本理が深く思い難い。三、本迹の化が測り難い。具さに釈如是の中の如くで、観心の中では聞きません。「不聞」の下の「云云」とは、具さに上の四を用いるべきで、且つ次第に対して四人に分属し、具さに昔経の我聞の如くです。もし今文に依れば、妙観を用いるためです。「妙観」の下の注の「云云」とは、粗を開いて妙を顕し、もって絶待を明かすのです。
次釋「一時」。初引肇意者,「啟」初開也。「運」合宜也。「嘉」善也。佛化大運必稱物機,故云善會。稱機秖是因緣和合,稱機歡喜故云世界。此中世界即屬此經,不同餘文異餘時故。引《大論》文明生世善、治世惡。明二悉者,寄示相耳。復是論中釋一時文,故且引之。然此直云時,彼方兩解,若云迦羅即是實時,若云三摩耶即是假時。《論》「問:天竺釋時凡幾種?答:凡有兩稱(別者如向)迦羅二字以淺易故,三摩耶三字重難說故,若除邪見不說二字,即是假時。若內弟子依時食護明相,即用實時。」當知秖是一時二別,故聲難易耳。是故外人計時為實,而說偈云:「時來眾生熟,時去則催促,時能覺悟人,是故時為因。」故須破邪說三摩耶。故今文中以實時示內生善,假時破外斷惡。「第一義」下「云云」者,道合之言正當嘉會,所發善根言通意別,須約教味以判偏圓,則四味三教權人理等,雖有道合仍須開顯,故下約教仍存四別,此下中等亦如《大經》四因緣智,今經之言亦略開等,本時自行唯與圓合,化他不定亦有八教。
次に「一時」を解釈する。初めに肇法師の解釈を引く。「啓」とは初めに開くこと。「運」とは時宜に合うこと。「嘉」とは善いこと。仏の教化が大いに時宜に合えば、必ず衆生の機根に応じる。だから「善会」と言う。機根に応じるとは、ただ因縁が和合することである。機根に応じて衆生が歓喜するから「世界」と言う。ここでの「世界」はこの経に属し、他の経文や他の時とは異なるからである。
『大智度論』の文を引いて、世の善を生み、世の悪を治めることを明らかにする。二種の悉檀を示すのは、相を示すためである。また、これは論の中で「一時」の文を解釈したものだから、ここで引く。しかし、ここではただ「時」と言うが、インドでは二つの解釈がある。もし「迦羅」と言えば実の時であり、もし「三摩耶」と言えば仮の時である。
論に問う、「インドで時を解釈するには、いくつあるか」。答える、「凡そ二つの称え方がある。別のものは先に述べた通り。『迦羅』の二字は浅く易しいから、『三摩耶』の三字は重く難しいからである。もし邪見を除いて二字を説かなければ、それは仮の時である。もし内弟子が時に従って食事し、明相を護るならば、実の時を用いる」。ただ一つの時に二つの区別があることを知るべきである。だから、声の難易があるだけである。それゆえ、外道は時を実体と見なして、偈にこう説く、「時が来れば衆生は熟し、時が去れば催促し、時は人を覚悟させることができる。だから時を因とする」。だから、邪見を破るために三摩耶を説く必要がある。だから、今の文中では、実の時を示して内に善を生じさせ、仮の時を示して外の悪を断つ。
「第一義」以下の「云云」とは、道に合う言葉はまさに嘉会であり、発する善根の言葉は通じるが意味は別である。教えの味によって偏円を判じる必要があり、四味三教の権教の人も理に等しい。道に合うことがあっても、なお開顕する必要がある。だから、下に教えによって約すと、なお四つの区別が残る。この下の中等も、『大般涅槃経』の四因縁智のようである。今の経の言葉もまた、略して開顕するなどである。本来の時、自行はただ円教と合い、化他は不定で、また八教もある。
言「前諸」者,指向四教皆在迹中。
「前諸」とは、四つの教えがすべて「迹」(仮の姿)の中にあることを指しています。
觀心下應注「云云」,文無者闕。此之麁妙各有觀與境合,名為一時。相即觀者,今經觀也。若將此觀約前三文,例說可知。
心を観じる下には「云々」と注すべきであるが、文がないので欠く。この粗妙それぞれに観と境とが合して、一時と名づく。相即の観とは、今の経の観である。もしこの観を前の三文に約して説くならば、例によって知ることができる。
次釋「佛」字。因緣中亦秖應釋覺,而但云時處等者,明覺之感應時及處耳。非其時處不感佛興,時處異故當世界也。劫初劫盡是極長極短極苦極樂之時,餘三天下富壽無我,非感佛緣,多病是減極,三小災起謂刀、疾、飢,疾居其中故略云病。《俱舍》云:「刀、疾、飢如次,七日月年止,長壽時樂重舉劫初,短壽時苦重舉劫盡」。「東天下」去,舉不興處也。並由壽定樂定、保樂保常,不成機緣故不感佛。此仍且約人中處耳。若論天上,小乘亦有得小果者,如梵王得三果等。若准《華嚴》,四天王及化樂天并無色處並不感佛;餘經非無,但除難處。言「富壽」者,東名勝,身勝南洲,故富壽亦爾。西名牛貨,以牛為貨,故云多牛羊也。北名俱盧,此云勝處,亦云勝生,於四洲中有情處貨皆最勝故。南名贍部,從樹為名,於南洲中但舉初後中間亦有六四二萬,且云八萬是減初也。百年是方極,故後減之。初則彌勒也,今減方極則釋迦也。「未見果」等,明感佛緣,雖略云地亦應云時。「離車」等者,《大經》二十六云:「佛為離車說不放逸。離車云:我等自知是放逸人。何以故?若不放逸,如來世尊應生我國,何故棄我出摩竭提?時婆羅門子名曰無勝,語離車言:頻婆大王已獲大利,佛出其國,猶如大池生大蓮華,華雖在水水不能染。佛亦如是,雖生彼國,世法不染。汝迷五欲不知親近,名放逸人,非佛出彼名為放逸(無勝者阿逸多)。汝耽五欲,縱生汝國,汝亦不見。」故此時處亦據多分,舍衛三億非關苦樂。「摩竭提」者,此云不害,劫初已來無刑殺故;至阿闍世截指為刑,後自齧指痛,復息此刑。佛當生其地故吉兆預彰,所以先置不害之名。「日若不出」等者,《大論》文也。日喻佛興,池喻摩竭,華喻物機。佛若不出,已未二善皆悉不成。未者下種,已者熟脫,然合喻中且約世間有漏善法,故舉剎利等況出世善,故輕繫地獄尚因佛出,乃有一念厭惡之因,後方得離,況復人天?故論云:「若持五戒,釋迦文佛在汝家中」。四姓舉二且從勝說。對治中斷有頂種,即斷三界惡故,故名破惡。
次に「仏」の字を解釈する。因縁の中でも本来「覚」のみを解釈すべきであるが、ただ「時・処」などと述べているのは、覚者の感応する時と処を明らかにしているのである。その時処でなければ仏が出現しないというわけではなく、時処が異なるからこそ、その世界に相応するのである。
劫初と劫末は、最も長く最も短く、最も苦しく最も楽しい時である。他の三天下(東・西・北)では富と寿命はあるが「我」がなく、仏を感ずる縁とはならない。多くの病は減劫の極みであり、三つの小災(刀兵・疾疫・飢饉)が起こる。疾疫がその中にあるので、略して「病」と述べている。
『倶舎論』にいう:「刀兵・疾疫・飢饉は、順に七日・七月・七年で止む。長寿で楽の重い時は劫初を挙げ、短寿で苦の重い時は劫末を挙げる」。
「東天下」以下は、仏が出現しない処を挙げている。いずれも寿命が定まり、楽が定まり、楽や常を保つことに執着するため、機縁が成熟せず、仏を感ずることがないのである。これはまだ人間界における処について述べたに過ぎない。
もし天上界について論ずれば、小乗でも小果を得る者はいる。例えば梵天王が三果を得るなどである。もし『華厳経』に準じれば、四天王天・化楽天および無色界の処は、いずれも仏を感ずることがない。他の経典にも同様の記述はなく、ただ難処を除いているだけである。
「富寿」とは、東洲は「勝身」と呼ばれ、身体が南洲に勝るため、富と寿命もまた同様である。西洲は「牛貨」と呼ばれ、牛を貨財とするため、多くの牛や羊があるという。北洲は「俱盧」と呼ばれ、これは「勝処」、また「勝生」とも訳され、四洲の中でも有情の住処や貨財が最も勝れているからである。南洲は「贍部」と呼ばれ、樹木の名に由来する。南洲の中でも、初めと終わりを挙げれば、中間にも六万・四万・二万歳の時期があり、ここで「八万歳」と述べているのは減劫の初めである。百年は方等の極みであり、故に後に減ずるのである。初めは弥勒仏の時であり、今、減劫の極みにあるのが釈迦仏の時である。
「未見果」などは、仏を感ずる縁を明らかにしている。地について略述しているが、時についても言及すべきである。
「離車」などについては、『大般涅槃経』第二十六にいう:「仏が離車族に不放逸を説かれた。離車族は言った:『我らは自ら放逸の者であると知っている。なぜなら、もし不放逸であれば、如来世尊は我が国に生まれるべきであるのに、どうして我らを棄てて摩竭提国に出られたのか?』その時、婆羅門の子、名を無勝という者が離車族に言った:『頻婆沙羅王は既に大いなる利益を得た。仏がその国に出現されたのは、あたかも大池に大いなる蓮華が生じるが如く、華は水の中にあっても水に染まらない。仏もまた如是であり、その国に生まれながらも、世の法に染まられない。汝らは五欲に迷い、親近することを知らず、放逸の人と呼ばれるのであって、仏がその国に出たから放逸というのではない(無勝とは阿逸多(弥勒菩薩)である)。汝らが五欲に耽っていれば、たとえ汝らの国に生まれても、汝らは見ることができないであろう』」。故に、この時処もまた多くの場合に基づいており、舎衛城の三億の住民は苦楽に関わらないのである。
「摩竭提」とは、これは「不害」と訳され、劫初以来、刑罰や殺害がないからである。阿闍世王の時に至り、指を切る刑罰が設けられたが、後に自ら指を噛んで痛みを感じ、この刑罰を止めた。仏がその地に生まれるべきであるから、吉兆が予め顕れ、故に先に「不害」の名を置いたのである。
「日若不出」などは、『大智度論』の文である。日は仏の出現に譬え、池は摩竭提国に譬え、華は衆生の機根に譬える。仏が出なければ、既に修した善も未だ修さない善も、すべて成就しない。未だのものは種を下すことであり、既にのものは熟して脱することである。しかし、譬えを合わせる中では、世間の有漏の善法について述べているので、剎帝利などを挙げて出世間の善を況えている。故に、軽い繫縛の地獄でさえ、仏が出たことによって、一念の厭悪の因が生じ、後に離れることができるのである。ましてや人天においてはなおさらである。故に論にいう:「もし五戒を保つならば、釈迦文仏は汝が家の中にいるのである」。四姓の中から二つを挙げているのは、勝れたものを取り上げて述べているのである。
対治の中では、有頂天の種を断ずる。すなわち三界の悪を断ずるから、これを「破悪」というのである。
問:
問:
為人但至有頂,對治何故破三界惡?
人々がただ有頂天に至るだけで、なぜ三界の悪を破る対治となるのでしょうか?
答:
答:
真諦事理,於中道理,俱名為事。若前二教,不得用此以為破惡,以讓理故;今此圓教,故得用之。
真実の道理と事象の理、その中にある道理は、すべて事と呼ばれます。もし前の二つの教えであれば、これを悪を破るために用いることはできません。なぜなら、道理に譲るからです。しかし、今この円教においては、これを用いることができるのです。
言「三乘」者,即攝三教,以菩薩乘攝別教故。言「餘不能感」者,約八相化,必出世機方能感佛,示九道身雖是感佛,不名佛化,故非感佛。「善斷」之言在無漏智,「種」謂能生,垂盡非想復墮三惡,名為還生;一去不來故名為永。第一義中既云法性,煩惱即菩提,故云無動。生死即涅槃,故云無出。佛無苦集已住法性,雖無動出,不動而動,動法性山示斷生因,故名為動;不出而出,出生死海化九道生,故名為出。此前皆謂實動實出,至此方知非生而生、無動而動,則前二教及別地前但屬三悉,引入今經第一義故。
「三乗」とは、三つの教えを包括するものであり、菩薩乗は別教を包括するからである。「余は感ずること能わず」というのは、八相による教化に即して言えば、必ず出世の機根があって初めて仏を感得し、九道の身を示すことは仏を感ずるものではあるが、仏の教化とは言えず、ゆえに仏を感ずるものとは言わないのである。
「善く断ず」という言葉は無漏の智にあり、「種」とは能く生ずることをいう。非想天に至って尽きんとするが、また三悪道に堕ちることを「還って生ず」という。一度去って再び来たらず、ゆえに「永し」という。
第一義においては、既に法性と言われているように、煩悩はそのまま菩提であるから、「動ぜず」と言われる。生死はそのまま涅槃であるから、「出でず」と言われる。仏には苦集はなく、既に法性に住している。動ぜず出でざるも、動ぜずして動じ、法性の山を動かして生の因を断ずることを示すゆえに、「動ず」と言われる。出でざるも出で、生死の海を出でて九道の衆生を教化するゆえに、「出づ」と言われる。
これまでは皆、実に動じ実に出づるものと思っていたが、ここに至って初めて、生ぜずして生じ、動ぜずして動ずることを知るのである。すると、前の二つの教え及び別教の地前までは、ただ三悉檀に属し、今の経の第一義に導き入れるためのものであることがわかる。
約教中,先釋,次「故經云」下引證。前明因緣說感應相,今既約教,約四極果初成之相故並云覺。又自覺覺滿則據於初,覺他通於初後。西云佛陀,此云覺者知者,對迷名知、對愚說覺,名同對別並屬自覺;故約四諦,即以自覺而能覺他,故云亦也。「總相別相」者,總謂無非無常,別即觀四念處,謂三界繫及四聖諦,此別莫不皆觀無常。「老比丘」者,從後異故,以通教佛亦可云老,而云帶者辨異前教,如《阿含》云「佛臨涅槃,如老比丘詣純陀舍」。「三十四心」者,八忍、八智斷見,九無礙、九解脫斷思,斷伏不同,具如《止觀》第三、第六記,具在《婆沙》、《俱舍》及諸《阿含》。此教求作餘釋,不得一念相應斷餘殘習,作三十四心釋終無其理,具如《大品》第十地。「別佛」具如《瓔珞》及諸大乘五十二位初地斷無明者是。「圓佛」具如《華嚴》初住斷無明者是。然小乘中立二無知,染污無知無明為體,不染無知劣慧為體,謂味勢熟德數時量耳。然四佛皆云自覺覺他者,秖是當教自行滿位,覺智不同化境寬狹,是則遍搜大小乘教,唯有此四成道之相,具如《玄》文因果兩妙。他釋但有自覺等三,既無四教各具三義,如何分別大小教主?與而言之不出二教。若云坐蓮華藏,或云三世諸佛,皆色究竟成無上道,並別佛相。若隱前三相從勝而說,非謂太虛名為圓佛。別佛既云單論,即是隱前二相,如目連不窮其聲等。若《法華》已前三佛離明,隔偏小故,來至此經從劣辨勝即三而一,他迷一家所明四佛者,以棄舊譯經論故也。如四階成道,三乘共位,瓔珞賢聖,華嚴融門,此四成道不可孱齊。以由設迹不同隱實覆本,故開權顯本方知不殊。又諸教中各有五人說經,如《大論》云:「佛及聲聞天仙化人」,及《華嚴》中加諸菩薩。又有眾生器世,而皆以佛為教主也。然準《大論》下四印定,即名佛說。又《華嚴》中剎說塵說,菩薩被加亦無印述,餘三佛力通得名經,故《大論》中所破并能通具四教。若得實意,方知四佛體同用殊。講《華嚴》者,皆云我佛。讀《唯識》者,不許他經,故至今經乃知指昔,唯佛究盡斯言有在。次引經者,《像法決疑》中通佛云大身小身者,以云帶老比丘故。
教えの解釈においては、まず釈義を行い、次に「故に経に云う」以下で経典を引用して証明します。前に因縁説によって感応の相を明らかにしましたが、今は教えに基づいて、四教それぞれの仏が初めて成道した相に即しているため、すべて「覚」と表現されています。また、自覚が満ち足りていることは初成道時にあり、他を覚らせることは初めから終わりまで通じています。サンスクリットで「ブッダ」、中国語で「覚者・知者」と言います。迷いに対しては「知」、愚かさに対しては「覚」と名付け、名称は同じでも対する対象が異なり、いずれも自覚に属します。したがって四諦に即して言えば、自覚によって他も覚らせることができるので、「亦(また)」と言うのです。
「総相・別相」とは、総じてすべてが無常であることを言い、別しては四念処を観じることを指します。つまり三界の束縛と四聖諦を観るのであり、この別観もすべて無常を観じることにほかなりません。「老比丘」とは、後の教えと異なることを示すためであり、通教の仏も「老」と表現できますが、「帯(帯びる)」とあるのは前の教えとの違いを明らかにするためです。『阿含経』に「仏が涅槃に臨まれるとき、老比丘のごとく純陀の舎に詣でたもう」とある通りです。
「三十四心」とは、八忍・八智によって見惑を断ち、九無礙・九解脱によって思惑を断つことを言います。断伏の違いについては、詳しくは『止観』第三・第六記、また『婆沙論』『倶舎論』および諸『阿含経』に説かれています。この教えで他の解釈を求めても、一念相応して残る習気を断つことはできず、三十四心の解釈をすることには到底道理がありません。詳しくは『大品般若経』の十地に説かれています。
「別仏」については、『瓔珞経』および諸大乗経の五十二位のうち、初地で無明を断つ者がこれに当たります。「円仏」については、『華厳経』の初住で無明を断つ者がこれに当たります。しかし小乗では二種の無知を立て、染汚無知は無明を本体とし、不染無知は劣った慧を本体とします。つまり味・勢・熟・徳・数・時・量などを指します。
四仏すべてが自覚・覚他と説かれるのは、ただそれぞれの教えにおける自行が満ちた位を示すものであり、覚りの智慧が異なり、化導する境が広狭あるからです。このように大小乗の教えをくまなく探求しても、成道の相はこの四つしかありません。詳しくは『玄義』の因果両妙に説かれています。他の解釈では自覚などの三義しかなく、四教それぞれが三義を具えることがなければ、どうして大小乗の教主を区別できましょうか。広く言えば二教を出るものではありません。
もし「蓮華蔵に坐す」と言い、あるいは「三世の諸仏、皆色究竟天で無上道を成ず」と説くならば、それはすべて別仏の相です。もし前三相を隠して勝れた面から説くならば、太虚を円仏と名付けるわけではありません。別仏が単独で論じられるのは、前の二相を隠しているからです。目連尊者がその声の源を窮められなかったようにです。もし『法華経』以前の三仏を離れて明らかにするならば、偏小に隔たるため、この経に至って劣った面から勝れた面を弁じ、三を即して一とします。他の解釈で一家の明かす四仏を迷うのは、旧訳の経論を棄てるからです。
四階の成道、三乗の共位、瓔珞の賢聖、華厳の融門、この四つの成道は一様には論じられません。それは仮りの迹を設け、実を隠し本を覆うからであり、権を開き実を顕わして初めて違いがないことを知るのです。また諸教にはそれぞれ五人説経があり、『大智度論』には「仏および声聞・天・仙・化人」、『華厳経』にはさらに諸菩薩が加わります。また衆生や器世間も説法者となりますが、いずれも仏を教主とします。しかし『大智度論』に基づき下四印で定めれば、それを仏説と名付けます。また『華厳経』では国土が説き微塵が説き、菩薩が加被を受けても印可の述べることはありません。他の三仏の力用を通じて経と名付けられるので、『大智度論』の破斥するものもすべて四教を通具します。もし実意を得れば、四仏が体は同じで用が異なることを知るでしょう。『華厳経』を講ずる者は皆「我が仏」と言い、『唯識』を読む者は他の経を許さないので、この経に至って初めて昔を指すことを知り、ただ仏のみが究尽するという言葉に意味があるのです。
次に経を引くのは、『像法決疑経』の中で通仏について大身・小身と説くのは、「老比丘を帯びる」と説くからです。
約本迹中初寄本中體用,故云本一迹三。「中間」下,次明迹中應化勝劣。他受用報皆在迹也,但生滅之言多在應化,唯本地四佛皆本者。準例而言,則迹中體用俱迹,本地體用俱本,具如《玄》文本因果妙等料簡中說。
本と迹の関係において、まず本に基づいて体と用を述べるので、「本は一、迹は三」と言われる。「中間」以下は、迹における応化の勝劣について述べる。他受用の報身もすべて迹に属するが、生滅の言説は主に応化に現れ、ただ本地の四仏のみがすべて本に属する。例に照らせば、迹における体と用はともに迹であり、本地における体と用はともに本である。詳しくは『玄義』の本因果妙などの解説に説かれている通りである。
觀心中覺秖是智,六即判之。有本無「云云」者,或是脫落。應先辨藏通至別圓中,方乃得云偏圓二覺,然次第中亦可攝得藏通二佛,或略之耳。若望前三境智,因緣佛也。藏等四觀,四教佛也。中望空假,本迹佛也。己心即是觀心佛也。
心を観ずる中に覚るは、ただこれ智であり、六即をもってこれを判ずる。もともと「云云」という語のない本もあるが、脱落したものであろう。まず蔵・通から別・円に至るまでの区別を明らかにしてこそ、偏と円の二種の覚りについて語ることができる。しかし、次第の観法の中にも蔵・通の二仏を摂めることができるので、あるいはそれを略しているのであろう。もし前三の境智と比べるならば、それは因縁の仏である。蔵などの四観は、四教の仏である。中道が空・仮を見渡すのは、本迹の仏である。己心こそが、すなわち観心の仏である。
次釋「住」中全用《大論》,恐他不曉,故初標云能住所住,若但身土但成世界,心法相依方成三悉。他人唯許身依於土,乃成佛心無所依法。忍土者,《悲華》第五云:「何因緣故名曰娑婆?是諸眾生忍受三毒及諸煩惱故也。」能所異故名為世界。故《大論》云:「住者四儀住世(今文世界)」。復有三種:一者天住,謂欲天,今云十善;二者梵住,即色天,今云四禪,但名異耳(今文為人);三者淨住,即三果已去,今云三三昧者。論云:「入三三昧即得初果」。三三昧為對治者,以為三明近對治門,具如《止觀》第七記。《論》又云:「布施持戒善心為天住,四無量心為梵住,(前從果、此修因)三三昧為聖住,聖住秖是淨住耳。」論又有四住,天、梵、聖、佛。更加佛住,即今文中《首楞嚴》是,故今四住收論文盡。若以教收,四教並有前四悉義,四佛並為第一義天;但前二佛不得云用《首楞嚴》耳。
次に「住」の解釈についてですが、全体として『大論』を用いていますが、他の方が理解しにくいかもしれないので、最初に「能住所住」と示しました。もし単に身と土だけなら、世界が成り立つだけですが、心と法が互いに依りあって初めて三悉(三つの理解)が成り立ちます。他の方はただ身が土に依ることを認め、仏の心には依る法がないとしています。
「忍土」について、『悲華経』第五巻にこうあります。「なぜ娑婆という名なのか?それは衆生が三毒と諸々の煩悩を耐え忍んでいるからである」。能と所が異なるので、世界と呼ばれます。だから『大論』に「住とは四儀が世に住むこと」とあります。さらに三種類あります:一つは天住、つまり欲界の天で、今でいう十善。二つ目は梵住、すなわち色界の天で、今でいう四禅、ただ名前が違うだけです。三つ目は浄住、つまり三果以上の境地で、今でいう三三昧です。論には「三三昧に入れば初果を得る」とあります。三三昧が対治となるのは、三明に近い対治の門としてであり、詳しくは『止観』第七記にあります。
『論』にはまたこうあります。「布施・持戒・善心が天住であり、四無量心が梵住であり、三三昧が聖住である。聖住はただ浄住にほかならない」。論にはさらに四住、つまり天・梵・聖・仏があります。仏住を加えれば、今の文中の『首楞厳』がそれに当たり、だから今の四住は論の内容をすべて収めています。
もし教えで収めるなら、四教にはすべて前の四悉の意味があり、四仏はすべて第一義天となります。ただし、前の二仏については『首楞厳』を用いるとは言えません。
問:
問:
若爾,今釋佛住,何以三悉但約欲色及以三果,能住所住俱非佛耶?
では、今、仏の住処について解釈しますが、なぜ三悉檀(三種の教え方)は、欲界と色界、および三果(預流果・一来果・不還果)に限って説かれ、能住(住む主体)と所住(住む場所)の両方が仏ではないのでしょうか?
答:
お答えします。
一從通以趣別,二將勝以攝劣。言從通者,從廣之狹。言從勝者,佛依王城必攝欲色及以三果。有人斥云:今釋住王城,何以引於天梵等住?此人不曾讀《大智論》,此是彼論釋住正文。論具二意如向所述,若秖以色身住土以釋住名,則大菩薩神無方所,便無所住,況復佛耶?故《普賢觀》常寂光土是佛住處,豈王城耶?故下約教皆以涅槃而為所住,次約教中涅槃皆是所住之法,並約第一義也。
一つには、普遍的な原理から個別の事象へと導くことで、二つには、優れた教えによって劣ったものを包摂することです。
「普遍から導く」とは、広大なものから狭いものへと向かうことです。「優れたものから導く」とは、仏が王城に住まわれることによって、必ず欲界や色界、そして三果の境地をも包み込まれることを意味します。
ある人が批判して言うかもしれません。「今、王城に住まれることを説いているのに、なぜ天界や梵天などの住処を引き合いに出すのか」と。この人は『大智度論』を読んだことがないのでしょう。これはまさにその論書が「住」という言葉の真意を解き明かしている部分なのです。
論書には先に述べたように二つの意味が備わっています。もし単に色身が国土に住むことだけを以て「住」の意味を解釈するならば、大菩薩の神通力には方所がなく、どこにも住していないことになってしまいます。ましてや仏においてはなおさらです。ですから『普賢観経』には、常寂光土こそが仏の住処であると説かれており、果たして王城がそれでしょうか。
したがって、後に教えに基づいて説かれるところでは、すべて涅槃を以て住まれるところとされています。次に教えに基づく説明の中では、涅槃はすべて住まれるべき法であり、これらはすべて
釋前二佛皆云有餘無餘者,巧拙雖殊所滅不異,後兩祕藏證道亦一。「前三佛」下判麁妙者,別教證道雖妙,從教道故判麁。言「能所」者,若約理判如向所說,若約事判秖是依正他受用土,故判為麁。若約中理,雖俱祕藏亦是從教。今經是圓復須開顯,故名妙住。本迹中言「三藏佛應涅槃」者,應字平聲,若據灰斷即應入滅,入滅本也。由慈悲故所以住世,秖名住世以為垂迹,此佛報生無別理本,通佛扶習此從因說,以六七地入空為本,以誓扶習利他為迹,果同三藏故從因說。別圓同云「熏法性」者,教證小殊,然皆因時起四弘誓冥熏法性,但明法性即離不同,智斷雖殊法性無別。「當知」下,總判前文以明本迹。本迹莫不皆由慈悲,前四俱迹故須更云本佛住也。「以慈悲」下,判既開迹已豈別有本。
前の二仏(蔵教・通教の仏)が「有余・無余」と説くのは、方便の巧拙は異なれども、滅する煩惱の実体は同じだからである。後の二仏(別教・円教の仏)の秘蔵の証道も、究極的には一つの真理に至る。
「前三仏」以下で粗妙を判じているのは、別教の証道は妙ではあるが、その教えの面から見れば粗と判ずるからである。「能所」について言えば、理に基づいて判ずれば先に述べた通りであり、事に基づいて判ずれば、ただ依報・正報や他受用土に過ぎないので、粗と判ずる。中道の理に基づけば、共に秘蔵であっても、やはり教えの面からは粗となる。今の経(法華経)は円教であり、さらに開顕されるので、妙住と名づけるのである。
本迹の説明の中で「三蔵仏は応に涅槃すべし」という「応」の字は平声で読む。灰身滅智による断滅を根拠とすれば、確かに応に入滅すべきである。この入滅が「本」である。しかし慈悲によって世に住するのであり、ただ世に住することを以て「垂迹」と名づける。この仏(三蔵仏)には別の理としての「本」はなく、通教の仏が習気を扶けるのは、因位からの説き方である。六・七地で空に入ることを「本」とし、誓願によって習気を扶け他を利することを「迹」とする。その果は三蔵仏と同じであるから、因位からの説き方をするのである。
別教と円教が共に「法性を薫ず」と言うのは、教えと証りに少し違いはあるが、いずれも因位において四弘誓願を起こし、法性を冥かに薫じるのである。ただし、明らかにする法性が即と離で異なり、智断には違いがあっても、法性そのものに別はない。
「当知」以下は、前文を総括して本迹を明らかにしている。本迹はすべて慈悲によるものであり、前の四仏(蔵・通・別・円の方便説の仏)はすべて迹であるから、さらに「本仏の住」を説く必要がある。「以慈悲」以下は、迹を開顕した後には、別に本があるわけではないと判じている。
次約觀中以智為佛,智住無常及空假中,前直相對故四觀不同。次約住意,故云「以無住法住於境中」,故無住之言通於四教。麁智謂住,於理實無,若在圓中便成絕待。「王城」者,準《西域記》,此城崇山四周以為外郭,東西長南北狹,周一百五十里,子城三十里,宮城北門是調達放醉象處,東北是身子逢馬勝得初果處,東北十四五里至鷲峯山,是說《法華》等經處。斑足緣亦出《仁王》,論中又有異釋。論「問:如王舍城,迦毘羅、波羅奈並有王舍,何故此城獨得名耶?答:有人云,是摩伽陀國王子一頭兩面四臂,時人以為不祥,裂其身首棄之曠野。有羅剎女名曰闍羅,拾取合之而乳養之。後大成人能兼諸國,乃取諸王八萬人(下去同今疏文)。」《楞伽》又云:「昔有王遊獵,馬驚入險乃絕居人,共㹀師子居而行醜行,生息長大名曰斑足,後紹王位領七億眾,食肉餘習非肉不餐,後乃食人,所生皆是羅剎。」餘與今文大同。四非常偈者,秖是四無常偈,具如《止觀》第七卷記。言「得空平等」即是初地者,彼既共教,小即初果,大即乾慧或在見地,別即歡喜,與《大經》梵行意同。
次に、観の面から見ると、智を仏とします。智は無常と空・仮・中の三諦に安住しますが、先ほどはただ相対的に見たため、四つの観が異なっていました。次に、住の意味から見ると、「無住の法をもって境の中に住する」と言われるように、無住という言葉は四教に通じます。粗雑な智は住と見なしますが、真理の実相においては存在せず、円教の中にあれば絶対無二となります。
「王城」について、『西域記』によれば、この城は高い山々が四方を取り囲んで外郭をなし、東西に長く南北に狭く、周囲は百五十里、内城は三十里です。宮城の北門は提婆達多が酔象を放った場所、東北は舎利弗が馬勝に出会って初果を得た場所、東北に十四五里行くと霊鷲山に至り、『法華経』などを説かれた場所です。斑足王の縁起も『仁王経』に出ており、論の中にはまた異なる解釈もあります。
論に問うています。「王舎城のように、迦毘羅や波羅奈にも王舎があるのに、なぜこの城だけが特にその名を得ているのか?」答えに言います。「ある人はこう言う。摩伽陀国の王子が一つの頭に二つの顔、四本の腕を持って生まれ、当時の人は不吉として、その体と首を引き裂き野に捨てた。闍羅という名の羅刹女がそれを拾い集め合わせて乳で育てた。後に大人になり、諸国を併合し、八万人の王たちを捕らえた(以下、現在の疏文と同じ)。」
『楞伽経』にはまたこうあります。「昔、王が狩りに出た時、馬が驚き険しい地に入り、人里から絶えた場所で、牝牛と獅子が共に住み醜い行いをし、生まれた子が成長して斑足と名乗り、後に王位を継いで七億の衆を率いた。肉食の習気が残り、肉でなければ食事せず、後に人を食うようになり、生まれる子は皆羅刹となった。」その他は現在の文章とほぼ同じです。
四つの非常偈とは、ただ四つの無常偈のことで、詳しくは『止観』第七巻に記されています。「空平等を得る」とは初地のことであると言いますが、それは共教であれば、小乗では初果、大乗では乾慧あるいは見地、別教では歓喜地であり、『大般涅槃経』の梵行品の意と同じです。
若爾,何故聞無常而悟大耶?
では、なぜ無常を聞いて、大いなる悟りを得ることができるのでしょうか?
答:
答:
已聞般若復聞非常,恐其吝國,正助合行因得大益。
般若を聞き、また無常を聞いた後、国を惜しむ心が生じる恐れがあるため、正行と助行を合わせて実践することで大きな利益を得ることができます。
此約斑足緣異故屬世界。千王取血等,雖失小國迭知大國,生善屬為人也。百姓排舍以免燒惡,即對治也。斑足得道,第一義也。注「云云」者,《大論》與諸經所出既多不可盡具,雖多不出四悉,約教中四見,然辨土橫豎具在《淨名疏》,即如下文純諸菩薩等。「例知」者,以娑羅例王城也。本迹、觀心在後者,後與山文合明觀心,後文仍略俱不出本迹;若例上,下應云本住王三昧三德之城,迹居忍土之王城耳。「梁武」等者,字應作睢,其鳥似鷹,云似鴟者,或恐誤。樂而不淫哀而不傷,雌雄各居欲交俱鳴,交已各去故以之類皇妃也。《詩》云:「關關睢鳩,在河之洲,窈窕淑女,君子好逑。」今江東人呼為鶚,好在江洲。梁武意謂睢形近鷲,故引之耳。此屬世界也。又解「山峯」下,為人,覩者生悅故也。又云去對治,能藏惡故亦當治惡。又解去第一義,三乘聖居是第一義。次辨五峯及後問答,但是第一義中釋疑及分別山相,非四悉攝。又《增一》三十一云:「佛在靈鷲告諸比丘,久遠同名靈鷲,更有別名,汝等知不?亦名廣普山、負重山、仙人窟山,恒有羅漢菩薩得道,及神通諸仙所居,有五百辟支佛住。如來欲下,先令淨居天子來此告令,令此土淨。却後二年佛現此間,支佛聞已燒身入滅。何以故?世無二佛、國無二王,一佛境界無二尊號。」此山高下亦復不等。四十七云:「俱留孫佛四日四夜行至山頂,那舍佛三日三夜,迦葉佛二日二夜,釋迦牟尼須臾至頂,並以羅閱祇人行也。時漸末,山漸下故。」文闕本迹,應云本住三德大涅槃山,迹居靈鷲。又本迹各有靈鷲,〈壽量〉云:「常在靈鷲山」,本也。
この箇所は、斑足王の因縁が特別であるため、世界悉檀に属します。千人の王の血を取るなどは、小国を失っても大国を知るということで、善を生じさせる点で為人悉檀に属します。民衆が家を捨てて焼死の難を免れたのは、対治悉檀です。斑足王が悟りを得たのは、第一義悉檀です。
注の「云云」とは、『大智度論』と諸経典に説かれる内容が多く、すべてを挙げることはできませんが、多くは四悉檀を出ず、教えの中の四種の見解に依拠しています。しかし、国土の縦横の分別はすべて『維摩経疏』にあり、以下の文にある「純粋な諸菩薩など」と同じです。「例知」とは、沙羅樹を例に王城を説明することです。
本迹と観心が後にあるのは、後で山の文と合わせて観心を明かすためであり、後の文は簡略で、本迹はともに出てきません。もし前の例に倣うなら、下に「本は王三昧・三徳の城に住み、迹は忍土の王城に住む」とあるべきです。
「梁武」などの箇所では、字は「睢」とすべきです。この鳥は鷹に似て、鴟に似ていると言われることもありますが、おそらく誤りです。楽しみながらも淫らではなく、悲しみながらも傷つかず、雌雄は別々に住み、交わろうとするときはともに鳴き、交わった後はそれぞれ去るため、皇妃に譬えられます。『詩経』に「関関たる睢鳩、河の洲に在り、窈窕たる淑女、君子の好逑」とあります。今、江東の人々はこれを「鶚」と呼び、江の洲を好みます。梁の武帝は、睢鳩の形が鷲に近いと考え、これを引用したのです。これは世界悉檀に属します。
また、「山峯」以下の解釈は、為人悉檀であり、見る者が喜びを生じるからです。また、対治悉檀を離れるとは、悪を蔵することができるため、悪を治めることも意味します。また、第一義悉檀を離れるとは、三乗の聖者が住むことが第一義であるということです。
次に五峰と後の問答を分別しますが、これは第一義悉檀の中での疑いの解釈と山の相の分別であり、四悉檀には含まれません。
また、『増一阿含経』第三十一に、「仏が霊鷲山にいて比丘たちに告げられた。久遠の昔から同名の霊鷲山があり、さらに別名もある。あなたたちは知っているか。広普山、負重山、仙人窟山とも呼ばれ、常に羅漢や菩薩が悟りを得、神通力を持つ仙人たちが住んでいる。五百人の辟支仏が住んでいる。如来が降りようとするとき、まず浄居天子がここに来て告げ、この国土を清浄にする。二年後に仏がここに現れる。辟支仏はこれを聞いて身を焼き入滅する。なぜなら、世に二仏なく、国に二王なく、一仏の境界に二つの尊号はないからである」とあります。この山の高さもまた一様ではありません。
第四十七には、「倶留孫仏は四日四夜かけて山頂に至り、那舎仏は三日三夜、迦葉仏は二日二夜、釈迦牟尼仏は瞬く間に頂上に至った。すべて羅閲祇の人々の行いである。時が末法に近づくにつれ、山は次第に低くなるからである」とあります。
文には本迹が欠けていますが、「本は三徳大涅槃の山に住み、迹は霊鷲山に住む」とあるべきです。また、本迹それぞれに霊鷲山があり、『寿量品』に「常に霊鷲山に在り」とあるのは、本です。
約觀中,先解王舍中初立觀境,言「心王造舍」者,識陰為王,造業諸心必有心所,今欲消王,且以善惡心王以對無記之舍,故云王造。「若析」下,四觀,此示觀解異於他經,應如《止觀》十乘十境,下去皆爾,故注「云云」。後兩重云「若觀」,即後二教觀也。亦須分別相別不同,具如《止觀》,不可即具。約山作觀亦先立觀境,正當觀陰,具如《止觀》第五去文。別圓觀中既云山即法性,正因法身餘之二德準諸文說,故知此觀不同他見。所以又約山為觀者,山城雖殊同是依報,是故約之以觀正報。又諸觀境不出五陰,今此山等約陰便故,以諸文中直云境智。「自住其中」等者,以《大經》及此經意共為自他,定慧力莊嚴即自住其中,以此度眾生即安置諸子。「云云」者,亦應於此以辨二觀同異之相,方便正修簡境及心,并對前二以辨權實等,乃至四觀亦須開顯等也。
観想においては、まず王舎城の観想対象を解き明かす。初めに「心の王が舎を造る」とあるのは、識陰が王となり、業を造る諸々の心には必ず心所が伴う。今、王を消そうとするとき、善悪の心の王をもって無記の舎に対比させるため、「王が造る」と言うのである。
「もし析するならば」以下の四つの観想は、ここに示された観解が他の経典とは異なることを示す。『止観』の十乗十境のようにすべきであり、以下もすべて同様である。ゆえに注に「云云」とある。
後の二重に「もし観るならば」とあるのは、後の二教の観法である。また、それぞれの相の違いを分けて考える必要があり、詳細は『止観』に具わっている。ただちに具足するものではない。
山を観想の対象とする場合も、まず観想の対象を立てる。正しくは陰を観想すべきであり、詳細は『止観』第五巻以降の文による。
別教と円教の観想において「山はすなわち法性なり」と説かれているのは、正因たる法身であり、残りの二徳は諸文に説かれる通りである。ゆえに、この観想は他の見解とは異なることがわかる。
さらに山を観想の対象とする理由は、山と城とは異なるが、ともに依報であるからである。それゆえ、これを縁として正報を観想するのである。
また、諸々の観想の対象は五陰を出ない。今、この山などは陰に約するのが便であるため、諸文の中では直接に「境智」と説かれている。
「自らその中に住す」などとは、『大般涅槃経』およびこの経の意をもって自他を共にし、定慧の力をもって荘厳することがすなわち「自らその中に住す」であり、これをもって衆生を度することがすなわち「諸子を安置す」である。
「云云」とは、ここにおいても二観の同異の相を弁じ、方便と正修とを分け、境と心とを簡別し、さらに前の二つに対比して権実などを弁じるべきである。さらに四観についても開顕などを説く必要がある。
次釋「中」字,既在山城之中,因緣等四具如彼釋,今但消「中」字義耳。欲更說之,先約所表以具四悉:常好中道,赴欲也;升中天、中日降,為人也;中夜滅,對治也;說中道,第一義也。諸教皆有中道,但有有體無體之殊。本迹者,觀圓理本中也,示離斷常迹中也。今經是開顯之中,若約觀者,即空即中,具二中也。
次に「中」の字を解釈する。既に山城の中にあるので、因縁などの四つは先の解釈に詳しいが、今はただ「中」の字の意味を明らかにするだけである。さらに説こうとするなら、まず表すところによって四悉檀を備える:常に中道を好むのは、赴欲である;中天に昇り、中日に降るのは、為人である;中夜に滅するのは、対治である;中道を説くのは、第一義である。諸教には皆中道があるが、ただ体のあるなしの違いがある。本迹について言えば、円理を観ずるのが本中であり、断常を離れることを示すのが迹中である。今の経は開顕の中であり、もし観ずる者について言えば、即空即中であり、二つの中を備えている。
法華文句記卷第一(中)
法華文句記 巻第一
法華文句記卷第一(下)
法華文句記 巻第一(下)
唐天台沙門湛然述
唐の天台沙門湛然の述
釋列眾中,初辨次第。言「多爾」者,亦有經中菩薩後列,各有所表。如《華嚴經》不列聲聞,純無雜故。舊解者多是光宅,與《大論》意同故無別破,但總結云似兩解耳。注「云云」者,事似因緣須具四悉,義似約教復須論八。事即身也,故云親疎,義即諦理,故云涅槃等,形服異故即世界。親者生善,疎者破惡,不親不疎即第一義。於有義中既以三諦,以諦對教則四可識,於藏等四辨漸等四,其義可知。又兩二義並欣涅槃,及四菩薩並不欣不著故皆居中,唯詣實理兼能利人,故居中求宗超彼凡聖。若以入中為菩薩,即指別教地上、圓教始終。注家云:聲聞學疎敦之於內,菩薩道親忘之於外,此但得事而失義,似迹而迷本。況復觀心、因緣耶?約本迹中,此經列眾超出群經,故人天二乘能引之人本非下地,所引之眾堪通別記,語通意兼,故云內祕。皆大薩埵,既能迹引二邊判非凡小,故云薩埵。菩薩濫本故且不論,應知亦且約體用論也。觀解後「云云」者,亦應更約因緣明觀諸教開顯及本迹觀。
まず、聴衆の列席順序について説明します。「多くの聴衆」という言葉についてですが、経典によっては菩薩が後に列挙されることもあり、それぞれに意味があります。例えば『華厳経』では声聞は列挙されません。これは純粋で混じり気がないからです。古い解釈は光宅法師のものが多く、『大智度論』の意と一致しているため、特に批判はせず、ただ「二つの解釈があるようだ」とまとめています。
注釈に「云云」とあるのは、事象が因縁に似ており、四悉檀(世界・為人・対治・第一義)を備える必要があり、教義が似ているのでさらに八教(化法四教と化儀四教)を論じる必要があるからです。事とは具体的な事象(身)であり、親密さや疎遠さを指します。義とは真理(諦理)であり、涅槃などを指します。形や服装が異なるのは世界悉檀です。親密な関係は善を生み、疎遠な関係は悪を破り、親密でも疎遠でもない関係は第一義悉檀です。
真理の中には三諦(空・仮・中)があり、真理を教えに対応させると四教(蔵・通・別・円)が理解できます。蔵教などの四教と漸教などの四教を区別する意味は明らかです。また、二つの二義(二つの側面)はともに涅槃を喜び、四菩薩は喜びも執着もしないため、すべて中道に位置します。ただ真理に到達し、さらに人々を利益することができるため、中道を求めて宗とし、凡夫や聖人を超えています。
もし中道に入ることを菩薩と見なすなら、それは別教の地上(十地)や円教の始終(初住から妙覚まで)を指します。注釈家は言います:声聞は学びが浅く内にこもり、菩薩の道は親密で外に忘れる、これはただ事象を得て真理を失い、跡に似て本質を見失っている、と。ましてや観心や因縁についてはどうでしょうか?本迹(本門と迹門)の中で、この経典の聴衆の列挙は他の経典を超えており、したがって人天や二乗(声聞・縁覚)といった導き手は本来下位の境地ではなく、導かれる聴衆は通教や別教に記されるに値します。言葉は通じていても意味は兼ね備えており、したがって「内に秘す」と言います。
すべてが大菩薩(薩埵)であり、すでに迹(仮の姿)として二辺(有・無)を導き、凡夫や小乗ではないと判断されるため、「薩埵」と言います。菩薩は本質と混同しやすいのでここでは論じず、体用(本体と作用)について論じていると理解すべきです。
観解の後の「云云」については、さらに因縁に基づいて観心を明らかにし、諸教を開顕し、本迹の観点について論じるべきです。
釋列聲聞,準《法華論》以八義故,先列聲聞:一、為顯親聞後不謗故;二、攝不定性迴心入大故;三、除尊貴慢非究竟故;四、常隨佛故;五、形儀同故;六、令內眷捨欲故;七、令菩薩敬故;八、令眾生信故。然《論》中八義唯第二一半獨屬今經,以不定性此土得故,仍少一半,若定性者彼土得故、未來得故;餘之七義論眾前後,通諸經故。以第二義入餘七中,使七一一皆有第二,方令八義全在今經。若依今意更有三義:欲別記故、別開權故、先顯本故,故令餘義永殊昔教。故論文意諸經多爾,所以通釋。今使諸教雖共復殊,方等先列,以四義故:欲斥奪故、欲密引故、令體信故,令味變故。般若亦四:欲洮汰故、欲委業故、密引進故、成熟酥故。故知《論》文通前二味,如向各四,又異前後。《論》又云:先僧次尼亦有八義:一、男尊女卑;二、入道先後;三、師弟不同;四、傳法能不;五、結集進退;六、同住得不;七、多少推讓;八、得歎有無。此八全通前之三味,多在酪教。若準同是聲聞,仍少第二意也。於今別中唯除委業,準義仍有,以同比丘聞轉教故也。故委業時非全無分,自餘諸義並同比丘,於五味中漸教當眾其義不異。
声聞を列挙するのは、『法華論』に基づき八つの理由があるからです。まず声聞を挙げるのは、第一に、直接仏の教えを聞いた者が後に誹謗しないことを示すため。第二に、未定の性質を持つ者を引き入れ、心を転じて大乗に入らせるため。第三に、尊大な慢心を取り除き、それが究竟でないことを示すため。第四に、常に仏に随従しているから。第五に、外見や作法が同じだから。第六に、内側の眷属に欲望を捨てさせるため。第七に、菩薩に敬わせるため。第八に、衆生に信じさせるためです。しかし『論』中の八つの理由のうち、第二の半分だけが特にこの経典に当てはまり、未定性の者はこの土で得られるからです。それでも半分足りず、定性の者はあの土で得られ、未来に得られるからです。残りの七つの理由は、『論』の前後を通じて、多くの経典に共通するものです。第二の理由を残りの七つの中に入れ、七つそれぞれに第二の意味を持たせることで、八つの理由すべてがこの経典に当てはまるようになります。現在の解釈に従えば、さらに三つの理由があります。別々に記すため、権教を別に開示するため、本来の姿を先に示すためです。それゆえ、他の理由もかつての教えとは全く異なります。したがって、『論』の意図は多くの経典に通じるので、一般的に解釈されます。今、諸教は共通点もあれば異なる点もあり、方等経では先に列挙するのは四つの理由からです。奪い取るため、密かに引き入れるため、本質を信じさせるため、味わいを変えるためです。般若経でも四つあります。淘汰するため、細かく業を示すため、密かに進ませるため、熟した酥(乳製品)のように成熟させるためです。したがって、『論』の文は前の二つの味(酪・生酥)に通じ、先に述べたようにそれぞれ四つずつあり、また前後とも異なります。『論』にはさらに、まず僧(比丘)を挙げ、次に尼(比丘尼)を挙げるのにも八つの理由があるとあります。第一に、男は尊く女は卑しいから。第二に、入道の順序が先だから。第三に、師弟が異なるから。第四に、法を伝える能力があるかどうか。第五に、結集での進退。第六に、共に住んで得られるかどうか。第七に、多少の譲り合い。第八に、称賛を得られるかどうか。この八つは前の三つの味(酪・生酥・熟酥)に通じ、多くは酪の教えにあります。もし同じ声聞であるとすれば、第二の意図はやや足りません。現在の別の解釈では、細かい業を示すことを除き、他の理由は依然としてあります。比丘と同じように転教を聞くからです。したがって、細かい業を示す時にも完全に関与しないわけではなく、その他の理由はすべて比丘と同じです。五味のうち、漸教において衆に対応する理由は変わりません。
次出舊解,云大小名聞者,意云:名即己名、聞即他聞,所以名大故聞大、名小故聞小。今但依文故,破其無據。言「依文」者,但約所列多少以明所識多少。前列萬二千,又云眾所知識;後云二千,又無知識,縱以名聞用釋知識,後文全無,何小之有?況復大小一向無憑。初釋類中先通釋五字,次「釋論」下別釋四義,比丘合故。初通釋中五字通收諸有德者,所與之徒既標於大,豈唯異於下眾而已。於比丘中其例復多,四門三脫析體通智辨空之例,秖得且云高譽德行,何可具論?今云如貴類之班輩也。次別釋四義者,初「釋論」下別釋「與」字,初文即因緣釋。若於此七為四悉者,時處世界,戒是為人,心見對治,道脫第一義。若準前三,在昔教者則七義唯三,道脫等俱屬對治意也。圓教七一俱屬圓四,約教雖別究竟唯圓,雖七而同故七名一,一即共也。四教不同通在五味,具如諸經不可遍述,且準歎德在三藏教者,同感佛時、同鹿苑處、同別脫戒、同一切智心、同無漏正見、同三十七道、同有餘脫、為同聞人,入通序時已得記者,全成圓人七一故也。同妙感應時、同見妙依處、同得究竟戒、同證種智心、同無作正見、同圓實道品、同不思議脫,得授記已即同菩薩,安得復以聲聞歎德?豈結集者謬抑德耶?故知在四味時隨味而變,經家從本列在聲聞,故依本歎。若不仍本,焉知聲聞有權有實,實者得記知有所從,聞《法華》時大小別故,故約教判須通始終,故三教七,或本是三,或是轉入。初約三藏一七一者,生滅同故。通教二者,分利鈍故,利兼圓別,應云三七,且通總說同為一例。別云為無量者,自行化他橫豎皆四門,門門四悉入者不同。圓教一者,發心畢竟二不別故。說者應於四教細明,乃至教味先判後開。「若未」下一句約本迹釋,亦約體用論本迹耳。別無聲聞,但云藏、通,若通含別亦可論之,是則略也。又時處二事且約教論,故云三藏中時處且一;若從元初得道時處,或多人共處,略如今文;或多人多處,或一人多處,如《阿含》中多時處也。
次に旧解を出して、大小の名聞について言う。その意は、名はすなわち己の名、聞はすなわち他聞である。ゆえに名が大であれば聞も大、名が小であれば聞も小となる。今はただ文に依って、その根拠のなさを破るのである。「文に依る」というのは、ただ列挙された多少によって、識る所の多少を明らかにするのである。前に万二千を列し、また「衆に知識せられ」とある。後に二千とあり、また知識はない。仮に名聞をもって知識を解釈するとしても、後の文には全くなく、どうして小があるだろうか。ましてや大小の区別はまったく根拠がない。
初めの釈類では、まず五字を通釈し、次に「釈論」以下で四義を別釈する。比丘は合わせて解釈するからである。初めの通釈では、五字は諸の有徳者を通じて収める。与えられた徒は既に大を標しているのだから、ただ下衆と異なるだけではない。比丘の中にもその例は多く、四門三脱、体を析く、通智、空を弁ずるなどの例は、ただ高き誉れと徳行があると言えるだけで、どうして詳しく論じられようか。今は貴い類の班輩のようであると言うのである。
次に四義を別釈する。初めの「釈論」以下で「与」の字を別釈する。初めの文は因縁釈である。もしこの七つを四悉とするならば、時処は世界、戒は為人、心見は対治、道脱は第一義である。もし前三に準じ、昔の教えにあるならば、七義はただ三つであり、道脱などは皆対治の意に属する。円教では七つ一も皆円の四に属し、教えに約すと別であるが、究竟はただ円である。七つは同じであるから七を名づけて一とし、一はすなわち共である。四教は同じではないが、五味に通じている。諸経の如くであって、遍く述べることはできない。ただ歎徳が三蔵教にあるものに準じて、同じく仏の時に感ず、同じく鹿苑の処にあり、同じく別脱戒を持ち、同じく一切智心を持ち、同じく無漏の正見を持ち、同じく三十七道を持ち、同じく有余の脱を得て、同聞の人となる。通序に入った時、既に記を得た者は、全く円人となり七つ一となるからである。同じく妙なる感応の時、同じく妙なる依処を見、同じく究竟の戒を得、同じく種智心を証し、同じく無作の正見を持ち、同じく円実の道品を持ち、同じく不思議の脱を得て、授記を得た後は即ち菩薩と同じである。どうして再び声聞の歎徳とすることができようか。結集者が誤って徳を抑えたのだろうか。ゆえに四味の時には味に随って変わり、経家は本に従って声聞に列するので、本に依って歎ずるのである。もし本に依らなければ、どうして声聞に権実があると知ることができようか。実者は記を得て知る所の従うところがあり、『法華』を聞く時に大小の別があるからである。ゆえに教えに約して判ずるには、初めから終わりまで通じなければならない。ゆえに三教の七は、あるいは本は三であり、あるいは転じて入るのである。初めに三蔵の一七一つに約するのは、生滅が同じだからである。通教の二つは、利鈍を分けるからである。利は円別を兼ね、応に三七と言うべく、ただ通じて総説し、同じく一例とする。別に無量と言うのは、自行化他、横も縦も皆四門であり、門門四悉に入る者が同じではないからである。円教の一は、発心畢竟二つ別ならざるからである。説く者は四教について細かく明らかにすべきであり、教えの味についても先に判じて後に開くのである。
「もし未だ」以下一句は本迹に約して釈し、また体用に約して本迹を論ずるのである。別に声聞はなく、ただ蔵・通と言う。もし通が別を含むならば、また論じることができる。これが略である。また時処の二事は、ただ教えに約して論ずる。ゆえに三蔵中の時処は且く一であると言う。もし元初の得道の時処に従えば、あるいは多くの人が同じ処にいる。略して今の文の如くである。あるいは多くの人が多くの処にいる。あるいは一人が多くの処にいる。『阿含』の中の多くの時処の如くである。
問:
問:
至此那得二種聲聞?
では、どうして二種の声聞が得られるのでしょうか?
答:
答:
亦從初說,具如《玄》文,廣歷諸味難轉易轉。又有不歷析法元是通人(云云)。
また、初めから説かれたように、詳細は『玄』の文に示されている通りであり、広くさまざまな味わいを経て、転じ難いものから転じ易いものへと至る。また、法を分析することを経ず、元々通達した人であるものもある(云云)。
「直明兩意」下,欲明開顯,先更辨異。所言異者,且置七同,更於藏通七中辨異,則三異四同。何者?時處等四不可不同,如所會、所依、所稟、所證;若心等三,安能不別?別修、別見、別行故也。此仍一往,亦可戒法從別各各得故,解脫從人各各證故,是則五別二同。又若從人亦可俱別,今釋共義不合論之。義分三四乃成旁耳,是故且從七同以說,別教同異準說可知。次「若至」下正明開顯。「法華論」者,明被開者有權有實,未開具四、開已唯一,今加佛道據新入者。《論》中四者,決定、增上、退大、應化。《論》自釋云:「後二與記,前兩不記,根鈍未熟故」。且約此會,即經中云「生滅度想」,決定性也。若彼得聞、《論》中未說,天親豈可迷經文耶?經云:「而於彼土得聞是經」,《論》且一往據現說耳。是故今師但除上慢,即五千起去者是。雖從座去仍判於涅槃中。若四依邊得聞,故上慢者亦非不聞,已聞略開及在後故,但不可云此會得記,種、熟、脫三始終無廢,故準今文,遠近相望四種俱得。今云「住果」,兼於決定及退菩提,住果變異故分二教,是故二種總立住果。又「佛道」者,準經義立。若爾。佛道應化各有別圓。
「直明両意」の下に、開顕を明らかにしようとしている。まずは異なる点を弁別する。ここで言う異なる点とは、七つの共通点は一旦置き、さらに蔵・通の七つの中での違いを弁別すると、三つが異なり四つが同じとなる。なぜか?時・処などの四つは同じでなければならないからで、例えば会される所、依る所、受け継ぐ所、証する所などである。もし心などの三つが別でないなら、どうして別々に修め、別々に見、別々に行うことができようか?これは一応の見方であるが、戒法はそれぞれ別々に得られるものであり、解脱は人によってそれぞれ証されるものであるから、五つが別で二つが同じとも言える。また、人によって見ればすべて別とも言えるが、今は共通の義を釈すので、それについては論じない。義によって三つや四つに分けるのは傍らの議論となるので、ここではまず七つの共通点から説く。別教の同異については、この説に準じて理解できる。
次に「若至」以下で、開顕を正しく明らかにする。「法華論」では、開かれる者には権と実があり、未開の時には四つを含み、開かれた後には唯一となる。今、仏道を加えるのは、新たに入った者に基づくためである。『論』の四つとは、決定、増上、退大、応化である。『論』自身が釈して言う:「後二つには記別を与え、前二つには記別を与えない。根が鈍く未熟であるからである」。ここではこの会座に限って言えば、経に「生滅度の想い」とあるのが決定性である。もし彼らが聞くならば、『論』ではまだ説かれていないが、天親が経文に迷うはずがあろうか?経に「しかして彼の土においてこの経を聞くことを得る」とある。『論』は一応、現に説かれたことに基づいているだけである。だから今の師は、ただ上慢を除くだけで、五千人が立ち去った者たちである。座から立ち去っても、なお涅槃の中に判じられる。もし四依の辺りで聞くならば、上慢の者も聞かないわけではなく、すでに略開を聞き、後にいるからである。ただ、この会座で記別を得たとは言えない。種・熟・脱の三つは始終廃されることがないから、今の文に準じれば、遠近相望んで四種とも得られるのである。今「住果」と言うのは、決定と退菩提を兼ねており、住果が変異するから二教に分かれる。だから二種を総じて住果と立てるのである。また「仏道」は、経の義に基づいて立てられる。もしそうなら、仏道と応化にはそれぞれ別円がある。
問:
問:
應化與佛道何別?
応化と仏道はどのように異なるのでしょうか。
答:
答:
應化約垂迹全語舊聖,佛道約利他語新記者。又應化從身,佛道從說,佛道有令他之言,且云利他,應化有發起之義,且云垂迹。既以聲聞為名,在昔則無應化佛道之稱,在今則無住果決定之名。增上慢中豈無應化?四攝同事安隔此耶?況復《論》中決定上慢同云未熟,不可上慢亦根敗也。他云:未者不也。應人未死名為不死,下種未生名為不生,故上慢、決定二俱可發,是決定義。又此中引論似本迹釋,應化本也,餘三迹也。化為餘三無異途也,唯闕觀心,即前兩教七一境也,後二教七一觀也。又時處,戒境也。心見,等觀也。
応化は、垂迹を約して旧聖の語を全うし、仏道は、利他を約して新記の語を発する。また、応化は身に従い、仏道は説に従う。仏道には他を利するの言あり、しばらく利他と云い、応化には発起の義あり、しばらく垂迹と云う。既に声聞を以て名と為す、昔に在っては則ち応化仏道の称無く、今に在っては則ち住果決定の名無し。増上慢の中に応化無からんや?四摂事に同事安んぞ此れを隔てんや?況んや復た『論』の中に決定上慢同じく未熟と云う、上慢も亦た根敗なりとすべからず。他に云う、未は不なり。応人未だ死せざるを名づけて不死と為し、下種未だ生ぜざるを名づけて不生と為す、故に上慢・決定二つ倶に発すべし、是れ決定の義なり。又た此の中に論を引きて本迹釈に似たり、応化は本なり、余の三は迹なり。化して余の三と為すに異なる途無し、唯だ観心を闕く、即ち前の両教は七一の境なり、後の二教は七一の観なり。又た時処は、戒の境なり。心見は、等の観なり。
「聲聞義浩然」者,貴人、非論。然用教者云大乘聲聞,未為通曉,今云應化從本以說,據眾全在小乘中也。言「浩然」者,藏通八門門門四種,門門各有佛道應化,迹在前教復同前數,據本復應地住地住及行向地,上慢所濫復同前數,他無約教今昔本迹權實開合等釋,但云住果及方便等,是故貴云以證涅槃者。言「云云」者,具如向辨。
「声聞の義が広大無辺である」というのは、貴重な見解であり、議論の余地はありません。しかし、教えを運用する立場から言えば、大乗の声聞というのは、まだ十分に理解されていない概念です。ここでは、応化の身はその根本から説かれるべきであり、衆生はすべて小乗の教えの中にあると考えるべきだと述べています。「浩然」という言葉は、蔵教と通教の八つの門、それぞれの門に四つの種類があり、それぞれの門に仏道の応化があることを意味します。その跡は前の教えにあり、また前の数と同じです。根本に基づけば、さらに応地、住地、および行向地があり、慢心によって濫用されることも前の数と同じです。他の教えには、今と昔、根本と跡、権実、開合などの解釈はありませんが、ただ住果と方便などを説くのみです。そのため、涅槃を証する者として貴重だと言われるのです。「云云」というのは、先に述べたように詳細に説明されています。
釋「大」者前,以「共」釋「與」。阿難共彼萬二千者,非直共人應共人七,七中並大故云與大。與既四釋不同,大義理須準彼。又前與字義兼時等,今釋大字,唯在具七之人復兼多勝。又釋與字義兼能所,今釋大字唯在於所,此從阿難指他為大,此中初引論文,《大品》在小,心未轉故。
「大」という言葉を釈する前に、「共」という言葉を釈して「與」の意味を明らかにします。阿難が一万二千人の人々と共にいるというのは、単に人々と共にいるだけでなく、七つの条件を備えた人々と共にいることを意味します。その七つの条件の中に「大」という要素が含まれているため、「與大」と表現するのです。「與」という言葉には四つの異なる解釈がありますが、「大」の意味はそれに準じて理解する必要があります。また、先ほどの「與」という言葉には時間などの要素も含まれていましたが、ここで「大」という言葉を釈する際には、七つの条件を備えた人々に焦点を当て、さらにその数が多いことや優れていることも含みます。さらに、「與」という言葉には能動と受動の両方の意味が含まれていましたが、ここでの「大」という言葉は受動的な側面、つまり阿難が他の人々を「大」と指し示すことに専念しています。この最初の部分では論書を
次今師意,亦具三文,以一一文皆兼《論》中三義故也。以此三義通兼四悉,大即世界,多即為人、對治,勝即第一義也。應具明三念與外人異,及以三念對大多勝之所以也。還將三念以對四悉,具如《止觀》第十記。「四韋陀」者,如下第五經疏及《止觀》第十記。
今、師の意もまた三つの文を具えている。なぜなら、一々の文がすべて『論』の中の三つの意味を兼ねているからである。この三つの意味は、四悉檀を通じて兼ねており、「大」は世界悉檀に、「多」は為人悉檀・対治悉檀に、「勝」は第一義悉檀にそれぞれ対応する。三念処と外道の違い、および三念処が「大・多・勝」に対応する理由を、詳しく明らかにすべきである。さらに三念処を四悉檀に対応させることは、『止観』第十記に詳しく述べられている。「四韋陀」については、下記の第五経疏および『止観』第十記を参照のこと。
次約教中牒前初釋判屬三藏,準前文故但云所敬等前。從「今明」下應義通偏圓,以前文中且對外釋,故云三藏。次「大者」下約後三教,初明多義,但是約事,後三不可更加其數,但約所知以釋其多,故前通釋大、多、勝三各具三義,故此後後漸優於前。約別圓者,昔則從初、今從得記,別存教道。言「大力羅漢」者,羅漢中大,即無疑解脫也。
次に、教えの中では、前の初めの解釈に従って三蔵に属すると判断する。前の文を基準とするため、ただ「所敬等前」と述べる。次に「今明」以下では、偏と円の両方を通じて義を解釈すべきである。前の文中では、外典に対して解釈を加えたため、三蔵と述べた。次に「大者」以下では、後の三教について述べる。初めに多義を明らかにするが、これはただ事相について述べたものである。後の三教は、さらに数を加えることはできないが、ただ知られるべきものによって「多」を解釈する。したがって、前では大・多・勝の三つがそれぞれ三つの意味を持つと通釈し、ここでは後のものが前のものより次第に優れていることを述べる。別教と円教については、昔は初めから、今は記別を得てから始まるが、別教は教えの道を保つ。「大力羅漢」とは、羅漢の中でも特に優れた者、すなわち疑いのない解脱を得た者を指す。
次本迹中初述本三,次「迹來」下述迹中三:初明本大,次「本得」下明本勝,次「先已」下明本多。「咨嗟」者,謀事也。謀而方嗟,非輒爾故。言「勝幢」者,借《大品》文。言「超諸外道」者,準理應云超諸偏小,但所超雖近、能超則遠,於理亦成。次迹中初示愛見即在乳味,故此五味通萬二千,若權若實皆經歷故,今從權者故云迹也。「久矣」下「云云」者,各有久本,隨本長短中間設化,今日亦在釋尊諸味。
本迹のうち、まず本の三つを述べ、次に「迹来」以下で迹の中の三つを述べる。初めに本の大きさを明らかにし、次に「本得」以下で本の優れた点を明らかにし、次に「先已」以下で本の多さを明らかにする。「咨嗟」とは、物事を思案することである。思案して初めて嘆息するのであり、軽々しく嘆くのではない。「勝幢」と言うのは、『大品経』の文を借りたものである。「超諸外道」と言うのは、道理に照らせば「超諸偏小」と言うべきところだが、超えられる対象は近くても、超える力は遠くまで及ぶので、道理としても成り立つ。次に迹の中では、初めに愛見が乳味の中にあることを示す。したがってこの五味は万二千に通じ、権教であれ実教であれ、すべて経験するものである。今は権教に従っているので、迹と言うのである。「久矣」以下「云云」とは、それぞれに久遠の本があり、その本の長短に応じて中間に教化を施し、今日も釈尊の諸味の中にあるということである。
觀心中先直對三,次雖約中具大、多、勝,亦應更約空、假各三。言「一心一切心」者,心境俱心各攝一切,一切不出三千故也。具如《止觀》第五文。若非三千攝則不遍,若非圓心不攝三千,故三千總別咸空、假、中。一文既然,他皆準此,故向五味義通上下,文寄此中。
心を観ずるにあたり、まずは直接に三諦に対し、次に中諦を中心として大・多・勝を備えることを述べるが、さらに空・仮・中のそれぞれに三諦を備えるべきである。「一心一切心」とは、心と境とがともに心であり、それぞれが一切を摂することをいう。一切は三千を出ないからである。詳しくは『摩訶止観』第五巻にある。もし三千によって摂されなければ遍くならず、もし円満なる心でなければ三千を摂しない。ゆえに三千の総別はことごとく空・仮・中である。一文がこのようであるから、他の文もすべてこれに準ずる。したがって、五味の義は上下に通じ、文はここに仮託されているのである。
釋比丘,引肇公者,在《淨名疏》,什及四子並在偽秦,故曰秦言。肇有四義:一、淨命乞士,二、破煩惱,三、能持戒,四、怖魔。什公分之,一始三終。具二魔怖者,終中前二為怖魔因。引論者闕能持戒,破惡秖是破煩惱耳,故但三義而次第不同。及通初心令魔怖等,故破惡之言且在身口非不斷惑。既並在初,令什義壞,豈以持戒破惑必在於終?又復肇公但翻其名而云名含,不云初後,今之學者安令魔怖耶?「五繫」者,具如《止觀》第五記。「一田」等者,田即農也。應云在家四種如法,更加工也。「涅槃寶梁」下,明經義略,雖復不具三義四義,破惡為本。今明此三義應通初後者,義當約教兼斥肇什,今非但以《論》文通後,復通諸教,況《論》但成因緣一釋。若於此中立四悉者,怖魔即世界,乞士即為人,破惡即對治,出界即第一義。「依經家」等者,義必通初、證信必後,向釋乞士中以「求」釋「乞」,乃以離邪歷境求定等為三藏教者,未能於境即理故也。故至通教方云求真破障理等也。別教言八魔十魔者,破惡既深釋魔須遠,具如《止觀》第八記。圓教中非不破八破十,但以實相為正、破惡屬旁,怖魔亦然。本迹中此諸比丘深淺莫測,故未可定判其位。「迹示五味」者,若不約五味,非今經比丘。「桎梏」者,上質音,足械也。下古沃反,手械也。二諦如桎梏,大慧如解縛,運念為無住,望境為無著,故不著境智出二死家,乞士怖魔準釋可見。「云云」者,中觀既然,空、假及以次不次等對教可見。
釈比丘について、肇公を引用するのは『浄名疏』にあり、什公と四弟子たちはみな偽秦にいたので、秦言と言う。肇公には四つの意味がある:一、浄命乞士、二、煩悩を破る、三、戒を持ちうる、四、魔を怖れしめる。什公はこれを分け、一を始め、三を終わりとする。二つの魔怖を具える者は、終わりのうち前の二つが魔怖の因となる。論を引用する者は、戒を持ちうることを欠き、悪を破るのはただ煩悩を破るにすぎないので、ただ三つの意味があり、順序が異なる。初心を通じて魔を怖れしめるなど、悪を破るという言葉は身口にあるだけで、惑を断たないわけではない。すでにみな初めにあるので、什公の意味を壊す。どうして戒を持ち、惑を破ることが必ず終わりにあると言えようか。また肇公はただその名を翻訳して名を含むと言い、初めと後ろを言わない。今の学者はどうして魔を怖れしめるのか。「五繫」については、『止観』第五記に詳しい。「一田」などとは、田は農のこと。在家の四種の如法に加えて、さらに工を加えるべきである。「涅槃宝梁」以下、経の意味は略され、三義四義を具えずとも、悪を破ることが根本である。今、この三義が初めと後ろを通ずべきことを明かすのは、教えに約して肇公と什公を兼ねて斥ける意味である。今はただ『論』の文を通じて後ろに通ずるだけでなく、諸教にも通じ、まして『論』はただ因縁の一釈にすぎない。もしここに四悉を立てるなら、魔怖は世界、乞士は為人、破悪は対治、出界は第一義となる。「経家に依る」などとは、意味は必ず初めに通じ、証信は必ず後ろにある。先に乞士を釈して「求」で「乞」を釈し、邪を離れて境に歴り定を求めるなどを三蔵教とするのは、まだ境において理に即することができないからである。だから通教に至って初めて真を求めて障りを破り理に至るなどと言う。別教で八魔十魔と言うのは、悪を破ることが深く、魔を釈するには遠くを須いるからで、『止観』第八記に詳しい。円教においても八を破り十を破らないわけではないが、ただ実相を正とし、破悪は旁に属し、魔怖も同様である。本迹においてこれらの比丘は深浅測りがたく、だからまだその位を定めて判ずることはできない。「迹が五味を示す」とは、もし五味に約さなければ、今の経の比丘ではない。「桎梏」とは、上が質の音で足械、下が古沃の反で手械。二諦は桎梏の如く、大慧は縛を解くが如く、運念は無住と為し、境を望むは無著と為す。故に境智に著せず二死の家を出で、乞士魔怖は釈に準じて見ることができる。「云云」とは、中観がすでに然り、空・仮および次不次など、教えに対じて見ることができる。
「眾者」,以一萬二千事法和故。若作四悉者,初是世界眾和合故;「佛常」下為人,生物善故;「釋論」下對治,簡惡人故;「此中」下第一義,在真實故。言「事和」等者,僧界法等俱屬事故。「法和」者,如前七共同真理故。「九十人三明」者,《中含》二十九文同「舍利子問佛,五百比丘中幾三明?幾俱解脫?幾慧解脫?」佛答如文。「三明」者,即無疑解脫,具如《止觀》第七記。「淨命」具如《止觀》第四記。「五方便」者,四念處及四善根,五停非正觀法故。「苦法忍」去者,世第一後有十六剎那,第一心去即名真實。「偏圓五味」者,五味不出偏圓,偏圓不出四教。言「今正是等」者,當證信時已獲記故。「引諸眾生」下「云云」者,具如《玄》文七二諦中委約五味,以明教意出其相狀。
「衆」とは、一万二千の事法が和合していることを指します。四悉檀の観点から言えば、最初の「衆」は世界の和合を示し、「仏常」以下は衆生の善を生じさせるためのものであり、「釈論」以下は悪人を簡別する対治の意味を持ち、「此中」以下は第一義、すなわち真実に在ることを表します。「事和」などとは、僧界や法などがすべて事に属することを意味します。「法和」とは、前述の七つの共通の真理による和合を指します。「九十人三明」については、『中含』第二十九に「舎利子が仏に問う、五百比丘の中で三明を得た者は幾人か?俱解脱は幾人か?慧解脱は幾人か?」とあり、仏の答えは経文の通りです。「三明」とは、疑いのない解脱のことで、詳しくは『止観』第七記にあります。「浄命」については、『止観』第四記に詳述されています。「五方便」とは、四念処と四善根を指し、五停心は正観の法ではないため含まれません。「苦法忍」以降は、世第一の後に十六刹那があり、その最初の心から真実と名付けられます。「偏円五味」とは、五味は偏円を超えず、偏円は四教を超えないことを意味します。「今正是等」とは、証信の時点ですでに記別を得ていることを指します。「引諸衆生」以下の「云云」については、『玄』文の七二諦の中で五味を詳しく論じ、教えの意図を明らかにし、その相状を示しています。
次約觀中云「若異」等者,以依今經成觀法故,若不依中道慧命觀行,故名破十戒僧,不解究竟波羅蜜相,一心十戒詮量之律,名愚癡僧。五品六根名慚愧僧。初住已去名真實僧。亦合注「云云」,歷前二諦十戒等及約四教,遍作觀相。
次に「若異」などとあるのは、今の経文に依って観法を成ずるからである。もし中道の慧命による観行に依らなければ、十戒の僧を破る者と呼ばれ、究竟波羅蜜の相を解せず、一心十戒を詮量する律を愚癡僧という。五品六根を慚愧僧という。初住より以後を真実僧という。また注釈に「云云」と合わせ、前の二諦十戒などに歴り、四教に約して遍く観相を作す。
二明數中直爾舉數,即是因緣,亦可於中義立四悉:數異,世界也;聞數生善,即為人也;破惡入真,準例可見。不論約教者,教別數同故無異釋,若隨數生解即是教殊。
二番目の「数」の説明において、ただ単に数を挙げるだけでは、それは因縁を示すものに過ぎません。ここに四悉檀の意味を立てることもできます。数がそれぞれ異なるのは世界悉檀であり、数を聞いて善が生じるのは為人悉檀です。悪を破って真実に入るのは、同様の例から理解できるでしょう。教えについて論じないのは、教えは別々でも数は同じだからです。もし数に従って理解が生じるなら、それは教えの違いによるものです。
問:
問:
凡諸列眾及得道者,何故其數必全無缺耶?
あらゆる集いの衆生と悟りを得た者たちは、なぜその数が必ず完全で欠けることがないのでしょうか?
答:
答:
《大論》釋大數五千分中云:「若過若減皆存大數」。
『大論』において大数五千分について釈するところに、「若し過ぐれば若し減ずれば皆大数を存す」と云う。
本迹中云「本是」等者。
本と迹との関係において「本是」などと説くのは
問:
質問:
凡言迹者,皆先有本,豈萬二千元皆是大權?若爾,則唯有能引而無所引。
そもそも「迹」とは、すべて先に「本」があってこそ言えるもの。まさか一万二千人の元の姿がみな大権菩薩だというのか?もしそうなら、ただ能引(導く者)ばかりで、所引(導かれる者)がいないことになってしまう。
答:
答え:
理實如然,但欲均用四義故云皆有,然本不同事須分別。若已入圓位,能引之人成於發起、影響二眾,灼然本是菩薩,降斯已外曾發大心,亦名菩薩。元住小者,則是大經未曾發心,尚名菩薩,此中具有退大、應化及元住小,退大住小得記之後並堪為同聞。
理はそのままに、ただ四つの意義を均等に用いたいがゆえに「すべてにあり」と説くのである。しかし、本来のあり方は異なるため、事柄を区別する必要がある。
もしすでに円融の位に入ったならば、導き手となる人は発起の衆と影響の衆の二つを成す。明らかに本来は菩薩である。これより下は、かつて大いなる心を発した者も、菩薩と名づけられる。元来、小乗に住する者は、大乗の経典に照らせばまだ心を発していないが、それでも菩薩と称される。
ここには、大乗から退転した者、応化の者、そして元来小乗に住する者が含まれる。大乗から退転して小乗に住する者が授記を得た後は、ともに同聞の衆となるにふさわしい。
問:
問:
三周授記人數不多,其不在會令為轉說,此等又非同聞眾限,何故此中云萬二千?
三周の授記を受けた人数は多くはなく、またその場にいなかった人々にも後で伝えられることになっています。これらは同じく聞いた者たちの範囲に限られないのに、なぜここで一万二千人と言うのでしょうか。
答:
答え:
三周之中正數雖少,如舍利弗得記之時,四眾八部即其流也。故三周中亦有應化與實行者同時得記。故《論》中云:「退大、應化二種與記」,即其意也。如菩薩眾但列八萬,分別功德記數蓋多,故知大小二眾列同聞眾,不可望得記者也。
三周のうちで正式に数えられる者は少ないが、舎利弗が授記を受けた時のように、四衆八部もその流れに含まれる。したがって、三周の中にも応化の者と実践者が同時に授記を受ける場合がある。故に『論』に「退大の者と応化の二種に授記する」とあるのは、この意味である。菩薩衆は八万と列挙されているが、功徳を分別して数えると実際ははるかに多い。ゆえに、大小二衆を同聞の衆として列挙するのは、授記を受ける者を限定するものではないと知るべきである。
約觀中界入一一各十界者,正當妙境,諸文但寄能觀觀耳。山城雖約陰為所觀,亦未結成不思議境。又將數入理數即成境,境觀相對俱名法門。又境據假邊且存其數,空中尚無其數安有?然必約假以立空中,觀亦如是。
観想の世界に入り、それぞれの十界を一つ一つ観じることは、まさに妙なる境地に至る道です。多くの経文は、観想する能力と観想そのものに重きを置いています。山城の教えでは、五陰を対象として観想を説きますが、それも不思議なる境地に至るまでには至っていません。また、数を理に合わせて観じれば、その数がそのまま境地となります。境地と観想は相対するものであり、ともに法門と名付けられます。さらに、境地は仮の側面に基づいており、その数は一時的に存在しているに過ぎません。空の境地にはそもそも数など存在しないのです。しかし、必ず仮を基にして空の境地を立てるのであり、観想もまた同じです。
明位中亦從初說猶名羅漢,準後皆成大菩薩也。即約教中圓位人也。於中先翻名者義當因緣,次攬因緣以成初教。初因緣中初明有翻中,《阿跋經》能所雙標,應謂能應之智,真即所應之理,以智應理之人故云應真。次《瑞應經》雖似雙標,意指能證,真是所證,證真之人故曰真人,三義如後釋。次無翻中三,初從果釋,「或言」下從因,三,「若論」下判名所從。初云「後世田」者,世秖是有,具如《止觀》第六記。「九十八使」者,八十八上加十思惟。若作四悉者,初明有翻,即世界也;於無翻中,通因是為人,所從是對治,從果是第一義。
明位においても、初めから説かれるものは、なお羅漢と呼ばれるが、後に準じてみれば、すべて大菩薩となる。これは教えの中の円位の人を指す。ここではまず名を翻訳するが、その意味は因縁に当たり、次に因縁をまとめて初教を成す。初の因縁の中では、まず翻訳があるものについて述べる。『阿跋経』では能と所の両方を標示し、応とは能応の智を指し、真とは所応の理を指す。智をもって理に応ずる人であるから、応真という。次に『瑞応経』では、両方を標示しているように見えるが、意味は能証を指し、真は所証を指す。真を証する人であるから、真人という。三つの意味は後に釈する。次に翻訳がないものについて三つ述べる。初めは果から解釈し、「或言」以下は因から解釈し、三つ目は「若論」以下は名の由来を判断する。初めに「後世田」というのは、世とはただ存在することを指し、詳しくは『止観』第六記に記されている。「九十八使」とは、八十八に十の思惟を加えたものである。四悉檀に当てはめると、初めに翻訳があることを明かすのは世界悉檀であり、翻訳がないものの中では、因を通じて為人悉檀となり、由来を論じるのは対治悉檀となり、果から論じるのは第一義悉檀である。
約教中言「不賊」者,猶從二乘得名故也。若於圓別尚名為賊,是故須殺。「不生於生」者,取無為證生於界外,不生是生故不令生。供彼所應名為供應,如《阿含》中佛至阿蘭若語比丘等,具如《止觀》第四記。復應更分前之兩教能殺法異,後之二教不賊亦殊。「皆歎初地初住德」者,前有翻家以三為名,次無翻家以三為義,義即是德,故約教中以三為德;若準入位不定,具足應云地住已上降佛已還,即約別圓歎本據復。
教えの中に「不賊」とあるのは、まだ二乗の立場から名づけられているからです。もし円教や別教の立場から見れば、それすらも賊と呼ぶべきであり、だからこそ殺す必要があるのです。
「生に生ぜず」とは、無為の境地を証得して界外に生まれることを指しますが、その「不生」という状態自体が一種の生であるため、その生を起こさせないようにするのです。
彼らにふさわしい供養を施すことを「供応」と言います。例えば『阿含経』では、仏が阿蘭若(閑静な修行の場)に行き比丘たちに語りかける場面がありますが、その詳細は『止観』第四巻に記されています。
さらに、前の二つの教え(蔵教・通教)における「殺す方法」の違いと、後の二つの教え(別教・円教)における「不賊」の意味の違いを分けて考えるべきです。
「皆初地・初住の徳をほめる」とは、前に翻訳家たちが三つの名で表し、次に無翻訳家たちが三つの意味で表したことを指します。その意味こそが徳であり、だから教えの中では三つを徳としているのです。もし修行の階位に入ることを基準に考えるなら、完全に言えば「初地・初住以上、仏に次ぐ位まで」となり、別教と円教の立場から本来の境地に戻ったことをほめ称えることになります。
次約本迹中二重,初約小三義,次約大三德。前寄迹名以申本迹,次約本名以通至迹,欲明名通義別故也。若約體用釋者,前釋從用以明體,後釋從體以立用。又前釋三義以通昔,後釋三德而唯今。若久遠本迹四俱是迹,今兼二重是故大小俱立本名,義勢無盡故注「云云」。所以本是平等大慧無破不破,方能示迹諸教不生;本證解脫無賊不賊,方能示迹諸味殺賊;本得法身非應不應,方能示迹為應供耳。
まず、本と迹の二重の構造について述べます。初めに小乗の三つの意義に基づき、次に大乗の三つの徳に基づいて説明します。前段では迹の名を借りて本と迹の関係を述べ、後段では本の名を借りて迹に通じることを示します。これは、名は通じていても意義はそれぞれ異なることを明らかにするためです。
もし体と用の観点から解釈するなら、前段の解釈は用から体を明らかにし、後段の解釈は体から用を立てるものです。また、前段の解釈は三つの意義を通じて過去を説き、後段の解釈は三つの徳を通じて現在のみを説きます。
もし久遠の本と迹の四つがすべて迹であるなら、今ここでは二重の構造を兼ねているため、大小ともに本の名を立てることができます。その意義の勢いは尽きることがないため、注釈に「云云」と記されています。
そもそも本は平等の大慧であり、破るべきものも破らざるべきものもなく、それゆえに迹として諸教を示しても生じることはありません。本は解脱を証しており、賊となるべきものも賊とならざるべきものもなく、それゆえに迹として諸味を示して賊を殺すのです。本は法身を得ており、応じるべきものも応じざるべきものもなく、それゆえに迹として応供となる
觀心中先直以三德對三觀釋,以三德是境義可通觀,次歷觀以對釋名中三義,故一一觀皆具殺賊等三。前本迹中則先對釋名,次對三德;今先對德,次對三名。於中先空、次中,中又二:先釋三義,次引經證以指供養,歎名字觀行位人功德深也。引方等文,具如《止觀》第二記。「下文云」等者,〈法師品〉云:「佛告藥王:若有惡人以不善心,毀呰在家出家讀誦《法華經》者,其罪甚重」,具如下文。「八風」者,利衰毀譽稱譏苦樂,四違四順,佛尚久離無明違順,況人間耶?「失好時」者,若生憂苦失道合時。「大損」下「云云」者,所以引方等及此經者,此二即是名字觀行不生等故,乃至一切觀行之文皆應引之,但於此中觀行位便故。
観心においては、まず三徳を三観に対応させて解釈します。三徳は境の意味であり、観に通じるからです。次に、それぞれの観について、釈名の中の三つの意味に対応させて解釈します。したがって、一つの観ごとにすべて殺賊などの三つの意味を備えています。
前の本迹の解釈では、まず釈名に対応させ、次に三徳に対応させましたが、ここではまず三徳に対応させ、次に三つの名に対応させています。その中で、まず空、次に中を説き、中についてはさらに二つに分けます。まず三つの意味を解釈し、次に経典を引用して供養を指し示し、名字・観行の位にある人の功徳の深さを讃嘆します。
『方等経』の文を引用するのは、『止観』第二記に詳しくあります。「下文に云う」などとあるのは、〈法師品〉に「仏が薬王に告げて言う:もし悪人が不善の心をもって、在家・出家の『法華経』を読誦する者を誹謗するならば、その罪は甚だ重い」とある通りで、詳しくは下文にあります。
「八風」とは、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽のことで、四つは逆境、四つは順境です。仏は久しく無明の違順を離れているのに、まして人間の世界ではどうでしょうか。「好時を失う」とは、もし憂苦が生じれば、道に合う時を失うことです。
「大損」以下の「云云」とは、『方等経』とこの経を引用する理由は、この二つが名字・観行の不生などに当たるからです。さらに、すべての観行に関する文も引用すべきですが、ここでは観行の位に便があるからです。
此中引「法華論」等者,彼《論》乃約一十六句,俱有三門,一、上上起門,以後釋前故。二、總別門,以皆是阿羅漢一句名總;下諸句釋上,故下名別,今先準《論》用總別門,不用《論》文諸句,但依《妙經》五句以釋,仍合五句以為三德。三、攝取事門,《論》中具列一十六句以釋對事,《論》文但是將十六句以釋五句,不云經闕,故十六句今文不用,從初別故,是故總約昔教歎也。「三漏」者,一、欲漏,謂欲界一切煩惱除無明;二、有漏,謂上兩界一切煩惱除無明;三、無明漏,謂三界無明。引二論一律者,《成論》約失利義通因果,《律》專在因,《毘曇》唯果,以失利故因果俱失。「良由」下重釋三失,明失所以。初釋失利由於業因,即《成論》意也。次「造諸」下釋因招果即生死苦,因即《律》文,果即《毘曇》。次「亡身」下重釋三句,由上三過失於三德,墮生死故亡法身,造業故失慧命,失道故喪重寶。意云,經中諸漏一句即是煩惱,失道等三相由而有,同名漏故所以引之。漏相如何?故於此下廣辨見思,下諸句下皆破古人以釋三德不當,亦應可見。
ここで「法華論」などを引用しているのは、その『論』が一十六句について三つの観点から説明しているからです。第一に「上上起門」、これは後の句が前の句を解釈するためです。第二に「総別門」、これは「皆是阿羅漢」という一句が総括であり、以下の各句が上を解釈するので別とされるためです。今はまず『論』に基づいて総別門を用い、『論』の各句そのものは使わず、『妙法蓮華経』の五句に依って解釈し、さらに五句を三徳にまとめます。第三に「摂取事門」、『論』では一十六句を列挙して事柄に対応させて解釈していますが、『論』の文は十六句をもって五句を解釈するだけで、経文に欠けているとは述べていません。したがって十六句は今の文では用いず、最初の別の観点から、総じて昔の教えを称えるのです。
「三漏」とは、第一に「欲漏」、これは欲界の一切の煩悩で無明を除いたものです。第二に「有漏」、これは上二界(色界・無色界)の一切の煩悩で無明を除いたものです。第三に「無明漏」、これは三界の無明です。
二つの論と一つの律を引用しているのは、『成実論』が「失利」の意味で因果を通じて説き、『律』は専ら因にあり、『毘曇』は果のみを説くからです。失利のゆえに因果ともに失われるのです。
「良由」以下は三つの損失を重ねて解釈し、損失の理由を明らかにしています。最初に失利が業因によることを解釈し、これは『成実論』の意です。次に「造諸」以下で、因が果を招いて生死の苦となることを解釈し、因は『律』の文、果は『毘曇』に当たります。次に「亡身」以下で三句を重ねて解釈し、上の三つの過失によって三徳を失い、生死に堕するゆえに法身を亡い、業を造るゆえに慧命を失い、道を失うゆえに重宝を喪うと説きます。経中の「諸漏」という一句はすなわち煩悩であり、失道などの三つは互いに関連して生じ、同じく漏と呼ばれるので引用したのです。漏の相はどのようなものか? それゆえここ以下で広く見惑と思惑を弁じ、以下の各句では古人の解釈を破って三徳の不当を説き、また明らかにすべきです。
「煩惱」下釋次句。初句約因果相對,此句一向在因。「使」等者,使即九十八也。通為能使,墮落生死以為所使。「流」即四流,謂欲有見無明,「扼」名同流,「纏」即十纏。《俱舍》云:「纏八無慚愧,嫉慳并悔眠,及掉舉昏沈,或十加忿覆」。「蓋」謂五蓋。「逮得」者,「逮」及也。正為除惑,故功德云及。言「智斷功德」者,由前殺賊成斷功德,斷必具智功成己利,由己利故,故堪應供。次「盡諸有結」等者,舉因果俱除明心得自在。「羅漢但應結盡」等者,有盡者非今所歎,故云但是因中說果。有謂報在二十五有生處、盡在不久者,縱如迦葉待後佛出,亦不名久。若羅漢皆以邊際定力持此報身入變易者,佛身何故入涅槃耶?若言佛身權示,彼教何文云權示耶?一切羅漢若至法華無不迴心,何故除四大羅漢十六羅漢,餘皆入滅。肉身菩薩得無生者,應皆不滅。心自在句釋於上句,二脫必漏盡、因盡必果亡,慧脫雖退此生必得,俱解脫人必有慧故,故云具足。故以煩惱為賊、生死為生,所以古人不了斯旨,故致謬也。故知句五德三法秖是一。依《論》總別釋竟。
「煩悩」の下に次の句を解釈する。初めの句は因果を相対的に捉え、この句は一貫して因の側にある。「使」などとは、使とは九十八の煩悩のことである。広く「能く使う」ものとして、生死に堕ちることを「所使」とする。「流」とは四流、すなわち欲・有・見・無明を指す。「扼」は流と同じ意味で、「纏」は十纏を指す。『倶舎論』に云く、「纏は八つ、無慚・無愧・嫉・慳・悔・眠・掉挙・昏沈、あるいは十に忿・覆を加える」と。「蓋」とは五蓋をいう。「逮得」とは、「逮」は及ぶの意。正しく煩悩を除くため、功徳が及ぶというのである。「智断功徳」とは、先に賊を殺して断の功徳を成し、断には必ず智を具え、功を成して己の利とし、己の利によるゆえに、供養を受けるに堪えるというのである。次に「尽諸有結」などとは、因果ともに除かれて心が自在を得ることを明かす。「羅漢はただ結を尽くすべし」などとは、有が尽きることは今称歎するところではないから、ただ因の中で果を説くというのである。有とは報いが二十五有の生処にあることをいい、尽きるは久しからずにあることをいう。たとえ迦葉のように後の仏の出現を待つとしても、久しとはいえない。もし羅漢がみな辺際定の力でこの報身を持ち、変易に入るならば、仏身はなぜ涅槃に入るのか。もし仏身が権(仮)の示現だというなら、その教えのどの文に権示と説いているのか。一切の羅漢は法華に至って回心しない者はないのに、なぜ四大羅漢・十六羅漢を除き、他はみな入滅するのか。肉身の菩薩で無生を得た者は、みな滅しないはずである。心自在の句は上の句を解く。二つの解脱は必ず漏尽し、因が尽きれば必ず果も亡ぶ。慧解脱はたとえこの生で退転しても必ず得られ、倶解脱の人には必ず慧があるから、具足というのである。ゆえに煩悩を賊とし、生死を生とする。古人がこの主旨を了得しなかったため、誤りを招いたのである。ゆえに五徳三法はただ一つであることを知る。『論』に依って総別の解釈を終える。
次若依《論》用上上起門者,《論》意以初句釋羅漢句竟,乃至以第五句釋第四句,餘不復釋,準此乃以下下展轉釋上,故得名為上上起門;是則五句望羅漢句,亦成總別及上上起。本迹中初明五句是本三德,次「迹示」下指二乘五句三德是迹,初還依古為不生德,故本住祕藏示羅漢三德,涅槃是總以對不生,即初二句,煩惱字是煩惱盡句,漏流字是諸漏盡句,「不復」下釋上二句,明離二邊即本不生,「法身」下釋本己利,上二句雖總舉涅槃,今明涅槃是己之利,故須別述。此中二句,上句明修、下句明性,修性相對,智斷對法身修三德也。「實相」兩字,性法身也。「功德」兩字,性二德也。本利修性具足,示具二乘三德。「得王」下明本迹四五二句,亦依古師為殺賊德,破有即第四句,我性即第五句,由煩惱賊破故也。「王三昧」者,《玄》文釋二十五三昧各具四義:一、諸有過患,二、本法功德,三、結行成,四、慈悲破有。本地功德久已成就,本三德也。過患即是賊等三也。本三具足即結行。成本時應供是破有也,今却用古義者,以無大失故也。故知已盡亦是不生,盡結義通殺賊。「八自在我」,亦名八神變,具如《止觀》記及《釋籤》中。
次に、もし『論』に依って上上起門を用いるならば、『論』の意は、初句で羅漢の句を解釈し終わり、さらに第五句で第四句を解釈し、残りは解釈しない。これを基準として、下下から上上へと順に解釈を展開するため、上上起門と名付けられる。すなわち、五句は羅漢の句に対して、総別と上上起の関係を成す。本迹においては、初めに五句が本の三徳であることを明かし、次に「迹示」以下で二乗の五句三徳が迹であることを指す。初めは古義に依って不生の徳とし、故に本は秘蔵に住して羅漢の三徳を示す。涅槃は総じて不生に対し、すなわち初めの二句である。煩悩の字は煩悩尽の句、漏流の字は諸漏尽の句。「不復」以下は上記の二句を解釈し、二辺を離れることが本の不生であることを明かす。「法身」以下は本の己利を解釈する。上記の二句は総じて涅槃を挙げるが、今は涅槃が己の利であることを明かすため、別に述べる必要がある。ここでの二句は、上句が修を明かし、下句が性を明かす。修性は相対し、智断が法身の修三徳に対応する。「実相」の二字は性の法身である。「功徳」の二字は性の二徳である。本利は修性を具足し、二乗の三徳を具えることを示す。「得王」以下は本迹の四五の二句を明かし、これも古師に依って殺賊の徳とする。有を破ることは第四句に当たり、我性は第五句に当たる。これは煩悩の賊を破るためである。「王三昧」とは、『玄』文が二十五三昧を解釈し、それぞれ四義を具えるとする:一、諸の過患、二、本法の功徳、三、結行の成就、四、慈悲による有の破壊。本地の功徳は久しく成就しており、本の三徳である。過患はすなわち賊などの三つである。本の三つが具足することは結行の成就である。本時の応供は有を破ることである。今は古義を用いるが、大きな過ちがないためである。故に、已尽もまた不生であり、尽結の義は殺賊に通じる。「八自在我」は、また八神変とも名付けられ、詳細は『止観』記および『釋籤』にある通りである。
約觀心中亦具五句,初是初德二句,「能觀」下次德一句,「正觀」下第三德二句。「雖有煩惱」等者,重釋第三德中二句也。初釋初句,「不斷」下釋次句,「如無煩惱」結盡也,「而入涅槃」自在也。約名字觀行俱得名為如無煩惱入涅槃也。
心の中にもまた五つの句が備わっていると観じる。最初の二句は初徳であり、「能観」の次は次徳の一句、「正観」の下は第三徳の二句である。「雖有煩惱」などは、第三徳の中の二句を重ねて解釈したものである。初めに初句を解釈し、「不斷」の下で次句を解釈する。「如無煩惱」は煩悩が尽きることを結び、「而入涅槃」は自在に入ることを示す。名前と観行に照らして、ともに煩悩なきが如く涅槃に入ると名付けることができる。
列名中初總為五:初、現數,次、立名意,三、證立意,四、消釋意,五、用義意。引證中多引《阿含》者,如《增一》中列四眾名,各有偏好以引同類。「一一四釋」下「云云」者,即因緣等四不復更列,然諸聖因緣多寄初教,以是感應之始故也。故諸聖初因並在外道,為破外故,在釋種中為調伏故,為導為主而將引之,是故具明入胎立行眷屬師友。若逆若順能化所化;縱有始終計不轉者,亦為後來得破之由,顯諸聖者迹不徒設,一一無非感應故也。故四悉義一一應知。故彼《增一》比丘中列百人,有立齋建福,有營建房舍,有能調伏外道,有善供給疾病,有遊行教化,有息事端拱,有好著好衣,有弊外無恥,有食無厭足,有語言麁獷。尼中列五十人,如拘曇彌尼頭陀苦行,耶輸陀羅降伏外道。俗中二眾亦各有偏好,但諸聖因緣,今文則略、《大論》具存,事迹雖別皆是大權。
列挙された名前の最初の部分を五つにまとめると、第一に現れる数、第二に名前を立てる意図、第三に証しを立てる意図、第四に解釈を消す意図、第五に意義を用いる意図である。引証の中で多く『阿含経』を引用するのは、例えば『増一阿含経』の中で四衆の名前を列挙し、それぞれに好みの傾向があって同類を引き寄せるためである。「一一四釈」の下の「云云」とは、すなわち因縁などの四つを再び列挙しないが、しかし諸聖の因縁は多く初教に寄せられている。それは感応の始まりであるからである。だから諸聖の初めの因縁は外道の中にあり、外道を破るためであり、釈迦族の中にいるのは調伏するためであり、導き手として主となって彼らを引き寄せるためである。それゆえ、入胎、立行、眷属、師友を詳しく明らかにする。順であれ逆であれ、能化と所化とがある。たとえ始終を計って転じない者があっても、後の者が破る理由となり、諸聖の跡が無駄に設けられていないことを示し、一つ一つが感応であることを示す。だから四悉の意義を一つ一つ知るべきである。それゆえ、あの『増一阿含経』の比丘の中に百人が列挙され、斎を立て福を建てる者、房舎を営む者、外道を調伏できる者、病気をよく供給する者、遊行して教化する者、事を静めて端拱する者、好んで良い衣を着る者、外見は粗末で恥を知らない者、食に飽き足りない者、言葉が粗野な者がいる。尼の中に五十人が列挙され、例えば拘曇弥尼は頭陀苦行し、耶輸陀羅は外道を降伏させた。俗の二衆もそれぞれに好みの傾向があるが、諸聖の因縁については、今の文は略され、『大智度論』には詳しく残されている。事跡は別々であっても、すべては大権である。
「陳如」中,初是世界,「願」去為人,「行」去對治,「太子」去第一義。此第一義仍在昔教,但以教簡進否無在,隨事轉釋令順四悉,下去皆然。「其先事火」者,雖事火者多,非初得道火不成德,故初得道得照燒名,破暗因滅、物滅果亡,初雖未亡後必亡故,如人墮巖。「無知乃是知無」者,梵音倒耳。所知之無即真諦也。故引二諦中真也。次引二經一論者,本際秖是所知真諦,願者出《因果經》,即佛為菩薩時本願先度,次「又迦葉」下即是己願。「夫巨夜」下為陳如興類也。生死如世夜,日出故令覺。「日光」者,諸大羅漢及諸菩薩,故明星日光並破己身之大暗也。「入山學道」等者,《中含》五十六《羅摩經》云:「佛在鹿母堂,告諸比丘,有二種求,一者聖求,二非聖求。聖求者,安隱涅槃。我為童子時年始十九,往阿羅羅迦摩羅所。問言:依汝法行梵行可不?答言:無不可。云何此法自知證?仙言:我度識處得無所有處。即住遠離處,修證得已,更往仙所述己所得。仙問:汝已證無所有處耶?我之所得汝亦得耶?即共領眾。又自念:此法不趣智慧、不趣涅槃,寧可更求安隱處耶?是故更往欝陀羅羅摩子所云:我欲於汝法中學。彼答:無不可。問曰:知自證耶?答:我度無所有處得非相定,我久證得。便修得之,乃至領眾等。復念言:此法不至涅槃。即往象頭山鞞羅梵志村尼連禪河邊,誓不起,即得無上安隱涅槃,道品成就四智具足。次念:誰應先度?念已寧可先度二仙。空中云:二仙已終經於七日。我亦自知。念曰:應度欝陀羅羅摩子。天又告言:終來二七。我亦自知。因復念曰:昔五人侍我勞苦。念已觀於五人在波羅奈,念已便往。五人遙見自相約勅:沙門多求好食粳糧及𪍑酥蜜,麻油塗身;今復來至,汝等但坐,預留一座莫請令坐。及至到已,語曰:卿欲坐者便坐。五人破制,於中求水者、敷座者。坐已先教二人,三人持食來六人共噉。次教三人,二人持食來六人共噉。而便語之:有二種行,一著五欲,二著苦行,離此二邊是名中道。次為五人說譬喻,次為說四諦,五人得無漏。」多論說佛為三二人說法去住不等者,由三是父親、二是母親,欲彰乞食事辦故也,及知說法不空。準《婆沙》中日初分為二人,則六人共食,日後分為三人,則五人共食,以佛性離非時食故。爾時未為弟子制非時食,經三月教化,或云四月,餘如論文。云「三父親」者,謂馬星、摩男、拘利,餘是母親。「初見佛道相」等者,初見在陳如,為後人前相,應云,佛如鼓、機緣如椎、法輪如聲。「初聞」者,五人俱初,陳如初悟故云初聞。「香」,道品也。昔機如身、法輪如香。初悟名「服」,「甘露」滅理也。「法流」即初果,「登真」即見諦。《分別功德論》云:「佛最長子即陳如也。最小子者即須跋也。」今未受化是故不論。
「陳如」において、初めは世界であり、「願」は人へと向かうこと、「行」は対治へと向かうこと、「太子」は第一義へと向かうことです。この第一義はなお昔の教えの中にありますが、教えが簡潔で進むか否かは問題ではなく、事に従って解釈を転じ、四悉檀に順じさせます。以下も同様です。
「その先に火を事とする」とは、火を事とする者が多いとはいえ、初めに道を得なければ火は徳を成さず、故に初めに道を得て照らし焼く名を得ます。暗き因を破り滅ぼし、物の滅び果てるは初めにはまだ滅びずとも後には必ず滅びるからです。たとえば人が巌から落ちるがごとしです。
「無知こそは知無なり」とは、梵語の音が倒れているのです。知られる無こそが真諦です。故に二諦の中の真を引くのです。次に二経一論を引くのは、本際はただ知られる真諦に過ぎず、願は『因果経』に出ており、すなわち仏が菩薩であった時の本願で先に度すことです。次に「また迦葉」以下はすなわち己の願です。
「夫れ巨夜」以下は陳如のために類を興すのです。生死は世の夜の如く、日出ずる故に覚ますのです。「日光」とは、諸大羅漢および諸菩薩であり、故に明星と日光はともに己身の大いなる暗きを破るのです。
「山に入りて学道する」などとは、『中含』五十六『羅摩経』に云く、「仏、鹿母堂に在して、諸比丘に告げて曰く、二種の求あり、一は聖求、二は非聖求なり。聖求とは、安穏なる涅槃なり。我が童子の時、年始めて十九、阿羅羅迦摩羅の所に往く。問うて言く、汝が法に依りて梵行を行わば可からずや、と。答えて言く、不可なし、と。云何が此の法自ら知りて証するや、と。仙言く、我れ識処を度りて無所有処を得たり、と。即ち遠離の処に住し、修証して得たる已に、更に仙の所に往きて己の得たる所を述ぶ。仙問う、汝すでに無所有処を証せりや、我が得たる所、汝も亦得たりや、と。即ち共に衆を領す。又自ら念う、此の法は智慧に趣かず、涅槃に趣かず、寧んぞ更に安穏の処を求めざらんや、と。是の故に更に欝陀羅羅摩子の所に往きて云く、我れ汝が法中に於いて学ばんと欲す、と。彼答えて言く、不可なし、と。問うて曰く、自ら証することを知るや、と。答えて、我れ無所有処を度りて非相定を得たり、我れ久しく証得せり、と。便ち修して之を得、乃至衆を領す等。復た念いて言く、此の法は涅槃に至らず、と。即ち象頭山鞞羅梵志村尼連禅河辺に往き、起たざるを誓い、即ち無上の安穏なる涅槃を得、道品成就し四智具足す。次に念う、誰か応に先に度すべきか、と。念い已に寧んぞ先に二仙を度すべし、と。空中に云く、二仙すでに終わりて七日を経たり、と。我れ亦自ら知る。念いて曰く、応に欝陀羅羅摩子を度すべし、と。天また告げて言く、終わり来たりて二七たり、と。我れ亦自ら知る。因りて復た念いて曰く、昔五人我に侍して労苦せり、と。念い已に五人を観るに波羅奈に在り、念い已に便ち往く。五人遥かに見て自ら相約勅して、沙門多くは好食粳糧及び酥蜜を求め、麻油を身に塗る。今また来至す、汝等但だ坐せよ、預め一座を留めて坐を請うること莫かれ、と。及び至り到る已に、語りて曰く、卿坐せんと欲すれば便ち坐せよ、と。五人制を破り、中に水を求むる者、座を敷く者あり。坐し已に先ず二人を教え、三人食を持ち来たりて六人共に噉う。次に三人を教え、二人食を持ち来たりて六人共に噉う。而して便ち之に語りて、二種の行あり、一は五欲に著く、二は苦行に著く、此の二辺を離るるは是れ中道と名づく、と。次に五人のために譬えを説き、次に四諦を説き、五人無漏を得たり」と。
多論に仏が三二人のために説法し去住等しからざるを説くは、三は父親、二は母親なるが故に、乞食事の弁を彰わさんと欲する故なり、及び説法の空しからざるを知る故なり。『婆沙』に準うれば、日の初分は二人のためとし、則ち六人共に食し、日の後分は三人のためとし、則ち五人共に食す。仏性は非時食を離るるが故なり。爾の時未だ弟子のために非時食を制せず、経三月教化し、或いは四月と云う。余は論の文の如し。
「三父親」と云うは、馬星、摩男、拘利を謂い、余は母親なり。
「初めに仏道の相を見る」などとは、初めに見るは陳如に在り、後人のための前相と為す。応に云うべし、仏は鼓の如く、機縁は椎の如く、法輪は声の如し、と。
「初聞」とは、五人俱に初めなり、陳如初めて悟る故に初聞と云う。
「香」とは、道品なり。昔の機は身の如く、法輪は香の如し。初めて悟るを「服」と名づけ、「甘露」は滅理なり。
「法流」は即ち初果、「登真」は即ち見諦なり。『分別功徳論』に云く、「仏の最長子は即ち陳如なり。最小子は即ち須跋なり」と。今未だ化を受けざるは是の故に論ぜず。
約教中應辨教殊但明觀異,從觀判教理易分故,故委以觀而分別之。況萬二千陳如居首,無生乃是諸觀之宗,欲令聞名識行例人知心。故大師歎古章疏云:「恨不見其面,但恨不見其人;今見其文則見其心矣。」今如是等雖不見人,乃見其智。初、三藏教人不了像虛,故用《阿含》「盲」為譬也。初總立譬境智,次、「頭等」下譬境因果,如六分和合成身,如和合成業,業託父母如形對像生,像必不實,由謂實故令後陰起。盲如無生智,不見如不取。三、「若開眼」下明生不生。於中初由取因故果生,次「若閉眼」下喻不取因故果不生,鏡是助因得果,復由執心緣之,方助於因而生於果,下文準此。於中二:先總、次別。初總標不生,次「不見」下總列因果不生。次「故阿含」下別中三科,為二:初觀陰,次入、界。初觀陰中二:先明陰生為境,次「若能」下無生觀智。初又三:法、喻、合。法中義帶總別二境,謂因計色淨餘四皆淨,樂等亦爾。是則五陰皆淨常等即總境也。此中想行應云乃至受,識應云乃至想行,文且一往。次觀中三:初正明用觀,次「既知」下明觀成破惑,三「如是」下準因破果。初文又三:法、喻、合。應知鏡譬若不對盲,本在衍門亦可通用,具如《止觀》第五記。初法中二:釋、結。釋二:先、別。次「又能」下總。悉皆無常等,知色中少「無我」字。「是為」下,結。「如盲」下,譬;「是為」下,合。次「既知」下明觀成破見,此中即破二十身見。次「如是」下準因破果中有法、喻、合。
教えの体系の中で、まず教えの違いを明らかにすべきですが、ここでは観法の違いを中心に述べます。観法によって教えを判断すれば、その道理が容易に理解できるからです。そのため、観法を詳しく説明して区別します。
ましてや、一万二千の弟子の中で陳如が筆頭にいるように、「無生」の観念こそがすべての観法の根本です。名を聞いてその行いを知り、例えを通して心を理解させようとしているのです。だから大師は古い注釈を称えてこう言われました:「その顔を見られないのは残念だが、それ以上にその人に会えないのが残念だ。しかし今、その文章を見れば、その心を見ることができる。」
今、このように人には会えなくても、その智慧を見ることができます。
まず、三蔵教の人々は像が虚妄であることを理解していないため、『阿含経』の「盲人」のたとえを用いています。最初に、境と智のたとえを総括的に立て、次に「頭など」以下で境の因果をたとえています。
六つの要素が和合して身体を成すように、和合して業を成し、業が父母に託されるのは、形が像に対面して生じるようなものです。像は必ずしも実在ではないのに、実在だと思い込むことで後の五陰が生じます。盲人は無生の智慧のようで、見えないことは執着しないことです。
三つ目に、「もし目を開けば」以下では、生じることと生じないことを明らかにします。この中で、まず執着する因によって果が生じ、次に「もし目を閉じれば」以下では、執着しない因によって果が生じないことをたとえています。鏡は助縁となる因であり、果を得ますが、さらに執着する心によって縁づけられて、初めて因を助け、果を生じさせます。以下の文もこれに準じます。
この中で二つに分けます:まず総括し、次に個別に説明します。最初に総括して不生を標示し、次に「見えない」以下で因果の不生を総括的に列挙します。
次に「故に阿含経では」以下、個別の三科を二つに分けます:まず五陰を観じ、次に入と界を観じます。最初の五陰を観じる中で二つに分けます:まず五陰が生じることを境として明らかにし、次に「もし能く」以下で無生の観智を述べます。
最初の部分はさらに三つに分けます:法説、譬え、合わせ。法説の中では、総境と別境の二つの境を帯びた義があり、色を清浄と考える因によって他の四つもすべて清浄となり、楽なども同様です。つまり、五陰はすべて清浄で常であるなどが総境です。ここでは、想と行は「乃至受」とすべきであり、識は「乃至想行」とすべきですが、文は一応このようにしています。
次に観じる中で三つに分けます:まず正しく観法を用いることを明らかにし、次に「既に知れば」以下で観法が成就して惑いを破ることを述べ、三つ目に「このように」以下で因に準じて果を破ります。
最初の文もさらに三つに分けます:法説、譬え、合わせ。鏡の譬えは、もし盲人に対面しなければ、本来は大乗の教えにも通用するものであり、詳しくは『止観』第五巻の注記にあります。
最初の法説の中では二つに分けます:解釈と結び。解釈は二つに分けます:まず個別に、次に「また能く」以下で総括的に。すべてが無常などであり、色の中には少し「無我」の文字が欠けています。「これが」以下で結びます。
「盲人のように」以下は譬え、「これが」以下は合わせです。
次に「既に知れば」以下では、観法が成就して見惑を破ることを明らかにし、ここでは二十の身見を破ります。
次に「このように」以下では、因に準じて果を破る中で、法説、譬え、合わせがあります。
次觀入界中先雙標入界,次正釋。釋中先更寄此便明因緣,故知前陰即念處觀屬四諦也。於中亦先大海以喻境生,次「云何」下以苦種喻觀不生。初境中先約入,次以界例。初約入中先約眼色二入廣明,次「耳鼻」下舉十入例。初約眼色中具列十二因緣,初無明中喻文在《阿含》中。「五皰」者,手足及頭,例中少五塵。次觀中二:初入,次以界例。入中二:先明眼色,次以十入例。初眼色中三:初略明不生,次「云何苦」下反以生釋,三「若知」下正明用觀。初略觀中乃以臭種用喻因緣,既以貪恚念欲為苦種,牙即無明。又以取塵善惡為臭汁,蠅蛆是行,此二不生故十不生。「阿若最初」下,結,如文。
次に、入界を観じる中で、まず入界を双標し、次に正しく釈する。釈する中で、まずさらにこの便りに因縁を明らかにする。故に知る、前の陰は即ち念処観であり、四諦に属することを。この中でも、まず大海を以て境の生を喩え、次に「云何」以下、苦種を以て観の不生を喩える。初めの境の中では、まず入に約し、次に界を例とする。初めに入に約する中では、まず眼と色の二入を広く明らかにし、次に「耳鼻」以下、十入を挙げて例とする。初めに眼と色に約する中では、十二因縁を具列し、初めの無明の中の喩えの文は『阿含』の中にある。「五皰」とは、手足及び頭、例の中では五塵が少ない。次に観の中では二つ:初めに入、次に界を例とする。入の中では二つ:先に眼と色を明らかにし、次に十入を例とする。初めの眼と色の中では三つ:初めに略して不生を明らかにし、次に「云何苦」以下、反って生を以て釈し、三に「若知」以下、正しく観を用いることを明らかにする。初めの略観の中では、臭種を以て因縁を喩える。既に貪り・瞋り・念い・欲を以て苦種とし、牙は即ち無明である。また、塵を取る善悪を以て臭汁とし、蠅蛆は行である。この二つが不生である故に、十が不生である。「阿若最初」以下、結び、文の如し。
通教觀中以境即故不先立境。亦先陰,次入界。陰中亦先總,次「又觀」下,別。總謂總以鏡像喻五,別謂五喻各別譬五,並先喻次合。初總中先約色陰,次以四例,亦如於巾求兔叵得。人之與鏡皆云幻者,因緣各從因緣生故,實因實緣和合所生尚自如幻,況幻因緣所生非幻?如巾如藥於兔名實,兔於巾藥名之為幻,鏡像亦然。況今先見因緣如幻,像非幻耶?細推具如《止觀》第五。今且略辨令知觀別,故不廣論。今亦具有二空,次「觀根塵」下觀界入,亦更寄界入以明因緣,故云無明等。於中又二:先推根塵無明,次「煩惱」下推三世即十一支,各有喻合。初喻中云「根塵聚落」者,文在《大經》二十一,復以機關釋成根塵和合義也。經云:「譬如有王以四毒蛇盛之一篋,令人養飴瞻視臥起,若令一蛇生瞋恚者,我當準法戮之都市。其人聞已捨篋逃走。王時復遣五旃陀羅拔刀隨之,密遣一人詐為親友,而語之言:汝可來還。其人不信投一聚落,都不見人求物不得,即便坐地。聞空中聲:今夜當有六大賊來。其人惶怖復捨之去,乃至路值一河截流而去(云云)。」合云:「蛇若害人不墮惡道,無三學力必為五陰旃陀羅害,若不識愛為詐親誑,觀於六人猶如空聚,群賊住於六塵六入,欲捨復治煩惱駛流,應以道品船栰運手動足過分段河,十住未免唯佛究竟。」經文本喻三乘始終,今喻通教聲聞觀法。言「機關」者,機謂機微,可發之義,關謂關節,假人而動。故凡結身口皆由意動而成作業。既云聚空,即本空也。言「云云」者,界文乃略,具足如前三藏教明。一往且然,若委修觀非此可了。
通教の観法においては、境(対象)と観(主体)が即しているため、先に境を立てることはしない。まずは五陰(色・受・想・行・識)から始め、次に十二入(六根と六境)、十八界(六根・六境・六識)へと進む。五陰の観察においても、まずは総体的に観じ、次に「また観ずるに」以下で個別に観じる。総体的とは、鏡像の譬えで五陰を総括して示すことであり、個別的とは五つの譬えをそれぞれ五陰に当てはめることである。いずれもまず譬えを示し、次にその意味を合わせて説く。最初の総体的な説明では、まず色陰について述べ、次に他の四陰についても同様に例示する。これは、巾(布)の中に兎を求めても得られないのと同じである。人も鏡も幻であると言われるのは、それぞれが因縁によって生じているからである。実在する因と縁が和合して生じたものでさえも幻のようであるのに、まして幻のような因縁から生じたものが幻でないわけがない。巾や薬が兎にとって実在であるように、兎は巾や薬にとっては幻である。鏡像も同様である。まして、まず因縁が幻であると見えたなら、その像が幻でないと言えるだろうか。詳しくは『止観』第五巻に説かれている。ここでは観法の違いを知らせるために略説するので、広く論じない。ここにも二空(人空・法空)の観法が含まれている。次に「根塵を観ずる」以下では、界と入を観じ、さらに界と入を借りて因縁を明らかにするので、「無明など」と説くのである。その中でも二つに分けられる。まず根塵と無明を推究し、次に「煩悩」以下で三世、すなわち十二因縁の十一支を推究する。それぞれに譬えとその意味の合わせがある。最初の譬えで「根塵聚落」とあるのは、『大般涅槃経』第二十一巻の文によるもので、さらに機関(からくり)の譬えで根塵の和合の意味を説明している。経にはこうある。「譬えば、王が四匹の毒蛇を一つの籠に入れ、人に養わせ、食事を与え、寝起きを見張らせた。もし一匹でも蛇が怒りを起こしたら、私は法に従って都で処刑する、と。その人はこれを聞き、籠を捨てて逃げ出した。王はさらに五人の旃陀羅(賤民)に刀を持たせて後を追わせ、密かに一人を遣わして親友を装わせ、『戻って来い』と言わせた。その人は信じず、一つの村に逃げ込んだが、人は誰もおらず、物も得られない。そこで地面に座り込んだ。すると空中から声が聞こえた。『今夜、六人の大盗が来る』と。その人は恐れ、またそこを捨てて去り、ついに川にぶつかり、流れを渡って行った(云々)。」その意味を合わせて説く。「蛇が人を害しても悪道に堕ちることはない。三学(戒・定・慧)の力がなければ、必ず五陰の旃陀羅に害される。もし愛(渇愛)を詐りの親友の欺きと見なければ、六入(六根)を観じて空の村のようだと知る。群賊(煩悩)は六塵(六境)と六入に住み、捨てようとしてもまた治められず、煩悩の激流を渡るには、道品(三十七道品)の船や筏を用い、手足を動かして分段生死の河を渡らねばならない。十住の菩薩でさえ免れず、究竟するのは仏のみである。」経文の本来の譬えは三乗(声聞・縁覚・菩薩)の修行の始終を表すが、ここでは通教の声聞の観法を譬えている。「機関」とは、機は機微、発動する可能性を意味し、関は関節、人を借りて動くことを意味する。だから、身口意の行為を結ぶのはすべて意の動きによって業が成されるのである。「聚空」と言うのは、もともと空であるということである。「云々」とあるのは、界の説明が略されているからで、詳しくは前に説かれた三蔵教の通りである。一応このように理解できるが、もし詳細に観法を修するならば、これだけでは十分ではない。
次別觀中亦先喻境智,「若欲」下起行也。初中先立境智,次「青」下明境體量,三「皆於」下結意。初立中先境、次觀。境中初云「鏡喻法界」者,通以迷悟事理始末自他同依一法界也。真如在迷能生九界,即指果佛為佛法界,故總云十。是故別人覆理無明為九界因,故下文中自行化他皆須斷九,九盡方名緣了具足,足故正因方乃究顯。次體量者,此中但以青等八法喻十界者,或離或合隨便為言,故合二乘及以人天,復略修羅仍開菩薩,亦可初地為佛法界,諸文開合隨義準知。又「青黃」等,別人初心與藏不別,故得借用《正法念》喻,但加長短等耳。言「皆於鏡中」者,不出法界。法界不出迷悟,迷悟不出於心。次起行又五,先示自行化他分齊,以別教中無性德九故自他斷,別修緣了而嚴本有常住法身。次「依於」下依境起行,亦指但理為九界覆而為所依,法界秖是法性,復是迷悟所依。於中亦應云從無住本立一切法,無明覆理能覆所覆俱名無住,但即不即異而分教殊,今背迷成悟專緣理性而破九界。三「次第」下明因滅。四「若無」下明果滅。五「生亦」下總結因果雙明不生,即界內外二生不生,俱不生也。化物橫辨,文闕不論。
次別観においても、まず境と智のたとえを示し、「若欲」以下で修行を始める。最初に境と智を立て、次に「青」以下で境の本体とその広がりを明らかにし、三番目に「皆於」以下で意味をまとめる。
最初の立て方では、まず境、次に観を示す。境について最初に「鏡は法界にたとえる」というのは、迷いも悟りも、事も理も、始めも終わりも、自も他も、すべて一つの法界に依っていることを通して示す。真如は迷いの中にあって九界を生じることができ、果位の仏を指して仏法界とするため、総じて十界という。したがって、別教では理を覆う無明が九界の因となり、下の文で自らの行いも他を教化することも、すべて九界を断じ尽くす必要があるとされる。九界が尽きて初めて縁因・了因が具足し、具足するからこそ正因が究極に顕現するのである。
次に本体とその広がりについて。ここではただ青などの八つの法をもって十界をたとえるが、離したり合わしたり、便宜に応じて述べている。だから二乗と人天を合わせ、修羅を略し、菩薩を開く。また、初地を仏法界としてもよい。諸々の経文では、開いたり合わせたり、その意味に応じて理解すべきである。また、「青黄」などは、別教の初心と蔵教と区別がないため、『正法念処経』のたとえを借りることができ、ただ長短などを加えただけである。「皆於鏡中」というのは、法界を出ないということ。法界は迷悟を出ず、迷悟は心を出ない。
次に修行を始めることについて五つに分ける。まず、自らの行いと他を教化することの分限を示す。別教には性徳としての九界がないため、自他ともに断じ、別に縁因・了因を修めて、本来ある常住の法身を荘厳する。次に「依於」以下で、境に依って行いを起こす。また、ただ理が九界に覆われていることを指して依り所とし、法界はただ法性であり、また迷悟の依り所である。この中でも、「無住を本として一切の法を立てる」と述べるべきである。無明が理を覆うこと、能覆も所覆もともに無住という。ただ、即するか即さないかの違いによって教えが異なり、今は迷いに背いて悟りを成じ、専ら理性に縁って九界を破るのである。三番目に「次第」以下で因の滅を明らかにする。四番目に「若無」以下で果の滅を明らかにする。五番目に「生亦」以下で因果をまとめて双に不生を明らかにする。すなわち、界内外の二つの生が生じないこと、ともに生じないことである。化物を横に弁じることは、文に欠けているので論じない。
次圓觀者,先喻、次合。喻中言「觀鏡」者,一法界也。「團圓」者,理境智也。觀即是智,團圓是境。次「不觀」下明觀相。「背」即無明,「面即」智明。「鏡」十界因,「形」十界緣,「像」十界果。又鏡明性十界,像生修十界,故形像修性皆具十界,並不出於法性理鏡,見明形像修性本如,鏡內外一離於三教分別情想,總以不二無分別智,依理通泯心境明暗,故云不觀。觀境不殊、理無明暗,故云「非背」等。約修得說故云「不取」等。次「但觀」下結意中,但是總略出其觀相,不謀而照但觀團圓,無始終故,故無際畔,本有故無始,常住故無終。明暗如前。無一異者,雙非像無像也。「不取」下,合也。初不取者,泯前十界。「善惡」六界也。以六對小故云邪正,以菩薩佛用對於小,故云大小,一切並泯故皆云無,不復分別若性若修。「但緣」下泯前心境,以法性實相即是三諦三觀,一切佛法之大都,若泯若照無非法性,法性之體離泯照故全泯照是。「觀煩惱」下,明觀體秖觀三道。生即苦道。三道即是三德。於中初總明立觀,從「陰入界即法身」去,教用觀法。本觀理是不觀染除,染體自虛本虛名滅,故妙體滅不立除名,障體即德不待轉除,故云生即無生。次「解脫即業」等結成無生。次「是三」下複疎總結。次「況變易」等者,以重況輕,界內重障尚即妙德,況界外輕耶?今仍約底下三道,若具論者,應約諸三法也。此中圓觀不同藏別先境次觀者,若法若喻皆不二故,語雖似通觀境別故。
円観とは、まず譬えを述べ、次に合わせて解釈する。譬えの中で「鏡を観る」というのは、一法界のことである。「円満」というのは、理境と智のことである。観とはすなわち智であり、円満とは境である。次に「観ずることなく」以下は観の相を明らかにする。「背」とは無明であり、「面」とは智明である。「鏡」は十界の因であり、「形」は十界の縁であり、「像」は十界の果である。また、鏡の明るさは十界の本性であり、像が生じるのは十界の修行である。ゆえに形と像は修行と本性の両方に十界を具え、すべて法性の理という鏡の外に出ることはない。明るさと形と像を見れば、修行と本性は本来そのままであり、鏡の内外は一つである。三教の分別的な思いを離れ、すべてを不二の無分別智によって、理に依って心と境、明と暗を通じて消し去る。ゆえに「観ずることなく」と言うのである。観る境に違いはなく、理に明暗はない。ゆえに「背に非ず」などと言うのである。修行によって得られたものについて言えば、「取らず」などと言うのである。次に「ただ観る」以下は結びの意味であり、ただ総略的に観の相を示している。はからいなく照らし、ただ円満を観る。始まりも終わりもないゆえに、際限がない。本来あるがゆえに始まりがなく、常住であるがゆえに終わりがない。明暗については前に述べたとおりである。「一異なし」というのは、像と無像の両方を否定することである。「取らず」以下は、合わせて解釈する部分である。最初の「取らず」は、前述の十界を消し去ることである。「善悪」は六界である。六界を小乗に対比させて「邪正」と言い、菩薩と仏の働きを小乗に対比させて「大小」と言う。すべてを消し去るゆえに、すべて「無し」と言い、もはや本性か修行かを分別しない。「ただ縁る」以下は、前述の心と境を消し去る。法性実相とはすなわち三諦三観であり、一切の仏法の大いなる総体である。消し去ることも照らすことも、すべて法性に外れない。法性の本体は消去と照覧を離れているが、全体が消去であり照覧である。「煩悩を観る」以下は、観の本体がただ三道を観るものであることを明らかにする。「生」とは苦道である。三道とはすなわち三徳である。この中で、最初に総じて観を立てることを明らかにし、「陰入界はすなわち法身」以下は、観法を教え用いるものである。本来の観の理は、染めを観ずることなく除くことである。染めの本体は自ら虚しく、本来虚しいことを滅と名づける。ゆえに妙なる本体は滅であり、除くという名を立てない。障りの本体はすなわち徳であり、転じて除くことを待たない。ゆえに「生はすなわち無生」と言うのである。次に「解脱はすなわち業」などと結んで無生を成す。次に「これ三つ」以下は、重ねて詳しく総括する。次に「ましてや変易」などというのは、重いもので軽いものを例えることである。界内の重い障りでさえも妙徳であるのに、ましてや界外の軽い障りであろうか。今なお下の三道について述べるが、もし詳しく論じるならば、諸々の三法について述べるべきである。ここでの円観は、蔵教や別教のようにまず境を立て次に観を立てるのとは異なる。法であれ譬えであれ、すべて不二であるゆえに、言葉は通じるように見えても観る境は別であるからである。
所以釋陳如中教相約觀其義廣者,以最初故。「若聞阿字解一切義」下去,諸聖雖隨事別,論其觀行不出無生,如頭陀抖擻乃至密行,亦何出於智斷無生?故下去文準此可知。言「云云」者,應具須十乘十境及方便等,全指《止觀》一部文也。故《止觀》破遍中亦以無生為首,故今略示大綱。若於阿若權實始終不迷,欲以圓觀消今經中五佛三周本迹流通無非無生之大體也,則能兼識一代觀境,故於名下略指方隅。秖如世人為子立號尚有所表,況諸聖者豈應徒然?若不然者,則唐設無生之名,永無無生之旨,大小混濫權實杳冥,此一既然餘例準此。
それゆえ、釈迦族の陳如(アニャー・コンダンニャ)が中道の教えに相応して観じたところ、その意味が広大であるのは、最初の弟子であるがゆえです。「もし阿字を聞いて一切の義を解する」以降、諸々の聖者たちはそれぞれの事柄に応じて別々に論じていますが、その観行は無生(不生不滅)を出るものではありません。たとえば頭陀行(苦行)や抖擻(精進)から密行に至るまで、いずれも智慧と煩悩の断絶、すなわち無生を出るものではないのです。したがって、以降の文章もこの基準に従って理解することができます。「云云」とあるのは、十乗十境や方便など、『止観』の全編を指しているはずです。『止観』の「破遍」の章でも無生を最初に置いているので、ここでは大綱を略示しているのです。
もし阿若(アニャー)の権実(方便と真実)や始終(始めから終わりまで)について迷うことがなく、円融の観点で今の経典における五仏や三周(三回の説法)、本迹(本地と垂迹)、流通(経典の伝播)を解消しようとするならば、すべてが無生という大きな根本に帰することを知ることができます。そうすれば、一代の教えにおける観境(観想の対象)をも併せて理解できるでしょう。したがって、名前の下にその方向を少し示しておきます。
ちょうど世間の人が子に名前を付けるときにも意味があるように、ましてや諸々の聖者たちが無意味に名付けるはずがありません。もしそうでなければ、無生という名は設けられても、無生の真意は永遠に理解されず、大乗と小乗が混同され、権教と実教の区別も曖昧になってしまいます。この一つの例がそうであるならば、他の例も同じように考えられます。
本迹中初約五味正示本迹,此中阿字顯遍八教。次「眾生」下勸物思齊,則五時功畢。次「非本」下明不思議體用功畢。「故下文」下引開迹證,種種之言亦不出五時八教。又隨本長短凡經幾度?為五時八教示不生來。引《阿含》者,引迹證本,寄迹中本迹示其尊卑,本地高下非此可悉故。《雜含》三十一「佛在舍衛,夜暗天小雨,時告阿難言:汝以蓋覆燈隨佛後行。阿難受教至一處,世尊微笑。阿難白佛。佛言:非無因緣,汝今持蓋隨我而行,我見梵王持蓋燈隨陳如後,帝釋持蓋燈隨迦葉後,乃至毘沙門天王持蓋燈隨劫賓那後。」所以偏於通序中如是乃至諸聖弟子具四釋者,以「如是」通指一部,「我聞」能聞一部,時處、教主必無異途,咸是斯經之大略,況諸弟子在大在小,若顯若晦、為主為伴,示訥示辯、有屈有申,厭外欣內背大向小,引小入大會偏歸圓,自因之果,皆為眾生作種熟脫、去來今益,所歷既多時處不一,良由機緣生熟未等。今既咸會,以昔望今,令成今教人法俱美,故用四釋令了機應,從外至內,後入《法華》本迹兩門先後悟入,皆藉引導影響發起,隨聞一句若人若法,皆成化儀悉可為觀,故於一人遍須眾釋,況令後代聞名起行,稟教識體思迹覩本,尋其因緣廣照始末。若得此意,於一人所、於經一句,可以為上求境、可以識下化機,可以曉聖者化儀、可以了凡眾稟益,可以達名義同異、可以知行等理殊,可以知隨聞成觀、可以解迹本人法,可以信化事長遠、可以仰聖恩難報,可以知眾生難化、可以知會理至難。他不見者謂為繁芿,況得今意?凡聞諸經一法一事一人一行,則解十方三世佛事,唯除淨土餘塵施化,況復亦以比丘思之。故知諸土諸佛用教現身雖復不同,然思修之門其理無別。
初めに、本迹の教えの中で五味の譬えをもって本迹を正しく示す。この中で「阿」の一字は八種の教えに遍く通じていることを表す。次に「衆生」以下の文で人々に本迹の境地を目指すよう勧め、五時の教えの功徳が完成することを示す。次に「非本」以下の文で、不可思議な本体と作用の功徳が完成することを明かす。「故下文」以下では、迹を開いて本を証することを引き、種々の言葉もまた五時八教の枠組みを超えない。また、本の長短に応じてどれほどの経過を経たか?それは五時八教を示して不生不滅の真理へと導くためである。
『阿含経』を引用するのは、迹を引いて本を証するためであり、迹の中の本迹に仮託してその尊卑を示す。本地の高下はここでは詳らかにできないゆえである。『雑阿含経』第三十一に「仏が舎衛城におられ、夜暗く小雨の降る中、阿難に言われた:『汝は蓋を持ち灯を覆い、我に従って後に従え』。阿難は教えを受け、一つの場所に至った時、世尊は微笑まれた。阿難が仏に尋ねると、仏は言われた:『理由なくしてではない。汝が今、蓋を持って我に従って行くのを見て、我は梵天王が蓋を持ち灯を従えて陳如の後を行くのを見、帝釈天が蓋を持ち灯を従えて迦葉の後を行くのを見、乃至毘沙門天王が蓋を持ち灯を従えて劫賓那の後を行くのを見た』」とある。
なぜ特に通序の中でこのように、さらに諸聖弟子たちが四種の解釈を具えるのかといえば、「如是」は一つの経典全体を指し、「我聞」はその全体を聞くことができるからである。時と場所、教主に異なる道はなく、すべてこの経の大略である。ましてや諸弟子たちが大乗に在るか小乗に在るか、顕かに現れるか隠れるか、主となるか伴となるか、訥弁を示すか弁舌を示すか、屈するか伸びるか、外道を厭い内道を欣うか、大乗を背にして小乗に向かうか、小乗を引き入れて大乗に会するか、偏を引いて円に帰するか、自らの因から果へと至るか、すべて衆生のために種を下し熟させ解脱へと導き、過去・現在・未来の利益を与えるためである。経てきた時と場所は一様ではなく、衆生の機根と縁の熟し方が等しくないからである。
今、すべてがここに会したのは、昔を今に見ることで、今の教えの人と法をともに美しく完成させるためである。ゆえに四種の解釈を用いて機と応を明らかにし、外から内へ、後に『法華経』の本迹両門へと先後に悟り入る。すべては導きと影響によって発起し、一句の教えを聞くごとに、人であれ法であれ、すべてが教化の儀となり観想の対象となる。ゆえに一人に対して遍く多くの解釈が必要であり、ましてや後代の人々が名を聞いて行を起こし、教えを受け体を識り、迹を思って本を覩んとするならば、その因縁を尋ね始めから終わりまでを広く照らすべきである。
もしこの意を得るならば、一人に対して、経典の一句に対して、上求の境とすることができ、下化の機を識ることができ、聖者の化儀を悟り、凡夫衆生の受け取る利益を了知し、名義の同異を達し、行などの理の違いを知り、聞くに従って観を成ずることを知り、迹と本の人と法を解し、教化の事が長遠であることを信じ、聖恩の報い難きを仰ぎ、衆生の化し難きを知り、理に会する至難を知ることができる。他に見えない者はこれを煩雑と謂うが、ましてや今の意を得るならばどうだろう。凡そ諸経の一法・一事・一人・一行を聞くごとに、十方三世の仏事を解する。ただ浄土以外の塵の教化を除くも、さらにまた比丘としてこれを思うべきである。ゆえに知る、諸土諸仏が教えを用いて身を現すことは異なれども、思惟と修行の門においてその理に別はないと。
法華文句記卷第一(下)
法華文句記 巻第一(下)