---
title: "大唐西域求法高僧傳 · 潤州玄逵律師"
description: "大唐西域求法高僧传由唐代高僧义净撰著。本书成于武则天时期，记录了唐代僧人前往印度求法的历史。书中详述了义净本人及数十位僧人的西行经历，包括旅途见闻、印度佛教状况及各地风土人情。作为研究唐代中西交通、佛教史和南亚历史的重要文献，它与法显的佛国记、玄奘的大唐西域记并称为中国古代三大求法行记，是了解早期佛教传播与文化交流的权威史料。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmd08wm010150jt04lw99kfau"
---

玄逵律師者。潤州江寧人也。俗姓胡。令族高宗。兼文兼史。尚仁貴義。敬法敬僧。枝葉蟬聯。嘉聲靡墜。律師則童子出家長而欽德。及其進具卓爾不群。遍閑律部偏務禪寂。戒行嚴峻誠罕其流。聽諸大經頗究玄義。博翫文什草隷尤精。空有三衣袒。髆為飾。不披覆膊衣角搭肩。入寺徒跣行途著屢。縱使時人見笑高節曾不間然。不臥長坐。詎脇安眠之席。杜多乞食。寧過酒肆之門。善人皆愛草鞋巧知。皮亦無過鑒者。足不履地能閑露脚。是儀嗟乎。此子闇與理諧。激揚清波。恥汩泥而從俗。獨醒在旦。豈共醉而居昏。繞於丹陽一面遂即同契。南上昆季留連愴矣。三荊之析友于攀絕。傷哉八翼之離。以為傳法在懷無抑高節。行至廣州遂染風疾。以斯嬰帶弗遂遠懷。於是悵恨而歸返錫吳楚。年二十五六。後僧哲師至西國云。其人已亡有疚于懷。嗟乎不幸。勝途多難驗非虛矣。實冀還以法資空有欝藍之望。復欲旋歸遺鍔。徒懷隴樹之心。乃歎曰。淑人斯去。誰當繼來。不幸短命。嗚呼哀哉。九仞希岳。一簣便摧。秀而不實。嗚呼哀哉。解乎易得。行也難求。嗟爾幼年。業德俱修。傳燈念往。嬰痼情收。慨乎壯志。哀哉去留庶傳爾之令節。秉輝曜於長秋。于時逵師言離廣府還望柱林。去留愴然自述贈懷云爾五言。

> 玄逵律師は、潤州江寧の出身である。俗姓は胡氏で、名門の家系にあたる。文にも史にも通じ、仁を尊び義を重んじた。仏法と僧侶を敬い、その家系は代々優れた人材を輩出し、その誉れは決して衰えることはなかった。 律師は幼い頃に出家し、成長するにつれてその徳を慕うようになった。正式な戒律を受ける頃には、すでに群を抜いて優れていた。律部に広く通じ、特に坐禅による静かな修行に専念した。戒律の行いは厳しく、その類を見ないほどであった。様々な大経典を聴聞し、その深遠な教えをよく会得した。文芸や詩文にも親しみ、とりわけ草書と隷書に秀でていた。 所有するものは三衣だけで、肩を露わにして身を飾った。覆膊（肩掛け）は身につけず、衣の端を肩にかけるだけであった。寺内では裸足で歩き、外出時には草履を履いた。時人に笑われようとも、その高い節操は決して変わることはなかった。横になって寝ることはせず、常に坐して眠った。托鉢の行では、酒屋の門を決して過ぎることはなかった。善人たちは皆、彼の草鞋の巧みな作りを愛し、その技術に勝る者はないと言った。足は地に着けず、素足を露わにして歩くのが常であった。ああ、この人は、暗黙のうちに真理と調和し、清らかな波をかき立てて、泥にまみれて世俗に従うことを恥じた。ただ一人、朝に目覚めている者として、酒に酔った人々と共に暗い世に沈むことを拒んだのである。 丹陽で、ある同志と結ばれ、共に南方へと向かった。兄弟のような親友との別れは悲しく、三株の荊が分かれるように、友との絆は断ち難かった。傷心のうちに、八翼の鳥が離れるように別れた。彼は、法を伝えることが心にあり、その高い節操を抑えることはなかった。広州に至った時、風土病にかかってしまった。この病に長く苦しみ、遠大な志を果たせなかった。そこで、嘆き悲しみながら帰途につき、錫杖を呉楚の地に向けて戻った。二十五、六歳の頃のことであった。 後に僧哲師が西国から帰って言った。「あの人は亡くなった」と。その言葉に、胸が痛んだ。ああ、不幸なことだ。すぐれた道には多くの困難が伴うというのは、まことに虚しい言葉ではなかった。本当に、彼の教えを借りて、空しい望みを抱くばかりであった。また、彼の遺した宝剣（遺徳）を返そうとしても、ただ墓所の木々を想うばかりである。そこで嘆じた。「ああ、善き人は去ってしまった。誰がその後を継ぐのだろう。不幸にも短命であった。ああ、悲しいかな。九仞の高さを目指した山も、一つの土くれで崩れてしまった。花は咲けども実を結ばなかった。ああ、悲しいかな。教えを理解することは容易であっても、実践行うことは難しい。おお、幼年にして、その業と徳を共に修めた人よ。灯火を伝え、故人を想い、病に侵され、その想いも絶えた。壮図は空しく、去るも留まるも悲しい。願わくば、あなたのすぐれた節操を伝え、長き秋永く輝きを放たんことを。」 その時、律師（玄逵師）は広府を離れ、桂林を振り返りながら、去り際の心を詠んで自らに贈った。五言の詩である。

標心之梵宇。運想入仙洲。嬰痼乖同好。沈情阻若抽。葉落乍難聚。情離不可收。何日乘杯至。詳觀演法流。

> 心を清らかな寺にとどめ、 想いを巡らせて仙人の国に入る。 病に悩み、同じ志を持つ者とも離れ、 情は沈み、心は塞がる。 落ち葉は集めがたく、 想いも離れれば、再び寄せ集められない。 いつ、杯に乗って訪れ、 詳しく法の流れを説いて聞かせてくれるだろうか。

淨以咸亨元年在西京尋聽。于時與并部處一法師。萊州弘禕論師。更有二三諸德。同契鷲峯標心覺樹。然而一公屬母親之年老。遂懷戀於并川。禕師遇玄瞻於江寧。乃敦情於安養。玄逵既到廣府復阻先心。唯與晉州小僧善行同去。神州故友索爾分飛。印度新知冥焉未會。此時躑躅難以為懷。戲擬四愁聊題兩絕而已　五言。

> 咸亨元年に長安にて学び、 并州の処一法師、萊州の弘禕論師、 さらに二、三の高僧と共に、 霊鷲山のような聖地を志し、悟りの樹を目指した。 しかし、処一法師は母の高齢を案じ、 并州に帰ってしまった。 弘禕論師は江寧にて玄瞻と出会い、 安養浄土への信仰に心を注ぐようになった。 玄逵も広州に着く頃には、かつての志を変えてしまった。 ただ、晋州の小僧・善行だけが共に従った。 故国での友は、このように散り散りになり、 インドでの新知も、まだ巡り合うことはない。 この時、立ち尽くすばかりで、心の収めようもなく、 戯れに「四愁」になぞらえ、二首の絶句を詠んだ。

我行之數萬。愁緒百重思。那教六尺影。獨步五天陲　五言重自解憂曰。

> 私は数万里を行き、百もの重い想いに沈む。 どうして六尺の影だけが、独り五天の果てを歩むのか。五言詩 <note>重ねて自ら憂いを解く、という。

上將可凌師。疋士志難移。如論惜短命。何得滿長祇。

> 優れた修行者は師をも超えられる。 真の志ある者は、その決意を揺るがすことはない。 もし短い命を惜しむのなら、 どうして長い修行の道を満足に全うできようか。

于時咸亨三年坐夏楊府。初秋忽遇龔州使君馮孝詮。隨至廣府。與波斯舶主期會南行。復蒙使君命往崗州。重為檀主及弟孝誕使君孝軫使君郡君寧氏郡君彭氏等。合門眷屬。咸見資贈。爭抽上賄各捨奇飡。庶無乏於海途。恐有勞於險地。篤如親之惠。順給孤之心。共作歸依同緣勝境。所以得成禮謁者。蓋馮家之力也。又嶺南法俗。共鯁去留之心。北土英儒。俱懷生別之恨。至十一月。遂乃面翼軫背番禺。指鹿園而遐想。望鷄峯而太息。于時廣莫初飈。向朱方而百丈雙挂。離箕創節。棄玄朔而五兩單飛。長截洪溟。似山之濤橫海。斜通巨壑。如雲之浪滔天。未隔兩旬果之佛逝。經停六月漸學聲明。王贈支持送往末羅瑜國今改為室利佛逝也復停兩月轉向羯荼。至十二月舉帆還乘王舶漸向東天矣。從羯荼北行十日餘至裸人國向東望岸可一二里許。但見椰子樹檳榔林森然可愛。彼見舶至爭乘小艇有盈百數。皆將椰子芭蕉及藤竹器來求市易。其所愛者但唯鐵焉大如兩指。得椰子或五或十。丈夫悉皆露體。婦女以片葉遮形。商人戲授其衣。即便搖手不用。傳聞斯國當蜀川西南界矣。此國既不出鐵亦寡金銀。但食椰子藷根無多稻穀。是以盧呵最為珍貴此國名鐵為盧呵其人容色不黑量等中形。巧織團藤箱。餘處莫能及。若不共交易便放毒箭。一中之者無復再生。從茲更半月許望西北行。遂達耽摩立底國。即東印度之南界也。去莫訶菩提及那爛陀可六十餘驛。於此創與大乘燈師相見。留住一載。學梵語習聲聞論。遂與燈師同行取正西路。商人數百詣中天矣。去莫訶菩提有十日在。過大山澤路險難通。要藉多人必無孤進。于時淨染時患身體疲羸。求趁商旅因不能逮。雖可勵己求進五里終須百息。其時有那爛陀寺二十許僧。并燈上人並皆前去。唯餘單己孤步險隘。日晚晡時山賊便至。援弓大喚來見相陵。先撮上衣次抽下服。空有絛帶亦並奪將。當是時也。實謂長辭人代。無諧禮謁之心。體散鋒端。不遂本求之望。又彼國相傳。若得白色之人殺充天祭。既思此說更軫于懷。乃入泥坑遍塗形體。以葉遮蔽扶杖徐行。日云暮矣營處尚遠。至夜兩更方及徒侶。聞燈上人村外長叫。既其相見令授一衣。池內洗身方入村矣。從此行數日。先到那爛陀敬根本塔。次上耆闍崛見㲲衣處。後往大覺寺禮真容像。山東道俗所贈絁絹。持作如來等量袈裟。親奉披服。濮州玄律師附羅蓋數萬為持奉上曹州安道禪師寄拜禮菩提像亦為禮訖。于時五體布地一想虔誠。先為東夏四恩。普及法界含識。願龍華初會遇慈氏尊。並契真宗獲無生智。次乃遍禮聖跡過方丈。而屆拘尸。所在欽誠。入鹿園而跨鷄嶺。住那爛陀寺十載求經。方始旋踵言歸還耽摩立底。未至之間遭大劫賊。僅免剚刃之禍。得存朝夕之命。於此升舶過羯荼國。所將梵本三藏五十萬餘頌。唐譯可成千卷。㩲居佛逝矣。

> ここにおいて咸亨三年（672年）、夏安居（げあんご）を楊府（ようふ）で過ごした。初秋、忽然として龔州（くしゅう）の使君（しぐん）馮孝詮（ふうこうせん）に遇い、共に広府（こうふ）へ至った。波斯（はし）の舶主（はくしゅ）と期して南行しようとした。また使君の命を受けて崗州（こうしゅう）に赴いた。重ねて檀主（だんしゅ）となった。弟の孝誕（こうたん）使君、孝軫（こうしん）使君、郡君（ぐんくん）寧氏（ねいし）、郡君彭氏（ほうし）ら、一家の眷属（けんぞく）がすべて見送って資財を贈った。競って上等の施物を出し、各々珍しい食物を差し出した。海上の途に乏しいことの無からんことを願い、険しい地での労を恐れた。厚き親しみの恵みのようにして、給孤独（きゅうこどく）の心に順った。共に帰依（きえ）の心を起こし、同じく勝境（しょうきょう）に縁せんとした。ここにおいて礼拝の志を成し遂げることができたのは、まさに馮家の力によるのである。また嶺南（れいなん）の法俗（ほうぞく）は、去留の心を共に噎（むせ）ばせ、北土の英儒（えいじゅ）は、皆生別の恨みを懐いた。十一月に至って、遂に翼軫（よくしん）を面（おもむ）き番禺（ばんぐう）を背にして、鹿園（ろくおん）を指して遐（はるか）に想いを馳せ、鷄峯（けいほう）を望んで太息（たんそく）した。この時、広莫（こうばく）の初風（はつかぜ）が起こり、朱方（しゅほう）に向かって百丈の帆を双挂（そうか）し、離箕（りき）の節（せつ）に初めて至り、玄朔（げんさく）を棄てて五両（ごりょう）の帆を単飛（たんぴ）させた。長く洪溟（こうめい）を截（た）ち、山の如き波が海を横ぎり、斜めに巨壑（きょがく）に通えば、雲の如き浪が天に滔（あふ）れた。二十日を経ずして、遂に佛逝（ぶっせい）に至った。六月を経て留まり、漸く声明（しょうみょう）を学んだ。国王の贈り物を支持（しじ）とし、末羅瑜国（まつらゆこく）に送られた〔今、室利佛逝（しりきぶっせい）と改める〕。更に二月留まり、轉じて羯荼（かつと）へ向かった。十二月に至り帆を挙げ、還って国王の船に乗り、漸く東天（とうてん）に向かって行った。羯荼より北行すること十余日にして、裸人国（らじんこく）に至った。東を望めば岸までおよそ一、二里ばかり。ただ椰子の樹、檳榔（びんろう）の林のみが見えて森然（しんぜん）として愛すべし。彼らは船の至るを見て、争って小艇（しょうてい）に乗り、溢れること百数を超えた。皆椰子、芭蕉、及び藤や竹の器を持ち来たりて市易（しえき）を求めた。その愛するところは唯だ鉄のみ。大小は両指の如きなり。得る所の椰子は或いは五、或いは十。丈夫（じょうぶ）は悉く裸体で、婦女は片葉をもって形を遮る。商人が戯れにその衣を授ければ、即ち手を振って用いなかった。伝え聞く、この国は当に蜀川（しょくせん）の西南界に在り。この国はそもそも鉄を出さず、金銀もまた寡（すく）ない。ただ椰子、藷根（しょこん）を食し、稻穀（とうこく）は多からず。ここをもって盧呵（ろか）が最も珍貴と為す〔この国は鉄を名づけて盧呵と為す〕。その人の容色は黒からず、量は中形に等し。巧みに團藤箱（だんとうばこ）を織る。餘処は及ぶこと能わず。もし共に交易せざれば、即ち毒箭を放つ。一たび之に中（あた）る者は、復た再生すること無し。ここより更に半月ばかり、西北を望んで行き、遂に耽摩立底国（たんまりていこく）に達した。即ち東印度（とういんど）の南界なり。莫訶菩提（まかぼだい）及び那爛陀（ならんだ）を去ることおよそ六十餘駅（えき）。ここに初めて大乗燈師（だいじょうとうし）と相見えた。留まること一載、梵語（ぼんご）を学び、声聞論（しょうもんろん）を習った。遂に燈師と同行して正西路（しょうさいろ）を取った。商人数百、中天竺（ちゅうてんじく）に詣でた。莫訶菩提を去ること十日在り。大なる山沢を過ぐるに、路険しく通じ難し。要（かなら）ず多人を藉（か）り、必ず孤進すること無し。この時、浄（じょう）は時に患（やまい）に染まり、身体疲羸（ひるい）なりき。商旅に趨（おもむ）くことを求めども、因って逮（およ）ぶ能わず。己（おのれ）を励まして進むことを求むと雖も、五里にして終に百息を須（ま）つ。その時、那爛陀寺の二十許りの僧、并びに燈上人（とうしょうにん）、皆先に去った。唯だ独り単（ひと）り己（おのれ）のみ残り、孤歩して険隘（けんあい）を歩んだ。日晡（にちほ）の時、山賊便ち至り、弓を援（と）って大いに叫び、来たりて相陵（あいりょう）せんと見做（な）す。先ず上衣を撮（と）り、次に下服を抽（ぬ）く。空しく絛帶（じょうたい）有るも亦た並びに奪い将（ゆ）く。当に是の時なるや、実に謂うらく長く人代（じんだい）を辞し、礼謁（らいえつ）の心を諧（かな）うこと無くん、体は鋒端（ほうたん）に散じ、本求の望みを遂げずん、と。又彼の国の相伝（そうでん）、若し白色の人を得れば、殺して天祭（てんさい）に充（あ）つと。既に此の説を思えば、更に懐（ふところ）に軫（いた）む。乃ち泥坑（でいこう）に入り、遍く形體に塗り、葉をもって遮蔽（しゃへい）し、杖に扶（たす）けられて徐（おもむろ）に行く。日は暮れなんと云い、營處（えいしょ）は尚お遠し。夜に入り二更（にかう）にして、方（はじ）めて徒侶（とりょ）に及んだ。燈上人が村外に長叫（ちょうきょう）するを聞く。既に其れ相見えて、一衣を授け令めた。池の内に身を洗いて方に村に入った。此れより行くこと数日、先ず那爛陀に到り、根本塔（こんぽんとう）を敬礼し、次に耆闍崛（ぎじゃくつ）に上り、㲲衣處（じょうえしょ）を見、後（のち）に大覺寺（だいかくじ）に往き、真容像（しんようぞう）を礼した。山東（さんとう）の道俗（どうぞく）が贈りし絁絹（けんけん）を持ち、如来等量（にょらいとうりょう）の袈裟と作（な）し、親しく披服（ひぶく）して奉った。濮州（ぼくしゅう）の玄律師（げんりっし）が羅蓋（らがい）数万を附けて送り、持して奉上した。曹州（そうしゅう）の安道禅師（あんどうぜんじ）が菩提像を寄せて拝礼を乞い、亦た礼し畢（おわ）った。この時、五体を地に布（し）き、一念虔誠（けんじょう）なり。先ず東夏（とうか）の四恩（しおん）の為に、法界の含識（がんしき）に普（あまね）く及ぼさんと。願わくは龍華（りゅうげ）の初会に慈氏尊（みろくそん）に遇い、並びに真宗（しんしゅう）に契（かな）いて無生智（むしょうち）を得んことを。次に乃ち遍く聖跡（しょうじゃく）を礼し、方丈（ほうじょう）を過ぎて拘尸（くし）に届く。在ところ欽誠（きんせい）なり。鹿園に入り鷄嶺（けいれい）を跨（こ）えた。那爛陀寺に住すること十載、経を求め、方（はじ）めて踵（くびす）を旋（めぐ）らして還り、耽摩立底に言（の）ることを思い、未だ至らざる間（あいだ）に、大なる劫賊（ごうぞく）に遭い、僅かに剚刃（しじん）の禍を免れ、朝夕の命を得て存した。ここに於いて此に升船し、羯荼国を過ぐる。持ちし所の梵本三藏（ぼんぽんさんぞう）五十萬餘頌、唐訳すれば千巻と成るべし。權（かり）に佛逝に居す。